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ぽかぽか春庭「2015年9月目次」

2015-09-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20150930
ぽかぽか春庭2015年9月目次

0901 ミンガラ春庭ミャンマー通信>ヤンゴン9月日記(1)ミャンマー語修行中
0902 2015ヤンゴン日記9月(2)ヤンゴン路地の買い物
0904 2015ヤンゴン日記9月(3)ライン市場
0905 2015ヤンゴン日記9月(4)祝!禄寿

0906 ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌>2015ヤンゴン教師日誌9月(1)サバイバル・ヤンゴン
0908 2015ヤンゴン教師日誌(2)教材作り
0909 2015ヤンゴン教師日誌(3)ヤンゴンの留学生たち
0910 2015ヤンゴン教師日誌(4)日本の若者たちinヤンゴン

0912 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(1)2003年の介護体験
0913 2003三色七味日記9月(2)2003年の歴史リテラシー
0913 2003三色七味日記9月(3)2003年の娘の夢は菓子職人
0916 2003三色七味日記9月(4)2003年のアスカ命日すれちがい
0917 2003三色七味日記9月(5)2003年のダンス発表会
0919 2003三色七味日記9月(6)2003年の振り回す槍
0920 2003三色七味日記9月(7)2003年のすいか
0922 2003三色七味日記9月(8)2003年のピンポン
0923 2003三色七味日記9月(9)2003年の101歳大往生
0924 2003三色七味日記9月(10)2003年のおい老い笈の小文

0906 ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記9月(5)ヤンゴンダラ地区一日旅行
0927 2015ヤンゴン日記9月(6)ダラからトゥワンティ村焼き物工房へ
0929 2015ヤンゴン日記9月(7)トゥワンティ村の織物工房とダラのお寺孤児院訪問
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ミンガラ春庭「トゥワンティ村の織物工房とダラのお寺孤児院訪問」

2015-09-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150929
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記9月(9)トゥワンティ村の織物工房とダラのお寺孤児院訪問

 トゥワンティ村で、ここはうまいと評判だという地元の食堂で食事。
 一日チャーターの場合、運転手の分の昼飯代も払うのが慣例と聞いて、バイクタクシー運転手と6人分の食事代HALおごりで2万なにがしの支払いでした。6人でおなかいっぱい食べて2000円。こういうのは20000チャットでもいいと思えるが、蛇に1000チャットも払いたくない気がしてしまうのは、大乗仏教徒としてどうなんでしょう。ナーガという蛇(龍)が釈迦の守り獣のひとつなのはわかるのだけれど。

 後ろに見えるオレンジ色Tシャツがバイクタクシー運転手のボス28歳。その隣がわたしの乗ったバイクの兄ちゃん20歳。



 オン先生が「飲み物は?」と聞くので、当地の人たちが「西洋のみものがおもてなし」になると信じているサンキストオレンジやコカコーラなどはまっぴらなので、「ココナツジュースが飲みたい」と言う。店にはなかったので、運転手が買ってきてくれました。1000チャット×3個分渡す。


 バイク運転手の中のひとり、23歳だという若者は、「家が貧乏だったので、学校へは10歳までしか通えなかった。ずっと下働きをしてきたが、今はバイクで稼げるので昔より生活がよくなった」と、語っていたそうです。
 一日の稼ぎ、10000チャット千円の日もあるし、1000チャット100円のひも。
 一番稼いだ日は、20000チャット2000円になったときもあった。

 ちなみに、一般の労働者の稼ぎは、1ヶ月100000チャット1万円程度。割合上級のレストランのウェイター120000チャット12000円。レストランの支配人200000チャット2万円。(MICTパークの日本人経営レストランで聞いた)。
 給料の額、私は出会う人ごとにたずねて確認してきました。「あんた、いくら稼いでいるの?」という質問、別段失礼な質問じゃないとわかったので。
 英語または日本語ができるIT企業の社員30000チャット3万円~50000チャット5万円。(ヤンゴン発行日本語情報誌の求人広告)
 人件費、これから高騰していくと思います。今のところ、アジアでも最低賃金です。能力のある人は、タイやシンガポールに出稼ぎに行ってしまう。

 食事が終わって、織物工房へ行きました。せまい場所に4台の機織り機がある工房。織り子は3人で、1台は糸が張られてはいましたが、織り子は今日は休みなのか休憩中なのか、見当たりませんでした。

 3人の若い女性たち。十代後半の年齢にみえます。
 足踏みで縦糸を上下させ、横糸は左右にすべる杼(ひ・シャトル)通しに入っています。織り子は、杼の入れ物を糸で左右に引き、杼は縦糸の中を滑って織り上げます。日本のいざり機や高機よりも進歩した織機です。

 こうして一日織り続け、織り子の工賃は一日2800チャット280円。これも考えさせられました。糸は、ちゃらちゃら光る化学繊維を使っているのです。こういうほうが地元の若い女性のロンジー用に受けるのかもしれないのですが、材料費が高くても絹糸に限定して輸出用にしたほうが、織り子の工賃も10倍にできるだろうに。

 と、思いながらも、ロンジー用の布地1着分が3500チャット350円を、2枚買うから6000チャットにならないか、と値切った春庭。卸値段なので負けられない、というので、1枚しか買わなかった。ケチな貧乏教師。そのかわり、端切れで作った小袋をたくさん買いました。手織りの小袋、日本なら貴重なのになあと思いながら。

 雨が降ってきました。私は、織物工房で雨宿りしていたかった。しかし、留学生もオン先生も、織物には興味がない。バイクタクシーのにいちゃんたちは、ちがうお寺を案内したいという。オン先生もお寺のほうがいいと思っているし、留学生はバイクタクシーのにいちゃんたちの味方をして、「先生、この雨は待っていてもやみませんよ」と、言う。

 雨の中、留学生はバイクにいちゃんと仲良くなっているのでレインコートを貸してもらう。オン先生は傘をさす。私は、はじめ傘を差していましたが、傘をさしてバイクに乗っていると危険に思えて、傘をたたんでしまった。濡れる方が、バイク事故に遭うよりまし、と思って。
 靴下も、ジーンズも、たっぷり濡れました。日本から持っていったレインコート、レインハット、部屋の中におきっぱなしでした。こういう時こそ持って出るべきだったのに。

 雨が小降りになって、途中小休憩した茶店で、オン先生がコーヒーをふるまってくださった。当地の茶店、Cafeと英語名前で呼ばれていますが、江戸時代の街道の茶店のようです。
 コーヒーを注文。それぞれがインスタントの粉の袋を選んで、お湯に自分で溶かして飲む。私は砂糖なしを選びましたが、おいしくはない。たいていは、めちゃ甘の珈琲が好まれる。
 こうしてここでうまくもないコーヒー休憩なんぞするくらいなら、大雨のときに織物工房で雨宿りしたかった、、、と、まだ未練。

 またバイクに乗って、ようやくダラの船着き場に戻れると思いましたが、バイクタクシーに、3つめの寺に連れて行かれた。寺はもう、いいよ、と思う。

 この寺は、親のない子たちを引き取って育てているという孤児院経営の寺でした。寄付をしろと言われて、10000チャット1000円を払う。まあ、フェリーの乗り賃くらいだけれど、たぶん、この寺にとっては高額寄付者なんでしょう。孤児院経営のお坊さんは、とても愛想がよくなって、子供達の生活棟も見ていけ、とか勧めてくれました。

 教育はきちんとなされているらしく、男の子がそばに来て、「How are you」と、声をかけてきました。「I'm fine,and you?」と答えたのですが、それへの返事はなし。でも、自分の英語に私が答えたのでうれしそうでした。男の子たちは、日焼け止め美白効果があるという「タナッカー」を顔に塗っています。




 寄進者が名前を書くノートがあって、書けというので、縦書きの日本語を書く。留学生が横書きで、日本の女教師(セヤマー)が寄付をした、というミャンマー語をつけてくれました。 女の子たちといっしょに記念撮影をして、男の子たちの生活棟を見せていただく。見たのは低学年用の棟。25人の子供達が共同生活をしている。10年生くらいの男の子が寮長としており、寮母先生は4人ついているそうです。

 10年生は、日本の高校生1年生にあたります。最高学年です。当地では日本の高校2年生に当たる16歳から大学生となる。
 日本の大学留学要件は、母国での12年以上の教育を必需としているので、当地の大学生1,2年生は日本の大学への留学要件を満たしていない。3年生以上が日本留学の資格を有する。

 ミャンマーは、まだ社会福祉が整備されていないけれど、昔からの仏教救済が各地にあるので、病気などで早死にする親も多いけれど、子供が飢えてしまうことはない。お寺に預けられて下働きになるか、こうしてお寺孤児院で育つか。このお寺では、子供を高校まで通学させている、というので、良心的な経営の方なのでしょう。

 お寺で、ひどい扱いの下働きをさせられる子供も多い、と聞きます。お坊様はえらいので、子供をこき使うのです。子供がかわいそう、などという発想はありません。前世で功徳を積んだから自分は生まれ変わって身分の高い僧となり、この子は前世が悪かったから、親のない子となった、だから、徳の高い僧が功徳を積まなかった子をこき使うのは当然、という考え方。
 う~ん、このへんの前世現世の考え方も、私には合わない。

 孤児院を出て、やっと船着き場に、と思いきや、またお寺に連れて行かれました。もう、ほんとうにうんざりです。「もう、私はお参りしなくてもいいから、あなたたち、お参りしてきてね。私、ここで待っているから」と、言ったのですが、留学生は「このお寺は特別なもので、ほかのお寺は来世のことだけお願いするのに対して、ここは、現世でのお願いもひとつだけならかなえてくれるそうです。私は明日の試験がうまくいくように、お祈りしてきます」と、言う。

 なんだなんだ、来世のことだけ祈るのが上座仏教といいながら、現世の願いもかなえてくれるとは、なんとまあ、上座仏教もけっこういいかげんだなあと思ったので、お参りすることにしました。毎日読経しに来る熱心な信者が集まっていました。

 例によって白塗り金袈裟唇赤いマネキン風大仏。
 私が、この白塗りおめめパッチリ仏像、どうして気にくわないのか分析してみました。
 そもそもお釈迦様、ゴータマ・シッダルダ王子は、インドネパールに分布する釈迦族の出身です。今もシャカ族の一部はネパールで暮らしています。かれらは、決してこのような真っ白な顔をしていない。

 オシャカさまだって、こんな白塗り赤い唇ぼってり睫毛バッチリの顔をしていらっしゃらなかったはず。それなのに当地の仏像がそろいもそろって真っ白なお顔なのは、ケニアで私がモテモテになった理由「色が白いほうが上等の人間」という観念が、人々の間にあるからではなかろうか。ケニアの「色の白い方が上等」は、やはり英領時代に人々の間に行き渡った考え方だったと思いました。
 もし、同じ英領のビルマに同じ考え方があったのだとしたら、それはやはり「植民地文化」の影響と言えるのではないでしょうか。

 このお寺には白塗りお顔の大仏の前に、この寺建立した時代の、ヤンゴンでもっとも古い時代から続く仏像というのが鎮座しておられました。この仏像のお顔は決して白くはなかった。
 古い仏像がヤンゴン市内にどれほど残されているか、調査結果も不明ですが、この白塗りお顔は、それほど古い時代からのものではないと思いました。
 いつから白塗りになったのか、古い時代の仏像は、ミャンマー国内にどのくらい残されているのか、知りたいところです。

 知り合いの家におじゃましたとき、居間の一角に仏壇があり、白塗りの仏様鎮座。そして仏様の背中には、LEDがちかちか光る光背を背負っていらした。
 このLED光背も、「お釈迦様のお体からはありがたい光がさしていた」というお経を具現化する大事なもの、というのですが、私にはなじめませんでした。

 留学生は「試験がうまくいきますように」でよいが、私はたったひとつの現世の願い、何をかなえてもらおうか。
 健康長寿?世界平和?家内安全火の用心、お金どっさり学業成就。たったひとつというと、どれも選べなくなってしまう貧乏性。「お釈迦様、この中のどれでもいいから、ひとつはかなえてください」と、山盛り並べて、テキトーに選んでもらうことにしました。

 願ったことのうち、少なくともお釈迦様は「戦争法反対、原発再稼働反対」は選ばなかったらしく、17日未明には、法案参議院通過とのニュース。お釈迦様、いったいどれを選んでかなえてくれるのやら。ありがたい上座仏教のお釈迦様は、「いやいや、お寺参りでけっこう功徳を積んだので、来世はゴキブリではなく、もうちょっとましなカナブンにしてあげよう」とか思ってくださったのかも、、、、。あのぅ来世ではなくて、現世利益をお願いしたんですけれど。

 9時にバイクタクシーに乗って、6時までかかりました。私は、最後のお寺は余分だったと思っています。行きたいとも思わないところに連れて行かれて、その分のお金も余計に払わなきゃならないのはしゃくにさわって、最初から一日いくら、というチャーターにすればよかったと後悔。タクシーに3人で乗れば5万チャットですんだのに、倍近い9万チャットの支払いになりました。おまけに身体はぬれてぐっしょりだし。
 でも、これまで一日で一番稼げたのは、20000チャットだったと言っていたので、今日一日でひとり30000チャットずつ稼いだことになる。3人は、次ぎに一人40000チャットを稼ぐ日まで、「今まででいちばん稼いだ日」としてずっとひとりのミャンマー人女性と、ビルマ族のロンジーを身につけビルマ語を話す日本人の若い女性と、ビルマ語話せないジーンズにリュックサックの日本のバーサンを忘れないでいるだろうと思います。

 帰りのフェリー、6時半ころになりました。家に着いたのは8時すぎ。ちょっと強行軍でした。最後のお寺はやめておこう、お参りしたくないと、もっと主張すればよかったと思うけれど、自分の自由にならないのが「案内してもらう」ということなのだと、思いました。ことばが通じなくても、迷子になっても、私はひとり旅がいい。

 案内してくださったオン先生、とても感謝しています。
 でも、やはりzenブッディストに、一日4カ所のお寺参りは多すぎです。
 ずぶ濡れになった身体を、水しか出てこない宿舎のシャワーでながし、ぶっ倒れて寝ました。13時間拘束労働もつらいけれど、13時間観光もきつかった。

 親切なオン先生、100枚近くのアイフォン撮影写真をメール添付で送ってくださいました。感謝。
 しかしながら、オン先生が撮影したアイフォン写真、ここにUPできるほどの写真は15枚ほどでした。ほとんどが微妙な手ぶれぼけ写真。たぶん、日本のカメラのような手ぶれ防止機能などはまだついていないのだろうと思います。そして、私がこんなところは写してもらわなくてもよい、と思う、鯉に餌を撒いているところとか、孤児院への寄付をお坊さんに渡しているところとかが大量にありました。これこそ、ホトケへの功徳を積んでいる大切な証拠写真と思うからでしょう。

 そして、私がいちばんほしかった、織物工房の織機や織り子の写真は一枚もなかった。
 私のカメラは、9月5日のお寺参りの日に、トイレに落として修理不能となってしまい、このダラ旅行には、派遣元大学の公式カメラというのをお借りして持っていきました。でも、このカメラは、パソコンにつなぐコネクターラインがなくて、ブログに取り入れることができない。
 日本に帰国後、織り子さんたちの写真をUPしたいと思います。

<おわり> 
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ミンガラ春庭「ダラからトゥワンティ村焼き物工房へ」

2015-09-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150927
ミンガラ春庭ミャンマーだより>2015ヤンゴン日記9月(9)ダラからトゥワンティ村へ

 お寺をひとつ見たあと、バイクタクシーは、ひたすら穴ぼこ道を走りました。
 当地では道もビルも「修理修繕」という考えはない。ビルは古びるにまかせ、ビルの壁が汚れようがベランダの手すりがさびようが、そのまま。古いビルはものすごくおんぼろです。道路は一応舗装されているところでも穴があけばそのまま、ひび割れができてもそのまま。メンテナンスということが勘定に入っていない。バスも車体を洗うということはせず、窓がこわれたらそのまま、エンジンがこわれるまで車内の修繕はせずに走り続ける。

 バナナの葉で葺いた屋根、竹を編んだ壁、モンスーンで家が倒れればそのまま自然にかえるのにまかせて、また別の新しい家を建てる、そういうやり方で千年間きたものを、ビルを建てるようになって100年。イギリス人が自国に帰ったあと、ビルはそのまま修理修繕せずに使われています。中には歴史的価値が認められて修理修繕を施されつつある建物もあるけれど、たいていは古いまま使っているし、使えなくなれば放置する。

 ヤンゴン大学も、英領時代に建てられたものをそのまま使っていますが、多くの校舎が、日本では考えられないぶっ壊れた状態で使われています。水道配管が壊れている部分が何カ所もあり、あちこちから水が噴き出している。水が豊富なヤンゴンなのでと、言いたいけれど、洗面所の断水はしょっちゅうです。配管からの水漏れを見て以来、大学内の断水は水不足というより配管の水漏れが原因とわかりました。これだけバケツをぶちまけたような雨が降り、低地の道路は川になってしまう地域で、水不足ということはありえないはずなのに、しょっちゅう断水。
 廊下の隅やトイレの前には、壊れた机やいすが山積みだし。掃除をしてきれいにして使う、という発想がない。一応掃除人はいて、掃除しているのを見かけるのだけれど、目に付くごみをほうきでちゃっちゃと掃くくらいで、日本的感覚では、掃除とはいえない。

 日本では、たとえば、新人駅員は、駅舎の清掃から仕事を言いつけられる。しかし当地では、駅員は掃除人ではないから、掃除なんぞ決してしない。清掃人は、自分の超安い人件費に見合う程度の掃除しかしない。

 幕末に、清国の高官が英国大使館を訪れた。大使が来客に備えて椅子を運んでいるのをみて、身分の低い人だろうと思った。大使に紹介されたので顔を見ると、さきほどの椅子運搬係なので、そんな身分の低い人間をあてがわれるなんて、と憤慨して帰ってしまった、というのを読んだことがありますが、当地でもその伝統はあるらしい。

 バイクタクシーは、穴ぼこを巧みによけて右に左に揺れながら進みます。1時間4000チャットの契約だから、できるだけゆっくり進んだ方が彼らの収入は高くなる、という計算なので、あまりスピードを出さずに走ります。
 ここいら一帯がヤンゴン川のデルタ地帯。沼地の中に道があるというか、湿地帯のちょっと高いところを舗装して道にした、というか。

 家は高床式に作ってありますが、どの家も掘っ立て小屋程度。同じ高床式でも、アジアの各地に芸術的な伝統建築があるのに、ダラからトゥワンティ村にかけて見た家は、「ここに一晩泊まるのはパス」と感じる家でした。

 民族芸術を専攻したかった春庭。民家を見て回るのも大好きです。でも、ここらの家は、ケニアの最貧地帯トゥルカナ湖周辺で見た、鳥の巣のような小屋よりも住みたくない感じ。床下がごみだらけの泥沼だからか。
 今まで建築写真集や民族文化写真集で見た川の上の高床式の民家は、もう少し工夫されて住みやすく整えてあったのだけれど。なんだ、このスラム地帯感は。

このデルタ地帯沼地の沼気がいかんのだな。どうして、自分の家のまわりの沼地にゴミがいっぱい浮いているのをそのままにしておくのか。ビニール袋やペットボトル、あきかんなどが浮いている。バスの乗客は平気で窓からごみを捨てる。どうして、清掃という観念が人々の間にないのだろうか。お寺の境内がごみだらけで汚れていて平気だし。

 ダラから農村地域に入ると、景色も一変し、道の両側が水田で、とても気持ちよい。 
 早く焼き物工房に行きたいのに、バイクタクシーは、途中の「池の中のお寺」に案内しました。「蛇の寺」として、有名なんだそうです。
 境内には鯉の餌売りと、蛇の餌売りがぞろぞろいます。池の鯉にパンをちぎって与えれば、生き物を大切にしたことになり、功徳が積まれる、、、、だから、私は来世は鯉でもなんでもいいって言っているのに。
 
 私は鯉の餌やりなんぞしたくなかったけれど、オン先生がパンを一袋買ってきて、池の鯉に与えろというので、太った鯉どもにパンを撒く。水をはね散らかしながら、鯉はパンを飲み込む。くぅ、この鯉、鯉コクにして食べたいなあ。功徳が減ってもいいや。

 池の中に礼拝堂があり、坊さんがひとりと、蛇飼育係がひとりお堂の中にいた。お堂のなげしに、2mくらいのニシキヘビが10匹くらい横たわっている。毒のない蛇と思うが、飼育係が、蛇を首に巻いて写真を撮らないかという。いらんいらん。日本の動物園でやったことあるし。
 


 オン先生は、蛇の餌代のほか、なにがしを堂守の坊さんに寄進する。私もしろと言われて1000チャット出した。無信心だから、来世をよくするために1000チャット出すよりも飲み物でも買って今飲んだ方がずっと我が身にはよい気がする。
 どうも上座仏教と波長が合わない。

仏様の前に牛乳がお供えになっているのは、牛乳が蛇の飲み物だから。牛乳風呂につかっている蛇の写真もかざってありました。
仏様の顔は、どこも白塗り。袈裟は金色。


 ダラから20km南に位置するトゥワンティ村。昔は村中が焼き物作りに励んでいたのだけれど、今ではプラスチック製品も出回って、水入れの瓶や家庭用の物入れにこの村で作った焼き物を使う家庭が減りました。焼き物工房も、もう村に数カ所になった、ということです。

 工房は、大きな建物で、バナナの葉で葺いた屋根。壁は下張りのみ。窓なし。電気はないので、暗くなったら終業。


 ろくろを足で回す人と、土をこねて壺や瓶の形を整える人が組になっている。自分で手回しでろくろを回しているのは、燈明皿を作る小物係。
 天日干しのあと、素焼きし、みがきをかける。そのあと、絵付け。絵付けの色づけはペンキに油を混ぜた物。たくみな筆づかいで、さっさっと花を描いていく。



 絵付けの絵の具、昔はペンキなんてものじゃなくて、伝統的な絵の具があっただろうに。
 伝統絵の具にして、民芸として付加価値をつけたほうがいいのになあと思います。大きな水瓶は、ひとつ1000チャット100円で卸しているそうだけれど、産業として考えるなら、ミャンマーの漆工芸が「伝統ラッカー芸術品」として成功したように、あるいは、タイの絹織物を世界的なテキスタイル「ジム・トンプソン」として売り出したアメリカ人ジェイムズ・H・W・トンプソンのように、だれかが製品の企画と品質管理を行えば、大きな瓶が一個100円ということじゃなく、働いている職人の収入もちゃんと確保できるようになるのになあ、と思いました。

 焼きあげは、大きな釜に壺や瓶を並べ、最初は勢いよく火を焚くために木の薪で、全体に火がまわったら、やわらかな火力にするために竹を釜に入れる。
 
 おじいさんが、釜から焼き上がったまだ熱い壺や瓶を取り出している。おじいさんは、上の歯が一本残っているだけの口で、よくしゃべりました。前に伝統工芸を取り仕切る役所の人がテレビクルーを連れてきて、おじいさんにインタビューをしていったそうです。おじいさんは、たくさん並んだ瓶のふくらみを指して、自分がろくろで作った瓶は、見ただけでわかる、と言っていました。見学者の目には、どれも同じような瓶ですが、瓶の膨らみには、微妙に作った人の個性が出て、見ればわかるものらしい。


 おじいさん、ものすごく年寄りに見えたけれど、私より若い63歳でした。平均寿命65歳の当地では63歳でも長老なのでしょう。20歳前から40年間作り続けているそうです。日本なら伝統工芸士とか、それらしきお墨付きがつくところでしょうが、おじいさんは信じられないくらい安い工賃で壺を焼き続けている。一個100円の壺、何個作っていかほどの収入になるのか。

 オン先生は、見学の最後に5000チャットを渡して、みなで果物でも買ってください、というようなことを言っていました。しまった、私がそうすべきだったのに。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ダラ地区一日旅行」

2015-09-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150926
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記9月(8)ダラ地区一日旅行

 日本語教室で受講を続けていた女性教師達の中に、ヤンゴン大学ビルマ文学科の出身者ではあるけれど、当大学のビルマ文学科教員ではない人が一人混ざっていました。彼女は、通信制大学の准教授で、学科長から他大学教員ではあるけれど、日本語授業に参加を許可するから、そのかわりとして、「日本人の先生は、生活がいろいろ不自由だから、お世話をするように」という命を受けていました。
 オン先生、日本語の口答でのやりとりは苦手でしたが、文字表記は正確でした。

 前任者がインフルエンザで1週間寝込んだ、というときも、学科長に申し渡されたとおり、オン先生が病院に連れて行くなど、献身的にお世話をしました。私も万が一病気になったときは、彼女に電話しようと思っていたのですが、幸いなことに、私の下痢と足の湿疹は自己治癒力のみで治しました。

 私は病気にならずにすんだので、かわりに彼女に町歩きのお世話をしてもらうことにしました。(道ばたで売っていたとうもろこしに当たってしまったのは、そのあと)

 彼女に頼んだのが、ヤンゴンの中の田舎、ヤンゴン川の対岸にある「ダラ」という地区と、隣の行政区トヮンティ村へのミニトリップです。
 土日は彼女も休みたいだろうから、私が土曜日2回出勤した代休として9月17日水曜日に休みをもらい、日帰り旅行の案内をお願いしました。

 地図で見ると、ヤンゴンの向い側デルタ地帯低地に、ダラ地区が広がっています。
 ダラは、ヤンゴン川に橋がかけられて、交通が便利になれば、大発展するだろうと予測される土地です。ヤンゴンと、川を隔ててすぐ向かい側にありながら、現在のところ、渡し船とフェリー以外に交通手段がなく、地域内の道路も、ヤンゴン市内以上に未発達な地域です。東京でいえば、1960年代以前のお台場、というところでしょうか。

 フェリーと船着き場は、日本のJICAがお金を出して整備しました。フェリーには「チェリー」という名がつけられています。ダラ地区の開発には、日本が大いにかかわっているのだそうです。でも、今のところ、ダラもただの沼地に穴ぼこだらけの道や掘っ立て小屋のような家が並んでいるだけ。

 日本人留学生がひとりいっしょに行くことになりました。日本語授業のTAをつとめてくれた留学生ふたりに声をかけて、これまでのTA仕事に対するお礼の意味もこめて、ミニ旅行に誘ったのです。しかし、試験前の時期なので、朝方、男子留学生から「すみません、試験準備が間に合いません」という電話がかかってきました。
 当地の試験は、教科書を丸暗記して、一字一句たがえることなくそれを試験用紙に書き写す、というものですから、時間との勝負。学生達は、手書きで教科書をノートに写し、大きな声で暗誦しながら暗記していくのです。
 女子留学生のほうは、ノートに手書きしたビルマ文字の「暗記必須ページ」を持ってタクシーに乗り込みました。タクシーの中でぶつぶつと筆記してきたページを暗誦する彼女の声を聞きながら、フェリーの渡し場、パンソダン港に到着しました。

 私は事前に、フェリーの値段を知っていました。地元民は片道100チャット10円。外国人は5000チャット500円。えらい違いです。ネットの旅行記に、「船も船着き場も日本のお金で作ったものなのに、他の外国人と同じ高額料金を日本人からもとるのはけしからん」と、書いてありました。私もそう思います。JICAの資金って、結局我々の税金が投入されているんでしょ?日本人はすでに税金で支払っているのだから、無料にすればいいのに。同じ日本人でも、ロンジーを着てゴム草を履き、ビルマ語話している留学生は往復20円で、ジーンズにスニーカー、リュックサック背負っている私は往復1000円。納得できぬ。服装差別だ。って、ビルマ語話せるようになればいいだけなんだけれど。

 パンソダン港からフェリー乗船。

 往復10000チャットのフェリー券を握りしめて、対岸へ。タクシーチャーターが、一日だと4~5万チャット、5千円ほど、と出ていたので高いけれど、3人で回って一日タクシーに乗るなら、それも仕方がないかな、と思っていました。
 しかし、オン先生と留学生は、ダラに数多いバイクタクシーを選びました。オートバイの後ろ座席に客を乗せて走るバイクタクシー。ヤンゴン市内には乗り入れが禁止されているので、日本人にとって珍しいだろうと、選んでくださったのだろうと思います。

 しかし、一日の最後に大雨の中1時間走り、背中のリュックも身体もずぶぬれにはなるし、バイク一人につき3万チャット。合計9万チャットを私が払ったし、タクシーよりは高くつきました。
 留学生は「市内ではできないことなので、楽しかった」と言っていました。そりゃ、23歳の若さがあれば、私だってそう思いたいけれど、なにせ66歳、ずぶ濡れはつらかった。暑い土地だけれども、濡れた身体でバイクで走って風を受けるとかなり冷えたのでした。留学生は、このあとおなかがいたくなって下痢に。私は寒かったけれど、そこは身体にまとっている脂身が布団代わりですから、寒い思いをしただけです。

 雨がなければ、田舎道を快適に走る。
 ダラからトゥワンティ村のあたりは、インディカ米の産地。道の両側に水田が広がっています。ここらは3期作。1年に3回植え付け、3回刈り入れる。今の時期は8月に植えて12月に刈り入れをする分。最初の田植えは、沼地に直播き。次は苗床を作って田植えをするそうです。かなり粗放農業のように見受けました。日本のきめこまやかな水田の水管理、きっちり畝を作る田植え、草取りなど、緻密な作業は芸術です。

インディカ米の田んぼの中を走るバイクタクシー



 そして、一日のうち、私が行きたいと思っていた手作りの工芸品工房には短時間しか滞在できず、私には「この白塗りお顔の仏様参りは、もう3年分くらいお参りしたから十分だ」と思えるのに、ミャンマーの人たちにとって、お寺参りこそが行くべき所と思うので、ダラ一日で4カ所のお寺を巡りました。自由に行きたいところに行くには、やはり一人旅が一番。案内される身では、ガイドに従うのみ。今回はお寺参りにあまんじました。

 「私は曹洞宗。ZENブッディストだから、お寺には初詣とお盆のお墓参り、1年に2回行けば十分なの。それが、ヤンゴンに来て以来、お寺はもう7カ所お参りしたので、3年分はお参りがすんだ」と、言ったのですが、彼らの感覚では、7カ所くらいのお参りではまだまだ足りぬ、もっともっと御仏の前で功徳を積ませてやるのが親切と思うのです。

 最後のお寺では、「もう、お参りしたくない」と、抵抗してみました。留学生は、「ミャンマーに来たらもミャンマー人のように、朝晩お寺にいかなければなりません」と、きっぱり。抵抗はムダにおわり、結局白塗りお顔の釈迦牟尼大仏にお参りしました。
 まあ、ヤンゴンでは、お寺以外に観光名所も少ないのですけれど。

 お寺に建築学的みどころとか、仏像に美術史的価値がある、というのなら私も見て回るのにやぶさかではない。しかし、「このお寺は千年前からある」とは言っても、それはお寺建立の由来書にそう書いてあるだけで、建物はいまどきのコンクリート柱を金色にぬりたくっただけ、というもの。モンスーンの被害がおおきいから、たいていの古いお寺は、風雨にふっとんでいる。仏像は、どれもこれも真っ白なお顔に金色の袈裟。おめめパッチリ唇は赤くぼってり。

 たぶん、ミャンマー人が鎌倉や東大寺の仏像を見ても、「こんな地味な色合いの仏様で、袈裟も金色じゃないし、少しもありがたみがない」と思うのでしょう。逆に私はマネキン人形のように睫毛バッチリ白塗りお顔にはありがたみを感じなかった。来世を託すにしても、薬師寺の鑑真像とか、中尊寺の半跏思惟像あたりにお願いしたい。

 当地の上座仏教では、僧侶は第一の知識人であり、他の人間とは一段異なる人間以上の存在です。掃除やら煮炊きやらは、下等な下々が行うこと。僧侶はひたすらパーリ語の学習と読経、瞑想を続けます。

 お寺ではどこも境内に入ると、土足禁止。靴下も脱ぐよう指示されます。しかし、境内は、掃除されていないので、ひとまわりするうち、足の裏は真っ黒になります。禅寺のように、境内寺内を掃除することが修行、典座になって寺内の料理炊事を担当するのも修行、という制度、実によいものだ、と思えるようになりました。昔は、掃除がどうして修行なんだ、と、学校の清掃させられるのが大嫌いでしたけれど。

ダラで最初に行ったお寺の門。

 当地では、僧侶は、傘など自分の持ち物や経典にのみ触れることができる。それ以外の物に触れることは禁忌であり、箒や雑巾なんぞにふれたら、身が汚れます。水がこぼれたのを雑巾で拭きたい、と思ったら、寺で召し使われている少年などに、命じるだけ。

 虫が多い当地ですから、廊下には芋虫ムカデヤスデなどが這っているので、注意するよう言われます。「刺されるから注意」ではない。寺内で虫を踏んづけて殺生してしまうと、功徳がなくなるから。
 ダラで最初にお参りしたお寺でも、大きな毛虫が悠々這っていたので、避けて通りました。まあ、踏んづけてしまって、私の来世が毛虫以下ってことになっても、私は、毛虫になったら毛虫としての一生をまっとうするだけなので、特別功徳が減るって気もしないのですが。

 当地の人々にとって、お寺とは第一に祈りをささげる場所。祈って祈って、僧侶に寄進をして、来世にはよりステージが高い人間に生まれ変われることを願うのです。
 現世利益などを願ってはいけません。現世利益用には、「ナッ」という土着神がいます。日本のように土着神と仏が習合することなく、「ナッ」は「ナッ」で、別物として、現世利益を担って大いに信仰を集めています。

 お寺の壁が黒ずんで汚れていても、屋根がさび付いていても、そんなことは誰も気にしない。大切なのは、祈りを捧げる場があること、僧侶の説教が聞けること。ヤンゴンでお参りしたお寺のうち、まあまあ掃除がされていると思えたのは、外国人観光客の多いシュエダゴンパゴダだけでした。それでもひとまわりすれば、足の裏まっくろでしたが。


 ダラで最初にお参りしたのは、このお寺を最初に建立したお坊さんの遺体がそのまま仏像になっているというお寺。その遺体は寝姿となって、仏塔のわきに納められていました。
 留学生にこのお坊さんの寝姿の前にある説明文を翻訳して説明してもらいました。お坊さんが亡くなったあと、目を閉じていたのに、ある時点でカッと目をお開きになった。そこで、その遺体をそのまま仏として拝むことにしたのだと。

 私はそれを聞いて、それって死後硬直のひとつのあらわれじゃないの?と、思いました。現今の日本では、人が亡くなったあと、納棺師が閉眼閉口のあと始末をします。ときに「この新仏は、どうしても口が閉まらない」とかいうご遺体もある由。
 死んだ後に坊さんの目が開いちゃったとしても、まあ、そういうこともあるだろうと思う私、不信心、不敬な解釈でごめんなさい。

 最初は、このあと、3カ所もお寺参りするとは知らずに、わりにゆっくりと、この「死んだ後、目を開いちゃったありがたいお坊さん」なんぞを見ていたのでした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のおい!老い、笈の小文」

2015-09-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150924
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(10)2003年のおい!老い、笈の小文

 2003年の三色七味日記9月を再録しています。
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2003/09/29 月 晴れ、朝ひつじ雲
日常茶飯事典>「おい!老い、笈の小文」

 カフェ日記のタイトルは「おい!老い、笈の小文」。
 コンテンツをニュースコメントと本の紹介一日一冊、と決めた。毎日更新目標。さて、いつまで続くか。ニュースの中でも、「老人ネタ」がメイン。

 「七味日記妬み嫉み僻み」のほうは、毎日のすべったころんだ、うらみつらみを書いて憂さ晴らし、「笈の小文」は、来し方振り返っての自分語り。1977年以前に読んだ本を著者名「あいうえお」にたどりながら、本の思い出と、「老い」や「高齢者」に関わるニュースを連結させて自分語りをするというのがコンセプト。

 高齢者ニュースネタと、本のタイトルの「連動」を考えるのが難しい。難しいから面白い。無理矢理なこじづけにもなるし、うまく行って、「フッフッフ、お主、芸人やのう」と、うまくいき具合を自分で楽しめるときも。あいうえお順じゃなかったら、ニュースから本を思い浮かべればいいのだけれど、自分の「しばり」として、著者名あいうえお順を決めたから、最初の「あ~わ」は、50日分やってみる。

本日のなじみ:古い本を本棚から引っ張り出すと、昔なじみにばったり出会った気がする


2003/09/30 火 5
ジャパニーズアンドロメダシアター>『タイタニック』

 ビデオにとって見始めたのに、前編をみただけで娘が「私、もうパス、後編見なくてもいいや。ローズが両手を広げて船の先頭に立ち、デカプリオが押さえている、あのシーンさえ見れば、あとはどう沈んでいって、どう助かったかなんて、どうでもいいや」と投げ出したので、ひとりで後編を見た。
 実際に「どうでもいいや」の内容だったけれど、船の中に水がどんどん入ってくるシーンや、船がまっ二つに割れて、船が直立したり水平に戻ったりするシーンは、特撮効果がよかった。

 一番カッコ良かった人は、デカプリオじゃなく、最後まで演奏を続けた室内楽団の人たち。船上の演奏に雇われたのだから、ヨーロッパ本国やアメリカでそれほど名のある演奏家たちではなかったろう。たとえ三流の音楽家ではあっても、音楽を続けることが彼らの人生であり、演奏することが生きることであった、というミュージシャンの姿に涙した。

 氷の海に投げ出されて、零下の水温に心臓を止められた人々が幽鬼のように浮いているシーン、怖かった。
 貴族や上流夫人と言われている人々が、自分のことだけしか頭にないエゴイストで、下品な成り上がり女と思われていた女性が一番人間の高貴な心を持っていたという部分は、ストーリーが始まってすぐ予想できたが、ローズが最後にネックレスを海に沈めるシーンは、予想できなかった。おいおい、美しい思い出を海に沈めたりせんと、それを売って、タイタニック遺児の奨学資金にしろっていうの。

本日のひがみ:私は一番下の船室にいて、ぜったいにボートに乗れない側だからなあ
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20150924
 みなさまのシルバーウィークはいかがでしたか。
 敬老の日も秋分の日もかかわりない当地のカレンダー。老婆HALは敬老の日も働きましたとも。でも、22日と23日は、授業も終わっているし、休みたいなあと思っていました。今まで土日も働き続けた代休として仕事を休もうとしただけなのに、これがとんでもないことになりました。

 授業が終わった気のゆるみがいけませんでした。
 9月21日に日本の皆様がお老よりをいたわっているときも、66歳老婆は、勤務。せっせと働く労働者でした。でも、さすがにいつもより早く帰らせてもらうことにしました。75歳のボスが敬老の日に関わりなく働いていたんだけれど。

 今まで、路上で売っている食べ物は、食べたことなかった。
 安いし、仕事帰りの人たちは、みな路上の食堂でたべているのを見てきたのだけれど、我慢していました。泥水のような汚れた水のバケツで食器洗っているし(水道なんかないところでの飲食業)でも、もう授業がないってので、ちょっと気が緩んだ。
 21日、仕事帰り、かわいい女の子が売っていたふかしとうもろこしを一本買いました。心配もあるので、家に帰って鍋でゆで直して食べたのですが、夜中に気持ちが悪くなり、猛烈な吐き気。きいろい液体をはき出しました。(きたない話でごめん)

 朝、いつもより1時間遅くまで寝ていたのですが、吐き気は収まったものの、頭がいたくなったので、今日は寝ていることに。春庭、はじめての病欠ですが、ボスには「国民の祝日」22日と秋分の日23日は休みます。今まで土日も授業準備をして働いた分の代休をもらいます」と宣言していたので、ボスは代休と思っていることでしょう。
 せっかく代休を得たのに、腹痛頭痛をかかえて、一日寝ている、、、、、まあ、私の間の悪さって、いつものことなので。ヤンゴン町歩きをしたいと思ったのも、今回はがまんしましょう。

 結局、仕事以外のことをした、と言えることをしたのは、ヤンゴンの川向こうダラ地区を一日回ったのと、お寺での出家儀式に参列したことだけ。ダラ地区旅行については、9月末に、出家儀式については、10月はじめに報告します。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「2003年の101歳大往生」

2015-09-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150923
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(9)2003年の101歳大往生

 2003年三色七味日記9月を再録しています。
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2003/09/25 木 雨 
ニッポニア日本事情>101歳大往生

 夜、有馬秀子の訃報。享年101歳。9月19日まで、銀座のバー「ギルビーA」のママとして、働いていたそうだ。そのあと具合が悪くなり、25日に死去。なんて見事なんだろう。ギルビーAで飲むような高級なお酒は我が家にないけれど、秀子さんの一生に乾杯!拍手!!
 おお、それに、本日は21世紀が始まってから1000日たったところだ。切りのいい日。
20世紀を98年、21世紀を1000日生き抜いた有馬秀子さん、安らかに。

 9月はじめには、レニ・リーフェンシュタールが101歳で亡くなった。(現地時間9月8日)
 私がレニを知ったのは、映画『意志の勝利ベルリンオリンピック』をリアルタイムで見たからじゃない。いくら私が「学生からみたらおばあさん」でも、そこまではさかのぼれない。

 1979年、ケニアに出発する前、アフリカに関係する本をいろいろあさった。その中で一番感激した本が『NUBA』だった。80年の日本での写真展『ヌバ』は見ていない。
 レニは、「ナチ協力者」などの汚名をこの一冊で払拭した。すばらしく美しい写真だった。その後の海中写真は、美しいとは思ったが、ヌバほど感激はしなかった。私にとって、アフリカの人々は、『ヌバ』の美とともにあった。

本日のおやすみ:ゆっくり休んでください


2003/09/26 金 曇り 
トキの本棚>『アフリカの日々』

 NUBAの話で、『アフリカの日々』を思い出した。ケニアに行くまでのNo1は『NUBA』だったが、帰国後No.1は、ディネーセン『アフリカの日々』だった。

 レニにも、アイザック・ディネーセンことカレン・ブリクセンにも、「ヨーロッパで教育を受けた女性」からの一方的な視線がアフリカに注がれているという批判もあるそうだ。私はそうは思わないが。

 シュバイツアーや『野生のエルザの』のジョイ・アダムソンについて、「あれは、白人文明側の視点でアフリカを見ているのだ」という批判をするのが、ひところのはやりだった。そうは言っても、シュバイツアー以前にアフリカの医療を志す人はいなかったし、アダムソン以前にアフリカの野生動物保護について広報効果がこれほどある作品をヒットさせた人はいなかった。

 柿実さんを誘ってロードショウを見にいった映画『愛と哀しみの果て』は、最初のシーンから涙があふれて見続けるのがたいへんだった。レニの『ヌバ』とディネーセンの『アフリカの日々』は、いわば私の「青春のアフリカ」とともにあるのだ。

本日のつらみ:子供たちが動物園大好きなうちに、ケニアのゲームパークへ連れて行こうという約束はとっくの昔にほご。今ではテレビゲーム専門の子供たち


2003/09/27 土 晴れ
ニッポニアニッポン事情>匿名と家族のプライバシー

 4度目のページ更新をするために、朝からパソコン編集。気を付けて地名個人名の匿名化をしているつもりなのに、アップしてブラウザで見ると、本名のままのところが残っていたりする。2003年3月分をアップ。

 匿名についての感想。
 ある弁護士がプロバイダーを訴えた事件で、数日前に、勝訴のニュース。
 自分を誹謗した記事が掲示板に載った。書き込みした人の名前の公開をプロバイダーに要求し、勝訴したのだ。
 別の裁判で、この弁護士が原告側として担当した会社は、「自分の会社を誹謗され損害を被ったので、掲示板に誹謗記事を書いた人間の本名住所を公開せよ」とプロバイダーへ要求した。こちらは、敗訴となった。だから、弁護士の裁判は逆転勝訴とも言える。

 ウェブの問題が裁判となったとき、まだ判例がない問題について、裁判官の意識やウェブについての関わりようで、裁判がひっくり返る可能性がある。判例がない裁判の判断を下せる能力を持つ裁判官は少ない。みんな前例主義。過去の判例を繰り返していれば定年まで安泰の職業。

 私が匿名で日記をウェブに載せているのは、娘と息子が「母の趣味で日記公開するのは、自分の人生だから好きにしていい。でも、絶対に子どものプライバシーが保てるように個人情報を管理しろ」と言われれているからだ。

 それにつけても、日本文芸のお家芸である「私小説」に関して、家族はどう思っているんだろう。作家が家族親戚友だちについて書くこと。

 柳美里のプライバシー問題では、柳美里敗訴。これは「表現の自由」とは別問題だと感じた。原告は作者の知人だったとはいえ、一般生活者であり、作者の家族でもない。作品を発表した金で生活を支えてやれる範囲の人が家族、という意味で、家族は、作家が自分をモデルにすることに対し、ある程度、作家自身と一心同体の面がある。
 しかし、印税をモデルにすべて渡すという契約をかわしたわけでもない、一般人であるなら、作品中のモデルが特定できないようにするのが、作者の「書くことに一生をかけるための倫理規定」だと思う。それをしないで、安易に個人特定できる書き方をしてモデルの心を傷つけることは、やはり避けるべきではないか。難しいな、表現の自由とプライバシー。

 政治家や芸能人など「人に我が身を晒してナンボ」という人のプライバシー問題でも、最近プライバシーを侵害されたという側の勝訴が多い。個人情報管理への配慮から勝訴が多くなっているようにも感じる。
 個人情報管理法などと言わずに、「政治家がヤバイ問題を起こしたときに、やたらにすっぱ抜かれずに済む法」と言えばわかりやすのにね。通信傍受法は「警察が、勝手に盗聴して個人情報を盗む法」だし、「住民基本台帳の一部を改正する法」は、「情報が漏れてしまうことはみんなに我慢してもらって、国家が国民の情報を管理する法」だ。

 作家と家族の情報問題。
 車谷長吉は、親戚中から総スカンで、母親からも「家族の恥を世間にさらして」と、責められ続きだという。どこまでが「作品をさらすことによって、利益をえることのできる家族」なんだろう。少なくとも、長吉の母親は、すでに「車谷長吉の母」という「社会的な地位」を得た人、と言える。車谷がもらいたかったのは芥川賞の方で、直木賞は不本意だったとはいえ、世間的には「直木賞作家の母」になったのだ。「直木賞作家の母などになるより、世間から視線を集めることなく静かに暮らしたい」と思っていたお母さんなのかも知れないが、息子が賞をとってしまった以上、もうこれは運命と思ってもらうしかない。

 松本人志の母親が「松本人志の母」という資格で講演やバラエティ番組で稼いでいたり、金八先生武田鉄也の母が「こらぁ、鉄也!」のタバコ屋の母として、亡くなるまで講演しまくったように、書かれることによって、家族親戚の人生がいい方へ向くなら、書かれたことが付加価値をもたらし、被害より得たものが大きいと言える。

 古くは、逍遙、鴎外、漱石、八雲、茂吉、朔太郎の子孫たち、近くは中上紀、阿川佐和子&檀ふみコンビ。ばなな。露伴のところなんか、文、玉に続いて四代目まで文章で食べている。持つべきは文豪の父、母。
 大江健三郎のように、「知的障害を持つ息子」について書くことが、「一家総出の産業」のごとき様相になっていれば、それはそれで「家族みんなで、ご精がでますね」と言える。

 結論。文学が価値を持てば、必ずその周囲の人に恩恵はある。書かれた人間はどんなに悪口書かれようと、それを「自分の資産」として、自分の人生に付加価値をつければいい。

 さて、資産にもならないウェブ日記の場合。無料で公開し、収益といえるものは、書いた人の「自己満足」だけである。「だれかに読んでもらってうれしい」「だれかとネットワークで繋がったかも知れないからうれしい」というバーチャル人間関係構築のはかない夢のうれしさ。
 そんなバーチャルうれしさは、自己満足の範囲にとどまっていて、家族には何の足しにもならん。これじゃ、ただ書かれっぱなしの家族はたまらんぞ。

 ゆえに、私は匿名にしている。せめて、しがないパート仕事を解雇されないよう、気をつけなければ。パート先の上司の悪口など、書いてしまっているからなあ。

本日のひがみ:プライバシーが問題になるほど読まれもせず

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20150923
 今日は、日本じゃ秋分の日なんじゃなかろうか。どなたさまにも、ハレのめでたい休日ですね。はい、当地では秋分なんてものにはなんの価値もなく、本日も、めでたくもないケの労働日。

 101歳まで銀座のバーのマダムを続けた有馬秀子や、101歳まで写真を撮り続けたレニ・リーフェンシュタールについて書いていますが、私の目標も101歳までは書き続けること。あと40年くらいして、私が100歳を超えれば、この、愚痴とぼやきのヤンゴン勤務日記も「66歳のばあさんなのに、熱帯モンスーンの湿気暑気と虫の襲撃とネズミの徘徊に耐えて、よく働きました」と、言ってもらえるかも知れません。

 今のところ、「一日13時間労働するなんて、キーテないよう、トイレのまわりがニョロニョロの虫だらけになるなんて、キーテないよう。足が真っ赤に腫れ上がるなんて知らなかったよう」なんて泣き言を並べても「好きでヤンゴンくんだりまで行ったんだろうよ」と一喝されるだけですからね。

 長生きしなきゃあ、骨折り損のくたびれもうけだけです。ああ、くたびれた。
 あと、6日。指折り数えています。カウントダウン開始。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のピンポン」

2015-09-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150922
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(8)2003年のピンポン

 2003年の三色七味日記9月再録をつづけています。

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2003/09/23 火 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ピンポン』

 台風一過で、空は秋の鱗雲。

 夜、テレビ放映の「ピンポン」を見た。
 原作、ビッグコミックスピリット連載中、娘は毎週見ていたが、私は読んでいなかった。松本大洋のくせの強い絵柄と相性が悪いので。『鉄コン筋クリート』のときも、内容は面白かったから途中まで連載を読んでいたが、途中で絵柄に疲れた。ピンポンも同じ。

 だから、脚本クドカン、ペコ窪塚洋介、ドラゴン中村獅童の組み合わせに大いに期待してみた。卓球場のオババ夏木マリも、コーチ、バタフライジョーの竹中直人も好きだし。

 結論、面白かった。監督はまったく知らない人だったが、CG画面の使い方もよかった。ピンポンをちょっとでもやったことのある人にとって、試合CGシーンがしらけるんじゃないかと心配していたが、すくなくとも、私のような「温泉ピンポン」程度の人間には、「アリエネー」としらけるより、「スゲー」と喜んでいられる程度のCG。もちろん実際にはアリエネー!なんだけど。ちゃんと、卓球の技術指導者が参加しているなって、感じるCGだった。

 そして、いつものことながら、私は敗者が好きなのだ。「こんなに努力したのに、どうして俺じゃなくて、スマイルなんだ!」と卓球をあきらめる「神に好かれなかった子」のアクマ君。ニヒルに「努力?天分の問題でしょ」と、軽くいなす天才スマイル君よりも、「こんなに!こんなに卓球大好きでがんばったのに!」才能なく破れていくアクマに「オトモダチ」を、感じました。連帯!
 スマイル対アクマ、アマデウス・モーツァルト対アントニオ・サリエリ。

本日のうらみ:神はどうして、えこ贔屓が強いんだ!私ども下々の教師にとって、クラス内で贔屓は御法度なのにさ


2003/09/24 水 曇りのち雨9
ニッポニア教師日誌>後期最初の授業

 日本語教育研究クラス第一日。春学期のメンバーの半分が残った。新顔に、Bの単位を取っていない人にはご遠慮願っていますという。何人かは教室を出ていった。

 ラポール形成ワークショップとして、エンカウンター改良版。私流エンカウンターに、ヒメから仕入れたネルトンお見合い方式を加えて実施。
 ひとり、「Bの単位未取得だが、どうしても日本語教員養成クラス修了証がほしい。このクラスをとらないと単位が足りない」という女子学生がねばっている。しかたがないので、「そのかわり、Bでやったことは全部習得済みと見なすから、日本語教育用語は、自分で覚えてください。日本語文法の本を一冊読んで、要約レポートを提出」を言い渡す。

 夏休み前に、Bクラス全員に「Cクラスを受講する人は、日本語教室見学レポート」を提出するように言ったが、今日提出したのは、多摩川おじさんと、ホイさんだけ。
 エンカウンター、学生には好評だった。自己紹介、クラスメートとの交流、グループ作り。発表順番決め。

 途中、助教授が教室にやってきて、「BクラスとCクラスは、どちらを先にとってもいいことになっている。Bの単位未取得者でもCクラスに登録できることは、学科の方針で決められていることなので、勝手に仕切るな」といわれた。

 ま、登録するのは勝手だが、私がやりずらいのよ、日本語教育のイロハを分っていない学生が混ざるのは。もっとも、春学期にBクラスをとった学生だって、授業でやったことをちゃんと理解した学生は半分もいないだろうし、理解したことを夏休みを経ても覚えている学生はもっと少ない。
 「最初にラポール形成ワークショップをやります。ラポールって、なんだっけ」ときくと、覚えていたのは半分。
 ラポール形成して、ピアラーニングって、流行ってきた。時代が私に追いついてきたんだよ。

 出席カードに、いつもの「声だしポイント欄」と、「今日のアピール」欄を設けた。今日一日の授業の印象、感想、自己アピールのコメント欄。「今日も楽しく授業が受けられました」「先生の話、大いに笑いました」などの感想。
 自分をトリックスターにして、クラス内に笑いを満たす努力も知らず、「バカばっかり言うせんせ」と思われているのだが、いいんです。私は重厚長大な学者ではなく、一介の語学教師。おバカが「ウリ」です。

 一番受けたのは、私の新キャッチコピー。自己紹介の例として、「自分のキャッチコピーをつけてください。春学期、私のコピーは何でしたか」
 学生「ええっと、転職7回、、、だっけ」
 「ちがうでしょ、卒業7回、転職13回、です。音声表現大会で、私、ケニアに行った話をしましたね。アフリカに着いた初日に迷子になって、道案内してくれた男と結婚したって。秋学期の、新コピーはこうです。ナイロビで、迷子になって、愛を拾った。いまでは愛が迷子になってる」
 みんな大笑いだった。

 一昨年に教えた男子学生が教室の外で、授業が終わるのを待っていた。3月の卒業を単位不足でのがし、今日は、「9月卒業式」なんだって。袴姿の女子学生を構内で見かけたので、何事かと思ったら。半年遅れても、めでたい卒業。
 卒業後は、大学経営の生涯教育施設、カルチャーセンターだか、エクステンションセンターだか、そういうようなところで働くという。「おめでとう、よかったね」

 指導教官のところならいざ知らず、1年間授業でいっしょだっただけの非常勤講師の所まで挨拶に来てくれて、こちらも感激。しばらく話していたが、Bクラスを取らずにCクラスを受講するという学生に、Bで配布したテキストプリントを渡す約束をしたので、講師室に戻る。

本日のひがみ:冗談聞いて笑ってるだけでなく、教授法もおぼえてね

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20150922
 担当の授業が終わり、業務報告書執筆とか、新年度カリキュラム作成とかのデスクワークになったので、気分はとても楽。デスクワークが嫌いな人もいるけれど。

 その点、デスクワークは、業務報告書を書くにしても、やったことを書けばいいのだから、こんな楽なことはない。私、ワープロの早さだけは自慢だからね。私の転職経験のなかでも、「汽船会社での英文タイピスト」というのは、一生役立つ技能になった。

 私もパソコン、コピー機その他の機器に弱いアナログ人間だけれど、75歳のボスは私以上にアナログ。現在ではビルマ文字のタイプ打ちがパソコンで出来るのに、ボスは手書きでビルマ文字を書き、それをビルマ文学科の若手教師たちにタイプ打ちしてもらう。
 
 私がA4用紙一枚にまとめてしまったカリキュラムを見て、ボスは「お断りしておきますが、これをビルマ語翻訳すると、タイプで打ち直してもらっても、とてもA4一枚にはおさまりません」と、申し訳なさそうにおっしゃる。いやあ、紙は何枚だろうと、お好きなように訳してください、と思う。そもそもビルマ学碩学の名誉教授に「日本語教育カリキュラムの翻訳」というような仕事をお願いするだけで恐縮しているのに。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のすいか」

2015-09-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150920
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(7)2003年のすいか

 2003年三色七味日記9月の再録を続けています。
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2003/09/20 土 雨 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『すいか』

 夜、『すいか』最終回。このドラマが大いに気に入った娘「どうにでも続編作れるんだから、シリーズ化してほしいなあ」と願っている。

 まず、配役がよかった。娘の好きな女優、小林聡美=さえない信用金庫のOL基子、きょんきょん=勤務先信用金庫の金を横領着服した馬場ちゃん。
 私の好きな女優、白石加世子=基子の母、子離れできない梅子。片桐はいり=馬場ちゃんを追う刑事、ぬいぐるみフェチ。
 ほかの、浅丘るり子=教授、ともさかりえ=漫画家、市川実日子=下宿のオーナーも、よかった。
 賄い付き下宿「ハピネス三茶」を舞台に、女たちのさりげない日常生活と自分探し。毎回、よく笑い、しんみりし、三人で楽しめた。

 娘は「どうなるのか心配なのは、きょんきょんが捕まるかどうかだけなのに、毎回毎回、次はどんな話だろうって、楽しみだった。こんなドラマ初めて」という。これまでは、ジェットコースタードラマ、毎回毎回波瀾万丈でないと、退屈していただった。
 
 基子の母、梅子が癌で入院する騒ぎの回のときは、娘はドラマの中の母子の会話にもらい泣きしている。
 今年の春、私が膀胱炎になったとき、「血尿が出た、子宮癌かもしれない」と大騒ぎしているのに、娘は「そんなの、どうせたいしたこと無いよ」と、平気な顔をしていた。でも、もしかしたら、あのとき、ものすごく心配してくれていたのかも知れない。
 診察受けてみたら、よくある膀胱炎。私にとっては初めての病気ですごくつらかったが、娘にとっても「もしかしたら」とつらかったのかも。

 白石加世子母の癌は初期で、おなかも切らずに内視鏡で治療ができる軽いものだった。癌と聞いて、一度は死を覚悟したことで、梅子は少しは子離れできたみたい。

 私の子離れはのんびりゆっくりそろそろと。

本日のぬいぐるみ:片桐はいりのぬいぐるみ、目になっているボタンを付け替えたら、「知性が減った気がした」ぬいぐるみの知性はボタン目にやどる


2003/09/21 日 雨 996
日常茶飯事典>お彼岸

 雨の中、姑と夫、義姉の娘ふたり、息子と私で、お彼岸のお参り。その後、シビックセンター内の椿山荘で、ランチ。
 夫と姑は「完全無宗教人間」。お彼岸と言っても姑にとっては、お参りは付け足し。ランチ会をときどき持って、孫たちと食事するのが姑の目的。
 この次は、義姉の長女がアルバイトしている銀座のレストランでランチしたいという。

 義姉は50歳の誕生日直前になくなった。長い闘病生活を支えた義姉の娘は、大学は看護学を選んだ。もう、実習も始まっている。看護師+保健師か、看護師+助産師の資格が取れるという。
 今日は、娘がランチ会欠席。

 娘は風邪でダウン。熱が38.8度も出た。夕方、風邪薬を買いに行く。フルーツヨーグルトは食べたが、お寿司は食べられず。いつもなら弟の分まで横取りして食べようとするのに、「あ~あぁ、おいしそうなのに、全然食べる気しない」と、眺めている。
 「いつも食が細いオトートくんが病気で食べられないと、ほんとに心配しちゃうけど、あんたが食べられなくても、日頃蓄積の脂肪が少しは減るかと思えるから、心配しなくても済む」と言ったら、「親なんだから子どもが病気をしたら、少しは心配しなさい」と怒る。

本日のつらみ:お寿司、娘の分まで食べて、体重リバウンド


2003/09/22 月 曇り台風の風 
日常茶飯事典>ことば蘊蓄

 ことばリンクを貼ったサイトへ、リンク設置お礼メールを出す。基本的にリンクフリーのところだが、一応あいさつ。
 ことばのサイト、本当にどこも、おもしろいうんちくが読める。

 日本語の語源と日本語起源論に手を出してはいけない、というのが私の師匠世代たちの意見だった。「語源と学生に手をつけるのは言語学徒には御法度」やら「起源論と不倫に嵌ったら、命取り」とか。私は師匠のいうことは素直に聞いて、語学教師としてしこしこ働くだけだったが、千野先生はふた回り年下の教え子と再婚したし、奥津先生も20歳以上年下の教え子沼田さんと結婚。うなぎを食って若返ったせいだと言われている。「ぼくは、うなぎだ」

 ことばうんちくには、及ばないが、「私は、今日、こういう言葉を初めて知っておもしろかった」という「後出しじゃんけん新発見」みたいなことは、書き留めておこう。

 留学生が「先生、人名を調べる宿題があるんですけれど、人名辞典にのっていないんです。どうしたらいい?」と、持ってきた。
「陸という名字ですが、リの項をいくら調べても、どの人名辞典にもない。本当にこういう日本人がいたんですか。日本人じゃなくて中国人の名前だろうと言った日本人もいたんですが」
「陸カツ南、陸ああ、くがかつなん、ですよ。広辞苑にも載っている。リじゃなく、クのところを調べてみて」
「ああ、ありました。今まで聞いた日本人、みんなリクと読みました。先生はどうして知っている?」
「さあ、どうしてって、言われても、いつ覚えたんだか記憶にない。恋人の名前とかだったら、いつ知ったのかはっきり覚えているんでしょうが」

 新しい言葉や読み方を知ったとき、へぇ!と思うが、どういうきっかけで覚えたのかはたいてい忘れてしまう。

本日のつらみ:クガカツナンなんかじゃなくて、新しく覚えたいのは恋人の名前

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20150920
 カリキュラムと授業スケジュールを作り始めて、感じること。祝日が少ない!
 日本は、1月の元日&成人の日からはじまり、来年からは8月の山の日もできて年間に14日2週間分の休日がある。祝日が日曜日と重なれば、月曜日が代休となるしくみもある。一般的な会社が、年末年始に1週間休むのを加えれば、年間の土日以外の休日数は3週分。

 当地も祝日は多い。ただし、土日に重なっても月曜日の代休はなし。仏教行事の祝日が多いので、仏教行事は旧暦に則り、満月の日に行われるので、毎年日にちは変わる。雨期が終わる雨安居あけのダディンジュ満月など、毎年10月のどこになるか、旧暦の太陰暦が用いられる。
 一見、祝日の数は日本と同じくらいあるようにみえるのだが、大学が閉鎖になる4月5月10月11月の祝日のほうが多い。当地の大学暦は、前期12月-3月、後期6月-9月。間の2ヶ月は大学閉鎖。

 1週間続くミャンマー新年4月の水掛祭りなど、どうせ大学は閉鎖中なので、勤務に関わりない。大学開講日の祝日は、年間7日、1週間分。日本の半分になる。当地の大学の先生の給与体系がどうなっているのかは知らないが、日本から派遣の私は、大学閉鎖中は無給となる。
 私は当地赴任のために、2つの私立大学の後期授業を断ってきたので、10月11月は収入なしになります。(来年の4月5月も)

 年末年始の休み。12月25日クリスマス(キリスト教徒に配慮して)、1月1日。以上。日本の皆様方が年末年始有給にて2週間の休みをすごすのに、私はクリスマスと元日をのぞいて働き続ける予定。
 と、ボヤキ続ける毎日。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の振り回す槍」

2015-09-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150919
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(6)2003年の振り回す槍

 2003年三色七味日記9月の再録を続けています。
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2003/09/18 木 晴れ
ことばの知恵の輪>振り回す槍

 今日の「語源トリビア」。
 ザ・ブームの宮沢和史によると、ボサノバとは、「新しい流れ」の意味。ノバが「新しい」は知っていたが、ボサの意味を知らないから、ドドンパとか、チャチャチャみたいに、特に意味を持たない音楽や踊りの型へのネーミングかと思っていた。サルサが英語で言うとソースにあたる意味というのも聞いたことあるが、ボサノバは、そうか、「新しい流れ」か。

 カタカナのことばの方を先に覚えてしまうと、語源など考えずに使ってしまうから、元の意味を知ると「へぇ!」と、うれしい。ゴシックが「ゆがんだ真珠」の意味とか。

 シェークスピアShakespeareが「振り回す、槍」Shake spearだというのも知らなかった。
 おしりにeがついても同じ言葉というのは、赤毛のアンが「わたしのアンは、annじゃなくて、anneだからねっ」と主張していたので、へえ、英語の名前はeがついてもつかなくてもいいのか、と少女のころ思ったのだけれど、Shakespeareのspeareは、spearと同じだったんだ。

 でも、カタカナで先に覚えると、絶対に「シェイク+スピア」だとは思わず「シェー+クス+ピア」だと思うもんね。禿げたオッサンが、シェーをしながらクスッと笑って雑誌「ぴあ」を眺めている図が思い浮かぶ。オッサンは禿げなでながら「よし、映画はやっぱり『恋に落ちたシェークスピア』を見よう」なんぞとぶつくさ言ってるんです。

 学生時代にいっぱい頭に詰め込んだ人は、詰め込んだことを切り売りして、一生食べていくことができる。学校であまり詰め込まなかった人は、こうやって、ひとつひとつ「へぇ!」とボタンをたたきながら楽しむことができる。
 私は合計26年間も学校教育を受けた人間なのに、7回出席した卒業式ごとに、「学校から受けたものは学校に返却!」と、律儀に返済していたから、未だに楽しみをたくさん拾うことができる。何を聞いても「へぇ!」を連発。

本日の負け惜しみ:学校で身につけたことで、実際に重宝しているのは、職業専修校で覚えたブラインドタッチ早打ちの技だけ。おしゃべりをするのと同じスピードで打てる。テレビニュースの速記録がとれる


2003/09/19 金 晴れ 
日常茶飯事典>ファミリーオペラコンサート

 夕方、姑と待ち合わせて、パーシモンホールで、コンサート。オペラや日本の歌曲。久しぶりに声楽を生で聞いて楽しかった。
 出色は、ウクライナのバンドラという民族楽器を弾き語りしたオクサーナというソプラノ。次によかったのは小野和歌子というメゾソプラノ。

 五十嵐麻利江は、司会もこなして軽妙な味を出していたが、歌に関してはオクサーナや小野の「天賦の才」と比べると、自ら「私はオクサーナさんの前座をつとめた」というのが、謙遜に聞こえず、「その通り」に聞こえた。フィナーレの乾杯の歌のときも、声を張り上げてソプラノを勤めるのが痛々しいくらいで、「無理せんで、ええから。ここは、ひとつ若いもんにまかせて、、、」と、声をかけたくなった。父も声楽家、恵まれた家庭環境ですくすくと育ったのだろうが。天賦の才がだれに与えられるかは神の采配。サリエリには与えられず、ヴォルフガング・アマデウスには与えられた采配。

 これまで、姑は、舅といっしょにでかけるか、姑の姉、横浜の洋子伯母を誘って出かけていた。
 たけ子伯母は、定年まで音楽教師を勤めた人だから、コンサートとなればなおさらだ。どうして嫁を誘う気になったのかな、と思い「たけ子伯母さんは、ご都合が悪かったんですか」と聞いてみた。
 「姉さん、80歳をすぎたら、とたんに足腰が悪くなって、家の中を歩くだけなら大丈夫だけれど、外を歩くにはお嫁さんについてきてもらわなくちゃならないの。そしたら、コンサートの券、3枚いるでしょう?今回は2枚しかなかったから」ということだった。

 嫁になって20年たつけど、姑とでかけるのは、子どもが小さいときは動物園遊園地、入学後は学校行事などにいっしょに行くだけだった。姑と二人だけで出かけることはめったにない。姑は話し好きな人で、私はあいづちだけですむ。こちらから話題を探したりしなくてもいいから、いっしょにいて楽な人。もっと、一人暮らしの姑のお相手をつとめるよう、心がけるべきなのだろうなあ。

本日のいきみ:麻利江が高音をだそうとするとき、いきんでいるように聞こえてこちらも息苦しかった

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20150919
 高齢者には過酷であったヤンゴン勤務。ようやく最後の授業を終えました。最終クラスの受講生達には、最後は日本語でのスピーチを課しました。9月からはじまったサバイバルクラス、なんとか買い物くらいはできるようにはなったけれど、90分授業6回の授業ではまだまだ不足もあります。
 でも、受講生たち、みなきちんと準備をしてきて、自己紹介とお礼の日本語スピーチをしました。これも、あれも、私が上手に教えたから。なんてね

 最後は日本から持っていった浴衣を学生に着せて、日本文化紹介授業。私はミャンマーの民族衣装であるロンジーを着て最後の授業に出たので、最後は記念撮影になりました。受講生達、翡翠のネックレスと、シュエダゴンパゴダのレリーフを記念品にプレゼントしてくれました。

<つづく>


<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のダンス発表会」

2015-09-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150917
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(5)2003年のダンス発表会

 2003年三色七味日記9月を再録しています。
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2003/09/14 日 晴れ 989
日常茶飯事典>ダンス発表会

 12時半に文化センター集合。最初に照明を確かめる。カラーライトの配線ができていないので、「フラダンス発表」「歌謡曲リズムダンス発表」の間に、舞台裏に回って、コードをつなぐ。このあと、他のサークルが配線をいじらないことを祈りつつ。

 1時半から3階の物置スペースで、柔軟体操、振り付け確認など。物置には冷房がないので、ものすごく暑い。2時55分から1階の楽屋がわりの研修室へ。
 
 3時10分から、Aダンスィングサークル発表。どこかのサークルが配線をいじって、スイッチが逆になってしまい、照明がめちゃくちゃになってしまった。おまけに、前の発表の人たちが舞台裏にスイッチオンになったままのマイクを残していったのに気づかず、半分くらいまでゴチンゴチンというマイクにぶつかる音が響いていた。フィナーレでは、私だけ、舞台マイクのコードに足がひっかかって、ころびそうになった。

 なんだかんだでいろいろあったけれど、終わってしまえばすべてよし。楽しかった。くまの着ぐるみダンスと呼ばれようと、LLサイズおばはんパパイヤと自称しようと、1年間練習したダンスを発表して、人様の前で踊ったのだ。

 ことばを話すのではなく、踊るという行為は、自由にできる。太めの体を晒して踊っても、ぜんぜん苦にならない。
 どんなに下手な踊りだろうと、1年に1回でも2回でも、人前に自分の姿をさらすという緊張感があるから、みんな1年間を生き生きと暮らしていけるのだ。人に見てもらうってことはとても大切なこと。他の人と同じようには足があがらないとか、回転できないとか、太っているから恥ずかしいとか、そんなの吹き飛ばして、自分が楽しく踊ること。

 娘が見に来てくれる。娘の批評「一番年上の60代の方、すごく生き生きしていて動きもきれいだった。タキシードジャンクション踊った、3人組。わたしのうしろの席の人たちが宝塚みたいって、言っていた。ほんとにじょうずだった。文化センター発表サークルの全部の中で、このグループが一番見応えがあるって、言っていた人たちもいたよ。お母さんはね、動きはシャープで切れがよかったけれど、人の振りを見ながら後追いしているのが、よくわかった」
 あれま、ワンテンポ遅れると後追いしているのが分っちゃうから、半テンポずらしでごまかしたつもりなのに。
 私は発表会打ち上げに参加。娘と息子は姑宅へ。

本日の負け惜しみ:宝塚みたいに踊る人、パパイヤおやじダンサーズみたいに踊る人、個性はいろいろあっていいの!


2003/09/15 月 晴れ 990
日常茶飯事典>敬老の日

 娘と息子は、おばあちゃん家にお泊まり。敬老の日の祖母宅訪問。息子は、昨日おとといと続いた辰巳プールでの都大会を終えた足でそのまま行った。

 娘の敬老の日プレゼントはバナナケーキ。とてもおいしく焼きあがった。
 息子からのプレゼントは中学校水泳秋期区大会のフリーリレー1位とメドレーリレー3位の賞状。娘に「あんた、それ、お母さんの誕生日のときもプレゼントって言ってたじゃない。使いまわしかい。安上がりな!」と、つっこまれていたが、母にとっても、おばあちゃんにとっても、なによりのプレゼントであることは確か。

 今日の辰巳プールでの大会を最後に水泳部をリタイアし、いよいよ本格的な帰宅部になるという。これが最後の水泳賞状だろうから、貴重だ。

本日のつらみ:「帰宅部なのに、全国大会!」というフレーズに笑えた


2003/09/16 火 曇り 991
トキの本棚>『フラジャイル』読了

 ホームページ作りにかまけて、前半だけ読んで、後半をほうっておいた『フラジャイル』をようやく読了。『フラジャイル』後半には、正剛、大学生のときに父親が死んで、借金を背負ったということなども書いてあった。

 95年初版の本だが、この中に書いてあることで、「このことを2003年の今まで知らなかった。この本を読んではじめて知った」と言えることが、たったひとつしかないことに、まず驚いた。知らなかったことは、月光ことナタリア・バーニーのレズビアンサロンに集まった女たちのこと。

 それ以外のトピック、たとえば、ネオテニーのこと、トランスジェンダーのこと、どのトピックも、95年には、世間一般には広まっていない話題だったのではないか。それが、2003年には、すでに「文化トピックとして消費され尽くされてきた」という感すらある。この早さに驚いたのだ。たった8年の間に、20世紀から21世紀へと進む間に、ものすごいスピードで、世の中のある部分が変化した。
 95年には多くの人に未知であった概念をまとめて、正剛が本にした。2003年には誰もがその概念を「昔からあたりまえであった」がごとくに使いこなしている。すごいな正剛。すごいな世の中のスピード。
 95年にインターネットを使いこなしていた人がどれだけいただろうか。フツーのおばさんが自分の個人ホームページを持つなど、遠い話だと思っていた。「情報」が大きく変わり、私たちの意識の深層も変わっているに違いない。

 97年にインターネットをいれたときはダイヤルアップで、とても遅くて、これではネットを使うより本を調べた方が情報が早いと感じたものだが、2002年にADSLにして以後、どんなことを調べるにも、まず、Googl検索。ネットだけで、だいたいのことはわかってしまう。辞書を引く回数は減らないが、百科事典やイミダス知恵蔵などを引く回数は確実に減った。

 携帯電話ひとつとってみても、私は、94年に中国の地でトップビジネスマンたちが携帯を駆使して仕事をしているシーンを初めてみたのだ。94年の日本国内にも携帯電話を駆使しているビジネスマンはいたのだろうが、自分の狭い生活範囲で出会うことはなかった。それが、帰国してみると、周囲の人たちはどんどんケイタイを持つようになり、「うちはいらない」とがんばってきた我が家でも、99年に娘が高校に入ったら連絡が必要になり、買うことになった。

本日のつらみ:ケータイ普及して公衆電話が減った。電池切れの日に探し回った赤電話

2003/09/17 水 晴れ 992
ジャパニーズアンドロメダシアター>『血脈』

 午前中Aダンス。

 午後、ビデオにとっておいた『血脈』を見た。佐藤愛子の作品、『戦いすんで、日がくれて』のほかは、軽いエッセイだけ読んできた。『血脈』も、佐藤家の「濃い」人々に疲れそうだから、読まなかった。
 ドラマは、宮沢りえ主演というので、見てみた。りえが特別好きな女優ではないのだけれど、少年少女ビルドゥングスウォッチャーなので、スポーツ界では、伊藤みどり、田村亮子のウォッチングが終了して、今は福原愛。芸能界では宮沢りえ、安達祐実。
 宮沢りえ、リハウス引っ越し少女から見てきて、波瀾万丈経て、女優として大成できるかどうかの、今がみどころ。りえ、主演の佐藤シナ(女優三笠まり子)役。娘の佐藤愛子役は石田ゆり子。

 ドラマ、やっぱり「濃すぎる」人々に疲れた。佐藤紅緑が緒形拳、佐藤八郎が勝村政信、佐藤節が中村獅童、佐藤ハルが木内みどり、島村抱月が筒井康隆、もう、配役も濃い人ばかりで、演技ぎんぎんで。筒井の演技っぽくない「誰を演じても筒井康隆がそこにいる」の棒読みが一番ほっとした。筒井は、断筆以後、執筆再会しないほうがよかった。大根役者として十分楽しめる。

 りえの演技は、ラストシーンの「チェホフの『かもめ』を演ずる三笠まり子」の部分が一番良かった。すなわち、三笠まり子は、女優を続けるよりも、佐藤愛子の母、サトーハチローのママ母、佐藤紅緑の後妻、佐藤シナとして生きたほうが正解だったな、と誰でも感じる程に、『かもめ』のあの有名な台詞をへたくそに言ったからだ。
 あんた、これじゃ、松井須磨子のあとをついで、チェホフ演じようなんて、思わないでよかったよ。妻として母として生きてよかったんじゃない、と、みんなが言ってやれる佐藤シナ像を作り上げた台詞術。あれ?もしかしたら、あれは演技じゃなくて「地?」

本日のかがみ:ドサ回りの一座でもかがみのある楽屋がもらえるなんて、うらやまし。我が一座の楽屋は小学校体育館の道具置き場が多かった。

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20150917
ジャズダンス仲間達、9月13日に発表会をすませて、今頃ほっとしているところでしょう。中国赴任中、ジャズダンスの練習をお休みするかわりに、ベリーダンスを習いました。今回、身体を動かすためには、プールで水中ウォーキングでもやろうかと、太鼓腹が入る水着を持ってきたのに、プールどころか、土日もひたすら仕事しつづけて、まったく仕事以外のことをする余裕がありませんでした。水着は一度も着ないまま。

 伝統舞踊の教室があると聞いてはいるのですが、もう習うヒマもなく、今は12月から始まる新学期のために、カリキュラムをととのえよ、シラバスを書けと、言われて、最後の最後まで仕事オンリーの日々になりそうです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のアスカ命日すれちがい」

2015-09-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150916
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(4)2003年のアスカ命日すれちがい

 2003年三色七味日記9月を再録しています。
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2003/09/11 木 晴れ 
日常茶飯事典>アスカ命日すれ違い

 娘は、「今日はアスカの命日だから」と、にんじんケーキを焼く。アスカはヨーグルトやケーキやプリンが大好きだった。ほしがるままにいっしょに食べさせていたら、歯が悪くなり、そこから顔に膿がたまるレッキス種うさぎによく発症する病気になってしまった。だから、タイムには干し草中心の食生活をさせ、ケーキなどは食べさせない。人参ケーキもダメ。人参だけタイムに与える。

 娘といっしょに、ケーキをお墓に持っていく。アスカを埋めた桜の木の根本にケーキをうめ、「また来年桜の花になって帰ってきてね」と声をかける。
 夕方、娘があいちゃんとカラオケに行くと言うので、いっしょに出て、図書館へ。

 いつもケイタイを携帯していかないので、失敗するが、今日も大失敗。
 娘があいちゃんとカラオケに行って、夕ご飯も食べてくると勘違いしてしまった。7時まで図書館にいて、もう作るのが間に合わないと思ったので、息子をアスカのお墓参りに誘って、「1周忌の法事」として、デニーズで夕食を食べてしまった。ふたりともケイタイは家の中に忘れてきた。

 娘はカラオケを早めに終えて家に帰ってみたら、鍵を持って出なかったのに、ドアが開かない。電話しても弟もハハもケータイに出ない。ちょうど救急車のサイレンが聞こえたので、もしかしてふたりのどちらかが事故にでも遭ったんじゃないかと、心臓が止まりそうな思いで、近所中を探し回った。

 私と息子が食事を終えて帰ってみたら、娘が「鍵持っていないのに、どこ行ってたの」と怒っている。「どんな思いをしながら探したと思っているの」と、ものすごい怒りよう。「ケータイ持って出ないなら、契約しているのは無駄だから、解約したら!」と、プンプンだ。

 私は娘が鍵を持っていると思い、夕食を食べてくると思いこんだ勘違い。娘は私がケイタイを持っていると思い、救急車の音で事故にでもあったのじゃないかと思った心配性。
 これだけケイタイやインターネットメールが普及しても、すれ違いで会えないこともある。

本日のつらみ:『君の名は』の時代じゃないのに、すれ違い


2003/09/12 金 晴れ
日常茶飯事典>高齢者サークル

 午後、文化センターでセンター祭の最終打ち合わせ。去年と同じことを、同じような利用者で行うのだが、また、毎年同じ愚痴やぼやきが繰り返される。1時半から3時までの連絡会の中で、サークルメンバーに連絡すべき事項は「当日は、本番15分前から楽屋にあてられる研修室が利用できる」という1点の連絡のみ。
 それでも「この打ち合わせに各サークルから必ず1人出す」というのがセンター利用者会議の決まりなので、出ないわけにはいかない。「出席しないサークルは参加辞退とみなす」というのだから。

 毎年毎年「参加者が高齢化しているのでうんぬん」という話題が出る。私たちAダンスィングだって、最初の参加1983年から20年連続参加しているのだから、会員たちは皆30代から50代になっている。
 50代にはなったが、古いメンバーたちは、体型を維持し、ダンス技術は年々向上している。どんどん体重が増える一方、ダンス技術は年々衰えている私から見ると、すごい人たちだなあと思う。

 私はピルエットターンも、シェネも、どんどんへたになっている。去年の春、アティテュードターンの練習を続けて、大腿四頭筋広側筋を痛めて以来、「無理はしない」と決めた。無理しないで、楽な動きだけしていると、どんどん下手になっていくのだ。

 Aダンスサークルのメンバーたち、100歳になってもジャズダンスもロックもフラメンコも、かっこよく踊っているんじゃないかしら。

本日のひがみ:せめて体重だけでもなんとかせんと


2003/09/13 土 晴れ 988
日常茶飯事典>ひきこもり親と子役カウンセラー

 やっと、メール設定がやり直せて、ブラウザからメールが出せるようになった。しかるに、娘の批評通りに、おばさんの愚痴日記など誰も読みはしないのだった。それでも、みょうがさんが「ちえのわ日記」をサイトトップページにリンクをはって紹介してくださったら、少しはカウンターがまわるようになった。
 ドクター西村は「エイズ予防講演会」で学校を回り、高校生中学生から反響の手紙を受けることが自分自身の励みになると書いている。私たちは、お互いに通信し合っていくことで生きていけるのだと思う。

 私がこれまで50余年続けてきた、とじこもりひきこもり生活。我が子だけを相手にして、本音を誰にも言わない生活を続けてきた。

 娘は、この間の親子げんかでも言っていた。「自分の不満や愚痴を全部子どもにぶちまける親を持って、子どもがどれだけ負担になっていたか、わからないでしょ」と、怒りをぶつける。「親のために子どもがカウンセラーになって、必死で親を支えてきてやったんだよ。どれだけたいへんだったか、わかる?自分ができちゃった婚の結果生まれたと知って、本当にこの世に存在して良かったのか、親の人生を不幸にしたんじゃないかって悩んだり、子どもの世話のために母が仕事を十分にやれないことがないようにと、遠慮したり。本当にたいへんな子供生活だった。お母さん、私が愚痴の聞き役になってあげなかったら、今頃ぺしゃんこでつぶれてたよ。ちゃんと感謝してる?」
 はい、しています。

 私は、何度も一歩世間に足を踏み出そうとしては、また自分の殻にとじこもる生活を続けた。自分の親と姉妹、子どもたち、それ以外には日記だけが自分をぶつける相手だった。
 生まれて初めて、自分の気持ちを世間に晒すのだ。たぶん、メールがきたとしても、ちょっとでも批判や悪意のメールが混じっていると、たちまち落ち込み、また閉じこもりたくなってしまう。

 「学生と教師」という「ロールプレイ」役割を貼って話すことはできるのに、一人の本音の人間として話すことができない。これは、自己防衛本能が強すぎるからだと、心理の本では読んだ。傷つくことをおそれすぎる。非難や中傷を受けると立ち直ることができない。

 私のような人間関係形成不全症候群の大人というのは、どのくらいいるのだろう。はじめての人に会うときは、緊張して名前をいうのもこちこち。相当親しくなっても、自分の本音や気持ちを言うことができない。書き言葉で、手紙ならある程度自由にものが言える。文通が一番私に合っているコミュニケーション手段。メールは文通の「早い版」と思うから、メールはどんどん出せる。

 でも、54歳で姉は死んだのだ。私だって、54歳でもう死んだことにする。死んだ後、遺書についてどう言われようと、死んだ人は気にならない。う~ん、できるかなあ、死んだふり。

本日のねたみ:誰とでも、すぐ話ができる娘

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20150909
 日本からの留学生と話していて「私はコミ症(コミニュケーション不全症候群)だったんだよ。役者の仕事をするまで、他人と話すことが難しかった。役者をやってみて、他人と話すときは、ある役割を演じればいいってわかってからしゃべれるようになった。今はね、先生という役割を演じているから、あなたたちと話せる」と、打ち明ける。「コミ症、ウソでしょ。そんなにしゃべるのに」と、日本人留学生は笑います。

 コミ症の母親を持って、娘にはいろいろ負担をかけてしまいました。
 ブログ開設以来、グチはブログでぶちまけることが出来るようになったので、娘に愚痴ることは減ったように思います。

 ヤンゴン暮らしの「つらい、きつい、たいへんだ」というグチも、ブログコメント仲間にきいてもらうだけで、つらさが半減しました。春庭のぼやきに、励ましのコメントをくださった皆様に感謝いたします。
 つらい思いは「私がこれほどつらいのに、そのつらさを誰にもわかってもらえない」と、思うと、つらさが倍増します。「あなた、苦労しているのね。わかるよ、そのつらさ、でもがんばってね。応援しているから」と、言われると、つらさが半減するのです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の娘の夢は菓子職人」

2015-09-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150915
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記(3)2003年の娘の夢は菓子職人

 2003年三色七味日記9月の再録を続けています。
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2003/09/08 月 曇り 983
日常茶飯事典>娘の夢は菓子職人

 がんばって、HPをチェック。いろいろミスもある。なんとかアップできるまでこぎつけた。娘と息子が読んで、大丈夫なら公開する。

 娘は授業に出かける前に一部分を読んで検閲。単位制高校情報科出身の娘。パソコンの使い方を習っただけでなく、情報リテラシーについてたっぷり教育を受けた。その中で、インターネットと個人情報保護のこともさんざん教えられてきた。
 娘が介護体験のバイトをした、ということを書くときも、施設名はもちろん、地名も書いてはいけない。

 娘は、私の誕生日祝いとして、私が一番好きなチーズケーキを作ってくれた。誕生日の日には娘の集中授業があって作る時間がなかったから、誕生祝いを今日に延期していた。新しいレンジオーブンでつくる最初のケーキ。とてもおいしい。息子からは、今日学校で渡された「水泳区大会フリーリレー1位」と「メドレーリレー3位」の表彰状がプレゼント。「子どもが元気でがんばることが親には何よりのプレゼント」と言ってあるが、ほんとうにうれしいプレゼントだ。

 娘は、「一番やりたいことはケーキ作り。高校卒業したらすぐに製菓専門学校に行きたかったけど、お母さんはとりあえず大学へ行きなさいっていうし。お父さんがうちの家系には職人系は無理とか、ケーキ屋経営などやったとしても、経営の才能がない一族だからだめ、仕事としてじゃなく、趣味としてやれっていうから、あきらめた。けど、どうがんばっても、私ににデスクワークはできない。営業もできないし、企画もだめだし、やっぱりケーキを作りたい。製菓専門学校の授業料は高いから、とにかく大学だけは卒業して、何か仕事を持って、授業料の分は自分で稼ぎながらケーキの勉強を続ける」と、言う。

 今日のチーズケーキも、見栄えも味も、本当にどこのケーキ屋のものよりじょうずに焼き上がった。とてもおいしい。でも、誕生日にケーキを焼いてプレゼントするのと、ケーキ職人になるのでは、また違ってくる。
 教職科目の中には面白いのもあるけれど、娘には自分が教師に向いているとも思えない。

 小学校中学校を通して「絶対に恐竜発掘を仕事にする」と言っていた。シカゴ博物館の「スー」発掘の話などに夢中になっていた。しかし、恐竜→古生物→化石→地層→地学ときたとき、理科系教科の壁にぶちあたった。地学科は、理科系受験科目が2科目必要。

 娘は単位制高校で理科は地学と生物と化学の3科目単位をとったが、そのうち、化学は「お菓子と化学」という生涯教育共通科目で、前半50分でお菓子を作り、後半50分でお菓子作りに関連した化学を学ぶという教科だった。授業としては面白かったが、受験科目として使えない。「化学式とかの計算できないし、元素記号全部言えない」という。

 大学受験は文化系の科目ですむ地理学科に的をしぼった。自然地理学の中で地層の勉強もできるからだ。しかし、2年生までの勉強で、学問としての自然地理学を続けるのは自分の本来の方向ではないと、また壁にぶちあたった。どうやっても、理科系のことはわからないのだと。

 恐竜の次に夢中になったことがケーキ作りだった。毎週毎週ケーキを焼くことが、不登校中の娘の自己形成でもあった。

 この前。親子げんかしていたときは、「一番行きたい学科に入ったんじゃないから、もう大学もやめる」と息巻いていたが、今日は「一度入学して途中で放り出すのは、あとで絶対に後悔するタイプだから、卒業だけはする」と、思い直した。

 我が子に夢があり、やりたいことがあったら、親は応援したい。でも、どこの親も子どもが「テレビタレントになりたい」「映画監督になりたい」「ロック歌手になる」などと言い出したとき、「ああ、それはすばらしいね。どんどんおやりなさい」と言えるのだろうか。「夢はけっこうだが、現実を考えなさいよ」と、言ってしまうのではないか。自分の才能のなさを考えたら、子どもが特別な才能に恵まれているとは思えない。
 私も、「菓子職人になる」と言われても、テレビチャンピオンのケーキ職人選手権しか知らない世界だから、何もわからない。

本日のうらみ:夢をかなえてやりたいが


2003/09/09 火 晴れ 984
ジャパニーズアンドロメダシアター>ウォーターボーイズ

 この夏、我が家がはまったドラマは、『ウォーターボーイズ』と『すいか』のふたつ。
ウォーターボーイズ最終回を見た。

 『ウォーターボーイズ』は、「次は高原さんが、続けられないからやめるって、いいだすよ」とか、「次は田中がやめることになるけど、結局仲間のところにもどるよ」なんて、ストーリー予測がすべてあたって、最後の最後までまったく視聴者の予想を裏切らない展開構成。それでも3人とも楽しめて満足のドラマ。

 一つには我が家のウォーターボーイが「もう練習つらいからクラブやめたい、やめたい」と言いながらも、中学校秋期区大会でフリーリレー1位、メドレーリレー3位に入賞したということから。スポーツの中では水泳が一番できる、ということで、野球やサッカーボーイズとは違う親近感がある。

 しかも、競泳よりダンスが好きなウォーターボーイなので、「水泳部やめるなら、ぜったいに男のシンクロ同好会を作りさいよ」と、けしかけている。深いプールでやるシンクロナイズドスイミングは無理だが、唯野高校男子水泳部の「男のシンクロ」などは、浅い普通のプールで行う「リズムダンススイミング」という種類。これなら息子たちにもできそう。

 ドラマは、最後の15分間は出演者たちが真っ黒になった特訓の披露。先週の放映分では、特訓の前に収録した分と、後の分で、出演者たちの顔の色が全然違うので面白かった。

 我が家は『白線流し』とか、青春群像ドラマが大好き。ウォーターボーイズは、ドラマとしては妻夫木聡が主演した映画のほうが、ストーリーが間延びしない分、できはよかったと思うが、このテレビドラマも、とても楽しめた。

本日のねたみ:わたしもプールで踊りたい


2003/09/10 水 985
日常茶飯事典>誕生日プレゼントはホームページ

 Aダンス。発表会前最後の練習。まだまだ踊れていなくて、さあ、どうなることやら。先生の叱咤激励。激は飛ぶが、おばさんたちの足はなかなか飛ばない。

 娘は、バッグを買ってきて「遅れたけれど、誕生日のプレゼント」という。なんとかというバック業界では有名な会社の製品だという。私には、ダイソー100円バックで用が足りればいい、と思っているのだが、娘は「保護者会にいくときに100円バックなんか持っていったら、恥ずかしいよ」という。PTAお母様方は、グッチだエルメスだというのを持ってくるのだろうが、わたしにはそのバッグが本物なのか偽物なのかの区別だってつかないのだから、何を持っていても同じにみえてしまう。娘は模試監督のアルバイトをして稼いだ分全部つぎ込んで買ってきた。

 OCNサポートセンターに問い合わせながら、ついに「話しことばの通い路」をアップした。自分のブラウザでみて感激。半月間のパソコンはりつきの成果。
 娘がリンクを貼ったところには、たとえリンクフリーとあっても、お礼のメールを出すべきだとネチケットを説くので、とりあえず、これまでメールを出したことのある3ヶ所と、リンク先にメールを出した。

 HP用のメールの設定を変えようとして、またOCNサポートに連絡した。送受信者名を変えたいだけだったのに、新人君が先輩にたずねたずね「ちょっとお待ちください」と1時間くらいかかって、教えてくれたとおりにやっていったら、メール不通になってしまった。

本日のうらみ:新人君よ、君よりパソコンがわからない者もいるんだ

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20150915
 パソコンがわかっている人にはなんでもないトラブルでも、わからない者にとっては、パニック。事務所で使っているパソコンから、インターネットイクスプローラーマークが消えてしまいました。どうして消えたのかもわからないのですが、きっと私がなにか余計なことをしたために、消えてしまったのでしょう。もともとつながりにくいネットなのに。wifiモデムに3Gマークがでるとつながりにくく、2Gのときはアウト「H」マークのときはつながるので、らっき~。

 宿舎は比較的Hマークが多いので、メールでの連絡などは仕事関連でも、宿舎に持って帰って仕事をしてきまいした。授業教材作りでも、ネット利用のしらべものなどは宿舎でないとできないことも多く、仕事を持ち帰ります。
 土日もずっと仕事をしてきたので、ボスに代休の申し出をしました。16日水曜日、授業がない日、土曜日出勤をした代休をとること、敬老の日秋分の日の連休は、日本の休日暦のとおりに休ませてもらいたいと願い出ました。OKをもらえるなら、土日も働いた埋め合わせができる。
 ミャンマー暦どおりに働くなら、敬老の日も秋分の日も労働日。10月の満月の日は雨安居あけの祝日になるのですが。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の歴史リテラシー」

2015-09-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150913
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(2)2003年の歴史リテラシー

 2003年9月の日記を再録しています。

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2003/09/04 木 曇りのち晴れ 
日常茶飯事典>歴史リテラシー

 娘の帰宅時間。5時に集中講義が終われば、昨日と同じ6時すぎには帰宅すると思ったのに、7時をすぎても帰ってこない。女子中学生行方不明のニュースがあり、ちょっとでも帰宅が遅れると、心配してしまう。娘にしてみれば、1時間や2時間、大学生なんだから遅くなることはあるって、言うのだけれど。

 今日遅くなった理由は、明日行われるプレゼンテーションの準備をしていたから。「自分はこんな授業をやってみたい」という発表を、資料を提示しながら行うので、友だちと図書館で資料探しをやっていた。4人ひと組になって班を作ったので、まったく違う学部の人と知り合いになり、いっしょに資料探しをした、という。4人でグループを作り、発表などをさせるのも、私と同じ。

 自分が専攻する科目でなくていいというので娘は地理じゃなく、歴史の授業について発表することにした。中学校での授業を想定して、タイトルは「事実は事実じゃない」
 教科書に事実として記載されていることがらも、実は歴史教育の思想のもとにコントロールされていること、自分たちが教科書で習って、常識だと思っていることでも、違うこともある、などをわからせるという「歴史リテラシー教育」を、するつもりだという。


 娘の授業案。
 1,前ふりその1。シュリーマンの話。多くの人が「ただの伝説。物語」と考えていたトロイア。シュリーマンは常識にとらわれることなく、自分の信念でトロイアの実在を照明した。常識をうたがうこと。
2 中学生にとって、実在していると思えるコトガラをあげてもらう。UHO,ネッシーなど。それが本当にいるのかどうか、資料を集めさせる。これがメインの活動。漠然と「いるかもしれない、あるかもしれない」ではなく、具体的な資料を探索する。ネッシーなどは、目撃情報のほとんどが、誤認か、作為情報であることを確認させる。
3 「四大文明が文明の最初」と教科書では教わるが、それ以前の文明が各地で明らかにされてきたことなどを紹介。書かれていることをそのまま信じ込むのではなく、他の資料を探索したり、自分なりに情報を集めて、自分の頭で確認することの必要性を教える。


 この計画を息子に語って、「あんたがこういう授業を受けたらどう思うか、感想を言って」と聞く。
 息子は「ぼくたち、中1の最初の歴史授業が、こういう歴史リテラシー教育だったんだ。古事記日本書紀読んで、天皇の和名から、歴史事実と伝説をわけるという作業をやった。ハツクニシラススメラミコトとか、オオハツセワカタケルとか。」
 娘、「あ、それいいね。まえふりに使おう」   


 前ふりその2。戦前の歴史教育では、神武などは実在した人物として教えられてきたが、天皇の和名を検討することにより、津田左右吉は崇神以前の天皇の名が、実は奈良以降につけられた天皇名と発想がいっしょであることを明らかにした。伝説と史実は同じではないことを知らせる。

 「この集中講義、とても準備がたいへんで、調べることも多くて、3日間じゃ足りない。もっと先生の講義をききたい。でもゼミはすごい倍率で、たぶん抽選にはずれる」という。準備が大変で疲れるけれど、取り組むことは楽しいし、いやじゃない。つまらない講義は90分聞いてくると飽きるけど、この授業は3時間くらいあっと言う間にすぎる、という。

 午後、電子レンジが届いた。

本日のそねみ:もっと長い時間授業を受けたいと、学生に思ってもらえる講義


2003/09/05 金 晴れ 980
日常茶飯事典>集中講義に集中

 娘の集中講義、最後は泣き出す子もいたという。たった3日ではあっても、大学に入ってから一番充実して勉強したという気持ちになり、感激のあまり泣き出したのだと。
 娘の最終プレゼンテーションは好評で、「この人に教師になってほしいと思う」という学生同士の評価で、高得点を獲得したという。

 最後の質問タイムでは、娘が教育実習をしたいと願っている夜間中学についてたずねた。先生が定時制高校のことを質問された、と誤解したようなので、山田洋次の『学校』を例に挙げて、公立中学校の夜間クラスのことを紹介したら「君はコメント力がすぐれているね。相手がわからなかったことを、そうやって具体的な例をあげて理解を助けることができるのは、とてもいい」と褒められたそう。「わーい、先生に褒められた」と、自信がついた。

 「夜間中学については、私は詳しくないので、高野先生に質問するように」という回答だった。高野先生は去年「教師論」という科目を教わった先生。

本日のひがみ:私の授業を受けて笑いころげる学生は多いが、授業最終日に泣いた人いない


2003/09/06 土 晴れ 
日常茶飯事典>ジュラシックパーク

 午後、渋谷から原宿まで歩き、代々木体育館で開催されているジェラシックパーク展を見た。映画に出てくるジェラシックパークの安全版を楽しめるというふれこみ。
 恐竜の動くフィギュアを見て回る。娘と息子は大いに楽しんでいた。そしてグッズをいろいろ買い込んでいた。

 入場券は娘のおごり。娘は「入場料ひとり2800円は高いと思ったけど、でも、十分値段分は楽しめた」と高評価。去年、幕張メッセで見た恐竜博は、セイモスサウルスの巨大な骨格標本がウリで、学術的な展示としても、価値の高いものだった。今回のは、映画のなかで使われた動く模型がメインだから、たいしたことはないと思っていたが、恐竜大好きの娘と息子にとっては、学術も大切だけど、こういうエンターテインメントも楽しい、というところ。
 お寿司を買って帰る。

本日のつらみ:ちょっとチャチな気がしたが、娘息子は喜んでいたからよしとする


2003/09/07 日 晴れ 
日常茶飯事典>フリーリレー1位

 息子は中学校夏期水泳、区大会でみごとリレーが一位になった。フリーリレーが1位、メドレーリレーが3位。個人種目でも、平泳ぎ100メートルで息子は7位。
 やめたいやめたいと言っている水泳部だが、私は続けて欲しい。息子は14日の都大会が終わったら、退部すると言っている。本人の決めることではあろうが、どう考えてもスポーツ向きの性格ではない。

本日の負け惜しみ:チームプレイ苦手でもできる陸上、水泳。でもリレーはひとりでできない

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20150913
 台風による大雨で、道路が川になった、という日本国内ニュースをみました。ニュースになるのは、めったにないことだから。
 ヤンゴンの雨期、毎日集中豪雨のような雨が降ります。大雨が10分で小ぶりになったときはたいしたことないですが、1時間も集中豪雨のような雨が続あとは道路が川になります。よくあることだから、ニュースにはならない。川になった道路、膝まで水につかって歩く人もいるし、水でエンジンがやられて、4人がかりの人に押されて水から脱出する車もある。
 ヤ ンゴンは、エーヤディ川(イラワジ川)のデルタ三角州に成立した町ですから、低い土地が多い、という理由があります。
 東京は、台地と低地が組み合わさっているところなので、土地が低いところだったりするとたいへんですね。東京の住まいのある地下鉄の駅は標高3m。渋谷駅の地下鉄入口には標高20mと出ていたのを見て、同じ東京でもずいぶん高さが違うのだなあと思ったことがありました。

 ミャンマーでも北西部の山側地帯では、大きな洪水被害があったので、今も洪水被害者救済の募金活動が続いています。日頃寺院や托鉢のお坊さんに寄進をすることが日常生活になっているミャンマーなので、募金活動にも熱が入っていました。(募金活動に行くので、日本語の授業に出られない、という学生もいました。)
 一日の稼ぎが10000チャット1000円にしかならない人が、進んで100円を寄付しようとします。寄進をすれば来世が良くなるという信仰のためもありますが、人を助けたいという気持ちがとても強い国民です。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の介護体験」

2015-09-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150912
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記9月(1)2003年の介護体験

 2003年9月の日記を再録します。
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2003/09/01 月 曇り
日常茶飯事典>介護体験

 息子始業式
 午後、娘と買い物。電子レンジがこわれたので、新しいのを購入。圧力鍋もこわれたけれど、うちのと同じくらいの大きい容量のものはどの店にも売っていない。

 バーミヤンで3時ごろラーメンを食べた。
 食べながら娘の介護体験話を聞いて、おもしろかった。

 娘が配置されたのは、リハビリ訓練のために入院する老人保健施設。医療病院に入院したあと、病気は治ったものの、寝たきりになってしまったり、歩行や会話が不自由になった人がリハビリを受けて社会復帰するための施設だ。娘はリハビリの補助や食事介護を手伝った。

 娘の介護体験話
 最初の日は緊張しているし、老人たちの名前もわからず、仕事も何をやったらいいのかわからなくて、あと、4日間どうやって過ごしたらいいのか落ち込み、もうやめてしまおうかと思った。2日目には、指導のヘルパーさんが「私も四月から仕事を始めたばかりで、まだ失敗続き。あなたも緊張しなくていいよ」と声をかけてくれた。年齢も近いので仲良くなれた。

 お年寄りのひとりと仲良しになったら、その人が他の老人たちの名前や特徴を教えてくれたので、名前を呼んで声かけながら接することができた。「あの人はパニックになりやすい人だから、こんなふうに声をかけたらいいよ」とか、いろいろ教えてもらい、お別れのときは、記念だからいっしょに写真をとって、言われた。

 最後に失敗しちゃった。避難訓練があったんだけど、「お年寄りに『火事ですから下へ降ります』って、お知らせをして下へつれて行って」、と言われたので、訓練とわかっていると思って、言われたとおりに、「火事ですから下へおりましょう」と声をかけた。そしたらパニックになるおばあちゃんが、火事と聞いてパニックになっちゃって。最初に「今から訓練です。訓練です」って、繰り返してようくわからせてから、お知らせしなくちゃいけなかった。あやまったら、指導のヘルパーさんが、訓練ということを私がちゃんと言っておくべきだったって、かばってくれた。いい人たちの階でよかった。

 違う階に配置された人たち、いじわるなヘルパーさんに、「じゃまな学生たち」っていうふうに扱われて、とてもつらかったって。
 ヘルパーさんやリハビリ訓練士にしてみれば、自分の仕事をこなすだけでたいへんなのに、学生の指導までするのは、よけいな仕事になる。どこでも実習生訓練生の受け入れはたいへんなことだって聞く。

 「でもね、学生の体験や実習を受け入れている場所に勤務したのなら、体験指導実習指導も仕事内容のうちなのだと受け止めて、ちゃんと指導することまでが、お給料のうちだって、ヒィちゃんは思うよ。いじわるされた階に配属された人、もう二度と介護なんかやるものかって、思ったんじゃないかな。

 娘は「私、介護体験が始まるまでの2週間、どこにも出ないで家にひきこもっていたでしょう。介護が終わるまで疲れたり体調をくずしたりできないと思って、どこにも出かける気になれなかった。終わってほっとした。もう夏休みおわっちゃうけど、やっとお出かけモードになった。代々木のジェラシックパークイベントとか、行ってみたい」と語る。

 2週間のひきこもり。どうしてこの子は、遊びにも行かずせっかくの夏休みに引きこもっているのかと、心配したが、そんなに介護体験の心配をしていたなんて。そういう心配性で責任感持ちすぎるくらいのところが、いい目にでるときもあるし、中学のときの不登校のときのようにたいへんになることもある。

 中学校生徒会長の仕事をきちんとやりたいという思いの余り、生徒指導の教師と対立することになってしまった。この教師から不当ないじめを受けて精神的に追いつめられ、学校へ行けなくなったのだ。
 今回はいい経験ができたというので、本当によかった。

本日のうらみ:生徒会長だった娘をいじめた、生徒指導の教師よ。あなたと対立して不登校に追い込まれた子は、介護体験へ行くまでに成長しました


2003/09/02 火 曇り
日常茶飯事典>お下がり服とうさぎのアップリケパンツ

 娘は、前にスカートを作ったハイビスカス柄の布で、タンクトップを作る。私は一日HPビルダー。
 娘はミシンを踏みながら、昔話。  

 Tシャツからパンツまで従姉たちのお下がりしか着せてもらえなかった、子ども時代。キャンディキャンディとか、ピンクレディなど、一昔前のキャラクターがついている古びたTシャツを着ていると、男の子たちに「ビンボー、ビンボー」とからかわれて、本当にイヤだった。
 あるとき、「弟は、いいなあ。男の子は弟一人だけだから、前あきのあるパンツ新しく買ってもらえて」って言うと、柿実ママがうさぎのアップリケのついたパンツを買ってくれた。花のアップリケとか、りんごのとか。うれしくって、スカートはかないで、パンツだけで、学校に行きたいくらいだった。高校の家庭科被服で洋裁を習って、自分で服を縫えるようになって、本当によかった。などなど。

 私は服にいっさい興味がない。夏は裸でなければよく、冬は寒くなければいい。姉から妹から、姑からのお下がりを着ている。姉のお下がりは「ちょっと高級な服なのでおしゃれしていくお出かけ用」姑や伯母のお下がりは仕事用。「服装がいつも地味すぎる」と学生に評されているが、そりゃ、80代70代の人からのお下がりだから、ばあさん風なのはしかたがない。

 こういう母親に育てられて、服に興味がある娘はかわいそうだった。女の子は服を買ったりするとき、母親と「こっちのリボンの服とこっちのフリルのと、どっちがかわいいか」なんてことを話すのが楽しみなのだろう。私は本屋にしか興味がなかった。ことばは山のように買い込んだ。たぶん、語彙力は一般の主婦よりはあるだろう。だが、こどもにかわいい服を着せて楽しみにするという「フツーの喜び」には思い至らなかった。
 最後のタンクトップに肩ひもをつけるところで、ミシンがダウン。最後のところは手縫いになった。それでもかわいい服ができあがって、娘は満足。あしたからの集中講義に着ていくのだと。集中講義の授業は朝10時から夕方5時までぶっ続け。

本日のつらみ:ミシンもガタがきているけれど、圧力鍋も買わなきゃだし


2003/09/03 水 晴れ夕方雷雨 
ニッポニア教師日誌>エンカウンター授業

 午前中Aダンス。

 午後、講師連絡会議と、閉講式。閉講式の最中にごろごろと雷の音が聞こえてきた。ケンやイルと記念写真をとって、急いでバス停へ向かったが、ぼつぼつと大粒の雨。駅前ではどしゃぶり。

 東京に着いたら降っていないので大丈夫かと思って、南口の自転車置き場へ。自転車にのったらぼつぼつ。途中からどしゃぶり。びしょぬれ。
 娘も同じで、駅を出たときはぼつぼつ。自転車の鍵を開けているうちにどしゃぶり。びしょぬれ。でも、雷雨のため電車がとまったというから、止まる前でよかった。

 娘が受講している集中講義。大学に入ってから最高の授業、という。
 実をいうと、マスコミで売れっ子になり、テレビ出まくり講演しまくりという有名教授だと、本業の授業は手抜き一方。集中講義3日間なんて、テレビ出演時の裏話でお茶をにごして終わり、なんていうパターンが多いことを聞いていたから、手抜き授業だったらかわいそうと思って心配していた。しかし、集中講義申し込みのとき朝早くから並んだ価値があったという。

 一日90分授業午前2コマ午後2コマ勘定、3日間12コマ。2単位の授業。しかし、90分で区切ったりしないで、ぶっ続け。お昼休みもぎりぎり食べる時間だけで授業再開。
 講義の内容をきくと、一日目の午前中は、私が日本語教育研究の授業で最初の日にやっているエンカウンターと同じことをしている。クラスメート同士の名前を覚えること、自己表現すること。相手の話を聞いてコメントをつけること。

 日本語教師養成講座として設定されている科目だが、私自身は国語科教師と日本語教師を経験しただけで、教員養成の方法を学んでいない。手探りで自分なりによい教師を育てるために工夫してきた。その方法がまったくまちがっているものでもないとわかって、安心した。
 ただ、娘の先生の講義のほうが、はるかに手慣れていてかつこなれていて、学生の気持ちを引きつける方法とか、集中させる方法がうまいのだとわかる。娘がいうには「各県で教員採用が決まった人たちに、ぜったい三日間ずつ、この講義を受けさせた方がいいと思う。この講義を受けたのと受けないのじゃ、教壇にたったとき、全然違う」

本日のそねみ:わたしも来年、集中講義を科目履修生として受けてみたくなった

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20150912
 娘は留守宅を守り、おばあちゃんのお世話を続けてくれています。自分の歯医者通いなどもあるのに、おばあちゃんの病院のつきそいもしてくれて、ばあちゃん孝行な娘です。
 「3月に入院した3階のナースステーションに、おばあちゃんがこんなに元気になっていますって、挨拶にいこうと言ったのに、父は、そういうことしたくないって、わがまま言うんだよ。もう、ほんとダメ父なんだから」と、文句を言いながら、父とばあちゃんをつれて、元の入院病棟に挨拶に行ったのだと。「みんなばあちゃんの姿を見て、喜んでくれたんだよ」と。

 姑は、病院内の移動に、念のため車いすに座らせられていたのが不満で、会う人ごとに「ほんとは、ちゃんと歩けるのに、病院内だから、車いすで、、、、」と、元気に歩けることを主張していたそうです。

<つづく>
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ミンガラ春庭「日本の若者達 in ヤンゴン」

2015-09-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

 ショートステイ留学生修了式は、シュエタゴンパゴダが見える人民公園のほとりにあるレストランで。、
 
20150910
ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌>2015ヤンゴン教師日誌(4)日本の若者たちinヤンゴン

 教師は私に向いている職業ではないと思って中学校国語教師をリタイアしたのに、結局のところ大学非常勤講師を20年以上続けてしまったのは、留学生に日本語を教え、日本人学生に日本語教育学や日本語学を教えるという以外に、食べていく手段がなかったからです。とはいうものの、本当にやりたくなくて嫌ないやな仕事だったら、やはり転職するしかなかったのでしょうから、いやいやでも泣きながらでも、続けてこられたメリットはありました。
 毎年、新しい若者に出会えるというのもメリットのひとつ。まあ、「なんでこのようなアンポンタンに日本語文法を教えて、日本語はおもしろいと思わせるために膨大な時ね間を割いて授業準備をしてきたのか」という徒労感で一日を終えることもなきにしもあらずの20年間ではありましたが。
 
 ヤンゴンでも、面白い若者達に出会いました。
 まじめなビルマ語学習者である派遣元大学からの1年間留学生。素直で誠実ではあるのですが、その分、はちゃめちゃな破天荒さには欠ける。
 ショートステイで夏休みの間だけヤンゴンに滞在している、1年間留学生の後輩である学生たちも、同じようにまじめで誠実です。日本語教室にも参加してくれて、その誠実さがとてもありがたかったのは事実。でも、一方で、はちゃめちゃもやってほしいなあと、思ってしまうのです。

 この夏ショートステイした学生は、独立法人国立大学の学生のほか、私立大学アジア学専攻の学生達もいました。こちらは、渋谷あたりにたむろっているフツーの若者達でした。
 最初からステイを終える最後まで、「ここの寮のメシ、劇マズッ!」「早く日本にカエリテェ」と、ボヤキ続けていました

 どうして、ヤンゴン滞在を選んだの?と、尋ねると、「マア、タイとかだったら、ツアーもふつうにあるしみんな行ってるから、ミャンマー行ったって友達に言うと、ちょっとは珍しがられるかと思って」「いい経験になるから、とか先生に勧められて、はめられた」など。
 はめられた、というのは、「だまされて来ちゃったけれど、ヒデェ所だった」と、思っているってこと。ただ、彼らも「フツウに水が断水しないで使えるとか、電気が停電しないとか、日本で当たり前だと思っていたことが当たり前じゃない国もあるんだってことがわかった」と、言っていたので、それなりに経験したことが今後の人生によい影響を与えるだろうとは思います。

 私立大の彼らは、2年生女性ひとり男子学生3人、1年生男子学生ひとり。この1年生は、日本語教育の授業を日本のキャンパスでも受講しているというし、2年生には少し遠慮があるのか、国立大の1年生たちと「タメ」つきあいをしていました。日本語教室にもよく顔を出して、TA補助をやってくれました。

 私立大の4人、「オレたち、寮のメシ食えないんで、毎日シンガポールのカフェで食ってます」と、言います。大学に一番近い繁華街、レーダンセンターに出店した「ヤークン」というシンガポール華僑資本の店です。学食なら一食1500チャット150円ですむところ、ヤークンだと、一食5000チャット500円です。でも、彼らは渋谷での金銭感覚で暮らしているので、私のように「ヤークン、高っ!」なんて思わない。

 ミャンマー飯が合わないという私立大2年4人1年ひとりを、「とんかつ」 の店につれて行きました。1年生は「高っ!」と、言いましたが、2年生は、「飲み物も一つ。料理一品だよ。それ以上頼む人は、自腹だからね」という私のことばに遠慮なく、「ヒレカツ定食とジュース」など、注文。とんかつは、日本の「カツヤ」とか、牛丼屋のとんかつ定食に比べて半分の大きさだったので、トリ唐揚げやポテトサラダもも追加して、6人の食事代80000チャット8
000円でした。日本ではぜったいに学生におごったりしないけれど、まあ、ヤンゴンだから、いくら安月給とはいえ、破産することもない。
 国立大ショートステイの学生たちには、ヤークンで10人におごりました。ヤークン、高っ。破産寸前。かろうじて、サイフの中の紙幣が足りました。

 当地では、学生と先生がいっしょに食事することがあったら、ぜったいに学生が教師をもてなすのです。先生に払わせたりしたら、尊敬する先生になんてことさせるんだ、と、親も怒る。先生は、絶対の崇敬の相手なのです。

 ショートステイの間のビルマ語学習でも、私立大生たちは「先生の言っていること、最初から最後まで、ひとっこともわからないっす」と、言いながらの受講であったよし。国立大のほうは、ビルマ語が主専攻であるけれど、私立大のショートステイ留学生達にとって「夏やすみにヤンゴンですごせば、2単位もらえるって先生が言うからきただけ」と、言います。
語学授業はつまらなそうでしたが、木琴の一種パッタラーというミャンマーの伝統楽器の授業は楽しそうに受けていました。

 国立大のショートステイ留学生は、サウンという「ビルマの竪琴」を習いました。弦が、ドレミファの西洋音階とは違う並びで、だんだん高い音になっていったと思ったら、突然低い音の弦になったりして、調律が難しいのだそう。

 最後に合奏でもするのかと思って両方のクラスを見ていたのですが、それぞれが一曲ずつくらい習得して、それで終わりだったようです。
 私もパッタラーを習いたかったのですが、正規授業が終わったあとの3:30-5:00が、音楽特別授業で、私は日本語教室があるので、習うことはできませんでした。

 ビルマの竪琴を習う日本人留学生たち。


 8月28日金曜日に、20日間のショートステイ修了式がありました。ビルマ語をちゃんと学んだ留学生にも、飯マズッと言い続けた留学生にも、学科長から修了証手渡されました。
 その後、ビルマ語での修了スピーチ発表の段。私立大生たちは、とぼしい語彙をならべ、知っている限りのビルマ語をしゃべりました。「私の名前は○○です。大学2年生です。寮のミャンマーごはん、まずいです。シンガポールレストランのごはん、おいしいです。おわり」なんて具合。おいおい、ミャンマー料理の大盤振る舞いを学科長がしてくれたのに、「ミャンマーの飯、まずっ」は、それこそまずいんじゃないの?と思ったけれど、正直といえば正直。

学科長のおもてなしミャンマー料理


 国立大の学生たち、あらかじめスピーチ原稿を作ってきていました。それを読み上げるので、文は整っていたのだろうと思うのですが、おもしろみに欠けました。ビルマ語まったくわからないせいだろうけれど。
 人のこころにその内容が伝わったという点では、ビルマ語わからない私にも「ミャンマーの飯、まずっ」というスピーチのほうが実感がこもっていました。よっぽど香辛料と、油たっぷりの料理が合わない子だったのだろうと思います。

学科長から修了証を受ける
 

 私立大の2年生4人組みは「とんかつ」の店で一回おごっただけなのに、29日土曜日の帰国直前、午前中に、「オレら、これヤンゴンで買ったんすけど、もういらないので捨てていきます。先生、使いますか」と、カバーなしの羽だけ扇風機、ドライヤー、シャンプーの残り、洗剤の残りなどを講師室に運んできました。おお、ありがたや、使いますとも。
 ドライヤー、買おうかどうしようか迷っていたのだけれど、買わないでいてよかった。「これ、250ボルトで、日本じゃ使えないし、どうせ捨てる気でしたから」と、日本の私立大生、ぜいたくなことを言う。

 国立大のまじめな留学生もいい子たちでしたけれど、この私立大の「シブヤあたりにいそうなワカゾーたち」が、私は好きでした。

 「おなか壊したり、たいへんな思いもしたと思うけれど、あと、40年たったら、この夏のこと思いだしてね。きっとよい時間をすごした、って思えるだろうから。そしたら、あのヤンゴンで出会ったバーサン先生が、この夏の時間は人生での大切な時間になるんだよって言っていたなあって思い出してね。私はあと40年たったら、生きてないけれど」と、はなむけのことばを述べて、お礼の代わりにしました。お昼ご飯をおごりたくはあったのだけれど、コピーリース会社の人が、トナーを土曜日に届けるというので、土曜日出勤をして届くのを待っていたところだったので、事務室を閉めてしまうわけにいきません。11時というアポが何時になるのか、その日の都合しだいになるミャンマーアポなので。

 帰国して、電気も水もちゃんと使えて、トイレにはペーパーがある暮らしに戻ったあと、彼らがこの夏をなつかしく思い出す日がくるだろうか。いっしょに街を歩いて、歩道は穴ぼこだらけ、街はゴミだらけ。どぶ川の臭いに「この街、キッタネー、くせぇ」と文句を言っていたことも、きっと人生の糧になる。

<おわり>

次のヤンゴンだよりは月末に。
次回から2003年9月日記再録です。
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