春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2018年4月目次」

2018-04-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20180429
ぽかぽか春庭>2018年4月目次

0401 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(1)音無川桜めぐり
0403 2018十八番日記春爛漫(2)上野桜巡り博物館でお花見
0405 2018十八番日記春爛漫(3)桜吹雪忌17回忌
0407 2018十八番日記春爛漫(4)吹割の滝・やっちゃんとドライブ
0408 2018十八番日記春爛漫(5)モモと小野上温泉
0410 2018十八番日記春爛漫(6)故郷の川、発電所、さくら
0412 2018十八番日記春爛漫(7)モモと草津温泉
0414 2018十八番日記春爛漫(8)草津温泉さいの河原
0415 2018十八番日記春爛漫(9)葉山散歩

0417 ぽかぽか春庭アート散歩>展覧会拾遺(1)白寿記念堀文子展
0419 展覧会拾遺(2)川合玉堂展
0421 展覧会拾遺(3)アラビアの道ーサウジアラビア王国の至宝展
0422 展覧会拾遺(4)ユージン・スミス展ーミナマタ許しと祈り

0424 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春の歌を聞く(1)kotokotoコンサート
0426 2018十八番日記春の歌を聞く(2)女声合唱2018春in北とぴあ&女の春ふたたび
0428 2018十八番日記春の歌を聞く(3)楽友協会交響楽団2018春コンサートinトリフォニーホール
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ぽかぽか春庭「楽友協会交響楽団2018春 in トリフォニーホール 」

2018-04-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180428
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春の歌を聴く(3)楽友協会交響楽団2018 in トリフォニーホール

 私が聞いたアマチュアオーケストラの中で、演奏技量が一番だと思っている楽友協会交響楽団。春のコンサートはヒンデミットとブルックナーという地味な、というか私にはまったくメロディも思い浮かばない作曲家の曲だったので、行こうか行くまいか迷いました。絶対に途中で寝ちゃうと思って。
 音楽を聴いているうちに寝ちゃうのは、「脳波に眠くなるよい刺激が来たからで、脳のためにはとてもいいことである」と言われてきたけれど、演奏しているほうにとっては、寝ている人が会場に見えたらいやかなあと、躊躇されたのです。

 躊躇したけれど、出かけました。ヒンデミット&ブルックナー聞きに。
 錦糸町のトリフォニーホール。昼ごはん食べずに出かけました。コンサート始まる前に錦糸町公園の中にある「スポーツバーオアシス」の千円食べ放題ランチというのをめあてに行ったのに、閉店になっていました。
 トリフォニーホールと公園は駅の反対側にあるので、ぐるっと回っているうちに、いつものように道間違えて、ランチタイムはなくなりました。コンビニでおべんと買って、ホールの休憩コーナーで大急ぎで食べました。

 指揮:森口真司
 ヒンデミットの曲目は、『画家マティス』。
 初めて聞く曲で、何のイメージももっていなかったので、野獣派アンリ・マティスのイメージで、激しい曲調なのかと予想していました。けれど、この画家マティスは、全然別人。16世紀ドイツの画家マティス・ゴートハルト・ナイトハルト(通称マティアス・グリューネヴァルト)のことでした。野獣じゃなかった。マティアス・グリューネヴァルト、お初です。

 ヒンデミットが作曲したオペラ『画家マティス』の中の曲を抜粋して交響曲にまとめています。
第1楽章「天使の合奏」(Engelskonzert ) オペラ「画家マティス」の前奏曲に当たる。曲の初めにトロンボーンで提示される第1主題はドイツ民謡《3人の天使が歌う》からタイトルがとられている。
第2楽章「埋葬」(Grablegung ) オペラ「画家マティス」の第7場、最終場面への間奏曲に当たる。」
第3楽章「聖アントニウスの誘惑」(Versuchung des heiligen Antonius ) オペラの第6場、マティスが見る幻影の場面の音楽

 ハイドンが眠っている観客をおこすために、ときどき「ドン、ドン」と「目覚まし音」を入れた「驚愕第2楽章」じゃないので、半分は寝てしまった。いいんです。脳波によい刺激をもらったのだから。さて、天使が合奏している間に寝たのか、埋葬されて寝たのか。
 私の座った1階後方から見ると、会場はほとんどが、白髪薄毛、ハゲ。相変わらずクラシックコンサートは高齢者のお楽しみです。演奏者には若い人がどんどん増えるけれど、鑑賞者は眠ってしまう年寄りばかり。
 高齢者にとっては、脳波によい刺激を与えてもらったのだから、無料コンサート、ありがたいです。

 休憩中に休憩コーナーで、コンサート開始前には食べるのが間に合わなかったメンチカツをほおばる。

 次のブルックナー「交響曲第8番」。演奏時間80分の大作。めったに生で聞くチャンスがないのもうなずけます。演奏するほうも、相当な技量がいる曲だし、聞くほうだって、メンチカツ食べて体力つけても、やっぱり途中で耳がおやすみしました。ま、寝たんです。
 楽譜編集したノヴァーク版の第一稿が約90分で、第二稿が約82分だそうですが、第2版だって、長い。
 でも、耳のおやすみ合間合間に聞いていて、やっぱり楽友協会交響楽団の演奏はすごいと思いました。

 6月の室内楽も9月のコンサートも、聞こうと思っています。
 寝てもいいんですったら。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「女声合唱2018 in 北とぴあ&女の春ふたたび」

2018-04-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180426
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春の歌を聴く(2)女声合唱2018 in 北とぴあ&女の春ふたたび

 4月14日、友人が所属している合唱サークルのコンサートを聴きに行きました。ジャズダンスサークルの元メンバーふたりが出演するので、ミサイルママといっしょに聞きにいったのです。

 Cozさんはメゾソプラノ、T子さんはソプラノで、星野富弘詩集のうた『母の手』、なつかしの童謡集「早春賦、砂山、浜辺の歌、待ちぼうけ」など、今回はみなにもすぐに口ずさめる歌が披露されました。
 あいまに、指導している先生のバスバリトンの歌声で『さくら横丁』『城ヶ島の雨』『九十九里浜』、 また、ふたりのピアノの先生が連弾で『スラヴ舞曲』『エンターテイナー』を演奏しました.

 合唱を聞き終えて、ジャズダンス仲間のミサイルママとみやちゃんと3人でパスタ屋に入っておしゃべり。ふたりとも「お昼ご飯食べてきたんだから、4時じゃまだ晩御飯には早い」と言いながらも、ピザとスパゲティ2皿を分けて食べました。私は、ランチしようと思っていて昼ごはん抜きだったもんだから、いちばんたくさん食べました。

 ミサイルママのデート報告。毎週土曜日に会って、1週間分の報告をしあいながらご飯を食べるおつきあいが順調です。月に1回はスペシャルイベント。3月は房総半島でいちご狩りバスハイク、4月は目黒川の桜散歩とミサイルママ誕生日ディナー。
 デート写真、どれもたのしそうなふたりが写っています。
 そこで、e-Naちゃんからのデート用のプレゼント。東京国立博物館平成館での特別展『名作誕生』招待券ペアをあげて、「ふたりで美術館デートを楽しんで」と。
 お相手さんは「すごくやさしくて、おだやかな人」だそうで、美術館デートも仲良く楽しめそうです。

 みやちゃんも、お相手さんの写真をスマホで見せてくれました。「ハゲなのよぅ。でも、やさしいからいいの」と。
 みやちゃんも、つらい結婚生活のすえ、夫だった人はなくなり、ひとりで2女1男を育て上げました。今は一人で住み、仕事を続けています。
 「娘の出産が近いから、しょっちゅう泊りにきてね、そりゃ娘だからいいんだけれど、娘の旦那までくっついてきてご飯食べるから、いやんなっちゃう」と愚痴をこぼしながらもうれしそうです。
 子育て卒業で、最近ようやく気持ちに余裕が出てきたのだそうです。

 ミサイルママは、お相手に見せたという若いころの写真を私にも見せてくれました。ほんとうにきれいで、「これは、吉永小百合に似ている、あ、こっちは原節子みたい」と、水もしたたる美女ぶり。「これ、ほとんどが元夫が撮った写真なの」とミサイルママ。
 元夫さんもミサイルママの美形に惹かれて結婚したのでしょうが、残念ながら幸福な時期は長続きしませんでした。でも、そんな試練の日々を通り抜けて、ミサイルママもみやちゃんも「今、彼と楽しくすごしているからいい」と、かってのあまりうまくいかなかった結婚生活は気にせずに、「ふたたびの青春」をエンジョイしているところです。

 私だけが「玄冬」のままですが、いつ再びの春はめぐってくるかもしれず、パスタ屋まえの横断歩道で、『はる~は名~のみ~の風のさむさやあ~』と、春待つ心の歌を高唱したのであります。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「Kotokotoコンサート」

2018-04-24 00:00:01 | エッセイ、コラム

kotokotoコンサートポスター

20180424
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春の歌を聴く(1)Kotokotoコンサート

 4月7日土曜日、「Koto Koto コンサート ~二面の箏による春の共演」に出かけました。中国古筝を演奏する伍芳(ウーファン)と日本の二十五弦筝を演奏する久野木史恵のふたつの琴が共演するので「kotokoto」です。

 中国古筝奏者伍芳は、上海出身。上海音楽学校を首席で卒業後来日。日本で演奏活動を始めて、もう25年たちました。
 1995年の阪神淡路大震災で、京都大学の大学院で学んでいた伍芳さんのお姉さんがなくなりました。このお姉さんが私の友人の教え子だった縁で、私も伍芳の筝を聞くようになったのです。(友人からCDやコンサートチケットが送られてきて)
 伍芳は作曲家としても活動を続け、2015年には震災復興を願う曲「あのひとともに」を発表。
 
 二十五弦筝奏者久野木史恵は、東京藝術大学邦楽科卒業。在学中に宮城賞を受賞するなど、高い評価を受け、二十五弦筝曲の作曲者としても活躍しています。

 私は、姉が習っていた十三弦の琴をまねして弾いてみたことはありますが、二十五弦というのは今回初めて聞きました。

 ポスターに使われている写真。おふたりとも美しい。


 子供のころ、姉が習っていたお琴。触っちゃダメと言われていました。
 姉が出かけているときにこっそり袋からだして、琴柱(ことじ)調弦をドレミにして勝手に弾いていました。ほんとは、十三弦琴はシファぬきの五音階です。
 でも、二十五弦は、ドレミファ音階になっているそうです。ほうら、ドレミファ音階にして弾いたって別段問題なかったんだ。

 勝手に弾いていたことがばれたときは、喧嘩になりました。姉は「あんたはオルガンがいいって言ってオルガン買ってもらったんだから、オルガン弾いていればいいじゃないか」と怒る。子供の頃の私の反論「ちがうもん、私はピアノがいいって言ったんだけれど、おとうさんとおかあさんは、ピアノは我が家には分不相応って言ってオルガンにしたんだもん」
 60年前、田舎町でピアノを持っている子は「お金持ちのお嬢さん」だけでした。我が家はかつかつのくらしをする給与生活者。姉のお琴は両親ではなく、姉を溺愛していた伯母が買ってくれたのです。

 十三弦のお琴の糸は「一、ニ、三~十」までと十一からは「と、い、きん」というのは覚えていました。なんで最後の三つは「斗為巾」なのか知りませんでした。奈良時代に琴が中国から伝わったときの糸の名前が「仁智礼儀信文武斐蘭商斗為巾」だった最後の三つだけが残ったんですって。知らなかった。

 演奏は、春らしい曲が選ばれていました。
 最初の曲は合奏で、中国雲南省の民謡で「春が来た」という意味の曲。『弥渡山歌』(編曲:周成龍)

 伍芳独奏「桜のトンネル」は、姉を偲ぶ曲。姉が震災死して以後、伍芳両親は日本に来る気持ちになれないでいましたが、震災10周年のつどいのときにようやく来日。そのとき神戸で桜のトンネルの道を両親と歩いたことで、両親の心もしだいに悲しみから慰霊への気持ちに代わることができた、その思いを曲にした、と伍芳は曲の解説をしていました。
 春庭も亡き姉の忌日を「桜吹雪忌」と名付けていますから、桜に亡き人をしのぶ気持ちよくわかります。(2月末日の母の命日は「如月忌」と呼んでいます。これは、母が所属していた俳句結社の名が「きさらぎ」だったから)。

 伍芳さん作曲「永遠の道」久野木さん作曲の「海色変容」「彩光馬」独奏のほか、合奏で「アメイジンググレイス」もあり、1時間のミニコンサートでしたが、ふたりともすばらしい演奏でした。
 「まちかどコンサート」という地域ボランティアによる無料コンサートですから、軽く流すスタイルの演奏者もいるのかもしれませんが、おふたりの演奏はとても胸に響く心のこもった演奏でした。

 調律中のお二方


 アンコールは「ふるさと」

 演奏終了後、みな前に出てきて二十五弦筝を珍しそうに見ていました。写真撮影OKが出たので、私もパチリ。
 姉の十三弦琴は昔ながらの絹糸だったと思いますが、二十五弦の糸は現在では化繊糸、中国古筝の弦はスチール弦にコーティングがほどこされたコーティングスティール弦だそうです。

二十五弦筝

中国古筝


 美しい音色の琴演奏。春らしい曲にひたり、楽しい一日になりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ユージン・スミス展ーミナマタ許しと祈り」

2018-04-22 00:00:01 | エッセイ、コラム


20180422
ぽかぽか春庭アート散歩>展覧会拾遺(3)ユージン・スミス展ーミナマタ許しと祈り

 石牟礼道子が亡くなりました。(2018年2月10日90歳)
 石牟礼の業績を伝える記事の中で、水俣についての紹介もありました。
 決して忘れてしまってはいけない歴史を若い人にも伝えていくために、石牟礼さんはこれからも水俣の海にその魂を残して,椿の海を見守ってくれているだろうなあと信じています。

 私の世代の者が水俣を心にとめたのは、石牟礼さんの『苦海浄土』が大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたけれど、受賞を辞退した、というニュースによって、そして、ユージン・スミスの写真によってでした。

 『苦海浄土』は、水俣の漁師やその家族への聞き書きを石牟礼道子がまとめたノンフィクションだと思われての受賞でした。一般読者は、石牟礼が受賞辞退したのは、水俣病がまだ解決しておらず、「語り手」である水俣病患者たちこそ受賞すべきというのが石牟礼の気持ちなのだ、と感じました。

 石牟礼は「『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、と語り、様々な場所で「水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけ」と言いました。だから、受賞者は書くことができなかった患者自身なのだ、と。

 『苦海浄土』はノンフィクションではなく、石牟礼が水俣に関わる人々のことばを聞き取り、それを文学作品として昇華したものだということは、近年広く知られるようになりました。「書くことができない水俣病患者に代わって、その秘められた言葉の通路になっただけ」という石牟礼のことば、それがどれほどの「真実の文学」行為であるか、読めば読むほど、『苦海浄土』のすごさを感じます。

 1959(昭和34)12月にチッソ(新日本窒素水俣工場)が水俣病患者互助会に提示した見舞金(和解金)契約書では「子供のいのち年間三万円/大人のいのち年間十万円/死者のいのち三十万円/葬祭料二万円」
 給与生活者の1ヶ月給与平均が2万円に満たなかった時代でしたけれど、サラリーマンの年収30万だったとして、漁民ひとり死んだら。サラリーマンの年収1年分も払えば「腐った魚を食っている漁民」の命なんぞ買えるもんだ、とチッソ側は思ったのでしょうね。

 チッソ側の発言として「死んだ魚を食べる乞食がカネせびりに来た。腐った魚を食べるから汚い病気にかかる。伝染るから近づくな」などの暴言が記録されていますが、国が、水俣病の原因はチッソの廃液が海に流れ込んだ水銀中毒によるものと認めたのは、公式に水俣病と命名されてから10年以上すぎた1968年になってからのことでした。その間にも患者は増え続け、いまなお病気に苦しんでいます。

 ミナマタを世界に知らしめたのは、ユージン・スミスの写真によってでした。
 スミスは、1972年1月、千葉県市原市五井にあるチッソの工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たちに襲いかかった一団によってカメラを壊され、なぐられ視力低下となる被害を負いました。
 その後もスミスは写真を発表し活動を続けましたが、窒素工場での怪我から6年後の1978年に、59歳というまだまだ働き盛りの年齢で脳溢血により死去しました。
 直接には関係ないのかも知れませんが、命がけの水俣取材によって寿命が縮まったように感じてしまうのも、ものごとを客観的にみることができないシロートだからかもしれません。

 スミスがチッソ工場で暴力にみまわれた際の会長が江頭豊氏でした。(1971年にチッソ社長を退任し、会長に着任)
 江頭豊チッソ元社長の孫娘雅子嬢が皇太子妃になったことで、皇室では水俣問題はタブーなのかと思っていました。

 石牟礼道子は2013年7月、「鶴見和子をしのぶ会」にいらした皇后美智子様とお話しする機会を得、その後「胎児性患者に会ってほしい」と手紙で訴えました。

 天皇皇后夫妻が2013年10月に熊本訪問なさったときのこと。両陛下は水俣での「全国豊かな海づくり大会」に出席後、スケジュールには記載されていない極秘訪問として、福祉施設「ほっとはうす」を訪れました。施設長、加藤タケ子さんただひとりが立ち会って、胎児性患者金子雄二さんと加賀田清子さんと面会しました。

 この極秘訪問のあと、「水俣病資料館」を公式スケジュールとして訪れた両陛下は、水俣病について長い感想を述べられたということです。訪問は事前には極秘のことでしたが、資料館訪問の後、宮内庁が施設訪問があったことを発表しました。
 この訪問のあと、水俣患者の中から「恨みにうらんできたが、チッソをもう許そう、そうでないと自分がつらい」という声があがってきました。

 両陛下がともに胎児性患者のもとを訪れたのは意義深いことでした。「皇太子妃の問題があるから、訪問は無理」とされていたのを押しての「国民に寄り添う姿」は、水俣病患者にも感銘を残しました。代替わりが終わったのち、この姿勢を次代も引き継いでくれますように。

 皇后様は、4月15日の「石牟礼道子お別れの会」(千代田区有楽町朝日ホール)においでになり、長男の道生さんに「お悲しみが癒えないでしょうね。慈しみのお心が深い方でした。日本の宝を失いました」とお言葉がけをなさったそうです。道生さんは「患者さんに会ってくださり、母が感激していました」と伝えたということで、石牟礼道子にとっても、両陛下が胎児性患者と面会したことへの思いが深かったことが伝わりました。美智子と道子、すばらしい交流だったと思います。

 人の心の営みの中で「許す」というのは、最も困難で崇高な精神だと思います。私など、姉を誤診して死なせた医者に対して、未だに許せずにいます。
 水俣病の患者達は、病気を負わされ、チッソから迫害を受けたほか、地元の人々から「おまえらが騒ぐから、水俣の魚が売れなくなった」と、風評被害の責任まで負わされました。それでも「チッソを許す」という言葉が出てくるのは、ほんとうにすごい精神力だと感じます。

 1月3日に東京都写真美術館で見たユージンスミス展。正月2日3日は無料だと思って出かけたのに、ユージンスミス展は、無料公開にはなっていませんでした。通常料金一般千円65歳は600円。無料が好きな春庭ですが、ユージン・スミス生誕100年の記念の展覧会、見てよかったです。

 W.ユージン・スミス(1918-1978)は、グラフ雑誌『ライフ』を中心にフォト・エッセイを発表し、ドキュメンタリーフォトフラファーとして高い評価を得ている20世紀を代表する写真家です。

 展示はオリジナルプリント150点。初期から晩年まで、年代テーマ順に作品が俯瞰できました。
 「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人(シュバイイツァ-)」など数多くの優れたフォト・エッセイ。
 フォト・ジャーナリズムの力とはなんなのか、ということを示してくれました。

1946年「楽園への歩み」(ユージン・スミスのこどもふたり)

 この写真はユージンスミスの代表作として、以前に何度も見たのですが、今回はじめて、このふたりはスミスの実の子供二人だと知りました。第2次世界大戦取材で大きなけがを負い、その治療養生中の撮影だったそうです。

2018年1月3日の展覧会場


 ユージン・スミスが発表した水俣の写真の中の一枚。胎児性患者上村智子が中公審(中央公害対策審議会)の席に出たときの写真です。
 人間を金額で評価し、死んだ患者には30万円と値札をつける委員達に、患者達が求めたのは、「この子を見、触れ、抱け」ということでした。

1973年中公審での胎児性患者上村聡子


 尊い人間のひとりとして、智子ちゃんをしっかり抱け、それが患者達の願いなのだ、ということを、ユージン・スミスは一枚の写真で全世界に伝えました。

 ユージン・スミス生誕百年の回顧展。
 1月3日に見たスミスの写真のうち、鉱夫の写真も、助産婦の写真も、働く人々の映像はそれぞれにすばらしいものでした。水俣は枚数的にはそれほど多くはありませんでしたが、私にとってはやはり一番衝撃のあるものでした。

1972年チッソ工場からの廃液流出

 (「中公審での上村智子」と、「チッソの廃液」の映像著作権所有者はアイリーン・美緒子・スミス(1970年、ユージンと結婚。水俣取材に同行。のち離婚)画像引用が許されない場合は削除します。)
 
 20世紀の人間の歴史を考えるとき、水俣病を忘れてはいけないし、水俣を伝えたふたりの人、石牟礼道子とユージン・スミスも忘れてはならないと思います。

 水俣病患者が「チッソを許す」という声を出したことは尊いことだと思うけれど、「許す、しかし決して忘れない」ということも大事だと思います。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝展」

2018-04-21 00:00:01 | エッセイ、コラム


20180421
ぽかぽか春庭アート散歩>展覧会拾遺(3)アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝展

 日本最初の美術館として設立された表慶館の現在の展示は「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝展」です。2月21日と3月28日の2度観覧。(特別展ではないので、通常展観覧券で見ることができました。たぶん、サウジアラビア王国の宝を貸し出すにあたって、貸し出しの保険料とか運搬料とか王国が負担したからだと思うけれど。さすが石油大国太っ腹です)

 東京国立博物館の東洋館には、アジア一帯の美術品が地下1階から4階まで並んでいます。でも、どちらかといえば、西アジアよりも東アジア東南アジアのほうが展示品が充実しているように感じます。

 今回表慶館で展示されている「サウジアラビア王国の至宝」、これほどまとまっている展示で、長い歴史を振り返ることができる展覧会、私ははじめて見ました。

 現在、金沢大学の発掘隊がサウジアラビア国内の遺跡調査に入り、成果をあげているとのことで、先史時代の展示品もみどころ多かったです。
 アジア最古級の石器を含む旧石器群は、アフリカで進化してきた人類が、ユーラシア大陸へと広がっていく道を示しています。また、その後のメソポタミア文化、エジプト文化などと行き来する「アラビアの道」が、サウジアラビア沿岸地域につながり、さまざまな文化交流がわかります。

先史時代の発掘品 


 ローマヘレニズム時代になると、アラビア半島は、オアシス都市を中心に香料貿易などで栄えました。
 イスラム時代の展示で私に興味深かったのは、アラビア文字です。昔、アラビア文字のカリグラフィを体験したこともあり、文字の形成は、漢字もひらがなもアラビア文字もとても面白く感じました。

ダーダーン文字


アルアラーの息子アブドゥールジャッパールの娘アルガーリヤの墓碑(9世紀)


 装飾された文字がとても美しいので、どんな人生を送った女性だったのだろうなあと想像しながら、読めもしない文字に見入りました。

 春庭の墓、立派な墓碑などたちそうもない女の一生ですが、今のところ一人歩きも楽しめるから、ま、いいんじゃないでしょうか。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「川合玉堂展」

2018-04-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180319
ぽかぽか春庭アート散歩>展覧会拾遺(2)川合玉堂展

 田植えの季節。
 田植えをこのように美しく爽やかに描いた絵、川合玉堂(かわいぎょくどう1873-1957)のこの絵が随一と思います。

 川合玉堂「早乙女」1945年


 何度か見ている玉堂の「早乙女」ですが、去年12月に山種美術館で見たのが一番最近の観覧です。
 昨年の美術館巡り。川合玉堂没後60年の記念展を山種美術館で見ました。(2017年10/28-12/24)
 会期最終日になって、「あらら、招待券無駄にしたらもったいない」と出かけたのです。

 玉堂。愛知県に生まれ、14歳から京都で四条円山派の絵を習い17歳で画壇に出ました。23歳で東京に移住し、橋本雅邦に師事しました。画業、いろいろありまして、1940(昭和15)年に文化勲章を受章。戦後は、疎開先の奥多摩にとどまって自然を愛し家族を愛し、絵を描き続けた晩年でした。

 と、書くと、画家としてなんと平穏平和な一生だったのかと思います。
 芸術家というのが、往々にし波乱万丈だったり恵まれない不幸な生涯をすごすというのを数多く見てきたので、玉堂の生涯は栄誉に包まれ金銭的な苦労もなかった一生のように思えます。

 生まれは筆墨紙商の長男ですから、好きな絵を描く紙にも水墨画の墨にも不自由したことはなく育ったろうし、帝室技芸員、香淳皇后の絵の先生。ずっと東京で暮らしたけれど、戦争色濃くなると、東京空襲など無縁の奥多摩青梅に疎開。そのまま晩年を過ごしました。こんなにも「不幸のタネ」に無縁の人もいるんだなあ、という感じ。

 早世したり薄幸だったりする画家だと、そうだよね、神様がすばらしい才能を与えてくれたかわりに、幸せには恵まれなかったよね、なんて言いながら作品を見て回るけれど、玉堂、どこをとっても、翳りなし。

山雨一過1943山種美術館蔵



 「彩雨」は竹橋近代美術館で何度も見たし、「早乙女」も山種美術館で見ました。見ていなかった作品でも、今回、おお、これははじめて見たという衝撃を受けるような作はなかったです。

彩雨1940東京近代美術館蔵


 全体的に「美しく穏やかに」の気分で見て回り、静かな美の豊かさを満喫。
 芸術家だって、おだやかな幸福な人生を歩むひとだっているわよね。
 
 「早乙女」、現実には、東京都下は大空襲で焼け野原、という時期の作です。疎開先青梅近辺で見た田んぼを描いたのか、記憶の中の田植えだったのかわかりませんが、奥多摩青梅で1945年にこの明るく豊かな田植え風景を描けるのは、よほどの胆力か、または「紅旗征戎吾ガ事二非ズ(by定家)」であったのか。

 玉堂は、1944(昭和19)年7月に東京西多摩郡御岳(みたけ)に疎開。同年9月には同じ西多摩の古里(こり)村白丸(しろまる)に移転。1945(昭和20)年に東京牛込若宮町の自宅が戦災で焼失しているので、東京空襲の被害に無関心であるはずはない。
 しかし、玉堂の「早乙女」には、空襲の悲惨も、自宅焼失の衝撃も影を落としておらず、腰を伸ばして空を見上げている乙女は、笑みを浮かべてさえいます。

 敗戦後、1945年の暮れには御岳の家を「偶庵(ぐうあん)」と名付けて、終生ここに住みました。
 焼け野原の東京や数十万人の焼死者への鎮魂の思いゆえの明るい田んぼなのか、再生しようとする日本への希望に満ちた田んぼなのか、早乙女の笑顔は育つ青苗の成長を確信しています。

 どうも、私は、一生幸福にすごした恵まれた画家には、点数厳しいみたい。つまりは、才能と幸福の両方とも得た人に対して「どっちにも恵まれなかったもんは、どうしてくれんのよ」といういじましい気持ちが働くみたいです。ひがみねたみそねみやっかみ大得意です。

 な~んてひがんでいないで、素直に「早乙女」の田植えに励む乙女のように笑顔になりましょう。
 奥多摩青梅よりもちょい手前の多摩で、日本語の苗植え付ける田植えに励んでおります。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「白寿記念堀文子展」

2018-04-17 00:00:01 | エッセイ、コラム

白寿記念堀文子展ポスター

20180417
ぽかぽか春庭アート散歩>展覧会拾遺(1)白寿記念堀文子展

 堀文子は、1918年7月2日生まれ。今年の誕生日には百歳です。
 昨年11月から白寿記念展が始まり、堀文子ファン歴63年の春庭としては、行きたい行きたいと念じつつ、都内の美術館に比べて葉山は車を持たない身にはやはりちと遠かったのです。最終日になって「あらま、終わってしまう」と、ようやく出かけました。

 堀文子は東京市麹町に生まれ、女学校時代に自宅近くで勃発したニニ六事件に遭遇しています。女子美術専門学校(現女子美術大学)卒業後は、絵本の挿絵画家として出発しました。

堀文子若き日の自画像


 26歳のとき、外交官の箕輪三郎と結婚。34歳で第2回上村松園賞を受賞するなど、画業も順調でしたが、42歳のときに夫と死別。そこからが日本画家堀文子の第二の出発です。

 夫死後の空白を埋めるように1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出ました。3年間、エジプトやギリシア、ヨーロッパなどを巡る中で、日本画を再認識。帰国後は旺盛な創作活動を開始しました。47歳で初の個展を開催。49歳のときに大磯に転居し、1974年(56歳)からは多摩美術大学日本画科で1999年まで後進を指導しつつ作画を続けました。

 1987年にはイタリア・アレッツィオにアトリエを構えて、1992年にアレッツオ市で堀文子個展を開催。
 1995年(77歳)アマゾン川、マヤ、インカ遺跡へスケッチ旅行。
 1997年(79歳)ネパール旅行。
 1998年(80歳)ヒマラヤ、ペルーへ旅行。
 2000年(82歳)ブルーポピーを求めて、ヒマラヤ奥地まで旅する。

 などなど。海外での取材をもとにした作品も多い。

 ブルーポピー


 しかし、2001年にに解離性動脈瘤を患って以後は海外旅行に取材に出ることはできなくなり、広大な世界の旅からミクロの世界へ。顕微鏡を購入し、微生物を取材した作品を描くようになりました。

 代表的なミクロの世界「みじんこ」


 画文集もたくさん発表しています。
 今回の記念に買った堀文子の本(葉山から東京に戻る車中で読了)


 館内撮影禁止でしたから、UPした画像は、館内ショップで買った絵葉書を写真にとってUPしています。画質が悪いですが、本物を見たい方は、各地での展覧会や中島アートで開催される個展でぜひほんものを。また、堀文子の絵の画像は、ネットにたくさん出ているので、もっとよい画面で絵を見てください。

 「アフガンの王女」は、黒柳徹子がアフガニスタンで買って帰った民族衣装を着てモデルになった絵。『徹子の部屋』のセット壁に掛けられている絵です。

「アフガンの王女」(借り物画像)


私が買った絵葉書は、こちらの「アフガンの王女」
 モデルはやはり黒柳徹子さん。


 私が今回の展覧会で一番気に入ったのは「黄色くないひまわり」
 堀文子の画文集のひとつは「ひまわりは枯れてこそ実を結ぶ」というタイトルです。
 人が歩き続けて最後の力を振り絞っているように、ひまわりが擬人化されています。枯れてしまってはいるけれど、それでも進むことをあきらめないような、倒れる寸前のような。
 死は決してみじめな終末ではなく、「生涯の華々しい収穫のときだ」ということを「黄色くないひまわり」たちは大声ではなく、堀文子の「老いの衰えも神が命の終わりに用意して下さったものに違いない」ということばを伝えています。


 春庭自身は、枯れるだけ枯れて実も種もない人生ですけれど、この枯れたひまわりはとても心に残りました。

 堀文子百年の画業。ほんとうにすばらしいです。
 堀文子の語ることばも、ひとつひとつ心に残る。
 堀文子ファン歴63年の春庭にとって、またとない展覧会でした。たぶん白寿記念の次には百寿記念展があると思うので、また見にいきたいです。

<つづく>
コメント (4)
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ぽかぽか春庭「葉山散歩」

2018-04-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180415
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(9)葉山散歩

  3月25日、初めて葉山へ行きました。神奈川県立近代美術館葉山分館で堀文子の白寿展が開かれており、25日は最終日だったのです。

 逗子駅前から葉山行のバスは中高年おばはんでいっぱい。たぶんほとんどが美術館めあての人。満員で座れませんでしたが、いちばん後ろに立っていたら、葉山マリーナで降りたカップルがいて座れました。

 堀文子ファン歴63年の春庭。
 私が初めて堀文子の絵を目にしたのは、5歳のときでした。 
 5歳の誕生日(だったと思うのだけれど)に、こども雑誌ではない単行本の絵本をはじめて買ってもらいました。姉と共有といっても姉が優先だった雑誌に比べて、はじめて「私が優先的に抱えていてよい絵本」でした。
 それが、メーテルリンク原作堀文子挿絵の『青い鳥』でした。

 毎月購読していた子供雑誌で「ひとりでに」字を覚えたのは4歳ころ。1歳半年上の姉が伯母に読み聞かせてもらっているのを隣で聞いていて覚えたらしく「誰も教えていないのに」と不思議がられました。

 この私の宝物だった『青い鳥』が、実家の取り壊しと新宅への引っ越しの際、妹に「捨てるものと保存するもの」の仕分けをまかせたのが大間違い。古い絵本などは捨てられてしまいましたが、まかせたので文句も言えない。当時は、子育て、大学院での勉学、夫の自営業会社の手伝いの同時進行。目のまわるような日々、田舎に帰るのもままならない毎日でした。

 古い『青い鳥』、絶版になっています。
 私がインターネット検索をしたときは、ネットにも古本は出ていませんでしたが、去年、息子が検索をかけて探し出してプレゼントしてくれました。私が手に入れた後は、また欠品になっていて、もう手に入らない。よくぞ手に入ったと思います。1954年に買ったときは定価230円とある絵本。ネットでは17000円でした。

・メーテルリンク 原作 (著)若月紫蘭 日本語文 堀文子絵


 神奈川県立近代美術館葉山は、海辺の風光明媚な地にあり、美術館のレストランからも外の展望テラスからもきらきら輝く葉山の海が見えます。


神奈川県立美術館葉山


 最終日だから、ひょっとしたら大磯から堀文子さんが出てきて美術館にいるかも、と淡い期待をもっていたのですが、堀さんの体調はあまりよくないようで、「白寿展には顔を出せないという文面が美術館の壁にありました。

 一回り会場をまわりましたが、最終日の混雑が相当なものなので、ひとまず昼ご飯を食べてからと、館内レストランに入りましたが、こちらもあまりの混みように、「お待ちの方、お名前をお書きください」の欄に「記入中止」とありました。

 美術館外になにか店があるだろうと思い、海岸沿いの道を歩いてみましたが、サーフショップが開催している葉山住民コミュニティのフリーマーケットがあっただけ。そこで「有機なんたら」の小さなハンバーガーを買いました。500円。そりゃ葉山のお金持ちには有機野菜と特別栽培の小麦で作ったバンズは価値があるのでしょうが、私には、「腹のどこに入ったのかわからん」という大きさ。ケチだから2個買うこともせず、1個だけたべて満腹せずに美術館に戻る。

葉山の海辺


 3時近くになって、レストランの「名前をかいておく紙」が復活していたので名前を書いて待つ。シーフードカレーなど食す。(私には、カレー1900円は高い!)おいしかったけどね。そりゃ1900円でまずかったら怒るよ。


 ゆっくり食べて、4時前からもう一度会場を回る。4時半には入場うちどめになったので、もうそれ以上は観覧者の入場はないため。昼前とは大違いでゆっくり見て回れました。

 次回、堀文子の作品紹介。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「草津温泉さいの河原」

2018-04-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180414
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(8)草津温泉さいの河原

 草津温泉に一泊。
 檜風呂。ひとりで朝風呂につかる。

 草津節などひとふし。「♪お医者様でもくさづの湯でも、あァドッコイショ惚れた病はァなおりゃせぬわちょいなちょいな」
 草津の湯でも治らぬようなアツアツの恋とは無縁の人生やったなあ。しみじみと湯につかる。ってゆーか、ケニア赤道上での出会いは、温帯で暮らしているうちにさめてぬる湯に。草津の湯だと90度なんですけれど。

 檜風呂につかり、すっかり美人になって草津温泉の宿をチェックアウト。
 今回もまた、宿の人に「よく似てらっしゃる。双子ですか、姉妹ですか」と聞かれて、毎度のことですが、モモは「私のほうが5歳下ですっ」と答える。
 私は「そりゃ子供時代、5歳と10歳のころには5歳の差は大きかったけれど、68歳と63歳じゃ、もういっしょ」と言うのですが、モモは「5歳も若いのに双子なんて」と、不満そうです。

 湯畑の姉妹


 モモは「私は足が痛いから、車で待っているので、お昼ご飯までそこらを観光してきて」と言う。私も時々股関節が痛くなることがあるのだけれど、モモもちょっと歩きすぎると足が痛いという。年のせいか体重のせいかわかりませんが。私より5歳若いのだけれど。

 モモは自分で「噴火の影響でお客が減ってしまったような、はやっていなさそうな宿」を選んだくせに、「一晩中となりの子供が騒いでいた、2階の子供は階段をドタドタ上がったり下りたりしていて、うるさくて寝られなかった。車の中で寝て待っている」ですと。
 「赤ちゃんと子供連れが安心して利用できる宿」というのがウリなんだから、子供がうるさいのはお互い様。と言っても、自分の孫が走り回るのはうるさくないのだから、孫持ちの心理はわからん。私には孫いないから。 

 モモ長女とモモ孫ハルキ2歳と湯畑へ。まずは、湯畑にある「熱乃湯」での湯もみショー入場券はひとり600円。スキーしないのなら、草津の観光名所って、ここしかないんじゃないかしら。
 開始から20分はビデオ見せるらしく、私とモモ長女が遅れて入ったときにはビデオの草津温泉紹介が終わったところ。

 おばはんが出てきて、ゆる~く踊る。まあ、民謡踊りがキメキメのりのりでも困るが、私としては、自分が踊るなら大阪府立登美丘高校ダンス部のバブリーダンス踊りたい。踊れないけど。

 源泉90度の湯温を下げるために歌いながら各温泉で湯を揉んでさましていたのを、今では湯もみショーとしてやっています。今は湯温調節は水混ぜて終わりですけれど。

板で湯を揉んで温度を下げた


 湯もみ体験というのがあって、客のほぼ全員がやってみていました。モモ長女とハルキも体験。


 湯畑から10分くらい歩いて、さいの河原を散歩しました。
 仏教用語では「賽の河原」ですが、草津温泉では「西の河原」と表記しています。温泉街の西にあるから、と説明はありましたが、昔は「賽の河原」と書いてあったみたい。

 父母より先に死んでしまった子供は、親を嘆かせた罪により地獄に落とされてしまう。賽の河原で泣きながら「ひとつ積んでは母のため、ふたつ積んでは父のため」と歌い、石を積み上げる。積み上げが完成すると救われて極楽往生ができるのです。一日中がんばって積み上げても、地獄の鬼が来て、せっかく積み上げた石を崩してしまうので、また最初から「ひとつ積んでは、、、」と永劫に続けます。しかしあるとき地蔵菩薩がやってきて、この子らを救ってくださる。それが賽の河原です。

 しかし、それじゃあまりに暗いイメージだ、と思った人々がいました。あるとき、草津温泉のどこからか「西の河原」に改めようじゃないか、という話が出て、よくわからぬうちに「西の河原」と書いてさいのかわらと読ませることになりました。ぅ~ん、ようわからんが、「地獄で子供が泣くんじゃイメージが悪い」ってなことでイージーに表記を変えたのだとすると、これはとんでもなく罰当たり。
 むしろ「幼い子供も地蔵に救われるパワースポット」として売り出したほうがよほどワケーモンにはうけるだろうに。

 西の河原にあるビジターセンターへ寄りました。西の河原の川の中に「真緑」になっているところがあって、それは何なのか知りたかったからです。
 センターの受付おじさんが「それはイデユコゴメという植物です」と、教えてくれました。電子辞書をひいて「出湯粉米」という漢字も教えてくれる。「それ以上のことは電子辞書では出てこないので」というので、「名前がわかれば、自分でネット検索するから大丈夫」と、お礼を言って出てきました。



 出湯小米は、温泉藻の一種。高温にも強酸性にも耐える頑丈な細胞膜を持った微生物です。湯中にも、温泉の蒸気がかかる岩盤でも生息できる。
 みんな、こんな緑色のものを見ても、特に不思議には思わないらしいけれど、私は出湯小米についてよ~く知れて、草津温泉に来た甲斐がありました。

 「温泉藻が温泉環境で生育する為に保持している耐熱性や耐重金属性といった特徴を利用して、その遺伝子を高等植物に組み込むなどの応用的研究も行われている」というのを見ると、そのうち超高温にも放射能にも耐える遺伝子を組み込んだ人間なんか作り出すマッドサイエンティストが出るだろうなあとSF的感想。

 昼ご飯は、モモさんの知り合いから紹介された「そばきち湯畑店」でマイタケ天ぷらそばを食べました。店主とおしゃべりしていたモモがレジで会計したら、消費税分をおまけしてもらったんだって。

 下界にもどり、道の駅で買い物をして駅へ。
 駅にSLがやってきました。お客が見えないので、すいているなら乗りたいと思ったら、試運転中でした。


 SLがホームから去ったら、特急草津が入線。
 

 「特急草津」で東京に戻る。鈍行乗り継ぎで帰京するより1時間早く赤羽駅に着きました。ほう、お金持ちは1時間を特急券1500円で買うのね、と久しぶりに特急に乗った「いつもは鈍行派」は思いました。私は1時間を1500円で買わねばならぬほど忙しくはないけれど、三泊四日、温泉でのんびりした分、明日からはまたせっせと働きます。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「モモと草津温泉」

2018-04-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180412
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(7)モモと草津温泉

 4月2日夕方、妹モモ、妹長女とその息子(2歳)の4人で、草津温泉へ向けて出発です。
 モモはNPO活動でいろんな知り合いがいます。草津の知り合いから「草津は、1月の白根山噴火でスキー客が亡くなったので、温泉も不振の宿がある。泊りに行ってあげて」と呼びかけられていたのです。

 私も、東北の大震災以来、ボランティアなどには参加できないまでも、三陸や福島の産物を買うことで復興支援をしています。桃や梨は福島産を買うし、若芽は三陸産、池袋に行くときは宮城県アンテナショップで牛タンランチを食べるという具合に「買い物で支援」をしてきました。復興には産業の振興も必要ですから。

 モモは、「草津も大きなホテルはあまり打撃はなかったけれど、小さなペンションとかが予約キャンセルもあったらしいから、今回は、できるだけすたれてそうな宿に泊まるからね」と、素泊まり5000円というかなり古い小さな宿を予約しました。

 想像以上に「かなり古い」宿でした。しかし、夫婦が赤ちゃんを育てながら経営しているという「赤ちゃんやこども歓迎の宿」というコンセプトで、月曜日の夜なのに満室でした。
 「火山爆発からの復興のために、泊り客が減って困っている宿に宿泊する」なんていう志からみると、「こんなにはやっている宿なんだ」と思いました。



 春休みがもうすぐ終わりそうという日々を、家族で気兼ねなく安上がりに行楽するにはぴったりの「赤ちゃん子供歓迎の宿」だったのだと思います。
 モモの孫ハルキ君も、食堂のプレイコーナーが気に入ったようで、滑り台やボールプールで遊んでいました。

 モモは鼻がいいので、「湯畑(源泉湧出地)が近いので、宿の空気も硫黄のにおいだね」と言います。私はにおいに鈍感なのでほとんど気になりませんでした。

草津湯畑周辺温泉街


 素泊まりの宿なので、まずは晩御飯へ。湯畑の周囲をぐるりと一周。
 昔々、ここにも来たおぼえがあるのですが、伯母を連れてきたのだったか、仕事仲間ときたのだったか、まったく記憶がありません。ただ、湯畑は昔と変わりないなあと思ったことでした。
 草津温泉は、毎分32,300リットル以上1日にドラム缶約23万本分もの日本一の湧出量を誇る源泉湧出地です。お泊まりした宿も、源泉掛け流しで、豊富な湯量を楽しめました。

源泉湧出
 

 源泉湯畑前にあるお好み焼き屋で食べました。
 私は、お店の人が焼いてくれるならいいけれど、自分で焼くお好み焼きはあまり得意じゃない。ま、今回はモモと半分ずつ焼きました。モモ長女は、元気良すぎる息子のハルキがやけどしないよう見張っていなければならないので。
 今回はふたつのヘラでひっくり返すのも上手にできて、おいしかったけれどね。
 
 宿の温泉は、家族貸し切り風呂が3つ。石風呂ふたつと檜風呂ひとつ。
 夜は石風呂。朝はヒノキ風呂に入りました。


 草津温泉。
 群馬県民は「くさづおんせん」と呼んでいます。「草津くさつ」は滋賀県にあり、おらンとこのは「くさづおんせん」
 しかし、よそモンたちはJR駅の表記に「くさつえき」と仮名ふってしまうし、しまいには町の名前も公式には「くさつ」らしい。それじゃ、滋賀県草津市と同じになっちゃうよ。
 地元民はあくまでも「くさづ」と言っているけれど、くさづおんせんと打ち込むと「句さづ温泉」と変換されてしまいます。

 ♪くさづ よいとこ一度はおいでドッコイショ。お湯のなかにもコリャ花が咲くよチョイナチョイナ。 

 江戸時代の温泉番付でも常に東の大関(当時は横綱はなし、すなわち日本一)の名湯とされてきた草津温泉。宿のご主人に聞くと「スキー場はキャンセルがあってたいへんみたいだったけれど、温泉のほうはあまり影響はなかったです」というので、復興支援とは関係なかったみたいですけれど、いずれにせよ、お湯の中にも花が咲いて、お肌すべすべです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ふるさとの川と発電所と桜」

2018-04-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20180410
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(6)ふるさとの川と発電所と桜

 妹モモが、草津温泉にいっしょにいくモモ長女と孫を迎えにいく間、私はふるさとの川べりを散歩することにしました。

 川べりの桜


 利根川の支流吾妻川は、長野県と群馬県の県境に源流があり、群馬県北西部を流れています。
 草津温泉や万座温泉などを起源とする強酸性の水が流れ込んでいたため、昭和中期まで、水質はきわめて強い酸性を示していました。周囲の鉱山から硫黄分や鉄分も流入するため、私がこどものころ遊んだ吾妻川の河原は、大きな石小さな石、すべて赤く染まっていました。私は世の中の河原というのは、全部ここのように赤いのだと思って育ちました。

吾妻川


 この橋の先には行ってはいけないといわれていました。

 昭和中期から草津町の中和工場で川に石灰を注入することになり、今では河原は赤くないのです。川の水質のためには良いことなのでしょうが、今ではうっすらほんのり赤い程度になった河原を見ると、夕焼けに赤く燃え上がっていた河原の石たちをもう一度見たい気がしてきます。こういうのが郷愁というものでしょう。
 赤い大きな石をテーブルにして、小さな石を椅子にして、姉と妹とおままごとをして遊んだり、石をぴょんぴょんを渡り歩いたりしました。一番大きな石は象さんくらいあると子供たちは思っていて、勝手に象石と呼んでいました。
 60年たった今では、大きな石は何に使われたのか、業者が運び出してしまい、小さな石が残っているだけ。

 子供のころの川遊び、楽しかった。小さい石だけ残されました。


 この川で泳いでよかったのは小学校1年生までで、水質悪化により川での水泳は行政によって禁止されました。日本の川が公害などで一番汚されていた時代でした。私も、トイレの汲み取り車が、ホースでタンクの中身を川に捨てているのを目撃したので、河原の石で遊ぶ時も、川の中には入らないよう気をつけるようになりました。

 2年生からは毎夏鎌倉や湘南、新潟の鯨波海岸へ出かけるようになりました。群馬は海なし県ですから、海へ行くのは夏の一大イベントでした。
 小学校4年生のとき学校にプールができ、私は子供雑誌付録の「ひとりで泳げるようになる本」という冊子を読んで、本の通りにやったら泳げるようになりました。

 泳げるようになると、毎年出かけた鯨波海岸でも波打ち際でぱちゃぱちゃやるだけでなく、海で泳ぐこともできるようになったのですが、小学校6年生のとき、大事件勃発。鯨波海岸の沖で潮流にさらわれて、どんどん沖に出てしまい、見知らぬ人に助けられて浜辺へ戻されました。
 助けてくれた人は、家族に「あのまま潮流に流されるとウラジオストックへ行ってしまう」と説明したらしいのですが、私はひとりで立派に泳いでいるつもりだったので、戻されたのはちょっと不満。お礼の言葉を言うにも、父に促されてしぶしぶでした。今では命の恩人にちゃんとお礼を言うべきだったなと反省しています。
 桜を見ていると、小さいころのことが次々に思い出されてきます。

 川沿いの桜道。


 桜のトンネルの下で。


 吾妻川には、水路式の発電所が17か所あります。利根川に合流する前の最後の発電所がこれ。

 水路式発電所




 排水口。水は吾妻川に流されます。


 発電所の桜は、子供のころの私のひとり花見散歩のお気に入りコースでした。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「モモと小野上温泉」

2018-04-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180408
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(5)モモと小野上温泉

 
 4月1日夕方、やっちゃんに妹モモの家まで送ってもらい、4月2日と3日は、モモと温泉めぐりをしました。小野上温泉と草津温泉のはしご。

 ももの運転で小野上温泉へ。
 市立民営の温泉宿泊施設「小野上温泉SUNおのがみ」に泊まりました。


 sunおのがみは、「美人の湯」というお肌つるつるになる泉質の温泉が売り物。
そのほか、小野子山へのハイキングも「足の弱い人向け野仏コース」というのもあるというので、次回は歩いてみたいと思いましたが、今回は温泉三昧。きっと美人になれるわ。

 小野上温泉の北側に見える山。火山の溶岩が流れていかずに、山頂にぼとんと固まった岩が特徴。


 今回はちょい節約コースだったので、晩御飯は一番品数が少ない「あゆ塩焼きコース」朝ごはんは「湯豆腐」


 小野上温泉の南側には吾妻川。道路沿いの桜も満開でした。


 4月2日、小野上温泉をチェックアウトしたあと、私の希望で前橋市へ。
 草津温泉に向かうには逆コースなのですが、前橋公園の中に建つ臨江閣を見たいと私が希望したのです。
 前橋公園の桜も満開。

 前橋グリーンドーム(競輪場)の桜


 臨江閣を見学して帰り道に、昨年父の法事の夜にお泊りした城山荘の外観が見えました。昨年宿泊したときは、到着したときはもう夜だったので、こんなお城の外観だったとはわかりませんでした。


 臨江閣は後日ご紹介。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「吹割の滝・やっちゃんとドライブ」

2018-04-07 00:00:01 | エッセイ、コラム

吹割の滝

20180407
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(4)吹割の滝・やっちゃんとドライブ

 4月1日、ぽかぽか陽気になりました。
 やっちゃんとルートインホテルで朝食バイキング。山盛り食べてから、出発までの間に、女子高同窓会のまとめ役ひさちゃんがホテルまで訪ねてきました。
 2014年に東京ミニクラス会で会って以来4年ぶりです。ひさちゃんは相変わらず、女子高同窓会の役員他、地元の各種委員会などに参加、絵手紙の講師もしているほか、ボランティア活動多数こなしています。

 やっちゃんに言わせると、校長だったご主人の年金と教員生活38年だったひさちゃん自身の年金を合わせると使いきれないくらいの収入なので、あれこれやっていないと体がなまるのだとか。おまけに、教員生活40年60歳で退職したひさちゃん母堂は、以来43年間103歳の現在まで高額年金受給者。毎年お正月には一族郎党集めてお年玉を配るのが生きがいの母堂ですって。ひさちゃんは、68歳でまだお年玉もらう身。うらやまし。

 ひさちゃんは、昨日まで一家で伊豆へ旅行していて明日からはご主人と出かけるとかで、今回のドライブには同行できないけれどちょっとの間でも会いたいと、ホテルに顔をだしてくれたのでした。多くが教員になった3年6組のクラスメートですが、同じ教師でも、非常勤講師の私は、還暦後の生活も非情な勤務。涙。

 本日の行き先は吹割の滝。
 吹割の滝は、沼田市片品渓谷にある幅30m落差7mの滝です。1936年に天然記念物&名勝に指定されています。
 私は「地元民だったのに見たことがない」と言って、やっちゃんに連れて行ってもらったのですが、滝を見たら「前にも見たことがある気がしてきた」
 たいていのことは忘れてしまう私なので、吹割滝も見たことを忘れていただけでした。

 沼田市へ向かう間にも、桜満開の道を通って、快適なドライブでした。
 沼田市は一番低いところで250M。山岳地帯は2000Mになりますので、前橋市や渋川市に比べて気温が低いので、桜はまだつぼみでした。

 山は雪をかぶって真っ白に輝いていました。


 橋を渡って片品渓谷へ。


 片品渓谷の枝垂れ桜はまだつぼみ


 片品渓谷


 吹割の滝。地名解説などでは「ふきわれのたき」と仮名がふってありますが、地元の人たちは、「ふきわりのたき」と呼びならわしています。人の力で「割りました」ではなくて自然の力で「割れました」という地形なのですから、「ふきわれ」のほうが文法的には正しいのかもしれませんが、私は「ふきわりのたき」派。

 鱒飛の滝。水量がすごい。


 900万年前に起こった火山の噴火によって火砕流(溶結凝灰岩)が冷えて固まった岩塊が、片品川の水流によって削られ、V字谷ができました。片品渓谷です。
 1万年前にはこのV字谷の中に、川が深くえぐれた割れ目ができました。この、幅20mほどの溝が数十m続く割れ目部分に、川の三方から水が流れ込みます。下から見上げると、あたかもモーゼが海をふたつに割ったときのような景観が見られるのです。

 ただし、この両側に割れている部分をのぞき込めるほど滝に近づくことはできません。ロープが張ってあります。
 みな、この割れている部分を見たいのですが、対岸の「観瀑台」が現在のところ通行止めになっているので、割れ目は見えそうで見えない。見えない割れ目を見たくなるのは、人間心理といえましょうか。(あは、男性に限るか)

 私のチェックによると、観光客のうち1割の人はこのロープを超えてぎりぎりのところまで近づいていました。水難事故も起こっているそうなので、よい子はまねしないでね。私は、やっちゃんがいなければ、きっとロープを超えていたでしょうが、今回は自粛。やっちゃんは、県の乗馬連盟審判員です。反則を見逃すようでは審判はできません。

割れ目がよくわかる上空からの撮影写真(借り物)


 今回は片側からの景観のみでしたが、雪解け水によって水量が増しているので、すごい迫力でした。水量が多く浸食力も強いので、1年に7センチも割れ目が上流に移動しているのだそうです。

 水の力がよくわかる甌穴。
 甌穴(おうけつ)とは、河底や河岸の岩石面上にできる円形の穴のことです。英語ではポットホール(pot hole)。 河底や河岸の表面の周囲より硬さが弱い割れ目などに礫が入り、水流による侵食でくぼみができます。このくぼみの中の礫が渦流によって回転し、周囲は丸みを帯びた円形の穴になります。吹割の滝の河原にも甌穴がありました。

 滝の流れの途中で甌穴を作っているところ。


 渓谷の両側は、奇岩が並んでいます。

 岩壁をながめている時、やっちゃんが知らぬ間に撮ってくれました。細く見える角度でのカットなので気に入りました。やっちゃん、ありがと。


 元高校理科教師のやっちゃんは、何度も見ている滝ではなく、溶結凝灰岩に包まれた石英など、岩石標本になりそうな石を探していました。


 きのこクラブのメンバーとしてきのこ標本を作るのと岩石標本がやっちゃんの宝物ですが、ひとり息子さんはこのやっちゃん宝を見て「全部ゴミ」と言っているとか。

 川辺は遊歩道が整備されています。


 滝の迫力に満足。
 

 やっちゃんは、秋は水量が減るけれど、両岸の紅葉が見事なので、また連れてきてあげると言います。袋田の滝も見ていないし、那智滝も見たいですが、吹割の滝もまた来たいです

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「桜吹雪忌17回忌」

2018-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180403
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春爛漫(3)桜吹雪忌17回忌

 2002年に姉が亡くなり、今年は17回忌です。
 姉の長女とその子供たち4人、姉の次女とその子供2人。姉の孫たち6人がみな元気に育っていることを報告できました。長年介護施設で働いてきたシングルマザーの姉の長女が介護福祉士の資格試験に合格したことも報告できました。高齢者施設で働いてきたので、障害者福祉については知らないことも多かったので、猛勉強したとのこと。よくがんばりました。

 両親と姉が眠るお寺の山門と桜


 妹モモと妹長女とその息子、姉の長女と子ども達4人で、お寺での法要とお墓参り。どこも桜がきれいに咲いていました。姉の次女は子供が具合悪くなり、参列できませんでした。4歳と2歳なので、保育園からもらってくる病気も多い。

 姉が亡くなった2002年も今年と同じように、桜の開花満開がとても早くて、姉が最後のお花見をして永眠したことなどを話して、お斎の間も思い出話はつきませんでした。お斎は精進料理ではなく、焼き肉。姉長女は「ママはお肉が好きだったんだから、これでいいの」と爆食。妹、私、姪の体重合わせたら、すごいことになっています。あいことばはダイエット。

 女子高校クラスメートのやっちゃんにメールで連絡して、「お斎が済んだら会おう」と約束してありました。
 やっちゃんとは、ヤンゴン旅行のあとも、赤坂迎賓館見学などいっしょに出かけていたのですが、故郷で会うのは久しぶりです。

 やっちゃんは「3月31日と4月1日はいっしょにすごそうと思って2日間あけておいた」と、駅からお寺への送り届けもやってくれました。
 お斎が済んだあと、ルートインという国道沿いのホテルをまで、モモにおくってもらいました。

 やっちゃんが予約してくれたホテル。駅から一番近いところ、と私が希望をだしておいたのですが、やっちゃん間違えて、ルートインが一番駅に近いと思ったのです。駅に一番近いのは、エクセルインでした。やっちゃんは「1日の朝すぐに出発したいから」と、いっしょに泊まることにしたのです。
 
 3月31日夕方、やっちゃんと、まずは水沢観音へ。
 水沢観音は坂東三十三箇所第16番札所。飛鳥時代に創立されたという言い伝えがあります。それが確実な史実なのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ由緒正しきお寺らしい。本堂や山門、六角堂は文化財に指定されています。

 水澤寺


 私にとっては、両親姉妹そろって、家族で春のピクニックするついでにお参りするお寺でした。
 毎年、春になると家族5人と犬のコロといっしょに里山を歩き、船尾滝という落差60mという滝の近くで火をおこしてお鍋をかけました。野菜やお肉も普段のものなのに家の中で食べるよりもどうしておいしく感じるのか、姉や妹モモ、両親とすごした思い出の場所です。(今では山中で火を使うことなど禁止されているかも)

 お参りするやっちゃん。


 水澤寺で


 お参りのあとは、やっちゃんとドライブ。
 「ライトアップされているかも」と、前橋公園の桜へ行ってみましたが、やっちゃんは「昼のほうがきれいだなあ」と、言っていました。

 夜はやっちゃんとおしゃべり。私からは、新しい仕事の報告など。やっちゃんからは、県の馬術連盟審判員として馬術試合に出かけていった先の話など。やっちゃんからは「もう年なんだから、仕事はやり過ぎちゃダメ」と、釘をさされました。

 4月1日は、吹割の滝まで行くことになりました。日本三大瀑布という有名な滝なのに、私は、一度も行ったことがなかったのです。私は大の滝好きなのに。
 三代瀑布、日光華厳の滝、熊野那智滝のふたつは確定ですが、三つめは、それぞれの地方が自分の土地の滝を三番目にするので、水量三大とか、落差三大とか、幅三大などいろいろあるらしく、吹割滝がなにによって三番目なのかは不明ですけれど。

<つづく>
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