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ぽかぽか春庭「2023年6月もくじ」

2023-06-29 00:00:01 | エッセイ、コラム

20230629
ぽかぽか春庭2023年6月もくじ

0601 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(1)ファンタジーオンアイス in 幕張2023
0603 2023文日記6月(2)花とミサイルママ

0604 ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩6月(1)花・宮本三郎記念美術館
0606 2023アート散歩6月(2)吹きガラス展 in サントリー美術館
0608 2023アート散歩6月(3)ブルターニュの光と風 in SONPO美術館
0610 2023アート散歩6月(4)龍子記念館

0611 2023日常茶飯事典>2023文日記6月(3)美術館コンサート in  龍子記念館
0613 2023文日記6月(4)広川法子リサイタルNo.13
0615 2023文日記6月(5)フェミニズムのエトセトラ
0617 2023文日記6月(6)お豆腐料理を食べながらウズベキスタンのりこ学級の話を聞く
0618 2023文日記6月(7)アレグリア by シルクドソレイユ
0620 2023文日記6月(8)リファッション
0622 2023文日記6月(9)梅雨時の庭
0624 2023文日記6月(10)6月の街

0625 2023アート散歩>2023建物散歩梅雨時(1)旧前田邸本館
0627 2023建物散歩(2)旧前田邸和館
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ぽかぽか春庭「旧前田邸和館」

2023-06-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230627
ぽかぽか春庭アート散歩>2023建物散歩梅雨時(2)旧前田邸和館

 旧前田侯爵邸は、家族の生活の場の洋館2階と社交の場の1階で、和館は「外国の賓客らのもてなし」の場になってえおり、二つの館を渡り廊下がつないでいます。
 見学者は、一度洋館玄関から外に出て、館の東側を通って和館の入口に向かいます。

 和館の屋根


 和館の門。垣根の下目は竹垣


 門の内側


 玄関

 和室
 
  廊下入側
 廊下外側

 
 和館の庭園

 
  和館の茶室は、一般利用ができ、申し込みをして当選した日に茶会などを催すことができます。
 和館の欄間なども精緻な作り込みなのですが、やはり和室に慣れている者にとっては、「日常」の雰囲気がして、私が子供時代をすごした家なども、このような和館をお手本にして、床の間などが作られていたのだろうと思います。もっとも我が家の床の間は1階は箪笥置き場、2階床の間は私の本置き場になっていましたが。そんな庶民の家で育ったものにも、和館はやはり親しみがあります。洋館の大食堂や大客室などに「圧倒され感」があるのと比べると「ここに住んでも快適だろうな」感があります。

 侯爵夫人は洋館で、ベッドに入るとき以外ではハイヒールをはいて日常生活を過ごしたとのこと。われらは、やはり素足で畳の上を歩き、ときに畳に寝っ転がり、縁側で庭の緑を眺めてぐうたらしていたいと思ってしまう。たまに洋館でお客様になるのはいいけれど、旧岩崎邸のように、家族の日常は和館で、というのが平均的な感覚なのかもしれません。

 いずれにせよ、この昭和のお屋敷が現代までそのままの形で残されてきたのはうれしいことです。大食堂にはグランドピアノが置かれていました。できれば、無料のコンサートなど邸内で催していただければ、せっせと応募して聞きに行きたい。

<つづく>
コメント (2)
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ぽかぽか春庭「旧前田侯爵邸洋館」

2023-06-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

20230625
ぽかぽか春庭アート散歩>2023建物散歩梅雨時(1)旧前田侯爵邸洋館

 何度も訪問してきた旧前田侯爵邸ですが、前回は洋館だけ見学し、和館は見ませんでした。それも、入り口のところでカメラの電池が切れ、写真がとれなかったので、今回は洋館、和館を回ってたくさん写真を撮りました。洋館も和館も撮影はフラッシュをたかない、見学者を写し込まない、などのマナーを守れは、自由に撮影できます。東京都は無料公開していますので、ゆったりのんびりすごすことができます。今回私は、日本民芸館とセットにして回りました。

 前回来訪したあと、館の中は修繕工事がなされており、絨毯やカーテンが復元され新しくなっていました。絨毯カーテンなどに新調した感じが強く、古びた館のイメージを残している人には、レトロ感が少ないと思うかもしれません。保存されていたカーテン生地などからの復元した、とのことなので、新築なった昭和のはじめにおやしきに招かれた気分で回りました。

 明治~昭和前期は、通常和館で家族が暮らし洋館は客人接待用に使用るすお屋敷が多かったということですが、ヨーロッパ生活が長かった前田利為侯爵は、家族ともども2階洋室に暮らしました。洋館1階は晩餐会などの社交用、和館は外国人接待用に用いていたということです。
 前田家の庭園の芝生は、現在は目黒区立駒場公園として利用されています。

 東京都公園課の邸宅解説
 前田利為(1885-1942)は、加賀百万石といわれる大大名、前田家第16代当主にして侯爵です。江戸期に上屋敷があった本郷に維新後も本邸がありましたが、関東大震災後に東京帝国大学と土地を交換し、現在の駒場を新邸と決定しました。本郷邸は広すぎて生活に向かないと考えた利為は、駒場本邸では質素な暮らしを望んだといいます。
 設計に当たっては、建築委員会を開き、その決定を海外赴任中であった利為に報告し判断を仰ぐというやり方でした。
 旧前田家本邸の設計者
 旧前田家本邸の設計には多くの人がかかわっています。設計監督者は、東京帝国大学教授であった塚本靖工学博士です。実際の設計は、洋館が宮内省内匠寮工務課技師の高橋貞太郎、和館が帝室技芸員の佐々木岩次郎がしたと考えられます。茶室待合は木村清兵衛、暖房や電気設備の設計もそれぞれ専門の工学博士に依頼されました。
 当時の日本における、最高の設計者たちが集められていたのです。
 高橋貞太郎(1892-1970)について…
 東京帝国大学を卒業し、内務省、宮内省の技師として活躍します。聖徳記念絵画館や学士会館、独立後は高島屋東京店などを手掛けています。
 佐々木岩次郎(1853-1936)について…
 京大工の名家に生まれ、大正6年に帝室技芸員となりました。平安神宮や浅野総一郎邸(現存せず)等も手掛けています。
 前田邸略史
1928(昭和3)年に事務所、育徳会、倉庫が完成。
1929(昭和4)年和館上棟、洋館竣工。当主駐英大使館武官から帰国。
1942年(昭和17)利為、ボルネオ沖で搭乗機 墜落により利為死去。
1945-1957 GHQにより接収。
1967(昭和42)洋館が東京都近代文学博物館として開館。都立駒場公園開園
2013(平成15)重要文化財に指定。名称を「旧前田本邸」とする。

 正門も旧門衛所も重要文化財です。



 育徳会は、旧前田家の所蔵品を管理してきた公益財団です。育徳会建物は本邸より先に竣工していますが、現在は見学できません。前田家所蔵品は、石川県立美術館などが公開を担っています。


 洋館正面  車寄せから玄関へ


 本邸南面ベランダ側(公園側)

東南の角   
   
南側の窓から見える室内

 洋館南側ベランダ


 ベランダに置かれた鉢


 邸内の写真は、プロが撮影した写真集も出版されていますから、きれいな写真はそちらを眺めるとして、私が撮影したのは、物忘れ老人の思い出喚起用です。

 入口から入ると、階段のあるエントランスホールが広がっています。

 階段の下にはイングルヌックと呼ばれる談話室がしつらえられています。客室のもてなしや大食堂での宴会とは異なる親密なおもてなしに、暖炉のある空間が利用されました。イングルヌック仕切りの掘り込みのあるアーチ
 階段の意匠


 階段踊り場のステンドグラス
 階段上の踊り場から見るステンドグラス 階段上踊り場の手すり


 本邸1階
 小客室、大客室、大食堂は、社交用


 ベランダ側の窓には、鉄製の飾り。


 家族用の小食堂 食器棚
 配膳室から食事を提供する造り込みの家具  彫刻のある木の壁


 本館2階
 夫妻寝室 夫人室 利為書斎、長女次女三女三男の居室、女中室、従者室、会議室などがありました。使用人は100人から140人ほどが常時「お仕え」していたとのこと。

 展示されていた椅子もとても由緒正しそうなもので、「触るな」とご注意が。唯一座ってよかった次女居室の椅子。ラブチェアですが、ひとりで座れとの注意書き。

 侯爵書斎の絨毯も復元されてきれいになっていました。


 寝室の鏡台、ベッド
 書斎前の前室絨毯

 長女、次女の居室

 
 廊下


 2階女中室は、6畳間ほどの畳敷が2室ありましたが、たぶん、高級なほうのおそば仕え女中用。邸内で働く女中は、金沢の女学校の成績優秀者から選抜されて「行儀見習い」として侯爵家に仕え、嫁に出るときの「箔づけ」になったそう。わぁお、世が世なれば、私なんぞ女中さんにもなれなかったと思います。世が世じゃなく現代だから、こうやって東京都の施設として公開されていてありがたし。


 洋館の中庭側            

 東側から見る2階テラス
 

 本館東側(東側の出入り口は、使用人と出入り業者用)
 洋館と和館をつなぐ渡り廊下を東側から見る


 邸内の暖炉は、建築当初のものがほとんどそのまま残されています。


 照明具も写真などの資料をもとに修理がほどこされてたり、復元されたりしていました。

 壁の飾りもデザインいろいろ

 ドアノブは、どれが復元ものでどれが修理されたものか、不明
 
 床の組木細工

 
 壁の金唐革、寝室の壁紙

 
 昭和前期までのお屋敷、耐震工事などに加えて、家具や邸内の修復がなされてきました。古いものをそのまま残すことも必要ですが、都内のお屋敷は米軍接収時代に、貴重な金唐革の壁に「古ぼけているから」と、GHQの居住者がペンキを塗りたてたりしたので、昔の写真などを元にした復元工事は必須と思います。

 絨毯の新品ピカピカは、もうちょっと古い雰囲気があったほうがよかったかな、という感想もありますが、いずれにせよ、前田邸は東京都の大事な財産と思います。

 前田邸と私
  

小食堂で

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「6月の街」

2023-06-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230624
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記梅雨(2)梅雨時の街

 通勤の行きかえりに利用してきた最寄り駅。朝、6時46分発の電車に乗ります。駅までの道、7時開店のコンビ二もまだ朝の開店準備中だし、ATMもシャッターが上がる前。目覚める前の町の姿を見て電車に乗っていました。夜はもう真っ暗になってからの帰宅。

 昨年一昨年と駅前のビルの入り口に燕が巣を作っているのに気づきました。今年も来ているかなと眺めたら、いました!

 今年の小燕。かわいいです。親燕はせっせとエサの虫を運ぶのたいへんだろうけれど、元気に巣立つといいな。駅周辺にはとなりの駅前の大学敷地が続いていて樹木がたくさんあるので、木につく虫も多いと思うので、民家の軒先は烏に狙われることがないので、子育てにはいい場所です。もうだいぶ大きくなっているので、巣立ちも間近かな。

 朝早く出かけ夜暗くなってから駅を通る生活が終わって、昼間の街を眺めることができるようになりました。マックもスタバもない駅前。パン屋焼き鳥居酒屋蕎麦屋ラーメン屋。贔屓にしたい魅力的な店はなかった。
 お酒飲まないので焼き鳥屋には入りにくいし、蕎麦屋はちょっとお高い店。何回か寄ったけれど、アンチグルメの舌には、駅中の立ち食いソバに比べて値段は3倍でも味は1.5倍だと判定。ラーメン屋は、洗い方が不十分で、乾燥した薬味のネギがこびりついている丼でラーメンを出されて以来、入る気になれない。

 駅前の八百屋は私の帰宅時刻には閉店してしまう早仕舞の店だったので、土曜日にお出かけから早めに帰宅できた時だけ買い物ができました。愛想のいい店員さんが接客していたみどり屋という長年続いた八百屋が撤退したあとに、若い店主が居抜きで入りました。この店、店主は「ふだんはロックやっています、本業はロッカーで八百屋は生活のため」という雰囲気の方で、「こだわってやっています」という品ぞろえも、私の好みに合わなかった。店主の雰囲気が合わないので、バイト店員が店番のときだけ野菜を買っていました。安いか品が特別にいいか、店の雰囲気がいいか、という特徴があれば買い続けたのでしょうが、たぶんほかのお客の気持ちも私と似たようなものだったのかもしれません。1年でつぶれました。

 八百屋がつぶれたあと、何になるのかなと見ていたら、内装工事をしているので「ここは次になんの店になるのですか」と尋ねました。「カフェを6月ごろオープンする予定です」という答え。

 6月14日に駅前を通ったら、カフェがオープンしていました。イヨクコーヒーという店。店主が一杯ごとに豆を挽き、ドロップペーパーで丁寧に淹れるコーヒー専門店。月曜日にプレオープン。火曜日に開店。私が立ち寄った水曜日は新開店2日目。
 開店を祝う花。


 先客のおばさんふたりがカウンターに並んでコーヒーを飲みながら「最寄り駅に帰ってきて、ほっとできる場所があるっていいわね」と、おしゃべりしています。カウンターに座れるのは4人。壁際に並んだ椅子は3脚ですが、うち1脚にはアルコール消毒液が載っている。テイクアウト客を見込んだ店なのでしょうが、この駅の周辺にコーヒーの味めあてにテイクアウトしていく層はそんなに多くないと思ってしまいます。

 駅から降りてくる乗客は、みな新しい店がなんの店なのか覗き込み、コーヒーの値段を見て立ち去ります。ブレンドコーヒー550円。メニュー表の豆をひいてもらうコーヒーは700円800円するので、店には入ってこない。駅から家に帰る前にほっとする費用として800円は、この近所では高いのです。隣の駅は駅前が大学。もう一つの隣は買い物やデートで若者がにぎわう町。その中間の最寄り駅は、一度は廃駅案が鉄道会社から出されたという、住宅街の中の小さな駅です。乗降客は古くから住んでいる高齢者が多い。アパートやマンションよりも戸建ての家が多い地域なので、若い人は引っ越ししてきにくい町です。
 
 淹れてもらったブレンドコーヒーはたしかにおいしかったけれど、私も「駅おりてほっとする時間」のために飲むのは、月に1回もないかもしれない。駅から歩いて2分で自宅ですから、家でインスタントコーヒー飲んでもほっとできます。そんなこんなで、次にこのカフェに入るのはいつになることやら。

 店長さんが選び抜いた豆で淹れるコーヒーは絶品です。


 カップがすてきなので、おたずねすると、奥さんのお父さんが陶芸家でお父さんが作ったコーヒーカップなのですって。店名は、奥さんの旧姓。お父さんの名前伊与久充章氏のカップに寄せて。とても口当たりのよいカップで、「充」のサインが入っていました。
 ミニテーブルにコーヒーを置いて、壁側の椅子でブレンド(キリマンジャロ+秘密)を飲みながら、開店にこぎつけるまでの話などうかがう。

 店内の壁には知り合いの画家が描いたという現代絵画やイラストがかけられていて、値段がついています。月替わりくらいでミニギャラリーとして作品発表をしてもらうという話。

 駅の改札を出て駅前の交差点を渡れば店。普通に歩くと徒歩10歩。(スキップ5歩)ばーさんよたよた15歩。駅の目の前という立地のため、狭い店でも、1か月15万円の家賃ということまで聞き出しました。光熱費やら仕入れ費用やらで、550円のコーヒーを一日に何杯淹れれば店が維持できるのかな。長く続けられる店になりますように。
 営業時間:平日朝6時半~13時。16時~19時。土日は10時~17時。
 
 店主さんも奥さんもすてきな方で、ご贔屓にしたい店でしたが、失業中の73歳が立ち寄れるのは、次はいつになるかな。
 550円あったら、コーヒーじゃなく晩ご飯のお弁当500円のものが半額になったのを2つ買う、といういじましい生活が続きそうです。

 小燕もイヨクコーヒーも、がんばれ!

<おわり>
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ぽかぽか春庭「梅雨時の庭」

2023-06-22 00:00:01 | エッセイ、コラム

 庭のがくあじさい

20230622
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(8)梅雨時の庭

 2020年、コロナのひきこもり時に、猫の額の庭を畑にして野菜やハーブを収穫しようと思い立ちました。まずは堆肥を作って土づくりと思って、糠や培養土を買ってきて、混ぜ入れた段ボールに野菜くずを入れていったのですが、管理が悪く、土からコバエがわいたのを見て、私には農作業は無理と見極めがつき諦めました。  
 2022年夏に娘の懸賞生活でトマト苗が当選し、植木鉢で4本のトマトを育てましたが、わき芽を摘み取るなどの手入れを怠ったために、4本の苗から小さなトマトが10個収穫できたところで苗は力つきました。やはり、私に農耕生活は向いていなかった。
 放置トマトが枯れて以来、猫の額庭は雑草伸び放題になっています。


 年に2回、12月と6月に姑の知り合いのスズキさんが手入れに来てくれるのですが、毎年「今年もスズキさんは来てくれるのだろうか」と、運まかせ。姑より4歳若いというスズキさん、今年の誕生日がくると94歳。2022年12月も梯子をカエデの幹に立てかけ枝を剪定してくれたので、ハラハラしました。
 今年は6月18日が「庭の日」になりました。

 スズキさんは、ドクダミを「やたらはびこる雑草」として退治するので、2022年6月は、庭のドクダミはすべてゴミになりました。
 2023年、スズキさんが来る前に、とりあえず目立つほど伸びたどくだみ採集。引っこ抜いて、洗った葉っぱを乾燥させ、お茶用にします。今飲んでいるのは、2021年に取り入れたどくだみの葉。

 スズキさんは庭のシダ類とどくだみを2袋のごみ袋につめて「あじさいはまだ花盛りなので、花が終わったころにまた着て剪定します」ということになりました。

 ミョウガは、去年ほっといて収穫しなかったので、今年はひとりでにいっぱいに増えて勝手に伸びています。


 スズキさんは、「もう小さいミョウガが出てきていますが、食べごろはもうちょっとです」と教えてくれました。伸び放題になっている葉っぱを「これ、なんていう葉っぱですか」と尋ねたら「うこぎです」と教えてくれました。「ええっ、うこぎって食べられる葉っぱですよね。私、田舎育ちで、毎年家族で山菜取りピクニックに出かけたことあるのに、うこぎが目の前に生えているのに、これがうこぎだってわかっていませんでした。舅姑の実家の山形では、上杉鷹山の教えによって、どの家も生け垣はうこぎの木にして、庭には花よりも食べられるものを植えなさいって教えたので、米沢出身の姑は自分の庭にもうこぎを植えたんでしょうね」「今はもう葉っぱは固くなっていて食べられませんから、来年の春に若葉が出てきたらゆでておひたしもいいし、天婦羅もいいですよ」と、スズキさんに教わりました。
 来年が愉しみです。
 
 アジサイの剪定は花が終わってからということになったので、庭仕事は午前中だけで終わり、お茶タイム。これまではさっさとお茶を飲んで次の仕事にかかっていたスズキさんも、18日は「あとの仕事は次に来た日に」と、ゆっくりお話ししてくれました。

 スズキさんは、1929年生まれ。私の父が1919年生まれで、ちょうど10歳若い。父の年㈹の男は、みな徴兵され戦争に行くことになりましたが、スズキさんは終戦の時に15歳。父は、青春時代のほとんどをすべて戦争の中ですごしたけれど、それより若い世代のスズキさんは、勤労動員世代です。農学を学ぶために入った旧制中学の卒業前の4年生と5年生の2年間は、福島の中学から全員で横須賀八景島近くの飛行場近くの工場に動員され、寄宿舎暮らし。毎日毎日、工廠で爆弾作りに従事しました。近くに試験飛行のための飛行場があり、連日米軍が爆弾を落とす。最初は警報が鳴るたびに防空壕に入ったけれど、1年も爆撃が続くと、だれも空襲警報で防空壕に入らなくなった。訓練飛行する飛行機は機体がペなぺなで、こんなものに乗ったら死ぬしかないと、飛行兵でなくともわかる。それで勤労動員工員も、死ぬときは防空壕に入ろうと入るまいと死ぬのだ、と、覚悟ができたのだ、とスズキさん。二十歳で徴兵される前に必ず死ぬのだ、と思っていた。

 スズキさんの数年先輩は旧制中学生から予科練や海軍特別年少兵 になったも多く、戦死者もでたけれど、スズキさんの同級生で戦死した学生はいなかった。スズキさんが生き延びた理由は。1945年7月に原因不明の40度の高熱が続き、横須賀の山の中に掘り込まれた防空壕病院に入院させられた。天皇玉音放送の日は、ベッドに寝ている病人も一か所に集められて「陛下の放送がある」というので、電波の届かない山中防空壕で待機していた。「これから本土決戦だから、皆しっかりやれ」というお話があるのだろう」と思い、まさか敗戦の放送とはだれも想像できなかった。しかし、電波が届く病院の外で放送を聞いた看護婦が、泣きながら「日本は負けた」と教えてくれた。
 高熱で1か月も入院していたおかげで、爆撃にも遭わずに戦後を迎えたのだ、というお話でした。後輩たちは、旧制中学から新制高校に編入した者もあったが、スズキさんは5年生の途中で繰り上げ卒業となり、戦後社会を会社員として働くことに。会社退職後、区のシルバーワークに申し込み植木剪定に登録したけれど、その職業訓練はとても植木職人として一人前になるほどのことは教えてくれないので、自分でさまざまな植木屋に出入りして技を身につけた。

 シルバーワークを退職する年齢に達したあとも、うちの姑とご近所さんのタイラさんとはずっと仲良しで、こうして何軒かのお宅ではいまだに庭の手入れをまかせてもらっている、という一代記を聞くことができました。タイラさんの奥さんは福島の女学校から動員されて同じ横須賀の近くで暮らしていたということもわかり、山形の旧制女学校から工場動員されそうになったので、つてを得て郵便局で働くことにした、という姑と、いつも3人寄ると東北から東京に出てきた苦労話もできて、よい話し相手だった、ということです。

 昔の話を聞けてよかった。「今、戦時中の話を語れる人が少なくなっているので、ぜひお孫さんの前で語って録音しておいてください」と頼んだのだのだけれど、スズキさんは、いや、興味を持って聞いてくれる人はいない、と嘆く。スズキさんが小学生のころ、祖父母や両親が日清日露の戦争経験を語ったときに、「そんな古いこと、聞きたくもない」と思ったのだそうで、今の若い連中も、70年80年昔のことを話しても、聞く耳もたない、とスズキさんは残念がる。区の図書館なりで「昔の経験を聞く会」でもやってくれたらいいのに、と思いました。
 
 玄関前のあじさい。こちらの剪定はまた別の日に。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「リファッション」

2023-06-20 00:00:01 | エッセイ、コラム


20230620
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(8)リファッション

 6月11日。ひさしぶりに映画館で映画を見ました。すごく地味なドキュメンタリー映画。けっして商業ベースで大ヒットなどするとは思えない映画ですが、大型シネマの時間の隙間に一日3回の上映。娘が応募した観覧券が当選したのです。せっかくなので、トークショーのある日曜日に出かけました。

 アップリンク吉祥寺。100席ほどのスクリーン3に、観客は半分も入っていませんでした。「日曜日でトークショーもある日なのにこの入りじゃ、平日は100席に観客10人くらいかも」と、娘。

 88分の映画最初の3分の1はホンコンのごみ処理問題。香港政府は埋め立てを続けていますが、民間NGOやNPOがリサイクルの事業を立ち上げています。ペットボトルを集めてリサイクルするVcycleやネット販売の子供服おもちゃretycle、廃棄衣料から水や薬品をつかわずに再生撚糸を作る工場。この三者を追ったドキュメンタリー。監督プロデューサー、ジョアンナ・バウワーズ。

 すみません、ごみ問題を扱った前半3分の1はすごく眠かったです。撚糸作成のシステムが回り出してから、エドウィン・ケーが古着再生撚糸の工場を成功させる過程を見るのは面白かった。

 リファッションの例として展示されていた服


 ファストファッションが流行り、大量生産した安い衣料をあきたらすぐに捨ててまた新しい服を買う、このサイクルを断ち切って、長く愛用する衣裳を着て、捨てるのではなく再活用する、衣料の回転。リファッションドとは、「改めよう」という意味だそう。ファッション「流れ、流行」を、再び生かす。

 上映終了後、16時からトークショーがありました。登壇者はeriさんと
蒲田安里紗のふたり。

・eri
 でプとカンパニー代表・アクティビスト。アパレル会社経営・プロダクトのデザイン・古着のバイイング/販売
・蒲田安里紗
 一般社団法人unisteps共同代表理事。「多様性のある健康的なファッション産業に」をビジョンに掲げる一般社団法人unistepsの共同代表をつとめ、衣服の生産から廃棄の過程で、自然環境や社会への影響に目を向けることを促す企画を幅広く展開。種から綿を育てて服をつくる「服のたね」、衣食住やものづくりについて探究するオンラインコミュニティ「Little Life Lab」など。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程在籍

 おふたりのお話は、わかりやすく示唆に富む有意義なものでした。
 「日本の廃棄衣料のうち、何パーセントが再利用されていると思いますか」というクイズ。40%20%10%1%という数字に観客が手を上げるとき、私は1%に手をあげて「正解」。一番少ない数字だろうと推理したので。娘は10%に挙手。また、衣料リサイクルの知識として、知らなかったことを教わりました。「コットン40%アクリル60%」というような混紡混織の服を買うことがあるのですが、こういう「混ぜ物」は、一番リサイクルしにくいのだ、ということを知りました。これからTシャツは綿100%、セーターはウール100%とか、買う時気をつけることにします。ポリエステル100%でもいいんだけど、とにかく「混ぜるな。危険」。混ぜたものは再生がむずかしくなる。

トークショー終了後の「撮影会」


 また、コットンは地球にやさしくない衣料原料だとはじめて知りました。今までなんとなく綿=自然、石油原料の衣料=不自然、と感じてきたのですが、綿は広大な面積の土地を占有して栽培され、糸にするまで水や燃料などを大量に使う原料なので、化繊に比べて「地球にやさしい」とは言えないのだ、というお話でした。なるほど!

 以前、紙パックの牛乳でなく、再利用可能な瓶牛乳を飲もうという運動をしていたエコ意識高い系の人たちがいました。ところが、瓶を集めて洗浄する過程で大量の水を使うこと、トラックなどによる瓶の運搬にガソリンが必要なことなどから、使い捨て紙パックよりも瓶のほうが環境に負荷が大きいことが判明。「コットンのほうが地球環境によい」というのも、一概に言えないことがわかりました。
 
 この「リファッション」上映は、エシカル・ライフ特集のひとつ。
 ところが私はこの「エシカル=倫理的な」ということばが好きではありません。嫌いと言うか相性が悪い。地球にやさしい、とか命を大切に、という標語が嫌いなのです。

 ニュースをぼうっと聞いていたら、北極の氷が解け続けていて、2030年代のうちに溶けてなくなり、海面は上昇、生態系に重大な影響がでると言っていました。あらま、私まだ生きているつもりの間にそんなことに。洪水は我が後に来たれ。倫理的に意識高い人は、いろいろ環境に気を使いながら生活しているのでしょう。私はゴミの分別はするし、衣服は捨てない生活ですが、地球のためにやっているわけじゃない。自分の生活のためです。

 「地球にやさしい生活」という標語が、私たちのまわりを取り囲んで久しい。私は常々「80億人の人間がいなくなれば、地球は破壊に至ることなく保全されるのだから、人間がいっせいに地球からいなくなるのが、一番地球にやさしい行動だ」と主張してきました。「地球にやさしい生活」なんていわずに「人間がエゴを続けていくために、人間のためにここちよい地球を保て」という真実を言うべき、と思っています。そして、人間に心地よい生活は、必ず生態系をこわし、自然環境を破壊せずにはいられない。人間にこことよい生活=地球を破壊する生活。これが真実。食料も衣料も私たちが快適に生活する限り、地球にやさしくしてはいられない。

 

 私は7時すぎにスーパーへ買い物に行き、半額になっている野菜や肉、魚を買い求めます。野菜半額コーナーには「食品ロス削減にご協力ください」というプレートが出ています。食品ロス削減のためと思って半額野菜を買う人もいないことはないのだろうけど、このプレートを見るとケッて思います。私はただ安いから「失業無収入の家族にやさしい」と思って買っています。

 ブランドメーカーが仕立てたフェイクファーの高級コートを買う人が「生き物の命を奪う毛皮は着ません」なんてコメントをとうとうと述べているのを見ても、ひがみ春庭はやっぱりケッて思います。ブランドのお高いコートを買うお金があったら、その分のお金で野生動物保護にでも寄付したらいいだろうに、と感じてしまうのです。

 何を着るのも自由です。装うことは、人類が裸をやめてからたぶんずっと人間の証として私たちの生活にありました。イチジクの葉っぱで下腹を覆い隠すのも、Tバッグを身に着けてクラブのお立ち台で踊るのも、すべて好き好き。

 私は襟元がよれよれになったTシャツは寝間着兼用部屋着にし、この30年間で衣服を処分したのは、2011年の一度だけ。地震で食器棚から落ちて割れた茶碗を片付けながら、家の中をかたづけよ、という天からの声と思いました。「着られない服は処分しなければ」と思いながら捨てることができずにいた若いころに来ていたワンピースやスーツ、もはやこのサイズに我が身が戻ることはない、と思いつつも捨てることができずとっておいた服を処分しました。東京都の一番大きいのごみ袋に3~4袋あったと思います。古着処分の日に玄関前にだしました。
 ときどき、捨てずに取っておいてもよかったなあ、と気に入りだった服について思い出すこともあります。はじめて職場にでるときアヤ伯母が仕立ててくれた思い出のスーツとか。

 ものを捨てない生活をしているので、家の中はものが山盛り。床上収納をし続けているので、足の踏み場がなくなって、ものを足でよけながら歩く家の中。それでも「エシカル=倫理的な」は好きになれない。
 中でも相性が悪いのは、ヴィ―ガン。

 英語では「vegan」。 完全菜食主義者のことで、ヴィーガンは牛肉をはじめ、豚肉、鶏肉の肉類、魚介類だけでなく卵や乳製品、はちみつ、ゼラチンなど動物性食品をいっさい口にしない人のことを言います。 
 「ヴィーガニズムの概念を「人間は動物の搾取なしで生きるべきであるとする主義」と定め、「食物、売り物、労働、狩猟、実験およびその他のあらゆる用途の為の人間による動物からの搾取を終わらせる」ことを目的に「個人的な状況が許す限りこの理想に近い生活をすることに努めている人」をヴィーガンとしている

 でも、私は、ヴィーガンの人に確認したいことがあります。動物ってどこで線引きをするのか。植物の命は奪ってもいいのか。 光合成ができる動く生き物みどり虫(ユーグレナ)は動物なのか植物なのか。ヴィーガンの人たちは、ウミウシ、ホヤ、線虫やミミズ、いったいどこで線引きをしているのでしょう。粘菌はある時期は移動を続ける動く生命で、ある時期は菌糸によって繁栄する菌糸類です。動いているときは動物で食べてはいけないけれど、菌糸のときは食べていいのか。

 イスラム教の人が豚肉を食べないことや、ヒンズー教の人が牛肉を食べないのは理解できます。宗教の禁忌を守る人を尊重します。でもヴィーガンの人が「動物の命を奪うことはしない」というのは納得できない。
 なぜなら、近年の研究では植物もさまざまな手段でコミュニケーションを取り合う生き物であることが判明してきました。葉っぱが虫に食われている時、葉っぱから物質を出して、虫の捕食者に「今葉っぱが食べられているから、この虫を退治して」と知らせるのがわかってきたし、根っこを菌糸がとりまき、菌糸は森の地面全体に張り巡らされてコミュニケーションをとりあい、栄養の足りない若木があったら、親木から栄養を分けてもらって菌糸が若木に養分を届けるとか、助け合っている、という科学番組を見てきました。植物のコミュニケーションも実に多彩で緊密です。

 ヴィーガンの方々が「人間は動物の搾取なしで生きるべき」とおっしゃるなら、もう一歩進めて、人間はあらゆる生命すなわち動物も植物も搾取なく生きるべき」と考えていただけるよう、お願いしたい。現代科学の最先端では、細胞を培養して肉もどき(培養肉)を製造する方法も開発されているのだそうです。

 植物だって生き物。生命そのもの。なぜ、動物は食べずに植物は食べてもいいなんていうことが考えられるのか。草木虫魚、すべて命。目に見えない微生物も菌糸もすべてつながり合い助け合う、地球に生きる等しい命です。だから、ヴィーガンの人の「動物は食べない」という考え方を「宗教的な禁忌」と説明されない限りは納得できない気がします。ヴィーガンの人に質問した時は「絶対に宗教なんかじゃない、思想です」という回答でしたが。ヴィーガンを否定はしません、だから「動物の命をいただくとき、ありがとうと言って命に感謝しながら食べます」という「全部食べる派」をも、否定しないでいただきたい。

 私の、「服は捨てない。ボロになって雑巾にするまで使い倒す。食は半額物を買う。ヴィーガンに納得できない」は、当分続きます。
 


<つづく>
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ぽかぽか春庭「アレグリア by シルクドソレイ」

2023-06-18 00:00:01 | エッセイ、コラム


20230618
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(7)アレグリア by シルクドソレイユ

 一度は見にいきたいと願っていたシルクドソレイユ。念願のサーカス公演にいくことができました。本拠地のカナダケベックはフランス語圏なので、シルク=サーカス、ソレイユ=太陽ということばを、このサーカス団の公演で覚えました。
 お台場に建てられた巨大なテント型の建物。娘は半年前から6月の公演をねらって応募し、応募したときは6月4日が千秋楽公演だったので、千秋楽の特別なイベントがあるかもしれないと思って狙ったのでしたが、人気が高く追加公演追加公演がつづき、6月25日までお台場公演は続くことになりました。だから4日は「なんでもない日」になりましたが、半年前の申し込みのおかげで、けっこう前の列で、各出し物がよく見える席でした。前の列の男の人がちょっと背が高かったので、いつものように自分の身長のなさを嘆きつつの観覧になりました。

 子供たちが幼いころは、毎年夏にボリショイサーカスを見に連れていきました。招待券をもらう機会があったからです。犬やクマのサーカスもあって、子供には楽しいサーカスでした。木下サーカスにも行ったことがあるけど、シルクドソレイユはチケットも高いし、今まで見る機会がありませんでした。
 コロナによる世界公演中止が続き、2020年6月末にカナダで破産法の適用を申請したシルクドソレイユでしたが、債権者との間で資産購入合意を締結 し、再建。困難な状況を乗り越えて日本公演が実現しました。
 日本公演の演目の中でも、アレグリアは3度目の公演となる人気の高い演目です。衣裳や照明を新しくし、新しい演出での再再演です。

 お台場のテント


 アレグリアの物語。国王が不在となった王国で、道化フルールが自分を王様と思い込み、舞台中央にささっていた王笏(おうしゃくscepter, セプター )を引き抜いて権力をふるおうとするところから物語が始まります。
 二人組のクラウンの愉快なやりとり、王をとります貴族たちの右往左往。ニンフたちの優雅な動き。その間にアクロポール、エアリアルストラップ、トランポリンアクロバット、空中ブランコなどがつぎつぎに展開します。


 プログラムに載っている演者の半分くらいがロシアやウクライナ出身なのは、旧ソ連時代から続くサーカス学校の出身者が多いのではないかと想像しました。演目の中のファイヤーナイフは、サモア島の出身者であること、なるほど、と納得されます。サモアはファイヤーダンスの本場。常磐ハワイアンのファイアーダンサーも本場で修業していたと思い出します。
 各演目の演者はすごい身体能力の持ち主ばかりで、なかなかオーディションに合格できないというのもうなづけます。今回の公演に日本人演者はいませんでした。

 1幕目のおわりに、王国が吹雪にみまわれる、というシーン。すごい吹雪(紙ですが)が客席に向かって吹き出し、私も娘もたっぷり吹雪を浴びました。
 30分の休みの間に片づけるのかと思っていたのですが、トイレから戻っても、座席に積もった雪も舞台の雪もそのまま。雪の片づけは王国が復活する象徴として演出の中に取り入れられており、空中ブランコのネットを張るのも演出のうちで、客の目の前で行われました。

 最終演目の空中ブランコは、さすがにサーカスの花。みな見事な演技でした。
 
 フィナーレ


 最後のフィナーレは撮影可能というので、写真を撮りました。
主役のミスターフルールとシンガーシロクロのふたり、クラウンふたり。

 





 
 楽しかった迫力満点のアレグリア。次回の日本公演も楽しみ。見る機会があるといいな。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「お豆腐料理を食べながらウズベキスタンのりこ学級の話を聞く」

2023-06-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230617
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(6)お豆腐料理を食べながらウズベキスタンのりこ学級の話を聞く

 6月7日水曜日「元職場会」。3月末で日本語学校を退職した3人が集まり、おしゃべり会を楽しみました。
 新宿京王百貨店の豆腐料理店。お豆腐料理と天丼のセットランチをいただきながら、4月からの新生活報告会です。

 新宿吉座の豆腐膳 


 40㈹のH先生は、前よりももっと自宅に近い日本語学校で日本語教師を続けています。週4日の出講で、今の学校はネパールやベトナム、インドネシアなどの非漢字圏出身者が多く、中国人学生がほとんどだった3月までとは異なる環境での日本語教育になったことを報告してくれました。また、お子さんのPTAの役員になってたいへんだ、という話題も。制服などのリサイクルをPTAでやろうという部署の担当になったのだけれど、みなそれぞれの意見があり、リーダーとしてまとめていくのがたいへんだ、というお話でした。

 50代のS先生は、娘さんが高3で受験がたいへんだということでした。現在は、ふたつの地区で小学校日本語教室講師をしています。
 「日本に滞在して働いている親御さんに連れられて来日し、日本の小学校に入学したけれど、日本語を話せないという子どもへの日本語教育」を受け持ち、子どもへの日本語教育を実践しています。ひとつの教室にさまざまな背景の国の子どもがあつまり、日本語学校での大人への日本語教育と異なるむずかしさとやりがいがあります。ロシア語も英語も堪能なS先生なので、子どもたちへの日本語教育も楽しく授業が進んでいくだろうと思います。

 S先生は3月の春休みを利用してウズベキスタンへ旅行してきた話を伝えてくれました。
 ウズベキスタン・リシタン市に「無料で日本語を教える学校」があります。リシタンは、ウズベキスタンの首都タシケントから車で5-6時間かかる町。この町に1999年に小さな日本語私塾を立ち上げたのは、建設機械コマツのエンジニアだった大崎重勝さんと妻の紀子さん。
 ウズベキスタンフェルガナ盆地の他の街にできた自動車工場で重機操作を指導するため、ウズベキスタンと日本を行き来しコマツを退職する際に、退職金を元に、妻の紀子さんと開いた学校だ。学校名は、紀子さんから取り「のりこ学級」といいます。

 のりこ学級は、大崎重勝氏亡き後も、現校長のナジロフ・ガニシェル氏が引き継ぎ、今年で24年目を迎えます。冬は暖房もない施設なので、生徒数はわずかになり、残った生徒を先輩が教える、という形式ですが、春から秋は日本からやってくるボランティア教師が授業を担当します。

 S先生は、ボランティア日本語教師としてのりこ学級を訪問したのです。
 すばらしいお話をうかがい、たいへん感銘を受けました。テレビで報道されたり、新聞の記事になったりしたこともあるのりこ学級ですが、私はまったく知らなかったです。
 のりこ学級は大崎さんの退職金を元に設立されたとはいえ、24年たった今は資金もつき存続が危ぶまれてる中、ボランティアの活動や寄付金によって支えられています。
 ウズベキスタンの伝統的刺繍スザ二を現地の女性と共に作り上げ、日本で売る「kumiko」という会社は、のり子学級と共同でクラウドファンディングをおこなっている、という記事も読みました。いい取り組みだなあと思います。
 クラウドファンディングやボランティア教師の募集。リシタン市までの旅費自弁。のりこ学級に滞在中の宿泊費30ドルは、学校運営費に充てられる。宿泊場所と食事は支給される、ということですが、はるばる自弁でリシタンへでかけ、日本語を教えるという時間を過ごすこと、きっとすばらしい経験になると思うのです。若い人にも、退職後になにもすることが見つかっていない、という人にも、多くの人に日本語教育を体験してもらいたいなあ、と思いました。私?まずはこの先の食費をかせぎ、それからリシタンへの旅費をまかないたい。リシタンに着く前に飢え死にしませんように。
 S先生H先生、無職無収入の退職教師においしい豆腐料理をごちそうしてくださり、ありがとうございました。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「フェミニズムのエトセトラ」

2023-06-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230615
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(5)フェミニズムのエトセトラ

 新代田という駅に行く。はじめていく都内の場所。都営バスを利用していきました。2万円払ったシルバーパス、3月までの通勤で使ったほかは使う機会激減で、元とらなくちゃと、都営バス都営地下鉄利用に励んでいます。バス路線図を都営、京王、東急のをもらい、路線沿線だと遠回りしてもシルバーパスを使います。都内移動は、どの会社バスもシルバーパスが使えるのがありがたい。都の山手線まわりは都営、南側は東急、西側は小田急京王、北側は関東バス。

 6月3日土曜日に友人A子さんが待ち合わせ場所に指定したのは、新代田駅前にある「エトセトラ」という本屋。木金土の週3日しか開店しないという贅沢な商売をしている、フェミニズム専門書店です。日月火水の4日間開店する人件費が、本の売れ行きからすると、店を維持できない、ということらしい。本をここまで買いにくるお客さんは、フェミニズムに関心の高い「意識高い系」の人だから、買いたい本があれば、週3日の開店時間をチェックしてやってくる。私は意識低い系だから、このような本屋があること、前にA子さんに聞いたかもしれないのに、新代田駅というまったく縁のない駅にあるから、来店したことがありませんでした。

 私は待ち合わせ時間2時、とショートメールをもらったのに、いつもの早とちりで開店時間の12時と思ってしまい。雨の中バスで新代田に着きました。1時間ほど店内の本をチェックしたあと、まだ来ない、へんだなと思ってメールを見直し、勘違いに気づきました。近くにマックのような安めのカフェがあるなら、休もうと思ったが、コーヒー500円のカフェが1軒あったけど、私にはお高め。新代田駅の隣に代田図書館があったので、やれ、ありがたし。3階の閲覧室で14時まですごしました。雑誌をぼおっと眺めたあと、無事エトセトラでA子さんに会えました。

 エトセトラは狭い店内に、フェミニズム関連の本、女性作家の本が並んでいます。ここでなければ買えない本を選ぼうと、なんども店内をうろうろしたのですが、やはり私にはフェミニズムは敷居が高いので、若手女性作家6人の時代小説短編集と、家に一冊あるのはわかっているけれど、どこにしまったか探し出すのがたいへんだと思ったので、須賀敦子の「ユルスナールの靴」を買いました。

 私は似非フェミニストだから、女性が自分の心と身体を大事にできる社会を作りたいと思うだけで、フェミニズムに関わる活動は何もしていない。一方A子さんは、翻訳者として活躍し、2022年7月には『THE GIRLS 』を出版しました。アメリカで起きた未成年の体操選手に対する性暴力の実態を描いたルポです。セクハラ問題が映画界ほかで声を上げられる環境になったことで、NHKでも取り上げられました。

 しかし、「監督やコーチにさからったら、試合に出してもらえない」というスポーツ界の環境を変えるには、まだまだ社会が動かない。内容がつらく苦しいルポですから、日本では「売れない翻訳本」です。翻訳はほとんどA子さんが手がけましたが、表に出るのはスポーツライターとして長年の実績があるYさん。
 A子さんは、現在はさまざまな翻訳の仕事をフリー翻訳者としてこなしながら、市川房江に関わる本の出版めざしています。市川房江の著作の著作権相続者にも連絡をとり、準備は続けていますが、地味な内容ですから出版を引き受けてくれるところはまだ見つかっていません。

 A子さんは翻訳者として働き続けて一人息子さんを成人させた、私からみればスーパーママです。優秀でスポーツマンの息子さんは大学卒業後就職し、職場で同窓の女性と知り合って結婚しました。まもなく、結婚式を行うことになっています。
 子どもの結婚式は、母親の「子育て卒業式」でもあります。めでたいことですが、息子さんは、結婚する相手の家族が住む名古屋に近々引っ越すのだそう。名古屋といえば派手婚で有名な土地柄。A子さんは、新夫婦の母校の中にあるチャペルで式をあげ、ちいさなレストランで家族と親しい人の小さな結婚式を望んでいましたが、そこは名古屋。ホテルの派手婚になりそう、とA子さんは予想と異なる展開になったことを話していました。

 私は相変わらずの愚痴で、仕事をやめたあとはぐうたら過ごしているので体は動かしていないし、仕事を探そうと言う意欲もなく、どうにもしょうもない生活であることを報告。ほんとにしょうもない失業者です。

 「男性に頼らなくても一人で生きる生活の手立てを得て、自分の人生に責任を持つ」というA子さんの生き方、私にはまぶしいばかりで、私の人生真っ暗闇だあ、と愚痴るばかり。
 たったひとついいことは、こうして愚痴を聞いてくれる友達がいること。A子さんは「最初に出会った2003年から20年たつんだよね」と言う。ほんとこの20年間、よいことも悪いこともあったけれど、これからの20年も私の愚痴を受け止めてくれることを願いつつ、渋谷の蕎麦屋で私は「ミニ天丼+暖かいそば」セットを食べました。A子さんは、健康保険の手続きなどをしたあと、今住んでいる飛騨に帰るそう。東京に一人暮らしの住まいが見つかったら帰京するとか。20年目の記念おしゃべりは東京かな。

 新代田駅前の線路沿いは、アジサイがずっと続いています。バスで来たから沿線のあじさい見なかったけれど、我が家のあじさいを撮影。玄関前に咲いています。
 
 玄関前で


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ソプラノリサイタル」

2023-06-13 00:00:01 | エッセイ、コラム

20230613
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(4)広川法子ソプラノリサイタル

 ソプラノ歌手広川法子さんは、2年に1度のリサイタルを続けています。私は2019年2021年にイタリア歌曲と日本の歌を聞かせていただきました。2022年12月には、元の職場日本語学校が「市民参加無料講演会」を開催した時に、前半の講演会は元NHkプロデューサーのシルクロードのお話で、後半は広川法子さんの歌「日本と中国をつなぐ歌曲」の演奏でした。

 今回は、13回目のリサイタル。少し心配もありました。コロナ禍の間に体調を崩されたことがあり、2022年の市民ホールでの歌声、前に比べて響きが悪かったのです。でも、それは共鳴の悪いホールであったからだということが、今回音楽ホールMUSICASAの歌声が前のとおりに美しく響く声であったことがわかり、安心もし、その歌声に聞き入ることができました。

プログラム
第1部
シューマン:「献呈(シュッケルト)」「蓮の花(ハイネ)」
和泉耕二:「ふるさとの山(八木重吉)」「母を思う(八木重吉)」「皓々とのぼってゆきたい(八木重吉)」
平井康三郎:「秘唱(西條八十)」「茉莉花の(勝承夫)」「うぬぼれ鏡(小黒恵子)」
第2部
前田佳代子:「小さな恋の物語(寺山修司)」「サンゴ(寺山修司)」
朝岡真木子:「あどけない話(高村光太郎)」「レモン哀歌(高村光太郎)」
トスティ:「夕べに(コニェッティ)」「理想の人(エッリーコ)」
ガスタルドン:「禁じられた歌(フリック・フロック)」


 日本の詩に曲をつけた歌、はじめて聞く曲がありました。会場に見えていた作曲者和泉さん前田さん朝岡さんが紹介されました。
 レモン哀歌など、何度も読み、声に出して朗読もしてきた詩ですが、広川法子さんの歌声で聞くと、しみじみと詩の感情が伝わってきたと感じました。歌の力であり、法子さんの表現力によるものでしょう。

 歌手の夫君はこれまでと同様知り合いに挨拶したり、観覧者に気を配っています。また、リサイタルチラシの写真の蓮の花は、歌手の弟さんが撮影したもの。曲目にハイネの詩「蓮の花」があるので選ばれた写真と思いますが、姉上への愛情を感じる写真でした。

 よいひとときを過ごすことができました。

 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「美術館ミニコンサート」

2023-06-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230611
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(3)美術館ミニコンサート

 大田区立川端龍子記念館で行われた美術館コンサートに参加しました。無料の室内楽コンサートです。
 6月2日は台2号が沖縄に来ており、東京都内も風雨が強かったですが、無料に心引かれて、せっかく申し込みをして当選したのを無駄にしたくなくて出かけました。

イベント名:風薫る美術館コンサート」
開催日時:2023年6月2日(金) 18:30~19:30
演  奏:トリトン弦楽五重奏団(企画・大森室内楽愛好会)

1.モーツァルト「アイネクライネナハトムジーク」 
2.吉松隆「アトムハーツクラブカルテットOp70 4楽章」
3.ブリテン「シンプルシンフォニー」
4.ドヴォルザーク「弦楽五重奏ト長調Op77 1楽章」
アンコール1「アトムハーツクラブカルテットOp70 1楽章
アンコール2「見上げてごらん夜の星を」

 トリトン弦楽五重奏団
第1バイオリン:野村えり子
第2バイオリン:高木祐子
ビオラ:高橋楓
チェロ:三原隆一郎
コントラバス:稲垣理有

 ひとりずつ順に曲を紹介し「この記念館のすぐご近所に住んでいます」というような自己紹介も交えながら、楽しく進行しました。
 クインテッドは「真如親王」の絵の前に設置され、アンコールの「見上げてごらん夜の星を」は、「いっしょに唄ってください」という司会者のことばに隣の人がうたっていたので、真似してみましたが、残念ながら私は歌詞を最初のところしか知らない。でも、楽しかったです。

 真如親王は、私には澁澤龍彦の「高岡親王航海記」です。記念館担当者は「遥か遠くまで経典を求めて航海していった真如親王。今までとじこもらざるを得なかった私たちも、ようやく自由に外に出られるようになりました。今後も、記念館に足を運んでください」という内容の挨拶をしてお開きになりました。
 

 美術館を出てさて帰りのバス停はどこかなと、娘としばし立ち止まりましたが、バス停にすぐたどり着き、バスもすぐ来たので大森駅に戻りました。
 雨の中たいへんでしたが、よい時間をすごすことができました。
 線状降雨帯にぶつかってびしょぬれになった娘は「来年も同じようなコンサートがあったら来てもいいけれど、雨なら絶対来ない」と言い、激しい雨に参ったようでした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「龍子記念館」

2023-06-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20230610
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩6月(4)龍子記念館

 6月2日金曜日、台風2号の影響で線状降雨隊も発達している、という最悪なお天気でしたが、せっかく当選した無料コンサートの機会を無駄にしたくなくて、雨の中でかけました。

 以前娘と川瀬巴水の版画を見るために大田区立郷土博物館へ行ったおりに、近所に龍子記念館があることに気づきました。川端龍子の自宅と庭園を大田区が譲り受けて管理している区立美術館で、一般200円65歳以上無料で入館できます。しかしながら、どの駅からもバスに乗るか徒歩15分とか、とても不便な場所にあるので、なかなかでかける気分にならないでいました。今回は無料のコンサートがあるというので、電車バス乗り継いで出かけました。

 バス停徒歩2分の静かな住宅街のなかにあった川端龍子の自宅の中に龍子記念館がたっています。庭園は区立公園となり、保存されている旧居とともに公開されています。雨の中、庭園見学はどうかなと思って行ったら、そもそも庭園は10時12時14時の1日3回30分のみ公開。私が記念館に着いたのは15時でしたから、お庭の見学はまた次の機会に。
 あとから来た娘は線状降水帯真っただ中の移動になってしまい、くつも服もびしょぬれになりました。水もしたたるいい女のままでは、記念館に入るのも顰蹙になるのではと、大森駅で30分時間を過ごしてからバス停坂下臼田坂下まで来ました。

 龍子記念館の口上
 龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。日本画家・川端龍子(かわばたりゅうし、1885-1966)が78歳を迎える誕生日1963年6月6日の開館。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。
 当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

 ひねくれ者の私は、画家の生涯についても、早世の画家とか、生前は2枚しか絵が売れなかった、というような「薄幸好み」で、龍子は敬遠していました。横山大観や川端龍子のように、長生きして文化勲章も受けて功成り名を遂げた画壇の雄という大家に対して、ちょっと斜めに見るひがみ精神の持ち主で、たぶん絵画の見巧者にはなれない。

 今回の展示は、1963年の開館から60周年の間の歩みをまとめたもの。壁の展示や展示ケースの中には、過去の展覧会ポスターなどが並んでいました。
 作品は大作中心。3m×2mという、どでかい日本画がずらりと並び、壮観です。
 ロビーから展示室に入って最初の作は、『源義経(ジンギスカン)』。義経が大陸に渡りジンギスカンになったという伝説を表しています。
 義経は立派な甲冑をつけ兜をかぶっている姿なので、ジンギスカンになる前の姿らしい。龍子がこの絵を描いたのは、1938(昭和13)年。日中開戦の翌年で、国をあげて大陸侵攻に燃え立っていた時だったので、古くから伝説として流布していた義経ジンギスカン説をとりいれて、人々の大陸への士気をかきたてる作となったと評されています。こういう「時勢にかなう絵を描ける」という画家に、共感できない、と思ってきたのですが、実際に絵を目にして少し違う感想も生まれました。

 ジンギスカンの駱駝!江戸時代に見世物として各地を巡回したというラクダの絵を、江戸の絵師も書き残しています。そして、龍子の時代には、上野でもどこの動物園でも、現実のヒトコブラクダ、フタコブラクダを観察する機会はあったろうと思う。それなのに、画面のラクダは、金色のたてがみフサフサと、じっと前を見つめて座っている。これは、現実のラクダではない。麒麟や鳳凰のような、幻想の中のラクダ。龍子は、義経伝説を利用して「伝説の中に息づく幻」を描きたかったのではないか。この絵が現実には大陸侵攻を鼓舞する時流に利用されたのが事実としても、龍子自身はこの絵によって時流時節とは関係なく、狭い現実を抜け出て広々としたところへはろばろ出かけて行こうとする敗者を描いた。それでラクダは、このような金色鬣のありえへん姿の描かれた、と思って鬣を見る。金の鬣は背中のこぶも覆い、白馬の前に座る義経はややうつむき加減で悲しそうに見える。大陸は遠い。



 展示されている絵、かっぱの母子とか、ほのぼの系もあり、高丘親王航海記に取材した「真如親王」のトビウオ飛翔する中の泰然とした高丘親王もいて、どの大作も迫力がありました。
 「似ている」と題されたカッパの絵。龍子は、パイナップルを手にとって、てっぺんの葉っぱを見ているうちに、それがカッパに見えてきたのだと思う。


 略年譜でのみ画家を見きて、功成り名を遂げた成功者の龍子、と思っていました。が、実際には、長男と長女に先立たれ、1941(昭和16)年には弟の俳人川端茅舎が病没。戦中に三男が戦地で亡くなり、1944(昭和19)年には妻にも先立たれたました。さらに1945年敗戦の2日前には空襲に遭い、龍子の家も被災。龍子は爆撃直撃をまぬがれましたが、使用人ふたりが亡くなりました。

 一番こころ惹かれたのは、「爆弾散華」という絵。
 散華とは、ホトケへの供養のために花をまき散らすこと。「爆弾散華」には、金色の背景に枝からちぎれた葉や実が描かれています。龍子が自宅庭を畑にして栽培していたかぼちゃやトマトが、一撃の爆弾で飛び散ったようすを、「散華」として描いています。


 龍子の家と庭に降り注いだ爆弾。家の手伝いをしていた人も亡くなり、大勢の空襲被災者が廃墟となった東京にあふれました。戦死した息子やそれ以前に亡くなっていた弟川端茅舎や妻。亡き人々への哀悼の思いを「散華」という絵に込めたかったのかと思います。

 娘の紀美子は父を支え伊豆の別荘などにも同行したし、孫の岡信孝は祖父を継いで画家になったし、近しい人々を失った悲しみをうめる家族はいたと0思いますが、龍子は人々への供養として四国遍路を続けました。

 80を過ぎて急激に衰え、絵が描けなくなった自分を嘆いての自殺というのもありえるかと思う。未完の龍の天井画が残された、という。

 龍子美術館、季節ごとに展示が変わるようなので、また訪れてみようとおもいます。


<おわり>
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ぽかぽか春庭「ブルターニュのひかりと風と光展 in SONPO美術館」

2023-06-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

20230608
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩6月(3)ブルターニュの光と風 in SONPO美術館

 近くにある美術館が共同してひとつのテーマで企画展を開催することがあります。うらわ美術館と埼玉県立近代美術館が共同で「大・タイガー立石展」を企画開催したとき、私はぐるっとパスで見ることができるさいたま近代美術館」のほうにしかいきませんでしたけれど。

 しかし、都内の美術館で共同で開催しているとは思えない私立の美術館と国立美術館が同様の企画で同時期に展覧会を開いたとき、学芸員はいったいどんな気持ちなのかと思います。ひとつの企画を実現するには、担当の学芸員は3年ほど前から作品の借入先などとの交渉をはじめ、展覧会開催までたいへんな苦労だと聞きました。その企画が偶然かどうか同じような内容でかぶってしまったとき、相手の館への観覧客の入りなど、お互いに気になってしまうのでは。
 今年、西洋美術館が「憧憬の地ブルターニュ」という企画展を開催。

 西洋美術館の口上は
 19世紀後半から20世紀はじめにかけ、モネ、ゴーガンら多くの画家たちがフランス北西端のブルターニュ地方を訪れ、この地を作品に描きとめました。本展では国立西洋美術館の「松方コレクション」を含む、30か所を超える国内所蔵先と海外の2館からブルターニュをモティーフにした作品約160点を精選。彼らがこの「異郷」に何を求め、何を見出したのかを探ります。  
 西洋美術館の豊富な所蔵品の中からブルターニュに関する絵を集めた企画です。

 一方、SONPO美術館は、フランスブルターニュ地方にあるカンペール美術館から70点弱を借り出し、愛知美術館などからの借り出しも含めて「ブルターニュの光と風」を企画展示。
 さて、どちらが先だったのか、それとも偶然同じような企画がかぶったのか。とりあえず、6月7日水曜日に新宿に出たついでに、SONPO美術館を見てきました。
 新宿に出た時の「ついでの美術館」は、SONPO美術館。今回は、3月までの日本語学校元同僚との新宿京王百貨店内で会食した「ついで美術館観覧」です。会期最終の時期ですから、平日水曜日の午後でしたが、そこそこ人は入っていました。
 日本の他館からの借り入れの絵は写真撮影不可ですが、カンペール美術館の所蔵品は、数点を除いて写真撮影OKでした。
 
画家たちを魅了したフランス〈辺境の地〉ブルターニュの光と風
会期:2023.03.25(土)- 06.11(日)
 
 損保美術館の口上
 豊かな自然と独自の文化を持つことで知られるフランス北西部の地、ブルターニュ。本展は、ブルターニュに魅了された画家たちが描いた作品を通じ、同地の歴史や風景、風俗を幅広くご紹介する展覧会です。深緑の海や険しい断崖が連なる海岸線、平原と深い森とが織りなす固有の景観、また、そこに暮らす人々の慎ましい生活と敬虔な信仰心は、19世紀初め以来、数多くの画家たちの関心を掻き立ててきました。本展では、ブルターニュに関する作品を多数所蔵するカンペール美術館の作品を中心に、45作家による約70点の油彩・版画・素描を通じて、フランス〈辺境の地〉ブルターニュの魅力をご覧いただきます。
 フランス北西部に位置するブルターニュは、日本ではあまり知られていない地域かもしれません。 豊かな自然と独自の文化を持つこの〈辺境の地〉は、19世紀のフランスにおいてもある種の「内なる異世界」として、エキゾティシズムに満ちた眼差しの下に見い出されてきました。本展では、そうしたブルターニュの歴史・自然・風俗を、画家たちの眼差しを通して追体験するように、ご覧いただきます。

 西洋美術館常設展に「ブルターニュ」の女の子を描いたゴーギャンの絵があり、タヒチに向かう前のゴーギャンが描いた地方、という認識があるのみで、ブルターニュにアヴァン川が流れ、ポンタヴァンPont-Avenという町があることも知らず、ブルターニュにカンペール美術館という施設があることも知りませんでした。

 食い気で生きている私が、ブルターニュと聞いて、思い浮かぶのは、そば粉で作るガレットのみ。ガレットも日本そばも庶民の食べ物のはずなのに、東京で食べるガレットはおしゃれで高い食べ物になっているのはどうしてなのか。そばもガレットも好きですけど。

 カンペール美術館の所蔵するポンタヴァン派の作品、その他を70点並べた展覧会。今回見た絵の多くは私が初めて見る画家の作品でした。

 第1章  「ブルターニュの風景—豊饒(ほうじょう)な海と大地」
 ——ロマン主義の文学者たちが描き出したブルターニュは多くの画家を刺激した。多様な風景と、ブルトン語を話し、ケルトの伝統が色濃く残る風習のなかで生きる人々に対する関心の高まりは、やがてサロンにおけるブルターニュ絵画の流行へとつながっていった。画家たちが最初に求めた風景は、激しい嵐の光景だった。古くから伝わる伝説や民間伝承は、ブルターニュの沿岸地域が常に海の脅威と隣り合わせにあったことを伝えており、サロンで活躍した画家たちは、厳しい自然と共に生きる人々の姿を、確かな描写力によって克明に描き出し、人気を博した。
 他方、荒野、森、耕作地などが織りなす内陸部について、画家たちは荒涼とした大地を繰り返し描くことで、不毛な大地というブルターニュの典型的なイメージを作り上げていくことになる。素朴な生活を続ける人々の暮らしぶりや、「パルドン祭」に象徴される人々の信仰心のあつさも、魅力的な画題として繰り返し描かれた。

 第1展示室には、どでかい作品がずらり。幅2mくらいの絵が並んでブルターニュの海や海岸を描いていました。

 テオドール・ギュタン「ベルイル沿岸の暴風雨」1851

 アルフレッド・ギュ「さらば」1892

 この絵は、暴風雨で遭難した漁船の船長が死んで
しまった息子にわかれを告げているシーンだという解説がついていました。ポスターを見た時は恋人との別れに見えたので、ほんものを見ると解説詠んだりして見方が変わるもんだと思いました。

 次の絵も、解説みなければ、こちらも難破しかかっているボートかと見てしまうところでしたが、絵のタイトルは「鯖漁」魚を釣り上げる漁師たちの絵でした。どうも海無し県に生まれ育ったもんで、海に理解が行き届かない。
 テオフィル・デイロール「鯖漁」1881


 アルフレッド・ギュ「コンカルノーの鯖加工場で働く娘たち」1896


エマニュエル・ランシエ「干潮のドゥアルヌネ湾」1879
  

 エミール・ヴェルニエ「コンカルノーのブルターニュの引馬」1883


アドルフ・ルル―「ブルターニュの婚礼」1863


 リュシアン・レヴィ=デュルメール「パンマールの聖母」1896

第2章 
 ブルターニュに集う画家たち—印象派からナビ派へ」——ブルターニュのとりわけ大きな魅力は、果てしない海と空の広がりではないだろうか。持ち運び可能な画材を携えて各地を旅した風景画家たちの心を捉えた。港町で育ち、海を愛したウジェーヌ・ブーダンが素早く的確に描きとめた空の様子は、印象派に先駆けた自然描写となった。
 ポール・ゴーギャンは、フランス国内の異邦といえるブルターニュへ赴き、1886年には小村ポン=タバンにたどり着く。同地に滞在していたエミール・ベルナールやポール・セリュジエらとの出会いは、太く明確な輪郭線と平坦な色面構成を特徴とする「クロワゾニスム」を作り上げ、彼ら「ポン=タバン派」の誕生によって、ブルターニュは近代絵画史上にその名を刻むこととなった。
 ゴーギャンの教えをセリュジエがパリに持ち帰ったことは、ピエール・ボナールやモーリス・ドニらによる「ナビ派」誕生へとつながり、彼らは、心象的なイメージを重んじ色面と線で大胆に表現する手法をさらに展開することで、印象派に代わる新たな表現世界を作り上げていった。

ウジェーヌ・ブータン「ノルマンディーの風景」1854-57

クロード・モネ「」ルエルの眺め」1858
 

 ポール・ゴーギャン「ブルターニュの子供」1889


 アンリ・モレ《ポン=タヴァンの風景》 1888-89年


ポール・セルジェ「ル・プールデュの老婦人」1889-93


 ポール・セルジュ「蒼い背景のりんご」1917


 ポール・セルジュ「さようならゴーギャン」1906


 タヒチに向かうゴーギャンとの別れを描いたセルジュの作品。ポンタヴァン派という一派を立ち上げて育てたゴーギャンは、さらに「見知らぬ土地」を求めて旅立っていきました。新しい土地を指さすゴーギャンに対して、おわかれを言うセルジュは、寂しげですが、自分はこの土地に残るという気持ちを示しているように思います。

 第3章 
 新たな眼差し—多様な表現の探求」——ゴーギャンが去った後のブルターニュで制作に励んだ画家たちは、さまざまな絵画表現を試みた。1870年代に誕生した印象派、ついで1880年代に登場した新印象派の様式を特徴づける明るい色彩と筆触はポン=タバン派の画家たちにおいても継承され、風景画の中でさらなる展開を見せた。

アンリ・ジャン・ギョーム・マルタン「ブルターニュの海」1900

 エドゥアール江戸問・ドワニュー「ポンラぺの子どもたち」


リュシアン・シモン《じゃがいもの収穫》 1907年 カンペール美術館 


アンドレ・ドーシェ「ラニュロンの松の木」1917

 展示の中に浮世絵の影響がみられる作品がたくさんあったが、この松の木の描写もそのひとつ。松の幹を輪郭線で黒く描いているようすなどが見てとれた。

マックス・ジャコブ「ふたりのブルターニュの女性」1931


ピエール・ド・ブレ「ブルターニュの少女」1940 「ブルターニュの女性」1940

 19世紀末から1940年頃までのブルターニュを描いた画家たち。モネやゴーギャンのように日本でよく知られた画家の作品もありましたが、私がはじめて知った画家も多かったです。パリを中心として集まっていた画家にとって、ブルターニュはエキゾチックな異郷として重要なモチーフになっていたことがよくわかりました。ブルターニュの女性風俗も、独特な頭巾の描写にパリとは異なる衣裳への「独特の美」を見出そうとする画家のまなざしを感じました。

 あまり乗り気でないけれど、新宿に出たついでだからと立ち寄った美術館。よい時間をすごすことが出来ました。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「吹きガラス展 in サントリー美術館」

2023-06-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

20230606
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩6月(2)吹きガラス展 in サントリー美術館

 月曜日に開館している美術館は少なくて、月曜日に出かけたとき「ついでに美術館を歩こう」という場合の選択肢がせまくなります。6月5日月曜日の「ついで」は、高いからどうしようかなあ、と迷っていたサントリー美術館の「吹きガラス」展に行きました。シルバー割引がないサントリー、吹きガラス展は1500円。一日の行楽費は交通費食費を含めて千円前後という自分ルール。別段、ルールを守らなくても、だれに文句を言われることもないですが。

 六本木ミッドタウンは、いつきてもオシャレな都会で、私には似合わない街ですが、美術館に入ってしまえば、ガラスの展示を楽しみに過ごせる。(撮影可能のガラスには撮影OKマーク)

展覧会「吹きガラス 妙なるかたち、技の妙」
会期:2023年4月22日(土)〜6月25日(日)

 吹きガラスは細長いパイプの先に溶けたガラスを巻き付け、パイプの一方から息を吹き込んで先端のガラスを丸く仕上げる技法です。紀元前1~2世紀にはオリエントや古代地中海沿岸で技法が発達しました。ガラスの温度などで微妙な色と形を造形でき、現代のガラス作家も使用している技法です。 
 作り方が不明だったガラス器二連瓶四連瓶の復元の展示もあり、6階の映像公開では江戸期ちろり(酒器)の再現のようすを追ったドキュメンタリーが上映されていました。

 第2展示室


 第1章 古代ローマの吹きガラス
 サントリー美術館の解説
 吹きガラスは紀元前1世紀中頃、ローマ帝国下の東地中海沿岸域に始まると考えられています。初期の吹きガラスには、石や金属の器を思わせる色づかいやシャープな形をみることができますが、次第に、型を使わずに成形されたやわらかく、のびやかな造形がみられるようになります。重力や遠心力を活かした自然な曲線美をもつ形と、それを彩る飴細工のような大らかでのびのびとした装飾は、ローマ時代の吹きガラスの魅力です。

 シリア2~3世紀の把手付水注、地中海沿岸1-5世紀頸長瓶、シリア1-5世紀水柱 サントリー美術館蔵

  吊手付二十院 4-5世紀(東地中海沿岸)
 七耳付瓶シリア4世紀 岡山市立オリエント美術館
 

 第2章 ホットワークの魔法 ――ヨーロッパの吹きガラス
 サントリー美術館の解説
 熔解炉で熔かした熱いガラスを成形・加工することをホットワークといいます。ホットワークによる表現は、15~17世紀頃のイタリア、ヴェネチアにおいてひとつの頂点に達したといっても過言ではないでしょう。
 この時期のヴェネチアの吹きガラスは、美しく澄んだ素材、洗練された優美な形、そしてホットワークによる複雑かつ繊細で立体的な装飾をもち、高級品としてヨーロッパのガラス市場を独占しました。16世紀に発展したレース・ガラスは、ホットワークを極めたヴェネチアの職人の発想力と創造力の賜物です。その影響は大きく、同時期のヨーロッパ各地でヴェネチア様式の作品が作られただけでなく、現代のガラス作家にもその技が引き継がれています。

 ヴェネチアを中心としたイタリアの16~17世紀のガラス。レースのガラス製品は、箱根のガラス美術館でも見てきたけれど、何度みてもその技術はすごいなあと感じます。

 船形水差16-17世紀(イタリア)



 レース・ガラス脚付鉢 16-17世紀 イタリア


第Ⅲ章:制約がもたらす情趣 ――東アジアの吹きガラス
 サントリー美術館の解説
 東アジアにおける吹きガラスの生産は、5世紀頃に西方からの影響のもとで始まったとみられています。しかし、西方のものに比べると、東アジアの吹きガラスは概して小さく薄手で、ホットワークによる装飾も少なく、素朴なつくりをしています。実は、近代より前に東アジアで行われた吹きガラスの工程は、西方のそれとは異なるものでした。とくに、口の成形に必要なポンテと呼ばれる道具を使用しないこと、厚く大きな器を作るために欠かせない徐冷を行う本格的な設備がなかったことは、吹きガラスの表現に制約をもたらしました。
 12~19世紀までの東アジアで作られた吹きガラスを、日本に伝わる作品を通してご紹介します。また、本展にあわせて実施した当館所蔵《藍色ちろり》の技法研究の成果をもとに、江戸時代の吹きガラス職人の技に迫ります。
 藍色ちろり 18世紀 日本
  
 
 第Ⅳ章:今に連なる手仕事 ――近代日本の吹きガラス
 明治時代に入ると、日本でも近代的なガラス産業の道が拓かれます。ヨーロッパから招いた技術者の指導のもと、大規模な熔解炉を用いた複数名の流れ作業による製作スタイルが導入され、西洋式の道具や製法も伝授されました。その導入初期に重要な役割を果たしたのが品川硝子製造所です。ここで学んだ伝習生たちは、後に各地にガラス工場を開き、今日に至るガラス産業の発展に貢献しました。
 明治時代末頃から昭和時代初期にかけて作られた氷コップ(かき氷入れ)にみられる多様な装飾技法は、西洋から伝えられた技術が国内において習熟したことを物語っています。それだけでなく、あぶり出し技法による日本の伝統文様の表現などは、西洋技術を日本風にアレンジした試みといえるでしょう。バリエーション豊かな氷コップは、機械化以前の、手吹きによるガラス生三の最盛期の様子を伝えてくれます。 
 氷椀 20世紀 日本


第Ⅴ章:広がる可能性 ――現代アートとしての吹きガラス
 産業としての吹きガラスの流れと並行して、20世紀以降には芸術表現の手法としての吹きガラスの存在も見逃せません。器などの実用品の生産に用いられてきた伝統的な技法や方法に捉われることなく、熱く熔けたガラスを「吹いて膨らませる」という吹きガラスの基本を活かした新しい造形表現への挑戦が、現在進行形で進んでいます。
本章では、新進気鋭の若手作家4名の作品をご紹介します。「これも吹きガラス?」と思うような作品を通じ、吹きガラスのさらなる可能性をご覧ください。
 現代美術としてのガラス作品を展示しただい2展示室




 映像上映室で

 入口で


 さまざまな色を含みつつ光を通すその輝きにガラスの美しさに心ひかれます。古代の吹きガラス、ヴェネチアのガラス技巧のすごさ、近代江戸期の職人技、現代作家の斬新な作品。さまざまなガラスの美を堪能できました。
 「藍色ちろり」を復元した東京芸大の記録もとても興味深く拝見。美しいものに失業者の心もいやされます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「花・宮本三郎美術記念館」

2023-06-04 00:00:01 | エッセイ、コラム


20230604
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩6月(1)花・宮本三郎記念美術館

 ミサイルママを誘って、宮本三郎記念美術館で花の絵を観賞。ミサイルママはパステル画のサークルに入って、今は名画の模写を続けて絵の練習をしています。

 宮本三郎記念美術館は、世田谷美術館の分館で、宮本三郎自宅兼アトリエにしていた土地を譲り受け、展示室と講座室を建てた、という小さな美術館です。2020年には、娘と「描かれた女性たち」という特集展示を見ました。
 今回の「花」の展示もとてもよかったです。



宮本三郎記念美術館の口上 
 仕事に疲れると花屋の店を一巡して回る。私の近くには花屋が七、八軒もある。
花は季節を早く知らせてくれる。 ー宮本三郎「花」『繪』(通巻第5号・1964年7月号)より
 洋画家・宮本三郎(1905-1974)が生涯を通じて愛したモティーフのひとつ、花。奥沢の自宅兼アトリエで送った生活と制作の傍らには、常に花がありました。初期の作品には、人物画や静物画を構成する要素として、花瓶に生けられた花が穏やかなタッチで丁寧に描かれましたが、次第に花そのものが主役となる機会が増えると、表面的な美しさや形態の再現にとどまらず、よりその実体や本質を追求するかのような試みが展開されます。やがて1960年代後半にもなると、宮本の花は、鮮やかな色彩と力強いタッチによって画面を覆いつくし、花自らがひとつの生命体であることを主張し始めるのでした。それは、動かないもの、命のないものという意味での「静物=StillLife」を超え、自律する存在として鮮烈な輝きを放っています。またこの変化は、宮本が描く女性像の変遷――他者から視線を注がれる対象としての女性から、個としての主張と生を漲らせた存在としての女性へ――にも重なります。宮本三郎が「花」を描いた作品を中心に、時代ごとの女性像を織り交ぜつつご紹介します。



 宮本の描く花も女性像も、とても色彩が鮮やかで華やかです。ミサイルママはベンチにあった図録を見ながら「ずいぶん画風が変わっている画家さんね」と、戦争画の時代の作や戦後の作品をふりかえっていました。


<つづく>
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