春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭2014年1月 目次

2014-01-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/01/30
ぽかぽか春庭>2014年1月 目次

01/01 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(1)騎
01/02 謹賀新年2014十四事(2)棒
01/04 謹賀新年2014十四事(3)石火箭
01/05 謹賀新年2014十四事(4)一本槍と自由な槍
01/07 謹賀新年2014十四事(5)弓矢で射て食うヤバいラーメン
01/08 謹賀新年2014十四事(6)鉄砲&無鉄砲

01/09 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(1)年の初めのためしとて
01/11 十四事日記1月(2)踊る寒冷前線
01/12 十四事日記1月(3)冬ごもり
01/14 十四事日記1月(4)89歳の三婆

01/15 ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(1)古ガラスから見る景色
01/16 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(2)近代和風住宅・拝島三井別邸&ゆかりの家
01/18 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(3)小石川の銅御殿
01/19 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(4)新潟&山形の近代和風建築
01/21 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(5)遠山記念館
01/22 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(6)鎌倉の旧松崎邸
01/23 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(7)高橋是清邸の復元
01/25 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(8)デ・ラランデ邸のネーミング
01/26 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(9)前川邸大川邸・江戸東京たてもの園
01/28 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(10)旧千葉常五郎邸(レストラン・ロアらブッシュ)
01/29 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(11)旧原邦造邸-原美術館

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ぽかぽか春庭「旧原邦造邸-原美術館(品川)」

2014-01-29 00:00:01 | エッセイ、コラム

2014/01/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(10)旧原邦造邸-原美術館

 1月26日の午後、原美術館へ行きました。前から行きたい邸宅ではあったのですが、現代美術専門の展示なので、なかなか足が向きませんでした。もひとつ言うと2000円で都内各所の美術館の通常展に入れる「ぐるっとパス」の対象美術館ではなかったので、入館料千円を「高い!」と感じていた、というせこい理由もあります。

  1月26日は、増上寺で友人K子さんと会う約束があったので、「お寺と東京タワー」といういつもの図柄を写真に撮ってから、品川へ。原美術館に足が向かなかったのは、品川から10分ほど歩くからです。駅から1~5分が、私の歩ける範囲。10分は「遠い」と感じるけれど、タクシー使うほどでもないし、御殿山散歩だと思って歩きました。

  1月26日の午後、原美術館は混みこみでした。なんとなれば、1月26日の午前中、NHKの日曜美術館で原美術館の展示「ミヒャエル ボレマンス-アドバンテージ」を取り上げたので、午前中の放映を見て午後出かけてきた善男善女が押しも切らず。



 混んでいる日に出かけてきたこちらが悪いのですから、人の姿が写りこまないように、カメラを手にしたまま、「そこの人、のんびり入口に立って煙草吸っていないで、さっさと帰ってくださいまし」と、しばし待って建物写真を撮りました。
 
 館内禁煙のため、エントランスに灰皿が置いてあって、なかなか人のいないエントランスを撮影できませんでした。ついに喫煙中の人も含む写真を撮ってしまったけれど、後ろ向きだから、ま、いいか。


 さて、館内撮影禁止です。これには、わたくし異論がござります。

 建物撮影の「私的規則」。
1)個人所有で現住している建物は、住んでいる人の許可がなければ撮影しない。(Googleアースは勝手に撮影して勝手に公開しているけれど)
2)一般公開している施設の建物は、外観は勝手に撮影。内部は、人の顔が写りこまないようにして撮影する。
3)「館内撮影禁止」と書いてあるところが多いけれど、自分自身の私的規則に従いつつ、節度ある撮影を勝手にする。著作権があるアート作品などの撮影禁止はわかるけれど、著作権が切れている作品で、当館の所有作品については、西洋美術館や近代美術館、東京国立博物館のように、撮影許可を出すべき。アートを広く公に開示するのが、公共美術館や博物館の役目だと思うので。

 さて、原美術館は、財団法人アルカンシェール美術財団の運営。所蔵作品のうち、著作権が作家にある場合、撮影禁止の措置はわかります。しかし公的に活動をしている財団法人なら、「館内撮影全面禁止」というのは厳しすぎ。個人が特定されるように人を撮さないことやフラッシュ禁止などの注意事項を守るという書面にサインをした者に、撮影許可シールでも発行して、撮影させてほしいです。

 元の邸宅の2階トイレをそのまま利用しているとおぼしき「この水は飲用できません-椿」という作品や、階段下の空間を利用した森村泰昌『輪舞』を撮影したかったのですが、我慢しました。
 しかし、3階に上がる階段など、人がいない時に(無許可で!)撮影しました。

 建物の設計者渡辺仁(1887 - 1973)は、ホテルニューグランド(1927)や、ネオ・ルネサンス様式を取り入れた服部時計店(現・銀座の和光)(1932)などを手がけた建築家です。

中庭から見る


 原邦造邸は、1938(昭和13)の建設で、「初期モダニズム」の作品。家の形がとてもユニークです。扇の、「紙が貼ってある部分の形」といえばイメージできるでしょうか。
 カーブしている廊下を撮りたかったのですが、大勢の人が行き交っていて、人が写りこまないで撮影できる瞬間がありませんでした。

階段を3階から見下ろす


下から見上げる   

 1階エントランスからすぐの部屋は吹き抜けになっていて、中2階から見下ろせる空間があるなど、とてもおもしろい造りでした。
 建物の説明パンフレットが置いてなかったので、建築史家が説明をしてくれるツアーなどがあるときに是非また訪れたいと思います。

  2階のロフト部屋だったと思われる空間に、奈良美智作品が並べられています。奈良美智、マグカップからTシャツから、なんにでも奈良作品をくっつけて売りまくっているアーティスト。たしか、東日本大震災復興のためには、奈良作品をパブリックドメインとして利用していいと宣言したような気がしたので、この部屋の写真を撮ったからといって、著作権うんぬんする人じゃないと思うので撮りました。原美術館から削除要請があれば、消します。



 ミヒャエル・ボレマンス展は、点数すくなかったけれど、ゆったりした展示で、なかなかよかったです。
 でも、現代代美術ってほんと、わかんないです。好きか嫌いかのどちらかでいいんだけれど。奈良美智は、私の中では、ヒロヤマガタやラッセンと同じイメージでした。奈良自身は、ラッセンと同列にされて怒っているみたいですけれど、まあ、そうおこらんで欲しい。私には、奈良も村上隆もウォーホールもわからぬ。

 奈良作品、ポスターやら版画やらグッズ、売れたもん勝ち、みたいな。村上隆ほど自己プロデュースができていないと思ったけれど、原美術館のミュージアムショップでは、若いカップルが奈良美智グッズを買っていました。ほら、かれら、「付き合って1年目の記念日グッズ」として、マグカップお買い上げです。私は息子が6歳のときに母の日記念にくれた百均のマグカップをいまだにつかっているがな。

 帰りは、御殿山公園を通り抜け、三菱開東閣(旧岩崎家高輪別邸)の1万坪の広さを確認すべく、2m以上ある石垣の周りをぐるりと回って、高輪4丁目のお屋敷町を歩きました。高輪ハウスとの境目のすきまから開東閣を覗き込もうとしたら、監視カメラ下の街灯がピカピカ点滅しはじめたので、あわてて離れる。ずっとそこにいたら、きっと警備員に尋問されたんだろう。

 白金台や渋谷松濤のお屋敷町を歩いたときと同じように「お前などがウソウソと歩いていい町ではないぞぇ」という無言の圧力を感じましたが、「天下の公道、下々が歩いてもいいんです。税金払ってるし」と思いながら、歩いて、高輪プリンス前のバス停からバスに乗りました。御殿山の1万坪、これを見れば、田園調布の100坪なんて貧乏人だと思います、確かに。

 都内山手線内の高級住宅街No.1の御殿山地区のイメージがわかない方は、皇后ご実家の正田家(家屋は現存せず)があった池田山や、IT長者の若夫人がシロガネーゼと名付けられて闊歩しているという白金などが並ぶ町の品川側ということで想像してください。具体的にいうと、たった100坪のビンボーな家を建てるなら、土地代は7億円ほどですわ。有名建築家設計のおうちは、そうね、3億くらいとして、10億円もあればそこそこの家ができあがるんじゃございませんこと?おほほ。

 3月末に群馬県渋川市に建つ、磯崎新設計の原美術館別館も見たいと思っています。
 3月29日、ご用とお急ぎでない方がいらっしたら、現地集合して、いっしょに建物と現代美術鑑賞をいたしましょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュレストラン」

2014-01-28 00:00:06 | エッセイ、コラム
2014/01/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(9)旧千葉常五郎邸-ミュージアム1999ロアラブッシュ

 東京大空襲に焼け残った明治~昭和前期の近代建築。保存にはいろいろな苦労がつきものですが、大きく3つの保存のありかたが考えられます。
 ひとつは、テーマパーク型。古い建物を解体したうえで、明治村や江戸東京たてもの園、府中郷土の森博物館などの、建築を集めた博物館に復元移築する方法。
 もうひとつは、元の場所にそのまま保存し、博物館、美術館などに改築して転用保存する方法。最後に、古い家にそのまま住み続ける方法。
 三番目の方法には、持ち主のよほどの覚悟が必要です。文化財指定を受けると、改築などにさまざまな制約があり、居住者にとってはあまり快適な住まいではなくなるし、公開して見学者を迎え入れるのも、なかなかたいへんなことです。古い建物の維持管理には潤沢な資金も必要になります。

 ヨーロッパなどでは、古い城館に手を入れて、ホテルやレストランとして使用する例があります。日本の近代洋風建築のなかにも、個人住宅をそのまま美術館に改装した高崎市美術館(旧井上房一郎邸)や、原美術館(旧原邦造邸)」などもあります。渋谷区渋谷にある結婚式場兼レストランのミュージアム1999ロアラブッシュも、現役で営業している近代建築のひとつです。

レストラン・ロアラブッシュ、エントランス


 多くのサイトでこの洋館レストランを取り上げていますが、レストランのパンフレットをそのまま引用しているところが多く、きちんとした検証しているところが少ないように思います。
 私もさいしょにレストランの案内を見たときには、資産家の息子と公爵令嬢が結婚する際に建てられた家、という説明を鵜呑みにしましたが、レストランまで出かけてパンフレットをもらったら、「旧男爵家の建てた邸宅」と書いてあったので、あれ、おかしいな、と気づきました。

 結婚式場の案内パンフレットには「その昔 旧男爵家が子息の婚姻の際に贅を尽くして築いたもの」と書かれています。しかし、この家の持ち主が男爵であったというのは、誤りです。
 レストランの案内パンフレットのほうには「この洋館はもともと、ある資産家が公爵令嬢と結婚する息子への祝いに建てた邸宅」と書かれています。こちらのほうが、史実に近いですが、それでも「話を盛っている」。公爵ではないです。

 この家に住んだ新婚の夫婦は、夫、千葉常五郎(1911(明治44)-1998(平成10))。妻、鍋島京子(1913~没年不明、生きているなら百歳)
 鍋島京子は、子爵・鍋島直庸(1879-1962)の娘です。
 京子の父鍋島直庸は、父、子爵鍋島直虎(1879-1962)母、松平清子(伯爵松平茂昭(直廉)の子息。

 鍋島京子が、公爵令嬢と書かれているのは、佐賀藩の殿様であった侯爵鍋島直大と混同している上、鍋島直大も公爵ではなく、侯爵です。また、鍋島直庸を佐賀藩主と書いてあるのも誤り。佐賀藩主は鍋島直大で、鍋島直庸は、肥前小城藩7万石の殿様でした。

 千葉常五郎を「旧男爵家」としているレストラン側の説明ですが、誤りです。千葉家は、資産家ではあったにちがいないけれど、男爵ではありません。この豪華な洋館が建てられたおり、近隣の人たちの間に「華族様のお屋敷か」「男爵家の邸宅だそうだ」という噂がたったという伝説が、もっともらしく伝えられたもので、日本の華族は公侯伯子男、すべて家名がわかっています。1869(明治2)年の最初の427家の華族から1947年に華族制度が廃止され1011家が爵位廃止されるまでの、すべての家の記録があるからです。

 鍋島京子と結婚した千葉常五郎は、千葉直五郎の息子。常五郎は、米国アーマスト大学卒業後、1933(昭和8)年に帰国して、鍋島京子と結婚。渋谷の家は、大正末年に起工し、昭和7年に竣工したということなので、まさに、新帰朝の息子の結婚に合わせて建てられたのだと思います。アーマスト大学は、新島襄が卒業した大学です。千葉常五郎が卒業したのが確かかどうかは、卒業生名簿を当たればいいのですが、確認していません。

入り口反対側から


 千葉常五郎は、戦後、ゴルフボール製作をはじめて、成功をおさめたという起業家です。
 常五郎の父親の千葉直五郎(1888-1970)は、明治の実業家。池貝鉄工所監査役などをつとめました。直五郎の兄の千葉松兵衛(ちばまつべい)は、江戸時代から代々続いた煙草屋を大きく発展させて日本三大煙草王と呼ばれるような大企業にした上で、煙草業が官営化される際に大金で売り抜け大資産家となった人です。

 レストランは、1981年から会員制クラブとして営業をはじめたと、レストランのパンフレットに書いてあります。当主の千葉常五郎の没年が1998年とすると、その翌年には一般のレストランに改装したのだろうと思います。ミュージアム1999というネーミングは、千葉常五郎の没年の翌年に改装開店したことを示唆しています。これも、確認した情報ではありませんけれど。春庭が追跡できたところは、以上です。

 つまるところ、レストランのパンフレットに書かれていることの2点は、誤情報です。「この館の当主であった千葉家は男爵家ではない」「千葉常五郎夫人の京子は公爵家令嬢ではなく、子爵家令嬢」というふたつの点で誤った情報を掲載し、多くの人がそのまま引用している、ということです。誤情報がネットで拡散していくのがよくわかります。

 ほんとうを言うと、レストランの持ち主が、元男爵だろうと公爵だろうとどっちでもいいようなもんです。爵位なんぞをありがたがったりしない、誰もが平等な世の中を望んできたのですから。ただ、こういうレストランパンフレットなどに「爵位をありがたがる」ような宣伝文句が書いてあると、へそ曲がりな性分がついつい鎌首もたげる。(爵位なんぞとは無縁の庶民のひがみっていうと、そのとおりかもしれないですけれど)

 1959年の皇太子妃(現・皇后)お輿入れの際に、ある元皇族は、「爵位もない平民から皇室に入るなんて世も末だ」と、日記に憤懣やるかたなしと記述しました。
 今でも、まだまだ爵位という「人に等級をつけ、身分の上下を尊ぶ人々」はいるんだなあと感じたことでした。
 「公爵家令嬢が嫁入りする際に建てられた男爵邸宅」というと、なんだか立派そうに思える、という庶民感覚を宣伝に利用した、と言えばそれまでです。一種のファンタジーですね。

 ほんとうは、2月15日にここでランチしようと思ったのですが、この日は、あいにくと結婚式が入っているので、ランチ営業はなしという案内嬢の説明でした。残念。またの機会に。

入り口まえのライオンレリーフの口から水が流れていました。
 

入り口の中側の階段

入り口のホール奥


 建物としては、爵位があろうとなかろうと、とてもすてきな邸宅です。
 設計・黒川仁三、施工・竹中工務店という点、まだ確かめていません。

 黒川仁三が黒川紀章の父親だというのも、ロアラブッシュ紹介のサイトにこぞって書かれていることなのですが、黒川紀章の父親は、同じ建築家でも、黒川巳喜(1905(明治33)-1994(平成6)と思うので、このへんもきちんと調べてみなければなりません。いずれにせよ、レストランの宣伝パンフレットを鵜呑みにしてはいけませんね。

(注記:2016/03/23 千葉弘氏のコメントにより、一部分削除)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「前川邸&大川邸 江戸東京たてもの園」

2014-01-26 00:00:06 | エッセイ、コラム
2014/01/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(8)江戸東京たてもの園の邸宅

 江戸東京たてもの園をときどき散歩すると述べましたが、そのときそのときの気分で、東ゾーンを中心に歩いたり、西ゾーンでゆったりすごしたりと、30棟ある建物のうち、どこを中心に見て歩くか、テーマはさまざまです。

 2013年9月の散歩では「個人の洋式邸宅」というテーマでしたから、三井八郎右衛門邸や高橋是清邸は、お屋敷前をさっと通過しただけ。常盤台写真場、前川國男邸などを覗いて歩きました。

(1)前川國男のアトリエ自邸も、以前は「あら、すてきなおうち」と思って見ただけでしたが、前川の建築作品、東京文化会館、 紀伊國屋書店新宿店、東京都美術館、国際基督教大学湯浅八郎記念館、などを「これが前川作品か」と、意識して見たあとではやはり、眺め方が変わったように思います。



 自邸というのは、建築家がさいしょに自分の腕前を振るう作品なので、個性や建築家の思想までがぎゅうっと詰め込まれた家になります。前川自邸は、ル・コルビジェのもとで働いた前川の個性がおおいに発揮された美しい家。

 1942年、対米戦開戦の翌年、国粋主義一辺倒となる時代にあって。このあくまでも明るい日差し燦々と入り込む開放的な家を建てたこと。暗い時代へと突き進む日本社会の中にあって、どのような思いで前川がこの家をこれほどまでに心広々と広がる、明るい部屋にしたのか。彼の思いが陽の光とともに差し込んでくるような南向きの窓です。



南面いっぱいの窓


(2) 前川邸の隣に移築復元されたのは、田園調布の家、大川邸。


 大川邸は「案外こじんまりとまとまった家だなあ」と感じる間取りでした。


 2013年12月の「日曜地学ハイキング」に参加して田園調布の町並みをはじめて現地で見ました。田園調布は、1925年(大正14)に「郊外住宅」のはしりとして開発された新開地です。「都心に通勤する給与生活者が年収の範囲で持ち家を建てられる住宅地」がコンセプトの住宅地でした。

 久米宏司会「鉄道の百年」という番組を見ました。春庭も「鉄オタ」のひとり(乗り鉄ですが)なので、楽しく見ていたところ、鉄道会社開発の住宅地の話になりました。関西の「新興住宅地」の百年のあゆみを、紹介していて、3歳のとき、親が住宅を月賦で購入した家に入居してから、90年間住み続けている人が登場して家の歴史を語っていました。

 関西の開發に成功した小林一三は、東京の田園調布の開発にあたっても、関東経済界のドンであった渋沢栄一に協力したそうです。住宅地開発の成功パターンを伝授したのです。安い値段のときに周辺の土地を買い占める。鉄道敷設、駅の周辺に住宅を建て、住宅地として売り出す。土地の値段は急騰、という開発パターンを東京でも成功させました。

 関西には90年ものあいだ住み続けた人がいましたが、田園調布に住み続けた人がいたのかどうか、知りたいところです。東京の土地値狂乱は、凄まじかったですから。
 郊外型のこぎれいな住宅地として知れ渡ると、田園調布の土地の値段はどんどん釣り上がり、一般のサラリーマンには相続税が払えなくなる⇒金持ちが買い取る⇒ますます土地の値が上がる、という繰り返しで、今では、田園調布の駅付近では、1平方メートルあたり百万円。とても「都心の会社に通勤する一般の給与生活者」が購入できる家ではなくなりました。

 私は、漫才コンビが金持ちになることの象徴として「田園調布に家が建つ」とギャグで言っていたので、田園調布という地名をしりました。開発当初は「ふつうの街」だったこと、今頃知りました。
 大正末期から昭和にかけての田園調布。むろん、まだまだ裏長屋の店子になるのがほとんどの東京庶民の暮らしぶりから見れば、こじんまりでも田園調布の家はハイレベルなことは間違いないのですが、現在の田園調布は、なんかちょっと敷居が高すぎ。

 夫の友人が田園調布に住んでいて「オレんちは田園調布のなかだと貧乏家だ」と、言っていたので、そう思って遊びに行ったら100坪くらいの家屋敷。その友人は「田園調布で300坪くらいの敷地でないと、肩身狭い思いでご近所付き合いしなきゃならない」と言っていたそうなので、あらま、田園調布に住むのもたいへんなんだわぁと思いました。(すぐ値段の話になるHALの癖です。田園調布の土地、1坪(3.3平方m)あたり300万として、100ツボなら3億円。ひえx~)

 未だに公団団地の2DKに住み続けている我が家としては、田園調布で百坪じゃ肩身狭いなんてこというヤツには回し蹴り食らわせてやりたいですけれどね。まあ、ねたみそねみひがみが私の主食ですから。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「デ・ラランデ邸たてもの園のネーミング」

2014-01-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/01/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(7)デ・ラランデ邸たてもの園のネーミング

 旧岩崎邸の貴重な金唐革紙の壁紙にペンキを塗って「ぴかぴかに新しくなった」ことをよしとした米軍将校の話をしました。
 家作りや補修において、「ペンキを塗る」というのは、芝刈りと並んでアメリカではとてもポピュラーな「男の家事」。将校夫人は「そうね、ここはクリーム色のペンキを塗って」なんて、夫や部下の兵士に指示していたのでしょうね。
 金唐革紙、今では復元製作すると1平方メートルあたり、百万円もするそうです。(畳2枚分の屏風仕立てで500万。いつものことですが、すぐ値段の話になってしまって、すみません)

 西洋住宅のうち、木造の場合、素木のままになっているのはあまりみかけません。とくにアメリカの木造一般住宅だと、好みの色合いにペンキを塗るのが、各家の個性にもなっているようです。
 「下見板張り(したみいたばり)」または「押縁下見(おしぶちしたみ)」と呼ばれる薄く細い板を下から順に少しずつ重ねていく壁にペンキが塗られます。

 文明開化後、一般住宅が洋館にデザインされたとき、この下見板張りが数多く採用されました。
 前回、永井荷風(1879 -1959)の「偏奇館(へんきかん」が東京大空襲で焼失した話を書きました。
 1920(大正9)年から1945年空襲で焼け落ちるまで、荷風41歳から65歳の20余年のあいだ住んだ家です。二階建て瓦葺木造洋館を新築したので、外観内装ともに荷風自身の好みが反映していたと見てよいでしょう。この洋館には「偏奇館」と名付けたのは、荷風が自分自身を偏屈偏奇な人と任じていることの表現であると思っていたのですが、それだけではなく、ネーミングに理由がありました。

 荷風が住んだ洋館、下見板張りの外壁に青いいペンキが塗られた家だったのだそうです。(出典は、歴史学者の森銑三(1895-1985)の『明治人物夜話』講談社文庫1973ということですが、春庭は原典にあたっていませんので、孫引き伝聞です)
 青いペンキでペンキ館=偏奇館、なんだ、ダジャレだったんじゃん。荷風先生、案外おちゃめな人だったのだと、親しみがわきました。

 書院や茶室の建物には、昔から「銀閣」とか「如庵」などと名前がつけられてきました。現代も、大邸宅だけでなく、作家などの家にもしゃれた名前が付けられます。
 白洲次郎正子夫妻が町田に建てた家の名「武相荘(ぶあいそう)」は、「武蔵の国と相模の国のあいだにある」という理由と、「無愛想」を掛けたものというので、やっぱり、ダジャレネーミング。まだ訪問したことないので、行ってみたい家のひとつです。 

 武蔵小金井の江戸東京たてもの園は、仕事先のひとつから近いので、仕事が早くおわったときにときどき散歩する場所です。
 たてもの園内のいちばん新しい移築復元の建物は、2013年5月に公開されたデ・ラランデ邸です。私は、2013年9月に見学しました。



 デ・ラランデ邸は、その名称について、各方面に異論が沸き起こりました。もとは、新宿区信濃町近くに建っていた三島食品工業(カルピス創業者三島海雲の会社)の所有だったから、旧三島邸とすべきだ、いや、明治時代に最初にこの邸宅を建てたのは、気象学者・物理学者の北尾次郎だから、旧北尾邸とすべきだ、など。
 北尾次郎からデラランデが家を引き継ぎ、1914(大正3)年にデ・ラランデが死去し、何人かの所有者を経て三島海雲が1956年この家を手に入れました。三島食品は、1999年まで所有していました。東京都が買い取ってから、復元が完成するまで14年かかりました。研究者は元の図面が残っていないかなど、いろいろ調査を続けてきたことでしょう。

 たてもの園のパンフレット解説によると、北尾次郎が建てた1建てを、1910(明治43)年ごろ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが、3階建てに増改築し、現在の姿にしたのだそうです。 
 改築者がデ・ラランデであったかどうかについては、建築史研究者から異論も出ています。ドイツで設計の勉強もした北尾次郎自身が改築も行い、デ・ラランデは一時的に借家として北尾邸に住んだだけだ、という説もあり、素人は何をどう信じたらよいのやら。
 しかし、ネーミング理論からいうと、デラランデの名が採用されたこと、理解できます。

 たてもの園には、近代和風住宅として高橋是清邸や三井八右衛門邸があります。また、昭和のアトリエ兼住宅として前田邸があり、田園調布の家の大川邸、堀口捨己作品の小住宅、小出邸など移築復元されています。しかし、本格的な洋館はなかったのです。北尾邸や三島邸では、大川邸、小出邸などとの差別化ができません。ここはひとつ「いかにも洋館」のイメージがほしいところ。改築者デ・ラランデの名前こそ、洋館をアピールすることができます。



 横浜市が市内に残された洋館を修復復元し、エリスマン邸、イギリス館などのネーミングで公開している例があります。文明開化の魁を担った横浜市のイメージが、カタカナ名前の洋館の存在でアピールされ、観光に役立っているのです。

 復元プロジェクトに関わった人々は、「たてもの園のいちばんあたらしい復元住宅は西洋館ですよ」と来園客に知らせるには、デ・ラランデの名がもっともインパクトが強いと、考えたのではないかと、建築素人ですが、ネーミング理論はいちおうかじった春庭は推測いたしました。

 デ・ラランデ邸の復元。スレート葺きのマンサード屋根(腰折れ屋根)と下見板張りの外壁、1階の下見板張り部分は白い塗装で、屋根は赤い塗装で印象的な洋館です。





 階段室

 1階は、武蔵野茶房の店舗、お茶や軽食があります。田無にある店の支店で、私は武蔵境駅の駅ビル支店のカレー半額の日にのみ利用。
 「デラランデ邸に招かれた大正ロマンの奥様」という気分でランチをいただきました。
 あ、大正ロマンの奥様は、ランチ食べながら店内の写真を撮るほうがいそがしい、なんてことはしないわね。やっぱり私は「奥様」にはなれないから、奥様ごっこをする「女中たち」でもいいわ。

武蔵野茶房が営業している、元の客間





<つづく>
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ぽかぽか春庭「高橋是清邸の復元」

2014-01-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(8)高橋是清邸の復元

 昨年の遠山記念館見学のおりには、壁の修復時、壁材がすでに手に入らないものであるので、納戸などの見学者には見えない部分の壁を削り取って、見える部分の修復に使用した、という裏話を聞くことができました。
 古建築の修復保存には、さまざまな苦労があります。

 東京大空襲の際、都心の古いお屋敷の多くが消失しました。たとえば、永井荷風は、麻布にあった自邸「偏奇館(へんきかん」が焼け落ちるようすを書き残しています。麻布の偏奇館周辺、どこも焼け野原になりましたが、赤坂にあった高橋是清邸は、現在、江戸東京博物館のたてもの園に移転復元されています。この建物が往時の姿のまま残されたのには、訳があります。

  二・二六事件で暗殺された高橋是清(1854-1936)の邸宅は、事件後、遺族の意思により赤坂から多磨墓地に移築されました。遺族も悲劇の館を壊すにしのびなく、だからといって当主の血の流れた屋敷にそのまま住み続ける気にもならなかったのでしょう。そのため、都心部が焼け野原になったのに消失をまぬがれ、小金井市江戸東京たてもの園に母屋部分が移築されました。

 1902(明治35)年に竣工した母屋は総栂普請。母屋和館の中に洋間もしつらえてある和洋折衷の住まいで、接客に用いた洋間の床は寄木張り。2階は是清の書斎や寝室として使われていました。

 移築にもいろいろな問題が生じるようです。高橋是清邸がたてもの園に移築された過程を知った建築専門家が「こんな保存方法があるものか。貫に釘を打ってしまうなんて、乱暴な!」と怒っている文章を読みました。貫(ぬき)とは、柱と梁などを組み合わせるとき、一本に穴をうがち、そこに差し込むを尖った部分をつくって組み合わせ固定する方法です。在来の伝統工法では、鉄の釘を打ちません。法隆寺でも東大寺でも、古い建築はこの貫の工法により、地震のゆれを吸収し、長く残ってきたのです。

 それが、高橋邸の移築では、「貫部分に釘が打たれてしまった、これでは大地震のときには、柱は梁を支えきれず、倒壊するだろう」という建築家の意見でした。
 たてもの園には建築専門家が学芸員として大勢います。専門家が移築に携わってきたのですから、この、「貫」に釘を打ち付けてしまうという工法も、なんらかの根拠があってのことだろうと思います。


 建築技法について何も知らない素人の想像ですが、昭和の多磨霊園移築時に、古い工法などに考慮せず新式工法で釘を打ち、見た目は同じにしたのかと。当時は復元の方法などについてまだ、「在来の工法のみで復元する」という考え方自体がなかったと思うのです。
 そして、たてもの園への移築復元にあたっては、釘を打ってある部分には、そっくり同じに釘を打ったのではないかと思いました。赤坂に最初に建てられた時の図面などは、焼けてしまって残されていなかったのではないか。そのため、たてもの移築復元するにあたっては、多磨霊園にあったときのまま復元するしかなかったのではないかと想像するのです。

 人が住み続けた古い家の場合、何度も増築や改築が加えられている場合が多いです。復元するときに、「増改築後の最後の姿」「最初に建てられたときの姿」「有名人が住んでいたころの姿」など、さまざまな建物の姿が考えらえるでしょう。建物の持ち主が何代かかわったときなど、ことに変化があったことと思います。

 現在では古建築保存への考え方もしっかりしているので、今後の建物復元には細心の注意が払われることと思います。

高橋是清邸玄関


<つづく>
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ぽかぽか春庭「鎌倉旧松崎邸」

2014-01-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(6)鎌倉の旧松崎邸

 2012年の春に、鎌倉の建物散歩に出かけたおり、華頂宮邸の洋館を見て、同じ敷地内にある旧松崎邸も見学しました。


 元は東京上大崎に建てられていた茶室と門を、1971(昭和46)年に、鎌倉浄妙寺近くに移築。その後和館が増築されました。移築された年月は出ているのですが、上大崎に建てられたときの年代や設計者などの資料について、くわしいことはどのパンフレット類にも書いてありませんでした。
 現在は鎌倉市の所管となり、華頂宮邸といっしょに公開されています。建築年代も1929(昭和4)年に建てられた華頂宮邸と同じ頃ということですが、元の図面などの記録はなくなっているのかもしれません。

 茶室の奥に接続しているのが増設された和館。


 外観のみの見学で、室内に入ることはできませんが、外から中をのぞくことはできます。しかし、私はぐいっとなかに首をつっこんで撮影するということができなかったために、室内写真のうち、天井の撮影ができていません。八角形の美しい天井だったのに。次に出かけるチャンスがあったら、天井の撮影もをしてこようと思います。

玄関から中をのぞく

天井が写っていないのが残念。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「遠山記念館」

2014-01-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(5)遠山記念館

 2013年5月に参加した建築探検ツアー。入間市のヴォーリズ設計、日本基督教団武蔵豊岡教会を見学したあとバスで川島町へ。車を持たないお一人様が移動するにはちょっと不便な土地で、このようなツアーに参加できて、ありがたかったです。

 埼玉県川島町の遠山記念館は、日興證券の創立者である 遠山元一(1890-1972)が、建てた近代和風住宅です。1935(昭和8)年 竣工。
 遠山は川島町の豪農の家に生まれましたが、父親の放蕩により、家は没落。日興証券創業者として成功を収めたのちに、故郷の地に大邸宅を建て、苦労を続けた母を住まわせたという、泣かせる立身出世譚の家です。
 東棟(豪農の屋敷風の茅葺き屋根の家)と、中の棟(書院風)、西棟(茶室)の3棟が連結しています。

中の棟(書院)


母、美衣の部屋

座敷



縁側

 アールデコを取り入れたデザインの近代和風ということで、さいたま近代美術館建築探訪ツアー引率の先生にいろいろ説明を受けながら回ったのですが、建築シロートの私、何を見ても、「あら、すてき」ってなことで、歩いて回っただけでした。これまでに見た近代和風の家のなかでも、「モダン」な意匠がとてもよかったと思います。まあ、解説が必要な方には、2013年に公益財団法人になった記念館発行のパンフレットなどもありますので。

二階ベランダのてすりもモダンなデザイン


書院窓

 特に印象深いのが、左官職人の最高の腕で仕上げられたという壁。現在の材料や職人の腕では再現不可能なので、地震などでヒビが入ってしまったら修復がむずかしく、前回修復したときは、納戸裏などの見えない部分の壁材などを削りとり、新しい材料に混ぜてなんとか修復したとのこと。古い建物維持管理にもご苦労が多いのでしょうね。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「新潟&山形の近代和風建築」

2014-01-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(4)新潟&山形の近代和風建築

 建築用語として「近代和風住宅」という語が一般にも浸透したのは、そう古い時代ではありません。建築専門家でも、専門の論文などに使用するようになったのは、20年ほど前からだそうです。明治期から昭和戦前までのあいだに建てられた、近代工法も含む和式の建物を指すことばです。

 建築に関心を持つようになったのが遅い私など、最初はあこがれの洋館にばかり目が行き、和館にはあまり魅力を感じなかったのです。和館ならもっと古い江戸時代の武家屋敷などのほうが見所があるのではないか、という気がしていて、近代和風住宅をそれほど熱心には見てきませんでした。

 昭和時代には、まだまだ「古びた木造住宅」よりも、「有名建築家の設計によるピカピカのビル」のほうが地域のランドマークでした。戦前の建物など、単に「古びたお屋敷」としか見なかった人々にも保存の意義が理解され、保存運動が盛んになったのは、ここ四半世紀のことにすぎません。従来は、明治村などテーマパークに移築復元、一部再建という保存方法がほとんどでしたが、ようやく地元にそのまま保存しようというさまざまな動きが結集してきました。
 地域の人々に「地元の文化財」として見直され、さらに地域おこしのひとつとして古建築の保存公開が図られるようになって、それほど日はたっていないのです。

 建築史家による研究も、日本全国の建築物すべてを研究し尽くしたということでもないらしい。
 最近「トリック新春スペシャル4」というテレビドラマの中に登場した旧家に見覚えがあったので、最後のクレジット撮影協力のところを注意して見ていたら「旧堀田家」と出ていました。さっそくネット検索。
 佐倉市にある旧堀田家は、最後の佐倉藩主堀田正倫が明治時代に建てたお屋敷でした。

 あれ、私は佐倉市の旧堀田邸を見に行ったことはないのに。同じような造りのお屋敷を見た気がしたのです。もしかして、同じ大工の棟梁が手がけた?あるいは弟子筋で同じような意匠になったか。
 しかし、大工さんの名前などはなかなか記録されていないものらしく、堀田家を建てたのが大工棟梁西村市右衛門ということは紹介されていましたが、私がこの夏に見て歩いた和風建築の棟梁名などは見学先でもらったパンフレットなどを見ても書いてないのです。擬洋風建築の場合、公的な建物が多いので大工棟梁名は残っていることがほとんどでしたが。

 江戸末期から明治期に一大発展を遂げた左官の漆喰鏝絵の系譜なども、創始者とされる伊豆の入江長八の名は残っていても、その弟子筋にあたるのか、地方の屋敷で鏝絵を残した左官の名はわからないことが多いのです。
 職人にとって、作り上げたものが後世に残ればそれで満足であって、「名前なんざ残っても残らなくても同じこと」なのかもしれませんが。

 一匹狼の大工が、腕ひとつを頼りに全国を飛び回り、各地に家を建ててゆき、名は残さない。そんなドラマがあったらおもしろいだろうなあ、なんて想像してしまいました。

 この夏、新潟と山形、日本海側を旅しました。鶴岡市、酒田市、新潟市をめぐって、洋館、和館を見学しました。

(1) 山形県鶴岡市 旧風間家住宅「丙申堂」は。1896(明治29)年に竣工。風間銀行を設立した豪商の家です。風間家は、鶴岡城下で庄内藩の御用商人として呉服、太物を扱い、明治時代には銀行業に手を広げました。
 風間家七代当主(幸右衛門)が、住居及び営業の拠点として建築し、1896年が丙申の年だったので、丙申堂と名付けられました。

 屋根が独特で、杉皮葺の屋根一面に石を置いています。20万個もの石がのせられているそうで、石と石のあいだには苔が生えるなどするため、四半世紀に一度くらいの割合で屋根の葺き替えをするなど、建物の維持管理が続けられています。近年では、1981年、2005年に葺替えが実施されたので、次は2030年前後でしょう。

2013年8月に見学しました。
玄関



縁側

階段箪笥を上がった上には、大工部屋がありました。大工が常住して普請を続けていたとみえます。


天井のトラス構造

石屋根

庭園

(2) 2013年9月に訪問した新潟の豪商の齋藤家。
 港町新潟は、中世から「新潟津」として物資輸送の拠点でした。明治になって外国へも開港されると商都としてますます発展し、大正時代にかけて、洋館の官庁や豪商たちの豪勢な住宅が立ち並びました。齋藤家は、そんな豪商のお屋敷のひとつです。齋藤家四代目の齋藤喜十郎(庫吉1864~1941)が1918(大正7)年に別邸として建て、2009年に新潟市が市有の文化財として整備しました。 
 木造二階建て、茶室と庭園が公開されています。

庭から見た齋藤家


座敷



二階から見た庭

(3) 新潟市新津記念館和館は、新潟の石油事業で財をなした新津恒吉が、1928(昭和3)年に建てた住まいです。来客用には洋館を建て、現在は新津記念館として公開されています。和館は庭園のみの公開ですが、外観はみることができました。



 

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「小石川の銅御殿」

2014-01-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(3)小石川の銅御殿

 2013年3月に埼玉県近代美術館主催の近代建築見学会に参加し、小石川の旧磯野家住宅を見学しました。
 事前レクチャーを受けた翌週、一行は、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅に集合。旧東方文化学院(現・拓殖大学国際教育会館)を見たあと、近代和風建築の中でも「銅(あかがね)御殿」として知られている旧磯野家住宅へ。

 現在は大谷美術館が管理しており、重要文化財指定後、文化庁の指導による措置、というお断りがあって、内部見学はできない、との説明がありました。一般の見学日では外部参観だけになるということは、ネットの情報を見て知っていたのですが、近代美術館と建築会埼玉支部との共催なので専門の方々が多く、内部見学もできるかもしれないというので、ほのかな期待はありましたが、やっぱりダメでした。内部見学ができるのは年に一度だけみたいです。



 銅御殿の施主は、千葉県夷隅に生まれた磯野敬、日本全国で植林事業を展開し広大な山林を所有していました。山林王と呼ばれた磯野は、設計費用も工期も、棟梁が好きなだけ時間とお金をかけてよい、という破格の条件を提示し、北見米造にすべてをまかせました。磯野の依頼を受けたとき、北見米造は若干21歳。よほど施主に信頼されての抜擢だったのでしょう。米造は全国の山を見て歩き、木曽のヒノキや屋久島のスギ、御蔵島のクワなどを「この山の木ぜんぶ」という買い方をし、また、ベルギーから輸入ガラスを取り寄せるなど、7年の歳月をかけて最高級の材料を集めました。

 施主からの設計注文は、「外観は寺院風。地震や火事に耐える建物」でした。米造は、寺院建築の構造に、耐震耐火を組み込んだ入母屋造に、銅葺きの屋根をのせました。銅板の外壁。
 書院棟と応接棟・旧台所棟が独立した構造になっており、それをつないで一軒の家にしています。棟を分けたのは、火事が出たとしても、他の棟への類焼をとどめるためでしょう。

玄関

 米造は100人の職人を統べ、床下の湿気対策、雨樋の水処理など、施主の注文に応じて工夫をかさねました。
 1912(大正元)年に竣工。竣工当時は、壁も屋根もあかがね色に輝いていたことでしょう。
 11年後、1923(大正12)年の関東大震災時に、11回も塗を重ねた内壁に一本のヒビも入らなかったそうです。

 外からしか見られないと言っても、開け放たれた障子の内部は見ることができ、縁側天井の見事な組み方など、美しい意匠を楽しめました。





 家は、山林王磯野敬から石油王中野貫一の手へ。(中野は、新潟の石油事業で財をなした人)
 ついで、この家をホテル王大谷米次郎の息子大谷哲平が購入。現在は、大谷哲平の息子大谷利勝氏が館長を務める大谷美術館が管理しています。子供時代にこの家で暮らしていたという大谷利勝さんの次女さんは「冬はとても寒い家でした」と、感想を述べていました。銅御殿の重要文化財指定後は、ガイドとしてこの家の説明掛かりを引き受けているとのこと。

 北見米造(1984(明治16)~1964(昭和39))は、大工修行をしつつ現在の蔵前工業高校にあたる学校の夜間部で建築や木工技術について学び、伝統の大工技術に近代的な設計施工技術も身につけたのだそうです。米造は茶室建築に関心を抱いて茶道修行も続け、茶名「北見宗国」。のちに、新宿区高田馬場にある茶道会館を建てました。現在は米造の子孫の北見宗峰が宗匠として指導しているということなので、たぶん、茶道会館に行けば、米造についてもっと知ることができるだろうと思います)。

 米造は、銅御殿を建てたことを死ぬまで誇りにしており、晩年の1961年に「50年後には文化財となり、100年後には国宝になる」と語っていたということです。米造がそう語ってからほんとうに50年後の2005年、重要文化財指定を受けたので、100年後の夢もかなうかもしれません。
 惜しむらくは、茶道会館のほかに米造が建てた茶室や住宅が残されていないこと。茶室などを建てたそうですが、東京大空襲などで焼けてしまったのかもしれません。銅御殿のほかの建物も見てみたかった。

 銅御殿は、当初の敷地の半分以上が売却されたり駐車場になるなど、御殿の庭としては手狭に縮小してしまったのは、時代の流れでしかたがないとして、美術館管理となって保存が継続することになりました。しかし、敷地に隣接してマンションが建てられて、日当たりや景観に影響が出ることがわかり、建設反対運動も起こされました。
 マンション建設反対運動は、銅御殿の景観保全を願う近隣の人を中心にして、建設会社側との裁判になりましたが。結局、裁判では、敗訴。マンション高さを多少減らすことなどを条件に完成しました。

 都内での古い建物は、郊外や地方や公園などに移築してしまうなどの方法があるとは思いますが、住んでいた地域の中に残せればそれに越したことはありません。
 都内に残っているうちに、もっと見て歩こうと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「近代和風住宅」

2014-01-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(2)近代和風住宅

 江戸時代、家を新築するには届け出が必要であり、商家などいくらお金があっても、2階建ては立てられない地域もあったし、身分によって玄関の造りに差があったり、贅沢な造りが禁止されたりしました。明治から昭和前期、庶民の住環境はまだまだ十分な状態にはなっていませんでしたが、お金持ちたちはお好みで家を建てることができるようになりました 

 接客用には洋館を建て、家族がくつろぐ日常生活用や別荘などでは和館が好まれました。熱海や日光などの別荘地域には、洋館を立てる人有り、和風建築に凝る人あり。
 和館は「近代和風建築」と呼ばれ、西洋建築技術を取り入れながらの建物が工夫されました。例えば、従来の障子にガラスを取り入れたり、和風の家の内部に絨毯を敷きソファとテーブルを置いた居間を設けるなど「和洋折衷式」の住まいが近代和風として広がりました。

(1) 2011年11月06日に旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)を見ました。東京都文化財公開の日程で見学会があったので、参加したのです。

 北泉寮、元は、1892(明治25)年、千代田区永田町に建てられた鍋島直大(なおひろ)侯爵家和館で、江戸時代の大名屋敷の伝統を残しています。鍋島公爵家も、洋館(1881建設)と和館の両方が建てられていたのですが、関東大震災(1923)のとき、洋館は崩壊、大正期に増設補強をした和館は残りました。この和館を、1927(昭和2)年に三井八郎右衞門高棟が買い受け、三井家別荘として東京都下拝島に移築しました。
 三井高棟の三男高維(たかすみ1905~1979)英子(19051997)夫妻は帰国子女のための学校、啓明学園を創立し、三井家別荘は学生寮として利用されました。現在は、在学生の夏季合宿などに用いられています。










私の好きな古いガラスがはめ込まれた南側廊下のガラス障子。

 千葉市稲毛区の「ゆかりの家」旧愛親覚羅溥傑仮寓を訪ねたときの記録です。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_49c5.html
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_668e.html

(2) ゆかりの家は、ラストエンペラー愛親覚羅溥儀の弟、溥傑と妻の浩が仮寓した家です。朝鮮王家の李垠が日本の皇族扱いとされ、宮殿(現 赤坂プリンスホテル・トリアノン)を建てたのに比べると質素な家という印象でした。しかし、政略結婚にもかかわらず互いに愛を育んだ溥傑と浩にとっては、思い出深い新婚の住まいでした。溥傑夫妻が住んだのは、1937(昭和12)年ころ。






 どんなに贅沢な御殿でも、寒々とした愛のない家に住むよりは、愛に満ちた家に住みたいと、私も思います。とはいっても、現在の私のすまい、愛とともにさまざまなものが積み重なり折り重なり、ごみ箱状態なのはなんとかせねば。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「古ガラスから見る景色」

2014-01-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
ふつい2014/01/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(1)古ガラスから見る景色

 都内ほか各地に残されている近代建築を巡るのが、趣味のひとつ。1月12日は、広尾に出かけたついでに、広尾小学校を見てきました。1932(昭和7)年に建てられた「関東大震災後の新建築、復興小学校」のひとつです。
 恵比寿駅から歩きました。歩く途中でいつくもの長い建築クレーンを見ました。
 地価の高い東京では、いつもどこでもクレーンが空に伸びていないところがなく、ビルの建設が続いています。これから2020年にかけて、さらに東京の景色は変化していくのでしょう。それでも東京には、保存された建物が多い面もあります。

 1945年の東京大空襲で焼けた東京駅を、大正の建設当時の姿に復元するプロジェクト、空中権(上空権)売買によって容積率の移転ができるようになった結果、東京駅の上空権を売ることによって改築改装の費用が出て、歴史的建造物としての付加価値を活かせるようになりました。東京駅の上空を利用する権利を他のビルに売って500億円を捻出。東京駅周辺のビルは、空中権を買って容積率が増えた結果、軒並み高層化を果たしました。 

 江戸や明治の個人住宅、貴顕の大邸宅や名主庄屋などの大農家の家は保存されているところがありますが、江戸時代明治時代の普通の庶民が暮らした家は、ほとんど残っていません。古写真に残る庶民の家。風が吹けば吹っ飛び、大雨が降れば崩れる、火事が起こればたちまち燃え尽くすという風情です。残しておくべき歴史的な景観も多かったでしょうが、普通の古い家は残されていかないことが多いです。
 2008年春の台東区。上野近辺の大通りをひとつ入ったくらいの道筋にまだ残されていたこんな理髪店としもた屋も、次のオリンピックまでに消えているでしょう。あれ?もうないかもしれません。確かめていませんので。


 建築の思想としては、東京は新陳代謝(メタボリズム)の町だと思うのですが、大邸宅や神社仏閣だけでなく、「普通の暮らしの家」が残されることも大切なことだったと思うのです。
 都心部からはずれた地域には、昭和の家がここかしこに残されています。有名建築家が設計したとか、有名人が住んだという家以外でも、普通の庶民の普通の暮らしを保存することも必要だと思います。

 たとえば、足立区保木間の「昭和の家 平田邸」。1939(昭和14)に建てられた木造平屋建て住宅。金属加工業を営む家で、登録有形文化財として申請。現在はギャラリーやミニコンサートの会場として使われています。
 杉並の斎藤邸、辻邸、練馬の佐々木邸、なども保存がはかられています。
 個人で古い家を維持保存しているところも、2011・3・11の大震災で家の一部が壊れりして、修復がたいへんなところもあるようです。公的な援助があればいいなあと思います。

 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅。
 お金持ちたちは、自分たちの住まいとして贅を尽くした洋館を建てて迎賓館とし、お客様を迎えました。一方、家族が生活する場として和館を建てて畳の部屋で生活しました。たとえば、東京不忍の池近くにあるコンドル設計の旧岩崎邸も、洋館和館が並んで建てられています。同じコンドルが設計した旧古河邸は、1階が洋室、2階の私室部分は和室です。

 これらの古い邸宅を回って、いいなあと思うことのひとつ。古ガラスが残されている窓があること。古ガラスには、微妙な歪みがあります。オートメーション工場による板ガラスの大量製造大量消費の時代になってからは均質なガラスでこのような歪みはなくなります。
 古いガラスを通して外の景色を眺めると、その微妙な空間の歪みが、なんともいえない光景を見せてくれます。直接に外を見るのとはまた異なる、少し歪んだ外界。なんだか懐かしく、心のゆらめきも感じさせてくれます。

 ポーランド映画ドロタ・ケンジェジャフスカ監督『木洩れ日の家で Pora umierać(Time to Die)』2007
 91歳のダヌタ・シャフラルスカの演じるアニェタが住む古い家のガラスにもこの歪みがあって、ここを通して外をみるとき、独特の雰囲気がありました。 
 私が古い家が好きなのは、この「ガラス窓を通した景色」が好きという理由もあるのかもしれません。

 学校や公官庁などの公的な建物のUPは、またのちほどにして、今回のシリーズでは、2008-2013に春庭が撮った写真のうち、個人の住宅として建てられた洋館&和館の写真をUPします。建築写真の専門家や、アマチュアでも写真の上手な人が撮った建物は、とても美しい表情を見せてくれます。私の写真は「ここに行ってきたよ」というのを忘れないためのメモです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「89歳の三婆」

2014-01-13 23:11:29 | エッセイ、コラム
2014/01/14
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(4)89歳の三婆

 人間、一生ごきげんで元気でいられたらこんないいことないけれど、どうしたって、浮き沈みはあるし体調の好不調、波があるのは仕方がありません。ましてや我が家のような貧困家庭では、好調でいられる日のほうが数少ない。

 体調よかったり気分上々の日が少なくて当然なのですが、1年のうちせめて正月小正月のうちくらいはにこにこしていたいと思って毎年過ごしてきました。それが、今年は正月そうそう気温と同じように気分が落ち込み、まあ、こんな年もあるさと思ったり、ここまで年をとってくれば、機嫌よく正月をすごせなくても当たり前とも思います。

 例年、冬休みが終わって、仕事が始まる。朝寝坊ができなくなり、ああ、つらいつらい、冬の朝も早よから仕事に行かにゃならず、安い日雇い賃でこき使われる、と嘆き、暖かくなるまでぼやいてはきたのですが、今年は例年以上に我が身の卑小さケチ臭さ、しみったれたいじましさ、なんてものがしみじみと情けなく、嘆きつつひとりぬる夜の明くるまは、、、、あれれ、毎晩夜はバタンキューと3分で落ちる。そうか、朝寝坊できなくなるのでこんなにぐずっていたのね。

 成人の日までの3連休、真ん中の12日は山種美術館に行って目の保養。招待券があったので。11日と13日は冬ごもり。一日家にいて、何をするでもなくボウ~とテレビを見てすごしました。

 我が家、テレビを放映時間に直接ライブで見ることはほとんどなくなりました。ドラマとバラエティは録画してみます。ライブで見るのはスポーツ中継くらい。13日は、大相撲のラスト6番を観戦。

 録画して見たドキュメンタリーのうち、1月12日放映の再放送『京の“いろ”ごよみ~染織家・志村ふくみの日々~』は、元日放映を録画できずに残念に思っていたので、再放送があってよかった。もうひとつの作品『天のしずく 辰巳芳子 “いのちのスープ』は、2012年11月12月に写真美術館に行ったとき上映していて、そのときは時間がなくて見ることができなかったので、1月13日の放映を録画しました。

 志村さんは1924(大正13)年9月生まれの染織家。89歳。人間国宝(1990年)文化功労者(1993年)。2013年から染と織りを学ぶ「アルスシムラ」を設立し、後進の指導にあたっています。番組の中で「木苺の葉で染めてみよう。初めてよ」と、新しい草木染めに挑戦する姿がみずみずしく映されていました。89歳で、新しいことへの挑戦。草木染めの学校を設立したことも大きな挑戦でしょう。

 辰巳芳子さんは1924(大正13)年12月生まれ。89歳。料理研究家としてテレビの料理番組でおなじみですが、お父さん病床に届け続けた「いのちのスープ」を全国の病院などに広め、自然たっぷりの滋養あるスープの普及を行っています。また、「大豆100粒運動」の活動によって、自分の食べるものを自分で育てることの大切さを子供たちに教えています。

 治癒した今も長島愛生園で暮らしている元ハンセン氏病患者の方と話し合っているなか、「80歳すぎてから眺めると、世界はとてもちがう」と辰巳さんが語っていたのが印象深かったです。
 そうよね、80歳すぎで見える景色は80歳過ぎなければわからない。

 うちの姑、1925年2月の早生まれなので、志村さん辰巳さんと同学年です。お二人の偉大な女性とは異なり、銀行員の妻としてささやかな家庭で娘息子を育ててきた平凡な主婦でした。舅の死後、「お父さんといっしょに建てた家を守りたい」と、建て直しをひとりで手配しました。私は中国赴任中。夫は改築反対でまったくタッチせずというなか、改築を仕上げました。水回りが古くなったことや耐震の問題が解決できて、姑が安心して暮らせるようになりました。

 新しくなった家で、2月に89歳を迎える今も一人で暮らしています。夫と娘が交代で「見守り」は続けていますが、週1回、ヘルパーさんに階段とおふろの掃除をしてもらう以外は、身の回りのことは自分でやっています。たいしたもんだと思います。
 姑には姑の「80歳をすぎて見える」景色があるのでしょう。

 衣の志村ふくみ、食の辰巳芳子、住の姑、3人の89歳を見ていて、まだまだひよっこの私、修行が足りぬと反省しました。
 さて、明日からまた仕事です。とりあえず89歳まで生きてみよう。

<おわり> 
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ぽかぽか春庭「冬ごもり」

2014-01-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(3)冬ごもり

 新年の抱負というようなものを考えたかったのに、どうしたことでしょう何も思い浮かばない。仕事も、趣味も中途半端なまま。ダンスサークルの新年会では、ミサイルままは「ことしも登山、がんばります」と抱負を語るし、S子さんは「娘が結婚します。10月にハワイで挙式なので、10月は休会します」とか「孫のお守りがあるので」とか、みなそれぞれに今年の目標をうれしそうに語っていました。私はといえば、人様に語れるような目標が何もありませんでした。

 一病息災、家族元気に、という程度の目標だけで、百名山登ろう、ということもないし、全国廃線めぐりとか、全国郵便局消印集めとか、何かを達成するというめあてもない。元気に踊りたいというのぞみにも赤信号がともり、何か目標をさがさなければと思うばかり。
 もうちょっと暖かかくなったら少しは元気出てくるだろうから、もうちょっと冬眠しています。

  新しい年に新しい気持ちで飛び出していきたいけれど、今日も一日冬ごもり。ベランダに洗濯物干すのも、寒い寒いと震えながら。
 この3連休は、新成人にはうれしい休日。大人になって、何かいいことあるといいね、と祈るばかりで何をしてやれることもない。みんな頑張って!

 ちょっとは明るく輝くように、恵比寿ガーデンプレイスのバカラのシャンデリア写真です。
 輝く未来が新成人の前途にひろがりますように。

   
2014年1月2日恵比寿ガーデンプレイス

<つづく>
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ぽかぽか春庭「踊る寒冷前線」

2014-01-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/11
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(2)踊る寒冷前線

 今年も、いろいろな楽しみごとをささやかに続けていきたいと願っています。
 私の趣味、なんと言っても「お金がかからない」ことが第一の条件です。
 「本を読む」ことは趣味というより、呼吸のようなものなのですが、これはほとんどお金がかからない。図書館で借りるか、古本屋で100円、3冊250円の文庫本で十分楽しめる。音楽も無料コンサートが都内にいろいろある。建築散歩は街歩きのついで。花散歩も都内の公園や植物園で。唯一お金が少々かかるのが、ジャズダンスの練習。

 10日金曜日夜は、ジャズダンスサークルの新年総会。今年の活動方針や会費などについて2時間協議してから和食屋さんで食事。今年の文化センター発表会に出るかでないか、などわいわいと話し合いました。
 昨年、会員が2名骨折や靭帯の故障で休会になり、ひとりはそのまま退会。2人は仕事や家庭の都合で退会。最年長のT子さんも「今日、お医者さんに行ったのだけれど、去年からどうも足の具合が悪かったのは、半月板の故障だという診断が出たので、当分休会します」ということで、実質活動できる会員は4名のみという事態になってしまいました。4人だとサークルを維持する会費にも足りず、このまま会を休止せざるを得なくなるかも。残念ですが、怪我などはなりたくてなるものじゃなし、しかたがありません。

 なんとか会を維持してダンス練習の場を維持したいと思うのですが、さて、どうなりますか。私たちのような自主サークル、妹が携わってきたNPO活動など、行政とは別の市民組織を維持していくというのは並大抵のことではない、ということが身にしみます。
 先細りになりがちなこれらの組織を維持運営するためには、どのようにしていったらいいのか、悩み多いところです。

 会員が少なくなると、会費値上げしないと、活動が維持できない。会費を上げると、ますます会員がやめてしまう、という悪循環に陥ってしまいます。私たちのサークルは、ストレッチやジャズダンスの練習を通じて体力維持筋肉維持をはかることを大きな目的にしていますが、なかなか新入会員もこないし、やっと新加入した人も定着しないし。レディガガやマイケルジャクソンの曲で踊る、というのも若い人には「ふる~い」と思われてしまうし、落ち込む一方です。

 なんとか今年も踊り続けたいのですが、冷え込む一方。。
 会員募集中で~す。いっしょに踊ってください。

<つづく>
コメント (6)
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