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ぽかぽか春庭「2020年7月目次」

2020-07-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200730
ぽかぽか春庭2020年7月もくじ

0702 ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2020二十重日記伊豆の踊子日記>サフィール踊り子号
0704 2020二十重日記伊豆の踊子号日記(2)大室山とあじさい園・伊豆高原観光
0705 2020二十重日記伊豆の踊子号日記(3)ティファニーランプミュージアム&グランイルミ
0707 ぽかぽか春庭アート散歩>2020緑陰アート巡り(1)池田20世紀美術館
0709 2020緑陰アート巡り(2)コレクション展 in 東京近代美術館
0711 2020緑陰アート巡り(3)ロンドンナショナルギャラリー展 in 西洋美術館
0712 2020緑陰アート巡り(4)ルネ・ラリック展 in そごう美術館
0714 2020緑陰アート散歩(5)きもの展 in 東京国立博物館
0716 2020緑陰アート散歩(6)中世彩飾時祷書 in 西洋美術館

0718 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記緑風に吹かれて(1)東御苑の菖蒲園
0720 2020二十重日記緑風に吹かれて(2)ムーミンバレーに行く

0721 ぽかぽか春庭ジャパニーズアンドロメダシアター>2020感激観劇日記(1)トゥーリッキとトーベ
0723 2020感激観劇日記(2)宣告 in 東京ノーヴィレパートリーシアター

0725 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(1)死刑制度について
0726 全員死刑!(2)私だったかもしれない永田洋子
0728 全員死刑!(3)坂口弘の短歌
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ぽかぽか春庭「再録・坂口弘の短歌」

2020-07-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200728
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(3)坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと

 犯罪に至る原因には、貧困や差別などのほか、「より良い社会をめざす」という目的を追いながら、社会から見ると理想から外れて犯罪にかかわっていく、という経緯がある、と述べました。

 自分たちの思うような理想的な社会を作るためには、その邪魔となるものは排除しなければならない、という考え方は、ソビエト連邦成立の前後にも、中華人民共和国成立の前後にもありました。凄惨な殺し合いがあったことは、歴史的事実です。
 旧日本帝国成立後にも、幸徳秋水(1871-1911 享年39歳)は、「天皇暗殺」をはかったとして1月18日に死刑判決。わずか6日後に執行。秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述したそうです。

 政府に批判的な言論を封じるために反対意見を持つものを抹殺していく方法は、現代でも行われています。
 現代日本でも。沖縄返還の密約を報道した記者は、女性とのスキャンダルを利用され、言論界から抹殺されました。「50年たつと機密文書も公開する」というアメリカの公開制度により、密約報道が正しかったことが、証明されています。

 財務省近畿財務局の上席国有財産管理官、赤木俊夫さんは、モリカケ問題の記録を改竄するよう命じられました。国有地売却に関与したとされる安倍晋三首相の妻昭恵さんの名を記録から消すよう命じられて抵抗し、自殺に至りました。(享年54歳)。妻赤木昌子さんは、夫の死の真実を明らかにしたいと、国を相手に裁判をおこしました。国は、昌子さんの申し立てを受理しないよう、裁判所に命じています。
 どうぞ、証人喚問が行われて、裁判が公平に行われますように。沖縄密約問題と同じように、政界と官僚のトップがからむ犯罪は、最高裁で無実になる可能性は高いです。最高裁トップは首相が任命するのですから。

 オーム真理教に所属した信者たちも、教祖を中心とした理想の宗教地域を作ろうとしていて、道がねじ曲がってしまった。むろん、人を殺した人たちを許せと言っているのではありません。
 私たちの社会が、このような犯罪集団を生み出す下地となったのはなぜなのか、きちんと検証しないうちに、証言できる者たちを、大急ぎで「代替わりの前に処刑」すべきであったかについて、疑念を持っているのです。

 1968-1970年に社会を揺るがした「赤軍派リンチ事件・あさま山荘事件」は、私の世代の者にとっては、忘れられない事件のひとつでした。
 殺し、殺された者たちは、「社会をより良いものにしたい」と願いながら、思想考え方の齟齬により、ある者は殺され、ある者は殺人者として死刑囚となりました。

 死刑囚のひとり永田洋子(ながた ひろこ1945- 2011)は、死刑が確定後、脳腫瘍症状を訴えたのに治療は許されないまま手遅れとなり、執行前に病死。
 永田と一時期事実婚の間柄であった坂口弘は、2020年の現在も死刑囚として拘置所にいます。

 1992年に書いた「坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと」を、再々録します。
 坂口の短歌を読んで思ったこと、28年たっても、変わっていないので。
 2012年にも再録していますので、再々録です。
~~~~~~~~~~
1992年十月二十日火曜日(雨)
ニッポニアニッポン事情「坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと」

 坂口の歌を日曜日の短歌投稿欄にみるようになってどれくらいたつだろうか。受刑者が獄中で作歌を始め、死刑囚の心境を詠んだものなどにすぐれた作品が少なくないことを聞いてはきたが、坂口の歌はまさに「私だったかもしれない殺人者」の絶唱として響いてくる。

 一昨日の日曜歌壇を一瞥。久しぶりに坂口弘の名をみる。このところ選に入っていない週が続いたので、病気なのか創作意欲が衰えたか、と心配していた。

 坂口弘『リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし』佐々木幸綱選

 歌の声調の高さからいけば、彼の他の歌のほうにもっと佳作があるかもしれない。しかし、とにかく彼の名をみるたびに、しんとした思いにひたってしまう。
 「宇宙」が我らの世代にとって上昇イメージの開かれた明るい共同幻想であり、「科学の発達=社会の進歩発展」という図式が、この世紀末に至って破綻したのちも、なお、私にとって「宇宙」だけは明るい夢のまま存在し得た。

 しかしもう一つの共同幻想であった「体制変革」は、東欧・ソ連の崩壊を見る以前に、われらの中ですでに、「あの幻想は、クラゲなす漂うヨミに流された水蛭子にすぎず、夢はとうに醒めてしまった。」というようなことで、了解済みになってしまったらしい。(潰された夢を今なお追うのも自由だが)
 二十年前に「体制変革」の共同幻想を打ち砕き、幻想を悪夢として顕現化したものこそ連合赤軍の一連の事件であった。

 道浦母都子『生かされて存(ながら)うことの悲しみに満ち満ちていむ永田洋子よ
 同 『私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ

 私の世代の人々の中で、この道浦の思いに共感しえぬ人もいよう。「永田洋子は私だったかもしれない」と心震えることのない人は、われらの幻想をヒルコに過ぎなかったと笑える人であろう。
 私など、道浦のように真剣に体制変革を夢見たわけでもなく、深く運動に関わったわけでもなく、この時代の若者が「時代の中に生きる当然」としてデモや集会にでた程度の参加であった。

 あまり考えもせず、悩みもせず不和雷同していたにすぎない。逮捕される心配もないベ平連のデモのシッポなどにくっついていく程度の時代への関わり方は、日々を運動にかけて生きている友人からは、「日和見」と非難されノンポリと蔑まれた毎日であった。それでもやはり、「私だったかもしれない永田洋子」という道浦の共感は、私の胸を打つ。

 共同幻想を、赤軍派リンチ殺人事件の悪夢でしか顕在化できなかった、われらの世代。道浦のこの歌は、「世代の悲しみ」といったようなものになって私の胸に沈む。

 閉ざされた集団の中にいるときの、しだいに不穏になっていく心理状態については、ケニアのゲストハウスにいたときに、ほんの片鱗だけにせよ味わった。

 本当に、限られた人だけと限られた場所に追い詰められて起き伏しすると、人は異常を異常と思わないようになり、人格も変質していく。赤軍派のあの状況の中にもし私がいたら、私もまた、リンチ殺人者となるか、または殺され埋められていただろう。今、殺されもせず殺しもしなかった者として私がここに生きているのは、偶然にすぎないかもしれない。

 あのころから二十年がすぎ、六十年代後半と七十年代の再検証が始まりつつある。歴史として見直せる時間がたったということだろう。
 よど号で北朝鮮へ渡った者にも二十年、パレスチナへ行った者にも二十年、永田と坂口にも二十年、そして何もしなかった私にも二十年。

道浦母都子『ああわれらが<共同幻想>まぼろしのそのまた幻となりし悲しみ』
~~~~~~~~~~~~~

もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/21のつけたし

 坂口弘の短歌 抜粋(小見出しは勝手な編集による)
 これら坂口の短歌をコピーしておいたのは、死刑囚は「すでに死んだ者」であるので、家族以外には外部とコミュニケーションをとることができず、彼の短歌も死刑確定前に出版したもののほかは、世の人の目にふれることができなくなったためです。

<リンチ>
榛名山の林のなかの片流れ造りの小屋にてリンチをなしき
リンチせし者ら自ら総括す檸檬の滓を搾るがごとく
思い余り総括の意味を問いしとぞ惨殺される前夜に彼は
この冬の寒くなれかし雪降らばリンチの記憶鮮やかにならむ
元旦のあの日は小屋に小雪降り総括の惨吹き荒みたり
総括をされて死ねるかえいままよと吾は罪なき友を刺したり
落葉見れば落葉踏み分け亡骸を運びし夜の榛名山を想う
なぜ吾の解明努力を君達は認めないのだ同志殺害の
少年は泣き叫ぶ「総括」などしたって誰も助からなかったじゃないか
わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり
リンチ事件を解明せりと糠喜びせしこと過去に幾度ありけむ
凍傷に果てゆく間際「ぺつ、総括をせよだと」と友は吐き捨てて言ひぬ
<死刑判決>
九年前われの新生はじまりぬ死刑判決ありたるこの日
死刑ゆゑに澄める心になるといふそこまでせねば澄めぬか人は
犯したる罪深ければ昼の星映せる井戸のやうな眼となれ
二審にて述ぶるに備え独房にこもりし日日の菜種梅雨どき
走り梅雨来りて房に古びたる訴訟記録の臭いこもれり
被告なれど生ける吾が身はありがたし亡き同志らの言えざるを思えば
リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし
求むるは本質のみの死囚ゆゑ本の多くは底浅く見ゆ
事件には未開封なる事実なしただ解釈が難しきなり
物事はこころ直なれば善き方へ向ふと信ず死囚なれども

<独房にて>
清楚(せいそ)なるフリージアにして果つるいま強き香りを苦しげに吐く
朝日すつと壁に映りて伸びゆけり花開くよと房に見てをり
払ひのけ払ひのけつつ蜘蛛(くも)の巣の多き山下る夢に疲れぬ
クリスマス・イブに保釈で出でし日が岐路にてありき武闘に染みて
過ちを正すレーニンの教えをば全うするは身をも切ること
ひと冬を補充書作りに傾けて彼岸に入りぬ腕立て伏せをす
武闘には意義ありたりと君は言う二十年経て変わらざりけり
壁のほこりを落として房に春を呼びこれより書かむ山荘事件を
あかつきの獄のさ庭に小揺ぎし桜艶めく春のめぐり来
きそ読みし折々のうたの蘇生歌をけさ口ずさむ明日もさあらむ
そのむかし易者が吾をいぶかりておりたりと言いぬ面会の母が
獄蒲のべてふと寂しみぬ独り寝を十九年余重ねしを思いて
逆立ちをして今日のみの運動を楽しみており獄の連休
吾を外に出してゆくての花花を見せむと君は面会に来しや
新しき週のはじめに吾が房の便器洗えばこころ清しも
面会所裏のつつじを抜きしは誰ならむわりなきを悔やむ西行がごと
今われが切りたる爪を黒蟻が運びゆきたり獄のグラウンド
亡き夫もリンチに加担していますかと夫人が迫りぬ真夏の面会
獄に咲く石榴(ざくろ)の花見むと病いつわり医務室へゆかむか
人屋にて日のおおかたを座しおれば脚立て伏せの技編み出しぬ
憂きつゆも今年ばかりは長かれと願えり最後の補充書書きて
熱き湯に浸りて風呂を出でにけりつゆ寒くして舎房の暗く
反派兵デモの後尾に寄り沿わん小菅を去れるものならばすぐ
四十四の歳よさらばと人屋にて桶の張り水に顔を映し見る
検診後噛み締めており御大事にと獄医の掛けたる言葉を幾度も
覚悟せしにまたも延びたる命なり補充書提出期限延長さる
リ ズムよく鉄扉の向こうで箒掃く音優しくてペンを擱くなり
初雪の降りて納めの手紙を出し年始の明けまで獄門は閉ず
夢のなか母の手首をわが手もて握れば吾より太くありたり
牢に住み目を守れるは目を回す体操のおかげ筋みしみし鳴る
牢に来し君の手紙に謝するなり真剣に生きんとありぬ
獄の春手紙を書けば手袋を脱ぎしわが手のみずみずしさよ
原始なる海をゆったり泳ぎいし夢から覚めて充足があり
外廊下を歩みガラス戸の前に来て老けし中年のわれに驚く
振り向けば窓と格子のあわいにて猫が見ており行きて頬寄す
そこのみが時間の淀みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
紙を滑る筆ペンの音の心地よさよ房にも秋はひそやかに来ぬ
始発電車の音する前の真夜中のわが魂遊べる獄の平安
とどまれる秋雨ぜんせん房暗く少年のころふと思い出ず
房より見る箱ほどの空にありたるに仲秋の月見過ごしにけり
身に近くおみなあるさま木犀の香り漂い獄も華やぐ
この手紙あす福岡に着くという不思議を思う獄よりの速達
歩きつつ盗み見すれば独房で物書く被告の姿よろしき
枯るる前茎断ち切りて看視を避けカーネーションを胸に押しおり
十数年ぶりに手にせし労働の果実稿料よ獄に昂ぶる
そを見ればこころ鎮まる夜の星を見られずなりぬ展房ありて
外に出れば女区の桜咲き満てり仕置場望み房に帰らん
歌詠めば豊けくなりて何ものも生まず壊しし武闘を思う
房ごもりつづく連休近づけば庵で蠅とる歌口ずさむ
この年も鈴蘭見せに面会に君来給いぬ夏立ちにけり
獄廊に手錠と足の音のせり裁判に行かずなりて久しも
二冊目の上申書を今日書き終えぬ歌は償いの一部と記して
あと十年生きるは無理と言う母をわれの余命と比べ見詰めつ
つゆ寒の獄舎の夕べラジオより君の名流るリクエスト曲
事件をば書く手休めてしばしおり呼吸の数に時をはかりて
死の記録書きつつおれば夏草を刈りたる臭い房に満ち来ぬ
にわとりの小屋と呼ばるる運動場に覗きて咲ける薊いとしも
向日葵の写真はしまい花をまた買わん人屋に涼風吹けば
獄蒲にて満ちて微睡むひと時よきょう良き本に吾は出会いぬ
<罪と罰>
われら武闘合目的にあらざりき沖縄返還の闘いにおいて
紅衛兵たりし人の本を読みおれば身につまさるる極左の惨
社会主義破れて淋しさびしかり資本主義に理想はありや
疎まるるも堅物に吾はなりにけり連合赤軍の品位たもつと
永久に輝くこと無き過去なれば仄かな影を著しくせん
ドア破り銃突出して押入れば美貌の婦人呆然と居き
山荘事件を書きいる紙に映りたる格子の影に陽炎立てり
雪晴れて格子の雫星のごと輝きくるる吾に一瞬
済まないと風呂に入るたび詫びるなり裸で埋めし亡き同志らに
ああやはり転びバテレンは年老いて告白せりと続編にある
山荘でニクソン訪中のテレビ観き時代に遅れ銃を撃ちたり
活動を始めし日より諫められ諫められつつ母を泣かせ来ぬ
長男が悲しき姿で夢に出しと遺族の方の便りにありき
運動場へ野菊の花を見に行かんリンチの筆記に心乾きて
エル・ニーニョ終りて寒くなるらしき未決最後の冬を迎える
革命の功罪閲する世紀末十月革命も危うく見えて
その前に武闘を精算しておれば奪還指名をわれは拒みき
判決は如何にありとも掘り下げし弁護書面に救わるる思い
世にはやる癒し閉塞なる言葉そんなものではなしとひとりごつ
過ちの分析の途次縊られて断たれむ不安をつね抱きをり
人の為ししことにて解けぬ謎なしと信じて事件の解明をする
高松塚古墳壁画の発見を聴かされてその日われ救はれぬ
挫折せし過激派われが信ずるに足るものは一つヒューマニズムのみ
 
~~~~~~~~~~
20200728
 赤軍派事件&あさま山荘事件に関しては、死刑囚がまだ生存しています。
 さまざまなドキュメンタリーや小説に描かれるなど、検証も深まってきたのではないかと感じます。

 坂口弘は、死刑囚として独房で過ごしています。73歳。彼が独房で過ごしてきた50年。
 彼が独房に収監されてから50年間の日本の変化を、彼はどのように見てきたのでしょうか。
 坂口の短歌を繰り返し再録してきたのは、彼の短歌に読む価値があると思うからです。死刑囚は、家族以外との面会ができず、社会からは隔絶されます。彼の短歌を繰り返し読み返すのは、彼を忘れないためです。彼を忘れない人間がひとりでもいることを表明するためです。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「私だったかもしれない永田洋子」

2020-07-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200726
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(2)私だったかもしれない永田洋子

 私のもとに「フォーラム90」という団体から、発行ごとにニュースレターが送られてきます。
 ずいぶん前にフォーラム90のイベントで、作家辺見庸の講演が開かれました。ナマ辺見を見たい、というミーハー気分で、会場に出かけ、氏名住所を書いてきて以来、ニュースレターが送られてきます。寄付依頼も同封されていますが、すみません、一度も送金したことなし。

 フォーラム90のニュースレターにより、テレビやネットでは報道されることも少ない死刑執行者の名前なども、一般の人よりも目に触れる機会が多いです。
 カレー事件で死刑判決を受けた林眞須美(はやし ますみ)の絵なども、ニュースレター同封の「死刑囚表現展」のチラシなどで見てきました。

 2019年12月付のパンフレットに同封されていたのは坂上香監督のドキュメンタリー作品『プリズンサークル』のチラシ。
 刑務所に服役している4人の受刑者を2年間撮影し、強盗傷人、傷害致死、窃盗、詐欺などの罪を犯した受刑者が、どのように罪と向き合い、なぜ犯罪者となってしまったのか追及していく。

 受刑者施設「島根あさひ社会復帰促進センター」は、回復共同体Therapeutic Communityを日本で唯一取り入れている施設です。受刑者同士の対話により犯罪の原因を探り、更生を促すプログラムを実践しています。周囲から愛を受けられず、不幸な育ちをした人が多く、それらをしっかりと見つめなおすことで、犯罪に至った自身の人生を振り返り、別の人生を目指す、というプログラムです。
 官民協働の施設で、官の施設と民間の職業訓練施設とが合体して、受刑者の社会復帰をめざしています。

 受刑者は、成長の過程で貧困、差別、いじめ等を受けた者が多い。
 罪人を断罪するだけでは世の中から罪びとはいなくならない。貧困や差別をなくさない限り、犯罪もなくならない。プリズンサークルのプログラムを受けた人は、全員ではないかもしれませんが、一般の懲役刑受刑者よりも社会復帰がうまくいくようです。
 
 犯罪に至る原因には、貧困や差別などのほか、「より良い社会をめざす」という目的を追いながら、社会から見ると理想から外れて犯罪にかかわっていく、という経緯があります。オーム真理教に所属した信者たちも、教祖を中心とした理想の宗教国家を作ろうとしていて、道がねじ曲がってしまったのではないか、と思うのです。

 1968-1970年に社会を揺るがした「赤軍派リンチ事件・あさま山荘事件」は、私の世代の者にとっては、心に深く刺さった事件でした。
 死刑囚のひとり永田洋子(ながた ひろこ1945- 2011)は、死刑が確定後、執行前に脳腫瘍のため東京拘置所で獄死。脳腫瘍による症状を訴えても「死刑を免れようとする虚言」などと扱われたという話もありますが、真相はわかりません。
 永田と一時期事実婚の間柄であった坂口弘は、2020年の現在も死刑囚として獄にいます。

 私は、確固とした思想もない人間ですから、もし私が先の戦時中に生きていたら、きっと「パーマネントはやめませう」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」なんていうスローガンを叫びながら、スカートをはいている女性に「この非常時にスカートとはけしからぬ。もんぺをはきなさい」なんて言いたてる婦人会メンバーになっていたんだろうなあ、と思うし、永田洋子のそばにいたら、永田といっしょになって仲間をリンチする側に回ったのかもしれない。(殺される側になった可能性のほうが大きいにしても)

 私には、犯罪を犯してしまった人が、自分とはまったく別世界の人とは思えないのです。
 私も何かの事情があったり、なんかしらの団体に吸い込まれて、一歩道をたがえれば、犯罪者になっていたかもしれない、と感じます。
 外出自粛と要請されておとなしく皆で自粛する国民というのは、「鬼畜英米」「欲しがりません勝つまでは」と言われて、米兵に見立てた藁人形を竹やりで突き刺す訓練に嬉々として身をささげる国民でもあります。

 2019年12月10日のフォーラム90のニュースレターに、「死刑囚表現展」の選考過程の録音記録が載っていました。表現展に作品を寄せた死刑囚のうち、河村啓三、庄子幸一(筆名響野湾子)は、すでに死刑執行されていることを知りました。

 表現展の選者(評者)は・池田浩士・加賀乙彦・川村湊・香山リカ・北川フラム・坂上香・太田昌国。
 作品に対しては、たいへん厳正な評価がなされており、「死刑囚」ということを脇において、日本語文芸作品として絵画作品として表現しきれているかどうか、厳しく評しているように思いました。

 たとえば。
 批評の中で、2008(平成20)年6月の秋葉原無差別殺人事件で死刑判決を受けた加藤智大の作品に対して。
 加藤は、母親が弟だけを溺愛し、自分は親の愛を感じないまま成長したことを繰り返し川柳などの作品に表現しています。(加藤の弟は、2014年2月に自殺。享年28歳)。
 加賀乙彦は、加藤がゆがんだ家族関係の被害者とのみ自分を規定し、事件を起こすことによって弟や母に対しては自分が加害者となったことに対して向き合おうとしてこなかったことを「実にかわいそうな状況」と感じています。自分が犯した罪に真正面から向き合うことができない状況が、「かわいそう」なのだと思います。(やまゆり園19人殺人の植松被告も同じです)

 死刑囚表現展に出展した加藤智大文芸作品には厳しい評が出ましたが、加藤の絵画作品に対して、評者は「アニマ程近し賞」を贈っています。animaは、ラテン語で「生命や魂」を指す語。加藤の心を、殺人者として切り捨てるのではなく、救い上げようとしているように感じました。

 永山則夫の小説、坂口弘の短歌、日本語作品としてすぐれた水準に達していると思います。これだけの表現ができる者が殺人者として死刑判決を受けたこと、本人の問題だけじゃないと感じます。「家庭が悪い」「社会が悪い」だけでもないが。

 死刑制度、まだまだ考えがまとまりません。

道浦母都子『
・生かされて存(ながら)うことの悲しみに満ち満ちていむ永田洋子よ
・私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ』


 人が人に持つシンパシー。たとえ相手が殺人犯であっても、「私だったかもしれない永田洋子」と感じる心こそが人が人として生きていく感情なのだと思います。

 カミュの『ペスト』の中で旅人タルーは、若いころ銃殺刑を見て衝撃を受けます。それ以来心の平和はなくなり、常に「心の中にペストを持つ」という心理になります。タルーは保健隊で患者の世話をし続け、医師リウーと共感しあえるようになります。タルーのリウーへの共感、タルーの世話をしてくれたリウーの母親への親近感は、この物語の要と思います。

 タルーの手帳は、『ペスト』の中でも重要な部分です。
 「すべての人間はペストを持っている」というタルーの思い、あらゆる暴力と死刑や戦争を含む殺人に抵抗する、というカミュの考え方。死、そして死刑。
 人への共感を失い干からびていたタルーがリウーの母に寄せた共感。カミュはここを書きたかったんだろうと感じます。

 よしなしごとを考えてすごすのも、「オランのような封鎖都市」の住人になったためでしょう。

 これまでつきつめて考えることを停止してきた「死刑制度」も、コロナ封鎖、自粛生活の中で、「宣告」を思い返したり「ペスト」について触れたりしながら、考えてみました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「全員死刑!」

2020-07-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200725
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(1)死刑制度について 
 死刑制度について、私の立場を一言でいうと。
 「国家による死刑に反対。減刑なしの終身刑を最高刑とすべし」

 なぜなら、人は裁判においても間違うことがあるからです。冤罪は皆無ではないからです。

 2020年3月31日、冤罪を主張していた西山美香さんに対して、大津裁判所は無罪判決を出しました。西山さんは、殺人罪で懲役12年の刑を受け、服役し出所後に再審裁判を起こしました。
 2003年滋賀県東近江市の湖東記念病院で、男性患者の人工呼吸器を外して死亡させたとして看護助手西山美香さんが逮捕され、自白を有力な証拠として殺人罪が成立。懲役12年の刑が確定し西山さんは服役しました。

 しかし、自白は警察による誘導によるものだったとして、裁判をやり直す再審公判が大津地裁(大西直樹裁判長)で始まり、ついに「男性患者死亡時75歳は、自然死であり、事件性はない」という結論により、西山さんに無罪の判決が出たのです。

 西山さんに「他者に誘導されやすい」という弱点があったことは確かのようです。人に言われるままにそれを受け入れてしまう。自白は、相手に迎合するために誘導されてなされたものです。警察官と検察官は事件を作り出し、精神的に自立が難しかった弱い立場の女性に殺人の罪を背負わせました。「自白したから」という理由で起訴され、殺人犯とされました。
 警察検察は、無実の人に殺人罪を負わせたのです。

 この判決でも言えますが、「人は間違う」のです。

 1966年に起きた静岡県の一家4人殺害放火事件の犯人として、従業員の元プロボクサー袴田巌元被告人が逮捕されました。その後、袴田元被告が犯人とされた証拠を覆す「5点の衣類の写真」のネガフィルムが、実際には静岡県警察で保管されていたにも関わらず、裁判には出されず隠されていた事が判明。
 
 袴田被告の死刑は停止されましたが、いまだに再審請求中という冤罪事件です。警察や検察のメンツを保つために、無罪の証拠が隠された、というあまりにも卑劣なやり方、長い間の拘禁のために、精神が不安定になっている現在の袴田巌さんを見ると、もし、死刑執行後に無罪証明証拠がでたのだとしたら、この国家による犯罪は取り返しのつかないものになっただろうと思います。

 明治の幸徳秋水が死刑になった時代よりましになったのかもしれませんが、冤罪は現代にも決してなくなったわけではありません。

 冤罪が皆無ではない以上、死刑を実行すべきではない。
 しかし、私が死刑制度反対論者として名乗りを上げることができないのは、死刑を自分自身の問題として考えていないからではないか、という疑念が残っているからです。
 我が事として考えたとき、もし私が我が子を犯罪によって殺害されたとき、相手に対する復讐感情をどのように処理するのか、自分でもまだわかっていないからです。「ためらう」気持ちがあるのです。すべてのことを「善悪正邪」に一刀両断できる人もいるのでしょうが、優柔不断がサガである私は、すべてのことをためらいます。

 死刑を廃止した多くの国で、最高刑は「減刑なしの終身刑」です。
 死刑囚にとっては、「いつ刑が執行されるのかわからない」という不安の年月を過ごすことが「精神的拷問」の時間になっています。多くの死刑囚は「拘禁性ノイローゼ」を発症。
 終身刑は一般の懲役刑と同じく労働を課す。「罪を悔いつつ、労働の報酬によって被害者に賠償する」という刑になります。どちらが残酷な刑かというのは、人によって受け取り方はことなるでしょうが、残酷性という点では日本の絞首刑は、絶命まで20分かかる、という点で世界でもっとも残酷な刑です。

 日本は、世界の主要国のなかで、中国、アメリカの30の州とともに、今でも死刑制度を存置している国家です。ヨーロッパのほとんどの国が死刑制度を廃止または凍結としている中、アジアではカンボジアが死刑廃止となったほかは、北朝鮮、タイ、インド、サウジアラビアなどが存置国です。韓国は制度としては残していますが、事実上の凍結です。

 2018年は、久しぶりに死刑制度が人々の話題に上りました。オーム事件で死刑判決を受けた13人の大量執行があったからです。

 2018年7月6日と26日にオーム真理教事件の13死刑囚の執行がいきなり「全員死刑!」となったのも、2019年は代替わり行事がある、2020年にはオリンピックの予定、というスケジュールの中、2021年以後になると、世界的な死刑廃止の潮流の中、死刑執行は国際世論の反対を受けかねない、というタイムリミットでの執行であったようです。(なにも開示されていないので、憶測にすぎませんが)

 2018年7月。6日に麻原元死刑囚をはじめ7人、26日に6人。合わせて13人の死刑が執行されました。執行命令書にサインしたのは、上川陽子法務大臣(当時)。

 この大量執行には、多くの疑問点が残りました。すでに多くの識者が指摘してきたことなのですが、私もこの死刑執行には疑問を感じたので、メモしておきます。

1)まだ、オーム真理教事件の全容が明らかになっていない中、死刑囚たちの言説をもっと聞き取り、または執筆の時間があってしかるべきだった。死刑囚の書き残したものなどは開示されないままになっているが、一定期間後には開示されてもいいのではないか。

2)岡崎(宮前に改姓)一明(執行時57歳)は、坂本事件に関して自首しており、裁判では自首減刑が成立するかどうかが争点となった。1審は、自首は認定する一方、「自己保身のためだった」として刑を軽くすべきではないと判断した。しかし、逮捕後最初に自白した林郁夫医師は自首を認められ、減刑されたのに対して、法の下の平等が実施されていないと感じる。なにがなんでもオームの被告は死刑にしてしまえ、という国家の意思を感じる。

3)井上嘉浩は、再度の証言を願い、再審請求していたが、無視され死刑執行。再審中は執行されない、というやはり法の元の平等に反する。

 オームの犯罪については、さまざまな言説が出されています。国家に挑戦しようとしたテロ集団という見方が一般的であり、29名の殺人を行った集団への死刑執行を「当然」と受け止める方が普通と思います。

 それでも、ある違和感が私の中から消えないのは、教祖以外、自らの意思で判断し犯行を決定した者がいない、ということ。マインドコントロールされてしまうのも自己責任という論もあるでしょうが、犯罪を犯したとき、彼らは本気でその行為を「教祖のための善行」と信じていたのではないか、ということです。

 彼らが自治省だの建設省だのと、国家まがいの組織を作って活動していたことを考えるとき、彼らが「テンノーヘーカばんざい!」と叫んで敵兵に銃剣を突き刺した兵士たちと、どこが違うのか、という思いがあるからです。命じられて人を殺して、戦時中はそれが正義であり、英雄的行為とされ、戦後なら悪行。これはチャップリンはじめ、多くの人が言及していること。オームの犯罪者にとっては、彼らの論理での戦時中だったのだと感じます。

 むろん、違うことはわかっています。1930-1945年の帝国日本は、国際的にみとめられた正規の国家であり、教祖を元首とみなす「自称オーム真理教の国=神聖法皇国」は、自分たちだけで固まった疑似国家。国もどき国ごっこです。
 ただ、そこに集結した若者たちは、本気で「私利私欲を超えた理想の宗教国家を、教祖のもとに作り上げたい」という理想を追っていた。それが、ねじ曲がってしまったとき、私たちが住む社会は、かれらよりもっとねじ曲がった社会だったのだと思います。

 国家は、人を殺してもよいのか。
 オーム神聖法皇国の殺人が許されないなら、他の国家の殺人も許されない、と感じます。
 さまざまな犯罪に対して、法に基づいて裁判が行われ判決が下される過程はわかっているのですが、人間は神ではない。人が人を裁くとき、必ず間違いを犯す。

 最近見たテレビ番組「逆転人生」の中で、コンビニ強盗の犯人とされ「コンビニのドアに残された指紋」を「絶対的な証拠」とする警察に対して、2年がかりで証拠を集め、無実を証明した人が登場していました。
 起訴される前の取り調べに2年かかったのであり、拘束されていたのは刑務所ではなく留置所であるために、何の補償もなく、警察の謝罪もなかった、ということでした。
 もしも、起訴されそのまま有罪になっていたら、この人の人生はどうなったのだろうと思います。

 まちがうのが人間です。
 冤罪は許されません。冤罪で死刑になったら、命はとりかえしがつかない。

 「死刑を廃止したほうがいいと思いますか」という問いかけをすると、現在のところ、日本では「いいえ」という答えのほうが多いらしい。しかし、問いかけを変えてみると。
 「仮釈放のない終身刑で、その受刑者が一生刑務所から出ないのならば、死刑を廃止してもいいですか。加害者は被害者と遺族にのために働くことを義務付け、一生つぐないを続けることを条件にすれば死刑を廃止してもいいですか」と聞くと、死刑廃止に賛成する人がふえるのだそうです。

 私の死刑制度に対する考えは、まだまとまっていません。まとまらないまま、あれこれ無駄な考えを述べます。人が心の中に持っている「ペスト」について考えること、こんな世の中で考えるときを作らないと、考えないで流される一方の私なので。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「宣告 in 東京ノーヴィレパートリーシアター」

2020-07-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200723
ぽかぽか春庭>ジャパニーズアンドロメダシアター>2020感激観劇日記(2)宣告 in 東京ノーヴィレパートリーシアター

 2月下旬、中国のコロナウイルス封じ込めのための武漢封鎖などのニュースやクルーズ客船内の感染が伝わっていましたが、まだ「私の町は大丈夫」というムードでした。感染者は豪華クルーズ船に乗った人であり、私たちは大丈夫。この楽観はその後一変しました。

 2月下旬からほとんどの公演が中止になったことを考えると、2月20日に友人が出演した演劇公演を見ることができたのは、ぎりぎりセーフのところでした。

 2月20日、仕事を終えて下北沢に行きました。しばらく来ていないうちに、下北沢は駅周辺整備が終わり、出口がよくわからなくなっていました。しかし、なんとか南口に回ることができ、目指す劇場へ。

 加賀乙彦原作『宣告』
 東京ノーヴィレパートリーシアター公演2月20日-24日
 演出:菅沢 晃


 今回の上演、主人公の母親役として友人K子さんが出演していて、招待していただきました。私は初日の2月20日夜の回を観覧。
 東京ノーヴィレパートリーシアターは、小劇場が連なる下北沢の中でも客席26席というミニ劇場ですが、毎回質の高い演劇を上演してきました。

 K子さんが国家公務員定年退職後に演劇の世界に踏み出した時、演出脚本を志していることは聞いていました。還暦スタート!
 K子さんは、東京ノーヴィレパートリーシアターの演劇ワークショップ演出コース参加後、スタニスラフスキースタジオ所属の役者や受付などのスタッフとしてさまざまな上演に関わってきました。

 今回、椅子の上に用意されていたパンフレットを上演前に読んでいたら、演出家菅沢晃との共同脚本としてK子さんの名が。おお!脚本家K子さん!
 脚本家としてのスタート作品。心して観劇。

 私は2月20日の初日に観劇したのですが、原作者加賀乙彦さんが3日目に劇場にいらして観覧なさったそうです。1929年生まれの加賀乙彦さんは、K子さんによると「写真でみるよりずっと若々しく、お茶目な方」ということでした。

 加賀乙彦は、若いころ刑務所の精神科医として、死刑囚の精神ケアに当たりました。『宣告』は、加賀が長年接してきた死刑囚との関りを小説にまとめたもの。文庫本で上下2巻本または上中下3巻本の長編です。内容も重いことが予想され、私はこれまで読んだことはありませんでした。
 文庫本のキャッチコピーとして出版社がつけた文は。
 「独房の中、生と死の極限で苦悩する死刑囚たちの実態を抉りだした、現代の“死の家の記録」

 加賀乙彦のプロフィールまとめ。
「加賀乙彦 カガ・オトヒコ
 1929(昭和4)年、東京生まれ。東京大学医学部卒業。1957年から1960年にかけてフランスに留学、パリ大学サンタンヌ病院と北仏サンヴナン病院に勤務した。帰国後、犯罪心理学・精神医学を専門として博士号取得。拘置所などで死刑囚の精神ケアなどにあたった。
 著書に『フランドルの冬』『帰らざる夏』(谷崎潤一郎賞)、『宣告』(日本文学大賞)、『湿原』(大佛次郎賞)、『錨のない船』など多数。『永遠の都』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、続編である『雲の都』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。

 『宣告』あらすじ(ネタばれを含むので、これから『宣告』を読んでみようと思う方はご注意を

 「刑務所の受刑者は、看守から名前を呼ばれることはない。称呼番号(囚人番号)で呼ばれる。( 称呼番号は1桁〜4桁まで。ちなみにホリエモン収監時の番号は755だったそう) 
 しかし、死刑囚には呼称番号がない。殺人などの罪により死刑判決が確定した者は、死刑者すなわち「死んでいる者」だからです。番号がないゼロ番囚たち。死ぬ日を待つ身です。

 ゼロ番囚たちは、拘置所の二階に収容されています。監獄医(拘置所医官)近木は定期的に訪問してきました。日本では、死刑宣告即執行という例は少なく、刑執行まで平均の日数は7年ほどだそうです。
 加賀乙彦が『宣告』に描いた死刑囚たち。死刑宣告を受け、いつ「お迎え」がくるか怯えている人もいます。拘禁ノイローゼになる者、うつ状態になる者、、、、、。

 楠本他家雄(たけお)は日本屈指の大学であるT大生であった24歳のときに、殺人を犯しました。殺人強盗の罪により死刑確定まで9年、確定後6年を拘置所で過ごしてきました。15年の拘置所暮らしの間にキリスト教の洗礼を受け、精神科医官近木とは、同じ大学の卒業生として、信仰を同じくする者として心通わせ合うようになっています。

 拘置所の医官となった近木が診察してきた拘置所2階のゼロ番囚たち。
 女を崖から突き落とした砂田の暴力、一家四人を殺した大田の発作、囚人たちの精神状態は不安定です。他家雄は、毎晩のように「墜落する夢」で苦しんでいます。

 死刑確定囚は、他の受刑者と大きく異なります。近木が見てきたゼロ番囚たちの多くは生と死の極限で苦悩し、拘禁ノイローゼにかかることが多い。近木は、ゼロ番囚たちを丹念に見廻ります。

 死刑囚楠本他家雄は、逮捕から15年の収監を経て、いよいよ執行の日を迎えます。執行までのようすを描きつつ、近木は精神科医として他家雄ほかの死刑囚と関わった日々を振り返ります。
 
 拘置所の所長が他家雄に執行を告げるシーン。
「あす、きみとお別れしなければならなくなりました」
「はい」他家雄は無表情のまま、凝(じ)っと所長を見詰めた。
「いいですか」所長は焦り気味に、言葉全体に真実らしさを与えるべく、重々しく言った。「これは冗談ではないのです」
「わかっております」


 K子さんの脚本でも、このシーンは、このままのセリフで表現されていました。しかし、大長編を1時間45分の上演台本にするために、K子さんはどれほど本文を読み返し、削る文に苦労して上演台本にしたのか、3年間かかったという労作です。

 K子さんは、死刑執行前の家族面会のシーンに登場しました。収監されている息子に毎週面会に来ていた母が、いよいよ息子と別れる場面です。母親は、心づくしの料理、息子の好物をお重に詰め合わせて差し入れにします。心穏やかに死刑を受け入れている他家雄。子どもの頃の楽しかった思い出話をする他家雄の兄。母は胸をつまらせて短い面会時間を終わります。

 私の隣の席の人は、母と息子のお別れシーンにすすり上げ、涙を流していました。母にとっては、殺人犯でもいとしい息子。母の気持ちになって舞台を見ると、母子の別れは涙ナミダのシーンなのですが、私は、哀切極まる思いとともに、母が息子に差し入れしたお重の中身に気を取られていました。死刑囚が最後に食べる母の心づくしの料理、中身は何?

 のちにK子さんのメールでは、お重の中のお煮しめもお寿司も全部K子さんが手作りしたごちそうであったよし。さすがK子さん。

 主人公楠本他家雄のモデルは、実在の死刑囚正田昭であることは、加賀乙彦自身が明かしています。

 死刑囚の精神状態をテーマとして博士論文も執筆した加賀ですから、監獄医志願した最初は「研究テーマ」として死刑囚と向き合ったのかもしれませんが、十数年にもわたる死刑囚とのつながりの中、心を通い合わせるようになったことを、加賀自身が述べています。

 モデルの正田昭(1929-1969享年40)は、加賀乙彦と同年生まれです。
 1953年、24歳の東大生楠本他家雄は、証券取引のトラブルから証券マンを殺害し、共犯者2人と金品を奪ったため、強盗殺人事件主犯として死刑判決受けました。逮捕時、あまりに軽薄な言動をしたために「アプレゲール殺人」としてマスコミに取り上げられ、「戦後の軽薄な若者による犯罪」として有名になりました。

 獄中で正田はキリスト教の洗礼を受け、獄中記や小説を執筆し、15年の獄中生活の末に死刑執行。
 加賀乙彦は、20代の正田昭を独房にたずね、死刑執行時まで彼の内面を見つめました。
 私は、キリスト者であった加賀が正田を信仰に導いたのかと想像していました。しかし、新聞のインタビュー記事によると、正田が加賀の信仰を深めたのだ、というのです。加賀は「魂のレベルでは、正田が私の師であった」とまで述べています。

 死刑が確定するまで、正田は獄中記や小説を発表し、支援者の女性と文通をするなど、外部と交流していました。事実に基づくエピソードが小説に取り入れられています。女性との文通に関しては、小説『宣告』読者の中には、嫌悪感を示す人もいます。殺人犯が他者と心を通わせ合うことは許されない、と思う一般社会の人もいるということなのかもしれません。
 K子さんの脚本でも、この女性は、楠本他家雄と交流する人物として登場していました。

 私の感想は、メールでK子さんに送りました。演出について批判的な感想を書いてしまいましたが、K子さんは「しろうとの感想」として受け止めてくれたと思っています。
~~~~~~~~~
 K子さん
 宣告の舞台見せていただきありがとうございました。すばらしい作品になりましたね。
お母さん役ももちろんよかったですが、脚本もよかったです。K子さんの脚本ということ、パンフレットのクレジットを見るまで知らなかった!
 長い小説なので読んでいなかったけれど、二時間弱の時間の中で死刑囚の精神状態も母親の悲しみも観客に伝わったと思います。

 演出については、一つだけ疑問点があります。映像で雪や雨を映すのはありだと思います。新聞記事までは、まあいいかな、と。
 しかし一番最後に正田昭の逮捕時新聞写真を映像で出したのは賛成できませんでした。
 この劇が事実を元にした話であることを観客にアピールしたかったのかな、とも思いますが、加賀乙彦は、自分が触れあってきた死刑囚の物語を小説として執筆しました。モデルが正田昭であることは加賀乙彦も明言していますが、ドキュメントとして書いたのではないのであるからして、正田昭の写真は出すべきじゃなかったと私は思います。逮捕時にはアプレゲール犯罪と言われた正田昭、いかにも軽い風貌です。死刑執行前のようすと全く違った人格になっていたはず。演出は、彼が監獄で変わったことを言いたかったのかしら。

  加賀乙彦さんも観劇なさったとのこと、すごいです。
 私の隣の人は母親との最後の面会シーンで大泣きでした。
 
 私は死刑制度反対運動をしている団体から活動報告が送られて来るので、一般よりは死刑囚の動向に詳しいです。このつぎ(K子さん宅での)ホームパーティーの機会があったら、話してみましょう。今までこんな暗い話題は楽しい集まりにふさわしくないと思っていたので、どこにもだしたことなかったですが、次は話せるかも。
 お重手作りすごい!

~~~~~~~~~~~
 加賀は、自身が「死刑反対論者」であるとは言っていませんが、『宣告』から感じられることは、「死刑という国家による殺人」には反対なのではないか、と思います。
 これまで私自身の「死刑制度についての考え」を述べたことがありませんでした。やはり、重たい話題ですから。

 『宣告』に続き、次回、『死刑制度について。
 暗い世相の中、あえての暗い話。読みたくない人は読まなければいいだけのブログというのは、便利なメディアです。
 
<おわり>
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ぽかぽか春庭「トゥーリッキとトーベ」

2020-07-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

 ムーミンバレー「エンマの劇場」

20200721
ぽかぽか春庭ジャパニーズアンドロメダシアター>2020感激観劇日記(1)トゥーリッキとトーベ

 飯能のテーマパーク「ムーミンバレー」で最初にしたことは、「エンマの劇場」で「ニンニの物語」の観覧。 
 おなじみのスナフキンやムーミン一家とミーの次に、登場したキャラクターに、ムーミントロールが「やあ、トゥーティッキ」と呼びかけたので、娘と私は「あれ?トゥーティッキ?」

 私が1970代に全巻揃えた単行本と毎週見ていた1969年からはじまったフジテレビのアニメ「ムーミン(ムーミンの声は岸田今日子。主題歌と挿入歌の作詞は井上ひさし)」、そして娘が図書室で読んだ本と1990年テレ東のテレビアニメで見た「楽しいムーミン一家」では、トゥーティッキというキャラクターは「おしゃまさん」と呼ばれていたからです。(私が揃えた単行本は、姉が私に無断で元カレに全部貸したのですが、その後すぐに別れてしまい、借りパクされたままになりました。初版本もあったのに、、、50年前の出来事を今でも残念に思っていて、新しいシリーズを買う気になれず、娘は図書館の本を読んだんです)

 現在のCGアニメ「楽しいムーミン一家」では、「おしゃまさん」は原作通りトゥーティッキになっていたこと、知らなかった。
 1970年代には「ノンノン」1990年代には「フローレン」だったムーミンのガールフレンドも原作通り「スノークのおじょうさん」に戻りました。
 現在トーベ・ヤンソンの著作管理をしている団体(トップは、トーベの弟の娘ソフィア・ヤンソン)が、原作から逸脱しないよう目を光らせているのです。(1969年のフジテレビアニメでは、原作から離れた独自ストーリーやキャラクターの違いがあり、トーベは気に入らなかった)
 トーベは、1976年と1990年代に2度日本を訪れていて、日本が大好きでしたが、作品に関しては原作の変更に厳しかったのです。1969年版アニメは、「トーベ・ヤンソン原作」と「原案」をはっきり区別したうえでDVD化してほしいものです。

 ムーミンバレーの展示室で、娘はトゥーティッキのモデルであったトゥーリッキ・ピエティラ(1917-2009)をはじめて知りました。トーベが描いた「おしゃまさん=トゥーティッキ」は、写真のトゥーリッキとよく似ています。
 私は、トゥーリッキが撮影したドキュメンタリー「ハル-孤独の島」という作品を(テレビ放映だっと思うけど)見て、トーベとトゥーリッキが女性同士のパートナーとして30年間ともに暮らしたことを知っていました。

 トゥーティッキは、フィンランドでは著名なグラフィックデザイナーでしたが、日本ではアーティストとしてではなく、トーベのアートの源泉として、またムーミンフィギュアの共同制作者として認識されています。


 島の小屋ですごすトーベとトゥーりッキ

 若いころのトーベは、3人の男性と交際があったことが知られています。ことに、国会議員でジャーナリストのアトス・ヴィルタネンとは3年間交際し、いっしょに暮らした時期もありました。トーベはいずれ結婚するだろうと考えていましたが、当時の社会規範であった「女性は結婚したら家庭から出ることなく家事育児に専念する」という考えは持っていませんでした。そのゆえか、結局アトスと結婚することはありませんでした。
 トーベは、ヴィヴィカ・バンドレルに出会い、自分自身のセクシャリティを肯定しつつ生きることを望みました。ヴィヴィカは、女性農学者であり、カリスマ的な舞台監督でもありました。

 1971年まで、フィンランドでは同性愛は「犯罪」でした。
 トーベは、スェーデン語圏フィンランド人彫刻家の父ヴィクトル・ヤンソンとスェーデン人画家の母シグネ・ハンマルステン・ヤンソンの間に生まれました。自由な意思によって生きてきたトーベは、社会規範に従うより自分の愛を選びました。しかし、ヴィヴィカは市会議員の父を持ち、社会規範からの逸脱を望まなかったのかもしれません。

 1955年、トーベは、生涯を共に暮らす運命の人に出会いました。アメリカシアトルで生まれたフィンランド人トゥーリッキ・ピエティラです。トゥーリッキは、フィンランドやパリで美術を学び、グラフィックデザイナーとなりました。

 トーベとの共同生活では、ムーミンキャラクターの立体像作品をトーベと共同制作したほか、トーベと夏をすごした孤島での暮らしやいっしょに世界中を旅した記録をドキュメンタリー映画として残しています。1964年からフィンランド沖合の孤島クルーブハルに小屋を建てて、夏は孤島ですごし、秋から春まではヘルシンキの隣り合ったアトリエでアーティストとして制作を続ける共同生活でした。

 1991年、77歳のとき、体力の衰えから島での生活を断念しましたが、2001年に86歳で亡くなるまで、トーベはヘルシンキで執筆をつづけ、トゥーティッキはその8年後に亡くなりました。

 夏の数か月を「水も電気もない暮らし」としてふたりですごしドキュメンタリーが、先に述べた「ハル孤独の島」です。アイスランドやパリの旅の記録といっしょにしてDVDが発売されています。

 ムーミンシリーズの中「ムーミン谷の冬」で、トゥーティッキが登場します。トゥーティッキは、落ち着いた静かな画家です。


 冬眠からひとり目覚めたムーミンは、トゥーティッキに「冬でなければ出会えない生き物」を教えられます。人々が冬眠につく間だけ、のびのびと生きられる生き物たちについて、トゥーティッキはムーミンに語ります。
 「この世界には春、夏、秋には生きる場所をもたないものがいる。あたりがひっそりとして、なにもかもが雪に埋まった時にやっと出てくるの」

 フィンランドはフィンランド語とスェーデン語の両方が公用語ですが、スェーデン語は少数派。トーベはスェーデン語を母語として育ち、フィンランドの中では「少数派」でしたし、セクシャリティの面でも女性を愛するマイノリティでした。冬の厳しい寒さの中に生きている生き物、マイノリティについて肯定できるトゥーティッキは、トゥーリッキその人の反映でしょう。トゥーリッキは、マイノリティとして生きていくトーベをあたたかく包んでいたのだろうと思います。

 「ムーミン」がイギリス新聞の連載4コマ漫画として大成功を収めた後、1970年ころには新聞連載を弟のラルフが引き継ぎました。トーベはムーミンから離れて、画家、小説家として生きていたかったのです。画家としてはなかなか認めてもらえなかったトーベは、アイデンティティの危機をトゥーリッキとの生活の中で乗り越えました。

 「エンマの劇場」で見たニンニの物語。心を押しつぶされて姿が消えてしまった少女ニンニを、ムーミン一家はあたたかく迎え、ニンニは姿を取り戻します。
 ムーミンの物語は、トーベとトゥーリッキが望んだように、すべての人が自分らしく生き、周囲の人とあたたかく過ごせるストーリーです。
 ムーミンの大成功によって自分を見失い、姿が消えかけていたトーベが再び自分を取り戻し、制作に戻っていく心の旅路の物語と重なると思います。

 娘と、「もう一度ムーミンシリーズ、読みなおししなくちゃ」と、言い合いました。

<つづく>

*ジャパニーズアンドロメダって、馬酔木(あせび)のこと。
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ぽかぽか春庭「ムーミンバレーへ行く」

2020-07-19 00:00:01 | エッセイ、コラム

 ムーミンハウス

20200718
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記緑風に吹かれて(2)ムーミンバレーに行く

 娘とふたりで楽しみにしているテレビ番組のひとつは「スイーツ」。高島礼子がオリエント急行の路線を旅しながらロンドン、パリ、ウイーンからイスタンブールに至るまで各地のスイーツを紹介する番組も楽しかったですし、ふたりのパティシエが競い合ってテーマにそったスイーツを作る「スイーツマジック」など、お菓子番組を見ては「いつかあんな列車にのってスイーツ食べ歩きしたいなあ」「あのケーキ食べてみたいなあ」などと言い合います。

 「スイーツマジック」もコロナ以来、新作がなくこれまでの再放送をしています。見逃したのもあるので、再放送もうれしいです。「ムーミンをイメージしたスイーツ」の回も、楽しく見ました。
 そして、いつもなら「あのパティシエの店に行ってみたい」というのが定番ですが、ムーミンの回で、娘は「ああ、小学生のころ図書館のムーミンシリーズを全部読んだのに、忘れているストーリーもあるから、もう一度読み返したいなあ。そうだ、ムーミンバレーに行きたい」となりました。

 昨年、埼玉県飯能のテーマパーク「ムーミン谷」がオープンしたのは報道で知っていましたが、ものすごい混みようだというので、これまでは行く気になりませんでした。娘は行列するのが嫌い。ディズニーランドでもファストパスやバケーションパックを利用して待たずにアトラクションに入るようにしています。

 梅雨の時期、不安定なお天気なので野外型のテーマパークは人出がいつもよりは少ないに違いない、県をまたいでの往来は解禁されたから、都民が埼玉県まで出かけても大丈夫と思うけれど、まだ一番混雑しているときほどにはなっていないだろう、というふたつの理由から「並ばずにテーマパークを楽しめるかも」という推察。

 土曜日の7月11日。「朝、外を見て雨が降っていなかったら出かける」という金曜日夜の約束でした。土曜日朝は、どんより曇り空ながら降ってはいない。「よし、出発」
 電車に乗っている間は大丈夫だったのに、飯能駅についたらかなり強い雨が降っていました。電車に乗る前に降り出したなら、お出かけ中止したのに。


 飯能まできたんだから、とにかくムーミン谷までは行こう、とバスに乗り込む。バス停からムーミン谷入り口まで、傘をさして15分くらいの道。
 通り道にはさまざまな色の傘のディスプレイ。

 ニョロニョロがぶら下がっている傘の道。


 入り口前に「水浴び小屋」がありました。


 テーマパーク入り口


 小降りの中、入り口で写真を撮っていたため、11時の回の「エンマの劇場」は30分立ち見になりました。椅子の数を制限しているためです。「ニンニ」のストーリーを見ました。


 小母さんに意地悪をされ続け、少女ニンニは心が疲れて、姿が消えてしまいました。
 ムーミン一家の知り合いトゥーティッキ(おしゃまさん)は、ムーミン一家で暮らせばきっとニンニの心が癒されて姿を取り戻すに違いない、と消えたままのニンニを連れてきます。姿が見えないので、鈴の音で存在がわかるようになっています。ムーミン一家とたのしいリンゴ狩りなどをするうち、ニンニの姿はしだいに見えるようになりました。
 ママは、ニンニのためにかわいい洋服を作りました。ニンニは首まで見えるようになりました。しかし、肝心の顔はなかなか見えません。

 ある日、海へ出かけたムーミン一家。パパはママを驚かせようと、海に落とそうとします。しかし、それを見たニンニは大声で叫びます「やめて!」
 感情を封じ込めていたニンニが、大好きなママを助けようと感情を爆発させたとき、ニンニは顔を取り戻します。スナフキンもやってきて、一家は楽しく歌い踊ります。

 雨が止んだようなので[「飛行鬼のジップライン」という綱にぶら下がって宮沢湖の上を滑空するアトラクションの申し込みをしました。3時の回の予約。ただし、雨が降ったら中止という。
 おみやげ店で絵はがきを買って外に出たら、急に雷鳴、いきなりの大雨。これはジップラインは無理かなと、半ばはあきらめました。

 お昼まで「リトルミー」の映像シアターや「海のオルゴール」というムーミンパパが海に出る映像シアターを見ました。
 お昼最盛期は過ぎたから食堂も空いたかと思って、このテーマパークに一軒しかないレストランに行ったらなんと3時間待ちという。
 展示施設を観覧したり、ワークショップで皮のネームプレートを作ったりして待っていました。雨は降ったりやんだり。

 展示施設内のムーミン一家フィギュアと。

 ムーミン谷ジオラマの中のムーミンハウス


 3時の飛行鬼ジップラインの時間になり、飛行口まで山登り。飛行鬼のジップラインは、おさびし山の中にあります。自粛ひきこもりで足が弱っているから、山道はきつかった。

 ヘルメットをかぶり、体にハーネスを装着。娘は「ひっかかると危ないから」と、ピアスをはずすよう言われました。準備万端。さて、ロープにぶら下がって、湖の上のラインを往復。
 時間にすると片道は30秒もかからないのですが、風を受けて滑るラインはかなりのスピードに感じます。おそらく、このジップライン体験者の中で、70歳の春庭は最高齢だったんじゃないかしら。湖を真上から見下ろして眺めるという視線は、ここだけのもの。

宮沢湖と灯台を眺める

 ジップラインにぶら下がって滑空。

 ムーミンバレーのメインアトラクション「ジップライン」を終えて、ようやく昼ご飯にありついたときは、すでに4時。まだ「ムーミンハウス」に入ってないので、入場終了時間までに大急ぎで食べました。


 ムーミンとスナフキンが語り合う橋の上で。


 ムーミンハウスの入場は75分待ちとなっていましたが、待っている間、4時半からの回の「ニンニの物語」を、遠目でしたがもう一度見ることができ、退屈しませんでした。60分待ちくらいで5時半には入場できました。


 60分待って、見学時間は15分ほど。2階と3階は撮影禁止で案内人にせき立てられながら、さっと素通りの見学。地階と1階は自由見学撮影自由でした。

 ムーミンママの台所

 ムーミン一家のテーブルにはおなじみのパンケーキが。


 最後のイベントは、ムーミンキャラクターとの記念撮影。ムーミンママといっしょにカメラにおさまりました。ちょうどムーミンママの絵はがきを買ってあったので、「キャラのうちムーミンママが一番好き」みたいな感じに撮れました。


 雨もよいの一日でしたし、スナフキンのテントや灯台の見学ができなかったのですが、娘は「やりたいことはやった。一日満足」。
 テーマパーク案内図


 娘のテーマパーク評。「これでもっと混んでいたら腹立つけど、レストランとムーミンハウスで待たされたほかはまあまあだった。スタッフのレベルも割合に質が高かった。でも、こうして他のテーマパークを体験してみると、ディズニーリゾートスタッフの質の高さ、スタッフ教育の完璧さが特別なんだとよくわかる。ああ、早くディズニーリゾートに行きたい」という感想でした。

 ディズニーリゾートはまだイベントもパレードも中止のままの制限付きオープンなので、アトラクションではなく、イベント目的の娘は「完全オープンになるまでいかない」と、封印しています。マスクをしないでもよくなったら行きたいと。

 梅雨時のテーマパークにしては一日たっぷり楽しめたと思います。ムーミン大好きだけれど、パークに2度目に来るかというと、「シリーズの本を読み返す方がいい」というふたりの意見一致。古本屋でムーミンシリーズを買おうということになりました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「東御苑の菖蒲園」

2020-07-18 00:00:01 | エッセイ、コラム

 皇居東御苑菖蒲園

20200716
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記緑風に吹かれて(1)東御苑の菖蒲園

 皇居は、都会のオアシス。広大な緑の中に、さまざまな動植物が武蔵野の自然を残しています。その中で東御苑は、一般に公開されている貴重な公園。東御苑の菖蒲園も、四季の散歩の中で、楽しみな一角です。

 それほど広くもない菖蒲園ですが、さまざまな種類の菖蒲あやめが咲いています。例年、花の最盛期には人出も押すな押すなでゆっくり見ていられないほどでしたが、今年はまだ「県をまたいでの外出自粛」が続いているうちに花盛りとなり、人出もほどほど。池の周りをゆったり歩けました。休憩のベンチにも遠慮なく座っていられたので、のんびりしたひとときをすごすことができました。


 剣の舞

 汐煙と湖水の色 

  鳳台

 大盃

 大年寄


コロナ感染者数、東京は連日3ケタンを越え、心配もありますが、アヤメを見て東御苑でのんびり過ごすことができたこと、よかったです!花を元気になりました。野球やサッカーの観覧も再開しました。自粛鬱なんていう言葉も生まれた昨今、気晴らし、心リフレッシュは必要だと改めて感じました。
感染者の多くは、夜の繁華街での感染だそうですから、ホストクラブにもイケメン集めた劇場にも行かない婆さんの感染率は低いと思いますが、お出かけが多い春庭、気をつけてすごします。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「中世彩飾時祷書 in 西洋美術館」

2020-07-16 00:00:01 | エッセイ、コラム

 中世彩飾写本の展示室

20200716
ぽかぽか春庭アート散歩>2020緑陰アート散歩(6)中世彩飾時祷書 in 西洋美術館

 中世の彩飾時祷書の実物をはじめて見たのは、実践女子大の講演会に出かけた「ついで」の見学のおりでした。ちょうどクリスマス時期だったので、大学が所有する時祷書が展示してあったのです。

 このときは、講演会のあいまに見学したため、時祷書はささっと通り過ぎながら目にする程度で、じっくり見る時間を持たなかったのはもったいないことでした。同じ部屋に展示されていたクリスマスツリーやオーナメントのほうを熱心に見たのです。

 ロンドンナショナルギャラリー展を見た日、やはり「ついで」に見た展示がありました。
 「内藤コレクション展Ⅱ中世からルネサンスの写本 祈りと絵」
 2019年に「内藤コレクションⅠゴシック写本」の展示があり、13世紀の彩飾写本が展示されました。このとき、私はこの貴重なコレクションの展示に気づきませんでした。中世キリスト教美術より近代絵画現代絵画に目が行きがちで、狭い範囲にしか目が届かない。

 ロンドンナショナルギャラリー展を見て、常設展も見て帰ろうと寄った新館。2階の版画素描展示室で企画展示「内藤コレクション展」をやっていました。



 コレクター内藤裕史博士は、「中毒学」の権威として知られた医師。医学研究の合間にコレクターとして、長年時祷書写本の収集を続けてきました。ときには大学勤務の年収分をそっくりつぎ込んで「惚れ込んだ一枚」を買い求めました。写本枚数は150枚に達し、日本で有数のコレクションとなりました。
 定年退職後は、これをオークションに出せば、妻との老後が不安なく過ごせるほどのまとまった金額になるはずでした。しかし、オークションに出せば、せっかくまとまってきたコレクションは各地に散逸してしまう。


 内藤博士は、西洋美術館に一括寄付することを決意。その決意に、夫人はこころよく賛成したのだそう。わぉ、すごい奥さんだわ。
 大学勤務医は開業医とちがい、そうそうお金を貯めることもできない。「つましい暮らしに耐えた妻」と内藤博士は「コレクションへの道のり」に書いています。夫妻は、オークションでまとまったお金を手に入れるより、コレクションをまとめて残し、コレクターとして名を残すことを選んだのです。


 ありがたいこと。おかげでキリスト教美術にうとい私も、思いがけず美しい写本の世界にふれることができました。

内藤裕史「中世彩飾写本の世界」


 以下、写本の解説。
 いまだ印刷技術がなかった西欧中世のキリスト教世界においては、修道院を中心に制作された手写本が、ひとびとの信仰と知を担う特権的なメディアでした。ただしそれは、もっぱら言葉だけを保存し、運搬する媒体ではありませんでした。獣皮紙に書かれた中世の写本には、さまざまな挿絵が描かれ、テクストの頭文字やページの余白は、しばしば豊かな装飾なり紋様で彩られたからです。写本ページの小さな平面は、より大きな画面を備えた壁画や板絵になんら劣ることのない、中世の絵画芸術のまぎれもなく最重要な舞台でした。


 そんな中世の彩飾写本に強く魅せられた日本人のひとりに、中毒学を専門する学者/医師として知られる内藤裕史氏(筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授)がいます。数十年にわたって一枚ものの写本零葉を蒐集してこられた氏は、ご自身のコレクション約150点を、2016年春に一括で当館にご寄贈くださいました。日本のミュージアムには、西欧中世のコレクションが欠けているとの思いからでした。以降、当館では館外の研究者のかたがたに多大なご協力をいただきつつ、従来のコレクションの範囲を押し拡げるそれら寄贈作品の調査をしてきました。またその後も、内藤氏に賛同なさった長沼昭夫氏から寄付金を頂戴し、写本葉のさらなる蒐集をおこなってもきました。



 寄贈されたコレクションは、専門の研究者たちが探求し、内藤博士には調べが行き届かなかった制作年代やもとの時祷書などが突き止められて、写本の出自がわかってきました。

 コレクター内藤裕史。私は、内藤博士の医学上の業績をまったく知ることははなかったですが、医学への貢献は後輩の研究者にとって記憶されていくでしょう。
 でも、こうして写本コレクションの絵を見て、美術の世界においても大きな貢献をした人として覚えていきたいと思います。

 中世の祈りの世界。不確かな世の中にあって、一葉の絵によって心静まり、祈りの世界に導かれる。
 内藤博士に感謝。

 内藤裕史 
 1932年 東京都生まれ。1960年 札幌医科大学卒業。筑波大学教授。1995年茨城県立医療大学副学長、筑波大学名誉教授。
 

<おわり>
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ぽかぽか春庭「きもの展 in 東京国立博物館」

2020-07-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200714
ぽかぽか春庭アート散歩>2020緑陰アート散歩(5)きもの展 in 東京国立博物館
 
 70歳以上は常設展が無料で見られる東京国立博物館も、コロナ休館が終了し、ようやく開館しました。延期になっていた「きもの展」は、会期を変更して開催。
 インターネットによる日時予約が必要ですが、見に行ってきました。7月1日に観覧。

 東博の本館には常設展でも一室に常時着物の展示があり、季節ごとに展示が入れ替わったいるので、訪れるたびにさまざまな着物を楽しむことができます。だから、きもの展、それほど見に行きたいと熱望していたわけではありませんでした。でも、今回の特別展は、京都国立博物館の所蔵品ほか各地の貴重な資料を集めて、平安時代から現代までの着物の歴史的な流れを一堂に見渡せるという大規模な展示で、東博の所蔵品であっても、めったに展示されない貴重品も出るということなので、雨の中、でかけてきました。

 いつも平日は女性が多い美術展会場ですが、「きもの展」は普段にもまして圧倒的に女性の観覧客が多く、男性は女性の連れで来ている人が20人にひとりくらいの割合です。すてきな和服をお召しの方も多く、個性的な着こなしあり、麻や絽の着物を涼やかに着ている方ありで、着物はもっぱら見るだけ、自分では着てみようとも思わない私も、目の保養をさせてもらいました。私はいつものジーンズにTシャツ。

 第1章モードの誕生
 着物の原型「小袖」は、平安宮廷貴族などが十二単や衣冠束帯の装束などの「大袖」の下に身につけていた下着でした。

 鶴岡八幡宮に残された表着。現存する小袖の中で最も古い時代のものという。
 表着 白地小葵鳳凰模様二陪織物 13世紀 鶴岡八幡宮所蔵 国宝


 室町時代後期から戦国期、小袖に染や刺繍、金銀の摺箔などで模様を施して、表着として武家の女性が着るようになり、江戸時代になると経済力を持った商家の女性たちも華やかな装いを競うようになりました。
 
 第2章 江戸モード京モード
 江戸時代初期、二代徳川秀忠とお江の娘和子(まさこ)が後水尾天皇に入内したことで、江戸の小袖模様が京の町衆の目にもふれ、江戸と京都は流行の二大発信地となりました。京で友禅染が生まれると江戸でももてはやされ、尾形光琳下絵の光琳模様が裕福な商家の女性の「着物競べ」で装われる、というように、幕府が禁止令を出さなければならないほど、華美な着物が登場しました。

 婦女遊楽図屏風(松浦屏風) 奈良大和文華館所蔵 


 振袖 紅紋縮緬地熨斗模様 18世紀 京都友禅史会所蔵 重要文化財。


 友禅染め振り袖 白縮緬地衝立模様 18世紀 東京国立博物館所蔵 重要文化財 


 小袖 白綾地秋草模様(冬木きもの)尾形光琳筆 18世紀 重要文化財 東京国立博物館所蔵


 第1会場の展示ラストは、京都島原の遊郭「輪違屋」の再現


 第2会場
 第2会場の最初は幕末の着物から。天璋院篤姫や和宮ゆかりの着物、小物が並んでいました。

 第3章 「おことのおしゃれ」
 秀吉着用の陣羽織、家康の胴衣、信長の陣羽織が並んだ一角。
 鳥の羽で蝶を描き出した「かぶいた」デザインの陣羽織。

 陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様 織田信長所用 安土桃山時代・16世紀


 若衆ファッションや、江戸の「粋」を示す火消し装束もよかったです。

 第3章 モダニズム着物
 明治大正昭和初期、近代着物も見応えありました。

  大正時代の着物がずらりと。


 銘仙の展示。


 なんにでも挑戦した岡本太郎。着物のデザインにまで手を出していたとはびっくり。これ着ていたら、一目でTaro作品だとわかって目立つだろうな。


 現代の着物作家作品
 三越の紙袋になったデザインの元


 現代作品の最後はXJapanのYoshikiが手掛けた着物。幅広く活躍しているYoshiki、呉服店の息子として生まれたことをも自分の活動に生かし、着物のデザインにも進出。
 会場のビデオでは、Yoshikiファッションショーの映像が流れていました。ランウエイの中でピアノを弾くYoshik。ヨシキのピアノが生で聞けるなら、着物ファッションショーも見ごたえがあったことでしょう。

よしきデザインの着物。


 冬木家に伝わったという「白綾地秋草模様」着物は、復元プロジェクトによってレプリカが完成していました。冬木着物の横で、Tシャツ


<おわり>
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ぽかぽか春庭「ルネ・ラリック展 in そごう美術館」

2020-07-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200716
ぽかぽか春庭アート散歩>2020緑陰アート巡り(4)ルネ・ラリック展 in そごう美術館

 硝子好きな娘、吹きガラスの皿やとんぼ玉などを制作して楽しんできました。
 見るのも大好き。箱根のガラスの森美術館も見たし、伊豆高原のティファニーのステンドグラス美術館も見ました。

 今回は、ルネ・ラリック展。
実は2020年2月1日から庭園美術館で北澤美術館展があり、220点ものルネ・ラリック作品の展示があったのです。しかし、私の頭の中に北澤美術館とルネ・ラリックが結びついていなかったために、気づいた時にはコロナ閉館。見逃しました。

 見逃したとなるといっそう見たくなるのが、「釣りそこなった魚は大きい」というもの。幸い、そごう美術館でもルネラリック展をやっていて、こちらはコロナ休館ののち、会期が延長になっていました。
 アール・デコのガラス作品などの代表作を含めて約210点を展示しています。庭園美術館のルネ・ラリック展も見たかったですが、釣りそこなった魚のしっぽだけでも。
 
 6月27日土曜日、娘といっしょに横浜へ。そごう美術館は、横浜そごうデパートの中です。

 ラリック・エレガンス
 宝飾とガラスのモダニティ―ユニマットコレクション 2020.06.10 - 07.08

 
立像《シュザンヌ》 1925年


 ルネ・ラリック(1860-1945)は、フランスに生まれ、パリの装飾美術学校で宝飾工芸を学びました。その後、バンドーム広場にアトリエを構えてカルティエなどのブランドに卸し、また女優サラ・ベルナールら有力な顧客を得てアール・ヌーヴォーの代表的な宝飾デザイナーとして活躍、1900年のパリ万国博覧会で大きく注目を集めました。

 20世紀に入るとコティ社の香水瓶などの製造を足がかりにガラス工芸家としての道を歩み始めました。1925年のパリ万博でラリックに注目したひとりが、朝香宮允子妃です。庭園美術館の中にラリックの工芸品を見ることができます。

 ルネ・ラリック生誕160年を記念する今回の展示は、ユニマット社のコレクション。
 ラリックのアール・ヌーヴォー期の貴重なジュエリー作品をはじめ、アール・デコのガラス作品などの佳品が並んでいます。

 蓋物《シレーヌ》 1921


 ランプ 蝶 1919

 テーブルセンターピース「鳥の巣」 

 テーブルセンターピース「火の鳥」

 香水瓶「カシス」1920

 花瓶「オラン」1927 

  電気置き時計「ふたりの人物」 

 
 ラリック展入り口で


 残念なのは、会場内に休憩の椅子がひとつも置いてなかったこと。2時間の観覧中ずっと立ちっぱなしだったので、会場に椅子があった西洋美術館や近代美術館に比べてすっかり疲れてしまいました。コロナ対策のためとは思いますが、高齢者にはやはり足を休める椅子が欲しかった。私は絵はがき、娘は図録や記念グッズを買いました。

 2時半から4時半まで、そごう10階にある「IL Pinola Sky terrace」のベイブリッジを望む眺めの良い席で、ランチコースを食べてゆっくり休みました。
 前菜、フォッカチャ、カボチャポタージュ、仔牛赤ワイン煮スパゲッティ、コーヒーとデザートのコース。
 広々と広がるを港の景色を見ながら、娘とラリック作品の感想をしゃべりながら食べ、いっそうおいしかったです。

 前菜は、ルネ・ラリックをイメージしたコラボメニューということで、スペシャルメニューを追加注文。見た目きれいで、おいしかった。

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「ロンドンナショナルギャラリー展 in 西洋美術館」

2020-07-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200714
 ロンドンナショナルギャラリー展
 
ぽかぽか春庭アート散歩>2020緑陰アート巡り(3)ロンドンナショナルギャラリー展 in 西洋美術館

 2月に前売り券を買っておいた「ロンドンナショナルギャラリー展」。チケットを財布の中にしまいっぱなしで端がすりきれ、よれよれになってしまいましたが、無事観覧できました。

 購入の前売り券会期は3月3日~6月16日でしたが、コロナ休館を終えての新設定会期は6月16日~10月16日。
 新規チケット購入者は、入館観覧券のほかに、日時指定券というのを200円でネット購入しなければならないことになっていました。入館者数制限のためとはいえ面倒なことですし、ネット弱者の高齢者には不親切な措置と思います。
 前売り券購入者はネット予約しなくても大丈夫だったので、やれやれ、でした。

 ロンドンナショナルギャラリーは、1824年に市民美術館制定法が成立したことにより設立されました。他の美術館が王族のコレクションをもとに設立されているのに対して、ナショナルギャラリーは、資産家のコレクションや一般市民の寄付によって成り立っている美術館です。13世紀から19世紀末までの美術作品2300点以上を所蔵し、重要作品は常設展示されているので、これまで海外での展示はありませんでした。今回の日本での公開が初の海外出品です。
 本家ロンドンナショナルギャラリーは、ロンドン中心部トラファルガー広場に面して建っており、入館無料です。公的資金で賄えない分は、寄付によって館を維持しています。ただし、現在はまだコロナ休館中です)

 今回展示されているのは、選りすぐりの61点。なかでも、注目の目玉作品は。
・カルロ・クリヴェッリ『聖エミディウスを伴う受胎告知』1486年
・レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン『34歳の自画像』1640年
・フェルメール 『ヴァージナルの前に座る若い女性』1670-1672年頃 
・フィンセント・ファン・ゴッホ『ひまわり』1888年

 この目玉だけでも、ロンドンに行かずとも見ることができるのは至福の至り。ほかにも、すぐれた作品が並んでいて、2時間たっぷり楽しめました。

 入り口にロンドンナショナルギャラリーのドーム内観を模したパネルが展示されていました。


 最初の展示室は、第1章「イタリア・ルネサンス絵画の収集」から。16世紀のフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア絵画。
 カルロ・クリヴェッリ『聖エミディウスを伴う受胎告知』は、1482年に、イタリアの都市アスコリ・ピチェーノが、ローマ教皇シクストゥス4世 に自治政治を認められたことを祝うため描かれました。日本でいうと、銀閣寺の足利義政が弟に将軍職をゆずったころ。サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会に掲げられたこの絵、縦207cm横幅146.5cmという大きな画面です。

 こまごまといろんなものが描きこまれていますので、この絵だけでも30分くらいは観覧時間がかかりそうですが、幸いそんなに混んでいなかったので、近づいたり離れたりして、ささっと画面を見る。
 私の見方は単純なので、画面下方に、りんごとキュウリ(日本の胡瓜とは異なる印象なので、一体なにかと思った)が画面からはみ出して描かれているのはなぜだろう、とか、どうして孔雀がマリアの頭の上に?とか、素朴な素人鑑賞に徹しました。

 画面左上の鳩が飛んでいるのは、精霊による受胎告知の具体化なのだそう。
 りんごはアダムとイブの禁断の果実で人間の堕落をを象徴しており、胡瓜はキリストの復活の約束と、キリストによる救済を象徴している。孔雀の肉は永久に腐敗しないと信じられていたため、不死の象徴。というような解説をあとで読んで、ほう、そんなもんなんか。キリスト教絵画のお約束もいろいろたいへんなんだなあと思いました。図象学を30年前に若桑みどり先生に習ったんですけれど、忘れた。

 聖エミディウスは、アスコリ・ピチェーノの都市守護聖人で、市の模型を手に持っています。実在の人物ですが、紀元後3~4世紀あたりの人なので、受胎告知に立ち会っているってことはないんですが、キリスト受胎の重要な場面にいたってことにした聖人が街を守護してくれれば、もう怖いもんなし。

 『聖エミディウスを伴う受胎告知』の隣には、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ノリ・メ・タンゲレ』1514年頃のキリスト復活を描いた絵。キリストは復活を目にしたマグダラのマリアに「私に触れるな」と伝えます。ラテン語のノリ・メ・タンゲレって、英語ではnot me touchでしょうね。
 復活したイエスに最初に会ったのは、マグダラのマリア。ダビンチコードではイエスの妻だった、とされています。聖書が確定するまでにイエスの生涯を伝えるさまざまな異本が存在しました。しかし、カトリックが正本を定めると「マグダラのマリア=イエスの妻」説は異端とされ抹殺されました。

 マリアは、イエスの墓が空っぽなので、近くにいた誰だかわからない男に尋ねます。聖書ストーリーによると、この男を近所の庭師かと思ったんだって。すると、イエスはマリアに自分の正体がわかることを語りかけ「私にさわるな」と、言いました。天の父に会う前に生きた人に触られたら不浄になっちゃうんでしょうね。よく知らないけど。
 復活したイエスは、マリアが感じた通りの「庭師」の姿で描かれるのがキリスト教絵画のお約束だそうですが、私にはただ裸に布を巻き付けた姿に見えました。

 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ノリ・メ・タンゲレ』1514年頃


 キリスト教図象学も16世紀イタリア絵画もわからない素人鑑賞。
 この絵は「ギャンブルに負けてなけなしの衣服もはぎとられてすっからかんになったあげく、妻を捨てて出ていこうとしている男に、妻が泣きながら、どうしてあたしを捨てて出ていくのさ、もういちどあたしとこつこつやりなおそうよ、庭師でも大工でもやって、と嘆いている場面」と見る。男は「私にいつまでも関わっているとお前さんまで不幸になるよ。もう私を忘れてくれ」なんて親切ごかしのこと言って、妻を振り払おうとしているところ。ティツアーノさん、ごめんよ。無信仰者の感想だと、こんなふうになっちまって。
 第2章。オランダ絵画の黄金時代。
 オランダは17世紀から、英国は19世紀を中心として、海洋交易大国となりました。オランダの文化は、英国の人々になじみやすく、市民に好まれました。
 いちばんの目玉はフェルメール(Johannes Vermeer 1632-1675)の『ヴァ―ジナルの前に座る若い女性』。


 ロンドンナショナルギャラリーには、「ヴァ―ジナルの前に立つ若い女性」という絵もあって、双対の絵という説もあります。フェルメール晩年、健康に衰えがみえる時期の作品です。
 チェンバロがピアノと同じように鍵盤に対して縦に弦が張ってあるのに対して、ヴァ―ジナルは横向きに弦が貼ってあるのだそうです。若い女性は、弾く手を止めて、画面のこちら側をはっしと見ています。ドアを開けて来訪者が現れたのでしょうか。

 ヴァ―ジナルの後ろの絵には、売春宿の女衒と老紳士若い女性がぼんやりと描かれています。顔がはっきり描かれておらず、ここだけ取り出せば現代の風俗画のよう。背景の絵になにか象徴的な意味合いがあるのかどうか。どうしてこんなぼんやりした絵でも「売春宿の絵」っていうのかという研究本が何冊もでているのでしょうが、私にはわかりません。

 私の見立てでは、この若い女性はお金持ちのパトロンを迎えたところ。ヴァ―ジナルの前に立てかけてある「6本弦のヴィオラダガンバ」は、腕で楽器を支える弦楽器。チェロは4本弦で、足で楽器を支えます。
 パトロンは合奏を名目にしばしば若い女性のもとを訪れているけれど、お金持ちの目的は、むろん楽器の合奏ではなく、別の合奏。
 と、考えるのも、若い女性の目がなんだかおびえたようなはっきりしない感情を見せていると感じるから。
 フェルメールは晩年、あまり健康状態もよくなく、家計も火の車。この絵も注文に応じて描かれたのだと思うのですが、だれの注文であったかわかっていないらしい。

 レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン『34歳の自画像』1640年の作。
 画家として油の乗り切った時期の自画像。代表作『夜警』を完成させたし、息子は洗礼を受けたしという頃。数々のレンブラント自画像のなかでもはっきりと鑑賞者のほうを見つめています。レンブラントはこのころ、母親を失い、最愛の妻サスキアも亡くしています。レンブラントのまなざしはこころなしか悲しげにも見えます。

 

 第3章は「ヴァン・ダイクとイギリス肖像画」。
 国王チャールズ1世に招かれ、17世紀前半に英国で活躍したフランドル出身のヴァン・ダイク( Anthony van Dyck1599-1641)。
 フランドルはフランス北部オランダ南部ベルギー西部にまたがる地域で、日本では「フランダースの犬」で知られています。
 ヴァン・ダイクは、ルーベンスやイタリア人画家ティツィアーノらに師事し、修行先のイタリアから帰国後はイギリスで宮廷画家となり、王族貴族の肖像画で名を成しました。

 ロンドンナショナル・ギャラリーに14点のヴァン・ダイク作品が所蔵されていますが、今回の出展は『レディ・エリザベス・シンベビーとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー 1635』。
 初代サヴェッジ子爵トマスの長女と次女。エリザベスの結婚に当たって姉妹の肖像画描かれました。



 ヴァン・ダイクがイギリスで大人気を博し、以後のイギリス肖像画がこぞってヴァンダイクの描き方をまねたのは、理由があります。肖像画だから似ていないとまずいけれど、「本人だとわかる範囲での最大限の美化=盛り」が極めて上手だったからです。
 エリザベスとドロシーも、「美人姉妹」に描かれて満足したと思います。以後、150年にわたって肖像画の依頼の際には「ヴァンダイクのように描いてくださいね」というのが、お約束になりました。

 第4章。グランドツアー。貴族の子弟が学業の仕上げとしてヨーロッパことにイタリアを中心として周遊旅行をすることが流行しました。イタリアの旅行土産として、イタリア風景絵画が盛んにイギリスに持ち帰られ、イタリア人画家を招いてロンドンで描かせることも、イギリス人画家がイタリア光景を描くこ
も流行しました。

 第5章は「スペイン絵画の発見」
 ムリーリョの「窓辺による少年」やゴヤの「ウェリントン公爵像」が目玉。
 第6章 なんだか疲れてきて、何見たんだっけ、、、、。

 階段くだって、地階は第7章。近代絵画。目玉はなんといっても、ゴッホのひまわり。
 ゴッホは、アルルにゴーギャンを迎えるにあたって、歓迎を表すためにゴーギャンの部屋に飾る向日葵を描きました。現在知られているゴッホのひまわりは7点ありますが、ゴッホの自信作=サイン入りは2点のみ。ゴーギャンの部屋にかざってあったサイン入りが、ロンドンナショナルギャラリーの「15本のひまわり」です。
 ロンドンナショナルギャラリーのひまわりとそっくり同じ構図で描かれているのに、SONPO美術館のひまわりは、贋作疑惑がいまだに消えないのも、サインがないから。300億円もしたんだから本物だろうと思って見るしかない。

 今回サイン入りのひまわりを見て、Sonpo美術館のとそっくりだけど、ゴッホにとって、ゴーギャンへの信頼と尊敬をあらわすためには、ナショナルギャラリー版のほうが気に入ったのだろうと思います。そして、もし、Sonpo美術館のひまわりが贋作なら、サインまでそっくりに似せて書き込んだろうと想像します。サインがないのは、「ゴッホが書いたけど、気に入らなかったほうのひとつ」ということになるのではないかと思います。たぶん。
 なにせ、300億円も出して競り落として贋作であることになったら、オークション会社も鑑定した美術大家も訴訟問題になりますから、なにがなんでも本物ということに。
 ちなみに、私、なんとか鑑定団で、偽物と判定されたときの持ち主の顔つきが大好き。



 入り口の写真撮影コーナーで。
 私だってヴァンダイクに描いてもらっていれば、絶世の美女。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「コレクション展 in 東京近代美術館」

2020-07-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200711
ぽかぽか春庭アート散歩>2020緑陰アート巡り(2)コレクション展 in 東京近代美術館

 3ヶ月ほど閉館してきた美術館博物館が、さまざまな条件付きながら再開する館が増えてきて、アート散歩の楽しみが復活してよかったです。
 東京近代美術館に行ってきました。西洋美術館と近代美術館の常設展は、65歳以上無料、東京国立博物館常設展は70歳以上が無料。70歳以上の都営交通パスと組み合わせれば、美術館散歩や公園散歩で引きこもりにならずに済む。

 近代美術館は延期になっていたピーター・ドイグ展が10月までの会期でオープンしていたのですが、悩んだ末に常設展だけ見ることにしました。「無料で楽しむ」という方針を優先。10月までやっているなら、またあとで見てもいいし。

 近代美術館常設展は、季節ごとに展示入れ替えがあるので、行くたびに新しい絵と出会えます。久しぶりの常設展、新収蔵作品もかなりありました。作品委託者の許可がない場合以外、館所蔵作品は撮影自由なのもうれしい。「作品鑑賞をしないで、写真だけ撮って満足している」というような批判的な意見もありますが、私の場合、ああ、この作品いいなあ、と思っても、家に帰ると作品名も画家名もしかと覚えてられないことが多いので、いいなと思った絵のメモとして活用しています。

 新収蔵 丸木俊(赤松俊)解放されていく人間性 1947


 ふくよかな肢体の女性が顔を上に向けて堂々と立っています。1947年制作というと、日本はまだGHQ支配下にあり、男たちは非独立国の悲哀を嘆くか占領支配者にこびへつらって生きるか戦争を呪って暮らすか。しかし、女たちは顔を希望に向かってあげています。GHQを「解放軍」と持ち上げた人もいたくらいですが、実際に戦後の女たちは、戦前の虐げられた状態から「人間性が解放されつつある」という時代に立っていました。

 のちに「原爆図」で知られるようになる丸木俊。旧姓の赤松俊名で描いた女性像は、力強くあたたかです。新憲法の発布と同時代の「時代の声」が聞こえてくるような。絵の左下には、「1947.5.17.俊」という署名があります。1947年5月3日は新憲法が施行された日。その2週間後に完成し「俊」という署名の下に「解放されていく人間性」と赤い字で記入したときの俊の気持ちはどのような高揚したものであったか、想像されます。

 左下の署名と「解放されていく人間性」というタイトルの書き込み、私のデジカメ写真でははっきり写っていないのが残念です。
 「解放されていく人間性」左下の署名とタイトル書き込み


 ここで私が問題にしたいのは、「1947.5.17」という日付と「解放されていく人間性」というタイトルが、作品の鑑賞にとっては必需であったのか、ということです。絵を見ているとき、私は、実はこの小さな赤い文字の署名とタイトルに、気づいていなかったのです。家で写真メモを確認しているとき、なにやらはっきりとは映っていない文字に気付き、なんて書いてあるのか検索してわかったのです。

 絵を見ていたとき、女性の堂々とした存在感、顔をぐいと上に持ち上げている決して「美人画」ではない意思の強そうな顔から受け止めた感慨が、署名の年月日を知ることによって「あああ、やはりそうだったのか」という「自分が感じたことの裏付け」のように思えたことは何だったのか。もし、この日付がなかったとして、または違う日付だったとしたら、私の感じたことはことなってくるのか。いいや、日付がなくても、この絵が人々の心に届けてくる感情は同じだろうと思います。
 ただ、日付を知ることで、私自身の心が「私の受けた感慨への保証」のように思ってしまうことが問題なのだ、と思います。

 岡本太郎の「燃える人」という作品も、画面の大きさ以上に、見る人が受ける衝撃はとても強いものです。この作品を見るときに「第5福竜丸がビキニ沖で被爆した」という制作動機を知っていることは必要なのだろうか、ということも同じ。

 「燃える人」1955
 

 たとえば、この絵を見て「強烈な色彩が、見る人を高揚させる」と、受け止めた人がいたとして、それを間違いだ、画家はビキニの原爆実験につよい憤りを覚えてこの絵を描いたのだ、と訂正する必要はあるのか、ということです。
 「燃える人」は、「原爆にさらされた人間」をテーマに描かれた作品。
 「戦艦、眼、黒く燃える人間、原子雲など具体的なモチーフを取り込みながら、激しい色彩、鋭角的な筆触、爆発するような構成でテーマを表現している。現実の出来事をそのまま造形のなかに持ち込み、造形要素に移し変える作業によって、見る者はその出来事の悲劇性をあらためて想起させられることになるのである」という作品解説を知らずして、自分なりの受け止め方をしようと絵を見るとき、「正しい感想の持ち方」がありうるのか、ということです。
 井の頭線渋谷駅コンコース壁画の「明日の神話」も、同じ。この絵の前を通り過ぎる多くの通勤者にとって、この絵が描かれた作家の動機「第5福竜丸被爆への憤り」をどんなふうに感じているのか、渋谷駅コンコースを通るたびに絵の前を無関心に通りすぎる人々のようすを見て思います。

 ほかにも、今回の展示で心に残った絵がいくつかありましたが、もうこれっきり見ることはできないかも、と思ったのは「バウハウスの100年」という企画。元近衛師団のレンガの建物の中にあった近代美術館工芸館が閉鎖され、国立近代工芸館は金沢に移転することになりました。しかし、まだ金沢の建物は完成していないので、近代美術館本館にかなりの数の工芸作品が展示されていたのです。
 「バウハウス100年」の展示もそのひとつ。本来なら工芸館で展示される工芸品だったのではないかと思います。

 バウハウスは近代デザインや建築に100年後も今も影響を残す造形教育の学校です。ナチスによって閉校させられたため、実際の活動期間は14年足らずの短いものでした。しかし、20世紀21世紀の建築や家具インテリア、生活用品のデザインに至るまで、大量生産の工業製品から作家の一点ものの作品まで、バウハウスの造形は大きな影響を残しています。

 バウハウス100年の椅子などが展示されていた展示室。



 いつもは日本画の展示室にも、工芸品がいくつか並んでいました。アールヌーボーの工芸品などに日本画からの影響が強い、という観点から日本画室に並んでいたのかと思います。

 ドーム兄弟のガラス瓶


 ドーム兄弟のガラス製品も、金沢に引越しするのかな。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「池田20世紀美術館」

2020-07-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200611
ぽかぽか春庭アート散歩>2020緑陰アート巡り(1)池田20世紀美術館

 長いこと誤解したままのこと、私にはよくあります。熟語の読み方だったり、歴史上の出来事だったり。
伊豆高原にある池田20世紀美術館のことも誤解したままン十年。私の思い込みでは、池田満寿夫(1934-1997)がパートナーのバイオリニスト佐藤陽子と暮らした家に池田の版画などが並んでいるギャラリーだと思い込んでいました。
 満寿夫さんの作品展示は、熱海市にある「池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家と池田満寿夫記念館」でした。池田満寿夫作品が特に好きでもないので、行きたいと思うこともなくすぎ、誤解したままになっていて、いけだ20世紀美術館と池田満寿夫記念館は別の施設だということ、気がつ付かないままでした。

 伊豆高原の「池田20世紀美術館」は、ニチレキ株式会社(旧 日瀝化学工業)の創設者である故池田英一(1911-1982)氏が、収集した20世紀の絵画彫刻をを寄付して設立開館した美術館でした!1975年に開館し、1400点の現代絵画を収蔵しています。

 6月7日日曜日、はじめて池田20世紀美術館を見学しました。
 建物は、彫刻家井上武吉設計で、展示館外壁は日本ではじめてのステンレススチール張り。

展示室内
 
 地階は「前田えみ子の世界」展


 2階から1階のガウディコーナーを見る

 1階から2階を見る


 池田20世紀美術館1階の入り口に入ると、一番に見えるのは、ルノワール「半裸の少女」


 フェルナン・レジェ「女と静物」併設カフェの店名が「レジェ」なので、目玉なんだろうと思います。


 娘が「これが一番見たかったのに、この展示はレプリカだって」と残念がったのは、マティスの「ミモザ」をタペストリーに仕立てたもの。限定500のタペストリーのうち48番の制作品が池田20世紀美術館の所蔵品ですが、現在は箱根のポーラ美術館に貸し出し中で、こちらは複製品。娘は「本物じゃないんだあ」というのですが、私には500個の限定品タペストリーとレプリカの区別はつかないですから、複製品で十分満足。


 もうひとつの目玉は、ピカソの「近衛兵と鳩」。ピカソ88歳の作品です。


 ダリ「ヴィーナスと水平」ダリがマドリード王立美術院の学生だった18歳のときの作品


ヴラマンク「教会と花咲く木々」


 観覧者は少なくて、しかも高齢者が多い美術館の中、めずらしく若いカップルがきていました。二人の会話が娘の耳にも聞こえたのによると、「ウォーホールがあるから来た」と。
 アンディ・ウォーホールの「モンロー」


 前田えみ子「アフリカからのメッセージ」

 前田えみ子が東アフリカケニアに滞在していたのは、私と夫が79年80年にケニアにいたときの少しあと。

 前田えみ子は、2004年に伊東市にアトリエを建て、2019年に住居も移しました。しかし、2020年5月に78歳で亡くなってしまい、ご自身の作品展を池田20世紀美術館で見ることはできませんでした。「地と宇宙の躍動・歓喜」という副題のとおり、あふれ出るエネルギーに満ちた作品でした。

 はじめて見た池田20世紀美術館、都内の美術館と異なり、次にこられるのはいつになるかわからないですが、また見る機会があったらいいなと思い、帰りのタクシーを待ちました。タクシーじゃないと来られない場所に建っているのが難点。伊豆高原駅までタクシーで20分ほどで、3000円台でした。都内じゃ地下鉄利用がほとんどなので、タクシーに3000円も払うのは私にしてみれば贅沢なことですが、伊豆高原ですごした2泊3日、ゆったり楽しくすごせました。まだまだコロナの影響が残る中、よい時間を過ごせて、通勤が始まる前のひとときの充電ができました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ティファニーランプミュージアム&グランイルミ」

2020-07-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200707
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記伊豆の踊子号日記(4)ティファニーランプミュージアム&グランイルミ

 大室山お鉢めぐりを終えて、次に向かったのは。
 シャボテン公園でカピバラにえさをやるイベントもしてみたいという娘の希望でしたが、時間がなくなるからと今回はあきらめ、シャボテン公園前から海洋公園行きのバスに乗りました。

 娘の観光希望地、次は2017年12月にオープンした「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」
 ギャラリーに、約120年前に作られたティファニーのテーブルランプやウィンドウパネルなど珠玉のステンドグラス作品が70点ほど展示されています。

 ランプもステンドグラスも、とても美しく、ガラス好きの娘も私もしばし見入りました。娘は体験教室で吹きガラスでお皿や飾りを作ったことがあります。しかし、ステンドグラスは作り方も難しくて、いつか挑戦したいという希望だけが続いています。

 ニューヨークの宝飾品ティファニー社創業者の長男、ステンドグラス作家ルイス・C・ティファニーの作品32組を中心に、ギャラリーにアンティークランプなどが並んでいます。

 ルイス・コンフォート・ティファニーは1848年に誕生しました。日本は江戸時代末期の頃です。
 ルイスCティファニーは、多彩な新技法を駆使した教会用ステンドグラスで大成功し、ランプシェードなど高級ガラス製品を生み出しました。ヨーロッパでアール・ヌーボーが貴族や新興ブルジョアにもてはやされていたころ、 ルイス作品は「アメリカン・アール・ヌーヴォー」として人気を得ました。

 ギャラリー入り口では、ルイスCティファニーの胸像がお出迎え。
 ランプの明かりを生かすために、展示室内は暗くなっています。
  ↓の右下は、「蜘蛛の巣」デザインのランプシェード。308という制作ナンバーが刻印されています。



 70点のランプ、どれもすてきでした。
 左。「フルーツ」リンゴとぶどうなど秋の果物がモチーフになっています。右。ラッパ水仙と黄水仙のランプシェード。

 「黄道十二宮」。星占いに使われる12の星座が並んでいます。

「緑色の蜻蛉」蜘蛛やとんぼ、カエルなどの生き物は、アールヌーボーの流行デザインでした。


 「西洋手毬かんぼく(スノーボール)」こんなランプをともす部屋に住みたいわぁ。

 
 ルイス・C・ティファニーはニューヨーク郊外ロングアイランドのオイスターベイに「月桂樹の館(ローレルトン・ホール)」という名の豪邸を建てました。自らが家具、電飾、窓装飾などをデザインし、好みのインテリアの邸宅で過ごしました。
 ステンドグラス。「オイスター・ベイの風景」。


 ステンドグラスを堪能したあとは、併設カフェで「花びらを使ったお菓子」を食べました。エディブルフラワーは、お料理では食べたことがありますが、ケーキは初めて。チーズケーキにはあまり花びらが使ってなかったのが、ちょっと残念。


 カフェからの海の眺めは気持ちよかった。薄曇りの日で富士山が見えなかったのが残念な一日でしたが、海を見て広々した気分を味わいました。


 ホテルに戻って洋食コースの夕食。
 ホテルの送迎サービスで、近くのグランパル公園へ。

 「35年前に父と母と親子3人で伊豆高原にきたとき、2日目はこのグランパル公園で遊んだんだよ」と思い出話をすると、娘は「白い家に泊まったことと、広~いところで遊んだのをかすかに覚えているけど、それがぐらんぱる公園とは知らなかった」。
 区の勤労センターが提携している貸別荘に一泊した旅行が、娘が父親と旅行したたった一度の旅。2歳半だった娘は、団地とちがってロフトに上がる階段が珍しくて大喜びしたことと、グランパル公園の広い芝生で遊んだことだけ覚えていました。夫が家族旅行したのはこの1回だけで、1回でも義務を果たしたからあとはお役御免と、その後は旅行予稿など一切なし。娘息子にとって、旅行といえば私の実家一族で出かけるか、舅姑が孫を自分たちの故郷である山形に連れて行くかが、娘息子が子供のころの旅行でした。

 今回の温泉旅行、娘がアレンジしたのですが、グランパル公園に来るまで、2歳半のころに来たことはまったく思い出さなかったのです。

 昔きたときは、ただ広いだけの公園でしたが、今は昼はフィールドアスレチックで遊べるし、夜は公園全体にイルミネーションが輝き、観光名所になっています。こちらもコロナで閉園していたのが、前日からオープンしたところでした。

 音楽に合わせて光が変わるショウや、レーザーの光のショウが10分おきにあり、90分ほどの滞在時間、たっぷり楽しみました。公園全体を歩くことはできなかったのですが、土曜日に宿泊客5組だけの中、グランパル公園にイルミネーションを見にきたのは私たちだけ。ふたりのために送迎バスをだしてくれたのですから、迎えの時間に遅れたら悪いと、帰りは急ぎ足。

 グランパル公園 グランイルミ


 華麗なイルミネーションを堪能し、2泊目夜は4階にある女性大浴場で汗を流して寝ました。
 3日目朝の和食朝ご飯。


<つづく>
コメント (2)
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