春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2014年3月 目次」

2014-03-30 00:00:01 | エッセイ、コラム

by PJ.TaKo

2014/03/01
ぽかぽか春庭>2014年3月 目次

03/02 ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(1)外交官の家
03/04 横浜鎌倉洋館散歩(2)ブラフ18番館
03/05 横浜鎌倉洋館散歩(3)ベーリックホール
03/06 横浜鎌倉洋館散歩(4)エリスマン邸
03/08 横浜鎌倉洋館散歩(5)えのき亭&山手234番館、山手資料館
03/09 横浜鎌倉洋館散歩(6)山手111番館の蝶々さん
03/11 横浜鎌倉洋館散歩(7)イギリス館
03/12 横浜鎌倉洋館散歩(8)旧華頂宮邸の宮家スキャンダル
03/13 横浜鎌倉洋館散歩(10)長谷こども館(旧諸戸邸)
03/15 横浜鎌倉洋館散歩(11)鎌倉文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)
03/16 横浜鎌倉洋館散歩(12)旧前田侯爵家鎌倉別邸と春の雪

03/18 ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(1)最終講義と教科書編集
03/19 ありがとうさよなら(2)東京ガイド・日本のフツーの家編
03/20 ありがとうさよなら(3)東京ガイドたてもの園と後楽園
03/22 ありがとうさよなら(4)留学生さよならパーティ

03/23 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(1)東京おのぼり観光・隅田川橋めぐり&浅草寺
03/25 十四事日記3月(2)春のコンサート中南米クラシック
03/26 十四事日記3月(3)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ第1部
03/27 十四事日記3月(4)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ第2部
03/29 十四事日記3月(5)私がリケ女だったころ-夢見る頃を過ぎても
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ぽかぽか春庭「私がリケ女だったころー夢見るころを過ぎても」

2014-03-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/03/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(5)私がリケ女だったころ-夢見る頃を過ぎても

 水織ゆみのシャンソンプチコンセール『至誠のカトレア吉岡彌生(よしおかやよい)伝』
 舞台がおわり、水織ゆみさんといっしょの記念撮影もおわって、晩御飯を食べに行きました。ミサイルママが「私、晩ご飯食べていないから、いっしょに食べよう」というので、ジャスダンス仲間5人でゆみさんの舞台の感想を語り合いながら、遅い晩ご飯をとることになったのです。私はゆみさんの舞台が始まる前に夕御飯を食べたのですが、夕御飯と晩御飯は別、と思ってもういちど食べました。だから太るんだってことは承知で。

 ミサイルママが「吉岡彌生って、ゆみさんの舞台見るまで知らなかった。東京女子医大つくった人だったんだね。e-Naちゃん、この人のこと、知ってた?」と聞くので、「私、田舎から東京に出てきて、いちばん先に見たのが吉岡彌生の伝記映画だったの。私、東京女子医科大学の内科検査室で検査の仕事やってたんだよ」と話しました。

 20歳で東京に出て、東京女子医科大学の「内科研究助手」という仕事に就きました。新入の職員に与えられた仕事の一番最初が「学祖の事績を知る」ということでした。学祖、吉岡彌生ついて、伝記映画を見るまで、その名も知りませんでした。楠本稲(シーボルトの娘。幕末明治時代の最初の女医)や荻野吟子(明治の国家試験による女医第1号)は知っていたけれど、上京するまで吉岡彌生について聞いたこと読んだこともなかったのです。

 配属された内科検査室で「研究助手」って何をするのかもわかっていませんでした。仕事は、臨床検査技師といっしょに検査をやるってことがわかりました。え~、そんな専門的な仕事、私がやっていいいの?と思いながらも、教わりながら、尿検査、血液検査のやり方を覚えていきました。臨床検査技師の指導のもとに補助をするという名目ではありましたが、実質的には、次々と検体をこなさなければならず、覚えることがたくさんありました。

 顕微鏡を覗いて修業中         検査中     
  
 写真で見ると、私もリケ女ふう。割烹着でなく、フツーの白衣を着て仕事していました。

 内科検査室はとてもなごやかで、よい職場でした。他の人達はみな臨床検査の専門学校を卒業した、れっきとした技師さんたち、男性ひとりと、女性7人です。斎藤室長はじめ技師さんたちは、何の資格もない助手だった私に、分け隔てなく仲間として親しんでくれたし、検査技術のいろいろなことを教えてくれました。最初は尿検査ばかりで尿糖の測定をやっていましたが、やがて血液画像を見て、健康な白血球と異常のある白血球像を見分けることもできるようになりました。

 仕事を始めてから1年後に内科検査室長から試験を受けるように言われて、順天堂大学病院で「衛生検査士」の試験を受けて合格しました。内科検査室長は自分で受験を勧めたのに、「えっ、1回目の受験で合格したの!」と、驚き、「3年くらいかけて合格できればいいと思っていたんだけど、合格しちゃったなら、まあよかった」と、言いました。

 「衛生検査技師」は、臨床検査技師とほぼ同じ検査業務ができますが、心電図検査や脳波検査、肺機能検査などの生理学的検査はできません。
 2011年に、衛生検査技師資格は、臨床検査技師と統合されて、新規にこの資格をとることはできなくなりました。しかし、2011年以前に取った資格は有効なので、もし、私が病院で働こうと思えば、理屈としては検査業務ができることになっています。どこの病院も採用してくれないでしょうけれど。

 1970年の東京女子医科大学にあった病院の建物は、ほとんどが新しいビルに変わっていて、歴史的建造物である一号館が残っているくらいです。内科検査室という部署も改変されて、今はありません。
 上京したばかりの私がすごした東京女子医科大学。短い間だったけれど、なつかしく思い出深い場所のひとつです。

 私にとって内科検査室が居心地のよい暖かい場所だったのは、なによりも「女性が職業を持って社会に生きていく」ということを大切にした吉岡彌生の精神がずっと生きていたからだったと、水織ゆみさんの歌ものがたりを聞きながら思いました。

 あのまま、女子医大の検査室に残って仕事を続けていたら、また別の人生だったんだろうなあと思います。でも、衛生検査技師の資格をとるとまもなく、内科検査室の仕事をやめてしまいました。どんなに努力しても、私は徹底的に文系の人間であり、リケ女ではないと思うようになったからです。

 地元の地方公務員をやめて上京し、病院の仕事もやめて、3番目の仕事は、船会社の英文タイピスト。私の13回転職の最初の3つです。5番目が中学校国語教諭で、6番目が旅回りの役者。半年だけプロの役者やったけれど、できちゃった婚で終了。13番目の仕事が大学講師。これは現在まで25年間続いています。

 夢見る頃だった20歳。年月は遥か遠くまですぎてしまいました。髪は白髪になり、体重は20Kg増しとなりましたが、今の私はわたしで、夢見ているんです。実らぬ夢のダイエット?いえいえ、夢は大きく果てしなく。

20歳、夢見る少女だったころの春庭(女子医大構内で)


女子医大でのスナップ

 現在、東京女子医科大学の研究チームは、言語の文法機能を司っている脳の部位をつきとめたのだそうです。ことばの探求は、広く深くどこまでも。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみその2」

2014-03-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/03/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(3)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみその2

 歌ものがたり「至誠のカトレア」
 第二部の曲目は。♫二人でいれば ♫女女女 ♫モンデュー神様 ♫愛の詩 ♫校歌 ♫マイウエイ ♫生きる

 病気がちだった吉岡荒太の手助けをして至誠学院の運営をする一方で、彌生は飯田町に「東京至誠医院」を開業。
 病気を抱えた荒太は治療を優先して学院を閉鎖し、彌生の病院を支えることになりました。

 彌生が学んだ済生学舎が女性の入学を中止したことを憂えて、彌生は至誠病院の中に、女性が医学を学ぶための「東京女医学校」を設立。1900(明治33)年のことでした。

 医学校を専門学校に昇格させるために、彌生は官僚との対外的な折衝をこなし、病身の荒太は学校内部の運営にあたる、という分業でした。男が前面に出て女が奥を守るという従来の役割分担だったらもっとスムースにことが運んだのかもしれませんが、夫妻には「女が前面にでてはいけない」という考え方はありませんでした。

 しかし、現実の折衝では「女だから」と、お役人たちに軽くあしらわれることが続きました。彌生はそんな世間の目にもたじろがず、辛抱強く交渉を続け、ついに1912(明治45)年、東京女医学校は、東京女子医学専門学校(東京女子医専)となりました。

 ゆみさんは、ファムファムファムと、♫女女女という歌を歌っていました。女を揶揄する男たちの声をさらりと受け流して、前にすすむ彌生を表現していました。
 「女だから」と言われて苦労したことがある人には、そうそう、男社会に切り込んでいくのは並大抵のことじゃなかったのよね、と頷けるのでした。 

 女医専は年ごとに医師開業試験合格者を出し発展していきましたが、ともに苦労してきた夫荒太は病状が悪化して、1922(大正11)年、55歳で死去。
 ゆみさんは、愛する人を失った悲しみを♫モンデュー神様、という曲に託して歌いました。愛する人にひと時でもいいから命を与えてください、と願う歌、せつせつと心に染みました。

 荒太の死、1923年の東京大震災による校舎への打撃など数々の試練を乗り越えた彌生でしたが、昭和の長い戦争の時代になると、傷病兵への看護をはじめ、「銃後の女性」の役割を果たすことになります。
 婦人国策委員第一号、愛国婦人会評議員などの華々しい活動。しかしその「銃後の活動」は、戦後になると「戦争協力者」のレッテルとなり、公職追放という重い処分が与えられました。

 彌生が公的な仕事に復活するのはGHQよる占領が終わって、日本が独立して以後になります。
 1952年、女子医学専門学校は念願の新制大学となり、今日まで女医や看護師の養成、大学病院での医療、研究を続けてきました。
 ゆみさんは女子医科大学の校歌を歌い、彌生の歩んできた道を振り返って♫マイウェイを歌いました。

 2月6日の舞台とは違う時の歌声ですが、水織ゆみ歌唱のマイウエイ
https://www.youtube.com/watch?v=WwV86C_1h34

 吉岡彌生伝「至誠のカトレア」最後の曲は♫生きる
 ゆみさんの歌うシャンソンは、ほとんどご自身の訳詩で歌うので、一般的に歌われている「生きる-最後の意思」とは歌詞がちがったように思いましたが、おおよその内容は、「自由にやりたいことをやり遂げてきた人生。後悔などなにひとつない。たとえ、家が無くても、くつ一足さえなくても、生き抜いていく。それが最後の意思。生きる、生きる、生きる、、、、Vivre, vivre, vivre, vivre、、、、、
 そんな内容の歌詞です。88年間をせいいっぱい生き抜いた吉岡彌生の人生を締めくくるのにふさわしい選曲だったと思います。

 吉岡彌生の生涯を歌い納めて、あとはお楽しみのアンコール。華やかな衣装に着替えてのアンコールも堪能して、 終演後、ロビーに出てきたゆみさんといっしょに写真をとってもらいました。

                終演後のロビーで
ファンと握手しているゆみさん

 おさげ髪の少女のときも、華やかなドレスに着替えたアンコールのときも、ゆみさんはひときわ輝き、すてきでした。 
 ゆみさん、すばらしい舞台をありがとうございました。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ その1」

2014-03-26 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/03/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(3)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ その1

 2月6日、シャンソンコンサート水織ゆみ「プチコンセール冬hivier」を聞きました。
 木曜日に仕事が休みになるミサイルママと、渋谷伝承ホール(渋谷区文化総合センター大和田)に現地集合。夜の部は『至誠のカトレア吉岡彌生(よしおかやよい)伝』でした。

 新宿区市ヶ谷河田町に建つ東京女子医科大学。その創始者である吉岡彌生(1871-1959)の伝記をもとにした「歌ものがたり」のステージ、すばらしい「ソロ・ミュージカル」でした。台本、歌の選曲、演出、歌唱、すべてをひとりでこなして、すごい才能だなあと、あらためて感じ入った舞台でした。

 ピアノ(金益研二)と二胡(曹雪晶)の伴奏。二胡の響きがとてもよかったです。
 第一部で歌われた曲は
♫明日へ ♫さくらんぼの実る頃 ♫人生はコメディ ♫東京ラプソディー ♫私は出来る ♫あなたがいれば 

 タイトルの「至誠のカトレア」を解題すると。
 至誠は、吉岡彌生の夫、吉岡荒太(1868-1922)が設立したドイツ語学校、東京至誠学院と、夫妻が設立した「東京至誠病院」にちなんでいます。
 カトレアは、彌生のシンボルフラワーです。明治の女子教育界の3人の教育者のうち、津田梅子の花は、その名から梅。日本女子大学の成瀬仁蔵のシンボルの花は、桜と楓。2000年に発行された「日本の私立女子教育百年記念切手」のデザインになっています。女子医科大学の同窓会などでも、カトレアはシンボルフラワーになっているようです。



 幕があがると、舞台脇の花道から老女が登場。晩年の吉岡彌生に扮したゆみさんです。冗談を言って客をわらわせながらすっと舞台に客を引き込んでしまう、ゆみさんらしい登場です。舞台を見渡し、そこが新宿河田町の東京女子医科大学の前であると語り始めます。今は亡き夫、吉岡荒太に「私たちが作った医学校がこんなに立派になりましたよ」と語りかけ、過ぎし日をしのびつつ、上手へ。

 上手から、一転、老女はかわいらしい少女の姿になって登場。おさげ髪の愛らしい姿に、客席はわっと湧き上がりました。観客はゆみさんと同年輩の方々が多く、自分と同じ年のはずのゆみさんが、少女になりきって演じているのを見て、思わず自分の若かりし日の姿を思い出したのかもしれません。

 お転婆な少女は村のガキ大将と喧嘩しつつも、父と同じ医者になりたいと夢を語ります。しかし、女の子は嫁に行って家庭に入るのがいちばん幸せと信じている父はなかなか上京を許してくれません。ようやく上京を許されたとき、彌生は19歳になっていました。上京シーンで歌われる東京ラプソディ。客席に降りて歌うゆみさん、はじめて東京を見た初々しい少女の心が弾む、楽しい歌声でした。

 1889(明治22)年に彌生が入学した済生学舎は、明治時代の国家試験「内務省医術開業試験」の合格を目指す学生のための学校でした。男子学生のひやかしや妨害にめげず、彌生は猛勉強の後、1892(明治25)年に医師開業試験に合格しました。
 彌生はさらにドイツ留学を夢見て、ドイツ語習得をめざします。入学したドイツ語学校で教えていた院長が吉岡荒太(1868-1922)でした。

 吉岡荒太は、祖父、父とも佐賀の漢方医だった家系でした。荒太は、西洋医術を習得せんと志して19歳で上京しましたが、学資が不足し、ドイツ語教師をしながら独学で医師開業試験の受験を続けました。荒太は開業試験の前期試験に合格したところで、自分自身の受験を中断し、弟たちのための学資稼ぎを優先したのです。学資稼ぎのために作ったドイツ語学校「至誠学院」に入学してきたのが、鷲山彌生でした。

 鷲山彌生は、荒太と出会ったとき、24歳。医師開業試験に合格して2年半たったところでした。1895(明治28)年ふたりは結婚。
 ♫あなたがいれば♫を、荒太と彌生のラブソングとして歌って、第1部はおひらきです。

 アクアヌーヴォー(水織ゆみメール通信)添付写真より 


<つづく>
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ぽかぽか春庭「春のコンサート・中南米クラシック」

2014-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/3/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(2)春のコンサート・中南米クラシック

 毎年出かけている、東京楽友交響楽団の春のコンサートに出かけました。錦糸町のトリフォニーホール。1:30開演ぎりぎりに席につきました。

 3月16日の第96回定期演奏会のテーマは、中南米の音楽。指揮は田部井剛。曲目は前半が、G・ガーシュウシン(1898-1937USA)「キューバ序曲」、A・ヒナステラ(1916-1983アルゼンチン)『組曲エスタンシア作品8a』、休憩の後、H・ヴィラ-ロボス(1887-1959ブラジル)『ブラジル風バッハ第4番』、S・レブエルタス(1899-1940メキシコ)『組曲マヤ族の夜』、アンコールがカステリャーノス(Evencio Castellanos、1915-1980ベネズエラ)『パカイリグアの聖なる十字架』

 私はガーシュインの曲は『ポギーとベス』『ラプソディ・イン・ブルー 』『アイ・ガット・リズム変奏曲』などで馴染みがありますが、他の中南米の作曲家については、まったく名前も知らず、いかに私たちの音楽体験が欧米に偏ったものであったかを感じました。
 中南米の作曲家というと、ピアソラくらいしか頭に浮かばなかったのですが、今回聞くことができたアルベルト・ヒナステラは、そのピアソラの先生だった音楽家だとのこと。

 曲は、やはりリズムがとても印象的で、キューバ序曲で使われている「クラーベ」というリズムをはじめ、打楽器を効果的につかった曲が続きました。
 最後の『マヤ族の夜』では、パーカッションが14人という大編成。ドラもゴ~ンと鳴るし、クラベス、パンデイロなど中南米打楽器、普通クラシック曲では見かけることの少ないホラ貝(コンチホーン)もブォ~という響きを加えて、大迫力の音になっていました。

 アマチュアオーケストラとして50年以上の実績がある東京楽友交響楽団、今回の選曲は、私にはとても刺激的でした。駅へ向かう帰り道ではご夫婦らしい二人連れが「いやぁ、無料でこんなに感激できるなんて!」と話し合っていました。ほんとうにレベルの高いオーケストラだと思います。

 ただ、毎回感じることですが、クラシックコンサートの観客は、ぐるりと客席を見渡しても白髪禿頭の一団。これらの老人たちが杖をついても外出できない、ということになったら、クラシックコンサートというのも維持できなくなっていくのでしょうか。
 歩けるうち、耳が聞こえるうちは、アマチュアオーケストラのコンサートに通いたいと思っています。

 クラシック音楽界、年初からこの3月まで、「現代のベートーベンは偽者だった」という話題が賑やかでした。私はNHKのドキュメンタリーを見なかったので、youtubeで「ヒロシマ交響曲」を聞いて、「あら、よい曲じゃないの」と思い、高橋大輔選手のソチオリンピックのショート曲の「ヴァイオリンのためのソナチネ」も、「高橋が、誰が作曲したのであっても、曲を気に入って使用している、と言っているんだから、それでいいじゃないの」と思いました。ソチでは、作曲者名空欄のまま使用されました。

 同僚の先生のひとりは「私、NHKのドキュメンタリー見て感激して、その晩のうちにアマゾンで注文してCDを買ったのよっ」と、怒り心頭状態でした。CD買ったりしたら、「だまされた」と感じたのかもしれませんが、私は買っていないし。
 結局、みな音楽ではなく「全聾の被爆二世作曲家」という物語を消費したのであって、音楽は付けたしだったのでしょう。

 私がyoutubeで聞いて「あら、いい曲ね」と思ったヒロシマ交響曲も、音楽の専門家が聞くと、あちこちの作曲家の作品を切り貼りして混ぜ合わせたものだと、わかるのだそうです。「ああ、この部分は、だれそれの曲のコピー、ここは、あの曲から」と、譜面を見れば、モトネタがわかったということです。
 美術の世界ではコラージュ(糊貼り)という技法もあり、便器にサインしても作品になるのに、音楽って難しいんだなあと、シロートは思いました。

 コラージュ作曲が得意であったゴーストライターの新垣隆さんも、もうこれで音楽家としてこの業界で生きていくのは難しいらしい。ゴーストをやっていたことが問題なのではなくて、自分からゴーストライターであることを発表したのがいけないんですって。ゴーストライターを使うことは、音楽業界でも美術業界でもいろいろあるらしいし、書道界では全日展書法会前会長の龍源斎大峰氏が、各地で開催の書展で、知事賞受賞作品を偽名でで書いて、自分自身に賞をだして受賞作ねつ造を行っていたと判明。絵も音楽も書も、ナンダカナー。

 芸術作品の評価というのは、かくのごとくむずかしい。高橋大輔のように「だれの作品であっても、好きな曲だから使用した」と言いきったほうが、すがすがしい。

 音楽に関しては、自分の耳で聞いて、自分で楽しめればそれでOK。それ以上のことはないし、今回は中南米の作曲家のラテンのリズムが楽しい曲を聞けて、楽しい日曜日になりました。東京楽友交響楽団のみなさん、すてきな音楽をありがとうございました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「隅田川橋めぐり&浅草寺」

2014-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/3/23
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(1)隅田川橋めぐり&浅草寺

 「春のプチ行楽」の一日。
 2月は逃げる、3月は去る、というけれど、寒い日がなかなか去らない3月でした。ようやく日中の気温が15度まで上がった日、娘息子と3人で隅田川水上バスの橋めぐりと浅草寺参拝の「東京お上りさん観光」をしました。なぜかというと、水上バス乗車券をもらったからです。

 東京観光の最初は、新橋からゆりかもめに乗って日の出桟橋まで。
 「お台場の中に通勤している人にとっては毎日のあきあきする電車かもしれないけれど、たまに乗る人にとっては、ゆりかもめはやっぱりイベント感があっていいね」と娘は言います。普段、都内の外出はほとんど地下鉄を利用しているので、ゆりかもめに乗って東京湾を眺めると、非日常の遠出気分になれるのです。

 竹芝桟橋から大島や神津島へ出かけたことは何度かありましたが、そのときは新橋から歩きました。また、浅草やお台場から日の出桟橋に到着したこともありましたが、日の出桟橋から乗船するのははじめてのこと。
 日の出桟橋には赤い御座船がお客を待っていて、修学旅行生が乗り込みました。

 御座船の舳先デッキには、じゃれあう生徒たち。娘は「中学生高校生でクラスメートと船に乗ると、タイタニックごっこをして舳先で両手を広げるのが必ずひとりはいたもんなのに、今の子達はしないんだね」と言います。修学旅行風景も「時代に連れ」なんでしょうね。それに船の形がタイタニック気分ではなかったので、生徒たちは「遣唐使船に乗って大陸へ向かう留学生ごっこ」でもしていたかもしれません。今でも日本史の時間に「道真がハクシ(894)に戻す遣唐使」なのかしら。

御座船「安宅丸」

 
 東京湾一周のレストラン船などながめて「いつか、優雅に食事しながら海を見たいね」と話しながら、14:20発の浅草行き水上バスに乗り込みました。
 上階は、シースルー天井の水上バス。日がさすとぽかぽか暑いくらいです。ダウンジャケットを脱いで、橋見物。

 私は橋めぐりが好きなので、隅田川の橋ほとんどを見て歩き、渡ってきました。河口から浅草までの橋は渡りましたが、浅草から千住までの間の橋のうち白鬚橋と水上大橋を渡ったことがありません。こちらもいつかはコンプリートしなくちゃ。

 道路から歩いて橋を渡るのと、川面から上を見上げての橋見物は、だいぶ趣が違います。
 東京湾花火を見に行くときに渡った勝鬨橋。鋼斜張橋のハープのようなラインが美しい中央大橋、ドイツケルンの橋と似たデザインという吊鋼橋の清洲橋。、娘に、「下町めぐりをしたときに清洲橋を渡ったね」と話しながら橋の下をくぐりました。総武線に乗って隅田川を渡る時にいつも眺める両国橋、それぞれの橋に思い出があります。

 外国人観光客も乗っている水上バス。「左手の緑は浜離宮でございます」「築地の市場が見えてまいりました」などの案内を聞きながら左岸右岸をながめて、40分ほどで、浅草の吾妻橋のたもとの船着場に到着。

吾妻橋からのながめ


 浅草松屋の屋上から東京スカイツリーをながめてから、遅めの昼ご飯。「下町洋食」という娘と息子の希望でしたが、私の希望で神谷バーの2階でランチ。1階のバーで電気ブランを飲んだことがあるのですが、2階はどんなレストランになっているのかなあと気になっていました。昭和レトロっぽいのを期待していましたが、ごくフツーの食堂でした。1階は観光客や常連客で混んでいましたが、2階はお昼ご飯と夕食の間の時間だったので、すいていました。

 浅草寺。いつもは雷門の大提灯を見て仲見世を通って本堂をお参りしておわり、なのですが、娘が「浅草寺コンプリート」をめざして、全部の建物にお参りするというのです。いつもは行ったことのない、影向堂、淡島堂、弁天堂などもぐるりとお参りしました。三社さまの神社にもお参りして、きっとご利益たっぷり。

浅草神社


浅草寺五重塔


 上野駅の駅ナカで夕食のお惣菜と、すっかりファンになったメルヘンのフルーツサンドイッチを買って帰りました。
 娘、息子といっしょに春休みの一日をいっしょにすごせて、心もぽかぽかになった一日でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「留学生さよならパーティ」

2014-03-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/3/22
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(4)留学生さよならパーティ

 春3月は卒業シーズン。袴姿で卒業式に向かうの大学生も駅や町に見かけます。留学生にとっても、春は出入りの多い季節です。
 3月9日、留学生の寮で行われたフェアウェルパーティに参加しました。2012年の秋に来日したクラス。教師5人と、帰国予定留学生6名、結婚や大学院研究で日本に残る留学生2名、これから1年の教員研修コースでの学習を始める学生2名の「さよならパーティ」です

 各国から選抜されて日本で教科教授法を研究する「教員研修生」。国では優秀な教師ですが、日本では異文化生活にとまどい、日本語文法や漢字の難しさにネをあげたこともありました。それぞれが困難にもあいながらも、メンバーがとてもなかよく、寮でもクラスでも助け合って2014年の修了式にこぎつきました。

留学生寮B棟(A,B,Cは学部生と大学院生、D棟は研究者棟)


 この日本語力では教員研修の最終発表までたどり着くだろうか、と懸念された学生も、教育学部での授業では「私の専門は英語教授法だから、英語で発表。最終レポートも英語だから大丈夫でした」と、にこにこ発表内容を語っていました。
 フィリピン女性=数学教育、マレーシア女性とラオス男性=英語教育、タイ男性=小学校体育教育、フィジー女性=理科教育、中国男性=家庭科教育、という発表を行ったと報告がありました。

 タイの小学校体育教師として来日し、「日本の体育教育のすぐれている点をタイにとりいれたい」という発表をしていたクリさんは、小学校の体育教師になる前は、タイのプロサッカー選手でした。怪我をして選手としてはチームに残留できなくなり、一時は人生に絶望。しかし、奥さんの励ましもあって小学校体育教師に転身しました。
 タイの体育教育はまだまだこれから、というクリさん。帰国後はきっと自国の教育のためにいっしょうけんめい働くことでしょう。さらなる研究のために、進学もしたいと話していました。

 ときに、英語を混ぜながらも、いっしょうけんめい日本語で発表したドンさん。「日本では小学校から顕微鏡を使った生物学教育ができるけれど、私の国では予算がないから、顕微鏡の使用は中学生からです」と、自国の理科教育がまだまだ発展途上であることを語っていました。
 「中国では男性が女性と平等に家庭の仕事を手伝うのは当然で、家庭科教育というのは教科としては行われてこなかった。でも、これからさらに男性も女性も同じように家庭の仕事を担うために、家庭科教育を充実する必要がある」と熱く語っていたチョーさん。

 ソンさんは、一旦自国に戻って報告を済ませるとすぐに奥さんが教員研修に出かけているオーストラリアに向かうのだそうです。夫婦とも大学教員で、将来母国のの大学教育を背負っていくことになるでしょう。

 教員研修のほか、大学院修士課程で生物学の研究を続けているホセさんもパーティに参加。「そてつLove」の話をしました。研究対象のそてつは、世界に300種くらい存在していて、ホセさんは、遺伝子によってその比較をしているのだそうです。そてつが大好きでとてもすばらしい植物なんだ、と熱心に語ります。「そてつは、恐竜の時代から地球にあった」と、言います。日本には、関東圏には大規模自生地がないので、そてつ採集は九州などに行かなければなりません。研究室ではもっぱら遺伝子研究に励んでいるけれど、実際のそてつの木が好きなんだ、といいます。

 環境研究をしていたシーさんは、永住権を持つ在日中国人と結婚。6月に出産を控えています。マニラに恋人が待っているテルさんは、数学教育が専門でしたが、日本の英語教育会社への就職が決まったとのこと。とても人当たりのいい、明るくて積極的な人柄なので、日本の幼児英語教育という新しい分野でもきっとよい成果を上げることでしょう。一度マニラに帰り、6月から名古屋で研修。夏以後にどこかの幼児英語教室に配属されるそうです。

 日本にいるあいだに旅行した先でどこがよかったかを後輩に披露する「日本語で発表」の時間。それぞれ、富士山、日光、京都、北海道、沖縄など、出かけた先のおもしろかったところを、パーティに参加していた現在の学生に教えていました。
 テルさんの観光地紹介「大阪、たこ焼きを食べました。おいしかったです。広島、お好み焼きを食べました。おいしかったです。北海道、じゃがいもを食べました。おいしかったです、、、、」と、延々「おいしかった」シリーズがつづき、みな大笑い。

 パーティにはそれぞれが手作りの「国の料理」をひとり一品もちよりで、テーブルの上には、いっぱいのごちそうが並びました。
 おなかいっぱいさまざまな料理を食べました。

それぞれのお国自慢料理が並びました。


 最後に、「HAL先生の授業でやったゲームがとても楽しかったから、もういちどやりたい」という学生のリクエストで、フルーツバスケットをやりました。
 初級のいちばんはじめには、「持っていますゲーム」として行います。めがね、とけい、辞書、漢字の本、などの単語を言い、それを持っている人は、丸く並べた椅子を交代します。腕に時計をしているのに、椅子を動かない学生は反則。単語の聞き取りができるかどうか確認するためのゲームとして行います。
 初級後半には、習った文型を発話するための「正直ゲーム」。「今朝、コーヒーを飲みました」「宿題を忘れたことがあります」などの発話に、正直に椅子を移動します。

 今回も「富士山を見たことがあります」「結婚しています」「料理が上手です」などの文を聞いて、キャーキャー言いながら、椅子をとりかえっこしていました。
 ドンさんのお題は「私は太っています」。HAL先生は正直に立ちました。ひとりしか立たないときは、キャンセルですが、私が立ったすきにリナさんがさっと私の椅子に入れ替わってしまい、ゲーム成立。

 HAL先生が教えた日本語を帰国後もどれだけ覚えていてくれるかわかりませんが、留学生の心に「先生が授業でやったゲームがとても楽しかった」という思い出になって心に残っているなら、私がこの大学で25年間続けた授業も、なんらかの積み重ねにはなっているのでしょう。

 それぞれの旅立ち、日本留学をよい経験として旅立ってほしいと願いました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「東京ガイドたてもの園と後楽園」

2014-03-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/3/20
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(3)東京ガイドたてもの園と後楽園

 チェコの留学生ルカ君は、日本留学中は「茶道部」に入部し、大勢の日本人の友達ができた社交家です。2月21日は、茶道部の学生と会う約束なので、その間ご両親はホテルで待機している予定と言うスケジュールを聞きました。
 せっかく日本に来たのに、ホテルにいるだけではつまらないだろうから、私がお二人といっしょにいましょう、という約束ができました。午前中は、江戸東京たてもの園で日本の古い建築を見学、午後は、ご両親に大学を見せて、ルカ君は茶道部のサークル仲間との交流会。ご両親は、私がホテルの近辺を案内する、というスケジュールです。

 朝、10時に待ち合わせ。ルカ君のお父さんは電気関係の仕事をしてきたエンジニアで、東芝や日立などの電気会社がチェコで仕事をしたときに関連会社で働いた経験があります。21日は、日本の古い建物に興味があるというご一家を江戸東京たてもの園に連れて行きました。

 西ゾーン中央ゾーンで、江戸時代に建てられた農家、明治の大富豪三井八郎右衛門邸、来日したドイツ人建築家デ・ラランデ邸、日本の政治家高橋是清邸を見ました。

高橋是清邸前のルカ一家


 226事件の背景をルカ君に質問されたのですが、私の英語力では、事件の概略は説明できても、昭和戦前の時代背景をうまくまとめて説明できませんでした。「う~ん、あとで日本の近代史を読んでください」と終わりにしました。ルカ君の専門は「国際関係研究」です。

 次に東ゾーンで、昭和の町並みと銭湯を案内。共同風呂の説明は、なんとなくわかってもらえましたが、たぶん、ご夫妻の頭の中では、温泉と同じになっていると思います。

 小金井公園の梅林も見てもらいました。夫妻は京都でいろいろなお寺を見たとき、もっともびっくりしたのは、冬なのに花が咲いているのを見たことだと言います。写真に撮った花を見たら、山茶花でした。カメリア(椿)の一種だと説明したのですが、チェコでは冬に花咲くのは見たことがなく、すべての花が枯れるのが冬という季節だ、というのです。
 梅もたいへん喜んで写真を撮っていました。

 次に、大学へ行きました。ヨハンさんは、息子が留学した大学を見ることができて、大いに満足していました。
 大学の食堂でランチをとり、ルカ君は茶道部の仲間と会うためにサークル部室へ。私はご夫妻を連れて後楽園へ行ってみることにしました。

 ルカ君は当初、「神奈川に日本の庭園とたてものが美しいところがあると友人に聞いたが、そこにはどう行くのだろう」と質問してきました。たぶん、三溪園のことかと思いましたが、三溪園に行くには、大学見学と両方を一日でまわるのは無理。そこで、江戸東京たてもの園と後楽園というコースにしたのです。

 後楽園でも梅が咲き始めていました。あいにくと、池の改修工事中で、池まわりの景色は普段よりは綺麗じゃなかったけれど、梅林をまわって、日本庭園のひとつを紹介できたので、喜んでもらえました。

 後楽園の四阿に「水戸御老公の衣装を着て写真を撮ろう」というコーナーがあったので、御老公のちゃんちゃんこや着物を着てパチリ。



 最後は、後楽園から文京シビックセンターへ。23階の展望室から東京のビル群を眺めて、19日に新宿、20日に浅草へ行ってきたというので、「あそこが新宿、あちらが浅草」と、眺めました。東京スカイツリーもよく見えました。

 お二人をホテルまで連れていき、「ふたりは無事、ホテルに帰りました」と、まだ茶道部部室にいるルカ君に電話しました。
 ルカ君は、「私が茶道部の交流会に参加している間、ふたりをどうしようかと思っていたけれど、先生に案内してもらって、とてもよかった」と喜んでいました。

 ルカ君は、「先生がチェコに来る日、私たちは歓迎します」と言ってくれたのだけれど、「たぶん、10年後くらい」と答えました。

 今回、留学生のご両親を案内したことは、私にとっても初めての経験でした。日本語を学習中の学生と出かけるときは、日本語と英語を混ぜながらなんとかコミュニケーションをとることができますが、日本語も英語も離せないご夫妻とすごすのは初めてのことだったのです。おふたりが、私の拙いガイドを喜んでくださったことが、私にとっては大きな収穫でした。

 次に会うのはいつになることかわかりませんが、ご夫妻が東京でいっしょに過ごした2日間を、アルバムをめくりながら思い返す日があるのだと思うと、私もとてもうれしい。
 たぶん、私は、「誰かの思い出の中に残る私」を求めていたのだろうと思います。「ルカ君一家の思い出の中に残る私」を作ってくれて、ルカ君、ありがとう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東京ガイド日本のフツーの家」

2014-03-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
014/3/19
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(2)東京ガイド・日本のフツーの家編

 昨年4月から8月まで半年だけの留学生活で、「もっと日本にいたい、日本で勉強続けたい」と、後ろ髪ひかれながら帰国したチェコの学生。「先生。私は半年後に、両親を連れて日本にまた来ます」と言うので、「ご両親が、観光地だけでなく、日本の普通の家庭をみたいなら、私の姑の家に来てください」と言いました。

 2月14日に、ルカ君一家が来日。大雪の日だったので、当初の予定を変え、大雪の東京を避けて直接関西へ向かいました。関西も雪だったと思うのですが、雪で交通が乱れがちな東京を避けたのは賢明だったのかもしれません。メールでのやりとりを経て、18日にルカ一家を迎えに、都心のホテルまで行きました。

 私は、ドブリーデン=こんにちは、イメヌイセ~=私の名前は~、デクイー=ありがとう、 ネニーザチュ=どういたしまして、などの「チェコ語あいさつ簡単会話集」というのをネットからコピーして、紙を見ながらあいさつ。 
 ご両親は、父のヨハンさんが英語カタコトを話せるけれど、ヨハンさんの妻インカさんはまったく英語を離せない。ホテルロビーに雛人形が飾られていたので、しばし、ひな祭りの説明。私が英語日本語ちゃんぽんでルカ君に話し、それをチェコ語に翻訳。 

 地下鉄1時間弱で、姑の家へ。姑はいろいろ準備をしてくれようとするのですが、ものを取り出そうとして一度座ると立つのが容易ではなく、介護が必要。私が料理を始めると、自分の部屋でお昼寝タイムということになりました。

 雑煮、カレー、など、ホテルやレストランのとはちがう、家庭料理を振る舞いました。「和食のつくり方教室」として、おにぎりを自分でに握る体験もしてもらいました。

「日本の家庭食」の次は、「日本の住まい」見学。トイレ、風呂、押入れ、なども残らず見てもらいます。姑は料理は昔から好きでなかったけれど、綺麗好きで掃除は大好きでした。しかし、このところ掃除はヘルパーさんに週に1度頼むようになり、思うように掃除できていないので「汚いのを見てもらうのは恥ずかしい」と言っていましたが、「特別なことではなく、普段の家を見てもらうのだから」と説得して、階段にゴミが落ちているのなんかも気にせずに。

 たいへん狭く小さい姑の家ですが、日本の土地値を知ってもらうために、このあたりだと1平方メートルあたり、60万円だけれど、隣町だともっと高いという話をしておきました。ついでに、東京銀座のいちばん高い土地は、1平方メートルあたり2千万円。世界で土地値がいちばん高いのは香港で、東京は2位だということを話しました。「こんな狭い家にしか住めずに、日本人はかわいそう」と思ったかもしれません。

 「姑は23区内で一戸建ての家に住んでいるけれど、私は団地という名のアパートに住んでおり、私には一戸建てを買うことはとうてい出来ない」と話すと、チェコの田舎なら家が買えるから、チェコに来て住んだらどうかと勧められました。仕事があって、暮らしていけるなら、私は世界中どこにでも行くのですが。

 次は「日本の着物」着付け体験。息子の浴衣と娘の浴衣を着てもらい、「これは日本の夏の衣装です。冬はこちら」と、見せるだけ。お太鼓帯の結び方が出来るかどうか不安だったので、文庫帯を結うだけの浴衣にしました。
 季節はずれでしたが、夫妻はとても喜んで写真を撮りました。

 恰幅のよいヨハンさんには息子の浴衣は小さくて、裄が足りませんでしたが、ヨハンさんは昔『七人の侍』を見たことがあると言って、「私は侍のようだ」と喜んでいました。



 最後の「日本体験」は、「折り紙」と「書道」のどちらをやってみたいか尋ねたら、書道で文字を書くのが難しそうに思えたのか、ご夫妻で「折り紙」と言います。チェコにも独自の折り紙文化があり、ヨハンさんは、子供の頃折り紙をやったことがあるのだそうです。日本の折り紙として「ツル」の折り方を教えたところ、経験のない外国人にはちょっと難しい部分があるツルでしたが、上手に折っていました。出来上がったツルと折り紙の束は、おみやげです。

 来日前にルカ君から「チェコのおみやげ何がいいですか」というメールが来たので「プラハの町の絵葉書をおねがいします」と返信しました。ルカ君一家は、絵葉書と絵本を姑と私両方にプレゼント。それにボヘミアン切子グラスのピッチャーグラスセットを運んで来てくれました。

 私は、絵葉書のお礼に差し上げようと思ったので、折り紙を用意したのですが、もうひとつ浴衣式の寝巻きを用意し、インカさんにあげました。ご主人には着物のプレゼントがなかったので、申し訳ないと思っていましたが、ホテルへ戻る途中に寄りたいという秋葉原で、「たくさん写真を撮ったので、メモリーカードがなくなってしまった」というので、メモリーカードをプレゼント。まあ、これも日本のテクノロジーのひとつを国に持って帰って「これは、日本製のメモリーカードだ」と話のタネになるかと思って。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「最終講義と教科書編集」

2014-03-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/3/22
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(1)最終講義と教科書編集

 長年、留学生教育に携わってこられたZ教授の最終講義に出席しました。聴講しているのは、常勤の同僚教授たちがほとんどで、数名の留学生。非常勤講師で出席したのは私のほかにはいなかったので、最初は「あれ?場違いのところにのこのこ顔を出してしまったのかな」と思いましたが、講義を聞くことができたのは、とてもよかったと感じました。

 日頃は、ご自身の研究成果についてあまり語ることなく過ごしてこられた方という評を聞いていました。私も直接お説をうかがったことはありませんでしたが、漢字の成り立ちについて留学生向けに書かれた著作を利用させていただいてきました。

 非漢字圏の学生にとって、なぜこの意味をこの図象で表すのか、ということがわかると、記憶に残りやすいと感じていたので、漢字の成り立ちを簡単な英語で説明してあるZ先生の著作が役立ちました。日本の漢字は、常用漢字は2000とちょっと。漢字は、成り立ちによってグループに分けられます。しかし、常用漢字用に漢字簡略化が行われ、グループでまとめて覚えるとわかりやすい意味成り立ちがごちゃまぜになってしまった。
 Z先生は、もとの字形からひとつひとつ洗い直して、グループ分け(漢字系統樹)を完成なさったのです。

 定年退職まで淡々と飄々とすごしてこられたようにお見受けしていたZ先生、長年の勤務のあいだには、いろいろなご苦労もあったことだったでしょう。お疲れ様でした。

 私は、国立大では留学生への日本語教育、私立大では日本語学と日本語教育学を担当してきましたが、国立大学で授業を行うのもあと1年のことになりました。
 毎日の授業に追われるばかりで、日本語教育に関して何も成果らしいことは残してきませんでした。中国で発行される日本語教科書の読解用の読み物と、会話教科書のシナリオ執筆をしたことはありましたが、日本で発行される教科書に関わったことはありませんでした。

 「私の専門は日本語教育ではない、専門は日本語言語文化論」という意識が強かったので、日本語教育に関しては毎日の授業を誠実に行うことだけを考えてきました。
 留学生教育に携わるのもあと1年という時期になって、思いがけず、ふたつの教科書編集に関わることになりました。

 報酬からみたら、限りなくボランティアに近いギャラで、とてつもなく時間のかかる「教科書編集」という仕事を引き受けて、しかも、2種類の教科書を同時進行で進めていくというアクロバットをやっています。

 中学校で習った英語教科書。いくつかの教科書を見比べたことがありますか。教科書を取り扱っている本屋で、何冊かの中学生用英語教科書を比べると、昔の教科書とはずいぶん違っていることがわかります。
 日本語教科書も、私が日本語教育を始めた25年ほどまえには、国際交流基金編集の『初級日本語』という本がもっとも多く使われている本で、あとはそれぞれの大学が独自に編集した教科書などを使っていました。

 現在は、英語圏用、中国語話者用などの教科書も増え、さまざまなタイプの教科書が本屋の日本語教育コーナーにも並んでします。

 私が関わることになったひとつは、日本で学ぶ留学生向けの初級文法教科書。「文法積み上げ方式、オーディオリンガル法中心」という編集方針の教科書でした。
 他の大学や出版社から出ているカラフルなさし絵がいっぱいの教科書に比べると、文法内容がぎっしりで、とても地味な教科書です。この文法積み上げ教科書を課題(タスク)解決型教科書に編集しなおす、という作業を引き受けました。専任教授と非常勤講師2人で、作業を進めました。どのようなタスクを選ぶか、どのような例文を選ぶかで、教科書の雰囲気も変わります。

 たとえば、「~と」を使う条件文があります。
 「右へ曲がると大学があります」を示し、「まっすぐいくと~があります」「二つ目の交差点を左に曲がると~」というような文を学生に作らせる練習問題。現在使っている教科書は、代入問題や文法変形問題という種類の練習問題がほとんどなのです。
 タスクとして、挿絵で地図を表し、Aが道をたずね、Bが答えるという課題を与えます。学生が練習していて楽しく取り組めて、文法が自然に身につくようなタスクを考えていかなければなりません。

 もう1冊は、私が中国に赴任していた時の教科書の改編です。20年前に編集された教科書なので、会話に出てくる文が「ラジカセを買いました」「うちの娘は、いつまでも長電話しているので、私が電話できなくて困ってしまいます」などの文が提出されています。今時、家電で長話をして親に叱られるという子供はごく少ないことでしょう。小学生もめいめいのケータイをもち、「ライン」という機能を使えば友達同士は無料でメールやチャットができるそうなので。

 現在の社会に合わない部分を廃し、中国から日本に留学する学生が、日本の社会をよりよく知ることができるよう、会話文を変えていかなければなりません。
 出来上がった会話文を、専任教授と2人の非常勤講師で検討、変更。何度か書き直しをして、「基礎会話1「基礎会話2」を仕上げます。なかなかたいへんな作業で遅々として進まず、です。 

 たいへんな作業ではあっても、今までお世話になった恩返しのひとつもしなければ、と思って、続けています。きのう、シナリオ最後の部分を書き上げました。留学生が先生にお礼のスピーチをする、という場面です。最後の課は「敬語」を学ぶ課になっていますから、敬語ほか、この課で習う文型を入れた発言になっています。

 紋切り型のスピーチになってしまいましたが、「尊敬語謙譲語」「~のではないかと思います」などを使ってスピーチする、という「文の型」を取り込まなければならないので、いろいろ制約があり、あまり「ラストスピーチ」の感激はいれられなかったのが残念ですが、ひとまず、初稿提出です。これから延々と2稿3稿と書き直しをしていきます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「旧前田侯爵家鎌倉別邸と春の雪」

2014-03-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/03/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(12)旧前田侯爵家鎌倉別邸と春の雪

 三島由紀夫はこの旧前田侯爵家鎌倉別邸をモデルに『春の雪』冒頭部分の別荘場面を書き上げました。
青葉に包まれた迂路を登りつくしたところに、別荘の大きな石組みの門があらわれる。王摩詰の詩の題をとって號した「終南別業」といふ字が門柱に刻まれている。この日本の「終南別業」は、一万坪に余る谷をそっくり占めていた。先代が建てた茅(かや)葺(ぶ)きの家は数年前に焼亡し、現侯爵はただちにそのあとへ和洋折衷の、十二の客室のある邸を建て、テラスから南へひらく庭全体を西洋風の庭園に改めた。」(『決定版三島由紀夫全集』13 新潮社 )

 現在の石門には、何も書かれていませんでしたが。


 王摩詰とは王維の別名です。王維と書けば多くの人が知っている漢詩人なのに、わざわざ字(あざな)のほうの王摩詰と書くところが、三島のペダンチシズム衒学趣味のかわいらしいところなのかもしれません。
 漢学の素養ゼロの私、70年代に読んだとき、王摩詰という名も三島の創作かと思っていて、気にもしませんでした。

 嘘をほんとうにみせ、創作にほんとうとうそを混ぜるのが小説のリアル。腕の見せどころ。別荘が名を持っていた、というのは事実。「終南別業」という別荘名であったというのは、三島の創作。そして「終南別業」は、王維が書いた詩からの引用。王維の名を出さずに、一般にはなじみのない王摩詰を持ち出す。嘘とほんとうの、ないまぜ具合が絶妙です。
 鎌倉文学館の名称。最初の和館別邸は「聴涛山荘」で、焼失後に再建された洋館は「長楽山荘」と名付けられていたのであり、「終南別業」をここにもちだしたのは、三島の創作です。

 三島の母平岡倭文重(しずえ)は、漢学者・橋健三の次女でした。母方祖父から漢学の手ほどきを受けたことがあったのか調べていませんが、戦前の教育を受けた三島の世代では、明治大正の露伴鴎外漱石ほどではなくとも、漢学の素養は十分身についていたでしょう。
 「終南別業」という文字が別荘の石門に記されていたと想像したのは、どこからの思いつきだったのでしょうか。

 橋健三は開成中学校の校長を務めていました。学校の校舎建設地を得るため、1921(大正10)年に前田利為侯爵に土地払い下げを願い出て、前田家の所有地を学園用地として格安で払い下げてもらうという懇意を得ました。そのあたりの関連で、三島も前田侯爵家の鎌倉別邸を知っていたのだと思います。

ベランダ    
 ベランダから鎌倉の海を見る


 前田利為は、1942年、自軍制空範囲内での飛行機墜落によって死去。当初は事故による死亡により、殉職陣死とされたが、のちに「戦死」と認定されました。陣死の場合、相続税を払わねばならず、鎌倉別邸も手放すことになったのかもしれません。戦死認定により、駒場本邸、鎌倉別邸とも、前田家所有のままになりました。

 戦後、この旧前田家鎌倉別邸を佐藤栄作が別荘として使用していた時期があり、近所に住む川端康成と昵懇の仲でした。川端康成の弟子三島由紀夫がともにこの長楽山荘を訪れたこともあったかもしれません。
 佐藤栄作の他、デンマーク大使の別荘として利用されたこともあったそうです。

第1展示室の窓

北面の窓

 1983(昭和58)年に第17代当主前田利建(まえだとしたつ 1908-1989)から鎌倉市に寄贈され、1985(昭和60))から鎌倉ゆかりの文人や芸術作品を展示し、一般公開されています。

照明


 2月1日の鎌倉文学館の展示は「小津安二郎展」でした。小津と母堂の写真や、小津の愛用品が展示されていました。

小津のディレクターズチェア


 2月1日は暖かい日で、鎌倉散歩もたのしいひとときでした。大仏さまのお参りもできたし、鎌倉市が指定建造物としてプレートを出している建物をいくつか見ることができました。四季折々に美しい姿を見せる鎌倉。花の季節にまた行きたいです。

あたたかかったので、ダウンジャケットを脱いでいました。


<おわり>
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ぽかぽか春庭「鎌倉文学館・旧前田家鎌倉別邸」

2014-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/03/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(11)鎌倉文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)

 旧前田侯爵家鎌倉別邸は、前田家15代当主前田利嗣(1858-1900)が、1890(明治23)年頃、鎌倉の土地を手に入れ近代和風の家を建て別邸として利用しました。1910(明治43)年火災類焼によって和館が消失。のち、洋館が建てられました。
 1996(昭和11)年に第16代当主前田利為(1885年-1942自軍制空範囲内での飛行機墜落による死であったが、戦死と認定された)が、洋館の全面改築を行い、昭和11年(1936)に完成。現在の形にしています。



玄関前のアプローチから見る
から見る

玄関前のポーチ


 文化庁が2000年度の国の登録文化財指定のおりに調査発表した文化財リストには
もと加賀前田家の鎌倉別邸。三方を山に囲われ,南に開けて鎌倉の海を見下ろす広大な敷地に建ち,現在は文学館として活用されている。昭和11年の建設で,設計は前田家建築係の渡辺栄治,施工は竹中工務店。外観はハーフティンバーとスパニッシュを基調とした邸宅建築で,近代の鎌倉に数多く建てられた別邸建築の中でも,規模が大きい。」と書かれています。

 南正面から見ると2階建てに見えますが、斜めから見ると、3階建てであることが、わかります。


 渡辺栄治は、前田家おかかえの建築設計担当者だったということで、他の作品などではっきりしている建築はわかりません。東京の前田侯爵家駒場本館は、東京帝国大学教授 塚本靖と宮内省担当技師 高橋貞太郎による設計で、建築家としての履歴もわかるのですが、渡辺栄治については、長楽山荘を設計したという以外のことは、まったくわかりません。

 元客用寝室。現在は見学者休憩室


<つづく>
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ぽかぽか春庭「鎌倉長谷こども会館・旧諸戸邸」

2014-03-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/03/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(10)長谷こども館(旧諸戸邸)

 2月1日の鎌倉近代建築散歩、最初は旧諸戸邸を訪れました。現在は長谷こども会館として利用されている洋館です。

 2月1日、まずジャズダンス練習会場の抽選会に出席し、4月分の練習場所を確保しました。抽選を待つあいだ、「10時に抽選がおわったあと、どこかに行こうかなあ」とぼんやり考えて、「そうだ、鎌倉に出かけてみよう」と思い立ちました。ひとりででかけるときは、いつもふらっと思いついてのお出かけが多いです。

 鎌倉文学館へ行こうと思って、道を一本間違えてしまい(これはいつものことですが)洋館が見えるなあと思って近づいたら、長谷こども会館(旧諸戸邸)でした。



 旧諸戸邸は、1908(明治41)年に福島浪蔵邸として建てられました。福島浪蔵(ふくしまなみぞう1860-1919)は、明治大正時代に活躍した証券業者。いわゆる「一攫千金の株屋」でした。幕末1960(万延元)年に生まれて株の仲買人となり、日露戦争の「戦争景気」による相場急騰に乗じて売り抜け、巨利を得ました。 1909(明治42)年に福島商会を設立しましたが、1919(大正8)年に60歳で死去。
 家は福島死去の翌年、1920(大正10)年、二代目諸戸清六が手に入れました。



 諸戸家は、江戸時代には大庄屋でしたが、初代諸戸清六の父清九郎が塩取引に失敗し、没落しました。清九郎の四男清六が16歳で家督を継いだとき、借金千両あったということです。幕末に没落した家を相続した初代諸戸清六(1846- 1906)は、家の立て直しをはかって米の仲買から身を起こし、西南戦争時の政府方兵糧調達を機に財をたくわえました。清六は儲けた金で桑名に自家用の水道を設置しのちに市に寄付するなど、社会貢献も行いました。

 初代のあとを継いだ四男、二代目諸戸清六は、父の事業を受け継ぐと、桑名市に大邸宅を建設しました。ジョサイア・コンドル設計の洋館は、ヴィクトリアン様式の木造2階建て(一部3階建て。塔屋4階)で、現在は桑名市の文化財「六華苑」として公開されています。ぜひ、行ってみたい近代建築のひとつです。

 鎌倉の旧福島邸を買い取ったのは、この二代目諸戸清六です。
 鎌倉の旧諸戸邸は、1950(昭和55)年に鎌倉市に寄贈され、現在は、長谷こども会館として、親子がたのしくすごす施設として利用されています。
 私が訪れた2月1日、係りの人に内部見学を頼みましたが、「お子さんを連れて来て遊ぶことはできますが、大人のみの見学はできません」ということでした。残念。



 明治時代の建築物のなかで過ごすことによって、古い建築に目をみはる子供がいるかもしれません。もしかしたら、未来の建築家が育つかもしれません。
 でも、「貴重な建物なのだから、部屋のなかで騒ぐなあばれるな」というようなことであるなら、子供には元気に動き回れるようない頑丈な新しい場所を与えて、古い建築物は資料館などの別の用途に用いたほうがいいような気もします。鎌倉市がここをこども会館として利用することにしたのには、理由があるのでしょうが、部外者にとっては、「せっかくの貴重な明治時代の建築をもったいない」と感じてしまいます。



 できるなら、こども会館としての利用が休館日になる月曜日に、内部見学の機会を作ってもらえるとありがたいです。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「旧華頂宮邸・スキャンダル」

2014-03-12 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/03/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(8)旧華頂宮邸の宮家スキャンダル

 華頂宮邸を訪問したのは、2012年4月。
 邸宅のリポートはこちら。「宮邸」という建物名に文句つけているレポートです。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/6722e863e6318932ac4b879bdf0b9586



 華頂宮博信王(1905-1970)は、1926年に臣籍降下し、華頂侯爵となりました。鎌倉の華頂宮邸は、1929(昭和4)年の春に華頂博信侯爵邸として建てられたものですが、通称は華頂宮邸とされています。現在の所有管理者である鎌倉市も通称をもって正式な建造物名として重要文化財登録をしています。

 今回は、建物ではなくて、そこに住んでいた人々のスキャンダルリポート。下世話なワイドショーネタです。建築史の学術的な話もいいんですが、調べていくとどうもこちらの「下世話」のほうが私の興味を引いてしまって、、、、

 華頂宮邸。
 邸宅の建て主、華頂博信は、閑院宮載仁親王第5女華子女王(1910-2003)と結婚。結婚の日時はおそらく華頂宮邸が竣工した前後と思われます。
 旧皇族華族の結婚は勅許が必要な公的なことがらであったので、調べれば華頂博信と華子の結婚日時は正式にわかると思いますが、私としては結婚前後に鎌倉の邸宅ができたことがわかっていればOK>

玄席


 太平洋戦争後、皇族華族には大きな変動が襲いました。GHQの意向で公侯伯子男の爵位廃止。直宮(じきみや=昭和天皇の弟3人)のほかの11宮家は、臣籍降下が決まりました。
 きちんと財産管理できた家もありましたが、経済利殖にうとい家がほとんどで、大半は没落の憂き目を見ました。1947年の映画『安城家の舞踏会』(脚本:新藤兼人、監督:吉村公三郎、主演:原節子)は、この時代を描いています。

 皇族華族たち、財産を失ったかわりに、「自由」な身分が目の前にありました。結婚とは、勅許によって家同士が結びつくための政略がほとんど、という時代から、人間同士の心の結びつきの重視、という大変換が起きたのです。

 閑院宮華子が華頂博信に嫁いで、鎌倉の邸宅に住んでいた間、幸せだったのかどうかわかりませんが、夫との間に子をなし、子を育てることに幸福を感じていたと思います。
 しかし、戦後、自由な社会がやってきました。華子は社会活動に進出し、「婦人衛生会」活動のなかで戸田豊太郎と出会いました。戸田豊太郎は、英国に留学。ケンブリッジ大学を卒業し、徳川慶喜の孫喜和子と結婚していました。(喜和子の従姉妹は高松宮家に嫁いだ喜久子)

華頂宮邸室内


 戸田豊太郎と不倫が発覚したのは、夫・博信がクロークルームにいる妻と戸田の現場を見てしまったから。戸田は、妻徳川喜和子と離婚。華頂博信も華子と離婚。



 華頂博信は、1953年12月、早川ルース寿美子と東京ユニオン教会にて再婚。渡米。心理学を学んで学者としてくらしたそうです。寿美子夫人は日本生まれ。2歳で家族に連れられて渡米し、カリフォルニアで育つも、戦争直前に日本に戻りました。夫妻はロサンゼルスに在住。博信は1970年に65歳でなくなりました。

 華子と戸田は再婚したものの、その後、離婚したとか。華子は2003年に死去。共同のニュースによると(2003/05/10 11:25 【共同通信】)
戸田華子さん(とだ・はなこ=旧皇族、故閑院純仁氏の妹)10日午前4時32分、肺炎のため東京都調布市の病院で死去、93歳。神奈川県出身。自宅は東京都狛江市中和泉5の40の26。葬儀・告別式は12日午後2時から東京都品川区北品川4の7の40、キリスト品川教会で。喪主は長男華頂博道(かちょう・ひろみち)氏。
 戦後皇籍離脱した11宮家のうちの一つ閑院宮家の7代目で、1988年6月に死去した閑院純仁氏の妹
。」

 1951(昭和26)年11月1日発行のオール読物 第六巻第11号」で、坂口安吾は「安吾の人生案内」でこの事件を論じています。
 華頂博信の手記を引用したり華子夫人の告白記事を引用しつつ、安吾は、華子を「利口な女ではない」と評し、華頂博信については「一級の紳士」であるとしています。

 華頂侯爵家のスキャンダルがマスコミの格好の話題となったのには理由があります。華頂博信は家庭内のこととしてひっそりことを処理したかったであろうに、身内の手で秘密が世間に知らされました。「
 正式離婚前に、華子の兄である閑院宮春仁王が「華子は過ちを犯したが、家庭に戻るべきであり、華頂博信は、華子を許して家庭におさめるべきである」という手記をマスコミに発表したからです。「妻を寝取られる」という事態が世間の関心を集めてしまいました。

 華子は最初は戸田豊太郎とは結婚などするつもりはなかった、と手記やインタビューで述べています。しかし、離婚が避けられないとわかると、戸田と結婚するつもりであると言い、発言は揺れています。結局のところ、いまで言う「バツイチ」同士の再婚にいたりました。

 そして、数年後、妹の不倫をすっぱぬいた兄、閑院宮春仁も、妹以上のスキャンダルにまみれます。

 閑院宮春仁王(戦後は閑院純仁 1902-1988)は、戦後、妻に逃げられました。陸軍士官(最終位は少将)時代には、当番兵を「親密な従卒」とし、戦後は彼を執事として身近におき、直子妃には手を触れることもなかった。かくあって、戦後、直子は家を出ていきました。

 「妻たる者、一度嫁したれば家を守るべし」と、思っていた春仁は激怒したのだそうですが、妻の眼前でも執事との「尋常ならざる行為」を実行していたのだそうなので、逃げられても仕方がないかと。
 直子夫人が離婚事情をマスコミの前で「陸軍官舎の寝室にベッドがふたつ。ひとつには自分が寝ていて、もうひとつのベッドには夫と当番兵が同衾」と語っていて、現代のワイドショーなんぞの芸能人スキャンダルなんかよりよっぽどスゴイ。

 一条実輝公爵令嬢だった直子(1908-1991)は、姉の朝子が伏見宮妃となり、自身は閑院宮妃となりましたが、44歳頃、離婚を要求。10年も夫と離婚裁判を続けました。夫と執事の交情をマスコミに暴露したのも、そのような泥沼離婚を先にすすめるためであったのだろうと思います。

 戦後、小田原にある閑院宮家所有の敷地に大学を誘致する運動があり、直子夫人がこの折衝にあたりました。大学側の担当者が、高橋尚民。直子は10年も離婚裁判で争ったのち、夫春仁64歳、直子58歳のとき離婚成立。
 1988年に閑院純仁は85歳で死去。閑院家は途絶。

 直子は、離婚成立後、一条家に戻り、直子60歳のときに高橋尚民50歳と再婚。高橋氏は一条家に入り、一条姓となりました。

 宮妃としての半生の華麗にして空疎な生活に比べれば、短大講師の夫と添い遂げた後半生は貧しくとも幸福だったと想像したい。直子は1991年に83歳でなくなりましたが、千葉での葬儀は質素なものだったそうです。

 下世話なスキャンダルと言いましたが、「不倫」や「離婚」が話題になるは別段不幸な社会ではありません。女性が家のためでも夫のためでもなく、自分自身の人生を選び取る、ということを社会にしらせた、ということを華頂華子や一条直子が示したのだと言えましょう。

 戦後混乱期の社会をゆるがした皇族華族のスキャンダル。
 壮大な洋館を見学しながら、クロークルームでの間男逢引とか、夫が従卒と同衾している隣のベッドで妻が寝てなきゃなんないとか、そういう運命には出会わずに、モテない金なし夫に不平不満を持ちながら平凡にすごしてしまった女の人生、、、、
 まあ、もうちょっとお金は欲しかったなあ。広大な洋館を建てる暮らしなんぞは望まないけれど、洋館見学、無料なら大喜びし、500円の入館料取られるとなると「高い!」と文句たらたらになる我が生活、どうにもみみっちい。



<つづく>
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ぽかぽか春庭「横浜・イギリス館」

2014-03-11 00:00:01 | エッセイ、コラム


2014/03/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(7)イギリス館

 1月17日の横浜洋館廻り散歩。
 朝からぐんぐんと歩いて、駅でもらった「横浜洋館めぐり地図」の順にめぐっていましたが、17日のメインは横浜美術館の下村観山展の観覧でした。2時間くらいは見ていたいから、6時閉館から逆算すると、みなとみらい駅には4時に戻らないと。もう残り時間は少ない。

 港のみえる丘公園に建つ、山手111番館とイギリス館は、大仏次郎記念館と神奈川近代文学館を見たときにいっしょに見学したので、今回はパスしようかなとも思いましたが、ささっと見てまわることにしました。



 イギリス館は、1969年(昭和44)からは横浜市の公共施設となり、1999年からは一般公開されています。
 1937(昭和12)年に、英国総領事公邸として建築。上海におかれていた大英帝国工部総署の設計です。ジョージ六世(GeorgeVI 『英国王のスピーチ』の王さま。エリザベスⅡの父)時代、大英帝国威光の最後のがんばりを見せたコロニアル建築でした。



 1931年(昭和3年)総領事公邸建設の7年前に、英国工務省の設計によって英国総領事館がたてられています。総領事館は、現在、横浜開港資料館旧館です。

 大英帝国として世界中を植民地にしたイギリス。最盛期には全世界の4分の1を領有するほどでした。20世紀のふたつの世界大戦第1次と第2次世界大戦の間、イギリスは世界でアメリカと並ぶ超大国として存在していました。 
 諸外国に駐在する大使や領事も、絶大な力を誇っており、大使館領事館も入念に建てられました。横浜の領事館、領事公邸は、上海にあった英国工務省が建築部材もすべて上海から船で運び建てたということです。



 イギリスは相手国の「格」によって、大使館領事館の建物に露骨な差をつけることで、赴任する大使や領事への「待遇の違い」を表すことが多かったそうで、1923年に日英同盟が失効したとはいえ、当時はアジア圏最大の独立国であった日本の領事館は、イギリスにとって重要拠点とみなされていたことが、領事館、領事公邸からもうかがえる、とのことです。

 他の国の領事館がどのような建物だったのか資料を見たことないので、「へぇそうかあ」としか思わずに、デザイン的にはすっきりしているイギリス領事邸を見てきました。
 コロニアル様式というのがどのへんにあらわれているのか、建築史的なことはわからないのですが、ひとつはっきりわかるのは、領事やゲストが出入りする玄関や客間からは、使用人が出入りする裏口や裏口からの通り道は見えないように工夫されていることです。「身分の差」ということを出入り口ひとつとっても身にしみて出入りするように使用人をしつけていたのでしょう。



 イギリスは今も王室とともに爵位制度を維持し、国民に身分差をつけています。国の制度はそれぞれの国民が選べばよいことですが、私は国民はすべて平等であるべきだと信じています。出自で差をつけるのは好みません。その点個人の功績によってナイト(Knight)の称号を与え、「サー&デイム」を名乗るのは、まあ、日本の文化勲章みたいなものかなと思います。
 日本人では、イギリス外交官のパートナーとして活躍するピアニストの内田光子さんがデイムの称号を与えられています。

 私が近代建築の洋館を見て歩いて、考えることのひとつに「近代国民国家成立と民衆の目にうつる洋館の記号学」ということがあります。だいぶややこしい考え事です。まとまるとは思えませんが、考えていきます。

 3月8日のマレーシアの飛行機事故。一番先に報道されたのは「乗客名簿に日本人の名前なし」でした。中国へ向かう飛行機で、大半の乗客は中国国籍。事故の続報は、テレビでも少なくなりました。たぶん、この飛行機事故のことを来年の3月8日に思い出す人もごくわずかだろうと思います。

 2011年3月11日に亡くなった人たちのことを思っています。まだ行方不明のままの方もいらっしゃる。1945年3月10日に東京大空襲で亡くなった人々のこと、70年がすぎても、私は追悼の黙祷をささげます。
 乗客乗員239人の人が亡くなった飛行機事故は、わずか2日で新聞にも報じられなくなり、3年前の津波地震で亡くなった2万人と、70年前の空襲で亡くなった10万人は忘れない。と、したら、この差は「同胞であるかないか」であり、この「同胞意識」の形成過程について、私は興味があるのです。

 「故郷に住めなくなった人たちは気の毒だけれど、わが町に原発除染のゴミや震災ガレキを持ち込むのは大反対」というときの同胞意識と、新大久保ヘイトスピーチや、「まおちゃんが金取れなかったのに、キムヨナが銀は憎ったらしくてたまらない」と発言した知り合いの男性とか。

 同胞意識ってなんだろうとか、国民国家形成時の民衆意識とか、最小社会単位としての家族が共に生きる場所としての住居とか。洋館めぐりながらぐるぐるととりとめもなく、考え続けています。

 むろん、散歩しながら「洋館、すてきな照明器具だなあ、きれいなステンドグラスの窓だなあ、面白い形の屋根だったなあ」と思いつつも、「さて、それはそれとして明日のコメ買う金がない」というのが、一番の関心事だったりしますが。

<つづく>
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