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ぽかぽか春庭「よいお年を!! 2018年12月目次」

2018-12-31 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181231
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記大晦日(1)よいお年を!! 2018年目次

 皆様、戌年1年間お世話になりました。
 読んでくださった方々、感謝申し上げます。
 コメントをくださった方々、ありがとうございました。

 2019年、ひとつの区切りの年になるということですが、皆様方にはおかわりもなく、よい年が広がりますように。
 みなさま、よいお年をおむかえください。

<2018年おひらき>
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ぽかぽか春庭「2018年12月目次」

2018-12-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20181230
ぽかぽか春庭2018年12月目次

1201 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(2)修学院離宮
1202 京都ほんのり秋色(3)曼殊院の庭
1204 京都ほんのり秋色(4)聴竹居
1206 京都ほんのり秋色(5)大山崎山荘美術館
1208 京都ほんのり秋色(6)東華菜館と先斗町
1209 京都ほんのり秋色(7)駒井家住宅
1211 京都ほんのり秋色(8)同志社大学の近代建築
1213 京都ほんのり秋色(9)レストラン菊水
1215 京都ほんのり秋色(10)フランソワ喫茶店
1216 京都ほんのり秋色(11)大徳寺本坊
1218 京都ほんのり秋色(13)大徳寺真珠庵
1220 京都ほんのり秋色(14)レストランノアノアと懶雲洞継ぎ紙展
1222 京都ほんのり秋色(15)橋本関雪記念館白沙村荘その他

1223 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記年末に(1)2018年テリマカシ
1225 2018十八番日記年末に(2)年末のおたのしみ
1227 2018十八番日記年末に(3)ホテルミラコスタとディズニ―シーその1
1229 2018十八番日記年末に(4)ホテルミラコスタとディズニーシーその2
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ぽかぽか春庭「ディズニーシーとホテルミラコスタその2ハーバールーム」

2018-12-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181229
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記我が家の年末忘年会(2)ディズニーシーとホテルミラコスタその2

 ホテルミラコスタとディズニーシーを楽しんだ春庭一家の「年に一度の大奮発忘年会」つづきです。

 ホテルミラコスタのディズニーシー側入り口前


 バスや車で来た客や、駅から直接ミラコスタ入りする人は、モノレール駅側のミラコスタ正面玄関から


 一般客室はホテル2階ロビーからチェックイン

 5階サロンからロビーを見る

 2階からドームを見上げる

 ロビードームの絵


 スペシャルルーム特典として、ハーバールームはサロンでチェックイン。スペシャル感を盛り上げるためにも、一般客室と差別化をはかっているのは商売上手。


 5階サロンから3階ハーバールームへ。廊下を通っていくにもウキウキ気分。廊下の壁にはミッキー一族の絵がいろいろ。


 ハーバールーム室内



 部屋の中の調度がほどよくディズニー仕様になっているほか、壁紙の点々模様に見えたものがミッキーの頭の形になっているなど、「かくれミッキーを探せ」という探検の楽しさを表現していて、ディズニーフリークが何度来ても楽しめるように部屋の隅々まで趣向を凝らしています。


 ハーバールームから見る光のショウ、ファンタズミックを部屋から鑑賞。
 このショウも列の前のほうで見ようとすると、みな2時間も前から並んで場所を確保するというので、ハーバールームの窓からゆったりとメディティラニアンハーバーで繰り広げられるショウを見ることができたのは、娘息子にとってはなによりの楽しさ満喫になりました。

 
 ドラゴンがミッキーを襲いにくるけれど、ミッキーは勝利!
 平和が戻って、光があふれる


 遅いランチだったので、ルームサービスディナーもおそい時間に頼みました。晩御飯まで、息子はスパでのんびり。娘が「アリエルのショウがニューアルされていて、母が前にシーに来た時とは違ってるから、見にいったらどう」と、勧めるので、私と娘はマーメイドラグーンシアターへ。
 前に来た時といっても、ディズニーシーが開園してまもなくくらいの年だったと思いますから、前がどうだったかなんてよく覚えていません。でも、「母は歌やダンスのほうが、アトラクションの中で、海底探検とかよりも楽しいでしょ」と娘が言うのでついていきました。

 海底王国トリトン王が開催するコンサートで、16歳になったアリエルがデビューする、という設定です。アリエルに扮した歌手は、海中の劇場の中を泳ぎながら歌う、という趣向で、腰につけた綱でくるくる回り、魚のしっぽをふりながらマーメイドが海中を泳ぐようすを表現します。前のと、どうリニューアルされたのか、さっぱりわかりませんでしたが、何度も見ている娘は、「ここに座ればアリエルが目の前まで飛んでくる」という位置を知っていて、迫力満点でした。
 
 夜8時には、メディテレレーニアンハーバーでカラーオブクリスマスというショウがあり、部屋から見ることに。

 次々に海の中の大きなツリーと船の色が鮮やかに変わっていく光のショウに見とれました。こちらも部屋の窓からよく見えて楽しかったです。






 8時半からは、花火。何度もシーに来ている娘と息子ですが、花火は風が強くても雨が降っても見ることができないので、毎度見ているわけではありません。息子は「まあ、花火はいいや」といってパス。私と娘が広場に降りて行って花火を見ました。
 息子に花火が終わったら、ハーバールームの下にいくから、手を振ってと連絡。


 ハーバールームから手をふる息子


 花火が終わって、ディナールームサービスまでほんのちょっぴり時間があったので、すかさず、「サローネの無料ドリンク飲まなくちゃ」と、貧乏性母。
 昼はソフトドリンクだけなので、夜のアルコール飲まないとせっかくのハーバールーム特典が、、、、。クリスマス限定ロゼワインを2杯いただきました。我ながら貧乏性と思うけれど、貧乏人が贅沢しようとすると、こうなる。


 ルームサービスディナーは、スペシャルケーキを付け足して、おひとり様2万円のコースになりました。私は結婚式などでこれくらいの値段のコースを食べたことがあるだけ。貧乏家育ちの娘と息子にとっては、「今まで食べた中で最高値段のディナー」となりました。(娘息子がこれまでに食べた一番高いコースでも1万円くらいだった。ほんにショボイ生活を送ってきた娘息子)

 テーブルセッティングには、係の人とお目付け役の人2名がやってきます。私は、「はぁ、ルームサービスのコース値段てのは、人件費が半分だな」とため息。
 お料理の説明も受けましたが、もらってきたメニュー表が見当たらないので、もはやどれがどんな料理だったか、、、、(見つかったので、料理名書いておきます2019/01/18)

 のどぐろのソテーやらキャビアいりソースやらフォアグラやら、、、、高級食材が次々に並ぶのに、娘息子は大喜び。どれもおいしくて、ほんとうに1年分の贅沢です。

 セッティングする間にも、客の心をなごませる話題を繰り出して、てきぱきとセットをすすめながらも会話をたやさない、サービスたたき込まれているルームサービス係さん。

 こちらのテーブルには2人前セット。


・前菜盛り合わせ ビスクのパンナコッタジェノバソース プロシュートとフレンチトースト アワビとエビのマリネ 冷製ウニとポテトスープ


・メイン ノドグロの香味蒸しと蕪のローストトリュフパン粉焼き&黒毛和牛フィレ肉のコンフィ

  



 パンもクリスマス用のモミの木型  スペシャルケーキ
 

 遅いディナーだったので、食べ終わってお風呂に入ったらすぐに寝ました。早朝のおたのしみがあるからです。
 10月のハロウィーンに泊まった時は、朝早く、イッツクリスマスというダンスショウの練習風景をたっぷり楽しめた、と娘の話。

 娘は、練習を見たくて早起き。ハーバールームに泊まる特典のひとつが、普段は見ることができない、ショウやダンスの練習風景だというのです。
 クリスマスショウが終わって1月2月に始まる新しいショウの「レミーのレストラン」というショウの練習風景を見ることができました。
 映画「レミーのレストラン」は、料理上手なドブネズミくんのお話でした。音は聞こえなかったのですが、コックさんたちが台所用品でジャグリングしたりの練習を見られました。




 本番では港を3週するするだけのカイト船、3時間くらいぐるぐると回って練習を続けていました。


 ホテル下の通りを、退勤出勤する職員や、挙式準備の人が通っていくのも、開園中はみられない光景です。

 開演前のミラコスタ横の通り

 開園後は、すぐにアトラクションやショウの抽選を求めて大行列。


 ハーバールームからの港のながめ


 開演直後の広場でのキャラクターグリーティングに集う人々。みな、キャラクターが大好きです。


 朝のルームサービス。一人前4000円ですが、ふつうのオムレツとベーコンです。家で食べているのより高級な卵をつかっているのかもしれないけれど。たぶん。朝ごはんも半分は人件費か。オムレツのケチャップを私はハート、娘はミッキー模様にして遊ぶ。

 


 朝のハピエストセレブレーション


 きのう、サローネから見たら逆光だったイッツクリスマスタイムのレビューショウをハーバールームから見る。私はダンスを何度見ても楽しいけれど、格別ダンス好きでもない娘も「違う角度から見ると、またちがう楽しさがある」と見入っていました。


 ミラコスタ2日目のランチは、ホテル内の2階の地中海料理レストラン オチェーアノでのランチコース。ここで食べるのは、テラスからもう1度ショウを見るため。
 このテラス席からが一番よく見えました。


 サンタさんの乗った船


 レストランオチェアーノは、海の中をイメージしている。海藻のかざり
 


 レストラン オチェーアノのランチコース。3人前で2万5千円。毎日お高いですわ。
ちいさなアミューズ、パンはオリーブオイルで、前菜、


メイン肉と魚 


コース内のケーキとスペシャルケーキ


 正面玄関前で


 正面玄関前の噴水


 結婚式場のオーナメントにもお別れを言って、2日間楽しませてもらたミッキーミニーに「またね」のあいさつをしてホテルをあとにしました。「またね」がいつになるかはわかりませんが、楽しかった思い出はいつまでも残ります。
 最後はミラコスタのショップで、ぬいぐるみやクッキーなどを買い込み、ホテル代ほかのランチとみやげなどいれて、最終的には一泊二日3人分で30万の消費生活になりました。さて、来年は来年で貯金できるかな。

 新しい年、新しい気分で迎えられそうです。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「ディズニーシーとホテルミラコスタその1」

2018-12-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181227
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記我が家の年末忘年会(1)ディズニーシーとホテルミラコスタその1

 私が京都に行っている間、娘と息子は「鬼の居ぬ間の大散財」をやらかしていました。
 なかなか予約がとれない東京ディズニーリゾートの「ホテルミラコスタ」の部屋がとれたので一泊し、ディズニーシーを2日がかりで楽しんできたのです。母が、京都宿泊カプセルホテルで1週間泊まったのよりも高い一泊料金の部屋。「東京ってったって、浦安なのに」なんていう母の節約京都旅行をうわまわる散財ぶりです。

 ルームサービスも、ホテルプールも楽しんで「いやあ、お金さえ出せば、世の中快適にすごせるもんですなあ」と、ご満悦でした。

 ハーバーから見たホテルミラコスタ(画像借り物)


 春夏秋冬、季節ごとにディズニーランドorシーに出かけているディズニーリゾート大好きっこの娘35歳と息子30歳。(ふたりとも、子どもから成長していないのです)
 一日めいっぱい遊んで、日帰りができる距離なので、これまで「ホテルに泊まるのはぜいたく」と言っていたのですが、母が京都に行っている間、「しっかり留守番するご褒美」を先取りしていました。

 「すごく楽しかった」という「ホテルミラコスタ」に味をしめた娘と息子、年末の「1年間がんばって生き延びておめでとう」の食事会は、またミラコスタに泊まってルームサービスで食べる、と言う。
 
 12月1日に「ばあちゃんの墓参りと文京シビックセンター椿山荘での食事」を、夫と家族4人で食べたときも、聴覚過敏症を発症している息子、周囲のざわめきが苦しかったようで、かわいそうでした。(普通の人にはなんでもない音でも、耳の横で銅鑼を大音量で鳴らしたように聞こえてしまうのだそうです)

 10月のミラコスタのルームサービスディナーが「これまでに食べたすべての食事の中で、一番おいしかった」と息子がいうのも、静かな環境で周囲にわずらわされることなく落ち着いて食べられたのでおいしく感じたのだろう、と思います。

 ホテルミラコスタがそんなに気に入ったのなら、年末に楽しい気分を味わうことで2019年を希望をもって迎えられるように、そんな気持ちの大散財です。
 娘がなんどもインターネットの予約解約を繰り返してルームグレードの高い部屋にしていき、第1希望の「ハーバービュールーム」というのに泊まれることになりました。半年前から予約がいっぱいになってなかなか予約が取れない部屋のキャンセルが出たとき、ずっとスマホの予約画面をたたいていて一瞬のキャンセル待ちを逃さず、ゲットしたのです。
 ルームの正式名は「スペチアーレ・ルーム&スイート、ポルト・パラディーゾ・サイド ハーバールーム(ハーバービュー)」という名前。スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスみたいで、覚えられない名前でした。

 部屋の広さは60m²で、4人までの宿泊が可能なジュニアスイートタイプ。3人で宿泊と晩御飯ルームサービス朝ごはんルームサービスを入れて、3人一泊で21万円の支払いでした。
 旅慣れた人にとっては、格別高級値段ではないのかもしれません。ミラコスタには、ツインで一泊一室50万円のスペシャルスイートルームもありますし、東京の高級ホテルは、一泊で100万円とか200万とかのスイートもあります。

 ハーバールームの室内


 しかし貧乏性春庭にしてみれば、部屋で食べるルームサービスディナーも初めてのことだし、3人で泊まって一晩で20万円の家族宿泊は贅沢の極み。日ごろランチはワンコインで済ませている身には、年に一度の大散財です。

 娘による「母の気をひくためのキャッチコピー」は「母ねぇ、ハーバールームの特典として、スペシャルルーム宿泊者だけが入れるサロンがあって、サロンの飲み物は、昼はソフトドリンク、夜はアルコールが飲み放題なんだよ」と、いかにも貧乏人を喜ばせるセリフ。無料や飲み放題という言葉に弱い母をよく知っています。

 娘息子も体調悪い中、なんとか2018年を皆で生き延びた、サバイバル祝いの大消費。1年間生活費を切り詰め切り詰めして貯めてきた「娘が再入院となったときの準備金」を、今年は使わずに済んだのですから、その分を年末に使い、来年は来年で少しずつためていきます。
  
 2016年の娘入院のときは、姑が残していた「娘の結婚祝い金」を全部使い切りました。手術と治療は保険が利きますが、娘は「個室でないと落ち着いて病院にいられない」という精神状態であったので、一泊25000円2ヶ月間の保険外病室代はなんとか姑からのプレゼントとしてまかないました。おばあちゃんの介護を、亡くなるまでひとりで続けた娘ですから。
 今年は病院個室代を使わなくても済んだので、その分の貯金をミラコスタ一泊にまわしたのです。

 年末の検査で、肝臓の数値が悪かったという娘の体調。食べすぎが問題であることは娘も承知しています。それでも「食事制限は来年から。最後の大満腹と思って、ハーバービュールームのルームサービスで楽しく食べたい」というので、いざ、舞浜へ。

 ミラコスタハーバービューの宿泊受付はディズニーリゾートを巡るモノレールの駅の脇。ホテルに持ち込むバッグを預かってもらい、ディズニーシーへ。

 モノレール車内から見えるディズニーシーの地中海風街並み。ディズニーリゾートは、私の好きな「キッチュ東京」の集合体です。うそっこマネっこをいかに楽しむか。中で働いている人は、お掃除の人も、ミッキー着ぐるみの中に入って過重労働でオリエンタルランドと争っている人も、みな「人を楽しませる」ことに生活をかけているのです。

 モノレール車内から見える地中海風街並み


 ディズニーシー入り口


 入り口前の広場でキャラクターのお出迎え。あいさつするグーフィ


 娘のお気に入りキャラ「クラリス」がハグしてくれました。


 南欧の運河を模した街の中


 お目当てのクリスマスショウが盛りだくさんです。
 最初に見たのは、メディテラニアンハーバーをミッキーミニーなどのキャラクターが乗った船が巡るショウ。「ハピエストセレブレーション・オン・ザ・シー」

 火山の前をキャラが乗った船が近づいてきます。




 船の上にはディズニーキャラクターたち


 最後にサンタクロースが乗った船がやってきて、ごあいさつ。娘と息子は子どもみたいに大喜びしていましたが、私の周りにいた大人たちも、みなが大喜びしています。ディズニーリゾートやキャラクターが嫌いな人は来ていないのだから、みなが喜ぶのに合わせて、私も手をふったりして参加気分を楽しみました。

 次に「ハロー、ニューヨーク」というダンスショウ。アメリカンウォーターフロントという地域の汽船の前のステージで。
 ミッキーとミニーがニューヨークを観光して楽しむ、というレビューです。大きな汽船の前ですわって待ち、ドッグサイドステージの2列目中央で鑑賞できました。ダンサーたち、みな生き生きと踊っていました。この動き、私はとてもできないなあと思いながら、ダンサー視線で見ていましたが、ミッキーもミニーもダンスが上手。





 ディズニーリゾートに行って、「あれのどこが楽しいのかわからなかった」と感想を述べていた留学生もいましたが、ディズニーのアニメを楽しみ、大好きなキャラクターがいる、という人でないと、面白くないのかもしれません。そして、ダンスやレビューが好きでなければ、乗り物系のアトラクションじゃないと、楽しくないかも。
 春庭は、有名どころの古いキャラクターはわかりますが、知らないキャラクターを娘に教わりながらショウを見ました。春庭は、ウォルトディズニーが司会をしていたテレビ番組を60年代に欠かさず見ていた世代です。

 早くも楽しさ満喫の顔 

この雪だるまは、「ミッキー&ミニー雪だるま」なんだって。うちのテレビの上に飾ってあったぬいぐるみの正体をやっと知りました。

 娘は、ダッフイやらシェリーメイやらチップ&デールとクラリスやら、すべてのキャラクターを知っています。ディズニーファンクラブに入っていて、毎月届く雑誌を熱心に見ており、四季ごとにリゾートに通う「ディズニーフリーク」の一人なのです。5歳のとき、はじめて遊びに来たディズニーランドで入り口で出会ったデイジーダックといっしょに写真をとっていらい、30年間デイジーダックが大のお気に入りです。

 私が娘の年齢のころは、大学院に通いながら子育て家事をひとりで引き受け、月~金は日本語教師の仕事、土日や夏休み冬休みには夫の仕事の手伝い。八面六臂で毎日を過ごしていたのにと思うと、「デイジー、大好き」とはしゃぐ娘はなんとも幼いと思う気持ちもあるのですが、まあ、ディズニーシーにいる間は娘といっしょにはしゃごうと思います。

 12時半から、ビッグバンドシアターで、スィングジャズの歌とダンスのショウを見ました。列に並んで待っている間に、チキンやポテトで小腹の虫おさえ。

 ミッキーがドラムをたたいたり、ダンスしたり。
 娘は「ミッキーは、ミッキーだから、中の人なんていないんだけど、ここのミッキーはダンスもドラムもできて、一番スキルが高い」と、「中の人」を誉めました。「中の人」なんていないし、過剰労働でオリエンタルランドと争っている人も、ここ夢の国ではいないのだけれど。

 メディティラニアンハーバーに係留されている帆船

 メディティラニアンハーバーから見たホテルミラコスタ


 ホテルミラコスタのサローネへ。スペシャルルーム宿泊者だけが利用できるというサロン。娘からは「母、ドリンクは飲み放題だけれど、がぶ飲みするとお里が知れるからね」と、事前注意。なに、もとよりお里は知れている庶民。

 サローネ内


 庶民がソフトドリンクを優雅に、、、、3杯めを飲んだ時点でお里はしれたが。


 サローネの窓から「イッツクリスマスタイム」というレビューショウを見ました。午後2時からのショウは、海側に日があり、逆光でシルエットショウになっていました。

 

 ショウを見るための大勢の人が集まっています。


 早めのチェックインができたので、部屋で一休みしてから、おそめの昼ご飯を食べに。
 ミッキーやミニーといっしょに写真をとるサービスを受けられるというレストラン「ディズニーキャラクターダイニング ホライズンベイ・レストラン」へ。3時半の予約になったのは、ランチタイムの予約がとれず、ぎりぎり予約できたのがこの時間。
 食事の間に、テーブルをキャラクターが回ってきて、サインをしてくれたり、握手やハグしたり、交流ができるサービス。同じランチでも、交流がないテーブルは2500円の料理が、キャラクターサービス付きのほうは3500円。つまり、キャラクターと束の間すごす代金が1000円です。

 食事内容はたいしたものじゃないので、これで2500円なら、1000円足してキャラクターとの写真を楽しんだほうがお得、という気がしてくる。

 ホライズンベイレストランの店内

 ランチ

 ムースがミッキーの形しているところがかわいい、と娘は言う


 ミッキーとツーショット

 ごあいさつするミニー


 宿泊するまでは、ホテルミラコスタは、火山と同じでただの風景に見えていたのに、宿泊するとなると、「あの部屋が私たちの泊まる部屋なんだ」と思いながら見るから、同じホテルを眺めても、全然気分が違う」と、娘はいいます。



 では、次回はミラコスタ宿泊編。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「12月のお楽しみ」

2018-12-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

後楽園のイルミネーション

20181225
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記年末に(2)12月のおたのしみ

 メリークリスマス!のかわりに、どの宗教にも通用するようにハッピーホリディというのだ、というキリスト教圏のあいさつ言葉ですが、日本国民のみなさまにおかれましては、12月25日はホリディじゃありません。ただの火曜日。あ、学校はもう冬休みなのね。
 祝日じゃない日、おめでとう。ハッピーアンホリディ!

 足が痛いの金がないのと愚痴をこぼしながらも、12月もたくさん遊びに出ました。無料の美術館やらワンコイン料金の演劇やら。

 12月1日、夫との年末食事会。舅姑の墓参りをしてから晩御飯。息子が体調悪化したので、夫と娘息子は先に文京シビックセンターへ。私だけ後楽園のイルミネーションを撮影して、おくれてシビックセンター椿山荘へ。息子、しばらく休んで「食べられる」というので、椿山荘で晩御飯を食べました。

 後楽園のイルミネーション








 椿山荘の和食セット(ブリ大根、金目鯛から揚げ、牛肉八幡巻き、あん肝ぽん酢、栗ご飯、栗麩すまし汁)とデザート


 やっちゃんから電話。「ドバイにいっしょに行けなかったけど、せめて2018年のうちにどっかいっしょに遊びに行きまっしょ」と言う。

 手に入れておいた招待券2種、五島美術館の「東西数寄者の審美眼 ―阪急・小林一三と東急・五島慶太のコレクション」展と横浜美術館「駒井哲郎」展のどっちがいいか尋ねたら、両方行きたい、と。

 五島美術館→横浜に移動、中華街でランチ→横浜美術館、という行楽にしました。

 12月9日、10時半に上野駅で待ち合わせ。
 大井町線で上野毛へ。五島美術館で茶道具などを見ました。


 
 私は、秀吉肖像画の両脇に、秀吉自筆消息が展示されているのに興味深く見入りました。
 北政所おねと淀殿ちゃちゃにあてた手紙。おねには、「いっぱい便りをもらったのに、返事できなくてごめん。能のけいこが忙しかったんだ」という言い訳。ちゃちゃには「わか君の養育、たいへんだろうけどよろしくね」っていうこまめな手紙でした。このような文をもらったら、おねもちゃちゃも思わず頬をゆるめたんじゃないかな。美男ではなかったけれど、女性の心をとらえる術にたけていた秀吉と思います。

 ビルを借景とする五島美術館の広いお庭を散歩。やっちゃんは、「木なんぞ群馬でさんざん見ているけれど、こういうふうに木の向こう側にビルがそびえているのはないから、めずらしい景色を見ることができた」と喜ぶ。なるほど、わたしなぞ「木の向こうにビルが見えなきゃいい景色なのに」と思うけれど、風光明媚なんぞは珍しくない群馬在住のやっちゃんには木の向こう側のビルのほうが見ものなのでした。

 五島美術館庭側


 自由が丘で乗り換え、みなとみらい線で横浜に移動しました。ところが、横浜をすぎたあたりで二人とも「もうすぐだ」と思いながら眠ってしまったのです。あっと目がさめたら「この電車は和光市行きです」というアナウンス。なんと横浜中華街で折り返して横浜駅すぎるまで寝ていたのでした。そのまま乗っていたら、埼玉県まで行ってしまうところでした。
 「やっちゃん、たいへんだ」と起こして、ふたたび横浜中華街へ。呼びこまれた店で「中華食べ放題」というのを食べました。ふたりとも69歳とは思えない食べっぷり。2000円ちょいの食べ放題、元はとりました。

 みなとみらいに戻って、横浜美術館へ。
 イルミネーションを見て、駒井哲郎典を見て、みなとみらい駅ビルで肉まん買って帰りました。


 やっちゃんとふたりで歩くと、いつもの珍道中になりましたが、楽しかったです。


 やっちゃんが「つぎは、春になって暖かくなったら、長野で新発掘している古墳を見に連れていく」というのを楽しみに。



 12月10日月曜日は、ブログ友達yokoちゃんと池袋で待ち合わせ。本屋での買い物に付き合ってもらったりしてから、駅ビルデパートのカレーで晩御飯。京都のみやげ話や私の「足が痛かった愚痴」など聞いてもらいました。
 師走、忙しい中、春庭年末愚痴大会におつきあいくださり、ありがとうございました。

 12月19日水曜日は、ジャズダンス仲間ミサイルママと「恒例大人の遠足」第3水曜日ジジババ無料の美術館の日です。65歳以上は無料になる2018年最後の第3水曜日は、東京都美術館で「ムンク展」
 「叫び」ほか、ムンクの傑作を堪能しました。

 我が家のケーキは娘の手作り。と、いっても、生協配達のスポンジケーキにいちごとクリームをミルフィーユ風に重ねたもの。スポンジを4層にしたところがオリジナル、と娘は言っています。生クリームがとてもおいしかったです。



 12月20日21日は、娘息子との家族忘年会。ホテルミラコスタ宿泊リポートについては、のちほど。

 ディズニーシーのクリスマスツリー。



 12月24日、視覚障碍者演劇鑑賞会の活動を続けているアコさんから、年末のおたのしみ、劇団昴の「クリスマスキャロル」鑑賞のおさそいがありました。
 豊島区大山の劇団けいこ場で行われる公演で、劇団から「すばる倶楽部」会員限定のクリスマスプレゼント価格500円です。会員のアコさんが、視覚障碍者ガイドヘルパーの分として、私の券も申し込みをしてくれました。
 楽しい観劇になると思います。クリスマスキャロル、この時期にはほんとうによい出し物です。

 25日は、アコさん友人のけいこさん宅でのクリスマス会をします。けいこさんは、脳性麻痺の障害をもっていますが、お母さんの助けを借りて自宅での生活をつづけてきました。しかし、昨年、高齢のお母さんが亡くなったあと、ヘルパーさんの助けを受けながら、ひとり暮らしを続けています。
 同じ区に住みながら、なかなかけいこさんのお宅を訪問できずにいましたが、アコさんとのクリスマス会。

 みなみなさまにおかれましても、2018年の年末がこころよき日々であったことを祈りつつ、「もういくつ寝るとお正月」を迎えましょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2018年テリマカシ」

2018-12-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2018123
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記年末(1)2018年テリマカシ

 「平成最後のクリスマスイブイブ」。来年は「新元号最初のイブイブ」にはなるのでしょうが、祝日ではなくなってしまうのかどうか。

 祝日として残すなら「科学の日」にしてほしい。明仁天皇は、科学者でもいらしたのだし、文化の日vsで。ついでに先走ると、2月23日は「水の日」に。8月31日は、夏休みの宿題かけこみ仕上げの「宿題対処う、でも暮らし」の日。大正天皇、地味なご生涯でしたが、誕生日もなんだか祝日っぽくない日にお生まれだったのね。夏休み最後の日。

 「科学の日」は、アトムや御茶ノ水博士、ガンダムや戦隊ものや、なにやら科学っぽいもの総動員でコスプレしてパレード。日本独自のイブイブになっていいんではないかしら。百合子トチジには、メーテルコスプレをぜひ、もう一度。慈母のようなと言われて「わたしゃ子供産んでない!」とおカンムリだったので、「機械化惑星を強化し同時に破壊する部品としての少年集め」という科学の子であるメーテルめざしてくださいまし。
 文化立国、科学立国をめざして、祝日科学の日に一票。

 たいてい、年末になれば、「1年を振り返って」的なことを書いていたんですけれど。今年は振り返るのもおっくうな年末になりました。

 十八番日記に書いたことも書かなかったこともある中、いいことと悪いことを5つほど思い出して。

・ベスト1 10月末から11月京都ひとり旅できました。旧友ハンさんとその娘シンちゃんといっしょにすごせました。
・ベスト2 大人の遠足、ミサイルママと美術館巡り。ブログ友yokoちゃんと東京で、アントニオ兄と京都で建物をみることができました。友人青い鳥さんへの絵葉書送付は12月末で930枚目。千枚は送ると言って2011年に始めた毎月10枚の絵ハガキ送信も来年中には千枚を超えそうです。
・ベスト3 妹や高校以来の友やっちゃんと夏の旅行ができました。
・ベスト4 今年もダンスサークルの発表会に参加でき、サークル仲間たちとの交流もつづけることができました。  
・ベスト5 水曜日は私立大学文学部、月火木金、新しい仕事先で、ともあれ勤務が続けられました。
 
・ワースト1 9月9日 ジャズダンス発表会の片づけをしている最中に、膝の関節炎発症 少しは良くなってきましたが、、、まだまだ完治せず。
・ワースト2 4月末。昨年夏から取り組んできた仕事がとん挫。1から出直し
・ワースト3 娘と息子の体調もあいかわらず良くならない
・ワースト4 夫が6月に骨折して2か月間入院
・ワースト5 持病はあいかわらず

 家族のみなの調子がイマイチな2018年でした。

 ベスト1に挙げた京都旅行だって、ほんとうはワースト1の裏返し。
 膝の関節炎、9月中は、ほんとうにつらかったです。足を引きずって駅のホーム歩き、つき飛ばされそうになる。エレベーターもエスカレータもない駅の階段で、足が痛くなっても、後ろからどんどん人が来るので、立ち止まることもできず、泣きながら上り下りする。

 そんな状態で泣く泣く勤務を続けていました。10月になると「女子高同級生たちは、教員を60歳で退職したあとは、みな悠々と年金暮らしで海外旅行などを楽しんでいるのに、なぜ、私は国民年金ではどうにもならず、こんな足をひきずって働き続けているのか」と しみじみつらくてなりませんでした。
 足が痛いこともつらいけれど、そんな足で働かねば食べていかれぬ人生を、普段は感じなくても、弱気になると途端に辛くなる。しかも、仕事先は、昨年からの仕事進行が一時とん挫。すべてをやり直し、という事態でした。

 ブログ書きもつらくなって、過去ログを再掲載。しかも調べてみれば、2003年の最初に書いた「あ~んの著者巡り&自分語り」は、2010年だけじゃなく、2015年にも再掲載していたのでした。自分では2015年の再掲載については、すっかりと忘れていたのです。
 「何度も同じものを読ませおって」と思われた方、すみません。でも、書いた本人が掲載したことを忘れているのですから、読んだほうだって忘れているに違いない、、、、。自分の健忘症を勝手に押し広げてはいけませんね。

 クラスメートやっちゃんから「今年の海外旅行は、ドバイにいくけど、いっしょに行くかい」なんて電話が入ると、「あたしゃ、膝の関節炎で泣いているんだよ。ドバイなんぞに行ったりしたら、ブルジュ・ハリファから海にドボンだ」ブルジュ・ハリファが海に面しているのかどうかも知らないが。
 ドバイに行かないいいわけとして、「京都に行くから」とやっちゃんに言いました。

 9月末に、なんとかやり直しの書類集めも一段落したとき、「10月は休もう」と、思いました。8月に夏休みも4日ほどは休んだけれど。いっしょに仕事をしている若い夫婦は、8月3週間の中国滞在。仕事の出張と帰省を兼ねての3週間ですが、その間に私は事務所の留守番を務めました。だから「秋休みをとります」と宣言して、10月に5日間、11月に3日間の休みをとりました。水曜日出講の大学は、学園祭準備日として休講になったので、10月24日水曜日の授業を終えると夜行バスで出発。

 足が痛い中の京都巡りでしたが、痛い足で通勤するときは泣き言ばかりが出てくるけれど、旅行なら痛くても我慢して歩けるのは不思議。京都初日など、1日に2万歩も歩き、さすがにこれは歩きすぎと思いました。京都12日間で、合計17万歩。

 自分の体調の愚痴ばかり並べました。
 2018年の日本社会。
 福島原発のトップたちは「わしらは知らんかったもんね。責任ないもん」と開き直るし、日産ゴーンは逮捕されるし、相変わらずワケわからんちんなこと言いたてるトランプに、しっぽふっているばかりのポチシンゾー君だし、世の中、どうなるんだ、という一方。いとしのゆづ君は怪我しちゃうし。

 それやあれやも大変ですが、私の仕事に関わる一番の社会問題は、なにがなんでもゴリ押しで法案成立させた「外国人労働者問題」と「日本語学校入学者の制限」です。

 近年の東南アジアからの私費留学生就学生は、日本でのアルバイトを前提として借金をして入学してくる、という事実があります。(留学生は日本の大学へ。就学生は日本語学校へ)
 入学資格者厳正調査によって、ベトナム、ネパール、ミャンマーなど、今年は入学者数が半減しています。
 来年はもっと減るでしょう。そうなると、これらの国からの就学生を入学させていた日本語学校の経営は苦しくなるでしょうね。あまり減っていない中国からの学生や韓国からの学生にむけて、入学者の取り合いなどが始まるかも。
 
 春庭は、2015年までは、国立大学(独立行政法人)の国費留学生を中心として教えていましたから、労働者問題も留学生アルバイト問題も、それほど私には大きな影響がありませんでしたけれど。今は私費留学生就学生について考えなければならないですから、影響大です。

 けれど、社会情勢はひとまず置いといて、世界中の文化を知ること、世界の食べ物を食べて、音楽を聞いて、世界のダンスを見る、そんな一日を楽しむひとときもありました。

 2015年まで留学生センターで仕事してきた大学の学園祭へ、久しぶりに行きました。元同僚M先生から「教え子が学祭で講演するので、いっしょにどうですか」と、誘われたので。

 M先生は、留学生に日本語を教えるほか、インドネシア語学科で文章読解のクラスを受け持っています。10年ほどまえに教えた学生が、今では「インドネシアの有名芸能人」になっていて、インドネシア語英語日本語を駆使する、マルチタレントになっている、ということでした。

 M先生の教え子加藤ひろあきさんの講演は、午後1時から。2014年からインドネシアに拠点を置き、「よしもとクリエイティブエイジェンシー・インドネシア」の代表もつとめることになっているそうです。
 ミュージカル俳優、シンガーソングライター、翻訳家、通訳、大学インドネシア語講師など、多彩な才能を発揮している加藤さん。

 加藤さんの大学時代と今までの人生、インドネシアでの芸能活動の話など、聴衆をひきつける話術で楽しませてくれました。2018年夏のインドネシア開催アジア大会のイメージソング日本語版も加藤さんが歌ったそうです。
 
 「大学院を卒業した後、仕事がなかったとき土方をやりました。広場に敷石を敷き詰める仕事で、今でも初心に帰らなければと思うときは、この敷石を見に行きます。腕がいいから本職にならないか、と親方に言われたのですが、歌のほうが好きなので、敷石職人にはなりませんでした」というお話も。

 日本語とインドネシア語、英語を使って、世界をつなぐ歌手として、よしもとクリエイティブエージェンシーのジャカルタ代表として、これからの活躍が楽しみです。
 最後にミニライブ。すてきな歌声を聞かせてくれました。テリマカシ!!

 youtubeの、加藤ひろあきライブ
https://www.youtube.com/watch?v=Z8U4_-q0DPw&start_radio=1&list=RDsWCaEzEYlYg

 世界中から日本へやってくる人も、日本から世界へ飛び出していく人も、がんばってね。

 年末、今年はジャズダンスサークルでの忘年会はせず、新年会で総会とお食事会、ということになったので、私の忘年会は、家族忘年会と友達との年末遊び会のみ。

 でもって、「京都ほんのり秋色」の後半は、1月に再開します。

スンダ島の津波被害を案じています。亡くなられた方々お悔やみ申し上げます。被害に遭われた方、どうぞこの先の暮らしが平らかになっていきますように。
<つづく>
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ぽかぽか春庭「白沙村荘その他 」

2018-12-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2018122
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(15)白沙村荘その他

 日本画は特に好きな画家がいるわけでもないですけれど、近代美術館の日本画、山種美術館の日本画をよく見てきました。近美は65歳以上常設展無料だし、山種は招待券がときどき手に入るからです。

 橋本関雪(1883-1945)も、ときどき作品を見る機会があり、京都に行ったら、白沙村荘に行ってみようと思っていました。庭園が見事だと聞いていたので。

 橋本関雪は、1914(大正3)年に元浄土寺の領地であったという土地の払い下げを受け、建物と庭園を自ら設計しました。1914〜1916年母屋と画室、1931〜1932年茶室、1936〜1938年庭園西部分を作りあげ、1945年2月に61歳で亡くなるまで住み、画室で制作をつづけました。

<きょうの建物>

 橋本関雪記念館入り口


 芙蓉池から見る存古楼(屏風絵の画室)


 瑞月池に建つ如舫亭から見る倚翠亭(いすいてい)

 左が憩寂庵(けいじゃくあん)とで右が倚翠亭(と、思うけれど、どちらがどっちやら)

 倚翠亭


 茶室のなか


 持仏堂


<きょうの庭園>白沙村荘庭園(国名勝)
 庭園入り口






 浄土池




<庭園石造物>
 庭園の中、ここにもかしこにも石仏や石灯籠などが置かれていました。気になったのは、これらの石造物コレクションは、おそらく地方に忘れられていたような石仏だったろう、ということ。橋本関雪は、これらの石に美を感じ集めたのでしょう。
 大谷光瑞率いる大谷探検隊がチベット奥地で行った探検と仏像収集もそうでしたが、打ち捨てられていたような仏像を収集した、つまり置かれていたのをそのまま持ち帰ってコレクションとした、という気がしたのです。

 各地に置かれていたままだったら、そのうち捨てられ廃棄されてしまった石仏もあったかもしれず、収集者が集めたからこそ、まとまって残された、という見方もあります。摩崖仏などが戦火にあって崩壊し、そのまま壊された、ということもありましたから、美を集める心を持って収集するのは意義あることなのでしょうが、元あった場所からどのように運ばれたのか、気になりました。

 レストランノアノアの旧館玄関前の石仏

 庭園西部分に石仏が並ぶ


 藪の羅漢仏


 どこから運ばれてきたのかなあ、とながめる、どっしりした大石


 鞍馬石 篆:呉昌碩 「鬱勃縦横」


<きょうの出会い>
 「どのようにしてここに運ばれたのか」と気になりながら庭を歩いて鞍馬石のところまで来たら、観光のおば様ふたりに、男性が石の由来をお話なさっているところでした。

 「元は、鞍馬山の川の中にあった石。流れのなかで、何万年も削られ、石の表面が平らになっていた石を見つけた関雪が、近隣の農民に声をかけ、橋本邸まで運ばせた。農民へのお礼は、作業中の食事だけで、みな進んで関雪さんのためならば、と無償で運んでくれたのです」

 特にお金を払って買い求めた石ではなく、川の中にあったのを発見して、自邸に運ばせた、ということを聞き、おそらくその他の石も、そのような発見と移設だったろうと、思いました。
 お話なさっていたのは、たぶん現副館長の橋本眞次さんだろうと思います。(名前を直接聞いたのではなく、ネットに出ていた写真のお顔からそう思っただけで、確認はしていません)

 橋本眞次さんは、関雪の長男節哉の孫(関雪の曽孫)。石の由来解説をありがとうございました。
 要するに、川の中にあった、だれの所有物でもないと思われた石を、勝手に運んできた、という由来ですね。

 鞍馬石に座って、石原裕次郎と宇野重吉が酒を飲むポスターが石の脇に飾ってありました。


<きょうの京わたし>
 ミーハーだから、まねして酒を飲む姿で一枚


 実をいうと、私は作家や画家の子孫が記念館や美術館の館長になるのはあまり好きではありません。子孫の中には、美術館として公開していても、作品を私物のように扱う人もいるからです。財団法人などにして一般公開するなら、すでに作品も公的な物。私物として扱うなら、公開しないがよい。

 白沙村荘、橋本関雪記念館の関雪作品の公開にも、いささか懸念を持っていました。
 美術館の関雪作品。展示点数は数点のみで入館料1300円。もっとお宝を見たい人は、特別公開の800円、特別観覧料を払えということだったので、一般公開の作品のみ見ました。そんなこんなで、美術館にはあまりいい印象を持っていなかったのですが、鞍馬石の説明をしてくれた恩義に感じて、「橋本関雪美術館」というわりに関雪作品が少なかったことに文句を言わないことにしました。(と、言ってしまっているんだけど)

 1階の展示室の屏風絵、目にとまったのは2点のみ。1階の展示は全部で5点ほど。
 うちの1点「木蘭」春庭撮影と美術館の「所蔵作品公開」の木蘭



<きょうのひとり散歩>
 白沙村荘を出た後、三条通りの近代建築を見て歩こうと、三条駅へ。そこから歩き出したのに、めざす近代建築はいっこうに見当たりませ」ん。へんだなあ、と思ったら、三条駅から真逆方向に東山駅方向へ歩いていたのでした。たくさん持って行った紙地図をみながら、スマホの地図機能を使いながら、この始末。

 途中、鴨川三条大橋近くに、「京都帆布クレアキキ」という店を見つけました。店前平台に「柿渋染め財布」が並んでいました。14040円の品、ワケあり3000円。店のパンフレットには「紳士用」として出ていましたが、無料と割引が大好きな春庭、店の人にワケありの理由を聞いたら、二つ折り財布の中の皮に少々汚れがついてしまったとのこと。見た目にはわからにないくらいの汚れでも、正規品として販売できない、ということです。割引大好き、喜んでこの財布を買いました。色はキャメル色で地味ですけれど、これも出会いの品ですから、道を間違えたおかげで買えた、と思うことにしました。娘と息子には小銭入れを。

<きょうの工芸>
 染料の柿渋は、熟していない青い柿をつぶして発酵させ、タンニンを含む液体にしたものです。私が買った財布は、柿渋で染めたキャンパス地の中に皮のカードいれと小銭入れ札入れがついています。

 帆布柿渋染めの財布と麻柿渋染めの小銭入れ。
 




 船はし屋で豆菓子を買ったり、祇園饅頭屋の東山工場直売所で饅頭かったり、甘い物もたっぷりと買って、宿へ戻りました。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「レストランノアノアと懶雲洞継ぎ紙展」

2018-12-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181220
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(13)レストランノアノアと懶雲洞継ぎ紙展

 10月29日月曜日。橋本関雪記念館白沙村荘へ行きました。月曜日に開いている美術館などは少なく、京都国立博物館も京都近代美術館も休みだったから選択肢は限られました。白沙村荘は年中無休です。

<きょうの建物>
 橋本関雪記念館併設レストランノアノア
 橋本関雪がヨーロッパで収集したコレクションの所蔵館として1929(昭和4)年に、洋館を建てました。その館を1970年に改装し新館部分をレストランとしたのが「ノアノア」

 昭和初期の洋館の様式のうち、スパニッシュ様式、和風の玄関(庇は垂木形)を折衷したRC造2階建、外装モルタル塗。

      

 予約をすればこのスパニッシュ洋館でも食事ができたらしいのですが、私は、食事は1970年に建てたという新館のみが店舗だと思って、外観だけで素通りしました。再訪の機会があれば、旧館の館内をゆっくり見たいです。

<きょうの工芸>於:橋本関雪記念館付属懶雲洞にて 川口益美「人形と王朝継ぎ紙」展
 懶雲洞入り口


 橋本関雪記念館の建物のひとつ懶雲洞の中で、川口益美個展「人形と王朝継ぎ紙」展をやっていました。10月25-29日展示の最終日だったので、これもご縁と思って見学しました。
 継ぎ紙展お知らせのはがき

 懶雲洞玄関


 王朝継ぎ紙は、紙が貴重だった平安時代に、宮中の女房の手仕事として、紙の切れ端などを集め、継ぎ足して作られた紙工芸です。継ぎ紙はほとんどが散逸し、現存するのは「西本願寺本三十六人家集」のみ。展示の中に、この現存継ぎ紙の複製品が展示されていました。複製は、長年の研究の成果です。古代の継ぎ紙の製法は途絶えていたからです。
 
 近藤富枝(1922-2016)は、着物や王朝文学についてのエッセイを書く中で王朝継ぎ紙を知り、途絶えていた技法の復興を志しました。研究を重ねて、研究会の弟子も育ちました。川口益美は、京都教室で長年習ってきたそうです。(川口個人の履歴はわかりません)

 継ぎ紙については『王朝継ぎ紙の世界』近藤富枝・陽子著をどうぞ。
 近藤富枝の本も何冊か読んできたけれど、私は姪の森まゆみのほうが好き。
 富枝逝去後、王朝継ぎ紙研究会の主宰者は、娘の近藤陽子が引き継ぎました。

 継ぎ紙の技法については、こちらのサイト。
http://jpclassic.art.coocan.jp/menu022.html

 「西本願寺三十六人集」の複製品


 受付をしていた「川口益美のお友達」の人が、お茶を出してくれました。さらに、テーブルの上に飾られていた「こんへいたう」をつまむようにすすめくれました。「ポルトガルから伝えられた通りの製法で作っているので、現代の金平糖よりも素朴だと思います」と。たしかに角がいくらか丸くて小さい。


 「こんへいたう」をひとつふたつ摘まんでお茶をいただいて、ゆっくり継ぎ紙と人形を見せていただきました。

 本当は、このような「王朝継ぎ紙って、高級な趣味ですのよ、おほほ」というような個展は好きじゃない。いつもの貧乏人ひがみ根性です。でも、こんへいたう2粒もらって、ひがみをひっこめ、「美しい紙ですね」と、感想を述べて出ました。
 継ぎ紙で作ったペンダントヘッドとブローチ、「あら、きれいね」とお買い求めの方がいたので、後ろで値段を聞くと、ひとつ3000円。うん、私には買えません。

 山奥の村で、老夫婦がかろうじて昔ながらの製法を守っている、という紙漉きなら、私も素直に見ることができるのです。紙を作ることがタツキになっているのが好き。
 お金持ちマダムが高級そうな和服を着て観覧者を「おほほ、、、」と、笑顔で迎えるのも悪くはないけれど、、、、紙つくりはあくまで趣味で、ヒマがあってこその製作、、、、と思うと、美に対して斜に構えてしまう、私の悪い癖。

 美にもいろいろあるけれど、命削って制作するのが好きっていう、、、、、。命削らなくても、美しいものが生み出せるのは知っています。遊び心も美を生む。
 それに、川口さんが高級そうな和服を着ていたというだけで「有閑マダム」と決めつけるのも私の悪い癖。もしかしたら、パートの仕事をつづけながら継ぎ紙京都教室のお稽古代を捻出し、今日のために借り着を用意したのかもしれません、、、、、って、そういう雰囲気じゃありませんでしたけれど。ゆったりした落ち着いた雰囲気でした、、、、、有閑の雰囲気。

 川口様、お友達さま、こんへいとうをごちそうさまでした。美しい継ぎ紙、近藤富枝さんも2016年に94歳で逝かれた今、ぜひ、その技法を後継者さんたちがきわめてくださいまし。

 <きょうのひとり散歩>
 白沙村荘は、銀閣寺道入り口から徒歩、とガイドに出ていたのですが、地図を見て近いような気がして、今出川通りのひとつ手前のバス停で降りてしまいました。朝、9時前。
 京都大学の学生もよく利用しているという私設図書館(開館9-0時)があるのに気づいたり、町のパン屋さんで朝ご飯用のパンを買ったりしながら、ぶらぶらと歩きました。

 哲学の道。
 川沿いの桜、初代の桜は、橋本関雪と妻のよねが「地域のために」と植えさせました。初代の樹齢もつき、現在のは植え替えられたものですが、今も「関雪桜」と呼ばれて親しまれています。
 

 通り道のパン屋マンシエールで買ったパンは、朝ごはんに哲学の道で食べました。
 私設図書館は、入館料2時間250円で、中でコーヒーも売っているというので休みたかったですが、まだ開館9時より前でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「大徳寺真珠庵」

2018-12-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181218
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(12)大徳寺真珠庵

 法堂東庭から真珠庵の屋根をのぞむ、


 真珠庵の庭「七五三の庭」伝・村田珠光作庭。こちらも撮影禁止だったので、借り物画像で。


 土佐光起「花鳥図」(画像借り物)


 拝観料2000円とるのに撮影禁止であることに文句を言いながら、真珠庵を出ました。
 神社仏閣の撮影禁止。お寺にはお寺の言い分があることはわかりますが、聴竹居のように、申込書に氏名住所を明記し写真撮影の目的を明らかにした上で身分証明を提出して、、というような措置をとれば、撮影しても問題ないんじゃないかと思いますが。
 京都のお寺は一律禁止のところが多く、方丈の入り口で「撮影禁止」と言われて引き返していった外国人観光客が何組もいました。京都の寺院の撮影禁止は世界のSNSで広がり、観光客が減ることもあるかもしれません。日本の各地を訪れる外国人観光客も、SNSなどで撮影した写真をUPするのを楽しみにしています。

 ハンさんは、御朱印帳あつめが目的なので、写真が獲れなくてもそれほど気にしていません。でも、ちゃっちゃと、お庭の前で「センセー、シャッター押してください」と、記念写真を撮っていました。周囲にだれもいないので、だれかが映り込むこともなかったし、中国に帰国したあとの思い出として、方丈庭園を背景にしたいいショットだったと思います。「センセー、もう1枚」と言われてカメラを構えたら、見回りの係員に「撮影禁止!」と叱られました。世紀の大犯罪のごとく。

 「目でみるだけで、心に思い出をとどめて」なんて言われると、心にとどまりにくい忘れん坊さんに生まれた悲哀がひしひしと身に沁みます。
 あとで写真を見れば、いろいろなことが思い出せるのに。

<きょうの出会い>
 ハンさんの娘シンちゃんは、大徳寺茶所(休憩所)で待っているはず。
 庭園に興味がないシンちゃんは、茶道会のあと、休憩所で待っていることを選びました。庭を見るより本を読んでいるほうが楽しいからですって。今夢中になっているのは、中国語に翻訳されている日本の小説。東野圭吾が今の一番のお気に入り。中国ですごい人気だそうです。

 茶所にいたシンちゃんは、お坊さんと会話していました。中国への留学経験があるお坊さん、中国語が堪能です。お坊さんは、札幌から観光に来ているという若い女性には日本語で、シンちゃんには中国語で、折り紙を折りながら「禅の心」を説いています。

 お坊さんは、大徳寺塔頭のひとつ黄梅院の副住職さん、長田玄渉師でした。黄梅院は、秋の特別公開中ですが、28日は非公開日で、茶所にいる人への説法をなさっていたのです。説法といっても、むずかしい禅の話ではなく、シンちゃんにも理解できるよう、お話しくださったようす。

 お話をうかがっているうちに、札幌の女性、シンちゃん、長田師の共通の「大好き」が『夏目友人帳』だということがわかり、大いに盛り上がりました。長田師は漫画を全巻所有していて、アニメ版も好きとのこと。シンちゃんは、中国で放映されていたアニメから「夏目ファン」になったそうで、漫画は、もう少し日本語がわかるようになったら、日本語版を買いたい、と話していました。
 『夏目友人帳』
 いじめられっこの男の子夏目貴志と妖怪のお話です。両親とも幼い頃になくなり、妖怪が目に見えるため、親戚やクラスメートから気味悪いウソツキとして扱われてきた貴志が、妖怪との出会いのひとつひとつの事件の中で成長していきます。
 
 「夏目友人帳」の話から、妖怪についての話題になって、ゲゲゲの鬼太郎の話がでました。と、長田師は「私の叔母は、水木しげるの奥さんです」とおっしゃる。「ゲゲゲの女房」の作者武良布枝さんは、長田師のお母さんの妹なんですって。長田師が「夏目友人帳」をお好きなのも納得です。私は「ゲゲゲの女房、見てました!」と、ミーハー発言。

 長田師のお名前で検索すると、ひとつヒット。司馬遼太郎の街道シリーズで挿絵を担当していた須田剋太さんの絵に描かれた場所をたずねる旅を続けている方のブログに、大徳寺三門で長田玄渉さんとお話しした、ということが書かれていました。2015年11月11日のこと。

 長田師とのお話がはずみ、大徳寺を出たときは3時すぎ。長田師は、わざわざ黄梅院に戻り、『夏目友人帳第1巻』を持ってきて、シンちゃんにプレゼントしてくださいました。シンちゃん大感激。長田師、シンちゃんハンさんといっしょに記念写真を撮りました。長田おっしょさん、ありがとうございました。

 おひる前に大徳寺門前に着いたとき、私が精進料理でランチをしようと考えていた「大徳寺一久」。3時では、店も閉まっていました。ご主人に話をうかがうと「予約受付をした方にだけ、昼御膳を出しています」とのこと。娘さんが中国留学したことがある、とのことで、ハンさんシンちゃんと話がはずんでいました。これもご縁だろうと、一久で大徳寺納豆を買いました。


 付近の食べ物屋さんは、ランチタイムを終えて、夜まで開かないところがほとんど。
 ただ一軒開いていたうどん屋さんでニシンそばを食べました。

<きょうの京ごはん>


 ハンさんがホテルに4時半に来て、論文のチェック開始。査読1回目が終わっています。
 1度目の査読で、査読者からの注文をチェック。読みにくい字、ピンクペンで書き入れてある「要訂正」の膨大なこと。ワード作成論文なのですから、校正書き込み機能を使えば、わかりやすいのに、手書きの書きなぐり文字、よほどアナログな査読者とみえます。

 要訂正の部分を読んでいくと、日本語学にも日本語教育にも語学教育、教育学にすらまったく関わりのない教授が査読者であることがわかってきました
 たとえば。教育用語として説明不要の語だ、と私もハンさんも思った「反転教育」や「MOOC(Massive Open Online Course )ムーク」という語についても「脚注が必要」と査読者はみなしています。

 査読に通すことが重要ですから、日本語教育関係者ならわかる用語でも、ひとつひとつ脚注をつけたり、略語の解説をいれたりして、ハンさんが「すぐ終わるから、夜からチェックしても大丈夫」と、言っていた予想に反して、夜遅くまでかかりました。

 私がこれまでに提出した査読が必要な論文は、日本語教育関連の紀要が多かったので、たいていはすんなり査読が通り、こんな苦労をしたことはありませんでした。「大学紀要」と言っても、いろいろたいへんなんだなあと思いましたが、ハンさんがこれから「業績」を積んで准教授から教授になるためには論文の数が必要。昇進に必要な業績は、主に学会での発表本数と査読論文の本数。

 1994年に、はじめて中国に単身赴任した私は、日本語を専攻する大学生だったハンさんと出会いました。日本語をどんどん上達させ、ハンさんは、曲折を経て日本語教師になりました。言うのもおこがましいことながら、いわば、藍より出でて藍より青い「私の一番弟子」。
 もっとも、私の教え子、国費留学生たちは、みな「藍より青し」です。国を代表する頭脳として日本の文科省から給費奨学金を得ている人たちです。私のような藍染のなかでも「かめ覗(のぞき」と呼ばれる一番薄い色あいのものに教わっても、学べる人はどんどん学んでいきます。

 非常勤講師のまま変わらなかった私とことなり、中国の有力大学で、ハンさんは専任講師、準教授とキャリアを積んできました。偉くなった今でも、私を「センセー」と呼び、大切に思ってくれています。
 私も、しがない非常勤講師の年月のなか、「センセーのような日本語教師になりたい」と言ってくれた人とのおつきあいは、ほんとうに得難い友情だと思っています。

 10月31日に、長楽館のアフタヌーンティにハンさんしんちゃんを招待し、いっしょにお茶するのを楽しみにして、10月28日は別れました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「大徳寺本坊方丈庭園」

2018-12-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181216
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(13)大徳寺本坊方丈庭園

 10月28日は、午前中はのんびり過ごし、ハンさん母娘がホテルにやってくるのを待っているつもりでいました。ハンさん母娘は、午前中、大徳寺の塔頭で開催される「お茶会」に招待されたといい、私も誘われたのですが、私は「姑が残した茶釜や茶碗など、留学生が遊びに来たときに披露するだけで、私自身は茶道をやろうなんていう気はひとつもない」と言って、大徳寺には出向かない、と伝えてありました。

 茶道体験を終えてから、ハンさんがホテルに来て、ハンさん執筆の「客員研究員として在籍している大学の紀要に掲載予定の論文」のネイティブチェックをする約束です。
 ハンさんの日本語力は、たいへん立派なレベルで、一般的な日本人よりはずっと詳しく日本語について理解しています。それでも、論文となると、ネイティブチェックが必要、ということで、ハンさんからチェックを頼まれていたのです。

 昼前、ハンさんから連絡がありました。「ハル先生、茶道体験は、もうすぐ終わりますが、先生、やはり大徳寺まで来てください。今、秋の特別公開の期間で、普段は見ることができない庭園が公開されているんです。先生は庭園に興味があるそうですから、ぜひ、いっしょに見たいです。論文のチェックは、夜でもいいですから」と、ハンさんが言う。
 あわてて、パジャマがわりに来ていたTシャツの上に上着をひっかけて、大徳寺まで出むきました。

 大徳寺は、1315(正和4)年に、大燈国師宗峰妙超禅師が開創し、応仁の乱後荒れ果てていた寺を一休さんが再興したお寺です。ですから、観光用には「一休さんのお寺」として知られています。秀吉が信長を弔うために建てた総見院ほか、22寺の塔頭が連なり、臨済宗大徳寺派の大本山として栄えているお寺です。

 狩野探幽が描いた龍の天井画、方丈庭園などが秋の特別公開として、10月5日から28日まで拝観可能。つまり28日日曜日が最後の公開日。ハンさんは「明日からは見ることができないので、見たい」と言います。それで、私も大徳寺へかけつけたという次第。

<きょうの建物>
 大徳寺南門から入り、まず勅使門を見物。もとは御所の南門だったものを、1640年に移築。


 「金毛閣」の扁額をかかげた三門。大河ドラマファン、戦国史ファンにはおなじみのエピソードを持つ門です。1589年、千利休が2階を増築し、自身の木像を2階に置いたところ、秀吉が「利休の足の下をくぐらせる気か」と怒り、切腹を命じたという曰くつきの門。


 仏殿前の、イブキの古木(京都市天然記念物)1665(寛文5)年に仏殿が再建されたときに植えられたということなので、樹齢350年くらい。
 

 仏殿と法堂。



 ご本尊は釈迦如来。ときどき「撮影おとがめなし」の日が設けられているそうで、この日はラッキーな撮影OK。金ぴかの仏像は、ミャンマーの釈迦如来を思い出させてくれます。


 もちろんお釈迦様に念入りにお祈りしました。世界平和、国家安泰、家内安全、学業成就、金運上昇その他もろもろ、、、、。(いつも同じ欲張り願い事ですが、欲張った願い事は受け付けてくれないという根性の狭い仏様もいるって話ですから、皆様におかれましては、願い事精査がよろしいかと。)

 一律に撮影禁止でなく、このお釈迦様のように、おおらかに撮影許可してくれれば、いっそう、お釈迦様への帰依の心も深まる、と私は思います。もちろん、仏像への敬意を欠く撮影は、フラッシュたかなくてもいけないことですけれど。

 方丈の唐門は、国宝。聚楽第の遺構で、徳川氏はこの唐門をモデルにして日光東照宮の門を建てたそうです。あまりはっきり写っていないのは、撮影不許可の門を、大急ぎで撮ったため。買い求めた絵葉書をUPしようかとも思いましたが、とりあえず、自分で撮影したものをUP。絵葉書セットには、前庭と唐門が一枚、唐門だけ大写しになったものが一枚入っていました。


<きょうの庭>
 唐門前の前庭。天祐和尚作庭。
 

 方丈東庭。小堀遠州作庭。絵葉書の方丈東庭は、雪景色だったので、借り物画像をピックアップ。
 拝観者はこの方丈の縁から東庭を見るので、庭側から縁を見るアングルは不可能。


 大徳寺本坊の中で落ち合ったハンさんと、次の真珠庵へ。拝観料は本坊方丈とセットで2000円。大徳寺塔頭は、一寺ごとに拝観料をとる。

 京都の新聞記者時代、大学と神社仏閣担当だった司馬遼太郎が、街道シリーズ『大徳寺散歩』の中で、禅の修行よりも観光増収をめざす寺に苦言を呈していたのを思いだしました。

 「名刹や古刹が観光資源化してしまった今日、大徳寺だけは山内の一部をのぞいて、俗化をこばんでいる
 
 俗化してしまった「一部」とは、どの寺を言っているのかは分かりませんが、ただ、一観光客としては、お金さえ払えば物見高いだけの観光客にも、公開してくれるのはありがたいと思います。大徳寺の中にも観光には背を向けて、禅の修業だけを目指す寺もあるのです。

 法堂の狩野探幽「雲龍図」(撮影禁止ではなかったように思いましたが、フラッシュ禁止なので、撮影した天井はなんだかまっくらなだけ。なので絵葉書を買いました。この大徳寺法堂雲龍図は、鳴き龍として有名で、みな、かわるがわる雲龍図の下で拍手し、天井画が共鳴して鳴くかどうか確かめていました。拍手をじょうずにしないと共鳴しないみたい。
 私の拍手?あんまりいい響きじゃなかったみたいでした。


 法堂の84面襖絵も探幽作。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「フランソワ喫茶店」

2018-12-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181215
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(10)フランソワ喫茶店

 10月27日土曜日、河原町は大勢の人出でにぎわっていました。
 11月1日の南座改装オープンをひかえて、歌舞伎役者総勢70名という、かってない規模の「お練り」が行われるからです。

 東華菜館側から見た南座 


 1時間早く菊水に着いていれば2階の窓から、南座出発のところを見ることができたのですが、これもタイミング。兄は歌舞伎にまったく興味がなさそうなので、「お練りを見たい」とは言い出せず。なにせ、私はただのミーハー。「スター役者」を見たいだけで、歌舞伎座南座に通いつめるようなファンじゃありません。
 もっとも、お練りの時間帯だったら、ずいぶん前に予約を入れていなければ、菊水の席がなかったでしょう。

 菊水2階から南座を見る。お練りの興奮冷めやらぬ人々がまだ大勢残っています。


 四条河原町駅の出口で友人ハンさん母娘と、待ち合わせ。人ごみの中うまく巡り合うことができました。こういうときは、ケータイ電話をありがたく思います。
 京都の近代建築紹介というと出てくるフランソワ喫茶店でお茶しました。

<きょうの建物>フランソワ喫茶店


 1934(昭和9)年(1934年)に、四条小橋を南に少し下がった通りに、創業者立野正一が開店したカフェです。言論統制が厳しさを増してきた時世に抗して「自由に語り合えるカフェ」をめざしたそうで、戦時色つよい時代にも、画家・藤田嗣治、映画人・吉村公三郎、伊藤大輔、三隅研次、新藤兼人、演劇人・宇野重吉、滝沢修、フランス文学者・桑原武夫、矢内原伊作たちがフランソワのコーヒーを飲みながら語り合ったのだそうです。

 フランソワ店内




 フランソワ喫茶店は、2003年に国の登録有形文化財指定を受けました。文化財指定を受けた最初の喫茶店です。

<きょうのカフェ>チーズケーキとカフェラテ


 チーズケーキを食べながら、ふたりが見てきたお練りのスターたちの写真をみせてもらいました。
 松本白鸚、松本幸四郎、市川染五郎、海老蔵、獅童、勘九郎と子供たち、七之助、愛之助、中車、猿之助など、歌舞伎界の有名どころをうまく写真におさめていました。お練り最後の八坂神社の近くで見たそうです。
 写真を見ながら、「これ、だれだか知らない」というハンさんに、「あ、この人は尾上松也、若手の人気俳優だよ」などとミーハーファンらしく教える。

 ハンさんの写真を見るにつけ、27日のお練りを見なかったことが悔やまれます。お練りは10月27日だけだけど、同志社もヴォーリズ住宅も、今日でなくてもよかったのだから、ちゃんと計画立てて日程を作ればよかった。アントニオ兄も「いつでもヒマしてます」と言ってくれていたのだし。30日を同志社にして、27日はお練り見物を入れてもよかった。
 まあ、行き当たりバッ旅が、私の旅行だからしかたがない。

<きょうの出会い>
 1994年に中国で知り合った朋友ハンさんは、2018年1月から12月まで客員研究員として京都で研究生活をおくっています。
 ハンさんが上京したおり、3月9日に上野で娘息子とディナーを楽しみました。また、この夏に私の前の勤務先で行われた研究会にハンさんが参加したおり、私も教科書編集にちょこっとだけ携わった縁で、教材開発の成果発表の会に参加しました。私の参加目的は、ハンさんを先生方に紹介すること。ハンさんの研究に役立ちそうな先生を紹介できてよかったです。

 ハンさんの娘さんシンちゃんと会うのは10年ぶり。2009年に大連で会ったとき、シンちゃんはかわいい小学生でした。それが、背が高くすらりとした美人大学生になっていて、写真で成長ぶりを見てきたけれど、写真で見る以上にすてきな娘さんになっていました。

 ハンさんは、小学生のころからシンちゃんの大学進学を案じていました。薫陶の甲斐あって、昨年の高試(中国で大学進学を決める一発試験)で高得点を得て、シンちゃんは中国トップクラスの大学に入学。
 現在は、大学を休学して「日本滞在研究者の家族ビザ」を得て、京都国際交流会館で日本語を学んでいます。そして、奨学金を得て、2019年4月から京都市内の大学に留学することになっています。ほんとうに優秀な娘さんで、ハンさん自慢のシンちゃんです。

 シンちゃんは、日本にいる間の3ヶ月、来年からの留学に備えて、日本語の勉強のほか、日本舞踊、茶道などたくさんの習い事をしているそうです。歌舞伎のお練りを見るために南座まで出かけてきた来たのも、日本文化の勉強。11月2日夜はチケットをもらったので、ぎおん踊りを見る予定というし、私よりも京都体験が深いかもしれません。

<きょうの京わたし&ハンさんシンちゃん>


<つづく>
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ぽかぽか春庭「レストラン菊水」

2018-12-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181213
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(9)レストラン菊水

 10月27日、同志社大学見学を終え、次にアントニオ兄が案内してくださったのは、河原町のレストラン菊水です。

 菊水は、瓦せんべい屋だった奥村小次郎が、一念発起し、1916(大正5)年に西洋レストラン菊水館を創業したことから現在まで続く老舗です。創業100年。

 創業から10年後に、1926(大正15)年、念願の西洋館を建設しました。これが、現在のレストラン菊水河原町本店です。

<きょうの建物>
 上田工務店という地元京都の会社が設計・施工を担当したそうですが、レストランパンフレットには、建築についての説明はありません。



 菊水2階客室


<きょうの京ごはん>
 菊水の2階テーブルに座り、ふたりともyokoちゃんおすすめのエビフライと生ビール。


 2晩ともアントニオ兄にごちそうになり、ありがとうございました。
 兄とはまたの邂逅を約してわかれ、べつくちの待ち合わせに、にぎわう河原町へ。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「同志社大学の近代建築」

2018-12-11 00:00:01 | エッセイ、コラム

同志社のシンボルはクラーク記念館

20181211
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(8)同志社大学の近代建築

 10月28日午後は、同志社大学見学。
 関西に縁のない上州モン。「関関同立」も、ようは知らぬのだけれど、同志社大学だけは親しみがあります。上毛かるたに「平和の使い 新島襄」という札があり、群馬県の子どもは、みな新島襄(1843-1890)の名を覚えているからです。

 実は、新島襄は江戸の安中藩邸で生まれ、1864年、21歳のときアメリカに密航していきました。アメリカではアーモスト大学で「ボーイズビーアンビシャス」のクラーク博士らの教えを受け、日本人初の学士となりました。神学校も卒業して、1875年32歳で帰国しました。
 帰国したときは、群馬安中の両親の家へ。滞在は3週間だったそうです。
 群馬県で育ったわけではありませんが、ゆかりの人ですから、めでたく上毛かるた「へ」の項に採用)。

 新島襄は、1875(明治8)年に同志社英学校(のちに同志社大学)を開学。帰国後すぐに開学できたのは、山本覚馬(京都市顧問)らの助けがあったからです。翌年1876年に覚馬の妹八重と結婚。

 同志社大学は、近代建築の名所。レンガ造りの重要文化財が並んでいます。
 西門、正門でキャンパスマップを配布しているのですが、マップを手に入れないでぐるぐる歩いたので、同志社付属女子中学校のほうへ入ってしまったりしました。間違えて歩くのも自由散策の楽しさですが。

 アントニオ兄ご案内のおかげで、今出川キャンパス内のほとんどの建物を見ることができました。しかし、今回は新島襄八重夫妻の旧居へには行きませんでしたから、またの機会を楽しみに。

 西門から入ってすぐに目に入った「彰栄館」竣工年1884(明治17)年 設計:ダニエル・クロスビー・グリーン


 彰栄館のすぐそばに、礼拝堂 竣工年1886(明治19)年 設計:ダニエル・クロスビー・グリーン




 礼拝堂の中(挙式のリハーサル中と、思う)


 礼拝堂の設計は、アメリカンボード(アメリカ外国伝道委員会)の教会建築を手掛けてきたD・グリーン(Daniel Crosby Greene, 1843-1913)
 D・グリーンは、会衆派(日本基督組合教会)宣教師として同志社大学の教壇に立ち、同志社英学校の建物を設計しました。グリーンの設計図に基づき、施行したのは京都の大工たち。

 有終館も同じく、D・グリーンの設計。 竣工年1887(明治20)年  有終館は、同志社の初代図書館です。

 有終館
   

 ハリス理化学館 竣工年1886(明治19)年 設計:A・N・ハンセン


 クラーク記念館 竣工年1894(明治27) 設計:R.ゼールの設計

 
 クラーク記念館の階段


 啓明館 竣工年1915 設計:.Mヴォーリーズ 
 同志社の2代目図書館として建設され、現在は、人文科学研究所、同志社社史資料センター、施設部として利用されています。





 アーモスト館


 同志社女子大学栄光館 竣工1923 設計:武田五一  改修年1951ヴォーリズ社


 同志社女子大学ジェームズ館 竣工年1914 設計:武田五一


 ジェームズ館内部


<きょうの工芸>
 ジェームズ館の通風孔。たぶん1914年の作と思いますが、なにやら由緒正しき感じ。


 同志社大学も同志社女子大学も、オープンキャンパスの日があり、また、学生ガイドによるキャンパスツアーも実施されているということなので、チャンスがあれば、また同志社の近代建築群を見に来たいと思います。オープンキャンパスの日などで、中まで案内してもらえるとまた違う気分で建物を見ることができるでしょうから。

<きょうの京ごはん>
 同志社大学の学食。肉野菜炒め、ナス煮びたし、ごはん、トン汁。アントニオ兄分と2人前で1300円。兄にはこう宣言、「ランチをおごっておけば、晩御飯おごってもらえる、という夫の言に従う良き妻です」2日目も同じ手を使い、晩御飯おごってもらいました。


<きょうの出会い>


 彰栄館前の広場で、何やら楽しげな一団がいました。気の早いハロウィーンの仮装かと思って近づくと、イギリスからやってきた民俗ダンスの一団。出身の市の名前を伺ったのですが、メモなしでたちまちわすれました。
 おそらくは、イギリスの田舎に伝わり、メイデイ(5月祭)に踊られるというフォークダンス「ソードダンス(剣のおどり)」の類だろうと思います。



 伝統的な楽器の名前もうかがったけれど、忘れました。


<きょうの京わたし>
 ダンスときいて、足が痛いのに、ちょこっとだけ参加させてもらいました。剣に見立てた棒を打ち合わせます。


 通りすがりの上州もんも仲間にしていただき、イギリスからいらした一団のみなさま、ありがとう、楽しかったです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「駒井家住宅」

2018-12-09 00:00:01 | エッセイ、コラム

庭から見た駒井家

20181209
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(7)駒井家住宅

 ヴォーリス設計の東華菜館でご飯を食べた翌日は、ヴォーリズの住宅を見学しました。
 1927(昭和2)年に建てられた、京都市左京区北白川伊織町の駒井家住宅。京都大学教授だった駒井卓(1886-1972)と静江夫妻の住宅として、大正の終わりから昭和のはじめにかけて建設されました。1927年夫妻が入居。
 現在は、財団法人日本ナショナルトラストが、管理運営保護を行っています。

<きょうの建物> 
 道路から見た駒井家


 個人住宅ですから、静かな住宅街の中にあり、とてもわかりにくい場所でした。
 琵琶湖疏水分線(白川疎水)に沿った住宅街、なんとかたどり着き、本館、庭、温室、住宅の外観などを見て回りました。
 家は木造2階建て。30坪の母屋に、離れ、温室などがあります。アメリカンスパニッシュ様式を基調とし、切妻屋根は赤色桟煉瓦葺。

 外壁面はモルタルスタッコ仕上げ。
 モルタルスタッコとは。モルタルは、セメント(主原料は石灰=漆喰)と細かい砂と水を混ぜて練ったものをです。大きな砂を混ぜればコンクリート。建築についてわかっていない私は、モルタルとコンクリートがどちらもセメントを基本としたものとは知りませんでした。スタッコは、セメントに塗料を混ぜ、さらに大理石など骨材を混ぜたもの。

 駒井家平面図(駒井家見学配布資料より)


 駒井家南面(暖炉の煙突のように見えるのは、通気口。駒井家には暖炉は設置されていませんでした)

 1階サンルーム外側


 26日に見学した大山崎山荘を建てた加賀正太郎は、ニッカウヰスキーにも出資していました。ウヰスキー醸造に生涯をかけた竹鶴政孝(1894-1979)をモデルにした朝ドラ「マッサン」。妻エリーの、スコットランドの実家としてロケ地になったのが、北白川伊織町にある駒井家住宅でした。

 駒井静江とヴォーリス夫人一柳満喜子(1884-1969)は、神戸女学院の学友。満喜子の兄は、朝ドラ「あさがきた」のモデル広岡浅子の娘婿です。子爵家(元播磨小野藩主)令嬢の満喜子がヴォーリスと国際結婚しようとしたとき、周囲の強い反対があったのですが、浅子だけは賛成してくれたそうです。朝ドラつながりも、いろんな縁があるんですね。

 玄関外側


 玄関


 食事室


 邸内のピアノは、エリーが実家で弾いているシーンに使われたのだとか


 リビング


 リビングからサンルームを見る


 和室


 階段
  
 階段てすりのカーブ具合、いいですね。
  

キッチン(設備は現代のものですが、当初の大正末期の台所として最新の設備だったとか。夫妻にはお子さんはいませんでしたが、女中さんは3人くらいいたそうです)


 二階和室


 二階 博士愛用というロッキングチェア


 遺伝学実験のための温室(温室は文化財指定にはなっていませんが、博士にとっては大事な建物でした)

 温室内部(現在は観覧者の休憩用にもなっています)


 ベランダ


<きょうの庭>
 ベランダから庭を見る


 レストラン東華菜館の装飾は、客向けなのか、さまざまな意匠がこれでもかとくっついていましたが、駒井家はすっきりとした飾り気のなさ。学者が研究に没頭できるような雰囲気です。

 <きょうの工芸>
 レストラン東華菜館の装飾の派手なのに比べると、駒井家はすっきりとした飾り気のなさ。学者が研究に没頭できるような雰囲気です。

 家の装飾もスッキリしたもの
  

 1階から2階に物を上げ下げするときに使われた機械なのかもしれませんが、こうして残されていると、現代工芸のオブジェのような


 遺伝学と言われても、赤い花と白い花がどの割合で子孫を残すかの図といっしょに出ていたメンデルの顔、二重らせんのDNA写真といっしょのワトソン&クリックの顔しか浮かばない。駒井博士と言われても、京都大学の遺伝学学徒ならいざ知らず、ヴォーリズ住宅に興味を持つまで、私はまったく知りませんでした。

 遺族が、駒井博士の事績を後世に伝えたいと、土地家屋敷をナショナルトラストに寄付した甲斐あって、浅学春庭も、駒井卓博士は、動物遺伝学の研究をした人だということを覚えました。きっと世のため人のために役立った一生だったのだろうと思います。
 夫妻には子供がいなかったということなので、1972年に博士が、1973年に夫人が亡くなるまで、ふたりの静かな暮らしを支えた家、とても穏やかな気持ちになれるすてきな住まいでした。

<きょうの京わたし>


 駒井家の絵葉書1セットを買ったら、おまけとしてヴォーリズが設計を担当した駒井静江夫人の母校平安女学院のスケッチ絵葉書をもらいました。

 待ち合わせをしていた大阪のアントニオ兄は「ヴォーリズ住宅は近江八幡でたくさん見た」と、駒井家にはあまり心惹かれないようす。ちゃっちゃっと一回りしただけでしたので、先に来てゆっくり見ておいてよかったです。

 つぎは、兄のご案内に従って、同志社大学へ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東華菜館と先斗町」

2018-12-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181208
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(6)東華菜館と先斗町、河原町、菊水

 10月26日夕刻、アントニオ兄が案内してくださった東華菜館は、関西に数多くの教会や住宅を残したヴォーリズが設計した唯一のレストラン建築です。

 南座側から東華菜館を見る(撮影は10/27)



正面入り口ファサード



入り口ファサードの飾り。魚貝や果物が満載

 
 ヴォーリズ建築の説明はこちらに
http://www.tohkasaikan.com/information/vories.html

 エレベーターをあがって2階へ。稼働中のエレベーターとしては日本最古のものだそう。
 1924年米国で製造、輸入されたOTIS製。


 階段
  

 壁面や天井の装飾、ヴォーリスデザインの調度品などを見て回りたかったのですが、私がおのぼりさんとしてちょこまか写真を撮って回るのは、ご飯のために東華菜館に来ている兄には、うっとうしかったかも。ひとくチビールを飲んでは窓からパチリ、ひとくち中華を食べてはパチリ。食べるのは二の次で、うろうろ見て回る春庭、ごめんなさいです。落ち着いて食べるべきでしたね。でも、貧乏性だもんで、次にいつ来るともしれぬヴォーリズレストラン、見るほうが優先でした。

 天井


 レストラン客席


 客席から四条大橋を見る。鴨川対岸を眺めると、レストラン菊水と南座


 東華菜館から鴨川四条大橋付近をながめる


<きょうの京ごはん> 
 東華菜館の北京料理 アントニオ兄、ごちそうさまでした。


<きょうの京わたし>
 東華菜館の前で撮影したのは10月27日
 

 兄と翌日のヴォーリス住宅の見学を約束して別れた後、晩の先斗町をのんびりと散歩。

<きょうのひとり散歩>
 森鴎外の『高瀬舟』が往来した高瀬川。思ったよりも川幅が小さかった。

<
 江戸初期、豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって開鑿された高瀬川。舟入(船入)は荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所。ここは八番目の舟入。


 先斗町路地
  

 ついつい、♪富士の高嶺に 降る雪も 京都先斗町に 降る雪も 雪に変わりは ないじゃなし とけて流れりゃ 皆同じ♪という中学生のころ流行ったお座敷小唄を口ずさみたくなる。
 中学生のころは「雪に変わりはないじゃなし」だったら、ないことを否定しているのだから、「変わりはある」と思ったのですが、酔っぱらって歌うには、「あるじゃなし」という日本語より「ないじゃなし=ないったらないんだよ」のほうがいいんでしょうね。
 そして今は「先斗町」の「先」を「ぽん」と読むのは、どういうところからか、と思ってチェック。どうやら「ポルトガル語のカルタ用語で先端の意の「ポント」から」という説が有力らしいですが、こういうのは諸説芬々で確実なことはわからないのがおもしろいところ。

 中学生のころ先斗町って、どんなところだろうと思ってから、50余年。先斗町には似合わない68歳
 

<つづく> 
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