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ぽかぽか春庭「2021年6月目次」

2021-06-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20210629
ぽかぽか春庭2021年目次

0601 ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩早春~春(7)白川義員写真展永遠の in 東京写真美術館
0603 2021アート散歩早春~春(8)靉嘔展 in 三鷹市美術ギャラリー
0605 2021アート散歩早春~春(9)前田コレクション in 目黒区美術館
0606 2021アート散歩早春~春(10)田中一村展 in 千葉市美術館
0608 2021アート散歩早春~春(11)チェコとスロバキアの新しい絵本展 in 千葉市美術館
0610 2021アート散歩早春~春(12)所蔵品展 in千葉市美術館
0612 2021アート散歩早春~春(13)南薫造風展 in 東京ステーションギャラリー
0613 2021アート散歩早春~春(14)ミネアポリス美術館展 in サントリー美術館

0615 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記梅雨空(1)広川法子リサイタル
0617 2021二十一世紀日記梅空(2)どくだみとあじさいの庭

0619 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記春旅の思い出(1)豊橋
0620 2021二十一世紀日記春旅の思い出(2)クラシックホテルに泊まる
0622 2021二十一世紀日記春旅の思い出(3)竹島観光
0624 2021二十一世紀日記春旅の思い出(4)岡崎の味噌蔵
0625 2021二十一世紀日記春旅の思い出(5)岡崎城お花見
0627 2021二十一世紀日記春旅の思い出(6)豊川稲荷
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ぽかぽか春庭「豊川稲荷」

2021-06-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210627
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記春旅の思い出(5)豊川稲荷
 
 2021春旅の最終日。岡崎市東公園で旧本多邸を見学したあと、電車で移動。豊川稲荷に参拝しました。
 
 かわいいローカル電車
 
 豊川稲荷は神社ではなく、曹洞宗の寺院です。寺内に建てられていた鳥居も、明治初期の神仏分離で一度は撤去されたのですが、戦後残され保存されていた鳥居を復活させました。インドの女神吒枳尼真天(だきにしんてん)を稲荷と習合させたお寺です。
 交易や商売繁盛などにご利益があるとされ、室町期の開山以来、家康ほかの帰依を得て大寺院として栄えてきました。
 
 豊川駅から参道を歩き、「ここに来たからには稲荷寿司買って食べなきゃ」と、お昼ご飯の算段。参道には「お狐さま」の像が店ごとに飾られていて面白かったです。
 
 豊川稲荷 再建された鳥居。
 本殿
 
 狛犬ではなく狛狐
 
 大きな階段よっこらしょとのぼって参拝したものの、信仰心薄い私にはご利益薄いことはわかっているので、参拝はそうそうに稲荷寿司食べに行く。
 
  
 鰻が名物だというので、味噌うどんと鰻を食べて、帰路の新幹線の中で食べる分として稲荷寿司を買いました。

 
 
 蒲郡岡崎豊川の3泊4日旅。思いがけず出かけた旅行ですが、楽しく美味しくすごすことができました。食べ過ぎはいつもの旅と同じですが、今回はお花見も楽しんだ春の旅でした。
 
<おわり>
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ぽかぽか春庭「岡崎城お花見」 

2021-06-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
はな
20210613
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021春旅の思い出(5)岡崎城お花見
 
 岡崎味噌蔵見学を終えて、中岡崎から岡崎駅に戻りタクシーにのりましたが、岡崎公園での桜祭りの時期なので、交通規制があり、いつもの道が通れないからと遠回り。
 例年なら盛大な桜祭りが行われている時期だとのことでしたが、コロナのために、公園に出ている露店もいつもの2割ほどとか。しかし、それなりに人出はあって、人々は満開の花の下を歩き、花散歩を楽しんでいました。シートを敷いての飲食は今年はできないようです。
 
 岡崎ニューグランドホテルの「岡崎城ビュー」の部屋にチェックイン。部屋から岡崎城がよく見えます。ホテルの人に横浜のニューグランドホテルの系列かと聞いたのですが、なにも関係はないそう。
 荷物を部屋におき、岡崎公園へ。
 
 お堀にうつる桜も満開。
 
 岡崎城は復元ですが、古い堀の遺構が残っていました。
  
 
ライトアップされている岡崎城を見ながら晩御飯を食べました。
 
 晩御飯とデザート
 
 
 一泊して、岡崎城を見渡しながら朝ごはん
 
 朝ごはん
 
 朝食後は、岡崎観光のメイン旧本多邸見学と豊川稲荷参拝に出発です。
 
<つづく>
 
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ぽかぽか春庭「岡崎の味噌蔵」

2021-06-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210624

ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記春旅の思い出(4)岡崎の味噌蔵
 
 気に入ったテレビドラマのロケ地めぐりも旅の楽しみのひとつ。
 アガサクリスティ原作三谷幸喜脚色のドラマ『死との約束』のロケに使われた蒲郡クラシックホテルに2泊したあと、春旅3日目は、岡崎観光です。
 
 蒲郡と同じく、私は観光しようとは一度たりとも思ったことがなかった土地。娘が再放送の「純情きらり』を見て、「蒲郡の次、岡崎へ行ったら、ロケに使われた味噌蔵を見たい。見学コースがあるから」と、楽しみにしていました。
 
 蒲郡駅から岡崎乗り換え30分ほどで中岡崎駅につきました。
 
 ロケに使われた味噌蔵はふたつあり、駅から歩いて行く人はより近い「まるや」を見学することが多く、バスや車で行く人は駐車場が広い角九へ行く。私と娘は駅を降りると、まず「まるや」へ。
 
 
 見学開始時間まで、ショップで味噌飴や煎餅などを見て、見学帰りにどれをお土産に買おうしようか眺めて過ごしたり、味噌製造過程のビデオを見たり。
 
 まるやのショップで
 10人ほどの見学者がガイドさんに連れられて、見学コースへ。
 「純情きらり」のロケ地だったことは、今でも地元の誇り
 
 八丁味噌は、大きな樽にたくさんの石を積み上げて発酵させるのが特徴。できあがった味噌は黒い色になるが、それはうま味の色で、見た目ほどはしょっぱくない。石を積み上げる職人は熟練の腕を誇り、一人前になるまで10年は修行するそう。
 
 まるやの見学を終えて、私と娘はとなりの角九へ。こちらも重要文化財の建物です。 
 
 角九の食堂でランチタイム。味噌カツ、みそうどんなどを食べつつ、食堂から見える味噌樽を眺めました。
 海老、豚、鶏肉の味噌カツ
 
 食堂から眺める味噌樽
 
 天保15年の樽がみえました。
 味噌作りの様子を人形で再現しています
 
 八丁味噌通りを歩いて中岡崎へ戻りました。
  
 
 味噌味のお菓子などまるやと角九でいろいろ買い込み、娘は「純情きらり」の宮崎あおいと室井滋の手形が記念プレートになっているのを写真にとって大満足。わたしにとっては、思いがけず訪れた味噌蔵見学でしたが、楽しく過ごすことができました。
 
 八丁味噌通りで
 
 <つづく>
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ぽかぽか春庭「竹島観光」

2021-06-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
愛知県蒲郡竹島
 
20210622
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>春旅の思い出(3)竹島観光
 
 愛知県蒲郡竹島。一度も「行ってみよう」と思ったことのなかった観光地。思いがけず一日ゆったり観光することになりました。2021年3月の春旅。
 
 竹島は、愛知県の海辺の町、蒲郡の観光名所、、、、ですが、私は地理にうといため、関東以外の観光地情報がさっぱり頭に入っていませんでした。
 愛知県観光。愛知県は40年前に名古屋と犬山城と明治村を父と妹夫婦といっしょに訪れたことを思い出します。次の愛知県訪問は。一人旅の紅葉観光ツアーバスで足助町香嵐渓を訪れたのですが、バスで運ばれて紅葉がきれいだなあと思って、足助町というのが、どこにあったのかも記憶になかった。足助町、どこ?(地理音痴、すみません)
 足助町香嵐渓は豊田市だったのも、わかっていませんでした。豊田といえば自動車工場としか思っていなかった。
 
 たぶん、愛知県の観光旅行は、この香嵐渓以来です。
 イベント賞品で「2人でホテル2泊券」をもらい、蒲郡クラシックホテルに宿泊することにしたのはいいですが、蒲郡観光というと、「竹島」のほかはあまりない、という娘のリサーチ。
 
 建物見物が好きな私のために娘が最初に勧めてくれたのは、蒲郡クラシックホテル敷地内に立つ「海辺の文学館」です。
 「海辺の文学記念館」は、明治末期に竹島海岸に建てられた料理旅館常磐館の建物の趣きを再現した文学歴史記念館です。館内にはノーベル文学賞を受賞した川端康成、蒲郡市出身の宮城谷昌光や平野啓一郎の作品などを展示してあります。平野啓一郎が蒲郡出身とか、知らなかったです。
 
 海の文学館外観
 
 
 
 
 海の文学館。作家は常磐館にこもって執筆したという。
 
 縁側で一休み。執筆に疲れた文豪、という気分で。
 
 竹島は、蒲郡市のシンボルであり、長さ387メートルの橋で陸地と結ばれています。対岸から約400mしか離れていないのに、本土とは異なる独自の植物体系を持ち、その特異性から島全体が国の天然記念物に指定されています。
 島の中央部には、開運・安産・縁結びの神様を祀る「八百富神社」が鎮座。 御利益抜群のパワースポットだそう。 
 島の周囲には遊歩道が整備され、30分ほどで島を一周できると観光案内にあったのですが、神社まで階段を上っただけでくたびれてしまった私と娘は、ちょっと海辺にでただけで、一周はパス。
 
 橋から竹島を望む
 
 竹島の橋のたもとの海辺
 
 竹島の八百富神社参拝のあとは、竹島の公園に立つ藤原俊成の像に挨拶。俊成がこの地の国司に任じられた、というご縁があるそうです。
 
 地元観光協会の口上
 俊成卿が三河国司をつとめたのは、久安元年(1145)12月から同5年(1149)4月までの3年5カ月の期間でした。32歳から36歳までの間、藤原顕広となのっていたころです。俊成卿は、三河湾に面して温暖な気候の当地を大変好んだと伝えられます。当時クスノキなどが群生していた荒地の開発をおしすすめて、「竹谷荘」「蒲形荘」を開発し、蒲郡の礎を築きました。
 『吾妻鑑』という歴史書には、竹谷・蒲形荘を開発した人物として、俊成卿のお名前が記されています。
 
 私は、俊成が蒲郡の国司と言っても、どうせ遙任(ようにん:京にとどまり、年貢徴収の実入りだけ受け取る役人)だろうと思っていたのですが、歴史書『吾妻鏡』には、ちゃんと土地のためになる仕事もしていたということが書かれていたということなので、おぉ、定家パパはえらいな、と見直しました。
 
 蒲郡クラシックホテルには温泉がついていないので、となりのホテル竹島に出向いて、日帰り温泉入浴。温泉につかりながら竹島が見える、というホテル竹島の触れ込みだったのですが、あいにくの雨模様となってしまい、景色はほとんど見えませんでした。
 展望風呂弁天の湯(画像借り物)。竹島が見えたならこんな光景。
 
 温泉から竹島が見えませんでしたので、せめて弁天の湯に浸かる弁天様のような美女入浴図をどうぞ。
 
 温泉を出たあと、娘は「竹島クラフトセンター」という工房で、三河木綿の手織り体験に挑戦。
 
 三河木綿のわた
 
 さまざまな色に染められた木綿糸
 
 織機。明治時代の織機、江戸時代の織機が展示されていました。
 
 糸つむぎ機を動かして見せてくれた織物指導のスズキ先生
  
 織物に挑戦する娘を指導してくださるスズキ先生
 
 スズキ先生が体験当日にUPしたブログ。春庭と同じgooブログだった、というご縁も。
  2021年3月25日のブログ記事一覧-TCC・竹島クラフトセンター TAKE-LOG 竹ログ (goo.ne.jp)
 https://blog.goo.ne.jp/tcc-suzuki/d/20210325
 
 母娘の旅姿が、思いがけずその日のうちにスズキ先生のブログに記録されることとなり、ブログUPが遅い春庭は恐縮です。
 
 竹島以外何もないと思った蒲郡観光ですが、私は温泉でのんびりしたし、娘は大好きな手作りできれいな色のコースターができあがり、大満足の蒲郡観光となりました。
 スズキ先生、飛び込みの体験希望者にご指導くださり、ありがとうございました。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「蒲郡クラシックホテルに泊まる」

2021-06-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210620
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記春旅の思い出(2)クラシックホテルに泊まる
 
 春旅、豊橋からJR在来線快速12分で蒲郡へ。
 蒲郡駅
 
 
 16時、クラシックホテルにチェックイン。今回の旅の主な目的は「クラシックホテルに泊まる」です。
 
 
 1階ロビー 
 
 2階テラス
 
 クラシックホテル前身の料亭常盤館時代から残されている六角堂。現在はステーキハウスです。
 
 娘は、この地の特産というミカンジュースを私はどこに行っても生ビール。
 こんな食材を焼いていきますとエビ魚、いか。
 
 
 
 
 フランベ・パフォーマンスは、シェフの得意技。
 
 食事を終えて部屋に戻るころは、すっかり暗くなっていました。ライトアップのホテルもすてき。
 
 2泊目の晩御飯は、蒲郡クラシックホテルの古建築、料亭「竹島」でいただきました。すでに暗くなっていたので、ゆがみの残る古いガラス窓からの庭の眺めながら食べる楽しみはなくなりましたが、食事はことのほかおいしかったです。広い部屋に一組だけの客。おもてなしの作法もこれまでで最高の丁寧さで、安食堂での食事に慣れている娘と私には、「一生一度の」という感じ。
 前菜と焼き物
 
 山芋すり流しと汁物
 
 
 お造りとエビさざえ
 
 和風ステーキ、 炊き込みご飯と味噌汁
  
 
 
 朝ごはんは、クラシカルな食堂で。
 洋食セット
 
 
 2泊目朝食は和定食
 
 ホテルの庭で
 
 クラシックホテルに2泊する蒲郡の旅。美味しい食事と竹島の眺望を楽しむことができました。
 
 
 2階テラスから竹島を望む
 
 次回、竹島観光レポート。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「春旅の思い出ーその1豊橋」

2021-06-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
 
20210619
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記春旅の思い出(1)豊橋
 
 京都奈良、沖縄という「観光立県」の地ならいざ知らず、まったくもって観光の行き先とは思っていなかった場所にでかける機会、あとどれくらいあることでしょう。
 思いも掛けず、豊橋市に出かけ、蒲郡に宿泊しました。
 
 蒲郡クラシックホテルに宿泊したのは、前回の「思いがけず出かけた掛川」のおまけ。掛川グランドホテルで、イベント参加の景品としてホテル宿泊券をいただいたからです。
 せっかくもらったのだから、リストに載っているホテルの中から、「近代建築史に残る建物」であるクラシックホテルを選ぼう、ということで、蒲郡クラシックホテルに2泊しました。
 3月21日に緊急事態宣言解除になったあと23日から3泊4日の旅。行くことができてよかったです。
 
 品川駅に30分前に着くはずが、人身事故があったとのことで急遽路線を変えたため、8時40分発新幹線ひかりに乗り込めたのは、発車5分前というぎりぎりの時間でした。乗ってしまえば、絶好のお天気の中新幹線は突っ走り、私と娘は、はじめて、車中から富士山をくっきりと見ることができました。これまで新幹線往復はいつもお天気が悪かったのです。
 
 富士山見えた見えたと大喜びしている間に10時、豊橋着。豊橋は、全国に20ほど残っている市電が走っている町。市電にのって豊橋市役所前まで行きました。
 娘と乗った豊橋市電
 
 すれ違ったのは、豊橋名物ちくわのラッピング電車
 
 全国に残る「市電に乗る旅」も旅のテーマにいいね、と娘と話しました。東京の都電は早稲田から三ノ輪までの路線のうち、道路に出るのは一部だけで、ほとんどは専用軌道を通りますが、豊橋市電はほとんどが一般道路を通って、豊橋市役所前へ。
 
 豊橋公園は、ちょうど桜が満開になっていました。
 
 
 豊橋公園内に復元された吉田城
 
 豊橋市役所展望室から見た豊橋市内
 
 豊橋市美術館常設展観覧⇒豊橋市役所展望室で市内一望⇒吉田城見物と、回る予定が、美術館で時間がかかりすぎ、吉田城見物は割愛、外観を見ただけで天守閣には登りませんでした。
 美術館カフェで昼ご飯を食べようとしたら、スタッフ不足だったのか、1時間半も待たされる羽目になり、すっかり疲れてしまったのです。90分も待つことが最初から分かっていれば、先に吉田城を見たのに、と娘と悔しがりましたが、注文をすませてから「少々お時間をいただきます」というのが90分もかかると思っていなかったので。
 
 美術館の常設展で心惹かれた絵はなかったのですが、2020年前半の朝ドラ、ヒロイン音(モデルは古関きん子)のふるさとが豊橋出身ということで、市内をあげて「エール」押し。
 主人公のパネルと写真を撮りました。 
 
 
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ぽかぽか春庭「どくだみとあじさいの庭」

2021-06-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210617
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記梅空(2)どくだみとあじさいの庭

 私が現在住んでいる夫の両親が建てた家は、庭はほったらかしの「勝手に適当に植わっている」という存在で、猫の額ほどの庭に、カエデの木が一本、ツツジが数本。すみっこに茗荷。
 カエデはあまり美しい赤にはならず、赤茶色の枯れ色になる。ツツジは年によって、花がぎっしり咲くときと、ちらほら申し訳程度に咲く年と。ことしはちらほらで終わりました。要するにあまりパッとしない庭です。

 どくだみは、葉を乾燥させてお茶にするため、姑が植えたもので、今では猫の額の一面に蔓延っています。
 健康オタクだった姑は、タマネギの皮などいろいろなお茶を試していました。2015年暮れに姑が90歳で亡くなって、2019年夏に私が住むようになり、私も姑に倣って2019年にはドクダミ茶を作りました。作ったというほどのことでもなく、葉を洗って新聞紙の上で乾かしただけです。
 たまに飲んできたのがようやく飲みきりました。

 2020年夏のドクダミ茶は作りませんでした。年に2回、夫が依頼してきた庭師さんが、私がドクダミを取り入れる前に全部始末したからです。庭の手入れをする人にとっては、ドクダミは雑草です。

 一面のドクダミ


 2021年は、5月末にドクダミを取り入れて、一部を干すことができました。一部干しただけで、疲れたからあとはあとで、と思ってほったらかしていたら、だめになってしまいました。

 ドクダミのほか、イヤにになるほど咲くのが紫陽花。北側の玄関前には白と紫、南側の庭には青と紫。土壌のせいだと思うけれど赤やピンクは咲きません。
 玄関前の紫陽花はやたら大きく、ぎっしり咲きます。

、花の直径25cmもあります。


 玄関前


 庭の紫陽花は、玄関前のほど花が大きくありませんが、色が深くてすきです。
 

 干せたのは一部だけ。


 干したドクダミはお茶に。ウイスキーに入れた花は何に使うかまだわかりません。そろそろ茗荷を引っこ抜こうかと思います。
  
 2020年のステイホーム中にもくろんだ庭の畑化計画は、「野菜作り」という本を2冊買っただけで、わずか1ヶ月で頓挫してしまいました。そのとき植えた藜(アカザ)は、虫食いだらけの姿になって勝手に生えています。何本かは完全に丸坊主。よくもこんなに完璧に食べ尽くすもんだというくらいきれいに葉っぱがなくなっています。虫が羽化して飛んでいった後に生えたらしい幾本かのアカザを茹でて食べました。

 庭の畑化、道なかばにしてはるか遠し。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「第12回広川法子リサイタル」

2021-06-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


20210612
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2021二十一世紀日記梅雨空(1)広川法子リサイタル

 ソプラノ歌手広川法子さんは、2年に1度、リサイタルを開催してきました。2001年の第1回目から続けてきたリサイタル、11回目の2019年から2年たって、2021年は第12回目です。

 広川法子さんは、武蔵野音楽大学を卒業。理解あるご主人の支えを得て、結婚後も音楽の仕事を続けました。日本女子体育大学非常勤講師などを経て、後進の指導を続け、歌手として活動してきました。
 
 2021年6月5日のリサイタル「広川法子 ソプラノリサイタル 愛の調べ ~ 水無月によせて」
 
 高野京子さんのピアノ伴奏によって以下の曲を歌唱。
 第一部
・歌曲 作曲:信長貴富 作詞 :寺山修司
・桔梗むらさき 作曲:加賀清孝 作詞:大島冨佐子: 
・くちなし 作曲:高田三郎  作詞:高野喜久雄 
・はんげしょう(半夏生) 作曲:和泉耕二 作詞:野呂 野呂昶 
・かたくりの花 作曲:和泉耕二 作詞:村瀬保子
・アヴェ・マリア 作曲:S・カッチーニ  
・私の愛の日々 作曲:S・ドナウディ  作詞:A・ドナウディ 
・禁じられた歌 作曲:ガスタルドン 作詞 :F・フロック 
第2部
・小さな空 作曲作詞:武満徹
・翼    作曲作詞:武満徹 
・今日も一つ~日日草  作曲:前田佳世子 作詞 :星野富弘
・しだれ桜 作曲:朝岡真木子 作詞:岡崎カズヱ 
・追憶の風 作曲:朝岡真木子 作詞 :木下宣子 

 アンコール曲として、「蘇州夜曲」とイタリア歌曲が歌われておひらきになりました。いっしょに聞いていた同僚のひとりが蘇州出身者で、その友人は河南省出身ながら、蘇州夜曲が大好きだと話していました。

 広川紀子さんの歌唱は、歌詞への思いがとてもていねいで、詩のことばが心にしみわたるような歌いぶりでした。たとえば、「半夏生」のなかだったと思いますが、「私は、ノモンハンの生き残りだ」ということばが出てきました。このことばひとつで、私の胸の中に、ノモンハンの悲惨な戦闘や生き残った人のつらい戦後が伝わりました。

星野富弘「今日もひとつ~日日草」
今日も一つ 悲しいことがあった
今日もまた一つ うれしいことがあった
笑ったり 泣いたり 望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数えきれないほど沢山の
平凡なことがあった
 
 こんなことばの一粒一粒が心の中に落ちてきてきらめきます。たくさんの平凡な毎日のなか、ソプラノの歌を聴くことも、愛したり憎んだり、泣いたり笑ったり、そんなふうにこれからも暮らしていきたいです。
 広川法子先生、すてきな歌声をありがとうございました。 

 素敵なドレスの法子先生の隣に立つのは気が引けたけれど。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ミネアポリス美術館展 in サントリー美術館」

2021-06-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20210613
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩春(13)ミネアポリス美術館展 in サントリー美術館

 4月14日にサントリー美術館で「ミネアポリス美術館展」が始まって10日後には3度目の緊急事態宣言発出、美術館は休館してしまいました。会期は6月27日まで。グズグズしていないでさっさと見ておけば良かったと後悔しましたが、入場予約が必要な東博「鳥獣戯画展」を見ることを優先したため、サントリーは後回しにしてしまい、臨時休館になりました。

 5月31日の緊急事態宣言の期限は6月20日まで延長されたのですが、デパートや映画館美術館の制限は緩くなりました。サントリー美術館も6月2日から再オープンとなったので、さっそく観覧してきました。


 

 サントリー美術館口上
 アメリカ中西部ミネソタ州最大の都市ミネアポリスに設立されたミネアポリス美術館(Minneapolis Institute of Art 通称Mia〈ミア〉)は、1883年にミネアポリスの市民や実業家が美術協会を設立したことに始まります。現在では、世界各地の約9万点を超える美術作品を所蔵しており、そのうち、日本絵のコレクションは、約2500点の浮世絵をはじめ、質・量ともに国際的にも高い評価を得ています。近年でも在米の美術愛好家から多くの日本絵画・工芸が寄贈されるなど、今なお進化し続けるコレクションです。
 本展は、Miaの日本美術コレクションの中から、中世から近代にいたる日本絵画の変遷を選りすぐりの優品でご紹介します。水墨画・狩野派・やまと絵・琳派・浮世絵・文人画(南画)・奇想派・近代絵画というように、江戸絵画を中心に日本絵画史の主要ジャンルをほぼ網羅するラインナップで、初の里帰り作品を含む貴重な機会です。展示室を訪れれば、きっとイチオシの絵師〈推し絵師〉に出会えるでしょう。時空を超えて一堂に集った人気絵師たちの華やかな競演をぜひご覧ください。

 サントリーは、自館所蔵の展示では撮影自由の太っ腹を見せてきてありがたかった。しかし、今回はミネアポリスからの借り受け品なので撮影できない、と思って来場しました。しかしMiaも太っ腹、全作品撮影OKでした。
 欧米の欧米の美術館博物館では所蔵品のデジタル展示をダウンロードご自由に、にしているところも多く、来館して撮影することもOKの措置が執られています。日本の美術館博物館も見習ってほしいです。

 サントリー美術館 展示室内


 Mia所蔵のうち90点の展示構成は以下の通り。
第1章: 水墨画
第2章: 狩野派の時代
第3章: やまと絵 ―景物画と物語絵―
第4章: 琳派
第5章: 浮世絵
第6章: 日本の文人画〈南画〉

第1章: 水墨画
 安土桃山時代の絵師、私が知っていた人は海北友松くらいで、龍虎図屏風の山田道安も藝愛もこれまで名前と絵を結びつけて見たことありませんでした。明治や戦後の混乱期に、国民が知らぬ間に海外流出してしまった国宝的な作品も多かったのだろうなあと思いつつ、今回初めてじっくり見ることができました。

 山田道安「龍虎図屏風」


 藝愛「粟に雀図」16世紀
 国の代表的な穀物は稲であり、室町時代には粟も稗も「雑穀」扱いであり、「粟に雀」という画題は、鄙びた興趣の絵であったと思われます。通人が茶室の床にかけてワビサビ味わうような。
 粟が実って頭を垂れている下で遊ぶ雀たちの姿、生命力が野趣の中にあふれ、しかも品がよい。藝愛は、来歴不祥の謎の絵師です。こうして作品が里帰りしたのをきっかけに、藝愛の研究も進んでいくだろうと期待されます。

 藝愛「粟に雀図」



第2章: 狩野派の時代

 安土桃山時代後期から江戸時代、狩野派は最大の絵師集団でした。様式を確立し、一家一族を中心に弟子も含め武家屋敷や寺院の中を襖絵屏風絵で飾りました。

 伝・狩野山楽「四季耕作図」(旧・大覚寺正寝殿襖絵16面のうち8面v17世紀) 田起しから田植え、稲刈りなど、四季折々の田仕事を描いています。



 清原雪信「飛天図」
  

 狩野山雪「群仙図襖」1646


第3章: やまと絵 ―景物画と物語絵―

 西行物語図屏風 17世紀


 伝・土佐光吉 源氏物語図「胡蝶」17世紀

 武蔵野図屏風


第4章: 琳派
 
 酒井抱一「源氏物語秋好中宮」19世紀
 

第5章: 浮世絵 

 海外流出の多かった浮世絵。今回初めて目にした絵もたくさんありました。

 鈴木春信「見立渡辺綱と茨木童子」


 見立というのは、ある人物や物を、他のものに見立てて描くこと。この春信の絵では、のれんに白く「いはらきや」と変体仮名で染めぬかれ、遊郭の店先に立つ遊女と客が描かれています。遊女が先をつかんでいる傘には、渡辺綱の家紋が書いてあります。単眼鏡で見ると家紋がよくわかりましたが、江戸で浮世絵を楽しんだ人々は、家紋をみただけで、この客は渡辺綱に見立てられているのだとわかったのでしょう。遊女は茨木童子に見立てられています。茨木童子は酒呑童子のけらい。美少年であったために多くの女子の心をまどわし、その罪ゆえ鬼と化してしまいました。鬼退治の渡辺の綱に腕を切り落とされてしまった、という伝説を客と遊女のかけひきに見立てています。

 歌川豊広「鴨川納涼図」19世紀


 溪斎英泉「江戸不忍弁天より東叡山ヲ見ル図」 


第6章: 日本の文人画〈南画)

第7章: 画壇の革新者たち
 曾我蕭白「群鶴図屏風」19世紀


展示室内 

 伊藤若冲「群鶏図屏風」19世紀


  伊藤若冲「旭日老松図」

-せ
第8章: 幕末から近代へ

 狩野芳崖「巨鷲図」


 渡辺省亭「紫式部図」

 楽しみにしていた東京藝大での「渡辺省亭展」は、緊急事態臨時休館している間に会期が延長なしに終了し、見ることができませんでした。渡辺省亭は、赤坂迎賓館の七宝花鳥図の原画を描いた画家です。ミネアポリス展で1点だけでも見ることができて、よかった。

 ミネアポリス美術館所蔵の日本画の数々、里帰り展が無事観覧できました。これからもう一度見ることができるかどうかわからない名画、コロナ禍の中、開催準備を続けて、こうして観覧させてくださったたくさんの関係者に感謝したいです。
 社会生活に不可欠のエッセンシャルワーク(政府は、医療関係や介護関係など生活に欠かせない仕事を認定しています)については、みな必要を認識しています。しかし、ともすれば美術館も映画も、「不要不急だ」という見方をされることも。でも、私たちは、食べて寝ているだけが生活ではない。心身を健康に保つためには、心に栄養をあたえなければ、心が干からびてしまう。

 エッセンシャルワークであれ、不要不急にみえる仕事であれ、ひとりひとりがこの時期にそれぞれの持ち場でけんめいに仕事をしているのです。
 がんばれ働く人々!
 ありがとう、働いている人の心を支えてくれる人々。
 
<おわり>
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ぽかぽか春庭「南薫造風展 in 東京ステーションギャラリー」

2021-06-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
 
20210606
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩春(12)南薫造風展 in 東京ステーションギャラリー
 
 3月31日、バスに乗って東京駅へ行きました。
 東京タワーと桜という絵になる光景を見たいと思って。しかし、今年の桜は早かったため、3月末にはすでに桜は散り敷き、東京タワー周りの芝公園でも日比谷公園でも見ること能わず、東京駅へ。
 駅前広場は行きかう人も少なく、暑いくらいの日差し。
 駅前で娘と「東京オリンピックまでのカウントダウン」のディスプレイと写真を撮りました。
 
 東京駅へ来たのは。娘が東京ステーションギャラリーのチケットに応募して、「東京都内で5名様」という希少当選者になった、というので、東京駅で待ち合わせたのです。
 「没後70年南薫造」、
 会期、2021年2月20日(土)〜2021年4月11日(日) 
 
 娘は「応募したのに、展示されている南薫造のこと、はじめて聞いた」というので、事前レクチャー。美術教科書などに、明治期洋画家のはしりとして紹介されています。といっても、私も知っていることは教科書の紹介に出ていたこと程度。近代美術館で何度か「6月の日」などを見たことはあるのですが、南の作品をまとめて見るのは初めてです。 
 
ステーションギャラリーの口上
 東京ステーションギャラリーでは2012年の再開館以来、一貫して近代洋画の展覧会の開催を続けてきました。それは多くの優れた洋画家たちの業績が忘れられるのを恐れるからであり、優れた美術が、たとえいま流行りではなかったとしても、人の心を揺り動かすものであることを信じるからです。
 南薫造(1883-1950)、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家です。若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
 本展は、文展・帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。
 
 私は、2月に竹橋の近代美術館を訪れたときも、南の「6月の日」を見てきましたし、好きな画家の一人です。
 ステーションギャラリーの口上によれば、出身地の広島で開催された大規模な回顧展のほかには南薫造の回顧展はこれまでなかったと。
 娘がチケット応募してくれて、思いがけず南の作品をまとめて見る機会となりました。没後70年というと、著作権は切れているのですが、回顧展ではあちこちの美術館からの借り集めですから、美術館には所有権があり写真撮影は許可されていませんでした。「6月の日」は、近代美術館所蔵ですから、近代美術館に展示されているときは、撮影自由です。
 
 南薫造「6月の日」
 
 写真撮れないので、図録を買おうかどうか迷いましたが、娘のすすめで、帰りにショップによって、絵ハガキ30枚セットというのを買いました。その中に娘が気に入った作品がなかったのが残念ですが、南薫造の代表作の絵ハガキ、順次青い鳥さんに送り届ける楽しみがあります。
 
 娘が一番気にいった「すまり星」(1921年、東京藝術大学 )は、絵ハガキ30枚のなかには入っていませんでした。
 
 
 個人蔵の作品はもちろん初めて見るのですが、公的な美術館の所蔵でも、呉市美術館とか見にいけない所にあると、近くの美術館で見ることができ、ありがたいなあと思います。混み合う電車での通勤とか物価の高さとか、悪いこともいっぱいあるけれど、気軽に低料金で見ることのできる美術館がたくさんあるの、は東京に住む利点のひとつ。
 
 「生家の近く」(1947年頃、個人蔵 )
 
 南は、東京美術学校で黒田清輝の指導を受けた後、1907(明治40)にロンドンへ留学。日本からの画学生が向かう油絵のパリではなく、水彩画のよい作品があるロンドンに惹かれたのです。
 
 「ロンドンの裏庭」(1907年 広島県立美術館 )
 
 「少女」(1909イギリス滞在中の作品)
 
 帰国後は、東京美術学校教授などで後進の指導にあたり、戦時中はふるさとに疎開。東京に戻ることなく、故郷呉市でなくなりました。
 水彩、版画作品も、たくさん展示されていました。
 
 「庭」1947 家族をモデルにした作品。
 
 
展示室内
 
 
 ステーションギャラリーを訪れる楽しみのひとつは、東京駅開業当時100年前のレンガを見ることができることです。
 
 東京五輪までのカウントダウン。開催されるんでしょうか。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「コレクション展 in 千葉美術館」

2021-06-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

20100529

-ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩早春~春(7)所蔵品展 in千葉市美術館

 千葉市美術館は、地元にゆかりの画家、とくに日本画家の作品を重点的に収集してきました。田中一村も20年ほど千葉に住んだゆかりの画家です。

 常設展には、一村に関わる画家の作品などが展示されていました。

 常設展示室の入り口最初の作品は

 「椿」加藤栄一(1916-1996)

 

 北斎も広重もいい作品が展示されていましたが、千葉市美術館ではじめて出会った作品がありました。娘とどの作品が一番気に入ったか知らせ合ったら、ふたりとも同じでした。始めて見たヘレン・ハイド 

 「内緒」1909 ヘレン・ハイド(1868-1919)

 

 ハイドはニューヨーク州リマに生まれ、1899(明治32)年に来日。日本の母子の姿に魅せられ、木版画に描きました。

 「かたこと」1908

  これまで、御雇外国人の事跡についてや、絵画の分野でもフェノロサなどのことはあれこれ知る機会がありましたが、日本にやってきてこのような母と子の愛情あふれる姿を描いたアメリカ人女性画家がいたことを知りませんでした。娘と「いい絵だね」と語り合いました。

 幕末明治に来日した人にとって、日本の母と子の愛情表現は、特別魅力ある画材だったとみえます。

「母と子」1904(エッチング) エミール・オルリク(1870-1932)

 

 オルリクはプラハ生まれ。日本の浮世絵を学ぶために来日しました。

 子どもに外を見せてやっている母親の姿は、現在でも電車の中でよく見かける光景です。オルリクが描いたのも明治時代の電車の中でしょうか。

 私は、今でも「乗り鉄」のひとり。電車の中から外を眺め、外の景色が移り変わっていくのを見るのが大好きです。

 千葉市美術館へのアクセス、千葉駅からバスに乗るのが東京から行くいちばん乗り換えの少ない路線なのですが、私と娘は千葉市美術館に一番近い駅モノレール葭川公園駅から歩くことにしました。何度も乗り換えてたいへんでしたが、どうしてもモノレールに乗りたかったのです。

 上野動物園内の懸垂式モノレールが廃止になって以来、「モノレール、もう一度乗っておきたかった」と娘が言うので、「千葉市にはぶら下がりモノレールがあるから、乗りに行ってみよう」と誘っていたのです。 千葉市モノレールは、懸垂式での営業運転区間が世界一の長さになり、ギネスブックに掲載されています。

 千葉港駅から葭川公園駅まで、揺れるモノレールに乗車。

 

 オルリクが描いたのと同じように若い母親だった私と幼かった娘も電車の外の眺めを楽しんだのですが、今や古稀すぎた老母とアラフォーになった老嬢の娘。ま、楽しい一日でしたから、よしとしましょう。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「チェコとスロバキアの新しい絵本 in 千葉美術館」

2021-06-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210516

ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩春(6)チェコとスロバキアの新しい絵本展 in 千葉市美術館

 幼い頃の楽しかった思いは、一生の宝です。

 親に読んでもらったり、字が読めるようになってから絵に導かれながら夢中でページをめくった絵本。いろいろな思い出があります。

 「田中一村展」と同時開催の千葉市美術館の展示は「プラチスラバ世界絵本展。

 千葉市美術館の口上

 プラチスラバ(略称BIB=Biennial of Illustrations Bratislava)は、スロバキア共和国の首都ブラチスラバで2年ごとに開催される、世界最大規模の絵本原画コンクールです。

 本展覧会では、開催国であるスロバキア共和国と、隣国であるチェコ共和国の作家による絵本原画をご覧いただくほか、201910月から翌年1月にかけて現地で開催された第27回展(BIB 2019)の中から、各国の作家による受賞作品をパネル展示にて紹介いたしますもとは一つの国だったスロバキアとチェコの両国は、2020年、日本との交流100周年を迎えました。それを記念して、両国の新しい作家に注目し、原画作品のほか、多彩な絵本の数々を展示いたします。

 

 展示室内

 

 

 

  様々なイラストレーター、画家の絵本がいろい展示されていました。

 

ヴラジミール・クラール《鳥の伝説》2013年スロバキア

 

 

 原画の展示のほか、絵本を見たい人は図書室に絵本の展示があり、見ることができると案内があったのですが、6時閉館なので、図書館まで行く時間がありませんでした。

  葭川公園駅からモノレールに乗って帰宅。 

<つづく

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ぽかぽか春庭「田中一村」

2021-06-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

 田中一村展ポスター

20210315
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩早春~春(5)田中一村展 in 千葉市美術館

 「田中一村展」が1月4日に千葉美術館で始まったとき、1月3日に「ぐるっとパス」の有効期限が切れたところでした。もう一度ぐるっとパスを買うかどうか思案した結果、買わないことに決め、1月5日にはサントリー美術館に出かけたのでした。年間パスが利用できたので。

 県境またいでのお出かけになりますが、田中一村展はやっぱり見ておきたいので、会期が2月28日に終わる前にと出かけました。会期が終わる4日前の平日。高齢女性たちが長い列を作っていました。「バーさんばっかり」と言うと、娘に「おまえもナー」と、返される。

 係員によると、土日はこんなものじゃない混雑だった、ということです。

 日曜美術館などで展覧会が紹介されると、どっと見にいく人が増えるのはいたしかたない。みな、「テレビで見た有名な画家」の絵が見たくて集まる。田中一村(1908-1977)は、生前はまったくの無名。それが死後、にわかに人気画家となったのです。

 50歳という年に、それまでの一切を捨てて奄美の島に移住した田中一村。染め物職人として糊口をしのぎつつ絵を描き続け、島でわずかな家財と作品を残して亡くなりました。

 奄美大島に残された一村の住まい(家というより小屋)画像借り物

 不遇の画家の一周忌に遺作展が島で開催され、それが地方新聞の記事になったことからNHKが取り上げました。たちまち人気沸騰。パリのしがらみを捨てて南の島へ移住したゴーギャンを彷彿させることから、「日本のゴーギャン」という惹句により人気を定着させました。

 南の島の風景が人々を引きつけました。

 「奄美の海」1975

 日本画、とりわけ千葉にゆかりの作家作品を収集の要としてきた千葉美術館では、奄美に移住するまで長年千葉に住んでいた田中の作品を多数収集してきました。2010年の田中一村展には、多くの観覧者を集めました。

 2010年と言えば、出講先のひとつが千葉市だったにもかかわらず、ひとつ先の駅まで出かける余裕を持たず、私は2010年の一村展を見逃してしまったのです。2010年の10月までに博士論文を完成させなければならなかったため、ほかのことはすべて封印したのです。

 2020年に、新年1月5日から田中一村展が開催されることを知り、絶対に見に行こうと思っていたら、緊急事態宣言が出ました。都外へ出ることをためらっているうちに会期終了が迫り、ええいっと出かけました。会期終了5日前。思った以上に混んでいて、1月5日か6日に来ればよかったと後悔。ゆったり見ることができたのは、入館締め切り5時半近くになってから。閉館の6時までは、展示室の観覧者は私と娘のほかはわずか、といういつもの美術館観覧ができました。

 展示室内

 一村の支援者だった川村家から、作品や遺品の寄贈を受けた新収蔵を含め、一村7歳の「神童」時代の作品、支援者のために日傘や帯に描いた絵など、一村の子ども時代から亡くなるまでの画業全体を観覧できました。

 帯に描かれた一村の絵

 千葉美術館の口上。

 田中一村(1908-1977)は、千葉市に20年住み、50代になって奄美大島に移住し亜熱帯の花鳥や風土を題材にした独特の日本画を描くも、生前それらの作品を公表する機会もなく無名のまま没しました。没後ブームのようにして全国に知られるようになったこの日本画家について、作品の基礎的な調査に立ち返り、画家の新たな全体像を示して大きな反響のあった「田中一村 新たなる全貌」展(2010年、千葉市美術館ほか)から10年。この間に千葉市美術館に収蔵された田中一村の作品は寄託を含めて100点を超え、2018年度には、一村の最大の支援者であった川村家より、残る作品・資料の寄贈等を受けました。本展はそれらの総てを初めて一堂に展示し、画家の生涯の未知の側面を探ろうとするものです

 チケットは、チェコスロバキア絵本展との共通券が1000円。券の絵は絵本展のものしかなく、一村の絵のチケットが欲しければ一村展の単独展のみだという。共通券にも一村の絵が欲しかったです。一村の絵ハガキは買うつもりでいましたが、チケット買ったときは図録は我慢、という「観覧の掟」には背き、図録購入。

 一村展図録の表紙は、ポスターと同じ代表作の「アダンの海」1966

 図版で見たときはわかりませんでしたが、実作をよおく眺めると、海辺の砂にキラキラした銀砂子が撒かれていて、近づくと海辺のきらめきが奄美の日の光を感じさせてくれました。

 図録裏は、「夕日」1941~42年ごろ 

 展示は5章で校正されていました。

第1章若き南画家の活躍 

娘が一番気に入った田中一村の絵は、神童と呼ばれた7歳のころの絵でした。改名するまでは父稲邨(とうそん)が名付けた号米邨(べいそん)を名乗っていました。

「つゆ草にコオロギ」1921夏。米邨7歳頃

 「葉菖蒲とヨモギ」1930 22歳頃

 屏風の右隻いっぱいにツバキが描かれた「椿図屏風」1931

「浅き春」1931

第3章 千葉へ

 一村は、1938年に千葉市千葉寺に家を新築し、姉・喜美子、妹・房子と、祖母スエと共に移り住みました。父も母も弟も失った家族が、身を寄せ合って見よう見まねで農業をしながら自給に励みました。戦時中は徴用工として働き、身体を壊して闘病生活に。

第4章 一村誕生

 戦後は号を一村と改め、心機一転をはかります。

 1947年、第19回青龍社展に出品、入選しました。

「白い花」1947

 1953年45歳の頃は、軍鶏の写生に熱心でした。

軍鶏図 1953

 自信作を院展に出品しますが、落選を繰り返し、中央画壇に絶望していきます。

第5章 奄美へ アダンへの道

 1958年、自宅を売り払い、奄美大島へ。1959年に名瀬市国立療養所の官舎に移住。1961年末から名瀬市に家を借り、紬工房の職人として染色工として働きながら絵を描きました。

「仁戸名蒼天」1966

  木彫家であった父稲邨の手ほどきもあり、一村は木彫品もブローチ帯留めなど日用品を残しています。現金収入のためもあって木彫品を制作したかと思いますが、一時千葉に帰っていた時期に描かれた「仁戸名蒼天」の額も、一村自作です。

 1965年には姉喜美子と最大の支援者川村幾三を失う。1972年からは体調を崩し、染色工場の仕事をやめざるを得ず、1977年に名瀬市の家で死去。

 上にある一村の家に一村が住んでいた家、実は一村が住むことができたのは死去の前10日間のみ。

 会場に展示されていた一村の写真。南方の島らしい木々を背景に写生している一村、よい表情をしています。

 生前は院展に何度出品しても落選続き。

 奄美でも染色工場の仕事で糊口をしのぎながらの制作。今回の「田中一村展」に、観覧者が押し寄せたのを、喜んでくれている?それとも一村の絵を認めようとしなかったかっての既存の日本画壇に対して「私が落選したときに入選した画家のどなたでも、現在私ほどの観覧者を集められるだろうか」と、尋ねているでしょうか。

 一村展入り口

 1階に戻り、ミュージアムショップで一村の図録と絵ハガキを購入。娘は迷った末、一村が絵付けをした小皿のレプリカを買いました。普段使いの小皿など、百均もので間に合わせている我が家にしては ミュージアムショップ閉店前に急いで買った小皿一枚1600円×3枚セット。

 娘は、「ちょい高級な和菓子なんかをのせたらおいしそう」というのですが、あいにく我が家のお菓子は、ピーナツチョコだのかりんとうだの、ちょいとも高級ではなくて、、、、でも、清貧を貫いた一村なら貧乏一家のささやかな贅沢を笑ってくれるでしょうね。

<つづく>

コメント (2)
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ぽかぽか春庭「前田コレクション in 目黒区美術館」

2021-06-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210604

ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩早春~春(9)前田コレクション in 目黒区美術館

 早春、三寒四温の季節。気温あがったり下がったりで体調維持がたいへんですが、四温のほうの一日、娘と出かけることにしました。

 目黒美術館へ行く前に、目黒駅アトレの日本蕎麦店でランチ。テーブルには透明シートが立てられていて、向かい側の人と話すにも飛沫防止。もっとも、私と娘は、外食のときはこれまでたいてい「黙食」です。

 目黒美術館の「前田コレクション展」には、.前田育徳会(加賀百万石の前田家財団)が所蔵するお宝のうち、未公開作品が展示されています。

 前回、目黒美術館に来たのは、2020年の桜が咲き始めでした。1年ぶりの訪問です。

 目黒区美術館の口上

 本展では、前田家第16 代当主である前田利為の収集した、近代美術コレクションを紹介します。
利為による近代美術コレクションは、4 度にわたるヨーロッパ赴任を含む多忙な公務のかたわ
ら、自ら展覧会を巡り、美術家のアトリエを訪れて収集した作品を含むきわめて貴重なものです。
初公開となる作品を含めて、利為の愛した前田家の近代美術コレクションの多様な魅力に触れ
て頂けることでしょう。
また、目黒区と金沢市とが友好都市として交流を深める契機ともなった、目黒区駒場の地に現
存する旧前田家本邸にゆかりのある作品や資料も紹介します。
なお、本展に出品される作品は、すべて公益財団法人前田育徳会の所蔵品です。 

 加賀前田家の16代目当主前田利為。本郷の自邸に明治天皇皇后と皇太子夫妻を迎えるにあたり、先祖代々から受け継いだ家宝のほか、軍人としてヨーロッパに赴任していた間に買い求めた西洋画などをお屋敷に飾りたてました。天皇行幸の栄誉を得たのち、前田家は本郷の12000坪の土地を東京大学用地として提供。代わりに駒場に10000坪の土地を得て、現在旧前田邸として公開されている洋館和館を建てました。何度か訪問して見学した前田邸ですが、コレクションを見た娘が、「それじゃ、私も旧前田邸の見学に行こうかな」と言い出したので、暖かくなったら出かけようと思います。

 展示第一室の 目黒美術館の口上

1.利為の愛した美術品

 利為のコレクションには、国内外の展覧会や美術家のアトリエで、自ら選んだ作品も少なくありません。本展では、そのように利為がとりわけ気に入っていた作品を紹介します。 また、天皇などの貴賓を迎えることを想定して前田家の本邸に飾られた、当時の日本を代表する名画の数々も見どころです。

 入り口に入ると最初に目に入るのは。

ジャン・パディスト・アルマン・ギョーマン「湖水」1894

 

第1展示室の最大の作品は。

ルイ=ジョゼフ=ラファエル・コラン「庭の隅」1895年(143.9 × 195.4)

 コランは黒田清輝が師事したことで知られる当時の大モノ画家でした。

 前田利為は、軍務で欧州滞在中に買い求めた好みの絵のほか、パリに画廊を開いた画商林忠正の死後、絵が売り立てられたとき、散逸を惜しんでコレクションをまとめて購入しました。

 利為が一番気に入っていた作品は。

 ジャン・レオン・ジェローム「アラビア人と馬」

 第1室の作品の中、娘が一番気に入ったのは、ルノアールの「アネモネ」(画像借り物)

 

 第1室には、利為がパリで出会った彫刻家ポンポンの彫刻が展示されていました。シロクマと鳥(バン)の彫刻が初公開として台に乗ってがいました。今回の展覧会のチラシも、シロクマ版とバンのと両方がありました。

 

 白熊もバンも、私にはさほど関興高くない作品だったのですが、利為にはグッとくるものがあってパリで購入したのでしょう。人が何かを気に入る理由はそれぞれで、相性としか言えないです。

 第1室の日本画  鈴木華邨「鶏図屏風」

 

 初公開の牛田鶏村「鎌倉の一日」1917

 

 前田利為は七日市前田家から加賀前田本家の養子となり、15代当主前田利嗣の長女娘漾子(なみこ)と結婚。しかし、なみ子はヨーローパ滞在中に病没。利為は酒井菊子と再婚。利為と菊子の長女美意子は、母の実家酒井家の従兄弟と結婚して酒井美意子となりました。

 フェルナン・ウンベール「前田利為像」マルセル・バッシュと「前田漾子像」

 

 利為は軍人として南方戦線に行く途中、ボルネオ近辺で飛行機事故により戦死。享年57

高沢圭一「前田利為公行軍図」1942

 

 利為の飛行機事故は、戦死扱いとするかどうかでもめました。戦死じゃなければ、膨大な財産に相続税がかかるところだったのですが、戦死となったことで前田家の財産は相続税を免れ、お宝は前田育徳会が管理。今回の展示となりました。

 この展覧会のタイトルが「春雨に真珠を見た人」となっている訳は。春雨に限ったことではないのですが、雨上がりの蜘蛛の巣に雨の雫がかかっている姿はとても美しく、ことに晴れて日光が雫に当たると、きらきらと輝き本当にきれいです。私は田舎者ですから、雨があがると蜘蛛の巣を探し、雫がきらきらと輝くのを楽しみました。

 利為は春雨があがったあと、蜘蛛の巣を見て写真に撮り、写真アルバムのタイトルに「綾真珠」というタイトルをつけました。

 私は、前田利為コレクションについて「金持ちが金にあかして買い集めた絵画」と思って今回の前田コレクション展を見にきたのですが「綾真珠」のエピソードを知り、子どものころの私が雨上がりの蜘蛛の巣が大好きだったことと共通する感受性を知り、利為のひととなりに親しみを感じました。同じものが好きであるというのは、人と人のコミュニケーションのきっかひとつです。

 さはさりながら。前田利為の選んだ絵画、私の好みとは違っていました。利為は邸宅を飾る日本画の絵師にも細かい注文をつけ、気に入らない絵は描き直しを命じたそうです。院展入選の作品なども積極的に購入していたのですが、新傾向の二科展の作品などは「こんなものは絵じゃない」と、嫌ったそうで、絵に関しては「先祖伝来」の価値観の持ち主だったようです。

 軍人として亡くなった利為ですが、隠居後の晩年があったら、徳川慶喜のように好きなように写真を撮って暮らしたのじゃないかと想像しています。

 私と絵の好みは合わないお殿様でしたが、こうしてコレクションを残してくれたこと、前田の殿様に感謝!

 今回も、展示室の観覧客はまばらで、換気消毒徹底している美術館は、一番安全なお出かけ先と思いましたが、まだまだ春浅い時期のアート散歩、目黒川の桜も「まだ先」の一日でした。

<つづく>

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