春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2019年3月目次」

2019-03-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190331
ぽかぽか春庭>2019年3月目次

0302 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるの歌(1)雪めぐり梅めぐり
0303 2019十九文屋日記早春はるのうた(2)弥生の骨とシモキタの劇
0305 2019十九文屋日記早春はるのうた(3)上野公園文化の杜の音めぐり
0307 2019十九文屋日記早春はるのうた(4)上野散歩ART meets MUSIC
0309 2019十九文屋日記早春はるのうた(5)娘と熱海梅園
0310 2019十九文屋日記早春はるのうた(6)娘と熱海温泉
0312 2019十九文屋日記早春はるのうた(7)娘と美術館 in Moa美術館

0314 ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩(1)紅白梅図屏風 in MOA美術館
0316 春咲アート散歩(2)書の美ー手鏡と王義之 in MOA美術館&東京国立博物館
0317 春咲アート散歩(3)顔真卿展 in 東京国立博物館
0319 春咲アート散歩(4)岡上淑子展 in 庭園美術館
0321 春咲アート散歩(5)奇想の系譜展 in 東京都美術館
0323 春咲アート散歩(6)映画山中常盤物語 in 東京都美術館

0324 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記氷の上にも春がきた(1)春の脳カツ
0326 2019十九文屋日記氷の上にも春がきた(2)世界フィギュアスケート大会ペアショート&女子ショートin 埼玉アリーナ
0328 2019十九文屋日記氷の上にも春がきた(3)世界フィギュアスケート大会アイスダンスショート&女子フリー in 埼玉アリーナ
0330 2019十九文屋日記氷の上にも春がきた(4)世界フィギュアスケート大会エキシビション in 埼玉アリーナ
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ぽかぽか春庭「世界フィギュアスケート2019エキシビション」

2019-03-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190330
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記氷の上にも春がきた(4)世界フィギュアスケート2019エキシビション

 3月24日は、娘といっしょに埼玉スーパーアリーナへ。ほんとうは、娘と息子が会場でエキシビションを観覧し、私はテレビ録画で見る予定でしたが、息子の体調回復せず、チケットもったいないから私が代わりに会場へ。今回の席はB席なので、プレミア席やS席ほどリンクに近くないけれど、会場で見る臨場感は、やはりテレビ画面より楽しいです。

 開場時間には間に合うようにさいたま新都心駅に着いたのに、入場待ちの列がものすごくて、まわりの人たちもヤキモキしていました。娘も「オープニングに間に合わないね」と、もっと早く出てこなかったことを後悔しています。

 となりの若い人はスマホで会場のようすがわかる設定にしているらしく、「今、たまーりんがすべっているよ。たまーりん、がんばれ、時間を引き延ばしてあと10分すべるんだ!」と言っています。「まっち~のナンバー、人間の条件をやれ!」と。
 昨年、娘息子といっしょに埼玉アリーナで見たジャパンオープンのとき、町田樹はスケート競技からの完全引退ラストスケートとして10分間たっぷりとすべっていました。そうそう、あと10分は引き延ばしてほしいわ。

 でも、スーパーアリーナ妖精という設定のタマーリンは四角い着ぐるみで、スケートを滑る体形ではありません。NHK杯のとき、マスコットのドーモ君はけっこうスケートが上手で、ジャンプもできましたけれど、タマーリンのスケートでは時間がもたず、娘と入場したときは、オープニングが終わりかけていました。

 出場選手の紹介などには間に合わなかったけれど、ユヅ君が観客に手をふりながら退場するのを見ることができました。ファンは全員「キャー、ユヅ君が私に手を振ってくれた」と思ったことでしょう。でも、みなさん、あれはね、わたしに手を振ったんですよ。4階席だけど。B席でも会場全体がよく見えて、見やすい席でした。

 エキシビション第一部、最初の演技はジュニア女子の畑崎李果(ももか)さん。小学校6年生です。1度ころんでしまいましたが、しっかり滑り切りました。将来楽しみな選手のひとりです。
 つづいてミハル・ブレジナ。我が家は「パリのアメリカ人を踊るチェコ人」と呼んでいます。試合のときと違ってサングラスかけての登場で、最初誰だかわかりませんでした。場内コールがブレジナじゃなくてプリズナーに聞こえたので、娘に「だれ?」と、聞いてしまいました。

 カナダのデールマン、田中刑事、試合結果は伸びませんでしたが、人気スケーターなので、エキシビションに登場。アイスダンスの小松原/コレト組は、わずかの点差でフリーにすすめませんでしたが、エキシビションには登場。
 7位だったマッテオ・リッツォは、背中に妖怪探知機を背負っての登場、ゴーストを退治して愉快な演出でした。さすがラテン系。フェルナンデスのスーパーマン系列を受け継ぐ選手がいて、よかった。

 メダリストのなかで、トゥルシンバエワ選手だけが一部登場でした。同国のデニス・テンにささげる、とされた演技だったので、第一部の最後にしてもよかったかな。私の演出ならね。

 第二部の最初は男子ジュニア佐藤俊くん。2004年生まれの中学生です。こちらも将来楽しみな。
 第二部は続々上位入賞選手が登場し、ユヅくんは、金メダリストのひとつ前。松任谷由実の「春よ来い」の曲にのせて、すばらしいすべりでした。
 演技後半、リンクは桜色の証明になり、ほんとうに春を連れてきてくれた気分でした。

 エキシビション終了後のリンクは、「春よこい」の照明と同じような桜色。

 
 娘は「試合の応援だと、ハラハラして緊張しすぎちゃうから、エキシビションくらいが会場で見るのにちょうどいい」という感想。
 5日間のスケート三昧。選手たちの熱演が、春を連れてきてくれました。

 近所の花。ボケ、雪柳
 3月23日の近所の桜


<おわり>
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ぽかぽか春庭「世界フィギュアスケート大会アイスダンスショート&女子フリー」

2019-03-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190328
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文問屋日記氷の上にも春が来た(3)世界フィギュアスケート大会アイスダンスショート&女子フリー」

 3月22日、仕事は休んでさいたまスーパーアリーナへ。
 娘は、体調の悪い弟を気遣って「体調回復次第、あとからいくから、母は先に行って、練習を見ていて」と言います。
 練習リンクでの公開練習は有料で、別チケットが必要ですが、娘が仕入れた情報ではメインリンクの公式練習は、メインリンクに入場した人なら無料で見ることができるというのです。

 アイスダンスショートの演技開始は12時からだから、11時前ぐらいに家を出ようと思っていたのですが、無料で練習が見られるなら無料大好きな私が見逃すはずもなし。思えば、初日の20日も、練習を見ようと思えば見ることができたのに、公開練習は有料という情報しか知らなかったので、見逃してしまいました。

 10時に開場。10時10分まで宮原と紀平のメインリンク公式練習がありました。
曲かけ練習は終わっていましたが、練習時間終了ぎりぎりまで、めいっぱい練習を続ける宮原選手と紀平選手を見ることができました。ふたりとも「追い上げるぞ」という気合の入った練習。

 最終グループの最後の公式練習。ザギトワ、メドベデワ、ツルシンバエワ、坂本花織、マライア・ベル、イム・ウンス(林恩讐)の6人が、トゥルシンバエワは本番と同じ赤いスカート。メドベデワは、黒いパンツ姿。
 曲かけの練習も全員のを見ることができました。

 イム・ウンスは、練習中に同じアルトゥ二アン・コーチの指導を受けているマライア・ベルと接触し、足をけられたそうで、所属事務所は訴えると主張したそうですが、結局のところ、ベルは「故意ではなく、接触してしまった後、すぐに謝らなければならなかったのに、時間がなかった」と謝罪し、和解したのだそうです。

 練習中の衝突はときどき起こります。
 初日20日に見たペアの6分間練習中も、ペアのバネッサ・ジェイムズ選手(フランス)と他のペアの男性がぶつかってしまったのを目撃しました。心配しましたが、このときは、すぐに謝ったようだったし、その後の競技に直接の影響はなかったように見えました。

 ショートの6分間練習中のペア


 ラグビーやサッカーでも「レフリーに見えないところでやる反則は反則じゃない」といわれているそうですが、0.いくつの点数を争う競技、見えないところでいろいろあるのかもしれません。映画『アイトーニャ』で、フィギュアスケート史の汚点、ナンシー・ケリガン襲撃事件を思い出したこともあり、選手同士のトラブルに過敏になっているところだったので、ひやりとしました。

 12時からアイスダンスショートを観戦。
 日本の小松原/コレト組は60.98点でなかなかいい出来だったのですが、1点違いでフリー進出を逃しました。

 最終グループの出場者は、みなとても上手でしたが、フランスのパパダキス/シゼロン組は別格の域にあり、圧巻のショートでした。フリーもこのまま逃げ切るだろうというところ。

 娘は、アイスダンスショートは家でフジテレビネット配信で見ていましたが、パパダキス/シゼロン組が終わっても、息子の体調回復に至りませんでした。息子が「せっかくチケット手にいれたのに、僕のせいで見ることができなかったら、僕が悲しいから、姉だけ見に行ってきて」というので、大慌てで家を出て、たまアリへ向かった、というメールが入りました。

 息子がこられないことがわかったので、S席のなかでも後ろのほうの席に座っていた妹に連絡して、私の席にきてもらい、私は娘と並んでみることに。
 妹からは「真央ちゃんのアイスショーを見てきたけれど、リンクサイド席でまおちゃんを目の前で見られて、すごくよかった」というメールが来ていました。妹は目が悪いので、少しでも前の席で見たいというので、席を交換できてよかったです。

 女子フリーが始まる直前に、娘到着。駅から走ってきた、とハーハー言っています。日ごろ運動不足の生活。走ってきたのはよくよく女子フリーに間に合わせたかったのでしょう。ちょうど電車の乗り換えがうまくいき、最速でたまアリに着くことができたのですって。

 女子フリー。
 日本の女子3選手もすばらしかったし、メダリスト3人、すごかったです。とくに、トゥルシンバエワ選手が演技冒頭に4回転サルコーを決めた瞬間、女子シングルシニア4回転時代を開いた、これはデニス・テンが見守っていたんだな、と思いました。ジュニア選手ではロシアの若手が4回転を飛んでいますが、身長が伸びた後のシニアではむずかしくなります。その点、19歳で成長期はおわって、しかも148㎝の身長は伸びても150㎝でしょうから、ジャンプの種類を広げていけるだろうと思います。

 デニス・テンは、カザフスタンで若い選手養成の仕事もしたいと思っていたでしょうがトゥルシンバエアは、デニスの思いを受け継いでいくでしょう。

 ザギトワ、ツルシンバエワ、メドベデワのメダリスト、みなうれしそうでした。(画像借り物)
 

 メダリスト写真撮影に応じる3人を反対側から。
 

 表彰式のあと、エテリ・トゥトベリーゼコーチがメダリストを抱きしめているのを目撃した会場の人たちから歓声があがりました。金のザキトワのコーチ。オーサーコーチのもとを離れ、エテリコーチのもとに戻ったトゥルシンバエワ、逆にエテリコーチから離れてオーサーコーチの指導を受けているメドベデワ。つまり金銀銅3人ともエテリコーチの弟子。コーチとして最高の瞬間だったでしょう。

 妹は、表彰式まで見ていると、田舎のもより駅まで行ける最終電車に間に合わないというのですが、どうしても表彰式を見たいので、新幹線で帰り、高崎まで長女に車で迎えに来てもらうことにしたのですって。
 いっしょにご飯食べようか、と話しながらさいたま新都心駅についたのですが、新幹線の時間気にしながらだと落ち着いて食べられないからと、食べずに田舎に帰りました。新幹線の中で何か食べるからと。
 私と娘も、息子が留守番しているので、カツサンドやらお弁当屋らを買って帰りました。

 23日土曜日は、アイスダンスフリーと男子フリーをフジのネット配信で観戦です。日曜日のエキシビションに備えて体力温存。

 23日、アイスダンスフリー出場全選手の演技を見ました。
 アイスダンス、パパダキス/シゼロン組は2位に10点以上の差をつけて優勝。アイスダンスは、ペアの様にジャンプやスローイングなどの大きな失敗をする要素がないので、ほぼ、ショートの順位のまま、爆アゲも爆下がりもなし。

 パパダキス/シゼロン組(画像借り物) 


 男子フリーの激戦も感動しました。
 羽生選手は怪我が治っていなかったけれど、言い訳せず痛み止めを打ちながらの300点越え。しかし、すべてミスなく演じたネイサン・チェンは、323.42という驚異的得点を出し、優勝。すごいのひとこと。
 ふたこと言うなら、衣装が地味。

 ネイサンが3歳でスケートの練習を始めたころは、北京からきて博士号をとったばかりの両親には靴を買ってやるお金がなかったそうです。ある財団の奨学金をもらって、はじめて、借り靴ではなく自分のスケート靴がはけた。それからめきめきと成長して世界のトップに立ちました。

 宇野昌磨はミスしましたが、ショート順位よりあがり、よく頑張りました。田中刑事は昨年の13位には及ばず14位でしたが、2年連続の世界フィギュア出場、立派です。
 私は現在の4回転時代に、3回転だけでショートを勝負して2位に入ったジェイソン・ブラウンを応援しましたが、フリーでは冒頭に入れた4回転もころんでしまい総合順位は9位。自分自身の表現力を深めていく演技、オーサーコーチのもとでさらにみがいてほしいです。

 プーさんの雨が降った後のあいさつ(画像借り物)

 男子メダリスト(画像借り物)


 羽生は、試合後のインタビューでもほんとうに悔しそうでした。「負けるのは死ぬのと同じ」とまで発言。怪我のこともあるので、もしかして優勝だったら引退してしまうかも、と思っていたのですが、どうしても勝ちたいユヅ君、北京冬季五輪まで続ける気持ちがあるのだなと思いました。すごい精神力です。

 北京冬季五輪。地元の金博洋(Boyang JIN)も、両親とも中国の出身であるヴィンセント・ジョウ(中国名:周知方)&ネイサン・チェン(中国名:陳巍 Chen wei)、絶対に優勝したいでしょうから、ユヅ君もたいへんだと思うけれど。北京、見に行けたらいいな。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「世界フィギュアスケート大会ペア&女子シングル in 埼玉アリーナ

2019-03-26 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190326
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記氷の上にも春が来た(2)世界フィギュアスケート大会ペア&女子シングルショート in 埼玉アリーナ

 2月20~24日は春のお彼岸。21日は春分の日、彼岸の中日でした。が、我が家にとっては、世界フィギュアスケート大会2019の5日間。5日間のスケート祭り。 

 娘が何度もリロード&トライし、3月20~24日の大会のうち、20日ペアショート&女子ショート。21日アイスダンスショート&女子フリー、24日エキシビションのチケットがとれたのです。ゆづ君人気が沸騰したままの男子は、なんとしても取れませんでした。
 どうしても羽生のショートやフリーを直接応援したいコアファンは、5000円のD席を10万円で売るというネット取引に応じているのだとか。

 さいたまアリーナ前の日本選手かんばん
紀平選手と羽生選手の前は、写真を撮りたい人たちでいっぱいでした。


 真央ちゃん人気で沸いた2014年世界フィギュアスケート大会でもこれほどのフィーバーではなかったそうだし、2018グランプリシリーズのフィンランド大会など、空席もあった会場で、リンクに近い席は羽生応援団が占めていたし、このユヅフィーバーは彼の現役引退まで続くでしょうね。

 第1日目。3月20日は、10時開場にちょっと遅れて入場し、デニス・テンの追悼コーナー「D10World」などでしんみりしてからさいたまアイスアリーナに入りました。
 私は、ジュニア時代のテン選手を見ていませんが、2009年にシニアに上がって以来、10年間彼の演技を見てきました。怪我などで低迷した時期もあったけれど、かわいい顔に闘志あふれるよい選手でした。

 デニス・テン追悼コーナー


 ソチオリンピック銅メダリストのテン選手。2013年世界選手権2位、2015年世界選手権3位、2015年四大陸選手権優勝という輝かしいトップ選手でした。
 2018年7月、母国カザフスタンの首都、生まれ故郷のアルトマイで車からミラーを盗もうとした強盗に刺されて死亡。出血性ショックによる死、25歳。
 カザフスタンにはじめて冬季オリンピックメダルを持ち帰った英雄の死。国葬によって天
へと送られましたが、きっと日本での世界フィギュア大会も見守っていてくれることでしょう。

 10時半からペアショート競技開始。日本の須崎海羽/木原龍一組は、木原の脳震盪の回復が遅れたため欠場。残念。
 ペアショートのトップバッターは、北朝鮮ペア。廉大鈺(Tae Ok RYOM)金柱希(Ju Sik KIM)
 2015年からペアを組み、今大会ショート13位になりました。

 中国はペアの選手層が厚く、熾烈な代表争いを繰り広げています。ショートの結果、隋文静/韓聰組(Wenjing SUI/Cong HAN)が2位。彭程/張昊組(Cheng PENG/Yang JIN)は3位。
 同じく層が厚いロシア。タラソワ/モロゾフ組は(Evgenia TARASOVA/Vladimir MOROZOV)がショート1位。ザビアコ/エンベルト組(Natalia ZABIIAKO/Alexander ENBERT)が4位。

 チケット争奪戦がんばってプレミアム席がとれたのに、息子は体調すぐれず、ペア競技を見ることができませんでしたが、娘がつきそってオープニングには間に合いました。
 プレミアム席なんて次にいつとれるかわからないから、選手に花を投げたい、と息子と娘。物販ブースで投げ込みようの花を買ってからプレミアム席へ。

 午後からさいたまスーパーアリーナにかけつけたミサイルママは、ペア競技の最終組とその前の組の二組を応援することができました。私とミサイルママの席はS席の18列目です。
 娘息子は最初S席をゲットしていたのですが、プレミアム席もとれたので、S席チケットを私にくれたのです。娘が「いつも母がお世話になりっぱなしのミサイルママにプレゼントする」というので、誘ってみたら「午前中は無理だけれど、12時半くらいからなら見られる」という。仕事先からかけつけて、ペアに間に合い、いっしょに観戦できました。

 2時15分からオープニングセレモニー。
 まず、ソプラ二スタ岡本知高の歌うボレロによって、プロスケーターとなった 無良崇人と16人のちびっこスケーター(フラワーガール&ボーイ)が滑りました。
 次にアイスパフォーマンス「月明かりの如く」。「氷艶2019」のテーマ源氏物語を表現しました。ステファン・ランビエール=光源氏、織田信成=頭中将、鈴木明子=若紫。と推測しました。明子さん衣装が紫色だったので。
 村上佳菜子のメークがちょっと怖いかんじにつくってあったので、もしかして生霊の六条御息所かも。御大荒川静香は貫禄たっぷりに長い十二単風の衣装で登場。冠をつけているので、藤壺女御か明石中宮か。
 登場したとき一番拍手が多いのは、ランビエール。今回はラトビアの弟子デニス・ヴァシリエフスのコーチとして来ていますが、氷艶2019にも出演するようです。

 オープニングセレモニー フジテレビ公式インターネット配信。いつまであるかわかりませんが。
https://www.youtube.com/watch?v=cHWSyCFnw0k

 午後3時から女子シングルショート。
 テレビ中継だと後半の選手しか中継されませんでしたが、フジテレビ公式ネット配信だと全選手見ることができます。

 私は妹といっしょに2013年12月の全日本フィギュアスケート大会男子フリーを見ました。そのときの一番人気は高橋大輔でしたが、1位羽生結弦2位町田樹3位小塚崇彦4位織田信成5位高橋大輔6位無良崇人7位宇野昌磨8位田中刑事。
 それから5年ちょい。上位陣のなかで、なかなか結果を出せない人もいましたし、宇野昌磨のようにぐんぐん成長してトップクラスになった選手もいます。いまは羽生結弦の天下。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/f2f1d039732f6b6ec3b891429e21ee14

 会場は1万8千人がはいれるところです。ペアの最初のほうのグループではパラパラ程度しか入っていませんでしたが、ペア後半になるとほとんどの席が埋まり、女子ショートの第3グループくらいになると、5階席までぎっしりと埋まってきました。
 世界ランキングによってグループ分けされているので、最終グループは、宮原、紀平、坂本の3選手とロシア勢ザギトワとメドベージェワ、アメリカのグレイシー・テネルの6人です。

 私はフィギュアの解説で何度同じ説明をされても、前向きから回転に入るアクセルしか見分けがつかないのですが、息子は、同じ回転でも、ルッツやサルコーやループなどの区別がつきます。
 家でテレビ観戦のときは息子に解説してもらうこともできますが、会場では別座席。
 私とミサイルママの席は審査員席の反対側のS席。娘と息子は審査員席側の最前列プレミアム。私の側から、娘と息子が楽しんでいるのがよくわかりました。選手に拍手を送ったり、花を投げたりしているようすが見えました。

 女子ショート。手に汗握って応援しましたが、宮原は回転不足もあったようで、点数が思った以上には伸びず8位、紀平は最初のトリプルアクセルが失敗に終わり、そのあとは完璧にできたものの、70.90点で7位。坂本が76.86点で2位。 ザギトワがほぼミスなしで82.08点で1位。
 フリーではがんばってくれることを祈って、さいたまスーパーアリーナを出ました。

 2日目はペアフリーと男子ショート。フジテレビのインターネット配信でペア出場全選手のフリーを観戦。男子ショートは、地上波で見ました。

 ペアは、タラソワ/・モロゾフ組をかわして隋文静/韓聰組が1位。逆にザビアコ・エンベルト組が彭程/張昊組をかわして3位。中国、ロシア、ロシアの旗が掲げられました。

 男子ショート。ユヅ君、4回転の失敗があり、ほぼミスなしのネイサンチェンが1位。かって逆転劇が多かった男子シングルなので、やはりフリーに期待を込めて。

 3日目は、再びさいたまアリーナへ。今回は、娘と妹モモがいっしょです。息子は体調が悪くなり、あんなに行きたがっていたのに、お留守番になり、かわいそうでした。
 次回3日目のリポート。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「春の脳活」

2019-03-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190324
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記氷の上にも春が来た(1)春の脳活

 物見遊山として美術館めぐりをして、気楽に絵を眺めているのが大好きな春庭。
 「今日もいい絵を見たなあ。眼福眼福」と思ってすごすだけですから、見たことが我が脳の栄養になっているやらいないやら。
 どうせ、もともとのおつむがおつむですから、あまりお勉強を詰め込んでも、どのみち浅い皿には多くは盛られない。でもいいんです。その時その時に、ああ、楽しかった、いい時間を過ごせたと思うことが心のビタミン剤。

 とはいえ、こころざしだけは「脳カツ、脳活。ボケ防止」と思っていますから、ときには本格的にお勉強にいそしみます。冬の風に凍り付いていた脳を溶かすべく、脳カツに出かけました。

 3月8日金曜日は、出身校に出向き「留学生のためのアカデミックジャパニーズ動画で学ぶ大学の講義」という研究会に出席しました。大学の講義を動画で留学生に見せ、聴解力を養成する、という教材の発表会です。

 日本語を学んで、いざ日本へやってくる留学生たち。日本語教室では優秀だったはずなのに、大学の先生の言うことがぜんぜんわからない、という例がひきもきらず。

 日本語教室の先生たちは、留学生のレベルに合わせて、ビギナーズトーク、ティーチャートークという話し方を心得ています。現在この学生たちは、どの単語を習得済み、どの文法どの文型は知っているか、まだ習っていない文法文型は何か、ということを先生たちは熟知している。ベテランの先生は、学生にわからないことばを使わずに話します。初級学生には初級で習う言葉や文型、中級の学生には中級レベルの話し方。日本語教室で先生とうまく会話ができている学生は、自分の日本語会話が十分であると錯覚する学生もでてきます。

 しかし、大学の先生が講義するとき、日本人学生と留学生が混じっている教室で、留学生に配慮して講義するわけではありません。専門用語はそのまま使うし、ときには略語、カタカナ語、、、、留学生にとっては、苦手なものばかり。
 留学生は「大学では学生も教授も、教科書でならった日本語と違う日本語を話します」と、頭を抱えることになる。「違う日本語」ではありません。同じ日本語なのですが、配慮のない日本語なのです。

 教室でクラスメートの日本人学生に「ネーネー、次のガイロンさあ、つまんねーからばっくれてスタバいこうぜ」と話しかけられても返事ができない。
 スタバはスターバックスコーヒーの略語だということは留学生もおいおいわかってきます。 が、サボるがようやく辞書に載って日本語語彙に入れてもらえたのに、「ばっくれる」は、日本語の地位を獲得しないうちにすたれてしまい、すでにおおかたのキャンパスでは死語になっています。学生用語の変転はきわめて激しい。

 その点、先生方の講義用語は、専門語彙表を配布してある程度学ばせればどうにかなるレベルの日本語です。が、専門の講義、近頃の日本人学生は、懇切丁寧にパワーポイント資料を配布してわからせてやらないと、自分から学ぶ気がない、というのが最近の傾向だそうです。

 「動画で学ぶ大学の講義」は、専門の先生が大学レベルの講義をしているシーンを15分くらいの長さにおさめ、先生が授業中に使用するパワーポイント資料もつけ、用語の解説やききとりのための練習問題などがついている、という動画教材です。

 研究会では、第1部で教材開発者の先生の開発苦労話と各課の紹介。これまで聴解教材の開発を担当してきた先生、今年度でご退職なので、いわば退職前の集大成の仕事でしたから、開発に時間も人手もかかったご苦労について、どれほどたいへんだったか、実感がこもっていました。

 第2部はワークショップ。第1課の日本文学講義「枕草子」をサンプル視聴し、「我が校はこの教材をこう使う」というアイデアの話し合いでした。留学生の大学初年度日本語教育を担当している先生が多く集まった会で、4人一組になった私のグループも地方の大学の1年次日本語担当の先生が「大学の先生の講義がわかるようになるまでは一苦労です」と話しておられました。

 3月16日は、また別のおべんきょう。「アグリセラピー・セミナー」というタイトルで、セミナーの内容は、「環境や持続可能性に配慮したまちづくり」というセミナーです。
 中国や日本での街づくりの実例や、環境問題などがテーマに出ていました。

 セミナー主宰者兼司会者の教授の前回のテーマは「アグリセラピー(農業療法)への誘い」というもので、農業をして土にふれ、作物が育つようすを見ることが、心のためにとても役にたつ、というセラピーをカウンセリングと並行して行うと心のケアに効果がある、という研究をなさっています。また、環境に配慮した持続可能な農業のあり方を模索する研究です。

 今回の発表者のうち高橋さんは、「まちづくり設計テント」という会社の代表者で、一級建築士・工学博士。これまで、さまざまなまちづくりに携わってきた気鋭の女性設計事務所社長です。
 現在は生まれ故郷の喜多方市を中心に「持続可能なまちづくり」を実践、考察しています。

 高橋さんがこれまでにかかわった街づくりについて、パワーポイントで実例を示してくれました。空き家がどんどん増えてきた富山県の散開村。空き家を若い人に貸し出すことでリノベーションしていく過程を見せてくれました。同じく、シャッター街となっていた地方都市で、町の魅力を発見し若者を呼び込むことに成功してリノベーとした街の実例。こちらは街づくりコンクールで2等賞となった、ということです。

 これらの実績を積んで、高橋さんは生まれ故郷の喜多方市で街づくりを実践しています。私が一番興味をひかれたのは、「漢字の町喜多方」というプロジェクト。
 喜多方といえばラーメンしか知りませんでした。
 
 高橋さんのご尊父は「楽篆家」という名乗りで篆刻工房を続けていらした方。父上亡きあと、篆刻作品をすべてデータベース化し、店の名前やキャッチフレーズを篆刻にして街にだすことで、「漢字の町喜多方」を売り出しました。外国人の名前を漢字化して篆刻にしてやったり、喜多方市内の220以上の店舗に「篆刻(古代文字)」の看板を掲げて、街を探索するオリエンテーションを実施したり。
https://www.rakuten-kobo.jp/kitakata/

 王義之展や顔真卿展で、象形文字、甲骨や金文の拓本をたくさん見たところでしたから、篆刻による町おこしはとても刺激的でした。

 許氏による深圳のイノベーションの紹介、白石氏による「日中関係史の展望と課題」というお話も興味深かったです。

 また、司会の中川教授が手掛けている「太陽光パネルによる発電と農業」という実験も、これからのエネルギーと農業を考えるうえで参考になりました。
 パネル設置による太陽光発電を行うとき、従来多かったやり方だと、山の斜面の木を切り倒して斜面にパネルを並べる。これでは緑の木々を失うことになる。

 中川教授のグループは、遊休地となった元農地を一か所に集め、パネルを設置しました。パネルの下には、日陰を好んで成長する薬用の朝鮮人参やドクダミを栽培して、太陽エネルギー生産と農業生産を循環よく実行して、土地活用を果たしている、というお話でした。
 人口減少によって、地方の農業の担い手が減っていることを嘆いてばかりいても、先に進まない。でも、環境を破壊することなく、農業とエネルギー生産を同時に行う試みに、感心しました。

 そのほか、国際弁護士として活躍するネパール人(少数民族ネワール族)の方とお話しできたり、ネパールに少数民族が母語で学ぶ学校を建てる話など、興味尽きない発表を聞くことができました。

 世の中で活躍するさまざまな分野の方のお話をうかがうと、日ごろチマチマと目先のことで動いている自分自身の生活範囲が、地球規模に広がった気がしてきました。

 う~ん、ぼけている暇はない。しかし、昼寝はしたい。
 冬眠も春眠も暁を覚えないHALですが、よい講義を眠らずにちゃんと聞いて、帰りの電車ではしっかり睡眠をとりました。

 近所に咲くミツマタの花
  
 
 <つづく>
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ぽかぽか春庭「映画山中常盤」

2019-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム

 羽田澄子監督作品『山中常盤』パンフレット

20190223
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(5)映画山中常盤

 3月9日、東京都美術館へ。
 「奇想の系譜」展の関連イベントとして映画「山中常盤 牛若丸と常盤御前ー母と子の物語」が上映されることを知り、この映画を見るために、第3水曜日の無料公開日でなく、前売り券を買って観覧したのです。チケット半券提示で映画を見ることができます。

 私は、『平塚らいてうの生涯―元始、女性は太陽であった』などの羽田澄子監督作品を見てきました。
 羽田澄子。1926年生まれ。現在92歳。
 岩波映画製作所で監督としてドキュメンタリーを取り始めてから、また、独立して夫工藤充がプロデューサーをつとめる自由工房で二人三脚で歩んできてからも、ドキュメンタリーの作り手として、名作と呼ぶにふさわしい映画を作り続けてきました。

 10時半から入場整理券配布、11時半上映開始の回を見た後、すぐに1時半整理券配布の列に並び、2時半上映の回も見ました。こののちいつ上映があるかわからないから、2回見ることにしたのですが、2回目に見て正解でした。
 午後の回に、「奇想の系譜」の著者辻惟雄とその弟子で「奇想の系譜展」監修者山下裕二、そして思いがけないことに、監督羽田澄子監督がおそろいで、会場で映画をごらんになったのです。
 左:羽田監督 中:辻惟雄先生 右:山下裕二先生


 ミーハーHALは、映画が終わってからサインもらっている人がいるのを見て、我もわれもとパンフレットにサインもらってきました。午前の回のとき、パンフレット買っておいてよかった。午前中だけで売り切れでした。パンフレットは、自由工房編集2005年発行。
 左端に「羽田澄子」サイン


 私の安物ボールペンで書いてもらって申し訳なかったけれど、監督は「ヘタな字でごめんなさい」とおっしゃった。いえいえ、一生の宝物です。

 有名人を見るとすぐにサインもらいたがる人、みたいに思われても仕方がないけれど、だれにでもサインをせがんでいるんじゃありません。HALが「この人のように生きていきたい」と思える先達に書いてもらっているんですからね。羽田澄子は世田谷九条の会呼びかけ人にして、卒寿を超えてもしゃんとしていらっしゃる。
 杖を携えていらしたけれど、歩き方はシャキシャキとしていて、膝を悪くして以来のたりのたりと歩く私よりしっかり歩いてらした。とてもチャーミングな方でした。

 ファンから握手を求められる羽田監督。その後ろに辻惟雄先生


 羽田澄子は、絵巻の詞書を「人形あやつりの古浄瑠璃」で語られたものとし、鶴澤清治に作曲を依頼。鶴澤は、詞書に曲をつけ、全巻三味線をひいています。豊竹呂勢大夫(文楽義太夫)の声と清治(ツレは清二郎)の三味線が絵物語を立体的にし、現代のアニメ活劇にも負けない迫力を生んでいます。
 詞書以外の部分は、ナレーションを喜多道枝、音楽は高橋アキ演奏のサティ作曲「ヴェクサシオン」。

 山中常盤物語は、中世御伽草子などに見られる物語のひとつですが、史実にもとづく話ではなく、牛若丸の仇討ち英雄譚として語られます。
 古浄瑠璃節によるあやつり人形の上演をもとに絵巻が描かれたとみられ、岩佐又兵衛工房制作とされる『洛中洛外図 舟木本』の中に、芝居小屋の絵のわきに「かぶき」「やまなかときは」という文字が見られます。

 全12巻。150m。「奇想の系譜」展には、前期が巻4、後期が巻5の展示。私は前期の巻4を見ました。MOA美術館が4年前のリニューアルオープンしたときに「山中常盤物語」全12巻の展示があったのですが、私は見ることかなわず。

 映画は、物語を追って絵巻を撮影していきますが、冒頭に牛若丸が住んだ奥州平泉の景色や途中に又兵衛の一族が皆殺しにされた有岡城の跡の景色などがはさまります。片岡京子演じる十二単の貴人が現れ、12巻の絵巻を前に悲しそうな表情をみせます。牛若の母常盤のようでもあり、又兵衛の母、「たし」のようにも見えます。(大河ドラマ『官兵衛』では、桐谷美玲が「たし」を演じていました。たいていの歴史ドラマでは荒木村重の一族皆殺しのところまでしか出てきませんが、官兵衛のときは、村重が各地放浪の末、ちゃっかり茶人として生き残るところまでドラマにしていました)。

 源義経の母常盤は、源義朝との間に生まれた3人の子の命乞いのため、源義朝の敵平清盛に身を預けた、とされていますが、史実の裏付けはありません。
 義朝が1160年に平治の乱で討ち果たされたのち、1163年には一条長成との間に一条能成を生んでいます。こちらは史実の裏付けあり。賢く絶世の美女であったとされていますから、義朝亡きあと引く手あまたであったことはわかります。

 義経はのちに一条長成の養子となっていますから、常盤としては、寺送りになった息子3人の庇護を求めるために、すぐに再婚する必要があったのだと思います。それにしても、前夫がなくなって2年とたたないうちに再婚していたとは、さすが、都のうちの美女千人集めた中の第一の美女といわれた常盤さんだわ。公家の結婚、正妻は政略結婚も多いのに、義朝側室となる前は雑仕女にすぎなかった常盤を正妻格で迎えたのは、よほど常盤を愛していたのね。

 山中物語は、鞍馬山を抜け出して行方不明となっていた牛若丸に一目会いたいと、乳母と二人だけで奥州目指して旅に出て、山賊に命を奪われる常盤の物語と、母の死を知り、山賊に仇討ちを果たす15歳の牛若丸の物語です。

 貴族の女人が、物騒な時代に乳母と二人だけで旅に出ることはありえないし、山賊に身ぐるみはがされることになるようなきらびやかな装束を身に着けて歩くこともないのですが、そこは御伽草子。貴人の装束は華麗でなければならないし、仇討ち場面を描くには、凄惨な母の死を語らねばなりません。

 岩佐又兵衛「山中常盤物語」
巻1
 牛若は鞍馬の寺を抜け出し、平泉の藤原秀衡を頼って東下り。常盤は京の屋敷で行方不明になったと伝えられた牛若の身を案じています。(史実では、一条長成が自分の親戚にあたる秀衡に牛若の育成を頼んだということですから、常盤は安心して牛若を秀衡に託したと思います)

巻2 巻3
 常盤は侍女の「侍従」たったひとりを供に連れ、奥州をめざします。慣れない旅の道に疲れ、山中宿についたとき、病に伏せてしまいます。

巻4 巻5
 山賊6人が宿に押し入り、常盤と侍従の装束をはぎ取り、ふたりとも殺してしまいます。宿の夫婦は、誰とも知らないまま常盤を土葬にして弔います。

巻6 巻7
 牛若の夢枕に立った常盤は、母の仇を討てと告げます。牛若は山中宿に到着し、宿の夫婦の話から母の最期を知り、仇討ちを誓います。盗賊をおびき寄せるために、衣装や道具を宿に持ってきたことを触れ歩きます。

 盗賊どもをおびき寄せるために、牛若丸は山中宿に装束を並べて見せつけます。


巻8 巻9 巻10
 盗賊6人が宿にやってくると、牛若は6人とも首を切り胴を真っ二つに切り、仇討ちを果たします。盗賊の亡骸は菰にくるんで川に投げ捨てます。回向ができないような形で亡骸を扱うのは、一番ひどい扱い方で、この盗賊は人ではない「鬼」として扱われたことがわかります。

巻11 巻12
 18歳になった牛若、元服して義経と名乗り、大軍の将として晴れがましく@g2上洛するさまを描いています。義経は殺された母を弔ってくれた山中の宿夫婦に手厚く礼をつくします。

 映画『山中常盤』
 プロローグ実写
 冒頭は、北上川の流れ。方丈記の冒頭部分が朗読されます。
 ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、、、、

 義経の死から400年たったころの洛中洛外図。岩佐又兵衛工房の作とされる舟木本。南蛮人の行列や歌舞伎の触れ歩きなど、にぎやかな京の町の描写のなか、「山中ときはあやつり」という人形浄瑠璃の小屋があります。

 義経と常盤の紹介

 第1巻から古浄瑠璃の詞章に鶴澤清治が作曲した義太夫が流れます。
♪さてもそののち御曹司は十五と申せし春のころ、奢る平家を攻めんためあづまをさしてくだらせ給う♪

 第五巻のあと、又兵衛の紹介。有岡城、福井城。乳飲み子又兵衛が救いだされ、絵師になって生きていく。
 山中常盤物語絵巻の作者岩佐又兵衛(1578-1650)は有岡城主荒木村重の息子。村重は、織田信長に謀反を起こして逃走隠遁します。村重が有岡城に残した妻子郎党一族600人は信長に処刑されました。母のたし(だし)は21歳で首をはねられました。たしと荒木村重の子、乳飲み子であった又兵衛は、乳母に連れられて城を抜け出し本願寺にかくまわれたとされています。
 石山本願寺の門徒に匿われて育った又兵衛は、母たしの旧姓岩佐を名乗り、福井や江戸で絵師となって生きていきます。

 第6巻-第10巻
 牛若丸は、盗賊たちをぶった切る。首を切る胴を切る手足を切る。


 第11巻-第12巻。
 大軍の将として上洛する義経


 エピローグ実写
 関が原に残る現在の山中の宿。常盤の墓と伝わる場所。
 又兵衛と義経の最後。義経は藤原泰衡の裏切りにあい、平泉で討ち死に。
 又兵衛は、江戸に招かれ72歳の一期まで絵を描きました。

 朗読「朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける
 「終」マーク。クレジット。

 よい映画でした。絵巻が現代によみがえり、詞章が読めない私も物語を堪能できました。
 又兵衛の絵もすごいし、羽田監督の描き方もすばらしい。

 映画パンフレット、絵巻の詞章などは全部読んでいないけれど、辻惟雄先生の解説文を読み、疑問点がありました。パンフレットの13ページ。

「(又兵衛)60歳にあたる寛永十四(1637)年、尾張徳川藩の姫が宗家に嫁ぐ婚礼調度の作成を命じられ、家族を(福井に)残して江戸へ出、そのまま江戸に住んで慶安3年(1652)73歳でなくなっている」という部分。
 
 寛永14年の徳川家婚礼というと、三代将軍徳川家光の娘千代姫が数え3歳で尾張徳川家の光友に嫁いだ婚礼以外にありえません。
 家光の嫡男家綱は1641年にようやく生まれましたから、1937年に婚礼できるはずもない。 尾張徳川家と宗家の1637年の婚礼なら、「初音の調度」という超豪華嫁入り道具を携えて尾張家に嫁いだ千代姫3歳と尾張徳川光友13歳の婚礼のことだと思います。

 この豪華な婚礼は、尾張家と宗家の緊張関係を和らげるための輿入れという意味も含まれる、と私は思います。輿入れとは、言ってしまえば人質と同じ。二代秀忠の娘千姫が豊臣秀頼のもとに嫁いだときの事情と同じ。
 千代姫は尾張で光友と共に育ったおかげで、夫との仲もよく、子も生まれています。

 政略結婚、家格上位の姫が下位の家に嫁ぐ場合、お飾りの正妻という場合が多く、夫はすでに側室との間に多くの子をなしている、という例が多かったのに比べると、千代姫は幸福な結婚であったようで、初音の調度も喜んでいることでしょう。現在国宝として徳川美術館に所蔵されている初音の調度、私は、江戸東京博物館の「尾張徳川家の至宝展」2013で見ることができました。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/805882a6a2133bf6db39977f080e5923
 (ちなみに、海外流出した初音の調度のうち、お櫃のひとつは、オランダのアムステルダム国立美術館が9億6000万円で落札)。
 
 辻惟雄先生、美術史のすごい学者ですし、国宝「初音の調度」のこともよくご存じのはずですが、美術史の本ではなく、映画のパンフレットだったので、輿入れの姫を尾張と宗家で逆にし、校閲がないままパンフレットに残ったのだと思います。

 徳川宗家に輿入れした御三家の姫は、徳川15代の中にひとりもいません。大名家から将軍正室となった例は二人いて、一人は薩摩藩島津重豪の娘。近衛家の養女という格式で11代家斉の正室になりました。家斉死去ののちは広大院と称する。もうひとりは、やはり薩摩藩島津家から近衛家に養女となったのち13代家定の正室となった天璋院篤姫。将軍の正室となれるのは、皇女か公家(摂家)の娘だけでしたから、尾張家の姫が宗家に輿入れということはありえないのです。

  論文として発表されたものは史実確認の上で書いておられるでしょうが、映画パンフに解説を執筆した時は、「奇想の系譜」から30年もたった頃。記憶で岩佐又兵衛の晩年について書き、婚礼の姫がどちらから輿入れしたか取り違えたのかも。

 もちろん姫がどちらからどちらに行こうと「奇想の系譜」の本の価値も映画山中常盤の価値も関わることはありませんけれど、家業が校正屋だもんでいささか気になったまで。
 歴史や地理のきちんとした校正は、夫の校正会社におまかせを。歴史事実や地理地名の誤記を見逃すことなく、本を完璧に校閲いたします。変体仮名や古文書の校正校閲もできますので、ご利用ください。
  
 映画を見たときのわたし(3月9日)


<おわり> 
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ぽかぽか春庭「奇想の系譜展 in 東京都美術館」

2019-03-21 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190321
ぽかぽか春庭アート散歩>早咲アート散歩2019(4)奇想の系譜展 in 東京都美術館

 昨今の伊藤若冲人気。私とミサイルママが第3水曜日に見にいって、5時間待ちの列を見てあきらめたくらい、すごいです。
 三の丸尚蔵館(皇室のお宝展示。無料です)に展示される若冲の動植綵絵を、展示されるごとに少しずつ見ていって、30幅全部見終わらないうちに若冲人気が爆発しました。三の丸尚蔵館は狭いですから、30幅一度に展示するスペースがないから仕方ありません。
 この前の東京都美術館の若冲展は、動植綵絵30幅が一度に見られる機会だったのに、5時間待ち、ミサイルママのOKが出ませんでした。私は数年前のお正月に清明上河図、ひとりで3時間まったことがあると、話したのだけれど、ミサイルママは「明日も朝早く仕事にいかなくちゃならないから」という。

 この江戸絵画ブームは、辻惟雄の『奇想の系譜 又兵衛‐国芳』(美術出版社 1970)から始まっています。しかし、私は1988年にちくま学芸文庫版が出るまで、岩佐又兵衛も曽我蕭白、長沢芦雪などの江戸絵画についてほとんど知りませんでした。江戸絵画の画家たちの名を知るようになってからも、これほどのブームになるとは予想もしていませんでした。20年前の娘息子たちの美術教科書でも、江戸絵画は渡辺崋山、丸山応挙、歌川広重、葛飾北斎が定番、ようやく琳派がでてきたころでした。

 今回の東京都美術館の「奇想の系譜ー江戸絵画ミラクルワールド」展は、辻惟雄が世に知らしめた6人の画家に辻の弟子で本展の監修者山下裕二が選んだふたりを追加し、8人の画家による江戸絵画の総集編、という趣です。

 岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳という辻が論じた6人に、白隠慧鶴、鈴木其一を加えた8人の代表作。 
 新発見絵画もあったし、海外の美術館に収蔵されていて今回最初の里帰り展示となる作品もあり、見どころの多かった展覧会でした。


 以下、画像はすべて借り物。

 私としては、岩佐又兵衛の「山中常盤物語」が一番の目玉。
 2017年にMOA美術館リニューアルオープン。記念展示として「山中常盤」12巻一挙公開というときに、熱海に行きたかったのですが、シューキョーケーどうしたもんか、とぐずぐずしていて見にいかなかった。それ以来自分の狭い料簡を残念に思っていたところでした。まったく、自分と違う考え方ものの見方に対して広く自分を開いていかなければいけないと、深く反省。
 美術館の展示品は宗教とはまったく関係ないし。税金かからない宗教のお金を、美術品購入に使うのはいいことです。たぶん。

 今回東京都美術館で「山中常盤物語」を見ることができるので、前売り券、買いました。シルバー券800円。2月9日オープニングの日、30分並んで11時に入館。
 又兵衛「山中常盤」は、12巻のうち、前期4巻、後期5巻の2巻分だけの展示。前期に観覧した私は、第4巻の「常盤殺害」のハイライト部分を見ることができました。

 岩佐又兵衛「山中常盤」前半の山場、常盤御前殺害の場


 後半は、母の敵を討つ牛若丸の物語。
 常盤御前は源義朝の側室となり牛若ほか3人の子をもうけました。義朝の死後は平清盛の側室となったという伝説も残しましたが、こちらは伝説の域を出ず、史実としては、一条長成に再嫁して一条能成らを生む。絶世の美女で賢い女性と、物語には残されていますが、その最後はさだかでない。そのため、さまざまな伝説が生まれました。

 常盤伝説のひとつが、「山中常盤物語」。
 東北にいる義経を追って、侍女とふたりで旅している途中、山中宿で山賊に殺されるとの物語。仇討ち物語は、牛若丸15歳の時の話になっています。
 義経ヒーロー物語のひとつとして、御伽草子などでは人気のストーリーでした。

 戦国の世を潜り抜けた岩佐又兵衛、凄惨な場面をリアルに描いています。
 又兵衛は戦国武将荒木村重の息子。主君信長を裏切った村重への見せしめとして一族600人が皆殺しにされたとき、乳飲み子の又兵衛ひとりが助かった、という運命の子でした。

 『山中常盤物語絵巻』は、又兵衛が仕えた越前松平家が転封となった先の津山藩松平家に伝来したもので、1925(大正12)年5月の東京美術倶楽部による「松平子爵家所蔵品売立て」に出品されました。ドイツ人が買おうとしたところ、寸前に第一書房社主長谷川巳之吉が家屋敷を売って買いつけに成功し、海外流出を食い止めました。MOA美術館が長谷川から買ったのか、間に所有者転変があったのかはわかりませんが、ドイツまで出かけなければ見ることかなわず、ということにならなくてよかったです。12巻全部ドイツにとどまっていればまだしも、1巻ずつバラ売りされていたら、ストーリーをきちんと伝えることも難しかったでしょう。

 これまで見たことなかった伊藤若冲も展示され、横浜美術館で見た国芳展には出ていなかったのもあり、充実した8人衆でした。

 入場すると一番はじめにど~んと目に入る大画面。伊藤若冲の左隻「鯨」右隻「象」の屏風です。

 伊藤若冲「象と鯨図屛風」 紙本墨画 六曲一双 各159.4×354.0 寛政9年(1797) MIHO MUSEUM
 右隻「象」
 かわいらしいぬいぐるみのような象です。

 左隻「鯨」

 左の鯨、国芳の豪快な鯨に比べるとおとなしい印象でした。

 歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」大判錦絵三枚続1847 これは横浜で2012年に見た覚えあります。刷り物だから、私が見たのとは違う版かもしれませんが。

 宮本武蔵が鯨と闘ったというのも史実とは思えない伝説ですが、江戸の想像力は天衣無縫。

 ↓こちらも初めて見ました。
 曽我蕭白「雪山童子図」着色 一幅 169.8×124.8 1764(明和元)年頃 三重・継松寺

 お釈迦様が前世で子供のころ、鬼と出会ったというエピソードなのですって。
 蕭白は、漂白奇行の絵師。誰も蕭白など相手にしなかったとき、松阪の村田彦左衛門祇昌が飲んだくれの蕭白に絵を描かせ、その絵を1771(明和8)年に、継松寺に寄進したとそうです。

 海外流出後、日本初公開の鈴木其一
 「百鳥百獣図」絹本着色 双幅 各138.0×70.7cm 天保14年(1843)天保14(1843)年 米国・サンアントニオ美術館 キャサリン&トーマス・エドソンコレクション
左隻

右隻


 奇想の系譜展、どの絵も、一幅一幅見入ってしまう、すごい絵でした。

 日本の美術教育において、江戸絵画が教科書に載るようになったのは、つい最近のこと。私は美術の教科書で若冲も曽我蕭白も観たことありませんでした。
 思うに、日本の学校美術教育は、明治以来、江戸を否定し西洋を追いかけることが中心だったからだと思います。

 日本人がその価値に気づかないうちに、海外流出した江戸絵画がたくさんあります。里帰りでようやく見ることができた絵のひとつ。これもすごい迫力でした。

「老梅図襖(旧・天祥院客殿襖絵)」狩野山雪1646正保3年 メトロポリタン美術館所蔵


 今「奇想の系譜展」にかくも大勢の人が詰めかけるのを見て、今後まだ知られていない江戸の画家のだれかが、眼のある人に見いだされる、なんてこともあるかもしれません。今回の展示の事前調査で、地方の旧家に所蔵されていた伊藤若冲「梔子雄鶏図」と長沢芦雪「猿猴弄柿図」が見いだされ、本展に展示されていました。まだまだある「新発見」

 展示監修者山下祐二と辻暢雄が相撲博物館所蔵の狩野山雪『武家相撲絵巻』の展示の前で話し合っているのを、うしろから聞き耳たてて聞きました。(3月9日映画『山中常盤』上映後)
 「いやあ、相撲博物館にこんなすごい絵があったなんて、長年気づいていなかったですよ」と、山下先生。
 山下先生は、京都国立博物館で「狩野山楽山雪展」(会期1913(平成25)年3月30日~5月12日)が開催されたとき、主任学芸員として「武家相撲絵巻」を展示し、狩野山雪筆という鑑定を出しました。

 脇にいた一行の女性が「でも、おすもうさんたちは、昔からみんなこの絵を見てきたんだそうですよ」「あはは、この絵の存在を知らなかったのは、美術史学者ばかりなり」と、先生。
 正式な鑑定のおかげで、今や相撲博物館のお宝。
 私も相撲博物館を見学したことがあり、この絵を目にしていたはずですが、ただ相撲の決まり手を絵にしたものと思って通り過ぎたんだと思います。目ない者には、お宝が眼前にあってもわからない。残念。
 
 海外の美術館博物館には、まだ調査が行き届いていない「輸出された茶箱の中の、お茶の包み紙にされていた浮世絵」なんていうのも倉庫に眠っているらしい。もったいない。

 一番いいのは、春庭が海外旅行した先の蚤の市でなにやら見たことのない絵画を安く手に入る。それは一般に知られていない作品で、研究者の鑑定によって絵の価値があがり、オークションに出してみたらとんでもないお宝値段がついた、、、、って、私の鑑賞法はやっぱりそっちばかり。

 2月9日のわたし


<つづく> 
コメント (4)
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ぽかぽか春庭「岡上淑子展 in 庭園美術館」

2019-03-19 00:00:01 | エッセイ、コラム

 岡上淑子「夜間訪問」1952

20190319
ぽかぽか春庭アート散歩>2019早春アート散歩(3)岡上淑子展 in 庭園美術館

 2月20日水曜日は、庭園美術館へ。都立美術館65歳以上無料になる第3水曜日のひとり散歩。白金植物園で早春のフクジュソウなどを見たあと、岡上淑子展をみました。

 「岡上淑子展」会期:2019年1月26日(土)〜4月7日(日)
 岡上淑子(おかのうえ としこ、1928- )は、日本の写真家、コラージュ作家。2019年1月で91歳。

 岡上淑子は、1950年代、滝口修三(1903~79)によって「シュルレアリズム」のコラージュ作家として見いだされ、写真切り抜きのコラージュ作品を発表しました。活動期間は7年ほど。結婚出産によって創作活動を中断。10年の結婚生活ののち、離婚後は高知で暮らし、1990年代まで、作品を公に発表することなく「幻のコラージュ作家」となっていました。

 高知で生まれ1歳で東京に転居。東洋女学院を経て恵泉学園を卒業。
 1950年、文化学院に進学し、服飾を学ぶ。デザインの課題で切り絵を制作し、コラージュ手法を知り、ヴォーグなどのファッション雑誌を中心に写真切り張り(コラージュ)する。

 恵泉のクラスメート若山浅香が武満徹と結婚したことにより、武満の友人だった瀧口修三と知りあう。瀧口邸で、マックス・エルンストのコラージュ作品を見たのち、シュルレアリズムを意識した写真やコラージュを制作、個展を開く。
 1957年に文化学院で美術科の藤野一友と結婚し、1959年、第一子誕生。離婚後高知に転居。

 (藤野一友1928-1980)東京生まれ。画家を志して慶應義塾大学を中退し、文化学院大学部美術科に入学。在学中の1951年には二科展に初入選し、シュルレアリストとしてキャリアを積む。1950年代の読売アンデパンダン展に出品を続ける。また瀧口修造の紹介で、タケミヤ画廊で初めて本格的な個展を開き(1954年)、以後数回の個展を開く。装丁、挿絵、舞台美術などにも携わる。他にも同人誌に、小説や詩を発表したり、劇の台本や演出、映画制作をしたりと多彩な活動を行ったが、離婚後1965年病に倒れ、右半身が不随となる。以後闘病を続けたが、再起することなく1980年51才で没した)
 
 30年間、作品を公表することなく高知で暮らしていた岡上が「復活」したのは、1996年、「ライトアップ-新しい戦後美術像が見えてきた」展(目黒区美術館)に出品して以後。金子隆一(写真家、写真史家1948~)によって岡上の「再発見」によるものでした。

 金子隆一さん。写真美術館の学芸員であり、写真史家として著名な方である、と私が知ったのは2年前。それまでは「新年に雅楽演奏を披露する篳篥演奏家」という面だけを見てきて、写真史家ということは知らずに毎年写真美術館で雅楽を聞いて「今年も正月気分になった」と思っているだけでした。(現在は写真美術館の元学芸員、ムサ美講師)

 2000年以後、岡上淑子は、毎年のように作品発表を行っています。今回展示の作品は、写真美術館、東京国立近代美術館、高知県立美術館などの所蔵作品が中心ですが、米国ヒューストン美術館からの里帰り展示もあります。
 第1部マチネは、旧朝香宮邸だった本館での展示。第2部ソワレは、新館での展示です。

 「幻想」1954


 2019年1月26日-4月7日の庭園美術館での「フォトコラージュ沈黙の軌跡」展は、1950年代の作品が中心で、近作の展示は少なかったのが少し残念でした。
 高知での活動を知ることができるのは、1970年代に描かれた日本画「薔薇」と「校舎」の2点のみですが、岡上の子ども時代の写真などの貴重な記録や瀧口修三とかわした書簡などが展示されていました。

 まったく存在を知らなかった岡上俶子の初期からの主要な作品を見ることができ、とても充実した展覧会でした。
 
 懺悔室の展望1952 ヒューストン美術館蔵


 水族館1952 栃木県立美術館蔵


 沈黙の奇蹟1952 東京都写真美術館蔵


 とてもシュールなコラージュの数々。
 岡上は、1950年代初めに文化学院に入り、服飾の勉強をはじめました。町の人々は、ようやくモンペを脱いで手作りでスカートやブラウスなどを作り始めた時代でした。
 米国に帰国した進駐軍の婦人たちが残していったファッション雑誌がどっと古本屋の雑誌コーナーにならんだ時代、服飾を学ぶ若者たちにとって、きらびやかなドレスは夢の国から来たように思われたかもしれません。

 けれど、岡上が見つめたファッション誌の中の女性たちは、美しいドレスで装いながら顔がない。岡上がコラージュで貼りなおした女性たち、顔が扇だったり馬だったり。魚が飛び出すピッチャーだったりします。はたまた、首だけが気球に結ばれて上昇していく。

 この時代。欧米の女性たちは、フランスやイタリアのファッションに身を包みパーティの花形になっていても、実は自分自身の顔を失っていたのではないかしら。
 シュールな世界なんだから、意味づけをしようというのは無意味なことかもしれません。しかし、どれもこれも顔を持たないドレスの女性を見ていくと、岡上が10年間の結婚生活を清算して生まれた土地に戻っていって理由を想像したくなります。
 岡上を取り巻いていたのは、「顔のない女たち」の時代だったからのように感じるのです。

 むろん、夫を支えて生きるというのも、ひとつの生き方であり、それを全うすることが生きがいになっている妻も大勢いました。岡上のクラスメートであった若山浅香は、武満徹夫人として過ごした年付きを、「お金もうけはできない作曲家の夫を支え続けた日々」として語っています。インタビュー本「作曲家・武満徹との日々を語る」で、どんなときも夫とともに歩んできた人生を輝かしく回顧しているのです。 

 一方の岡上は、画家藤野一友との結婚生活の間、創作活動から遠ざかっていました。10年間の「妻」としての暮らしは幸福なものだったのかどうか、離婚の事情などはいっさい語られていませんし、離婚後、生後1歳まで過ごした高知を生活の場として選んだ経緯も、高知での生活についても、展覧会ではいっさい明らかにされていませんでした。

 展覧会に、高知で暮らした1970年代に制作した日本画が出品されていました。はっきり言って、日本画はごくありふれたものでした。コラージュのシュールな爆発力を持つ圧倒的な作品に比べて、なんだか大人しい。色彩感覚や構図はさすがですが、コラージュに比べてもの足りませんでした。

 岡上のコラージュについて、世評はどれも好意的です。
 でも、私とは感じ方がことなる人も当然います。たとえばあるサイトの評では「岡上作品に登場する女性達は首すらすげ替えられ、分断されています。閉塞感から一気に解放され、歌い踊り自由を謳歌しているかのようです」と書かれていました。http://girlsartalk.com/feature/31354.html
 違和感がありました。

 作品をどのように感じ取るのかは自由です。でも、首を馬にすげかえられ、床の上に横たわる女性を、私は「自由を謳歌している」ようには感じませんでした。首が気球につながれて浮遊する女性も、、、。

 外に連なるどくろを前に談笑する女性ふたりの首はくっついていますが、窓の内側が懺悔室であるならば、「このどくろは私たちには無関係よね」と笑い合っているように見えるのです。現在のおおかたの人々が「原発事故も沖縄も、私たちには無関係」と笑って暮らすように。

 岡上のコラージュ作品には、ぼんやりした不安や死の恐怖、自分自身の存在のあてどなさ、などを感じてしまいます。岡上が活躍した1950年代、私はこどもでしたが、まだまだ「戦争の影」が社会を覆っていたことを子どもながらに感じていたから、岡上の醸し出す死の不安や恐怖が伝わったのだと思います。

 戦争が終わって、鬱屈してきた女性たちがいっせいに町に出て、華やかなドレスを身にまといました。西欧の華やかなファッションを、岡上は服飾を学びながら雑誌で知りました。
 進駐軍将兵の婦人たちが日本を去る際に不要な雑誌を置いていき、華やかなファッションの数々が日本社会に浸透していきました。
 岡上は、古雑誌からグラビアを切り抜き、独自の感性でコラージュしていきました。

 それは自由を謳歌する女性の姿だったのでしょうか。
 岡上のコラージュしたファッション雑誌には、ドレスとともに、水爆実験や核兵器開発など、様々なメディアで取り上げられることがらが掲載されていました。ファッション誌も決して社会から断絶したものではなく、岡上がその目で見た、戦争、焼け跡の東京というつらい記憶の残影。コラージュには、岡上が感じてきた戦争や空襲の恐怖も張り付けられていると思います。

 もし、これらのコラージュが「自由を謳歌」したものなら、武満浅香が、作曲家の夫を何十年も支え続ける人生を選んだように、岡上も、画家藤野一友を支えた10年間を放棄しなかったのではないか、と、私には思えるのです。

 岡上淑子の研究を続けている神保京子(東京都庭園美術館学芸員)さんに、91歳岡上のインタビューをしておいてほしいです。

 岡上の作品、1950年代のコラージュ作品だけでも、戦後美術史に燦然と輝く存在だと思います。
 できることなら、90歳代の今も、制作を続けていてほしい。「大人しい日本画」なんて言いましたが、91歳には91歳の感性がある。片岡球子や小倉遊亀などの日本画女性画家は100歳まで描いていましたし、入江一子も堀文子も100歳すぎて描いています。
岡上淑子にもぜひ。

  岡上が切り抜いたファッション雑誌の時代の華やかなドレスが展示されていました。
左:クリスチャン・ディオール 1952 イブニングドレス
右:クリストバル・バレンシアガ 1951 イブニングドレス


 単純な思い付きですが。
 雑誌の中のファッションモデルの首を切り取って岡上がコラージュしたのは、洋裁につかうドレス人体からのイメージかもしれない。仮縫い用の首なし人体からのイメージかも。
 ドレスを制作している間、人体には首がない。服だけが主張し、ドレスを着る人間は意識されない。そんな洋裁の現場で、岡上はドレスを着ているファッション雑誌のモデルたちが人体以上の人間存在には思えなかったんじゃないか。
 してみると、やはり岡上淑子は、「人体としての女性」を見つめていたのだろうなあ、と思えます。頭部はない。欠落した頭部のかわりの扇子、水差し、、、、、。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「顔真卿展」

2019-03-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190317
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(3)顔真卿展 in 東京国立博物館

 2月9日夕方から夜まで、東京国立博物館平成館で顔真卿展を見ました。書道史にうとい私、中国の歴史的な書家の名は王義之を知るだけで、顔真卿という名、今回の展覧会まで知りませんでした。
 地下鉄のホームに顔真卿展の大きなポスターが貼られていても、「どうせ字を見ても読めないし」と、あまり行く気分ではなかったのです。招待券も手に入らないし。

 今年の春節旅行ブームのあり様、「爆買い」から少々変化した、というニュースの中、中国人観光客のインタビューが出ていました。行き先は第一に上野の東京国立博物館、なんだそうです。「中国人が顔真卿を見る機会は今をおいてない。台北故宮にに旅行しても、顔真卿をいつも展示されているとは限らないので、日本で見ておくしかない」

 あらま、爆買いより先に見ておきたい顔真卿とはなんぞや。私の美術情報源「日曜美術館」で特集していました。

 顔真卿(がん しんけい709-785)は、唐代の政治家・書家・学者。孔子の弟子顔回の末裔にして著名な学者一族の出身。唐の玄宗楊貴妃の時代の人です。楊貴妃の親族、楊国忠が絶大な権力をふるっている時代で、玄宗は楊貴妃に溺れて政治を放り出し、やりたい放題の楊国忠は、実直な顔真卿をうとんじて左遷します。
 
 756年、安禄山の反乱が起こると、左遷されている身ながら、顔真卿は唐朝のために兵をあげ、軍功なって反乱をおさえることができました。しかし、ともに戦った一族の犠牲は大きく、顔真卿の一族顔杲卿とその息子顔季明は、戦いのさなか殺されてしまいました。

 この親子の死を悲しみ、顔真卿が書いたのが「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」です。「姪」とは、日本語では兄弟姉妹の娘をさしますが、ここでは顔真卿の甥をさしています。

 顔真卿は、こののちも不遇がつづき、反乱軍説得の任をにつきます。反乱軍につかまって、唐を裏切り、反乱軍に加わるように言われても唐朝への忠義を貫き殺されてしまいました。以後、歴史上「忠臣の代表」として歴代皇帝からも篤く敬われてきました。

 王朝が変わると、散逸してしまうこともあったさまざまな皇室の宝物のなかでも、「祭姪文稿」は特に大切に受け継がれて、清朝の故宮にまで伝わりました。
 中国で共産党毛沢東と国民党蒋介石の内戦が起きたとき、蒋介石は故宮の宝物を何隻もの船に乗せて台湾に運びました。

 顔真卿の「祭姪文稿」も現在は台北の故宮博物館が所蔵していますから、大陸の顔真卿ファンがどれほど焦がれても、おいそれと見ることはかないません。台湾政府が中国にお宝を貸し出すことは、まずないでしょうから。
 それが、上野で見られる、と、解説されて、ようやく「これは見ておかなくちゃ」と、チケット買って見にいきました。一般券1600円。会期:2019年1月16日(水)―2月24日(日)

 中国と日本の書道史の流れがよくわかるような展示で、いろいろな書体の違いなども解説を読みながら、進んでいきます。古来の名筆が並んでいるのですが、むろん私には猫に小判。どれも美しい書体だなあと思うのみで、一目見てこれは王義之、これは空海などとわかりはしません。でも、美しい字に触れて、いつかそのうち書道をやってみたら、きっと今日見た字が絵心の栄養になっているに違いないと思ってみました。

 会場内でこれだけは撮影OKだった大きな拓本。唐玄宗筆《紀泰山銘》唐時代・開元14年(726)東京国立博物館蔵


 李家の四宝など、貴重な拓本もたくさん出ていました。長い中国の歴史のなか、王朝もかわると前代の貴重な品がなくなることも多く、元の石碑が失われてしまい、「拓本だけが残された」という名筆も少なくありません。紙ではのこらないけれど、石なら永遠に残る、と思っていたけれど、石も残らないなら、拓本もまた必需品。
 
 目玉の「祭姪文稿」。混むことは予想されていたので、2月9日土曜日の夜間開館にねらいを絞りましたが、夜になってもやっぱり混んでいました。閉館30分前に入場締め切りの時間がねらい目です。
 夜8:30-9:00に、ようやく落ち着いてみる時間がありました。

 顔真卿「祭姪文稿」安史の乱で殺された甥とその父を痛む文章の草稿です。筆が乱れたり書き直したりの跡が、いっそう顔真卿の悲しみの極みの心をよくあらわしている、として、中国の名筆の中でも第一級の名品とされています。ガラス越しですが、生で見ることができてよかった。日本語訳は、会場にも出ていましたし、ネットにもいろいろありますから省略。
 

 中国台湾両国にとって大切な宝ですから、相互に見ることができるような交流が成立するといいのですが、今のところそうもいかないらしく、日本で見ることができた私はらっき~。

 平成館ロビーの顔出しパネル。顔出したかったけれど、今回は撮影できず。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「書の美ー手鏡と王義之」

2019-03-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190316
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(2)書の美ー手鏡と王義之

 熱海のMOA美術館。書の名品が並んでいました。国宝3点目。「手鏡 翰墨城」
 古来の名筆を集めたものが手鏡。翰(筆)と墨によって築かれた城という名がついています。
 戦功なった武将が、一国一城を与えられた時、「名物の茶碗が欲しかったのに、国を与えられて残念」と言ったように、城や国ひとつよりもこの「翰墨城」のほうがほしい、という価値観を持った人もいたにちがいない。 

 古筆の名品は、一幅の掛け軸だけでも貴重ですが、それが、何枚もの色紙が重なって、奈良時代から南北朝・室町時代の各時代にわたる古筆が、表側154葉、裏側157葉の合計311葉収められているのです。
 江戸時代の古筆家別家の古筆了仲(りょうちゅう1655~1736)が所蔵し、茶人として名高い益田鈍翁(1847-1938)に伝わりました。
 
 白氏文集切 伝菅原道真 平安時代
 

 高野切「古今和歌集巻九」伝紀貫之 平安時代 


 詞書切「和漢朗詠集」伝小野道風 平安時代

 
 美しい文字だなあと感嘆しつつ眺めましたが、白氏文集も古今和歌集も、ちゃんと読めたならもっとこの美を味わうことができるのだろうと、名筆を見るたびに思うのですが、、、、。

 「帰雲」無準師範墨跡 


 この二文字はちゃんと読めました。
 無準師範(仏鑑禅師1178~1249)は、中国南宋時代の禅僧。
 東福寺の円爾へ無準の書が多く贈られ、伝来しました。この「帰雲」は、徳川家の「柳営御物りゅうえいごもつ」として所蔵されたのちに、MOA美術館へ。

 ほかに何点も名物切が展示されていました。書の研究者なら食い入るようにして一日中眺めていたいでしょうが、書の美にうといHALは、「読めないし、、、」と言いながらささっと見て歩く。

 2月28日、東京国立博物館東洋館の「王義之書法の残影」展。常設展示のなかの企画として見ることができました。南北朝時代と隋時代の書を中心に、中国の名筆の拓本が展示されていました。

 5階の特集「王義之書法の残影」


 王義之「定武蘭亭序」
 王義之を深く敬った唐の第三代太宗は、蘭亭序とともに葬るよう遺言。蘭亭序の本物は、太宗とともに墓の中で朽ち果てました。まったく、なんてわがままな。
 しかし、太宗が命じて臨書が行われ、それを石や木版に刻んだ書の拓本は、何種類か残されました。「定武本」は、五代から北宋時代初期に碑石が発見された定武郡の名がついています。さまざまな版の覆刻があり、東京国立博物館が所蔵する蘭亭序もそのひとつ。

定武蘭亭序(呉炳本) 王羲之筆 中国 東晋時代・永和9年(353)



 書道を志す人たちが、垂涎の思いでみるであろう古筆の数々、仕事リタイアしたらお習字したいなあと、いつになるやら知れぬ夢を見つつ、美しい文字をながめました。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「紅白梅図屏風 in MOA美術館」

2019-03-14 00:00:01 | エッセイ、コラム

 尾形光琳「紅白梅図屏風」

20190312
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(1)紅白梅図屏風 in Moa美術館

 MOA美術館の国宝3点のうちのNo.1は、尾形光琳の「紅白梅図屏風」です。梅が咲く時期にだけ公開するというので、今回はちょうどよかった。

 紅白梅図屏風は弘前藩津軽家に伝来したものです。醍醐冬基娘の綱姫が近衛家煕の養女となって第5代藩主嫡男津軽信興(1695-1731)との縁組整い、その婚礼祝い品として描かれたのではないか、という説が有力らしい。家煕と尾形光琳は知り合いだったので、注文があったのだろうと。

 信興は36歳のときハシカで死去。第5藩主津軽信寿(1669-1746)の跡を継いだのは、信興の長男信著。第6代藩主に。
 子どものころハシカにかかっておけば軽く済むけれど、大人になってからかかると命取り、というのを実践した信興。子どもは無菌で育てちゃダメよね。雑菌にまみれることも、子供を強く育てる。閑話休題。

 津軽家からの売り立ては、華族制度廃止にともなって財産維持できなくなった華族所蔵の美術品がどっと売られた時期かと思ったのですが、大正年代終わりごろの売り立てなのだとか。
 岡田茂吉が直接買い付けたのか、間に所有者がはさまったのか、わかりません。

 尾形光琳(1658-1716)は、江戸中期、8代吉宗のころの画家・工芸家。若いころは裕福な実家の気楽な次男坊として遊楽三昧でしたが、父の死後、稼業の呉服雁金屋の商売が傾き、絵で世に立ったのは40代から。59歳で亡くなるまで、現在では国宝、重要美術品となっている作品を残しています。俵屋宗達に私淑し、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始した琳派の作風に、呉服デザインを取り入れたすぐれた作品を生み出しました。

 「紅白梅図屏風」も、梅の木の、白い花を見せている老木、若い紅梅、そして真ん中を流れる抽象画のようなデザインの川の流れ。



 ガイド音声を借りて聞いて絵や書を見て回り、紅白梅図屏風の絵具の化学組成分析についての解説があり興味深く聞きました。東大の分析では紅白梅図屏風の背景の金色は金泥絵具で金箔を貼ったように描いたもの、という分析結果が出たあと、MOA美術館の再分析ではやはり金箔を貼りつけたもの、という結果が出たとのことでした。

 見た目にはどちらの分析が正しいのかわからないですが、どうせのことなら金箔のほうがありがたそうな。
 津軽家婚礼調度品として制作されたなら、金箔代金惜しまなかったろうと思うのですが、どうでしょう。

 図象の解釈にはさまざまな論がでており、諸説百花繚乱それぞれに面白いですが、自分の見方で楽しめばよろし。
 私の楽しみ方?岡田茂吉はいくらで買ったのかしら、、、って、そればっかり。

 そのほか、お宝ずらりでした。

 長谷川等伯「故事人物図屏風」中国の有名な聖人の姿を描いています。名利を追わず、真実の諫言ができた人物たち。

右隻:伯夷と叔斉

左隻:屈原


 諫言もできず、おもねることしかしないどこかの国の政治家には、伯夷と叔斉、屈原らの故事をしっかり学んでほしいですが。

 「樹下美人図」
1914(大正3)年に、西本願寺門主大谷光瑞派遣の中央アジア探検隊によって請来。東トルキスタン、現在の新疆 (しんきょう)ウイグル自治区トゥルファンの喀喇和綽(カラホージヨ)古墳から出土しました。紙を貼り合わせたパネルに描かれています。紙の作品がこのようにしっかりした形で残っているのはたいへん貴重です。墓からは、ミイラ化した被葬者も発掘されました。元は、戸籍記録の紙。戸籍の記録保存期間終了後に再利用しています。
 現在、東京国立博物館に所蔵されている樹下男子図と対をなすと伝えられています。樹下男子図は、MOA美術館の樹下美人図と同じ墳墓から出土(東博の表記ではアスターナ墳墓出土)し、新疆省布政使・王方伯が自分のものとしましたが、いろいろな経緯ののち、現在は東博が所蔵。

 「樹下美人図」中国唐時代8世紀


 発掘された国の宝を地方の役人が私物化するというのも、すんごいことですが、なんだかんだで、日本が買い付けた、というのも時代ですね。1912年に清朝滅亡しています。1914年は孫文中華民国樹立して2年。まだ地方行政は整っていない頃ですから、私の想像では、大谷探検隊は、お宝ごっそり持ち帰る条件として、地方の長官にお宝の一部をわいろとして渡していたんじゃないかしら。勝手な想像です。

 似た図柄の正倉院の鳥毛立女屏風はだいぶ劣化していますが、樹下美人図は墓の中に封印され、1200年のあいだ美人のまま眠っていました。

 参考までに。樹下男子図


 次回、MOA美術館の国宝3点目。

 <つづく>
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ぽかぽか春庭「娘と美術館 in Moa美術館・熱海」

2019-03-12 00:00:01 | エッセイ、コラム

 尾形光琳「紅白梅図屏風」

20190312
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるのうた(7)娘と美術館 in Moa美術館

 熱海へ遊びに来た目的のひとつは、梅林の梅見、もうひとつは尾形光琳の紅白梅図屏風を見ること。
 ホテルチェックアウトして熱海駅へ。あいにくの雨ですが、駅からバス乗り場まで屋根があったので、ぬれずに8番乗り場へ。
 熱海駅からMOA美術館行のバスに乗車、7分ほどで到着。

 MOA美術館は、世界救世教が聖地とする熱海瑞雲郷に立つ美術館です。
 教主岡田茂吉が収集した美術品などをもとに1982年開館。国宝3点のほか、重要文化財や秀吉の黄金茶室復元も公開しています。

 バスを降りて、入り口でチケットを買う。熱海梅園の入園券提示割引100円で1300円。


 富士美術館でも同じこと思ったんだけど、宗教法人は税金かからないんですから、入館料無料にしてほしい。せめて70歳以上タダに。世のため人のために役立つってことで無税なんでしょうに。

 入り口から展示室へ行くまでがすごい。山の斜面をエスカレーターで登っていく。たぶん、ビルの6階分くらい上がった勘定。エスカレーターに飽きないように、途中の踊り場には天井いっぱいに「万華鏡」という映像作品が投影されていて、これをじっと眺めている人もいました。

 エレベータ延々続き、5回くらい乗り換えました。

 天井一面の万華鏡。映像の色がつぎつぎに変わっていきます


 展示第一室は、黄金茶室復元の部屋
 純金の茶道具


 秀吉らしい成金趣味のきんぴかりん。組み立て式の茶室を御所にも運んで、かしこきあたりにお茶をたてたそうですが、飲まされるほうの気分はどんなものだったのでしょう。
 私はどっちか選べと言われたら、やっぱり待庵の2畳のほうがすんなりお茶飲める気がします。待庵に招待されることは一生ないでしょうが。

 岡田茂吉は、元は大本教の信者で、独自の宗教観により独立しました。
 この宗派でよく知られているのは、手を人にかざして、「これで病気がよくなります」という活動。今も、駅前でやっていたりするのを見かけます。手から光だったか磁力波だか出てくるんだそうです。岡田茂吉の死後、宗派の間で主導権争いがあり、分派がいろいろ出たので、どこが駅前でやっているのかはわかりませんが。

 昔、母の早世のあと、わんさかやってきた新宗教勧誘者のうち、この手かざしの人たちに対し私の父は「あんたに手をかざしてもらうと、ほんとうに病気が治るんだな」「本当です」「じゃ、やってくれ。俺は今病気もちで医者にかかっているけれど、あんたが手をかざしたあと、病院へ行って治っていなかったら、詐欺で訴えるぞ。それを承知なら、さあやってくれ」と言いました。

 病気のうち、心理的なものも多いので、治ると信じて手をかざしてもらえば、本当に治る人もいるのだとは思うのですが。駅前で他人のためにいっしょうけんめい手を当てている人たちを見ると、自らが信じるもののために、熱心に活動することがその人の生きがいになっているのだから、いいんじゃないかと思っています。

 創価学会の信者は800万世帯2千万人いるとされているのに比べると、世界救世教の信者数80万人前後で、桁が違いますが、それでも80万人がひとり千円のお布施を上納したとしても、たちまち8億円が集まり、オークションでけっこうな値段の絵を買い放題。(ちなみに新宗教の公称信者数を全部足すと、日本の人口の2倍だか3倍くらいになるそうですが)

 国宝の第1は光琳の「紅白梅図屏風」ですが、第2は「色絵藤花文茶壺」
 野々村仁清(生没年不詳)は、丹波国桑田郡野々村(現、京都府北桑田郡美山町)の出身。本名清右衛門の清と、仁和寺門前に窯をたてた縁で「仁清」という号をつけました。

 私の世代の者、あるいはもう少し年上の世代には、「仁清」と言えばすぐに頭にのぼるのは、1959年に世を賑わせた「偽永仁の壺」事件。「永仁二年」と書かれている壺が発見され、加藤唐九郎が解説を書き、文部省のお役人が重要文化財の指定を出しました。しかし、贋作の疑いによって再調査をする中、加藤唐九郎またはその息子の作品であったことが判明した、という事件です。私が10歳のころの出来事。贋作ということばを覚えた事件、美術とは何か、本物とは何か、ということを強烈に印象づけられた出来事でした。鑑定者が本物と言えば、偽物も本物として通用するなら、本物と偽物の差はなんだろうと、子ども心に思いました。

 こちらの仁清「色絵藤花文茶壺」は丸亀藩京極家に伝来したもの。
 藤の花があでやかな壺。きれいです。ただし、私はコピーの贋作を並べていても区別はつかぬ。


 娘が一番興味を持った作品は。
 「洋人奏楽図屏風」16世紀桃山時代 重要文化財
 左隻

 右隻(画像借り物)


 日本画の顔料を胡桃油または荏油(じんゆ・エゴマあぶら)で溶き、油絵のように仕上げています。画家の名前は残されていませんが、日本人が洋画のように描いた、ということは分かっているみたい。
 
教師たちに伴われてきた画家が日本人に画法を教えたのか、絵の心得のある宣教師がいたのか。セミナリオやコレジオで洋画の技法をならった信徒が、布教のための絵を書いた、そのうちのひとつ。
宣教師が元になる絵を見せたのかもしれませんが、見たこともない西洋の洋人たちの奏楽や読書の光景を描いているとき、画家見習いの少年は、どのようにまだ見ぬ世界を感じていたでしょうか。(セミナリオで絵を習っていたのは、少年使節のイメージがあるので、少年画家以外想像できないけれど、信徒のおっさんだったかもしれません。どうせ想像だから、美少年ということにしておきたい)

 この布教用に描かれた油絵様の絵の技法は、キリシタン禁止のあと、直接は伝わらなかったみたいです。やがて平賀源内、秋田蘭画などが洋画の技法を学び、江戸蘭画が描かれるようになりますが。
 洋人奏楽図は、同じ構図の絵が永青文庫にも伝わっているということなので、こちらも見てみたいです。MOA美術館の「洋人奏楽図」は、旧明石藩に伝来したもの。

 MOA美術館の展示、最後の部屋は写真家現代美術家杉本博司が熱海の海を写した写真の数点「海景ATAMI」でした。
 私は2016年東京都写真美術館のリニューアルオープン記念の杉本の写真などの展示「ロストヒューマン展」を見ました。9月に見て、もう一度10月に観覧。MOA美術館とどういうつながりがあるのか知らずにいたので、国宝や重文の展示の最後にいきなり杉本博司だったので、どうしてこの人の写真がここに、と思ったのですが、どうやらMOA美術館のリニューアルに関して、杉本が一枚かんでいたらしい。
 「展示スペースの設計は、世界的に活躍する現代美術作家・杉本博司氏と建築家・榊田倫之氏によって主宰される「新素材研究所」が手がけました」とのこと。
リニューアルオープン記念の展示が杉本博司でした。それで、最後の部屋は杉本の展示室に。常設展示なのかどうか、わかりません。

 昨年私が三十三間堂の千体仏を見たかったのも、杉本が千体仏を撮影した「加速する仏像」を写真美術館で見たからでした。
 https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/0811d3e88f197805b112408c1cf9ac8c

 娘は、紅白梅図屏風を庭に仕立てた、という庭園を見たかったし、私は尾形光琳の屋敷図面から復元建設された「光琳屋敷」でお茶に和菓子でもいただきたかったところでしたが、雨が強くなってきていて、傘さして少し離れた場所まで行く元気がふたりともなかったので、今回はパス、ということに。

 バスで熱海駅に戻って、駅ビルのなかで私は金目鯛煮つけ定食、娘は船盛り刺身定食を食べて、息子に駅弁鯛めしを買って帰りました。
 帰りの踊り子号は、終点になるまでふたりともよく寝ました。けっこう盛りだくさんな熱海温泉一泊、疲れたけれど、娘も「満喫した」という旅になって、おいしいものもいっぱい食べて、よかったよかった。

 次回、「紅白梅図屏風」

<つづく>
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ぽかぽか春庭「娘と熱海温泉」

2019-03-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190310
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記春(2)娘と熱海温泉

 熱海梅園からは、宿泊するホテルの送迎バスに乗りました。
 「オーシャンビューと全館禁煙というのも条件だったけれど、梅園とホテルの間に送迎バスがあるっていうのも決め手のひとつ」というのが、数ある熱海温泉の宿のなか、なぜ「後楽園ホテル」にしたか、という娘の理由です。

 ロープウエイ入り口側から見た後楽園ホテル

 ホテルにチェックイン。5つ星ホテルです。
 娘は「それほど5つ星という雰囲気ではないけど」と言うのですが、私は、国内では5つ星ホテルはロビー利用するだけで、宿泊したことなんかなかったので、5つ星と3つ星がどれほど違うのかもわからない。

 2階のロビー


 お部屋は、ふたりで泊まるには広すぎると感じる部屋(6人用の部屋なので、浴衣なども6枚用意されていました)

 眺めはばつぐんです。


 部屋に荷物を置くと「明日は雨の予報だから、ロープウェイに乗ろう」と、ホテルの裏手にあるロープウェイへ。

 乗車時間3分間、日本一短いロープウエイですと。


 ロープウェイの上には、熱海城と秘宝館があります。秘宝館を見るつもりはなかったけれど、熱海城から眺める熱海の街並みと海は、熱海を代表する景観と言うので登ってきたのです。5分ほど坂道を歩いて熱海城到着。


 熱海城。観光用新出来の城ですから、中に入りはしませんでしたが、熱海城前から山の下を眺める夕暮れの風景、「海と温泉街」の眺めを、娘としばらく見ていました。
 熱海城前からの眺め


 娘は私の「無料好き」「食べ放題好き」を知っているので、ホテルの夕食は「懐石料理」と「バイキング」の両方があったなか、バイキングのほうを選択。
 バイキングですから、ビーフステーキの肉質やら料理のグレードはそこそこで、特にこれが目玉、という料理もなかったのですが、娘は「あげたてのテンプラがおいしい。このごろうちは自分で揚げないで、スーパーのお惣菜てんぷらばっかりだったから」と。


 料理のグレードはともあれ、ふたりともおなかがはちきれるまで食べてしまうのは、いつものバイキングと同じ。とりあえず少量づつ出ている料理を皿にのせて、味見。あとは好きなものを好きなだけ食べる。
 娘は「もうおなかパンパン」と言いながらも、チョコレートファウンテンにマシュマロつけるのが「楽しいから」と大好きで、デザートを食べたあともやっていました。デザートは「焼きたてアップルパイ」を食べました。

 パンパンのおなかをさすりながら食休みして、温泉へ。海が見える温泉。町の夜景もきれいに見えて気持ちのいいお風呂です。

 だれもいないからいいと思って一枚写しましたが、娘が「入浴に使わないものを浴室に持ち込んではいけません」という注意書きを発見。しまった、カメラを持ち込むのは禁止でした。もう撮っちゃった。

 お風呂から部屋に帰って、テレビをかけたのですが、「母はテレビつけっぱなしでソッコウ寝落ち」という、いつもの早寝つき。

 5時から朝風呂が始まるというので、5時半からひとっ風呂浴びました。
 朝ごはんもバイキング。娘は朝ごはんのラインナップのほうが好きなおかずが多かった、と言っていました。ホテルの朝ごはんというと、ラインナップに日本そばが出ることが多いですが、ラーメンが出て、あごだしのスープがとてもいいお味でした。娘はミニラーメンが気に入りおかわり。私はラーメンのあと、シリアルにヨーグルトと牛乳をかけたものとフルーツ。
 またしてもおなかパンパンで、私はチェックアウトまでもうひと眠り。娘はもう一風呂。

 きょうの私。ロープウエイ展望台にあった、恋人たちの祈願絵馬の前、「結びのリング」の中から顔を出して。


次回MOA美術館

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「娘と熱海梅園」

2019-03-09 00:00:01 | エッセイ、コラム

 熱海梅園3月2日

20190309
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるのうた(4)娘と熱海梅園

 娘といっしょに熱海温泉へ行ってきました。
 娘は学生時代、地理学授業のフィールドワーク地として熱海に来たことがあります。息子は学生時代に友人たちと熱海に泊まりました。
 で、私は、69歳にして初めての熱海温泉。東京の人はだれでも一度くらいは熱海で温泉に入るのに。
 温泉名所の上州生まれだもんで、帰省するたびに温泉に入り、山の温泉はあちこち行きましたが、海を眺めながら温泉に入るということがなかったのです。

 子どものころ、熱海は関東の新婚夫婦がこぞって出かける新婚旅行地として知られていたし、若いころは、会社慰安旅行の定番。熱海と言うと、小説金色夜叉の「貫一お宮の像」をはじめ俗っぽさの代表、みたいに感じていました。温泉に入って、秘宝館の展示物を職場の男どもがウッヒヒと眺めてきて、宴会でがぶ飲み、夜は麻雀大会というイメージの熱海でした。だから熱海に何の魅力も感じなかったのです。温泉に入るなら山の温泉、と思っていました。

 娘が熱海に行ったときは、「昔は繁盛したのに、バブル崩壊後、町全体が地盤沈下、おみやげ店街は、典型的なシャッター街」というさびれ具合の時代でした。
 それが、「団体客にたよらず、熱海自身の魅力を発信していく」という方法でV字回復。今では若者も海外からの観光客も訪れる「日本を代表する温泉地」の地位を取り戻した、というので、まあ、いつかは行ってみようかと思っていたのです。

 下水道マンホールもちょっと小ジャレた熱海温泉


 3月2日夜、息子は友人たちと飲み会があり、友達の家での「徹夜イエ飲み」という予定だというので、娘が「母娘旅」を企画しました。
 娘が旅行店に予約に行って、往復の踊り子号とホテルと全部手配してくれました。
 ホテルは「全館禁煙」「オーシャンビュー」のふたつを条件として、海辺の後楽園ホテルになりました。

 3月2日朝、9時20分発特急踊り子号グリーン車に乗車。日ごろ、グリーン車なんぞ使うことはないのですが、今回は奮発。

 撮り鉄の小学生に交じって踊り子号を撮影。


 私は、娘とのふたり旅というだけでウキウキです。娘の生活時間にしては早起きして、午前中は「ボーっとしてる」はずの娘も、海が見えてきたら「海だ!」と喜び、踊り子号車内販売が今月半ばで終了するというので、せっかくだからと、記念にコーヒーとお茶を買い、ぼうっとしている間もなく熱海駅着。
 車内販売員さんは、あと3回で踊り子号乗車は終了となり、今後は金沢新幹線などで販売するそうです。販売員さんも「お花見の時期まで延長してもよかったと思うんですが、終了してしまうの、残念です」と言っていました。JRもコスパ重視で、人件費の割に売り上げが低い路線は車内販売中止みたいです。

 販売員さんにOKをもらって、最後から4番目の乗車を記念撮影させてもらいました。美人販売員さんにコーヒー淹れてもらうのも最初で最後。



 駅前バスターミナルから、元箱根行きのバスにのりました。初日のメインイベントは熱海梅園の梅見ですが、梅見の前に来宮(きのみや)神社へ。

 息子が熱海で来宮神社にお参りしたとき「ご神木大楠の周囲、一回めぐるとに1年寿命が延びる」という伝説があった」というのを聞いて、「こりゃ30周くらいしてこなきゃ」という気になったのです。

 まずは、参道大鳥居前の鳥居前で記念撮影。


 参道右側の第二大楠のまわりを一周。
 樹齢1300年。300年前の落雷で幹が割れたけれど生き延びた、霊験あらたかな巨樹です。


 本殿参拝のあと、樹齢2000年超という大楠のまわりを回りましたが、娘は一周で「疲れた、1年寿命が延びたから、まずはこれでいいか」と休憩入り。


 私は「1周で10年寿命が延びるという宇宙幸福原っぱ教のワタクシルールを作り、もう一周する」ことに。20年伸びました。
 「2周すれば20年伸びるから」とワタクシルールを教えると、日ごろ歩いていない娘ですが、がんばってもう一周しました。第2大楠のまわり1周とあわせれば、30年は寿命伸びた、、、はず。信ずるものも信じない者も、大楠さまの霊験あらたか。
 1300年の大楠も2000年の大楠も、木霊が住んでいそうな巨樹でした。

 参道入り口の鳥居前の神社直営お休み所で「軽いランチ」として金目鯛茶漬けを食べて、タクシーで梅園へ。どうしてランチを「軽く」したかというと、晩御飯はホテルバイキングだから、満腹にしちゃダメなんです。

 

 娘の計画では3月2日土曜日がMOA美術館で3日日曜日が梅園だったのですが、日曜日雨の予報でコースが逆になりました。
 梅園は、3月3日が「梅まつり最終日」です。園内の梅はもう盛りをすぎて「名残のひと咲き」という雰囲気でした。ホテル宿泊予約表を見せて入園料ひとり100円。

 息子が熱海梅園に来たときは雪の次の日だったのだとか。「雪と満開の梅」の写真をケータイの画像フォルダで見せてもらってきた娘は「う~ん、オト―ト君の梅満開写真から見ると、だいぶ、たそがれているなあ。園内いっぱいに広がる梅の花を期待していたのに」と言っていましたが、梅まつり最後の日、ということは、もう梅も終わりということなので、仕方なし。梅の花以外の見どころもたくさんあったし、広い園内くまなく散歩しました。

 

 見どころその1 梅見の滝。「オトート君が滝の裏側に回れる、と言っていた」と、先達の観光案内どおりに裏側から滝を覗くことに。美術館の脇の太いパイプで水をくみ上げている人工滝だと思いますが、流れ落ちる水を裏から見る遊び心、楽しかったです。

  

 見どころその2 澤田政廣記念美術館。
 文化勲章受章者で熱海市名誉市民という澤田政廣(1894-1988)、私は全く知らない彫刻家でしたが、作品を見ることができました。
 娘は建物の天井ステンドグラスが気に入り、ステンドグラスのクリアファイルを買いました。私も絵葉書セットを買い、青い鳥さんへの「I'm aliveシリーズ」に使います。今月で960枚になります。

 園内撮影禁止なのでステンドグラスの画像借り物


 外の彫刻は撮影できます。「蒼穹」1960


 見どころその3 中山晋平記念館。


 作曲家中山晋平(1887-1952は、私も知っていました。2階のビデオから流れるカチューシャの唄もゴンドラの唄の♪命短し恋せよ乙女も、波浮の港も東京行進曲も、みんな歌える。私が子供のころの「なつかしのメロディ」でした。娘は「母、全部歌えるんだね」と言う。娘もいくつかの童謡は知っていました。

 見どころその3 金大中と森喜朗が熱海梅園で歓談したことを記念して作られた韓国庭園などもまわり、庭園の近くで梅まつりイベントのひとつ「猿回し」を見物しました。見に行ったときにはほとんどの芸は終わっていて「最後にいちばん高い棒を飛び越えます」という大技棒高跳びを見ました。ちょっと怖がって見せたり、なかなか芸がこまかい。

 私のポリシー「大道芸は15分見物100円30分200円感激したら500円」なのですが、娘は「お猿さん、かわいいから500円あげる」と奮発。記念のケータイストラップをもらい、さらにおさるさんとツーショットの写真も撮らせてもらいました。

 戦豆社中のゆずさんと2歳のぽんずちゃん。コンビを組んで2年。修業後、デビューして1年目のフレッシュコンビです。


 熱海梅園の梅まつり、満喫してホテルへ。次回、チェックインのあとホテルの部屋で。

 きょうのわたし。
 盛りをすぎた枝垂れ梅と、大幅に盛りをすぎた姥桜、、、、、(心の中は満開69歳。気は心)



<つづく>
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ぽかぽか春庭「上野散歩ART meets MUSICほか」

2019-03-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190307
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるのうた(4)上野散歩ART meets MUSIC

 2月28日、上野公園アート散歩。
 仕事の平日は行き帰りの通勤で歩くだけで、たいていは3千歩、多い日でも5千歩なので、美術館を一めぐりすると1万歩になり、これでビール飲んでも大丈夫っていう気になります。大丈夫じゃないんだけれど。

 28日は一日冷たい雨の日でした。歩いたコースは、東京文化会館→国際こども図書館→黒田記念館→上島コーヒー店→東京国立博物館→上野駅構内三代目たいめい軒

 東京文化会館小ホールに着いたときは、すでに長蛇の列。「ART meets MUSIC 時代でつながる絵画と音楽」というイベントに出かけたのは初めてでしたから、こんなに人が集まるものだとは思っていませんでした。
 なぜ初めてかというと。これまで東京都美術館で行われるたいていの展覧会は、第3水曜日高齢者無料の日の観覧でしたから、年齢証明書だけで入場し、チケットを買わなかったのです。チケット半券があると、関連イベントに参加できます。



 「奇想の系譜展」の関連イベントのうち、「東京都美術館×東京文化会館×東京都交響楽団」という東京都歴史文化財団に属する3団体共同企画のミニコンサートと、映画「山中常盤物語」の上映会、ふたつのイベントはどちらもとても魅力的だったので、前売りチケット買ったという次第。

 今回の「ART meets MUSIC・時代でつながる絵画と音楽」は、江戸の奇想画の画家が生きた江戸と同時代の西欧作曲家という、かなりおおざっぱなくくりの「絵画と音楽」です。
 2018年夏の藤田嗣治展の関連「ART meets MUSIC」は、「日本とフランス―重なる旋律」というつながりで、ラベルの弦楽四重奏曲ヘ長調と中山晋平の童謡を並べるという選曲で、日本とフランスを行き来した藤田の生涯にあっていると思います。ムンク展のときはノルエーの音楽ということで、グリーグが出てくるのは当然か。
 が、今回の江戸奇想画と「ハイドン&シューマン」は、江戸時代と同時代に西欧で活躍したという関連のほか、あまり奇想画とは重ならないような、、、、いいんです。無料で音楽を楽しめました。

 東京都交響楽団の主席奏者メンバー中心の弦楽四重奏。 第1ヴァイオリン渡邊ゆづき(司会も担当)第2ヴァイオリン双紙正哉ヴィオラ樋口雅世チェロ古河展生。ピアノ小川典子

 演奏開始前の小ホール


・ハイドン「弦楽四重奏曲・皇帝」
・シューマン「ピアノ五重奏曲変ホ長調」

 どちらもとてもよい演奏でした。
 皇帝はいろんなところでいろいろな四重奏を聞いてきたけれど、今回、皇帝ファンならみな知っているであろうけれど、私は司会のマエセツで初めて知った「小ネタ」をきき、より一層身を入れて、今では第2楽章がドイツ国家となっている「皇帝」を聞きました。

 小ネタ。皇帝第1楽章の始まりのコード「GEFDC」は、Gott erhalte Franz den Kaiser(神よ皇帝フランツを守り給え)の頭文字をとったものだ、ということです。ハイドンさんもなかなかゴマすり上手。

 私は、オーストラリアハプスブルグ帝国のフランツ2世をたたえた「皇帝」が、統一後のドイツ民主共和国の国家となった経緯について、これまで知らないまま、どうしてオーストリア国歌からドイツ国歌に国替えになったのか、知りませんでした。長い歴史のあれこれがあったんですね。このへんのいきさつ、サッカーで歌われる国歌について調べた人は知っていたみたいですが、サッカーを見ない我が家では知識が入ってきていませんでした。

 無料が好きな春庭、第3水曜日に無料で展覧会を見るのもいいですが、関連イベントに気に入ったものがあれば、これからもチケット買おうかと思いました。

 第3木曜日は旧奏楽堂で500円コンサートがあり東京芸大の学生さんが演奏するのではなかったと思って旧奏楽堂へ行ってみたら「今日は第4木曜日です」と言われました。そうでした。残念。昼ご飯を藝大大浦食堂で食べようと思ったら、入試の期間は構内立ち入り禁止。残念。

 国際こども図書館の食堂で「お得弁当」を食べました。550円。豚肉炒め卵焼きミニサラダ。リニューアル以来、この図書館でいちばん多く利用したのは、カレーライス410円という値段のカフェベルかも。

 上野でもたまにしか来ないこども図書館なので、ポスターに出ていた「イランの絵本展」をながめていこうかと思ったのですが、会期は3月から。残念。

 いつもはささっと見る明治の建物をじっくり見ました。これまで気づかなかったドアノブのところに「おす登あく」と書いてある札に気づきました。(変体仮名の変換ができなかったので、もとの漢字登を記載)
止,登,東,度,土などたくさんあった変体仮名の「と」のなかで、条件を示す「と」に「登」が使われたのはなぜか、という疑問が頭に浮かびました。
 中学生のグループがドアのまわりに来たので、「登は、'と'って読むんだよ」と言おうかと思ったら、ガイドツアーの一団で、ちゃんとガイドさんがついて説明していました。

 階段前のドア


 おす登あく


 それにしても、1906(明治39)年竣工のこの旧帝国図書館、私は、樋口一葉が足しげく通った「上野の図書館」だとばかり思っていました。安藤忠雄設計で2002(平成14)年にリニューアルオープンして、建物の説明をいろいろなところで目にするようになると、一葉は明治29年に亡くなっているので、一葉が通ったのは、この建物が竣工するまえの古い建物だということがわかりました。

 雨の中、こども図書館から黒田記念館へ。こちらもなかなかの建物。黒田清輝(1866-1924)が、大正13年に没するさい、財産の一部は美術振興という遺言を残しました。その遺産を使って、1930(昭和5)年に、美術学術的調査研究と研究資料の収集を目的とした美術研究所(現東京文化財研究所)が建てられました。設計は、岡田信一郎。
 現在、こども図書館と黒田記念館の間の建物が東京文化財研究所に宛てられ、元の建物は補修して黒田記念館になりました。

 黒田の作品、美術の教科書にでているような有名どころは特別室にあり、期間限定開室です。「湖畔」や「智・感・情」、「舞妓」などは、特別室で展示。

 通常展示室には黒田作品や関連作品が展示されています。今回の特別展示は黒田がパリで洋画修行しているときに師匠だったコランの作品を見ることができました。

 「梅林」1924 黒田最晩年の絵です。

 3月2日に梅を見に行く予定なので、「梅林」の絵葉書を買って、青い鳥さんに送りました。951枚目

 黒田記念館を出て東京国立博物館へ行こうとしたら、雨が激しくなっていて、これは東博に行くまで、傘さしていても濡れるなあ、と思ったので、黒田記念館内の上島珈琲で一休み。コーヒー400円。2階にはソファ席もあって、ゆったりと雨宿りできました。

 雨が少しは小降りになったので、東博へ。「顔真卿展」を見たとき、関連展示として東洋館の「王羲之書法の残影―唐時代への道程―」があったのですが、時間がなかったので、あとで見ることにしました。展示を見ても、書法の良しあしなどわからないHALですが、見ておけばなんらかの脳の栄養になるかもしれず、というほどの見学です。(ご報告はのちほど)

 5時の閉館時間には博物館を出て、上野駅構内の「三代目たいめい軒」に寄りました。ケータイに入っている歩数を見て、「1万歩超えた、ビールよし」と自分にOKを出して、瓶ビールと蟹クリームコロッケ、ボルシチ(というか、キャベツの薄味トマト煮スープミニカップ)50円を注文。

  おいしくビールを飲み、1万歩歩いて消費したカロリーを30分でもとにもどして帰宅。

<つづく>
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