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春を待ちつつ食べ歩き2011年2月

2010-09-25 12:12:00 | 日記
ぽかぽか春庭「ミス・サイゴンとクメール天女アプサラ」
2011/02/13
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(3)ミス・サイゴンとクメール天女アプサラ

 日本語講師は、世界中の留学生と出会うので、世界のいろいろな食べ物にも興味津々です。毎年、前期の終わりと後期の終わりに非常勤講師仲間と打ち上げエスニック巡り食事会をしています。今回、春庭が「連絡係」になりました。店の下見や予約をして出席予定者に連絡をしなければなりません。
 下見報告をします。

 講師仲間の後期打ち上げ会のエスニック料理食べ歩き候補にあがったのが、ブラジル料理、ロシア料理。でも、「シュラスコを中心にしたブラジル料理店とボルシチやピロシキが定番のロシア料理店は「行ったことがある。どうせ行くなら、まだ食べたことのない国の料理がいい」という希望が出されました。
 今まで受け持った留学生の国を思い出しながら検索してみました。

 日本語講師たちのなかで、中南米で長く教えてきた先生は南米料理に詳しくなっているし、タイ料理なら任せてという先生もいる。皆お得意の地域があります。春庭は「ケニアで暮らした経験がある」ということになっています。でも30年も前のことだし、ケニア料理店ってのは、東京にもありません。世界中のエスニック料理が食べられる東京ですが、中央線沿線または渋谷新宿池袋の駅から徒歩3分以内のロケーションで飲み物つきひとり3000円程度の予算。ゆったり座れて静かにおしゃべりを楽しみながら食事ができるところ、というのが条件です。

 アフリカ料理の店はヨーロッパ各国料理やアジアンエスニックに比べるとそれほど多くない。今回はアジアンエスニックとアフリカ料理を下見しました。
 中華料理は別格として、アジアンエスニックの中で、一番多いのはタイ料理店。その次はたぶんベトナム料理でしょう。次がカンボジア料理。ラオス料理となると数少なくなる。
 
 2月10日、渋谷でミシェル君お勧めのチョコを買ってから井の頭線で吉祥寺へ行きました。A先生お勧めのベトナム料理店「ミスサイゴン」は、吉祥寺マルイの横。店内は「内装にはお金をかけずに、低予算で仕上げました」という雰囲気ですが、感じはいい。
 揚げ春巻き、生春巻き、キャベツとナッツのサラダ、海老レモンフォー、レタス炒飯、ベトナムコーヒーゼリー、蓮茶のセットで1500円。
 駅から近いというのが、いいところ。
http://r.gnavi.co.jp/g930501/

 2月12日は、友人のK子さんといっしょに、飯田橋のカンボジア料理店アプサラへ。クメール料理(カンボジア料理)は、タイ料理ほどスパイスが強くなく、家庭料理という趣。飯田橋から神楽坂を上っていく途中、宮城道雄記念館の方向へむかった袋町に隠れ家のようにありました。アプサラというのは、海の泡から生まれた美しい天女の名。クメールのヴィーナスのことです。

 シェフはプノンペン出身、サービスはタイの東北地方イサーンの出身と言うことでした。K子さんはカンボジアの米粉麺クイティウ・ランチ、私はナスと挽肉炒めランチを頼みました。どちらも780円。タイ料理ほど辛くなく、辛さに弱い私には食べやすい。半分ずつシェアしました。デザートは甘く煮た南瓜が入っているパンプキンプリン。
 店内はそれほど広くないですが、15人くらいなら入れる、という席数。
http://www.green-travel.co.jp/apsara/

 ベトナム料理、クメール料理、どちらにするか、迷うところです。
 次回はカメルーン料理報告。

<つづく>
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2011年02月15日


ぽかぽか春庭「ラオス料理」
2011/02/15
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(4)ラオス料理

 打ち上げ会の下見行脚を続けております。アフリカカメルーンレストラン報告の前に、アジアンエスニックをもうひとつご紹介。ラオタイ食堂「ランサーン」 
 2月14日、吉祥寺にあるランサーンに行って来ました。JR吉祥寺駅の北口を出て、西荻窪方面へ線路沿いに3分ほど歩いて行った先のローソンとセブンイレブンの間のビルの2階にあります。地図はこちら
http://e-food.jp/cgi-bin/restfind/view1.cgi?no=706&mo=1

 メニューは、タイ系の辛い料理と、ラオスの伝統的な料理の両方。
 ラオス料理の主食は、草を編んだ円筒のお弁当箱のような容器に入った餅米。カオ・ニャオです。私は黒米入りのカオ・ニャオを注文しました。片手でおにぎりを作る要領で手の中で団子のようにして、おかずといっしょに食べます。

 おかずは、中国語の香菜(シャンツァイ)、(英語ではコリアンダー)などのハーブををつかった魚や肉の炒め物や揚げ物。「ラープ」は、ひき肉の香草炒め。「ラープ・バー」は、魚の炒め物。
 ベトナムのニョクマム、タイのナンプラーにあたる魚醤を、ラオスでは「パー・デーク」と呼びます。ラオス特製ソースとして、料理の味付けにも使い、食べるときに料理の上からかけて食べます。

 私はふくろたけとエビの炒め物を食べました。中華料理とどう違うのかと言われたら私にはうまく説明はできないのですが、魚醤がそれぞれの東南アジアの料理の特徴になっているといえるでしょう。
 タイ料理やベトナム料理も好きですが、ラオスの辛くない料理が混ざっていた方が私には食べやすい。

 ご主人に、伝統料理の日本的なアレンジについて聞いてみました。ご主人は「ラオス料理を現地で食べた旅行帰りの人が、ラオスで食べたのとは違う、と言ってくることがありますが、現地と同じになんて、できはしない。ラオスでは麺を作るにも麺の半分以上はたっぷり野菜や香草を使う。日本で香草を買おうとすれば、一束で200円300円もするから、ラオスと同じ量の野菜を入れようとすれば、一皿で何千円も取らなければ売れない。でも、一皿何千円もする料理は注文してもらえないから、現地と同じ料理なんて出せないながら味に工夫をしている」ということでした。

 「人件費もラオスと日本ではえらく違うし、吉祥寺は店の借り賃が都内でも高い方。都心の家賃は下がってきているのに、吉祥寺は下がらない」と、ぼやいていました。
 6時すぎに厨房に入った若い女性は、タイ人だということでした。人件費もたいへんなのでしょうが、なんとか、経営頑張って下さいと、言いたくなってきました。ご主人の「店を維持していくための苦労話」を聞いているうち、なんだか身につまされて、ベトナム料理もカンボジア料理もあとでまた食べに行くことにして、土曜日の打ち上げ会は、ラオス料理にしてもいいかと決めました。

 なにせ外は雪。2月14日、バレンタインデーの吉祥寺。横殴りに降ってくる霙に濡れそぼちながら、コチコチに冷えて固まった頭で計算。料理はなんとか予算内で収まりそうだけれど、飲み物はそれぞれ別料金ってことになりそう。ラオスの伝統的なお酒には、ラオラオと呼ばれる米焼酎や、ビアラオというビールなどがあります。

 ベトナム料理とクメール(カンボジア)料理のどちらがいいか、参加予定者にお尋ねしたところ、ベトナム料理は食べたことがあり近隣にレストランも多いので、食べたことのないクメール料理のほうがいいという意見と、食べたことのないカンボジア料理は味の想像がつかないけれど、タイ料理は味がわかるので、そちらに近い味のほうがよい、という意見の両方がありました。
 そこで、なかをとって、タイ料理と、タイ料理に近いラオス料理との両方を出すレストランをチェックしたのです。ラオス料理はまだ食べたことのない人が多いし、タイ料理に近いものも多いので味の予想がつくし。
 店のサイトはまだ工事中とかで、トップページしか出来上がっていませんでした。
http://www.lansang.co.jp
  ラオス料理の説明は明日もつづきます。

<つづく>
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2011年02月16日


ぽかぽか春庭「ランサーン」
2011/02/16
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(5)ランサーン

 東南アジアの国ラオスは、インドシナ半島の真ん中にある南北に細長い国です。東側はベトナムと接しており、南側はカンボジアと、北側にはミャンマーと中国との国境があります。西側はメコン川を国境にしてタイと接しており、タイ東北部(イサーン)地方とは、多くの共通した文化を持っています。ラオ語はタイ語族のひとつで、タイ語東北方言(イサーン・タイ語)とほぼ通訳なしに会話が通じるというし、米食を中心とした食文化もタイ東北部と共通しています。

 都内にあるラオス料理の店、「サワッディ」渋谷店・阿佐谷店や表参道「カイ」も、タイ料理とラオス料理両方を提供しています。

 「ランサーン」というのは、現在の社会主義国「ラオス人民民主共和国」になる前のラオスの歴史に出てくる王国の名前です。1353年に、ラーオ族によるラオス統一王朝ラーンサーン王国が建国されたのですが、東南アジアでは長くカンボジアやタイの勢力争いが続きました。19世紀にはラオスはフランスのインドシナ支配に翻弄されました。1953年にフランスから完全に独立したのですが、1975年には王制を廃止し、ラオス人民民主共和国が樹立されました。社会主義体制は現在も続いており、事実上、ラオス人民革命党による一党制が敷かれています。そのため、難民となって国外へ逃れる人もいました。

 「ランサーン」という王国の名をレストラン名にしているところから考えると、現在の社会主義体制には合わなかった人が経営者なのかなあ、と考えながら、夕食タイムオープンの5時に入店しました。
 ご主人は食材の段ボールなどを処理している作業中。注文は片付けが終わってからと言うことにして、作業中のご主人にインタビュー。

 ご主人は、40年もまえ、ラオスで電気工事の仕事をしていたそうです。工事に使う電気関係の道具や材料のほとんどにMade in Japanと書かれていたので、日本の技術の高さを知り、日本にあこがれ行ってみたいと願っていました。ようやく1975年に日本行きがかないました。「お仕事で来ることが決まったのですか。それとも留学?」と尋ねてみたら、あまりその辺には触れて欲しくないようで、「最初は観光ビザ」とだけ話してくれました。もう在日年数は35年にもなり、ラオスにいた家族も全員日本に呼び寄せているそうです。日本で電気工事の仕事を続けるツテもなく、レストランでアルバイトを続け、食に関わる仕事がもっとも生きていきやすいと考えるようになりました。

 20年ほど前にタイ料理とラオス料理のレストランを開業。現在、高い家賃と人件費に頭を痛めながら、なんとか経営しているけれど、ラオス料理はタイ料理ほどメジャーではないから、「ラオ・タイ食堂」として続けている、という話でした。
 ご主人のお名前をうかがったら、姓は日本の首相の名前と似ている、草冠のないカン。名は、ベトナムの国家主席であった人と同じ名の「志明チミン」。「親がつけてくれた名だ」ということでしたが、胡志明にちなんで名付けたのかどうかは不明。

ランサーン紹介のブログの中に、官志明さんの写真も出ていました。
http://www.thai-square.com/restaurant/shoukai/shokai_075.htm

 食事を終えて外にでると、入店時に降り始めていた氷雨が雪に変わっていました。バレンタインデーの雪。恋人たちはふたりでいれば寒くないでしょうけれど、チョコあげる人もいないオバハンは、ひとり寂しく駅の階段を上りました。
 今週は、打ち上げ下見、職場の打ち上げ会、来週はジャズダンスサークルの懇親会と、食べ歩きが続きます。5月のジャズダンス発表会、ちょっとはスマートになって舞台に立ちたいと思っているのですが、例年のごとく「ビヤ樽ポルカ」を踊ることになりそうです。

<つづく>
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2011年02月18日


ぽかぽか春庭「アフリカ料理」
2011/02/18
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(6)アフリカ料理

 北アフリカは、イスラム料理や地中海料理の影響を受けているので、エジプト、チュニジア、モロッコなどがひとつの料理圏を作っています。東京にあるアフリカ料理店はほとんどがこの北アフリカの料理です。
 西アフリカ料理は、フランス料理の影響を受けたものもあります。東アジアは、イギリス統治下で連れてこられたインド人が残留したこともあり、サモサなどインド料理がミックスしている。

 今まで私が教えたことのある留学生のうち、アフリカ出身の学生がいた国は。エジプト、リビア、チュニジア、モロッコ、セネガル、マリ、ガーナ、ナイジェリア、カメルーン、ウガンダ、ケニア。赤道以南では南アフリカ共和国のみ。赤道以南の留学生にはほとんど会っていません。南アフリカからの留学生もボーア系の白人だったのです。4月から教える留学生に、初めて黒人の南ア出身者がいるとわかって、どんな学生か、どんな出会いかと期待しています。エチオピアからの留学生も4月から担当します。
 教え子出身国の料理店を順に検索してみました。

 中央線沿線、または池袋、新宿、渋谷の駅から歩いて5分以内という条件で絞り込んで、セネガル料理、カメルーン料理などがヒットしました。
 カメルーン、2010年ワールドカップで日本と同じE組になったことなどで、その国名が日本人にも浸透しました。有力選手の名のうち。エトオというのも、江藤のようで、親しみがわきます。2月7日に、池袋のカメルーン料理店へ行って来ました。

 1995年からイギリス連邦に加入しているカメルーン共和国。独立前はヨーロッパの植民地として複雑な歴史をたどってきた国です。
 1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人が、エビの多いことからカマラウン(camarão,ポルトガル語で「小エビ」)と名付けました。しかし、ポルトガルがカメルーンを植民地にすることはなく、1870年代に、ドイツ帝国からの入植者が入り、保護領としました。第一次大戦後、敗戦国からの割譲を受け、1922年には西部がイギリスの「西カメルーン」、東部がフランスの「東カメルーン」として委任統治領となりました。ヨーロッパ帝国主義によるアフリカの毟り合いです。

 カメルーンは、政治的にはフランスの植民地だった地域とイギリスの植民地だった地域に分けられましたが、もともとは、遊牧民、農耕民の暮らす北部と、熱帯雨林の農耕民が暮らす南部とに大きく分かれていました。

 食文化は北部では、羊肉や牛肉のほか、とうもろこしなどの穀類が主食。南部の海岸地方では、キャッサバやプランテーン(調理用バナナ)、魚などをパームオイルを使って調理して食べてきました。
 カメルーンの国民食にあたるもっともポピュラーな料理は、ドーレ(ンドレ)と呼ばれるほうれん草などの野菜やスパイスをミンチしたおかずをご飯とまぜて食べるもの。ピーナッツシチューなどのシチューと一緒に食べるフーフー(ヤム芋の粉をこねたアフリカのおもちのような食べ物)、鶏やマトンなどの肉類、魚などの煮込みやグリル。

<つづく>
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2011年02月19日


ぽかぽか春庭「オーヴィレッジ」
2011/02/19
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(7)オーヴィレッジ

 ともあれ、カメルーン料理の味を知るために、「都内では唯一のカメルーン料理店」という池袋の「オーヴィレッジ」という店にいきました。ネットで地図を検索し、池袋東急ハンズのひとつ手前の角を曲がる、と頭に入れて歩いたのですが、生来の方向音痴、見事に間違えて、ぐるぐるとあたりを経巡っても見つからない。ブログのレストラン評でも、「わかりにくい場所にあるので、コンビニを目印に行くとよい」とか、いろいろアドバイスが書いてあったのですが。エスニック料理店は浮沈が激しく、ちょっと見ないでいると閉店してしまっていた、なんてことも多い。

 しかたないので、洋品を売っているらしい店の前に数人たむろしていた黒人ニイちゃんのひとりに尋ねました。たぶん、池袋のアフリカ関係のことを知っているだろうと思ったので。
 すると「その交差点を左にまがって、ゲームセンターのそば」と教えてくれました。そのニイちゃんはガーナから来たと言ってました。ガーナはカメルーンのお隣すじだから、たぶんその情報は正しいだろうと信じて、またぐるぐるあたりをまわります。にいちゃんの情報通り、ゲームセンターの先に店がありました。雑居ビルの3階。道路に看板がでているのですが、見落とします。ほんとうにわかりにくい。
 
 店内はとても狭くて、10人以上が集まると思われる講師打ち上げ会の会場としてはどうかな、と思いましたが、カメルーンから来日して5年になるというママさんは「10人、OK。OK」と請け合っていました。「ここに10人座るよ」とママさんが言うコーナーは、どう見ても4人掛けくらいのスペース。ここに10人詰め込まれたら、隣の人と袖がぶつかりそう。しかも貸し切りにはせず、「ここ、10人。ほかのお客さん、ここ」と、他の客も入れるつもりらしいので、ちょっと考えてしまいました。

 私は、どれでも一品500円、というランチメニューから、「鮭のキッシュ」と「ワニのなべ」を選びました。キッシュは、あまり味付けがしてなくて、別添えの辛いタレをかけて食べます。「なべ」というのは、煮込み料理のことのようで、別段鍋仕立てにしてあるのではなく、お皿半分にクスクスを盛り、半分に野菜の煮込んだものが入れてある。「ワニ肉」は、ひときれ小さめのがポンと上にのせられていて、あまり味はわからなかった。ウサギ肉、ヤギ肉など、日本ではあまり食べない肉をグリルにしたり、煮込んだ料理がメインのようです。

 シェフもサービスもひとりで受け持っているママさんの話によると、食材はカメルーンとの間を行き来して、自分自身で運んでくる。自分が行けないときは、カメルーンにいるお母さんに運んでもらう。「この店の野菜、全部カメルーンのヤセイね」と解説してくれました。野生の野菜?まあ、30年前にケニアの田舎にホームステイしたとき、畑というより野っ原に出て、そこらの葉っぱを摘み取って煮て食べた家庭料理がありましたから、わからないでもない。

 池袋に店を出してから5年たち、ようやく学校の入学費用もできたので、現在渋谷の長沼スクールに日本語を習いに行っている、と話していました。私は1990年に短期間でしたが、長沼スクールで日本語を教えたことがあったので、そんなことから話がすすみました。
 5年の在日期間にだいぶ日本語の会話は上達したようですが、系統的に学習した人の日本語に比べて、耳から覚えた日本語は通じるけれど、やや表現が乱暴になります。
 通じることは通じるけれど、接客用語としてそれはドーヨという表現も「通じれば文句ないでしょ」式。フランクな日本語と言えるけれど、長沼スクールで「客に対して失礼のない日本語表現」が学べるといいのだけれど。

<つづく>
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2011年02月20日


ぽかぽか春庭「カメルーン料理」
2011/02/20
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(8)カメルーン料理

 いまオーヴィレッジのママさんがいっしょうけんめい制作中という自作メニューを見せてもらいました。
 「パン」が「バン」と書いてあったり、促音の小さい「っ」や長音の「ー」がなかったり。初級日本語学習者が間違えることの多い仮名遣いの見本のようなメニューになっていました。メニューの字体も自由で、かえって手作りらしい味を出しています。アフリカ流の「こまかいことは気にしない」マインドとでも言いましょうか。

 さすがにメニューに誤字はまずいだろうと思って、ママさんに許可をもらって、少々誤字をなおしました。「ウサギニクシチコ」。カタカナ「コ」は「ユ」の書き間違いでしょう。「うさぎ肉シチュー」の意味だろうとわかったのですが、「ヤサイタフリニクシチュ」というメニューの意味がわからず、「たふり肉って、何の肉ですか」と質問したところ、「野菜たっぷり肉シチュー」でした。
 デジカメで撮った写真が貼ってあるので、日本語の説明が少々わかりにくくても、どんな食べ物かはわかるからいいのですが。

 「フフ、やむのこなおもち」は、ヤム芋を粉にしたものを蒸しパン状にしたもので、ケニアのウガリ(とうもろこし粉の蒸しパン)のようなものだということがわかりました。カメルーンでは、ヤムの粉やキャッサバの粉を練ってオモチ状にして主食とし、野菜煮込みやピーナツスープにつけて食べるそうです。

 ママさんは、カメルーン料理教室も実施しており、近々カメルーン料理レシピ本を出版するのだと、息巻いていました。大使館の仕事のために来日してから、カメルーン料理店を切り盛りするようになるまで、とてもたくましく生き抜いてきたという感じがするジュディさんです。
 「本を売るパーティ、みんな来るよ、あなたもくるね」と、誘われましたけれど、、、、
 「オー・ビレッジ」みんなでワイワイ日頃食べたことのないカメルーン料理をつっつけば、狭さは気にならないかも、とも思いましたが、やはり一番のネックは10人ではゆったり座れそうにない、という点です。

 今期受け持った初級ゼロスタートクラスにカメルーン出身の留学生がいます。私がカメルーンからの留学生を受け持つのは、彼が二人目です。アフリカからの留学生は他の地域に比べて人数が少ない。アフリカの学生はアメリカか旧宗主国のヨーロッパに留学したがるので、日本に留学する学生は稀少です。
 今期のカメルーン留学生、ゼロスタートであいうえおの書き方から日本語学習を始めましたが、とても熱心で努力家。よく漢字の練習もしています。文法の飲み込みも早く、ほんとうに頭のいい学生です。

 「知る」という動詞を教えていたときのこと。
 「知る」は他の動詞とちょっと文法的に異なる部分があります。質問の時には「~を知っていますか」と「テイル形」で聞かなければなりません。「あなたは、○○を知りますか」と質問したら、日本語が下手な外国人と思われてしまいます。しかし返事をするときは「はい」なら「ええ、知っています」と、「テイル形」でいいのに、「いいえ」のときは「いいえ、知っていません」と答えたらダメ。「いいえ、知りません」と答えなければならない。
 留学生はよく間違えます。文法学でいうとアスペクトの問題なのですが、留学生にはアスペクトなんていう文法用語を使わずに説明し、とにかく習うより慣れろ。

 ペア練習をさせたところ、カメルーンからの留学生ヘンリー君は「エトオを知っていますか」と、隣の席の留学生に質問していました。隣のリェンフォンさんは、サッカーに興味のない中国人女性だったので答えは「いいえ、知りません」でした。私がリェンフォンさんに「劉暁波リューシャオボーを知っていますか」と尋ねたときも、「いいえ、知りません」でした。関心のない分野の人の名はわからないものです。たぶん、劉暁波の名、中国国内ではほとんど報道されなかったのだろうと思います。リェンフォンさん、2010年10月に来日するまで知らされてこなかったこの名を「知っています」と言えるようになってほしいけれど。

<つづく>
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2011年02月22日


ぽかぽか春庭「楽しクラス」
2011/02/22
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(9)楽しクラス

 カメルーン料理、店の広さに難点があったので、打ち上げの会場には不向きでしたが、2月18日、初級クラスのカメルーン出身ヘンリー君とA先生を誘ってもう一度ランチを食べに行きました。

 中国や韓国など、留学生仲間も多く、すぐに友人が作れる国の留学生と異なり、カメルーン出身の留学生は同国人の友達を見つけるのもなかなかたいへん。留学が成功するかどうかは、いろいろな国の人と友達になる柔軟さを持っていることと同時に、気軽に母語でおしゃべりできる友人を持てるかどうかにかかっています。
 カメルーンの海辺の出身か北部遊牧地帯の出身かで、だいぶ「ママの味」にも差があるようですが、出身地の名をつけたレストランを一軒くらい知っておくのもいいのではないかと考え、ヘンリー君がカメルーン料理店を知ることで友達が増えればいいなと思ったのです。

 ヘンリー君の在籍するクラスの最後の授業で、私はいつものお得意の「日本文化紹介授業」を実施しました。「手順の説明」というタスクで「最初に・まず、次に、それから・そして」など、順序立てて作り方などを説明する読解文を読みました。読解文では「図書館カードの作り方」というあまり面白くない内容だったので、さっと読み、次に「手順の説明が聞き取れるかどうかの応用問題」と称して、折り紙のカブトの作り方を説明しました。

 説明しながら皆でいっしょに折っていきます。どうしても角と角をぴしっと合わせられない学生や、なぜか上下を逆さまにしてしまう学生もいて、教師が折り直しをして、A3裏紙利用の練習用カブトを折りあげました。次に、大型広告チラシ(マンションの販売広告)を正方形に切ったものを利用して、大きなカブトを作りました。出来上がったのをかぶって大喜び。ケータイで写真を取り合って、「サムライハットだ!」とはしゃいでいました。

 授業が終わったあと、事務官にシャッターを頼んで全員で記念撮影。学生がケータイで撮った写真も「私のメールに送ってね」とメールアドレスを伝えたところ、オリバ君が日本語のメール文とともに皆の笑顔の写真を送ってくれました。

「私たちはすべての先生からすごいいじゅぎょうをもらいました。どうもありがとうございました。楽しですね!」

 「すごいい授業」とは「すごく良い授業」の意味でしょう。「楽しですね!」の気持ちは、写真の笑顔からも伝わってきましたよ。

 100クラスは、16日水曜日の試験終了後、クラス全員で集まり「おわかれクラスランチ」の会を行いました。「しゃぶしゃぶ食べ放題パーティ」へ、私にも参加を募るメールが届いたのですが、残念ながら他大学での試験実施があり、参加できませんでした。
 参加なさった先生から「楽しい会でした」とうかがい、学生からのメールでランチパーティの写真も届きました。

 試験の結果、よい成績で進級する学生もおり、わずかに点数が足りずにもう一度初級後半からやり直しという学生も居ます。クラス皆が、それぞれの春に向かって新しい第一歩を踏み出せるよう、応援していきたいと思いました。

<つづく>
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2011年02月23日


ぽかぽか春庭「お別れランチ」
2011/02/23
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(10)お別れランチ

 そんな「楽しクラス」での授業を終え、ヘンリー君は別の大学の大学院へ行きます。これでクラスメートともお別れになってしまうので、カメルーン料理店で新しい出会いがあるといいなと思いつつ、料理を頼みました。
 ビーナツシシュー、オクラシチュー、キャッサバのフフ、ヤムのフフなどがテーブルに並べられました。

 ヘンリー君がこれから日本で作物学を研究すれば、故郷のキャッサバやヤムの収穫量が向上する研究成果が出るかも知れません。大学院の指導教官は「トウモロコシの収量成立過程の解明」や「水稲冷害早期警戒システムの構築」を研究してきた「生涯、アグロノミストを目指したい」と書いていらっしゃる方です。アグロノミストというのは、土壌分析や植物の樹液分析によって肥料設計などの、「よりよい作物収穫」を目指す科学者のこと。宮沢賢治が目指していた研究者です。きっとヘンリー君の研究にとって、よい指導者となってくれることと期待しています。

 18日のオーヴィレッジで、ヘンリー君はママさんと英語で話していたところを見ると、カメルーンに村ごとに250もの言語があるという中で、同じ言語で話が通じる相手ではなかったみたい。
 でも出会いの収穫もありました。店内で食事をしていた大学院生、これからカメルーンの大学へ行き、現地調査をしてくるというのです。その人はカメルーンでカカオの流通を中心に農業経済の研究をしているそうです。ヘンリー君もカメルーンでは収穫経済学cropeconomicsを研究してきて、日本では作物学の研究室に所属して研究を続けるので、話が合いそうでした。

 名刺をもらったので、これからヘンリー君と知り合いになれればいいなあと思います。カメルーンをフィールドに選んでいる研究者と知り合いになれば、そこから人の輪が広がるかも知れません。日本での最大の収穫は、無論研究がまとまって博士号を取得することですが、その過程でいろいろな人と出会うことも日本留学の成果になると思います。

 ヘンリー君からお礼メールが届きました。
  こんばんはせんせい、
  私はとても元気で、うれしいです。先週木曜日に、昼ごはんはおいしかったです。私 はいろいろな料理を食べ過ぎましたですから、晩御飯を食べられませんでした。先生も う一度、ありがとうございます。

 私も、ヘンリー君とカメルーン料理を食べたこと、とてもうれしく楽しいひとときでした。私からもありがとう。

<つづく>
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2011年02月25日


ぽかぽか春庭「銀座で中華、銀座で煎餅」
2011/02/25
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(11)銀座で中華、銀座で煎餅

 学期末の打ち上げ食事会、月曜日と木曜日に出講している大学では、私が幹事となって吉祥寺のラオス料理店で行いました。タイ料理+ラオス料理というコースでした。料理が次々と来て、最後のタイ風炒飯やラオス風焼きビーフンになるまでにお腹いっぱいになってしまった人もいました。味はタイ料理は辛すぎ、ラオス料理は塩味強すぎと、ちょっと不評な面もありましたが、幹事の順番が次に回ってくるまでには定年になりそうですから、これでお役目は果たしたということにしてもらいましょう。

 金曜日に出講している大学では、以前は火曜日に出講していたので、「火曜の会」という非常勤講師仲間の食事会に参加させてもらっています。
 こちらもさまざまな外国料理を見つけてきて食べ歩きをしています。以前は韓国通の先生がいて、新大久保の韓国料理屋に東京で働く韓国人のための本格的な韓国料理の店によく行ったのですが、新大久保には最近行かなくなりました。韓国ドラマブーム以後、新大久保巡りをする中高年女性がどっと押し寄せたあと、軒並み味を落とした店が増えたということなので。

 2月24日、今回は、「銀座で中華」、という打ち上げ会です。
 ランチの約束ですが、銀座に行ったら、ぜひ行って見たいところがありました。お煎餅屋さんがやっている無料カフェ。しかし、出かける前に検索してみると、最新情報では、「現在は無料ではなく、コーヒーとお煎餅試食で200円」と出ていました。でも、銀座で200円コーヒーなら、銀ブラついでにちょっと一休みするにも、知っておいて損はない場所と思って行ってみました。歌舞伎座のある地下鉄東銀座駅のすぐそば。交番の隣の黒いビルの中にありました。

 カフェコーナーは2階の奥。お煎餅200円、割れ煎餅100円と出ているので、「割れセン」のほうを注文したら「本日は割れセンはありません」とのこと。ま、いいか。コーヒーは紙コップをひとつもらってドリンクコーナーセルフサービス。お皿にいろいろな種類の小さなお煎餅が盛り合わせてあるのをもらって、席につきました。平日の12時前なので、まだ空いています。12時のランチを済ませた人がちょっと一休みするにはとてもいい場所です。

 ランチの約束時間は12時ちょうどだったので、15分くらいしか座っていられませんでした。おみやげにするお煎餅を買って出ました。方向音痴なので東銀座からタクシーに乗ろうと思ったのだけれど、お煎餅屋の隣が交番なのでおまわりさんに聞いてみたら、「歩いても5分くらいだよ」というので、説明してもらって歩きました。銀座和光の向かい側、三愛の次の通りをまっすぐ行ったところ。すずらん通りに店がありました。
 
 ランチは、銀座松坂屋の近くにある「麒麟」という中華料理店。私ひとり遅れて到着。
 ランチの茉莉花コース。
 ・前菜五種類盛り合わせ。クラゲの和え物、金華ハムなどが少量ずつきれいに盛り合わせてありました。
 ・フカヒレと黒トリュフの香りスープ(松露魚翅湯)とてもおいしかった。
 ・大正エビとウドの山椒風味の辛子炒め。(麻辣明蝦片)おいしいけれど私には辛かった。
 ・骨抜き鶏手羽先と春筍の醤油煮込み(葱焼貴妃鶏)鶏肉がとても柔らかく煮込んであり、筍もおいしかった。
 ・醤油漬け干し肉と中国青菜のお粥(醤肉青菜粥)みなそれぞれ海老炒飯、麻婆豆腐かけご飯などを選びましたが、一口ずつ味見をさせて貰いました。どれもおいしかった。
 ・デザート(胡麻アイス、カスタードパイ、杏仁豆腐の盛り合わせ)

 5人集まった火曜の会のメンバーですが、韓国通の先生が、現在ご両親の介護のために故郷に戻っていることが話題に出ました。韓国で6年ほど教えたあと日本に戻り、私の出講している大学の非常勤講師公募に応募して、60人の応募があったなか、たった一人採用されたという博士号を持つ優秀な女性です。しかし、両親が相次いで病身となり、今は介護に専念なさっているとのことでした。皆「いい先生なのに、もったいないわねぇ」と、残念がっていました。
 弟さんもいるということですが、どうしても家族介護は独身女性に負担がかかること、残念に思います。女性が働き続けるには、家族が元気で暮らす必要があること、改めて身に染みました。銀座でランチを楽しむにも、家族の元気な姿があってこそ。

 オーストラリアで留学生活をおくった先生は、ニュージーランドの留学生が遭遇した災難を憂えていました。希望を持って留学し、英語コースや看護師資格取得コースで勉強していた若者が多数悲運にあったこと、残念です。阪神淡路震災のときも多数の留学生が被災したことを思い出しました。

 久しぶりの銀座でしたが、雨が降り出したので、銀ブラもせず解散。

<つづく>


2011/02/26
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(12)お寿司deダンス

 ジャズダンスサークルの懇親会。新年最初は、「今年の活動内容の話し合い」です。9月の発表会へ向けて、踊りたい曲や発表順序などを話し合います。夏の「納涼食事会」では、発表会での仕事分担などを話し合います。照明係とか発表会司会者などを決めます。9月の発表会のあとは「発表打ち上げ会」、12月には総会を開いて役員や会の規約確認などを行い、忘年会となります。

 2月25日金曜日、お寿司屋さんに集まって、食事を楽しみながら今年の活動方針話し合いました。生ビールで乾杯、もずくの酢の物、バイ貝、刺身、ナスの味噌だれ、寿司、味噌汁。練習が終わった9時からの食事なので、みんな空腹。ペロリと食べ終わりました。
 9月の発表曲候補は、コパカバーナ、ペーパームーン、アンスクエアダンスなど。
 私とミサイルママの希望曲は、ロドリゴベイ(ワーキングウイーク歌唱)です。
http://www.youtube.com/watch?v=ipsNF-ki6Bg

 映画「ペーパームーン」は、ピーター・ボグダノヴィッチが制作・監督し、テイタムとライアン・オニール親子で共演。テイタムが10歳でアカデミー賞最年少助演女優賞を得た作品。主題歌の「It’s Only A Paper Moon」は、1935年に発表された曲で、ナット・キング・コール歌唱が一番有名ですが、私たちのサークルは美空ひばりの歌で踊ります。訳詞はやはりさまざまなバージョンが出ていますが、以下は春庭の訳です。美空ひばりの歌を聞きながらの翻訳ですから、女性の視点での訳になっています。
 美空ひばりミュージックフェア出演時の歌
http://www.youtube.com/watch?v=R35mt-kDDtU


 果たして9月の発表会までにサンバのリズムを身につけて踊れるかどうか。でも、歌詞の意味を知ったので、表現しやすいところもあります。
 歌の中の主人公ローラは、心もうつろにディスコのバーコーナーに居座っている老女です。30年も前は踊り子だったけれど、今は見る影もないうらぶれた姿。酒に溺れ死んだ恋人を忍ぶばかり。色あせたドレス、皺だらけの顔で、時折ステップを踏んでみるけれど、だれもそんな踊りを見向きもしない。そんなローラを演じてみたい。そう、皺だらけの顔とよろけるステップならお手の物よ。

<つづく>
09:58 コメント(0) ページのトップへ
2011年02月27日


ぽかぽか春庭「横浜中華街のフカヒレコース」
2011/02/27
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(13)横浜中華街のフカヒレコース

 姑の誕生日、2月7日です。86歳を祝うために、1週間遅れで横浜中華街へ行きました。姑は和食より中華が好きなので、今回はフカヒレコースを奮発することにしたのです。ついでに息子の大学卒業大学院進学を祝って、わが家としては大盤振る舞いの中華です。ワーキングプア家庭のわが家が、次にこんなコース料理を注文するのはいつになるかわからない。フカヒレ姿煮もよくよく味わって食べなければなりません。

 中華街のフカヒレ専門店も何店もあるのですが、娘と息子がコンピュータゲームの三国志ファンというただそれだけで、「三国志」という名前の店を選びました。
 ふたりは「三国志」のゲームをしたおかげで、中国古代史に詳しくなり、映画『レッドクリフ』も、「中村獅童の役は三国志演義やゲームには出てこなかったけれど、創作人物なのかなあ」などと評定しながら楽しめました。日本語北京語広東語台湾語英語が堪堪能な金城武とちがって、獅童はほとんど中国語の台詞を話していませんでしたが、なかなかのもうけ役で目立っていました。

 フカヒレコースの料理のメニュー。
・気仙沼産!フカヒレ姿の冷製(ワサビ醤油)
・フカヒレのカルパッチョ入り彩りオードブル
・タラバ蟹入りフカヒレスープ
・気仙沼産!フカヒレ姿煮(一人一枚)
・北京ダック チャンピオン特製フカヒレソース付き
・アワビの濃厚クリーム煮込み(北海道乳使用)
・伊勢海老のチリソース
・フカヒレと季節の彩り野菜炒め
・フカヒレ姿入り蒸し餃子
・フカヒレ小龍包
・フカヒレ入り海鮮あんかけチャーハン
・燕の巣入りフカヒレ杏仁豆腐

 みなとみらい線の横浜中華街駅から歩いて、善隣門わきの「三国志」本店。入店時には店内はまだお昼前なので静かでした。半個室という席が予約できたので、落ち着いて食べることができると思っていたのですが。しかし、「半個室」という席は、厨房出入り口の前でトイレの隣だったので、トイレに出入りする客や、厨房と客席を往復するウエイターの出入りが頻繁。席の脇を足繁く行き来し、ちょっと落ち着かない場所でした。しかも狭かった。4人で腰掛けると、バッグやコートを置く場所もなく、クロークもないというので、席のわきにコートを置き、窮屈でした。

 料理は、店のブログに出されていた「フカヒレコース」の写真から見ると、貧弱。とくにフカヒレは、写真にでていたのとはえらく違う小さな姿でした。食事を終え、店を出てから「フカヒレ小さかった」と文句を言うと、娘に、「フカヒレ姿煮を単品で注文すると、一皿で4200円って、出てたのに、コース全部で5000円という値段で、一品料理と同じ大きさの姿煮が出てくるわけないでしょ」と、たしなめられました。でも、私は、一品料理のフカヒレ姿煮と比べて小さいと言ったのではなく、フカヒレコースとして店のサイトに出ている写真と比べて「看板に偽りあり」だと言ったのです。まあ、羊頭を掲げて狗肉を出すよりはマシですが。

http://sangokusi.jp/menu/course/index.html
 この写真の「フカヒレ姿煮」とはえらく違いました。最初はコースで9品もでてくるんじゃ、食べきれないかも知れないと思ったのですが、どれも写真から見ると貧弱だったので、全部ぺろりと食べ切れました。「伊勢エビのチリソース」は、殻付きぶった切りのエビで、えらく食べにくかった。エビは殻を剥いて皿にのせて欲しい。

 コースメニューの写真だと北京ダックは一羽分まるごと映っているのですが、実際はダックの皮は小さなのがひとり一枚ずつでした。「一羽まるごと出てくるわけないでしょう」というのは理解できますが、だったら、写真も5センチ四方の皮が人数分の枚数、という実際の写真を出してほしい。他店のメニュー写真を見たら「これはイメージです」という正直なことを書いてある店もありました。まったく、「イメージ」と実際の皿がえらく違う。

 「昔、みんなで北京に行ったとき、全聚徳で食べたの覚えてる?11人のテーブルに丸ごと一羽ドンと来た。あのコース、11人で食べて全額が500元だった」と昔話をすれば、「イマドキ北京だって500元じゃ一人前しかこない」と、またまたたしなめられた。確かに、1994年、2007年、2009年の3度の中国生活を思い返してみれば、近年の急激な物価上昇。暴動でも起きて当然の食品値上げが続いています。中国が豊かになったのはほんとうだけれど、一部の金持ちだけが豊かになり、大多数は物価上昇の貧苦だけを味わっています。

 もし、近所の中華屋が、このようにサイトの紹介写真と実際に出てきた料理にえらく差があるようだったら、もう二度と行かない。でも、中華街だから次から次へと「新しい客」が来る。リピーターになるような客を相手にしなくても、一回限りの観光客相手でも経営が成り立つもののようです。
 
 世界には、食べるに事欠く生活を続けなければならない地域も多いのに、政権打倒の闘いが続く地域、地震や噴火にふるえる地域もあるのに、「フカヒレが小さい」なんて文句を言いながらも、こうして親子で食事できる平和な社会にいることを感謝しなければいけませんね。
 姑は、孫息子孫娘といっしょに食事するだけで嬉しいようですから、誕生日祝いの気持ちは伝わった、ということにしました。

<おわり>


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春庭の春散歩-横浜の午後2011年3月

2010-09-21 16:36:00 | 日記
2011/03/01
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年2月横浜散歩(1)中華街から山下公園へ

 姑86歳の誕生日を中華街の食事で祝ったあと、娘の希望で横浜散歩をしました。私と娘は食いしん坊なので中華街には来ているけれど、横浜の中を歩くのは久しぶりです。姑は「子供達(夫と夫の姉)がこどものころに連れてきて以来」というので、50年ぶりぐらい。息子は2歳くらいのとき連れて来て以来なので、まったく覚えておらず、初めての横浜散歩です。
 立春後から2月17日の春節明けまで続く春節行事の中で、13日は貴重な「お天気がいい日曜日」になりましたから、人出は最高。中華街の道路は押すな押すなの人混みでした。
 
 姑が迷子にならないよう気遣いながら人の間を歩く。姑は、「栗の押し売りにご注意下さい」と張り紙がある前で、栗の売り子に「オネーサン、ちょっと食べてみて。焼き栗安いよ」なんて声をかけられると、「あら、ありがとう」なんて言って、律儀に栗をもらうのです。「おばあちゃん、くれるって言われても、もらわなくてもいいのよ」と、娘が注意したのですが、姑、気にせずにもらって「ほら、またもらったから食べなさいよ」と、私によこすのです。ばーちゃんパワー、押し売りをしのぐ。

 善隣門からすぐ近くの媽祖廟へ。媽祖は、華僑の信仰を集める天女で、あらゆる苦難を助けるという御利益があるのだそうです。観光客も神妙に手を合わせたり、1本500円という線香を供えたりしていました。信仰心薄いわが家は、中に入るには100円だかの拝観料が必要と聞くと、「じゃ、中は見なくてもいいや」といって外側を一周しただけで、退散。

 次は関帝廟へ。関帝は、娘と息子も嵌ったゲーム三国志の主人公格。三国時代の実在の武将です。姓は關(関)、名は羽、字(あざな)は雲長。
 後漢末期、宮廷内部は宦官の悪政のため、飢饉と貧困の乱世となっていました。世に平和を取り戻すため、關羽・張飛・劉備の三人は義兄弟の杯をかわし、黄巾賊征伐を行いました。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が争った時代を陳寿が書いた歴史書が『三国志』。これをもとにして明代に書かれた通俗歴史小説が『三国志演義』。三国志演義の中の赤壁の戦いを描いたのが映画『レッドクリフ』です。『レッドクリフ』では、モンゴル人俳優バーサンジャブが関羽を演じました。

 関羽は敵である魏の曹操からも一目置かれる武将であったことから、死後は三国志中の人物の中でも別格の存在となり、神格化されました。徳川家康が神格化されて東照大権現になったり、近代日本でも軍人東郷平八郎が東郷神社の祭神となるようなものです。中国では圧倒的に関羽に人気があり、京劇でも派手な立ち回りを演じるのですが、映画『レッドクリフ』では、知将諸葛孔明を演じた金城武のほうが目立っていました。

 中華街から山下公園へ行きました。
 2月11日も12日も雨とみぞれの天気、14日も雪、という寒い悪天候の続いたなか、13日の日曜日だけが好天でした。ぽかぽか陽気とまではいきませんでしたが、風もそれほどなく、日向にいれば公園のベンチに座っていても、寒くない。海辺の公園のベンチに座り、氷川丸をバックに姑86歳の記念写真を撮りました。

 「赤い靴履いてた女の子」の像の前を通り、ジャグラーが大道芸をしているのをしばらく眺めました。外人さんのジャグラー、火のついたたいまつをぐるぐる回したり、素人が投げたたいまつを受け止めたり、巧みな日本語で笑いを振りまきながら、達者な大道芸を見せていました。私、大道芸大好きです。

<つづく>
00:11 コメント(2) ページのトップへ
2011年03月02日


ぽかぽか春庭「赤レンガ倉庫からランドマークタワーへ」
2011/03/02
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年2月横浜散歩(2)赤レンガ倉庫からランドマークタワーへ

 赤レンガ倉庫街を散歩。昔の横浜港倉庫が、ショッピングモールになっています。倉庫街の外にはアイススケートリンクが設置されており、休日を楽しむ人々がスケートをしていました。
 息子は紅茶が好きなので、赤レンガ倉庫街の中の紅茶ショップで休憩したそうでしたが、ケーキとセットで一杯1500円の紅茶、高いから「はい、次はランドマークタワーへ行くよ~」と、紅茶希望を無視。貧乏家庭には、一杯300円の紅茶が予算内です。

 昔、汽車が走っていたところが、「汽車道」という名の遊歩道に整備されています。海風はちょっと冷たいものの、とてもいいお天気で、明治42年に建設されたという1号鉄橋、2号鉄橋を渡り、春になったら見事であろうサクラの木の間を歩きました。
汽車道の写真
http://www.natsuzora.com/may/park/kishamichi.html

 ランドマークタワーの手前に、帆船日本丸が繋留されています。日本丸は1930年から1984年まで、日本の航海練習船として活躍した大型帆船です。現在は横浜みなと博物館の展示品となっており、次回、帆を張るのを見られるのは4月10日、という案内が出ていました。帆を張った勇姿を一度は見てみたい。
 帆を広げた日本丸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nippon_maru_II_in_yokohama_20090720.jpg

 「とりあえずその地域で一番高いところに上がってみる」というのが「高いところ好き」の行動パターンなのですが、横浜ランドマークタワーが日本で一番高い場所になって以来、一度も行ったことがありませんでした。高速エレベーター40秒で展望室へ。
 ぐるりと一周し、地上275mの景色を楽しみました。

 二日間雨や霙が降って、大気をきれいに掃除したあとの晴れた13日、すご~く見晴らしがよかった。今まで東京タワー、都庁展望台、サンシャイン展望台など、都内の高いところには何度も足を運んできましたが、今回のランドマークタワーが、一番きれいに景色が見えました。遠くは房総半島、三浦半島、西側には富士山が見えました。都内で見たときよりずっと大きい富士に感激。
 遠くスカイツリーも見えたし、持参のオペラグラスで覗くと、都庁など新宿ビル街もよくわかりました。(百円投入する望遠鏡代を節約)

 ランドマークタワー、次はいつ来られるかわからないので、こうなると、夜景も見てみたくなる。日が沈むまで30分ほどだというので、富士山が見える側にあるコーヒーショップで、お茶することにしました。私はコーヒー、息子はミルクティ。「ほら、ここの紅茶なら420円だし」と、言ったのですが、息子は「さっき飲みたかったんだ」と、赤レンガ倉庫の紅茶専門店がよかったという口ぶり。ふん、お茶代払うのは私じゃ。息子、大学から案内が来て、「入学に伴う事務処理、学生スタッフ」に登録をしました。しかし、アルバイトがあるのは、入試が終わった3月になってからだというので、今はまだ金欠状態です。4月から大学院生。学費は奨学金でなんとかするとして、自分の小遣いくらはアルバイトでまかなって貰わないと。

<つづく>
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2011年03月04日


ぽかぽか春庭「ランドマークタワー夜景」
2011/03/04
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年2月横浜散歩(3)ランドマークタワー夜景

 ランドマークタワー展望台から富士山が西の丹沢山系に沈んでいくのをゆっくり眺めました。日が沈むのをこのようにゆっくり眺めるのは久しぶり。ぐんぐんと沈んでいく太陽を見ると、地球の自転速度を実感できます。15分くらいで夕日は見えなくなりました。
 それから、姑のおしゃべりを聞きながら、街にぽつぽつと灯りがともるのを待ちました。暗くなっても、まだ富士山の形は西の空にうっすらとわかります。

 姑は「私も富士山に登ったことあるのよ。女学校のときの遠足で、今から70年も前のことだから、登山靴なんてのもなくて、わらじを編んで、それを腰にいっぱいぶら下げて登ったの」と、過ぎし日をなつかしんでいました。
 姑の話の80%は昔話と親戚一同の動向話、残り20%は、健康オタクの健康話。山形の親戚のだれそれの家のなにがしが嫁に行った先の何々ちゃんがどうしたこうしたと聞かされても、誰が誰やらわからないので、「はい、はい」と、相づちを打つのみですが、話を聞いている相手がいる、ということが大事なんでしょうから、神妙に聞いています。

 30分ほどで完全に暗くなり、横浜の街は100万ドルの夜景となりました。
 海側は、ベイブリッジや観覧車コスモクロック21もライトアップされきれいですし、東京方面を望む側もきらきらしてる。電飾イルミネーションも満点の星空も、蛍も好きですけれど、夜景も大好き。

 娘は「今日はお天気も良くて散歩日和だったけれど、誤算は寒いと思ってブーツを履いてきたこと。ブーツのヒールは歩きにくくて足が疲れた。母のように、歩くことを第一に考えてスニーカーにすればよかった」とぼやいていました。日頃歩くことをしていない娘より、毎朝20分歩いて公園へ行き、ラジオ体操を欠かさず、土曜日には「体操教室」にも通って身体を鍛えている姑のほうが、疲れ方が少なかったかもしれません。
 帰りは、東急線でみなとみらい駅から自由が丘まで。緑が丘で姑と別れました。

 もうひとつの誤算がありました。「おばあちゃんはね、中華街で老人会仲間へのおみやげを買いたかったんですって。言ってくれれば、おみやげ屋へ入ったのに、何も言わないから、さっさと媽祖廟関帝廟のお参りだけして、おばあちゃんが買い物したいかもしれないなんて、気にもしないで通りすぎちゃったね。みやげ屋があまりにも混雑していたから、おばあちゃんを疲れさせると思って店先だけながめて、どこのみやげ物屋にも入らなかったけれど、ちゃんとおばあちゃんに聞けばよかった」と、娘の反省の弁。

 「お祖母ちゃんの誕生日祝いだったのに、結局、夜景とかいちばん楽しんだのは母だったね」と娘が言うのですが、はい、一家で散歩、ほんとうに楽しい一日でございました。

 今夜3月3日の夜、息子の「学生スタッフ」アルバイトというのが、3月4日から始まるというので、冬休みからずっと昼夜逆転生活をしていた息子、久しぶりに早く寝ました。「事務官から、スーツ着用のことという連絡が来た」というので、ワイシャツにアイロンがけもして、「はじめて父親の事務所以外の場所で働く」という事態に緊張しているようです。
 
 いくらか暖かくなってきたので、もう一缶買う予定だった灯油、買わずにすませようかとストーブつけるのを控えていたら、昨日今日の急な寒の戻りで風邪気味になりました。のどが腫れて声がでなくなりました。灯油をけちって風邪薬代の方が高くついた。
 春は名のみの”風邪”の寒さや。団地の鶯歌は思えど時にあらずと声も立てずって、歌いたいけれど、のど腫れて声が出ないのよ。でも、春はもうすぐそこ。地上273メートルから眺めた摩天楼の夜景を思い出しながら、風邪は寝て治す。

<おわり>

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春庭の映画論「越境者の声」2011年3月

2010-09-21 09:58:00 | 映画演劇舞踊
2011/03/09
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年3月>越境者の声(1)善き人のためのソナタ

 3月7日は朝から東京にも雪が降り続きました。雪の中、歯科と内科のハシゴ受診。咳の薬と抗生物質を処方されました。ちょっと咳が続くというだけでも、個人的にはとてもつらいのですが、様々な厄災のなかに身をおいている人も大勢いる世界で、風邪ごときでめげていてはならぬと心に鞭うちつつ、現実にはぐうたらとすごしております。
 地震や戦乱や政変の嵐の中に身を置く人々に思い寄せつつ何もできず、、、、寝転んでビデオなど見る日々。

 『善き人のためのソナタ』という映画、3月1日(火) 午前0:45~3:04(28日深夜)に放映されていたのをビデオをとっておいて見ました。2006年米アカデミー外国語映画賞受賞作。とてもいい映画でした。
 オーデンが『1939年9月1日』の中に、「私も、それらと同じく エロスと灰で出来ているのだが、同じ否定と絶望に 取り巻かれているのだが、肯定の炎を見せてやれるかもしれない」と、詩に書いた、その 「an affirming flame肯定の焔」がこの映画の中にも赤々と燃えているのを見ることができました。

 ベルリンの壁が崩される前の東ドイツDDR(Deutsche Demokratische Republikドイツ民主共和国)。名前とは裏腹に少しも民主的な国家ではなかったことは、他の社会主義国家と同じ。「民主主義人民共和国」というのが将軍様の独裁国であったりするのは、現在でも続いています。

 1984年。DDR国中に秘密警察と密告者が送り込まれ、国家に刃向かおうとする人々を監視していた時代の話です。この映画の中で燃える焔となったのは、一曲のピアノ奏鳴曲「善き人のためのソナタ」
 以下、ネタバレのあらすじ&感想なので、未見の方はご注意を。
 
 『善き人のためのソナタ』の主要登場人物は6人。閉鎖社会の典型的なタイプの人とも言えます。
 一人は主人公ヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)。国家保安省シュタージに忠実にこつこつと下積みの仕事を続け、国家の安寧のために働いてきました。自分の仕事の正しさに疑いを持つこともなく、横暴な上司のもとでも、命令に従ってきました。

 もうひとりの主人公は劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)。少しでも西側の思想に共感するような作風であれば、即座に粛正され、作品の発表ができなくなるという東ドイツ社会で、巧妙な作風によって粛正を免れてきましたが、国家保安省は次のターゲットをドライマンに決めます。さまざまな罠が仕掛けられ、シュタージはドライマンが西側思想に通じている作家である証拠をつかもうとします。

 そのシュタージ側のふたりが、この映画の敵役です。ヴィースラー大尉の上司にあたるのがグルビッツ部長。国家に忠実な役人のようでいて、実は自分自身の出世や保身にしか興味がないのはいずこの国でも変わりない。そのまた上司は、ブルーノ・ハムプフ大臣。こういう大物は、国家体制が変わっても上手く泳ぎ切って、どっこい生き延びってことが、映画のラストにでてきます。

 シュタージのターゲットにされ、運命を曲げられた人が演出家のイェルスカ。あらゆる職業につくことを禁じられ、生ける屍のようになっている。
 ヒロインのクリスタ=マリア・ジーラントは、ドライマンの恋人。女優であり続け、舞台で演じることが彼女にとっての生きること。しかし、イェルスカの次のターゲットであるドライマンの家に盗聴器がしかけられたあと、細心の注意をはらって、国家の罠に嵌るまいとしているドライマンに対し、弱みの多いクリスタは、彼女の肉体を手に入れようとして権力をふりかざす大臣によって非情な運命に陥ります。クリスタは、女優生命のため、また自己の身体的依存のために、大臣や国家の権力に屈服してしまう弱い人間です。でもその弱さを持つからこそ人が人であるのかもしれず、信念を曲げないドライマンに対して、クリスタは弱い側に立ち負けてしまう人間性の代表なのかもしれません。

 盗聴担当のヴィースラー大尉は、命じられたことに忠実に毎日ドライマンの家の音に耳を傾け、報告書を書いていきます。しかし、聞き続けるうち、彼の心の中に変化が起きてきます。クリスタとドライマンがふたりで、あるいは仲間と語り合う音楽や文学、これがほんとうに国家の安全を破壊するものだというのだろうか。ドライマンは国家体制への反逆者の疑いをかけられて当然の人物なのか。

 ヴィースラーの変化を決定的にしたのが、イェルスカがドライマンの誕生日プレゼントとして贈ったピアノ曲でした。楽譜をプレゼントされたドライマンは恋人クリスタに演奏して聞かせます。当然、その曲の調べはヴィースラーの耳にも届きます。美しいピアノソナタの調べ。この調べを国家は禁止し、西側の悪しき堕落として断罪しようとしている。ヴィースラーの盗聴報告書はしだいに変化していきます。
 ついに、国家体制がドライマンに襲いかかる決定的な日。ヴィースラーは、体制維持側ではなく、良心の側に立って行動することを選びます。 

 東西ドイツの合併後、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』が本屋の店頭に並びます。その本の扉には、献辞が書かれています。ヴィースラーが書き続けた盗聴報告書の署名である記号に感謝のことばが捧げられていたのです。
 ラストシーン。東西ドイツ合併後も大物然として生き延びる大臣に対し、ヴィースラーら、下っ端役人はしがない生活を続けています。『善き人のためのソナタ』という本が発売になったことを知ったヴィースラーは本を購入し、店員から「贈り物用の本ですか」と尋ねられ、「いや、私のための本だ」と答えます。

 ヴィースラーは、一曲のソナタに心うたれ、自分の良心に従って行動しました。ヴィースラーもまたひとりの「エロスと灰で出来ている」しがない人間です。その彼も「同じ否定と絶望に取り巻かれているのだが、肯定の炎を見せてやれるかもしれない」というオーデンの詩を生きました。オーデンの詩は1939年のドイツリンツ近郊生まれの男が行った悪業について書き残しましたが、この国家的な悪行とは、1989年まで続いた東側の国家にもありました。スターリンのソ連にもチャウシェスクのルーマニアにも。
 ヴィースラーは、ソナタを聞いて後、自分の信念にしたがって肯定の焔を燃やしました。

 今、世界のどこかで燃やされている肯定の焔。燃え続ける炎もあるでしょうし、国家の巨大な圧力の前に消えかかる炎もあるでしょう。しかし、ソナタを聞いたヴィースラーのように、心に焔を掲げ続ける人が必ずいる、ということが人の社会にとっての大きな希望です。

 壁が崩れる前、東から西への越境は命がけでした。多くの人が壁から外へ越境することに失敗して命を落とし、また、越境しなかった者にとっても、壁の崩壊後の人生は決してたやすいものとはなりませんでした。ヴィースラーは壁から西側に出ることなく、おそらくしがない勤務を死ぬまでこつこつと続けるのでしょう。
 しかし、彼の魂の越境、一曲のソナタを聞くことによって、自分の信じるものの側へ越境したヴィースラーは、「私のための本だ」という誇りに満ちた表情を残します。
 彼は魂の越境者として、自分を認めることができたのです。

<つづく>
00:08 コメント(2) ページのトップへ
2011年03月11日


ぽかぽか春庭「冬の小鳥」
2011/03/11
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年3月>越境者の声(2)冬の小鳥

 『冬の小鳥』『トロッコ』の2本立てを飯田橋のギンレイホールで見ました。

 『冬の小鳥』映画の冒頭、9歳のジニは父親に新しい服や靴、大きなケーキを買ってもらい、父親の背中に顔を寄せて幸福な思いをしています。大好きな父といっしょにすごす時間が、永遠に続くような気がしながら。しかし、父の顔は巧妙に画面には現れません。顔のない「父」の背中に、観客は不安を感じます。

 父はジニをカトリック系孤児院に放り込み、二度と戻っては来ませんでした。ジニは必ず父が迎えに来ると信じ、孤児院のシスターや仲間の孤児達にも心を開きません。
 ただ、同じ年頃と思われたスッキと共に死にかけた小鳥を守ろうとするそのときだけ、ジニは心を取り戻したかのように見えました。

 ルコント監督作品『冬の小鳥』は、イ・チャンドンが制作を担当し、2006年にフランスと韓国で結ばれた<映画共同製作協定>の第1号作品として完成しました。2009年カンヌ国際映画祭に特別招待され、2009年東京国際映画祭では「アジアの風部門最優秀アジア映画賞」を、2010年ソウル国際女性映画祭では「第1回アジア女性映画祭ネットワーク賞」を受賞しています。

 脚本は監督自身によってフランス語で書かれました。ルコント監督は少女時代、韓国のカトリック系養護施設に入り、その後、フランスのプロテスタント系の牧師一家に引き取られた経験を持ちます。脚本は「ほとんどが創作」だそうですが、自身が韓国カトリック系児童施設からフランスへ養女として渡ったという経験を、「9歳のときの気持ちのままに表した」と、インタビューで述べています。フランスで教育を受け、韓国語はすっかり忘れてしまったルコント監督ですが、イ・チャンドンのプロデュースを得て、韓国語の映画として見事な演出を行っています。韓国からフランスへ越境していった監督の声が9歳の視点となって生き生きと再現されています。
 以下、ネタバレを含みます。未見の人はご注意を。

2011/04/02
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(3)遙かなる絆

 3月に「越境者の声」シリーズ「善き人のためのソナタ」「冬の小鳥」をUPしました。震災により掲載を中断していたシリーズの続きです。『遙かなる絆』『トロッコ』『トイレット』を紹介します。

 2009年に5月に放映され、そのときちょうど中国赴任中であったために見ることができなかった連続ドラマ『遙かなる絆』。
 3月20日12時から6時まで、6話一挙放映というのをやっていたから、続けて見ていました。何もする元気がでないとき、没頭できるドラマ、現実逃避とわかっていても、ありがたいひとときでした。
 6時間も続くドラマを一気に見続けることなど,他の時期だったら出来なかったかも知れないので、「地震酔い」のめまいで片付け事もできないからと、いいわけにしてドラマを見ることができたので、めまいもよい時間を与えてくれたと思うことにします。

 2009年ちょうど中国の長春市に赴任していたとき、「今日本では、長春ロケが画面に多く出てくるドラマが放映されている」と聞きました。同僚の一人は、中国人の知り合いから海賊版のDVDを手に入れて見ていて、貸してくれると言われたのですが、私はどうも海賊版というところに引っかかってしまい、仕事の忙しさにもかまけて貸して貰うこともせずに終わりました。2009年12月に再放送があったのですが、12月30日31日という忙しいときで見逃してしまい、最終回だけ見ることができました。2011年3月、ようやく6話全部を見たのです。

 吉林大学とか長春長距離バスターミナルとか、知っている場所もロケされていて、なつかしく思いながら見ました。戦災孤児帰国事業が始まる前の1970年に自力帰国を果たした城戸幹さんの半生を描いたドラマ。幹さんの娘、城戸久枝さんが執筆したノンフィクション『あの戦争を遠く離れて』が原作です。原作は第39回大宅壮一ノンフィクション賞および第30回講談社ノンフィクション賞を受賞しています。

 城戸幹さんは、満州で軍人の息子として生まれ、敗戦後の混乱の中、家族とはぐれ中国人養母に養育されました。農村の中国人に労働力としてのみ扱われた残留孤児も多かった中、養母は実の母のように愛情を持って幹さんを育て、高校まで出してくれました。しかし日本人孤児であることから、大学に合格することができず、文化大革命のさなか、自力で実の両親を捜し出し、日中国交回復以前に独力帰国を果たした方です。実の両親が故郷でご存命中に帰国できたことは幸運でしたが、国交回復後に帰国した残留孤児にはさまざまな援助が与えられたのに、幹さんは独力で日本での人生再スタートをせねばならず、帰国後の苦労も並大抵のことではありませんでした。

 娘の久枝さんは、中国に留学し、お父さんの友人たちや養母の親戚に取材して、幹さんの激動の半生をノンフィクションにまとめました。1976年生まれの城戸久枝さんは徳島大学に在学中、長春市にある吉林大学に国費留学しています。1996年前後のことかと思います。

 私が最初に中国に単身赴任をしたのが1994年。開放改革のうねりが押し寄せ、中国が大きく変貌していく最初の頃でした。ちょうど同じころの中国を体験したのだろうと身近に感じます。 
 中国の残留孤児を主人公とした小説に、山崎豊子のベストセラー小説『大地の子』があります。NHKのドラマになったとき、私は1994年に行われた長春ロケに参加し、エキストラ出演をした思い出があります。

<つづく>
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2011年04月03日


ぽかぽか春庭「国境を越える絆」
2011/04/03
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(4)国境を越える絆

 最初の1994年中国赴任の思い出、長春市残留孤児の孫玉蘭さんとの出会いがありました。彼女の訪日のためにささやかながら尽力したことなども思い出します。
 孫さんは私を市内のレストランに招き、「厚生省(当時)の残留孤児訪日肉親捜しの名簿に載せて貰っているが、いまだに訪日の予定が聞かされていない。日本に帰国したら厚生省に連絡して、いつ訪日できるのか調べて欲しい」という切実な訴えを寄せました。
 彼女は残留孤児の中でも養父母に恵まれ、大学教育まで受けさせてもらったと言っていました。長春市内でも恵まれた生活をしている階層の方でしたが、「現在の生活に不自由はないけれど、私は日本人なので、子や孫の教育のことを考えると、これからは日本で生活したいと思う」とおっしゃっていました。

 私は、帰国後、厚生省の担当部署に電話をしました。孫さんは次回の訪日調査団のメンバーに入っていることがわかりました。中国の教え子(孫さんの知り合い)に電話をして、訪日できることを連絡しました。
 「玉蘭」は、中国人女性によくある名前なので、同姓同名の人もいるかもしれませんが、たぶん、この人。
http://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/mihanmei/kiturin/09202.htm

 孫さんは1994(平成6)年11月の残留孤児肉親捜し訪日団の一員として来日しました。
 来日時には、日本の父母への思いを綴った漢詩を記者会見で披露し、大きく新聞にも取り上げられました。私はその漢詩が載った新聞記事を切り抜き、大切にとっておいたのですが、整理整頓が苦手なために、その切り抜きがどこかに行ってしまいました。朝日新聞天声人語(白井健策)が1994年11月22日のコラムで孫玉蘭さんについて書いていることは検索できたのですが、肝心の記事はまだ見つけられません。

 このとき孫さんは肉親と面会できませんでしたが、こののち孤児対策方針の変更があり、肉親が名乗り出なかった人も日本に帰国できるようになったので、日本に帰ったのではないかと思います。厚労省に問い合わせをすれば、帰国後の日本名なども判明できるのかもしれません。日本での第二の人生がよい日々であったことを祈ってやみません。

 2008年12月に長春ロケが行われた『遙かなる絆』は、私が中国で3度目の赴任中の2009年に日本で放映されましたから、ロケを見ることもドラマを見ることもなかったのですが、2011年3月の再放送は、心の絆が何より欲しかった3月に見ることができました。親子の絆をテーマにして、中国と日本の国境を越えて心をつなぎ合わせたドラマでした。城戸久枝と城戸幹の父娘の絆。そして孫玉福(城戸幹中国名)と養母付淑琴との母息子の絆。

 国境を自力で越え、日本人としてのアイデンティティを求めて苦闘した幹さんも、父の育った大地に立つために日本から中国へ留学した久枝さんも、国境を越えることは国境をつなぐことなのだと感じさせてくれました。
 城戸久枝を演じた鈴木杏も、深い愛情をたたえた岳秀清(養母役)も、とてもよかった。

 東北関東大震災で、各国の人々が国境を越えて援助を申し出てくれました。特に原発事故放射能漏れは、一国の事故が国境も何も関係なく、全地球の災難となるのですから事態は深刻です。国境を越えた防災の協力が重要なことがよくわかりました。
 人と人の絆は、地球の線の上に引かれた国境とは関係なく、心をつないでいると信じています。

<つづく>
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2011年04月05日


ぽかぽか春庭「トロッコ」
2011/04/05
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(5)トロッコ

 日本映画学校と並ぶ映画専門学校であった日活芸術学院は、2011年4月が最後の入学式。この入学生が卒業した後は、専門学校としての歴史を閉じることが決定しています。今後は、2011年4月に映像芸術学科が新設された城西国際大学に吸収合併の形になり、日活の名を冠した映画学校は消えます。 
 一方、日本映画学校は、2011年4月に「日本映画大学」として、新たな出発を果たします。

 佐藤忠男は、初代学長としてのインタビューで次のように語っています。
 「これまでに私は2万数千本の映画を見たと思うが、日本とアメリカとヨーロッパだけでなく、世界を知りたいという願いが増大して、機会をとらえては日本で公開されていないアジアやアフリカの映画も見ようと努力した。いま世界は映像文化で互いを理解し合う方向に向かっている。そこで映画は世界を結びつける文化として大きな役割をはたさなければならない。しかし現状ではそれはハリウッド映画の世界制覇で終わりかねない。将来の映像文化は、小国や途上国の映画の美点からも学んで、世界の多様な文化のそれぞれの良さが生かされるようなかたちで世界を結びつけるものでなければならないのではないか。批評家としての私は、私のこの理想に向かってまだいくらかでも貢献できるだろうか。それが私の仕事だ」

 つづけて、日本映画学校の出身者にふれ、「昨年(2010)の日本映画では、「悪人」「十三人の刺客」「踊る大捜査線3」「トロッコ」などがこの学校の卒業生の監督作品である」と、佐藤忠男は言挙げする。
 川口浩史は、日本映画学校5期卒業生。『トロッコ』が初の監督作品です。

 『冬の小鳥』は見ようと思って見に行ったのですが、『トロッコ』は、『冬の小鳥』の2本立ての映画上映なので、ついでに見たのです。ついでではありましたが、私にはとてもよい収穫となった映画です。気になる演出もありますけれど、子役に対しては「ドキュメンタリーを撮るようにとった」と述べるなど、ごく自然な演出で初監督作品として、成功しているように思います。

 芥川龍之介の短編小説『トロッコ』は、私も川口監督と同じく、教科書の中に載っている作品として中学生のころ読みました。
 青空文庫のテキスト
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

 映画のシナリオは川口浩史と黄世鳴の共同脚本になっています。芥川のトロッコは原作というより「原案」程度になっています。
 「薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している」という、原作で少年が感じた見知らぬ土地へ入り込み、帰り道への不安を抱える心情は、映画『トロッコ』の重要なモチーフではありますが、台湾を舞台にした映画は、様々な要素を付け加えています。
 以下、ネタバレ含む。未見の方はご注意を。

 私はこの映画『トロッコ』も「越境者の物語」のひとつとして見ました。
 第一の越境者は、台湾出身の呉孟真。父親に反発し、父が嫌う国へと留学してそのまま留学先で就職、結婚。一度も故郷に帰ろうとしなかった。映画に登場するのは、妻が抱える骨壺としてです。

 第二の越境者は呉孟真の妻矢野夕美子(尾野真千子)。夫の早世ののち、フリーライターという不安定な仕事を続け、息子二人を抱えて生きていくことに不安を抱えています。夫を故郷のお墓に納めるために、国境を越え、初めて夫の父親の家を訪問します。

 旅行ライターをしている夕美子は、取材のためにはさまざまな国を訪問してきました。それは母語によって母国の出版社での仕事をしてお金を得るための訪問であって、これまで夕美子は、何度国境線を越えて旅行しても、母国から「越境」してきたことはなかったのです。しかし、夫の故郷へ向かったとき、息子の矢野敦(夕美子の長男:原田賢人)、矢野凱(夕美子の次男:大前喬一)と共に、はじめて、夫呉孟真が越境者として日本にやってきた気持ちを味わうことになります。

<つづく>
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2011年04月06日


ぽかぽか春庭「トロッコは越境者を乗せて走る」
2011/04/06
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(6)トロッコは越境者を乗せて走る

 第3の越境者は、夕美子の夫呉孟真の父親・呉仁榮(洪流)です。敦と凱にとってはやさしいおじいちゃん。昔覚えた日本語で、はじめて出会った孫息子といっしょうけんめい通じ合おうとします。

 呉仁榮は、台湾が日本統治下に置かれていたころ成長し、日本語を習いました。日本人として徴兵され、3年間従軍しました。しかし、台湾が独立すると日本籍を失い、3年間の従軍に対して、何らの保障もされませんでした。呉仁榮は日本政府に対し、「見捨てられた元日本人」として、訴訟を起こしましたが、その訴えは何度行っても却下されるのみです。

 呉仁榮は、日本人として生きようとしたのに、それを国家によって否定された越境者なのです。故郷にとどまり中国語を話す生活を何十年も続けていても、かって日本の木材会社の仕事でトロッコを押してすごした日々と、日本人兵士として従軍したときの記憶を決して捨ててしまえない、逆の意味での越境者なのです。

 多くの人は、この映画を「家族のものがたり」と受け取りました。それは間違いがないと思います。私は、それに「越境者のものがたり」という視点を付け加えたいと思います。
 母と子、父と子、村落共同体、さまざまな絆が切れようとしても決して切れずに再生していく物語であるとともに、越境することによって自己を再認識していく人々の物語なのです。母に捨てられるかも知れないという不安を抱えた敦も、トロッコに乗って思いも寄らない遠くまで来たのち、弟を気遣いながら母の胸に戻ってきたとき、母と子の関係の再生だけでなく、生きていくことの不安や矛盾についての物語を得たのだろうと思います。

 芥川龍之介が描き出したように、私たちの心の中には、幼いころ感じた生というものの中の不安定さや矛盾がいつも潜んでいます。雑駁とした日常生活のなかでは取り紛れている、この「私はどこへ行こうとしているのか」「もとの、心地よい母の胸の中にはもう、戻れないのかも知れない」という不安感が、漠然と横たわっている中、毎日の飯を食い、通勤電車に揺られ、都市生活者のあらゆる矛盾をねじ伏せながら人生を歩んでいきます。
 芥川の『トロッコ』は、好奇心に駆られてトロッコをどこまでも押していきたいと思う高揚感とそ、の高揚が消え失せた後の漠然とした不安を書き残しました。

 川口浩史の映画『トロッコ』は、夕美子の「夫亡き後の子育ての不安感や、敦の母に捨てられるのかも知れないという不安は表現されていたと思います。しかし、原作の中にある「生の不安」すなわち自分が今ここに在ることの不安を描き出してはいなかった。生きていくことの中に潜む矛盾や不安の感情は、台湾奥地の村を取り囲む圧倒的な緑の生命感によって隠されてしまったと思います。
 撮影監督は李屏賓リー・ピンビン。村の緑、トロッコの疾走などをすばらしい映像として撮影し、そのすばらしい映像のために、「生の不安」より「生命賛歌」が前面に出ています。
 原作のテーマを忠実に再現することを目標とするなら、『トロッコ』は原文で読む方がよい。川口の『トロッコ』は芥川の作品をもとにしてはいるけれど、さらに別の作品として表現されていたと思います。テーマを自分に引きつけて言ってしまえば、「越境者の不安と自己確認」とでも言うような感覚。

 音楽担当は、バイオリニスト川井郁子。この『トロッコ』の音楽により、大阪アジア映画祭音楽賞受賞を受賞しました。
http://www.oaff.jp/program/ocf/ocf_best/index.html

 「境界を越えて、新たな絆をむすぶ」これは私の人生のテーマのひとつです。

<つづく>
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2011年04月08日


ぽかぽか春庭「トイレット」
2011/04/08
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(6)トイレット

 4月7日夜11時半に、団地9階のわが家また大きく揺れました。宮城県では震度6、津波警報も出ました。揺れが長い時間続き、こわかったです。
 地震で多くの大学の入学式が中止になったほか、停電の影響が長引き、さまざまなイベントが中止になっています。私たちのジャズダンスサークルが出演する予定だった地元のイベントも中止になり、5月の発表会はなし。

 荻上直子監督が、第61回芸術選奨文部科学大臣新人賞(映画部門平成22年度)を受賞しました。(3月11日の地震直前に文科省から発表されましたが、3月17日に予定されていた授賞式は震災の影響で中止になりました)。
 映画部門は、昨年の西川美和監督(映画部門平成21年度)に続く、女性監督の受賞となりました。女性監督も珍しくはなくなった昨今ではありますが、『冬の小鳥』のルコント監督など、有望な女性表現者がつづく時代をたのもしく思っています。

 かっては、女性が社会で活躍するために、自分自身を「名誉男性」にしてしまわなければならない時代もありました。今、女性が女性としての感性や身体性を縦横に発揮して表現をなしえる時代であることを嬉しく思います。

 「トイレット」は、2月に、ギンレイで見ました。私が見て来たあと感想を言おうとすると、息子は「あ、言わないで、僕も見るつもりだから」と言って、一人で映画館へ行きました。夫も見て来て「こういう話、どこが面白いのかわからない」と娘に語ったそうで、娘は「父には映画がわからないんだから、ハリウッドの中身無し超大作映画でも見てればいいんじゃない?」と笑っていたのですが、「映画は家でテレビ放映を見ながら、みんなでワイワイしゃべりながら見たい」という娘だけが、見ていないことになり「なんだ、こんなんじゃテレビで放映してもつまらないよ。母も弟も見ちゃったんじゃ、私だけワイワイしていても面白くない」と、むくれています。

 一人では出かけたがらない息子が、わざわざ映画館へ出かけたのは、この映画の「みんな、ホントウの自分でおやんなさい」というキャッチコピーにひかれたのじゃないかと、私は思っています。
 家族の成長と異文化のせめぎあいがテーマ、ということですが、私にはやはり「越境者の声」の物語なのです。以下ネタバレ含む。未見の方、ご注意を。

 「トイレット」の舞台はカナダです。カナダ人と結婚した母(第一の越境者)が亡くなったあと、残された3兄弟は、母が亡くなる直前に日本から呼び寄せていた祖母との関係に悩みます。第二の越境者祖母(もたいまさこ)はまったく英語が話せない。日本人荻上直子が監督した日本映画ですが、全編英語の映画です。第二の越境者バーチャンの声はトイレを出たあとの「ため息」だけです。

 3兄弟。長男モーリーは引きこもり生活を何年も続けています。次男レイは企業の実験室勤務。ロボットプラモオタクですが、アパートが火事で焼けてしまい、オタク趣味に没頭できる一人暮らしから一転、母が亡くなったあと、祖母、兄、妹と同居することになりました。妹は生意気な高校生。将来どう生きていくのか、まだ自分でも自分がわかっていません。

 日本語しか話せないバーチャンの心をなごませようと、兄弟はテイクアウトの寿司を買って夕食にだしたりしますが、バーチャンは毎朝トイレから出てくるとため息をつき、カナダの生活になじめないようす。

 引篭りの長男モリーが母の形見のミシンを見つけたことから、3兄弟の生活が変わっていきます。モリーは母のミシンで自分が着たい服を作ろうとします。服の生地を買うために4年ぶりに家のドアから外に出ます。英語ができず家から出ようとしなかったバーチャンも、モリーの服のために買い物に出て行きます。モリーが縫い上げたのは、鮮やかなプリント柄のスカートでした。スカートを履き、「ほんとうの自分」に出会えたモリーは、4年前、引きこもりの原因となった出来事に再チャレンジすることを決意します。ピアノのコンクールに出ること。モリーは音楽学校の教師達から将来を嘱望されていたピアニストの卵でした。

 リサは高校で詩の創作クラスに気になる男子生徒を見つけましたが、なかなか上手い具合には進展しません。リサはバーチャンがひとりで見ていたテレビの「エアギター」にひかれます。エアギターは音は出しません。しかし、音が無くてもギターの音が聞こえてくるような自己表現のひとつではあります。
 派手な音をならすように詩を朗読するハンサムな男子生徒が、プラモデルを見つめる兄レイを侮辱するのを聞き、音は出さずに静かにプラモデルに熱中するレイを弁護します。
 リサはエアギターの選手権に出ようと決意します。

<つづく>
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2011年04月09日


ぽかぽか春庭「エアギターの音」
2011/04/09
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(7)エアギターの音

 (『トイレット』ネタバレ続き)
 家族に冷淡な態度をとっていたレイは、バーチャンがほんとうにママの母親なのか疑問を持っていました。長い間、ママとバーチャンは音信不通で、バーチャンをアメリカに呼び寄せたのは、ママの死の直前だったからです。レイはアパートの火事によって手に入った保険金で「遺伝子調査」を行うことにします。しかし、バーチャンが本当に血縁関係を持った親族かどうかを調べるはずの調査は、レイだけが知らされていなかった家族の秘密をあばく結果になりました。

 家族と遺伝的なつながりを持っていなかったのは、バーチャンではなく、幼いとき養子に迎え入れられたレイ自身だったのです。
 でも、家族とは、遺伝子がつながっている人のことだけでしょうか。家族の絆とは血縁関係という問題ではなく、いっしょに暮らし互いを気遣い合う心のつながりを持つ人々のことなのだとレイにもわかってきます。
 レイは、何より大事なロボットプラモデルの購入をあきらめて、バーチャンが気持ちよくトレイを使えるよう、日本製の「ウォシュレット」を購入することにします。

 『トイレット』を見て「つまらない」という感想を持った夫のほか、この作品の不足面はいろいろあげることができるのでしょう。しかし、私は『かもめ食堂』も『めがね』も荻上直子、好きです。芸術選奨文部科学大臣新人賞、おめでとうございます。
 良かった点はいろいろあります。英語を話さなくても表情で感情を伝えるもたいまさこの演技が自然で、カナダの美しい風景に溶け込んでいたこと。サチ・パーカーが妙な服を着ていつもバス停に座っているホームレスっぽい女性を演じていて、独特の存在感を示していたこと。モーリーが自宅のピアノで弾いたり、コンクールシーンで弾くピアノ曲がとてもよかったこと。

 モーリーが弾くピアノ曲。フランツ・リスト「ため息・演奏会用練習曲・第3曲変ニ長調」、リスト『波の上を歩くパウラの聖フランソワ』(ふたつの伝説第2番)、ベートーベン「ヴァルトシュタイン(ピアノソナタ第21番ハ長調)」が演奏されました。

 様々な名演奏がある中、あえて古い録音。1940年 にレコーディングされたホロビッツの演奏でリスト「伝説二番・波の上を歩くパウラの聖フランソワ」
http://www.youtube.com/watch?v=U6Jffo2JdQI&feature=related
 フジコ・ヘミング演奏でリスト「ため息」
http://www.youtube.com/watch?v=ix5tV2N8d5Y
 Alice Sara Ottの演奏でワルトシュタイン第一楽章
http://www.youtube.com/watch?v=7xk8Iju821w
 「トイレット」の音楽担当は、バイオリン奏者の川井郁子。
予告編
http://www.youtube.com/watch?v=zqGaVvt8ev8&feature=related

 リサが見つけた自己表現「エアギターの演奏」。エアギターは音を耳には伝えないけれど、音を見せることはできる。心の耳には音が届く。ばーちゃんは英語を話せず、耳に英語の音を伝えることはなかったけれど、ばーちゃんが孫達を愛しているというメッセージをちゃんと伝えました。
 モーリーは5年前、ピアノの演奏コンクールを前に心を閉ざしてしまいましたが、「ほんとうの自分」をためらいなく出すことでピアノの音を取り戻しました。
 家族と血のつながりがないことを知ってしまったレイは、家族との絆とは何なのか、心の糸を見つけました。

 心の中の境界線は、目に見えずひかれているのだけれど、私たちは越境者となって境の向こうへ行くことができるし、エア・ブリッジを渡ることができる。

 トイレタイムは、食事や睡眠と並んで日常生活を構成する重要なひとときです。震災の避難所でも、トイレが不自由で体調を崩してしまう例もあったと聞きます。日常生活を滞りなく穏やかに運ぶために、大切なひととき。トイレ、親しい人とのなごやかな食事。穏やかな眠り。
 その大切な日常生活は淡々と運ぶようでいてあっけなく破壊されてしまうこと、いろいろなことを知った2011年3月でした。

 トイレットペーパーが店頭から消えて、買い占めに走る人もいた、などと、あとになってみれば、何をそんなにあわてて紙など買わなければならないかと思うのですが、買い占めに走った人々にしてみると日常生活を防衛するために仕方なかったと言うでしょう。
 トイレに入ってほっとする日常生活が、明日も穏やかに続いていくことを祈る毎日です。

<おわり>


 この『冬の小鳥』は「キム・セロンという子役を得たことが成功の要」とは、闘う映画批評家牧野光永氏の評です。もうひとりの子役スッキを演じたパク・ドヨンもよかった。スッキは環境に自分を適応させる術にたけ、アメリカ人の養子に選ばれるためにカタコトの英語を話そうと努力します。また11歳までなら養子のもらい手が多いが、12歳を過ぎた子はもらい手が減ってしまうということを知って年齢を1歳少なく申告しています。初潮が来たことも自分一人の秘密にしています。初潮を迎えてしまうと養子の希望者が減るからです。

 養子にだされる子を、残される子が送り出すシーンが4度繰り返されます。最初は見た目もかわいらしく、いかにも「養女向き」な女の子が孤児院を出て行くシーン。次は、年齢も養女に選ばれる年頃を過ぎてしまい、足が不自由なイェシン。イェシンは自分が「養女とは名ばかりの労働力・女中がわり」としか扱われない将来を知りつつ、施設を出て行きます。歌によって送り出されることもなく、ひとり、不自由な足をひきずって出て行くのです。
 スッキは自分の狙い通り、金持ちそうなアメリカ人夫婦に引き取られます。出て行く子の背に韓国語による「蛍の光」と「故郷の春」の歌が投げかけられます。4度目のお別れシーンは、ジニがフランスに送られるとき。

 「故郷の春향의봄Ko-hyang-eui Pom」は、作詞:李元寿、作曲:洪蘭坡。朝鮮や韓国の人にとっては、代表的な故郷を思う歌です。

 私は、この歌を中国にある「北朝鮮レストラン平壌館」で、女性服務員によるショウタイムで聞いたことがありました。北朝鮮でも韓国でも故郷を賛美するときはよく歌われています。
 冬ざれの寒々とした光景のなかで、別れの歌として、残されてしまった孤児たちが歌う歌声には特別な響きがあります。それは、故郷を賛美する歌でありながら、故郷から引き離され、遠い異国に養女として引き取られる子を送り出す歌として歌われているからです。越境させられていく幼な子から故郷を引きはがす歌なのです。

 「故郷の春,256;향의봄」
http://www.youtube.com/watch?v=tTrBV671TcU

1.わたしの住んでいた故郷は、花咲く山の谷。
桃の花、杏の花、小さなツツジ。色とりどりの花の宮殿のあった村。
その中で遊んだころが、なつかしい。
2.花の村、鳥の村、私の昔の故郷。
青い野原の南から風が吹けば、小川のほとりにしだれ柳が舞を舞う村。
その中で遊んだころが、なつかしい。(大田雅一訳)

 この歌の扱い方ひとつをとっても、ルコント監督の「韓国語とフランス語の間の私」を感じました。この映画は、「生まれた国と文化から引き離され、新しい文化の中に放り込まれた人の感性」「母語を忘れてしまい、新しく獲得した言語でシナリオを書いた」ことの感覚が、冬の荒涼とした光景のなかで「故郷の美しい春」を歌うシーンになっていると思います。

 ルコント監督は、インタビューの中で「韓国文化から別れてフランス文化に入ったとき、葛藤(かっとう)や苦痛を感じました。(韓国の孤児院では)カトリックのシスターたちによく面倒をみてもらったので、プロテスタントの家庭に入ったのも一種の別離でしたから苦痛で悲しかったですよ」と述べています。ふたつの文化の相反する環境の中で育った監督が、9歳の子供の孤独や絶望、再生とかすかな希望に前進する姿を繊細な映像によって描き出しています。

 ジニは死んでしまった小鳥埋めた場所を掘り返し、自分自身を埋めてしまおうとします。ちょうど自分が入れるくらいに穴を広げ、横たわって自分の上に冷たい冬の土をかけていきます。最後に顔に土をかけ、自分の葬儀を完成したあと、ジニは息苦しくなり思わず顔の上の土を振り払います。ジニの再生です。このときのジニの表情を引き出せた監督は子役になんと言ったのでしょう。聞いてみたい。

 以下は、インタビューで語られたルコント監督のことばです。
 『冬の小鳥』は、私が過ごしたカトリック系の児童養護施設での体験に着想しています。自伝的な要素を消し去ることは困難でしたが、同時にただ記憶の再現にとどめる気も全くありませんでした。捨てられ、養子にもらわれていくという途方もない状況に面した少女の感情を、現代にも通用する形で表現したいと思ったのです。二つの人生が交差したあの日々。諦めることを学ぶ必要もなかったそれまでの人生と、限りなく切望することを知る人生。その二つの結び目をしっかりほどいて見せることは、映画でしかできないと思ったのです。

 私はどのように施設に行ったのか覚えていませんが、ジニのように家族が私を迎えに来るのを期待して、心うつろに待っていた記憶はあります。あの時抱いていた一縷の希望は、生涯忘れることができません。この映画は 捨てられた子供が感じる怒りと反抗、子供は受動的な存在ではなく、喪失感や傷を感じられる存在なのだということを描いています。

 「養子」の話ではなく、万人が理解できる「感情」についての映画です。ジニはたった一人世界に取り残されてしまいますが、そこから新しい人生を生きていくことを学びます。これは愛する父親を失ったからこそ学びえたことです。今の私の人生があるのも、両親が私を捨てたおかげです。同時に「どうして親が子を捨てられるのだろうか」という問いかけも数え切れぬほどしてきました。ありがたみと捨てられた痛み。実の両親を思い浮かべると、コインの裏表のような感情が複雑に交差します。実父にこの映画を観てほしいとは思いますが、捜してまで会うつもりはありません。今まで父が私を訪ねてこなかったのは、父には別の人生があるということですから。」

 ルコント監督は韓国語を忘れてしまい、フランス語でこの『冬の小鳥』のシナリオを完成しました。しかし、映像という「共通言語」で映画を完成したことで「家族から捨てられたというトラウマからようやく抜け出せた」とも感じたといいます。
 「故郷の春」の歌声は、今ルコント監督の耳にどのような響きで届いているのでしょうか。

 私にとって、『冬の小鳥』は、母語を失った女性が、忘れてしまった言語によって故郷の世界と和解し、自分を捨てた家族のトラウマから再生する心の表現としての映画でした。
 私の現在のテーマ「越境者の言語表現」にとって、自らの意志でなく越境せざるを得なかった人のひとつの魂の軌跡の表現として、とてもすばらしい感動を残してくれました。

<つづく>


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春の街歩き2011年4月

2010-09-13 05:34:00 | 日記
2011/04/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>さんぽ(1)街歩き、池袋

 4月18日は、K子さんの自宅へ遊びにいきました。K子さんとは、40年前、ドイツ語クラスで出会いました。
 地震の片付けで出てきた古い手紙の束。40年前に母に出した手紙の中、「K子さんとドイツ語の試験勉強をするから、次の日曜日は家に帰らない」などと書いてあり、手紙で見る限りは、私はまともに勉強をしていたのです。最初の大学生活は、学生闘争の時代で、3年間は学生ストライキが続きキャンパスはロックアウト。勉強することなどなかった、という記憶が残っているので、「友だちと勉強」なんて書いてあっても、ほんとに勉強したのかな、それとも日曜日に家に帰らないことの言い訳かな、なんて、疑ってしまいます。
 当時は、姉とふたりで阿佐ヶ谷にアパートを借りて住んでいましたが、母は都会に出した娘ふたりの暮らしを毎日案じていました。

 卒業後、私は中学校国語科教員、K子さんは上級職国家公務員になりました。私は3年で退職してしまい、現在は非常勤の不安定な身分ですが、K子さんは定年退職まで頑張りました。年金生活に入ったK子さん、仕事がないと、どうしても体を動かすことが不足するというので、今はいっしょにジャズダンスサークルで体力維持をはかっています。

 K子さんのマンションを初めて訪問しました。山手線の最寄り駅から徒歩5分ほどのところにある静かな住宅街で、ベランダからは高層ビルも見える立地です。マンション前の通りには、米屋酒屋中華料理屋豆腐屋など、ご近所コミュニティの中心になるようなお店もあり、便利です。
 お部屋は2LDKでゆったりしており、2DKをゴミ箱同然にしてごちゃごちゃに住んでいる私から見たら夢のような快適空間。精神的ゆとりというのは、このようなすっきり片付いた部屋でゆったり読書ができる時空から生まれるのであろうと、たちまちいつものうらやましがりが出てきました。

 しかしながら、40年前、私もK子さんも、田舎から上京して東京暮らしを始めたときは、同じような3畳のアパート4畳半のアパートに暮らしていたのです。ええい、これはその後の努力の差である!と、キャリアをきっちり築いてきたK子さんのお城をながめました。書棚には演劇関係の本や画集。
 「あなたも、がんばってきたじゃないの」と、K子さんはなぐさめてくれるのですが、がんばってみたものの「働けど働けど、じっと手ばかり見る」ワークングプア生活ですもの、情けない。
 
 K子さんはお昼ご飯に、手早くパエリアを作ってくれました。「毎回作るたびにレシピが変わって、今回は今回の味」というところは私の料理といっしょですが、趣味のよいテーブルウエア、しゃれた器にサラダやお豆の煮物がならんだテーブルは、うちとは大違い。地震で食器は寝転がったけれど、割れたり欠けたりはしなかった」というのは、耐震不足だったわが家とは大違い。もっとも、わが家の割れた食器類、ほとんど百円ショップ食器です。地震がなくてもすぐ割っちゃうので。
 パエリアも「手作りニシン酢漬け」や鰯南蛮漬けがたっぷり入ったサラダも、とてもおいしかった。

 作りながら食べながらのおしゃべりで、「ねぇ、私が母に書いた手紙に、しきりにK子さんといっしょにドイツ語勉強したとか英語を勉強したって書いてあったんだけど、私たちそんなにいっしょに勉強したっけ?」と訊ねてみたら、「さあ、いっしょにお芝居見に出かけたり、神代植物園へ行ったりしたのは覚えているけれど、勉強なんてしたかしら」と、K子さんにも覚えがない。やはりあれは、「帰省しない言い訳」だったのか。
 K子さんは卒論もヘーゲルだし、その後もドイツ旅行をしたりドイツ語勉強を続けているのですが、私は「イッヒリーベデッヒ」と「デルデスデムデンディーデルデルディーダスデスデムダスディーデルデンディー」という定冠詞暗記の呪文を覚えているだけ。う~ん、ここにも努力の差があるなあ。

 夕方、K子さんのお宅を辞しました。帰りのバスを待つ間、駅前で用足し。都内あちこちにある県物産のアンテナショップで、スーパーの食品棚などにはない地方独特のものを買うのが好きです。宮城のアンテナショップは池袋駅前にあり、池袋を通過するときは宮城ふるさとプラザに寄ることにしてきました。今回は、東北応援ショッピングのつもりなので、漁師アトムさんのふるさとを思って、南三陸産の「牡蠣のスモーク」100g1260円というのと、烏賊の塩辛100g1050円というのを買いました。私が普段食べている牡蠣や塩辛に比べるとグンと高級品で、いつもはそうそう買わない値段なのですが、今回は「買うことも東北の応援」と思って奮発。レジ前は、いつもより長い客の列。お客さんたちも、「買い物で応援」の気分だったのだろうと思います。

 がんばれ東北!
 がんばれワーキングプアの私!

<つづく>
06:15 コメント(4) ページのトップへ
2011年04月22日


ぽかぽか春庭「街歩き、錦糸町」
2011/04/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>さんぽ(2)街歩き、錦糸町

 21日は、昼の発表で原発半径20キロ圏は警戒区域立ち入り禁止と発表されたし、夜10時半すぎ、関東地方にはまた強い地震がありました。落ち着きたいとは思うのですが、余震が続き、なかなか落ち着いた気分になれません。
 香山リカの「こころの復興」によると「今、ここで自分自身を支えることが、被災地の復興につながると思って、日常をしっかりすごす」「ときには怠けたり、ときには楽しいことをして、心を解放する」ことが大切だそうです。

 いつになったら平常心をとりもどせるのかわかりませんが、まずは、心落ち着かせようと、人との出会いを図っています。
 私にとって一番不得手だった「人と話をする」ということ、今でも世間との交わりの上で苦手のひとつであることは変わりませんが、気の置けない少数の友だちとなら話ができるようになったのは、年の功といえましょう。ダンス仲間のミサイルママや、40年前からのおつきあいのK子さん、2番目の大学の同窓生でネットをきっかけとして知り合ったA子さん。何気ないおしゃべりができる数少ない友で、私には貴重なおつきあいです。

 4月17日、心の復興のひとつとして、A子さんといっしょにコンサートに出かけました。これまで「美術館散歩とおしゃべり」「花見とおしゃべり」などを楽しんできましたが、今回のコンセプトは「オーケストラ鑑賞とおしゃべり」です。
 自粛ムードの中、ひとりで楽しむのだったら、なんとなく心が萎縮してしまったかも知れないのですが、地震のため中止してしまったA子さんとの約束を果たすため、ということで心振り立てて出かけることができました。まだ余震が続く中、ちょっと恐くもありましたが、春休み中に「会いましょう」と日を決めていたのに、「部屋の中、本が散乱したのが片付かないから」と、こちらの都合でお断りしてしまい、約束を反故にして悪かったと思っていたのです。

 錦糸町駅の日曜日。錦糸公園はフリーマーケットで賑わっていました。古着やアクセサリーなどを売る人が店を並べています。ホームレスの人が、ベンチでのんびりすごしています。もう花が散ってしまったけれど、桜の木の下にシートを広げ、お弁当を食べているグループ。それぞれの人々がそれぞれの日常を繰り広げているようす、のんびりした日常はありがたいものだと心から思います。
 日差しは4月の平均より強く、暑いくらいです。私は公園を横切って、スポーツセンターの中にあるレストランへ。A子さんと食事をしながらおしゃべりしました。

 私は息子が大学院に入り、学生スタッフとして大学事務アルバイトを始めたので、やれやれ子育て卒業、の気分、A子さんは息子さんが念願の「スポーツ選手として活躍できる高校」に入学できて、「あとは本人のやる気次第」のところまで子育て推進、という境遇になり、おしゃべり会をしよう、ということになっていたのでした。A子さんのむすこさんが楽しそうに高校生活をはじめているようす、翻訳をしてみたい作品の話などうかがい、私も意欲をお裾分けしてもらいました。

 おしゃべりの後は、久しぶりにオーケストラコンサートを楽しみました。定期演奏会の無料入場ハガキをもらっている東京楽友協会交響楽団。アマチュアオーケストラですが、私がこれまでに聞いたどのアマチュアオケよりも実力は上。っていうか、プロのオーケストラにひけをとらない演奏技術のあるオーケストラです。定期演奏会は春秋2回ですが、昨秋は、私のジャズダンス発表会と重なって、聞きに行くことができませんでした。

 1時半開演の会場トリニティホールに着いたときは、バッハ作曲シェーンベルク編曲「前奏曲とフーガ変ホ長調」の演奏はすでに始まっていました。一曲が終わるのを待って、席を探し、マーラーの交響曲第9番を聞きました。
 9番4楽章の演奏時間は約85分で、「長い!」。

 第4楽章にはマーラー自身が「ersterbend(死に絶えるように)」という演奏上の留意点をかき込んでいるという作品ですが、私はレクイエムを聞くように聞いていました。そういえば、マーラーにはレクイエムと銘打った曲はないのです。9番は、自身でこの曲を初演する前に亡くなってしまったので、もしかしたら、マーラーは、この曲が自分自身の鎮魂曲になることを知っていたのかもしれません。

 追悼も鎮魂も大切なことだけれど、残された人が心を満たしながら前へ進むことも大事と感じつつ、錦糸町駅前のダイソーでちょっぴり消費生活。茶筅と茶杓を買いました。合計420円。
 茶道をするための茶筅ではなく、健康飲料としての抹茶を飲むためですから、デパートや茶道具店で売っているような茶筅じゃなく、ぜったいに百円ショップの茶筅にしようと思っていました。「深蒸し茶が健康にいい」という話がNHKためしてガッテンで紹介されたのを見ていて、すり鉢で茶葉をすってから飲むという手間をかけるより、抹茶をそのまま飲んだほうが手間がかからないと思いついたのですが、震災片付けで抹茶どころではなかった。

 帰宅し、スヌーピーの絵がついた小どんぶりに抹茶を入れて、お茶をたてました。おいしい。うん、これぞ平和な日常生活。一口飲んでは余震に震え、ひとくち飲んでは警戒区域拡大に怯える。
 落ち着きを取り戻すのはいつになることでしょうか。
 

<つづく>
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のはらうた春の散歩2011年4月

2010-09-08 06:35:00 | 日記
2011/04/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>さんぽ(3)のはらうた

 まだ部屋の中がぐちゃぐちゃだったころ、ダンスも何回かレッスンを休んでしまいました。文化とはほど遠い生活をしていたのですが、博士号授与式には何としても出席しようと出かけました。授与式が終わり、学士会館手前で信号待ちしている短い間に、博士論文の副査の先生にお話していただいたことばが心にしみました。信号が変わる間のほんのひとときですが、私だけに語っていただいた、博士号取得への何よりの餞です。

 先生は、計画停電の影響などで博士号授与祝賀会が中止になったことにふれ、「戦争や震災があると、当初は興奮もあり、国民みんなで団結しましょう、国難に耐えましょう、なんていう勇ましい声が大きくなる。それがみんなの心をひとつにしている間はいいけれど、ひょっとかすると、当初の興奮が過ぎたあとも、この非常時に音楽なんて、この国難に楽しみ事なんて、というような、文化や楽しみを排斥する声になってしまうのはとても危険だ。こんなときにこそ日常生活を心豊かに過ごすことが必要で、そのために文化というものがある」というお話をなさいました。私が学んできた「カルチュラルコミュニケーション・スタディーズ」という学問分野も、人の心を豊かにするために役立ててこそと思っています。

 ダンスサークルの仲間は、ミュージカルや合唱など、歌うことも大好きです。いくちゃんは港区のミュージカルサークルの一員だし、よさこいソーランのグループにも参加しています。ともさんとかずさんみきさんは豊島区の混声合唱団に所属。こずさんとていさんも女性合唱団でうたっています。

 3月の終わりに、こずさんとていさんの合唱サークルの発表会に誘われました。100人ほど収容のカナリアホールという小さな会場での合唱発表です。震災のあと中止するかどうかメンバーで話し合った結果「やっぱりやりましょう」ということになって開催した、という「北女声合唱団」の会長さんからの挨拶がありました。副査の先生がお話になった「こんなときだからこそ文化を!」の言葉通りです。

 まだ部屋の中が全然片付いていないままで、「合唱を楽しむ気持ちにはなれないかも」と思いながらも会場へ入りました。
 メンバーの年齢50代から70代、という感じの「北女声合唱団」。保育園小学生くらいの、お孫さんにあたる世代もおばあちゃんの応援に来ているけれど、聞きに来ている人の平均年齢も高い。合唱メンバーのうちのふたりは、舞台に椅子を用意し、座って歌いました。私のダンス仲間、ていさんはソプラノ、こずさんはメゾソプラノ。

 ステージは、最初と最後に合唱があり、中にピアノ担当のふたりのピアニスト(黒木祐美、遠藤和歌子)による連弾と、合唱指導の先生の独唱がありました。先生はバスバリトン歌手の宇野徹哉さん。あちこちの合唱団の指導を続け、北女声合唱団の指導は22年続けているそうです。
 宇野さんは、三木稔作曲の「のはらうた」のなかから6曲を披露しました。すてきな歌声を聞いて、元気出てきました。

 「のはらうた」は、私も大好きな工藤直子さんの詩です。詩集の著者名のところに「くどうなおこ と のはらみんな」と書かれています。
 「のはらみんな」っていうのは、この詩をつぶやいている野原に暮らす「あげはゆりこ」さんや「かえるたくお」くんや「のぎくみちこ」さんたちです。ひとりひとりのつぶやきをくどうなおこさんが書き留めた、という体裁の詩集なのです。小学校の国語教科書にもたくさん採用されているので、誰でもひとつふたつは、知っている詩があるかもしれません。群読指導の教材にもなっており、国語科教材研究の題材のひとつとして人気の作品です。

<つづく>
07:43 コメント(2) ページのトップへ
2011年04月24日


ぽかぽか春庭「さんぽbyありんこたくじ」
2011/04/24
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>さんぽ(4)さんぽbyありんこたくじ

 詩集「のはらうた」冒頭にくどうさんの前書きがあります。
 『あるひ のはらむらを さんぽしていますと、かぜみつるくんが みみもとを とおりぬけていきました。とおりぬけながら はなしてくれたことばが、うたのようでした。
 「まるで うたみたい」 「そうかいそうかい」 「かきとめておこうか」「たのむぜ」 かぜは そういって、やまのほうへ はしっていきました。
 あるひ やぶのなかで こしをおろしていますと、だれかが スカートをひっぱるので、だれかとおもったら こねずみしゅんくんです。どんぐりをかかえて、うたを うたってくれます。
 「かきとめておこうか」「うん、おねがい」
 こねずみは そういって、やぶのなかを はしっていきました。
 のはらむらのみんなが しゃべるたびに、うたうたびに、わたしは それを かきとめました。そのうたが たまって ほんになったのが、「のはらうた」です。のはらむらのみんなは、ひとり1さつずつ このほんをもっています。へびいちのすけくんは、さんぽのまえに このほんをよむと ぐあいがいいそうです。みのむしせつこさんは、よいゆめが みられるそうです。
 わたしは、せんたくをするとき のはらうたをうたいながらやると、ちょうしがでます。あなたもいかがですか? のはらみんなのだいりにん くどうなおこ』

 宇野徹哉さんは、「ことばを伝えたい」という前置きをして美しいバスバリトンで歌ってくれました。「ありんこたくじ」さんの歌のときはありんこになりきって、「かえるたくお」さんの歌のときはかえるになりきって、詩を伝えてくれました。
 かまきりりゅうじの歌は『おれはかまきり』です。            

 ♪おう なつだぜ おれは げんきだぜ  
 ♪あまり ちかよるなおれの こころも かまも  
 ♪どきどきするほど ひかってるぜ  
 ♪おう あついぜ  おれは がんばるぜ
 ♪もえる ひをあびて かまを ふりかざす すがた  
 ♪わくわくするほど  きまってるぜ

 いいですよねえ。夏の光の中、暑さも自分のエネルギーにして、かまきりりゅうじさんはがんばっています。自分の鎌に誇りを持って「わくわくするほど きまってるぜ」と鎌を振り上げています。
 私もね、自分の鎌を「わくわくするほどきまってるぜ」と思いながら、ふりあげていたいと思っているのだけれど、どうにも、刃こぼれ錆び付きが目立ちます。

くどうなおこによる朗読「おれはかまきり」
http://www.youtube.com/watch?v=tPiLXu0YOlc

 宇野徹哉さん歌唱の中、私が一番気に入った歌は「ありんこたくじ」さんの「さんぽ」です。     
♪とおくまで あるいた あまいあじ さがして
♪ぼくのひげ ぷるぷる ぼくのあし しゃかしゃか
♪あそこにも ここにも あまいあじ いろいろ
♪ぼくのひげ いそいそ ぼくのあし あちこち
♪おうちまで かえろう あまいあじ たっぷり
♪ぼくのひげ ぴんぴん ぼくのあし どんどん

 ありんこたくじさん、ひげ(触覚)をぷるぷる振り立てて、あちこちあちこちさんぽです。でもこのさんぽはブラプラ気ままのようでいて、どっこい生きるための真剣な散歩。生きる糧の甘い味さがして、しゃかしゃか忙しい。
 私も、あまいあじさがして、とおくまであるいていきたいです。さあ、元気出して「さんぽ」!!
 元気を失っていたとき、ありんこたくじさんの歌にも、かえるたくおさんの歌にも、大いに励まされました。

<つづく>
01:02 コメント(2) ページのトップへ
2011年04月26日


ぽかぽか春庭「歩こう、あるこう、私は元気」
2011/04/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>さんぽ(5)歩こう、あるこう、私は元気

 震災で通常番組が軒並み中止され、CMも「AC」の公共広告ばかりになっていたとき、「こんなときだからこそ、心ほっこりするのを見たい人もいるのにね」と、いいながら、わが家はこれまでに撮り貯めておいた映画を見てすごしました。

 田中麗奈主演の『がんばっていきまっしょい』。録画したまま長いこと見ないでいたのは、テレビドラマ『がんばっていきまっしょい』鈴木杏主演のを全話見ており、「ストーリーは同じだから、急いでみなくてもよい」と、あとまわしにしてきたから。
 ドラマもよかったけれど、映画も楽しめました。松山ロケの光景も心なごみました。たった一人で女子ボート部を立ち上げたものの、腰を痛めて試合にも出られなくなった悦子が、それでも再び立ち上がっていく姿に、部屋中に本が散乱した中で無気力に寝続けていた私も、ようやく本を片付ける気になりました。

 柳楽優弥と石原さとみ出演の『包帯クラブ』。これも録画したまま見ないでいました。娘は「心の傷を癒すために、いろいろな場所に包帯を巻いていくクラブ」の話、という概要は知っていたものの、天童荒太の原作イメージから、こちらがつらくなるような「心の傷」シーンが出てきたらいやだな、っていう気分があり、「家族一同、心の傷に耐えられるテンションのとき見よう」と申し合わせていたのですが、見るビデオも底をついたので、見ました。

 『包帯クラブ』の冒頭、高崎観音が映ります。「あれっ?高崎観音だ。これって高崎ロケの映画なの?」と、内容についてまったく予備知識がなかった私が聞きました。小学校4年生の遠足のとき、巨大な観音様の足下でお弁当を食べた百衣観音。高崎市のそして群馬県のシンボルともいえる大観音なので、一目みればわかります。『包帯クラブ』は、セットを使わず全編高崎ロケの映画でした。

 イジメにあったりレイプを受けたりする「心の傷」描写のストーリーも、予想よりエグいことはなかった。
 「心に傷を受けたときの場所に包帯をまいた写真」をネットの中に見いだして立ち直ろうと決意する人々に対し、「そんな写真くらいで立ち直ってしまう心の傷はもともとたいしたことないんだ」と揶揄する投稿メールも「包帯クラブ」のサイトに届きます。でも、心の傷の大きさを乗り越えて立ち上がろうとする気持ちは、目には見えないのです。目に見えないことを信じるのは、「たいしたことあるかないか」という外部の評価ではなく、自分の心の持ちようひとつ。
 震災後に見ていてもつらくならず、心ほっこりできました。
 震災でつらい思いをした人々、たくさんいると思います。心に包帯を巻くように、ことばがひとりひとりの胸に届きますように。

 いよいよビデオの撮り貯めがなくなって、もう何度もみているジブリのどれかを見ようということになり、結局いちばんほっこりできるのは『トトロ』と意見一致して、何回目に見るのだかわからないくらい見ている「トトロ」をまた見て、また楽しめました。古典作品です。
 そして、3月21日、日本テレビ放映の「スタジオジブリ物語」を見ました。トトロの主役は、最初はさつきだけでメイはあとから付け足された、なんていうメイキング裏話を知りました。

 『隣のトトロ』の画面に流れる歌、「♪トットロトットロ、トットロトットロ」の歌もいいですし、「猫バス」も「風のとおり道」も、何度聞いてもいいですが、いちばん元気が出るのは、やはり「さんぽ」です。

作詞:中川李枝子
♪あるこう あるこう わたしは げんき あるくの だいすき どんどん いこう
さかみち トンネル くさっぱら いっぽんばしに でこぼこ じゃりみち
くものす くぐって くだりみち
♪あるこう あるこう わたしは げんき あるくの だいすき どんどん いこう
みつばち ブンブン はなばたけ ひなたに とかげ へびは ひるね
ばったが とんで まがりみち 
♪あるこう あるこう わたしは げんき あるくの だいすき どんどん いこう
きつねも たぬきも でておいで たんけん しよう はやしの おくまで
ともだち たくさん うれしいな ともだち たくさん うれしいな
 http://www.youtube.com/watch?v=NNGoROe9CXM&feature=related

 うん、元気出てきた。
 私の先生がおっしゃった通り、文学も音楽も絵画も、つらいときに元気出したり心慰めるために役にたつものだと思います。むろん、芸術の存在価値はそれだけじゃないですけれど、こんなときは「元気だすための歌」もいいと思うよ。

<つづく>

<文蛇(もんじゃ)の足跡>
 文章中に必要な引用文としての歌詞引用は「文章全体の三分の一より長くないこと」という著作権法の目安があるみたいです。今回の「さんぽ」シリーズは、4/20から27日までと続くので、全体の長さから言えば、「のはらうた」&「トトロのさんぽ」の引用は三分の一を超えていないと思います。
07:20 コメント(3) ページのトップへ
2011年04月27日


ぽかぽか春庭「桜あるき」
2011/04/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>さんぽ(6)桜あるき

 ぽかぽか春庭童謡集「春庭の五十音・日本語音声学のための発声練習ハ行」より
「ぽかぽか春庭のさんぽ」
 ♪春の庭をあるく いちにのさんぽ 
  春の光 sun サン のぼる
  春の髪 ぽらぽら さんぽ
  たんぽぽのわたげ ぽあぽあ 
  春の小鳥 ぽぴぽぴ
 ♪春の庭をあるく いちにのさんぽ 
 春の命 燦燦 もえる
  春の背を ぽりぽり さんぽ
  かげろうのゆらぎ ぽゆぽゆ 
  春の池は ぽちゃぽちゃ 
 ♪春の庭をあるく いちにのさんぽ
  春に拍手 三々 七つ
  春の足 ぽくぽく さんぽ
  夕づつはきらり ぽつぽつ
  春のお庭 ぽかぽか

 春のお庭。4月5日に歩いたのは駒込六義園です。ぽかぽか天気の暖かい日でした。
 六義園は、元禄時代、徳川五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が、2万7千坪を拝領し、下屋敷として造営した大名庭園。中心に池を掘った、回遊式築山泉水庭園です。
 六義園に入ってすぐ、枝垂れ桜の古木があり、毎年この桜を楽しみにしてきました。上野公園はじめ、今年は花見イベントが中止になったところが多いですが、六義園はもともと園内の宴会は禁止ですし、毎年静かに花を愛でる花見客のみです。

 園内北側の築山には地震で崩れた所があって、「これより奥、立ち入り禁止」と書いた立て札もありましたが、池には緋鯉真鯉が泳ぎ、いつもの年と変わらぬ見事なしだれ桜の満開を見ることができました。
 桜の満開の花は、秋の豊作やら西方浄土やらこの世の極楽やら、ほんとに何をいろいろ思い浮かべても、春を迎えた人々の心をとらえて、毎年みごとに咲き誇る。

 東京の染井吉野は、6日に満開になりましたが、8日には強風、9日には雨で、桜はだいぶ散ってしまいました。10日は、なごりの桜を眺めながら、団地の桜、十条倉庫周辺の桜、中央公園の桜を見て自転車で一回りしました。

 ぽかぽか春庭童謡集「春庭の五十音・日本語音声学のための発声練習ハ行」より
「花よ笑えハハハハハ」
 ♪花よ花よ。命の花よ
 春咲く花の花の命を
 日がないちにち 笑えわらえ
 ははは、ひひひ、ふふふ
 ははは、へへへ、ほほほ
 ♪花咲く春に 平和をねがい ふるえる心を
 炎(ほむら)たつ日に 不安を忘れ 人の心を 
 部屋を経て 花の野に 放てば 笑い出す 
 ホホホホフフフフハハハハハ

 不安なく、春の光の中で、大きな口をあけて安心して笑える日常が、早くはやく取り戻せますように。
 歌いながら泣きながら笑いながら、私は歩き続けることにします。

<おわり>

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