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ぽかぽか春庭「沈黙1971vs2017」

2017-07-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


20170716
ぽかぽか春庭アート散歩>未来への花束(3)沈黙1971vs2017

 6月26日月曜日に、飯田橋ギンレイホールでマーチン・スコセッシ『沈黙』鑑賞。12時からの回と4時からの回、2回見ました。(間の併映『淵に立つ』も見て、6時間ギンレイの椅子に座っていました)以下、ネタバレを含む感想文です。

 遠藤周作(1923-1996)は、1966年に『沈黙』を発表しました。
 『沈黙』は、16世紀末からのキリシタン弾圧を描いており、師の消息をたずねにマカオからやってきたポルトガル人宣教師の受難が描かれています。

遠藤は、12歳の時伯母の影響で母とともに受洗しましたが、終生「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」を考え「キリスト教信者とは」と、問い続けました。
 遠藤の両親は、遠藤が10歳のとき離婚しました。実業家である父は、離婚以前から囲っていた若い女性と再婚したこともあり、父親に愛情を持てずに成長したと、遠藤は回想しています。父親は、遠藤に医者になることを命じ、文学部に進学したことを知ると、学業援助を打ち切ります。
 ヨーロッパ留学中から、キリスト教の父性原理に違和感を持ったことの一因には、父親との長い確執があった、ということもあるだろうと思います。

 キリスト教が「父」を第一原理とすることについて、遠藤は、日本人であり母性原理を内蔵している自分にはしっくりこない、と感じていました。遠藤のカトリック信仰が安定したのは、自分の中の母性原理をカトリック信仰の中に位置づけることができたときから、と、さまざまなキリスト教関連のエッセイの中で語っています。

 私が原作を読んだのは、篠田正浩監督作品『沈黙』を見たあとでした。原作を読んだあと、篠田版『沈黙』がかなり脚色されていることがわかりました。
 原作者の遠藤周作との共同脚本ですから、遠藤も納得しての脚色だったのでしょうが、岩下志麻が演じる岡田三右衛門の妻、菊の姿を詳しく描いていること、原作には描かれない人物でした。なるほどなあ、岩下を美しく画面に存在させる役は原作にはない。原作に出てくる女性は、キリシタン側の農婦ばかり。岩下が演じるには、衣装も地味になるし顔は汚れメークだろうし。女優で客を呼ばないと興行収入が見込めない時代、菊を登場させるのはやむをえない脚色だったのでしょう。三田佳子演じる長崎丸山の女郎も原作外。
 遠藤周作も脚本に参加したのだ,という言い訳があるとしても,岩下志麻の菊は余計だったかなあと思います。

 このポスター、いったいどういう売り方をしたかったのか。「沈黙」をどう見てもらいたかったのか。「いやあ、岩下志麻さん、何を演じても美しいですねぇ」という観客の反応があれば、大成功の映画と言えたのか。


 このポスターのキスシーンのあと「この日からロドリゴは岡田三右衛門と名乗った」というナレーションが入ると、それまでのロゴリゴの心の葛藤はなんだったのか、という気になる。
 篠田は「岩下志麻の魅力は、イエスの許しと同義である」と表現したかったのかもしれないけれど。
 役者の顔アップ一覧。岩下志麻が一番上。主役ロドリゴは下。

 原作のキリシタンへの拷問描写も、原作に比べれば「映倫などにひっかからない程度」の描写になっていたのも、やはり仕方なかったのかとおもいますが、スコセッシは、アメリカでの公開がR指定になっるもやむなしと、原作の描写にかなり近い暴力描写になっていると思います。

 マーチン・スコセッシ(1942~)は、カトリック信者であり、子供のころの将来なりたいものは神父であったという。(神学校に入学したものの,1年で退学してしまったけれど)
 28年前に『沈黙』を英語版を読み、映画化を希望。映画化が不可能に思える時期であっても、手に入れた映画化権を決して他に譲ろうとはぜず、ついに2016年に完成。2017年1月に『沈黙』は日本公開されました。

 私が、「スコセッシとジェイ・コックスの共同脚本」に懸念したのは、カトリック理解の違いについてでした。イタリア移民の家庭にカトリック信徒として生まれ、神父をめざすほど篤い信仰を持っていたスコセッシが、遠藤が感じ、最終的に遠藤の「日本人のカトリック」が「母性原理」に寄っていったことを、どのように原作から受け取るのか、という点でした。日本でスコセッシ『沈黙』が公開された2017年1月には、「スコセッシ版が原作から大きくはずれていたらどうしよう」という心配も持っていたのです。

 スコセッシは、「キリシタン弾圧」について、公開記念記者会見で語っています。
 アジア人のイエズス会神父のことばに賛同した、と述べている部分
 「日本の幕府が。隠れキリシタンに暴力で対処したのは歴史上の事実である。しかし、西洋からやってきた宣教師たちもまた。暴力を持ち込んだのだ。「これが普遍的な唯一の真実である」という思い上がりによってキリスト教を持ち込んできたことも、ひとつの暴力だったのだ
 という、イエズス会神父のことばを受け止めているスコセッシの描き方ならば、大丈夫、と感じるスコセッシの「沈黙」理解でした。

 スコセッシは、原作(英語翻訳版)を読んで以来、日本の歴史や文化全般についても、日本のキリスト教についても、理解を深めてきた、ということです。『沈黙』を見て、スコセッシの原作理解は、とても的確で深いものだろうと感じ入りました。スコセッシが原作読了してから映画完成までの四半世紀は,作品の多くの実りを与えたと思いました。

 スコセッシの日本公開記念記者会見より
 「どちらかというと、キリスト教の中の女性性をもって説くのが日本で受け入れてもらうやり方なんじゃないかと。だから今の隠れキリシタンの方たちは、そういうところに惹かれて受け継いでいるんじゃないかと、僕は思います
 遠藤周作が「日本のカトリック受容」として行き着いた「キリスト教のなかの女性性」という点を,スコセッシはきちんと理解して映画を撮影したのだとよくわかりました。

 隠れキリシタン拷問シーンの篠田vsスコセッシ。
 キリシタンのモキチと村おさが海の中で磔になるシーン。
 篠田の海は,比較的穏やかで波もなく、時間がたつにつれて,潮が満ちてくるのが「静かな怖さ」を感じさせます。やがて確実にやってくる「潮が頭の上まで覆う刻限」までのひたひたとした時間の怖さです。
 スコセッシのシーンは。大きな波がモキチたちが磔になっている十字架に押し寄せています。このシーンの撮影は,波が鼻に入って咳込んで声が出せなくなった、とモキチ役の塚本晋也が語っているように,ほんとうに見ているほうも苦しくなる強い印象のシーンでした。
 この海中の磔シーンは,スコセッシのほうに軍配を上げる。勝ち負けじゃないんだけれど。

 音楽については。
 スコセッシは,BGMをほとんど使わず,波の音,虫の鳴き声など自然の音のみにしました。意図的にそうしたのだろうと思います。篠田版音楽担当の武満徹を超える音楽,難しかったろうと思います。あえてBGMなしにしたのではないかと勝手に思っています。
 ただし,冒頭にかすかに響き渡る虫の音。大部分のアメリカの観客には,ただの雑音にしか聞こえなかったろうと思われます。小鳥のさえずりは音楽ととらえる西洋人の脳でも,虫の音は脳の雑音を聞く領域でのみ感知するからです。音楽については,篠田版の勝ち。勝ち負けじゃないんだけれど。

 配役。だんぜんスコセッシの勝ち。
 フェレイラを丹波哲郎にしたのは,外国人俳優の起用が難しかったからかもしれませんが,主役のロドリゴ,相棒のガルペを演じた俳優があまりうまいとはいえない無名のガイジン役者だったので,そのたどたどしい日本語セリフの部分はいいとして,後半の棄教の苦悩部分が表現しきれていないように思いました。
 スコセッシ版ロドリゴのアンドリュー・ガーフィールドとガルペのアダム・ドライヴァーは,若手ながらスコセッシの要求によく答えていたのではないかと思います。前半のロドリゴの立ち姿が頼りなく、不安そうに見えるところも,役柄の表現だとすれば。

 通詞。この通詞は,元はキリシタンであり,ポルトガル人宣教師の傲慢さによって棄教した過去を持つ。浅野忠信は,その陰影も表現していたと思います。篠田版の戸浦六宏も,悪くはないけれど,キリシタンへの理解があまり深くないように見えてしまう。

 キチジロー。準主役の重要な役を,スコセッシ版では窪塚洋介が獲得。窪塚は撮影時に36歳だった。篠田版では,共同制作者であるマコ岩松。篠田版に出演時は33歳。マコ岩松の方が,実は年齢的には若いのに,ずっと老獪に見えた。窪塚は「ヤンキーわかぞーがやんちゃしてダメダメな子だけど,最後はよい子になるのよね」感が強くて、キチジローの弱さダメさも,「いいよ,いいよ,おまえはホントはいい子だから」と思えてしまうので,弱い人間の悲しみが今ひとつ伝えきれなかった。とはいえ,1998年『GTO』のキクチ君からウォッチングしているファンとしては,オウ,オウ,よくぞ育ってくれましたと,涙なみだのキチジローです。

 井上筑後守,モキチも,篠田版の岡田英次,松橋登よりも,イッセー尾形,塚本晋也の方が,私には断然いいと思えました。セリフのあるシーンはワンシーンだけだったけれど,告解をロドリゴにせがむ片桐はいり,とてもよかった。

 フェレイラ。丹波哲郎は、英語セリフもよかったし、奥目に見えるメイクのおかげで、ポルトガル人を演じても、市村正親がローマ皇帝を演じるのと同じくらい、違和感なく演じていました。ただし、日本語部分、日本語うますぎ。また、ロドリゴとフェレイラの対面シーンで、ロドリゴより小さいことが見た目ダメージでした。
 リーアム・ニーソンの無駄なほどのガタイのよさが、対面シーンでとても生きている。師の圧倒的な大きさは、ロドリゴを揺するに必要と思います。
 
スコセッシ版の出演者たち,無料ボランティアとは言えないまでも,各人破格の低いギャラで出演したそうです。
 アカデミー賞では撮影賞のみの受賞で終わったけれど,この映画の出演者みなに「出てくれてありがとう賞」など差し上げたいです。

 スコセッシ版では,ロドリゴとガルぺは,前半,キリシタンたちとの会話でも,日本語を「ありがとう」や「こんにちは」さえ言わなかったこと。神父が日本語をひとことも話さない,という設定は,宣教師側の傲慢さを表すひとつの方法だろうと思いますが,篠田版では,日本人と会話するシーンでは,ロドリゴとガルぺはへたな日本語をしゃべリました。発音悪くて、セリフがよくわからなかったけれど。音声指導者をつける予算などなかった時代とは思います。

 エピローグシーン。原作にはなく,スコセッシ&コックスのオリジナルシーン。カトリック信者スコセッシは,このシーンをぜったいにつけ加えたかったのだろうなあと感じました。
 1988年の「最後の誘惑」が教会からの猛反発を招いてしまったのに対して,スコセッシ版「沈黙」がカトリック関係者からも高い評価を得られたのは、エピローグのわかりやすい描写ゆえだろうと思います。

 原作発表当時、遠藤周作はカトリック側から強い非難を浴びました。時代の流れもあるし、カトリック本山のバチカンもこの50年で大きく変わったこともあるけれど、今回のスコセッシ版がカトリックからも支持されたこと、ラストエピローグが大きいと思います。

 以上,1971年篠田版もとてもよい映画と思いましたが,私は2017年スコセッシ版のほうが好き。
 ただ、アメリカでは、興行成績ふるわないだろうなあと思います。半年たって、興行収入、どうなっているだろうか。スコセッシは、撮りたかった映画をようやく撮れて満足でしょうが、モトとっておかないと、次回作が作れない。製作費$51,000,000、回収できますように。

 (注:昔見た映画、細部はほとんど忘れていました。私が再鑑賞したのは、youtubeにUPされているロシア語字幕の映像です。英語の台詞には日本語字幕がついているのですが、それとロシア語字幕が重なってしまったので、ロドリゴとフェレイラの英語対話部分、理解が行き届いていないかもしれません)。
 
<つづく>
コメント (4)
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