まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学   機略の縦横無尽を養う郷学講座

2022-08-12 02:44:13 | Weblog

津輕弘前 昨冬

 

≪以下はある組織の指導的立場の人材養成についての講話録である≫

 

それは長時間微動だにしない真剣な講話でした。

巷の礼賛や激励ではない。彼らが志を願って(志願)した職域で縁を以て結ばれた人間の気概に応えたものだった。

それは誰にでもある誕生と辿りつく死への意義を、人生観として伝える、時に修める(自修)の機会でもあった。

後刻送達された「所感」には、紅心に中(あたる)る真剣な内容が綴られていた。

 

 

 標題に添えて・・・

 

機略とは事に臨んで臨機応変、縦横無尽に思考をめぐらすことではあるが、その要は人間(人物)そのものにある

それは状況に応じて、瞬時な対応を考案することであり、たとえ集団内においても、全体の一部分において発揮できる己の特徴を鑑みて、連帯の調和をいかに維持するか、また、各々の部分をいかに連結統合できるかという、多面的かつ根本的で、さらには連結統合の効果となる他に対する許容量を拡げ、高めるような習得が必要となってくる。

特に、瞬時の機略判断は技術や知識の習得だけではなく、直感性を養う浸透学的な要素が必要となる。また、如何なる状況においても判断基準となる座標軸を確信し、かつ己が柔軟に運用するような感覚も必要となる。

こういった感覚は、己に立ち戻ってみれば、まさに生死の観、不特定に対する責任感が混在するなかでの突破力となる覚悟や、怯み、怖れを祓う勇気の源泉を、自然にかつ容易に発生させるすべともなる。

しかしながら、このような人間考学は官制学カリキュラムにはない。

「本立って道生ず」

いわば学びの「本(もと)」となるものであるが、この「本」のあることの認識し、その「本」を伸ばす学びや人間関係の柔軟さを習得することは、生死自己完結の自由を担保し、慈しみをもつものに靖んじて献ずる(靖献)精神を維持涵養することにもなると考える。

また、己の生死の間(人生)想像することは、不特定多数の安寧を任務として集団の高位に就き、責務ある立場のものとして平常心で職責を遂行するために必要な、溌剌とした自己の躍動でもあり、かつ志願発起に希求した自身の姿を想い起こすことにもなるだろう。(自己更新)

この度は、この官制学カリキュラムにはない機略の臨機応変。縦横無尽を養う人間考学を、明治初頭の残像にみる学問を振り返って眺め考えてみる。   

 

              

        学びの負荷を悦ぶ気概があった

 

 

◎講話レジュメ

Ⅰ 明治初頭の学制と、それ以前の学問について

1.藩校、塾から数値選別の立身出世 「聖諭記」

2.自己の特徴を発見して伸ばす 「小学と大学」

 

Ⅱ時代は違えても児玉源太郎や秋山真之が注目されるこ

1.人を観て登用する 「観人則」

2.後藤新平の「超数的効果」とは

 

Ⅲ現代の実相を人間から俯瞰視する

1.「衰亡の徴」 荀子

2.「四端」   孟子

3.「四患」   荀悦

4.「五寒」

 

次後は季節を変えて、その機略を容易にする「浸透学」を講じ、余話として「謀略」について知見をお伝えして数次にわたる講話を終了した。

 

寳田時雄 人間考学講話より

一部イメージは関係サイトより転載

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