まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

陋規は浸透、清規は積層

2020-12-10 11:43:18 | Weblog

          悠仁親王殿下の御印 「槇」

 

地球の表皮に縁あって棲み分けられた人間の狭い範囲の習慣性なり掟が陋規なら、様々な要因を以て構成された国家なるものの営みなり連帯を維持するために成文(書き物)化された清規について、おおくの読者が筆者の拙い備忘録である当ブログを訪れる。それも甚だしい近況だ。

 伝え聞くところ、ある大人のカルチャー本に最近掲載されている、と。

もと地方新聞を経営し株取引で御上のお叱りを受けた御仁が財界デビューを試みて、思想界の大家の威力と言辞を掲載し、表紙にはサラリーマン経営者や有名人の顔写真を大仰に載せて部数を稼いでいる出版物に最近「陋規と清規」なるものを載せていると友人が伝えてくれた。

なかには筆者にとっては道縁の方々が登場しているが、経歴は碩学の弟子と記している。

 

江戸の士農工商の分別がなくなると、附属性価値なり、それを喧伝するものが人格錯称として横行し始めた。

その価値は、人格をなんら代表しない、地位・名誉・財力・学校歴などの附属性価値で人物の如何を選別の用とする、人物を観る慣性だ。

碩学の謦咳に接した、とはいってもまさに咳ばらいが聞こえる近さだが、なかには最後の弟子、あるいは高弟などと称しているが、碩学本人は生前「弟子なるものはいない」と、浮俗を呻吟していた。

 

酷いものになると、その天ぷらの衣のような装いを無知なる大衆に宣伝して出版物を出して売文の輩に堕落したものもいれば、権力に近づくツールとして言論貴族に成り下がっているものもいる。多くは名利獲得、つまり食い扶持と名誉を謀る智ならぬ     痴恵者が世を錯乱せしめている。

                    

碩学の縁者は「父は学ぶ対象は優れていても、人物如何で邪ま者の具になる」と、加えて「父が存命なら、出版も許されない偽物が多い」と呟く。そして「父は教育者なのだが・・」と、その世俗の不可思議な効用を慚愧の気持ちで眺めていた。

或るとき母が『あなたの弟子と称する方々が各界で活躍していますが、どうも下半身は感心しませんね・・』と云うと、父は黙って下を向いていた

学者は都合よく使われることがあります。とくに歴史の岐路に残した逸話は、浮俗した社会では増幅した残像に、人が群がるようです

 

その碩学が

成文化した法は法治として為政者の用ともなる。しかしそれを構成する人間が人物として大成したものでなければ、法は真に国家の支えとはならない

 

国家社会を支える真の国力は、人々の深層に蓄積され、浸透された情緒性や習慣性にある

 

標記に戻るが、法は便法のごとく幾らでも積層される。すると臨機には適法を探すために数多の関係法を連結調合させる技法が必要となってくる。面前の危機に対応するときには、なおさら時間の問題に直面する。だが、その問題意識があっても是正される気配もない。しかも内規、コンプライアンスという屋上屋がさらに積層されている。

しかも、その現状の問題解決能力が当世の人間に欠けてきている。看過、不作為、それらも大きくなっている。

 

陋規」は、全体の中での部分を構成するための必然として維持されてきた。

」と称する世界に、官界、角界(相撲)、政界、財界、出版会、宗教界、芸能界、教育界などの他に「」もある。それらの界や檀には特有の掟があり、一種、舐めあって生きている。それらの総てを成文法に当てはめたら成り立たない世界だ。

また、他の浸食を防ぐことでもある固陋な習慣と掟は、伝統とは言うが、食い扶持を守るすべになっているのが大半だ。

 

ここでは、正邪を問うものではない。

それは外部にリンクさせて欲望を拡大させないという縛りがあることの前提だ。

また、各々の「界」は、他の「界」との取引において干渉を防ぎ、身を寄せ合って生息しているのが現状だ。芸術・文学・マスコミ・商業出版の各界においても、大義や得意の美辞麗句に飾られた既得権を維持することにかけては、他の侵入を許容しない。

程よいことならいいが、収穫量が乏しくなるとその「界」の堤は決壊して、極みが無くなってくる。

 

それは、言葉や行動にも表れ、表現者である作家、芸術家といわれる「界」の住人も定則や矜持すら無くして境際を超えて破天荒な表現を行うようになり、大衆も目新しいものとして好奇が向かうようになる。そこには人権、名誉棄損、著作権侵害なども登場する。

それらが行儀悪くなり、法に抵触すれば摘発する警視庁でも、内部の慣習と掟は他の「界」に負けず劣らず、しかも強固な組織防衛策・伸張にもなっている。

 

各界の陋規が衰えて融解すると是正するには三代、約百年の時を要すと先の碩学は云う。手っ取り早く便法を作っても、「界」の掟や習慣に法を駆使する官吏がリンクすると、「禁ずるところ利を生ず」(禁止項目を作れば徴収金が増える)ような結果になる。

 

身近な所では、親子関係に平等と人権と自由を法で規制すれば、家庭は持たない。相続税が過大になれば、郷の長でさえ住民の相談事な受ける余裕もなくなり、相談者は弁護士や警察に駈け込まなくてはならなくなる。自制、自立、自省、などの促しや篤志は失われ、官制扶養制度に頼り、国富も欠乏する。

             

            中正記念堂所蔵

一例だが、蒋介石は息子経国の提言を受けた。それは国民党が大陸から逃散した原因は軍事力でなく、国民党そのものが腐敗して民衆の信頼を失くした結果だ、と。

それを受けて「新生活運動」という国民運動を行った。結果は国民党の既得権ゆえに成果は上がらなかったが、内容は国維(国の中心となり過去と将来をつなぐ軸)を理解・共有・護持しようとする運動だった。目的は公徳心を高めて過去と将来をつなぐ軸の再興であり、連帯の軸を太くすることでもあった。

 

我が国でも官製運動が月間として数多行われているが、陋規が清規で包み込まれるような状況では、指示待ちの依頼心が増幅し、公徳心も微かになってしまう状況では単なる月例行事の予算消化になってしまっている

 

その通底する民情では地方創生策などは絵に書いた餅ならぬ、借金増大策でしかなくなる結果が待っている。

 

陋規は崩壊し、清規はますます積層されている。その関係性は偏重して歪んでいる。

そんな現実がスバスラルのように回転して将来に向かうとしたら、か細い回転軸の破損の方が心配になる。それは過去との決別であり、将来さえ閉ざす状況が生ずることではないだろうか

 

政府は国民の生命財産を守る、儚い期待でもあろう。

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