指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『七人の侍』の成立過程

2017年07月08日 | 映画

映画『生きる』が終わって、橋本忍は黒澤に呼ばれ、

「今度は武士の一日を描き、普通のように登城し、そこで重大な失敗を犯して切腹する」というアイディアを言われる。

江戸時代の武士は、地方公務員みたいなものだったが、その藩の財源の木材の江戸への搬出量の計算に間違いがあって大事件になるというものだったそうです。

だが、江戸中期頃の普通の生活は、どういうものか不明だったので断念する。一番の問題は、一日は二食か三食か、弁当は持参するのか等が分からなかったので止めになったそうだ。

同じ頃、今井正も映画『夜の鼓』を準備していたが、ここでも冒頭の松江藩の参勤交代の列が何人くらいなのか、先生によって言うことがまったく異なるので、準備できる程度の列にして撮影したとのこと。

次に、橋本は「剣豪伝」を書こうと図書館に行って昔の剣豪伝を基にしてシナリオを書いた。

だが、これも黒澤からは「クライマックスだけでは映画にならないね」と言われてあきらめた。

その時、製作の本木荘二郎が、「武者修行中で飢えた武士は、村を守ることで百姓に食わせてもらうことがあった」との話を持って来て、

「これだな!」となった。

それを黒澤明がセカンド助監督として付いたことのある滝澤英輔監督の『戦国群盗伝』の世界に当てはめてシナリオを作ったというのが『七人の侍』なのです。

だから、それの最初には、罪を犯した者の贖罪意識があったのです。

戦国時代にしたのは、最後の最後のことなのです。

                                                          

 

 

<戦前は戦争になったから暗い>も全く違います。

昭和恐慌の後、1931年の満州事変、満州国成立、さらに日中戦争によって、日本は世界で最初に不況を脱出し、大変な好景気になったのです。

1933年は好況で、エロ・グロ・ナンセンスの無意味に明るい時代でした。

小説家山口瞳の父親も、この頃の戦時景気で、工場を建てて戦時成金になったそうです。

 

太平洋戦争でも同じで、現在は現役最年長の現代詩人の平林敏彦さんに2年前にお聞きしたところでは、

「太平洋戦争まではかなり平和な緩い時代で、本当に検閲などの当局の取り締まりが厳しくなったのは戦争が起きた1941年以降ですね」と言っていました。

本当に日本国中がひどくなったのは、1944年にサイパン島が落ちてB29の大都市への無差別空襲が始まってからだと思います。

もっと歴史を勉強しましょうね。


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2 コメント

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Unknown ()
2017-08-06 15:31:16
どうも、お世話になっています。

戦前は明るい時代、これは間違いないようですね。「蟹工船」の小林多喜二などは、左翼として獄死していますが、特高警察や軍部然り、公権力が強すぎた時代というのは、財閥などの産業界も、その会社や組織のまとめ役として、雷親父のような父親としての経営者が、尊敬される事から、社会が一つにまとまり、それによって、不要な対立が無く、一方向の国家として、明るい上昇志向の社会が出来るのではないでしょうか。これは、決め手を欠いた今の安倍政権よりも小泉時代の方が明るかった事にも観えると思います。

エログロ坊主は、無思想ゆえに、当局から警戒されておらず、雑誌業界の中核だったようですね。共産党にとっては、暗い時代だったのでしょうが、一般大衆においては、性の放逸やエロを愉しんだ時代で、軍人や武士道という思想面での正道に対して、無思想は無抵抗に身を置く事によって、ファシズムや監視から身を避ける、唯一の方法だったと思います。

「七人の侍」については、戦国時代というよりは、侍が居る時代であれば、江戸時代でも良いような乗りでしょうかね。辺境の村で一晩寝ずの番をしたら、飯を食わせてもらえる貧乏侍、というのは、チャンスが多かった戦国よりも、戦働きの無い平和な時代の物語に相応しいように思います。
そう滅茶滅茶に言われても (さすらい日乗)
2017-08-07 08:10:54
戦前の日本は、非常に矛盾した社会で、簡単に言えば二重性があった社会です。
都市では、エロ、グロ、ナンセンスに代表される欧米文化が盛んでしたが、地方の農村は別の文化でした。加東大介の自伝的映画『南の島に雪が降る』で、芸人を募集するシーンがありますが、8割が浪花節でした。

現在と根本的に異なるのは基本的人権という思想が全くないことです。人間は平等ではなく、偉い人は偉いというものでした。
その比喩が天皇で、天皇は父親、政府は母親だから、下々は上の言うことに黙って従えというものでした。
それを国際的に延長させると「ぼうしようちょう」漢字が出ないが、要は暴れて間違っている中国には、兄たる日本が直してあげるという傲慢そのものの考えでした。

また、現在とは全く異なる格差社会でした。
御厨貴の本によれば、戦前の三井物産横浜支店では、年末に出たボーナスの全額の半分をまず支店長が取る、残りの半分、つまり25%を次長が取り、残りの25%をその他の職員で分けるというものだったそうです。職員というのは正社員で、この他に臨時等の職員もいたと思います。
さらに、健康保険も失業手当も労働三権、さらに小学校給食もない時代で、福祉制度や社会保障はほとんどない時代でした。

軍人や華族が尊敬されている時代で、関東大震災後の新聞を読んだことがありますが、庶民の被災事情などほとんど報じらていなくて、何とかの宮が死んだ等のどうでもよいことが紙面の大半を占めるような時代でした。

簡単に言えば、レッセ・フェールの小さな政府の時代でした。
それが変化するのは「新体制」時代で、安倍晋三の祖父岸信介次官が、阪急の小林一三商工大臣と対立し、双方が辞職したのが、自由主義経済から統制経済への転換点で、戦時中は統制的な社会になり、それが1980年代まで続いていたというのが、野口悠紀雄らが言った「護送船団方式」経済です。

まあもう少し、基本的な政治、経済、社会の勉強をしてからコメントしてください。

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