旧制七高(現鹿児島大学)と五高(現熊本大学)野球部の100周年決戦をクライマックスに、古き良き時代の旧制高校生の生態を懐かしむ映画。反戦映画の気も入ってます。
旧制高校ナンバースクールと言えば、旧帝大7つにそれぞれ付属高校のように存在していた七つの高校(と思っていたが、そうではなくて、帝大と旧制高校はそのままリンクしない)。この映画をみて、今更ながらに全部言えるか? と自問自答。
1高 東大
2高 東北大
3高 京大
4高 ?
5高 熊本大
6高 ?
7校 鹿児島大
4と6がわからないが、どちらかに金沢が入るはず。で、調べてみたら、4高が金沢で6高が岡山、8高まであってこれが名古屋大学。帝大の付属ではなく、戦後の大学改革によってそれぞれの旧制高校が各大学の教養部などになったのであった。というわけで、教育史のちょっとしたお勉強になりました。
という以外には評価するところもないような映画だったのは困ったもんで。旧制高校の蛮カラぶりを描いているのはいいけれど、あまりたいしたことがない。というか、なんだか絵空事のように見えてしまう。この映画の登場人物のうちキーになるのは緒形直人が演じた草野先輩だ。彼がもっとカリスマ的な蛮カラで剛毅な人間でなければならないのに、その迫力が感じられない。彼にもっと奇人変人偉人的な魅力があれば、戦後何十年も主人公上田(三国連太郎)が草野先輩を戦地で亡くしたことの慚愧の念に囚われ続けたその傷がリアリティをもって見る者の胸に迫るのに、そこが浅いため、物語全体が薄っぺらく見える。特に、戦場のシーンなんていっそない方がよかったのに。あまりにもちゃちなので紙芝居みたいだ。
役者はみななかなかのメンバーなので「ほぉ」と思ってしまうが、老人になった彼らがいまだに「五高の名誉のために」とかいう愛校心があまりにも意気軒昂なので「ほんまかいな」と思える。「北辰斜めにさすところ」というのは七高の寮歌の一節である。やたら寮歌を歌いたがる伝統というのはわたしの学生時代の京都にもまだあって、一回生の頃は同級生の男子学生たちが吉田山に登っては三高の寮歌「逍遙の歌」を放歌していたものだ。そういえば、この映画の寮の雰囲気が京大吉田寮に似ているのでとても懐かしかった。
この映画を見て喜ぶのは旧制五高と七高の関係者だけではなかろうか? この作品に普遍性を感じることができないのは、映画の制作者たちがこの時代の雰囲気を的確につかんでいないからだろう。だいたいが、旧制高校の歴史を三國連太郎に語らせる冒頭の導入部からして歴史教科書を読むようで味気ない。そして、三国連太郎演じるかつての野球部のエース上田投手が、戦後、頑として同窓会に出席を拒み続け、郷里にも帰らなかったその理由が戦場での心の傷にあることが明らかになるところはこの映画の山場なのに、南方戦線の兵士達が餓死寸前にも見えないふくよかな顔をしているのは具合が悪かろう。
見終わって、旧制高校時代が懐かしいけど(といっても実際に体験したわけではない共同幻想である)、「で?」と思ってしまう残念な出来。この作品を今製作することの意義がどこにあるのかわからない。公式サイトによると、この映画は現在のシステム化された教育に疑問をもち旧制高校の教育に着目した弁護士の発意で製作が始まったという。今の教育に疑問を持ったからといって旧制高校ねぇ。それでは発想が古すぎるだろう? 自由闊達でよく遊びよく学んだ伝統といっても、それは寮にエリート男子だけを詰め込んで女を排除したところで厳格な先輩・後輩の統制のもとに展開した、隔離されたパラダイスのお話。今それをやったら戸塚ヨットスクールとか、最近では入所者に暴行したどこかのフリースクールのようになるのではなかろうか。(レンタルDVD)
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北辰斜にさすところ
日本、2007年、上映時間 111分
製作・監督: 神山征二郎、原作: 室積光『記念試合』、脚本: 室積光、音楽: 和田薫
ナレーション: 山本圭
出演: 三國連太郎
緒形直人
林隆三
佐々木愛
和田光司
林征生
神山繁
北村和夫
織本順吉
犬塚弘
滝田裕介
高橋長英
斉藤とも子
河原崎建三
坂上二郎
永島敏行
旧制高校ナンバースクールと言えば、旧帝大7つにそれぞれ付属高校のように存在していた七つの高校(と思っていたが、そうではなくて、帝大と旧制高校はそのままリンクしない)。この映画をみて、今更ながらに全部言えるか? と自問自答。
1高 東大
2高 東北大
3高 京大
4高 ?
5高 熊本大
6高 ?
7校 鹿児島大
4と6がわからないが、どちらかに金沢が入るはず。で、調べてみたら、4高が金沢で6高が岡山、8高まであってこれが名古屋大学。帝大の付属ではなく、戦後の大学改革によってそれぞれの旧制高校が各大学の教養部などになったのであった。というわけで、教育史のちょっとしたお勉強になりました。
という以外には評価するところもないような映画だったのは困ったもんで。旧制高校の蛮カラぶりを描いているのはいいけれど、あまりたいしたことがない。というか、なんだか絵空事のように見えてしまう。この映画の登場人物のうちキーになるのは緒形直人が演じた草野先輩だ。彼がもっとカリスマ的な蛮カラで剛毅な人間でなければならないのに、その迫力が感じられない。彼にもっと奇人変人偉人的な魅力があれば、戦後何十年も主人公上田(三国連太郎)が草野先輩を戦地で亡くしたことの慚愧の念に囚われ続けたその傷がリアリティをもって見る者の胸に迫るのに、そこが浅いため、物語全体が薄っぺらく見える。特に、戦場のシーンなんていっそない方がよかったのに。あまりにもちゃちなので紙芝居みたいだ。
役者はみななかなかのメンバーなので「ほぉ」と思ってしまうが、老人になった彼らがいまだに「五高の名誉のために」とかいう愛校心があまりにも意気軒昂なので「ほんまかいな」と思える。「北辰斜めにさすところ」というのは七高の寮歌の一節である。やたら寮歌を歌いたがる伝統というのはわたしの学生時代の京都にもまだあって、一回生の頃は同級生の男子学生たちが吉田山に登っては三高の寮歌「逍遙の歌」を放歌していたものだ。そういえば、この映画の寮の雰囲気が京大吉田寮に似ているのでとても懐かしかった。
この映画を見て喜ぶのは旧制五高と七高の関係者だけではなかろうか? この作品に普遍性を感じることができないのは、映画の制作者たちがこの時代の雰囲気を的確につかんでいないからだろう。だいたいが、旧制高校の歴史を三國連太郎に語らせる冒頭の導入部からして歴史教科書を読むようで味気ない。そして、三国連太郎演じるかつての野球部のエース上田投手が、戦後、頑として同窓会に出席を拒み続け、郷里にも帰らなかったその理由が戦場での心の傷にあることが明らかになるところはこの映画の山場なのに、南方戦線の兵士達が餓死寸前にも見えないふくよかな顔をしているのは具合が悪かろう。
見終わって、旧制高校時代が懐かしいけど(といっても実際に体験したわけではない共同幻想である)、「で?」と思ってしまう残念な出来。この作品を今製作することの意義がどこにあるのかわからない。公式サイトによると、この映画は現在のシステム化された教育に疑問をもち旧制高校の教育に着目した弁護士の発意で製作が始まったという。今の教育に疑問を持ったからといって旧制高校ねぇ。それでは発想が古すぎるだろう? 自由闊達でよく遊びよく学んだ伝統といっても、それは寮にエリート男子だけを詰め込んで女を排除したところで厳格な先輩・後輩の統制のもとに展開した、隔離されたパラダイスのお話。今それをやったら戸塚ヨットスクールとか、最近では入所者に暴行したどこかのフリースクールのようになるのではなかろうか。(レンタルDVD)
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北辰斜にさすところ
日本、2007年、上映時間 111分
製作・監督: 神山征二郎、原作: 室積光『記念試合』、脚本: 室積光、音楽: 和田薫
ナレーション: 山本圭
出演: 三國連太郎
緒形直人
林隆三
佐々木愛
和田光司
林征生
神山繁
北村和夫
織本順吉
犬塚弘
滝田裕介
高橋長英
斉藤とも子
河原崎建三
坂上二郎
永島敏行
「北辰斜めにさすところ」原作・脚本の室積です。辛口のご批評ありがとうございます。結論は「こんな映画撮る必要あるのか」とのことですが、ご指摘の点(南方戦線にしては兵隊が太り過ぎ等)はごもっともと思いました。
ただ惜しむらくはもう少し素直にご覧いただけないものかな、というところでしょうか。私は1955年生まれですので、貴女と同世代ということでいいと思います。
製作者がこの時代の雰囲気を的確につかんでいないとおっしゃいますが、では貴女はどうなのでしょう?
私も含めて戦後の教育を受けた者はある種の洗脳を受けていて、戦前を「悪」「暗」とし戦後を「善」「明」と思い込まされているように思います。
私は実際に旧制高校出身の方々に取材したのですが、皆さんとても魅力的でした。「無知の知」を持つというか、物事や人に対して謙虚で、小賢しい知ったかぶりはなく、「知らない」といえる人たちであり、決して相手に迎合せずに自分の意見をはっきり口にされました。
私が会った現代の人物としては野茂英雄と黒田博樹が近い人物です。現在のテレビに出てくるコメンテーターなど、みんなどこからも文句の出ない方向を模索して発言している馬鹿ばかりです。他人がどう思うかを探って生きる人生は空しいものだと思うのですが。
戦前の高校の寮における自治は見事なものです。また非常に民主的でもあります。今の体育会的上下関係は実は戦後に軍隊から学校に戻ってきた世代が残したものなのです。
この作品の戦争部分は私の父の戦争体験と七高出身の元軍医(鹿児島の産婦人科医で今年92歳になられました)の体験を合わせて書きました。
私の父はソロモン諸島ブーゲンビル島で終戦を迎えましたが、同じ島で弟は戦死しました。父は「勝弥」といい弟は「勝夫」といいます。私の兄は「勝男」と名付けられました。映画では主人公が「勝弥」であり孫に弟の名をつけています。
私はこれまで三回ブーゲンビル島に慰霊と遺骨収集にいきました。
どういうものか左翼と呼ばれる人々は遺骨収集する遺族のことを「右翼」と呼びます。本当にそうでしょうか?ブーゲンビルで陸海軍合わせて11万5千人のうち八万人が死にました。ご指摘のとおりほとんど餓死です。妻子ある三十代の補充兵は一年もたずに斃れていったと聞きました。
彼らにまで戦争責任を問う人々が私には理解できません。兵役が国民の義務であった時代に召集令状一枚で死地に送られた人々を加害者と見るのはひどすぎると思っています。彼らが忘れられていくのが哀れでなりません。
戦争体験者が八十代後半にさしかかている今、戦争さえなければ人生を謳歌したはずの人々に思いを馳せるのは無意味でしょうか?
この作品を今作る意義をわかっていただけなかったことは残念ですし、貴女の言葉は私を傷つけるのに十分でした。
ただ、製作の大阪の弁護士は自分が尊敬されたいというだけの浅はかな人です。
監督と出演者と彼の主張は無関係と思っていただければ幸いです。
はじめまして。
このような素人レビューに脚本家の方が直にコメントされるとはまったく驚きです。
ご丁寧な反論、ご意見、頭の下がる思いです。このようにいちいち素人の書いたものにコメントされているのだとしたら、大変なご苦労と思います。そのことだけで感動してしまいました。
さて、映画というのは総合芸術であり、そのできあがった作品の評価は誰に帰すべきものかは判断が難しいところです。わたしが脚本に関して「これはいまいち」と思った部分と、演出と演技に対して「これはよくない」と思った部分の総計ででこの作品に関しては辛口となりました。脚本・演出に関しては、三國連太郎さんに長々と戦前の旧制高校の歴史を語らせた部分です。ここがなんとかならなかったのかと思いました。
一番問題だと思ったのは、この作品がどこか「絵空事」に思えたことです。おっしゃるように、わたしも脚本をお書きになった室積さんも戦後生まれであり、この当時の雰囲気をつかんでいるのかどうかは想像の世界でしかありません。そういう意味では、当事者に取材された脚本家の方のほうこそリアリティをつかんでおられるでしょうから、「これが当時の雰囲気である」と言われれば「そうですか」としか言いようがありません。ですから、わたし自身の評価を変えるべきなのでしょう。しかし、
> 戦前を「悪」「暗」とし戦後を「善」「明」と思い込まされているように思います。
わたしはこのような単純な思想には与しません。戦時中であっても人々は笑い楽しみ、日々の生活をそれなりに楽しむ術を持っていたはず。人生も歴史も多面的多角的なものであり、ある一瞬を捉えてそれをすべてと即断することはできません。もし室積さんがわたしのこれまでのレビューを読んでくださっているならおわかりになると思うのですが、おそらくそういうことはないでしょうから、この一作品に対するレビューだけでそのように捉えられたとしたらわたしにとっても不本意なことですが、まあそれはやむを得ないことですので、とりあえずは措いておきます。
この映画が絵空事と思えた最大の難点が南方戦線の場面です。これは脚本の責任ではなく、制作費が足りなかったのでしょう。あまりにもちゃっちいシーンだったので、いっそなかったほうがよかった、あるいは台詞の中で語らせたほうがよかったと思いました。たとえば大岡昇平の作品に書かれたような胸に迫る南方戦線の悲惨さがここでは描けていません。そのため、主人公が戦後何十年も傷を抱えて生きてきたその思いが残念ながら伝わってこないのです。
それから、カリスマ的な先輩を演じている緒方直人が適役ではないと思いました。これはイメージの問題であり、わたしの頭の中にあった京大の数々の変人先輩に比しても旧制高校の蛮カラにしてはなんだか普通だと思いました。こういうのは難しいですね、これはわたしの個人的なイメージですから、他の人はまたそれぞれのイメージを持っていることと思います。まあ、そんなことをいちいち気にしていては本を書けないでしょうから、スルーしていただいていいのではないでしょうか。
> 野茂英雄と黒田博樹が近い人物です。現在のテレビに出てくるコメンテーターなど、みんなどこからも文句の出ない方向を模索して発言している馬鹿ばかりです。他人がどう思うかを探って生きる人生は空しいものだと思うのですが。
すみません、黒田博樹という名前は初めて見たので誰だかわかりません。テレビもまったくといっていいほど見ないので、コメンテーターと言われても誰のことかわかりません。「他人がどう思うかを探って生きる人生は空しいもの」というご意見には賛同します。
> 戦前の高校の寮における自治は見事なものです。また非常に民主的でもあります。今の体育会的上下関係は実は戦後に軍隊から学校に戻ってきた世代が残したものなのです。
なるほど、そうでしたか。これはわたしの見識違いでした。しかし、「女を排除したところでの民主的な自治」というのもやはり違和感があります。といっても、女を排除したのは寮生の責任ではなくそういう制度だったのだからしょうがないのですが。ただ、それを現代の人間に対してドラマとして見せるときに、そういうものを「善」として描くことに対しての違和感はあります。そんなことをいえば時代劇の男尊女卑は許されるのか、といった問題もありますが、どんな時代を描くにしてもそれを現代に生きる人間に対して示すなら、現代的な解釈がどこかに顔を覗かせてもいいのではないでしょうか。
> 左翼と呼ばれる人々は遺骨収集する遺族のことを「右翼」と呼びます。本当にそうでしょうか?
そうなんですか? これは寡聞にして存じません。わたしの友人(左翼)は遺骨収集に行きましたよ。わたしも左翼の端くれ(たぶん)ですが、自分の父や祖父が眠っているなら、その島へ遺骨収集に行くと思いますが。
> 戦争体験者が八十代後半にさしかかている今、戦争さえなければ人生を謳歌したはずの人々に思いを馳せるのは無意味でしょうか?
いえ、まったく無意味とは思っていません。むしろ逆です。何か誤解されているようですが、…というか、このレビューでわたしが戦争責任について書いているわけではないので、その辺は室積さんがそのように思われたのでしょうが、戦争責任についてはそれほど単純なものではないと思っています。わたしは召集令状一枚で悲惨な思いをして死んだ者に戦争責任がないとは思っていません。それこそがまさに悲劇だと思います。もっとも悲惨な死を死ぬことしかできなかった者達にすら戦争責任があるということこそが戦争の悲劇だと思っています。最も大きな責任を負った一人の人間が責任をとらずに天寿を全うしたことと比べてその悲惨さは言葉に尽くせません。ですから、おっしゃるように、戦争さえなければ青春を謳歌した人々に思いを馳せることは大変おおきな意味を持っていると思います。
> 監督と出演者と彼の主張は無関係と思っていただければ幸いです。
なるほど、この一文だけでおっしゃりたいことは伝わります。わたしが原作・脚本家の方の意気込みや狙いを受け止められなかったのは、「観客の受容」という観点から照らせば、受け止め側のリテラシーが低いということになるのでしょう。
たいへん長いご丁寧なコメントをわざわざいただいことに敬意を表して、わたしも長文のコメントを書かせていただきました。
お答えいただいているコメントにまた疑問があったものですから。
まず、
「わたしは召集令状一枚で悲惨な思いをして死んだ者に戦争責任がないとは思っていません。」
ということは召集された一平卒にも戦争責任があるとお考えなんでしょうか?根拠をうかがいたいです。
僕には、戦闘に参加することなく一年ももたずに南の島で餓死した三十代の召集兵に戦争責任があるとは思えないのです。彼らとその遺児には同情の念しか覚えません。
それと、
「そうなんですか? これは寡聞にして存じません。わたしの友人(左翼)は遺骨収集に行きましたよ。わたしも左翼の端くれ(たぶん)ですが、自分の父や祖父が眠っているなら、その島へ遺骨収集に行くと思いますが。」
この部分ですが、ピピさんはご自身で見聞されたこと以外は事実とお認めにならないということでしょうか?
左翼にもいろいろあるとはお考えになりませんか?
私の知人の戦争遺児はそういう自称「左翼」に傷つけられました。戦争体験者、あるいは戦死者を「戦争協力者」と呼ぶ人で、認識不足というか、靖国神社には高級将校だけが祀られていると思っているようなレベルの人でしたが。
ちなみに僕自身は右でも左でもないと思っています。
というか「思想第一!」みたいな人は「パンツはく前に帽子かぶる馬鹿野郎」と思っています。
別に議論をふっかける気はないのでスルーされても結構です。何癖をつけていると解釈されるのも心外ですし。
ちなみに僕のメールアドレスは、
murozumi@a06.itscom.net
です。
長文失礼しました。
室積 光