ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「リストラとワークシェアリング」

2003年05月07日 | 読書
 わたしが最も尊敬する学者の一人が、熊沢誠氏だ。長い間一緒に仕事をさせてもらって、ずいぶん労働経済の勉強になったし、研究会での氏の発言にはいつも胸を打たれた。映画という共通の趣味もある。酒席(といっても先生は下戸だが)でも、映画の話題になると異様に盛り上がって楽しく過ごすことができた。わたしにとっては尊敬する師であり、趣味を同じくする「友」(こういう失礼な物言いを先生は笑って許してくださるだろう)であり、ときに厳しい批判を向けられる怖い、けれども大好きな先生である。そんな熊沢誠氏から新刊が届いた。
  熊沢氏は、ライフワークとして労働問題に取組み続けて来られた学者だ。その研究対象は常に「ノン・エリート」、「ふつうの労働者」である。
 サービス残業を厭わない年収560万円の<ふつうの>男と、出産退職するのが当然と思う年収350万円の<ふつうの>OLへの共感を示しつづけてきた氏の最新刊は、岩波新書の労働問題3部作の締めくくりとなる。

 すでに『能力主義と企業社会』『女性労働と企業社会』で、この国の労働者たちの疲弊ぶりと労働組合のだらしなさについて告発してきた熊沢氏が、今回、厳しい雇用情勢を打開する方途として「ワークシェアリング」を提唱する。

 労働時間を短縮し、サービス残業をなくすことによって新たな雇用を生むことができるという、このワークシェアリングの発想じたいは、とりたてて目新しいことではない。『オランダモデル』(長坂寿久著)で紹介されたように、仕事をわかちあうこと(ワークシェアリング)によって雇用不安を脱出したオランダの事例は、知る人ぞ知る事実である。
 
 熊沢氏は、日本の労働現場の過酷な現状(過労死・過労自殺を生む長時間労働・労働者のワーカーホリックぶり・退職強要のためのイジメ)をまず詳らかにするが、ご本人もおっしゃるように、もう職場のいじめなんてちっとも珍しいことでもなく、あまりにもありふれていて情なくなる有様だ。職場のいじめの実態の出典の多くが新聞記事であるように、その報道は日常茶飯事となっている。だから、本書の主眼はいじめを描くことではなく、雇用問題の処方箋を提示することにある。

 根本的には、日本経済(世界経済)の構造そのものを変革し、景気問題の解決など、マクロな経済学が必要なのだが、とりあえず本書は、<いまここ>にいる失業者と、「親孝行したいときに職はなし」(本書42頁)というフリーターの若者達、失業者予備軍たちを救う方法を提言する。

 「雇用機会をわけあう思想と営み」こそが求められるものだと熊沢氏は力説するのだが、それは性善説に則った主張だと言える。我さえよければ、自分さえ勝ち組ならそれでいい、と思う労働者には通じないだろう。人の善意に訴えるような主張は甘い。それは夢を追うことであり、美しい理想なのだが、エリートたちの心に届くだろうか。歯を食いしばって仕事をし、残業に次ぐ残業で心身をすり減らしたエリートたちはそれなりの職と賃金を得る。彼らに、「自らの賃金を減らしてでも、失業者を救え」という言葉が届くだろうか。
 いっそ、サービス残業をした者は懲役刑に処す、という法律でも作らない限り、この国の宿痾はなくならないのではないか、と最近のわたしはシニカルなのだ。

 熊沢先生の労働問題へのかかわりかたに、わたしはずっと敬意を抱いてきた。常に現場の労働者とともにあろうとし、彼らに寄り添いながら、ときに論争し対立しながらも、報われることの少ないノンエリートの人々へ限りない共感と連帯を示してこられた。だが、ことがワークシェアリングという問題になれば、他者のために自分の身を犠牲にせよという政策をとることになるのだ。それが結果的にすべての人の幸せに繋がるということをエリートたちに納得させなければ、画に描いた餅になってしまう。なぜなら、ワークシェアリングのためにはノンエリートの労働者ではなく、「エリート」たちを動かさなければならないからだ。幼い頃から競争社会を生き、そこで勝ち抜いてきた精鋭たちにとっては、競争するのが当たり前で、その成果を独り占めしてなにが悪いと思うだろう。能力もなくろくに仕事もできない者のためになぜ自分の仕事を分け与えなければならない? そう思う者たちに価値観の転換を迫らなければならないのだ(ここで「能力とは何か」、ノンエリートの労働者は本当に「能力」がないのか、といったことを問う必要があるのだが、ひとまず措いておく)。
 欲望を増大させることによってのみ延命できるこの資本制のシステムに人々は意識まで規定されているのだから、発想の転換を迫るときも物質的な根拠を示さなければ、心を動かされないのではないか? ワークシェアリングによってあなたも得をしますよ、と説得するしかないのではないか? 「自分は勝ち組だから、ワークシェアリングなんかに関心はない」と言い放つ者達を説得できるのか? 説得できなければ、彼らを「階級敵」と規定して闘争を挑むのか? そのとき、労働組合はどう動く? 様々な疑問がわたしの頭をよぎる。

 過労死するほどの過酷な労働をする人が一人もいなくなってほしい。極度の過労とストレスのために心身を病む労働者がいなくなるように。それが熊沢先生の願いであり、わたしの願いでもある。多くの人々も同じ思いだろう。それなのに、長時間労働と過労死はなくならないどころか、失業の不安に怯える労働者達をいっそうの競争に駆り立てる。

 熊沢氏は、「一律型ワークシェアリング」と「個人選択型」ワークシェアリングが、失業不安→サービス残業→過労死という袋小路を脱出する希望の思想だと言い切る。失業不安がなくなれば消費動向も好転し、経済波及効果もあるし、マクロ経済に与える影響は大きいという。個人選択型ワークシェアリングによって、人生の一時期短時間労働につくことができ、仕事よりも大事なことに取り組む時間を捻出できる。――などなどワークシェアリングはいいことだらけのようなのだ。だが、それならなぜ、経営者も政府も今すぐワークシェアリングに取り組まない? 現実には、目先の利益だけにとらわれる企業がいかに多いか。
 なによりもまず、労働組合が熊沢氏の提言にどう応えていくかが問われている。氏は、未来への希望の思想を実践するものはやはり労働組合だとみているからだ。熊沢氏は既成の労働組合に批判的ではあるが、絶望はしていない。労働組合がワークシェアリングに取り組めば現場の労働者の信頼も取り戻せ、組合にとってもワークシェアリングはサバイバルのための一助になるという。

 わたしはワークシェアリングが打ち出の小槌だとは思わないが、確かに、今とりあえずできる最良の方策なのだとは思う。道は険しいけれど、わたしたちは夢見ることをあきらめたくはない。本書は、熊沢先生の迷いと嘆きと、それでもやっぱり捨てない夢と希望が溢れてくる本だった。

 あとがきに、「ここ25~30年ほどの間における日本の労働の歴史を、あまり紙数にとらわれないかたちで描きたいものである」と書かれている。この行(くだり)に目がとまった。先生、ぜひ書いてください。ささやかながら、お手伝いもさせてください。ぜひぜひ。


リストラとワークシェアリング
熊沢誠著 岩波書店 2003年(岩波新書)