この社会はどこへ向かっているのだろう? 「みんなが機嫌よく生きていける社会」という、一見誰もが納得するような理想社会へ向かうためには何が必要なのか? そもそも「理想社会をめざす」なんていうユートピア的発想が間違いなのか?
最近読んだ2冊の本が、偶然にも同じ事を示唆してくれた。これからは<真面目>ではなく、<笑い/ 無駄>が大切なのだと。その2冊とは、ポストモダニズムの影響を色濃く感じる、森下伸也著『もっと笑うためのユーモア学入門』と鈴木謙介著『暴走するインターネット』だ。「全世界を獲得するために」などという大きな物語がもはや通用しない現在では、サルトルが一生懸命気張って主張した「アンガージュマン」も「主体」も、脱構築されてしまった。
ポストモダニズムの影響を色濃く感じると書いたが、実はこの2著作とも、ポストモダニズムの洗礼を受けながらも、もう一転回を見せているのだ。著者たちは「大きな物語」を捨てたわけではない。ただ、それを、笑って語ろうと言っているのだ。森下氏は、世界中至る所で起きている紛争や虐殺に対して、ユーモリストによる反撃を開始し、世のため人のためにユーモアを広めようと主張する。ユーモアによる世直しである。狂信的で不自由な宗教・信条に束縛されることなく、自己を解放しようというのだ。鈴木氏も、同じ意味のことを次のように表現している。
「インターネットは私たちを幸せにする魔法の道具ではない。そこで流通するコミュニケーションには内容などなく、ただ前のコミュニケーションに対する刺激への対応として次のコミュニケーションが連鎖しているだけだ。だがそれは少なくとも私たちを幸せにする可能性をはらんだ「無駄」であり、そして事実として、私たちはそのような無駄の中に生きることを選び始めているのではないだろうか。この無駄と戯れつつそれを維持するコストをかけるか、「まじめな」社会を形成するためにまじめなコミュニケーションを行い、それに従わないものを暴力で排除するか。私の立場がどちらであるかは、もはやいうまでもないだろう」
森下氏の本はおもしろかった。原田達さんのお奨め書評を読んで、ぜひ読んでみようと思って買い求めた本だ。既に森下氏の『社会学がわかる事典』を読了していたから、この人の書くものはきっとおもしろいだろうという期待もあった。案の定、わたしは笑いながら読んだのだが、この本のおもしろさ・楽しさの拠って来たるところは、畢竟、著者が自分の好きなことをやっているということに尽きる。森下さんはお笑いが好きなんだ。そうに違いない。好きなことを研究対象にして本を書いて、それでゼニになるなんて、なんといううらやましい身分だろう。大学の先生って、自分の好きなことを研究してそれで飯の種になるんだから、こんないい商売はないよなぁ。
……などと思ってはいけない。最近、どこの大学も教員達は雑用に追われて青息吐息なのだ。わたしの友人品川哲彦先生などは、こんなにも全国行脚の旅を続けて超多忙な日々。大学教員が酒席に集まれば、愚痴のオンパレードだ。もちろん、サラリーマン社会はもっと厳しい、なにをぐだぐだ抜かすかと言われればそれまでだが、昔ほど大学の先生は楽な商売ではなさそうだ。
話が逸れてしまったが、森下先生はご自分の好きな<お笑い>を学問にしてしまってとても楽しそうだし、鈴木謙介氏も、インターネットなしには生きていけない若者世代ではなかろうか。やはり、自分の好きなネットの世界を研究対象にしていると思われる。実は、1976年生まれの鈴木氏が分析するインターネットコミュニティについて、わたしは少々異論や違和感がある。彼のような若い世代のネットへのかかわりかたと、わたしたちのような中年世代以上のネットへの関わり方/もたれかたは、異なるのではないか。インターネットは発展途上のコミュニケーションメディアであり、そこでのリテラシーは未成熟だ。だから、まだまだ流動的な世界であり、ネットコミュニケーションの特徴をを鈴木氏はいくつかに分類してみせるが、そのどれにもあてはまらないコミュニケートのあり方が確かに存在すると感じる。それに、Web上のコンテンツはあまりにも膨大な量があるため、鈴木氏の目が行き届かない部分が多々あると思われる。インターネットの世界の全貌を描くのはまだ無理なのだ。
とはいえ、鈴木氏が言いたかったのは、Web世界の全貌を描くことではなく、あくまでもコミュニケーションの方向性であり、この社会をどうとらえるのか、みんなが幸せに生きて行くにはどうすればいいのかというごく「単純」な問いかけなのだ。ネットの世界を独自の<現実社会>と位置づけ(彼はこれを「パブリック・コミュニティと名付ける)、社会システム論を使って分析していく。ルーマンの社会システム論を実にわかりやすく解説してくれるので、助かる。
『暴走するインターネット』は、装丁を見ると、その軽さ・おしゃれさのせいで学術書とは思えないのだが、内容は濃く、著者がまだ26歳であることを考えると、その博識には驚くし、分析視点の鋭さにも感心する。
気になるのは、しばしばいわれるように、社会学は社会を見て人を見ない、という点だ。鈴木氏は、インターネット社会を分析するときに、個々人の状況を分析したりしない。だからこそ、個別具体的なAさんやKさんには当てはまらない話が登場するのだ。わたし個人についても、彼の分析は当てはまらない。ところが、鈴木氏がある社会層を分析したこの本は、有効性があるのだ。彼がしばしば引用する巨大掲示板「2ちゃんねる」という「場」での出来事については、たぶん、うまく分析できているのだろう。わたしは2ちゃんねるをほとんどまったく読まないので、そういうわたしのようなおばさんは彼の分析の手から漏れてしまう。ネットに接続している時間は異様に長いのに2ちゃんねるのようなゴミネタパブリックスペースに接続しない人間をどのように分析するのか、鈴木氏のお手並みを拝見してみたい。そして、個人サイト(とりわけ日記サイト)に注目して、Webでは私的なものが私的なまま公の世界に流出する、と分析するその視点にも漏れがあると感じる。鈴木氏にはその理論の精緻化を期待したい。
ちなみに、夫はこの本を読んで、「おもしろいけれど、知らないことはなにも書いていない。知っていることばかり書いてあるから、新鮮味がない」と批評していた。ネットの世界は深くて広い。学者の先の先をゆくユーザーは数多い。彼らをあっといわせるような分析をしてみせないとだめなんだろうな。『暴走するインターネット』、わたしはおもしろく読んだのだけれど。
「社会」を考える勉強は一生続く。どこまでいっても終わらないだろう。「自己」を見つめる作業もまた終わりなき業だ。重き荷を背負ってこれからも歩いていくのだろう。でもそれを楽しみたい、という気持ちを忘れたくないけど。
最近読んだ2冊の本が、偶然にも同じ事を示唆してくれた。これからは<真面目>ではなく、<笑い/ 無駄>が大切なのだと。その2冊とは、ポストモダニズムの影響を色濃く感じる、森下伸也著『もっと笑うためのユーモア学入門』と鈴木謙介著『暴走するインターネット』だ。「全世界を獲得するために」などという大きな物語がもはや通用しない現在では、サルトルが一生懸命気張って主張した「アンガージュマン」も「主体」も、脱構築されてしまった。
ポストモダニズムの影響を色濃く感じると書いたが、実はこの2著作とも、ポストモダニズムの洗礼を受けながらも、もう一転回を見せているのだ。著者たちは「大きな物語」を捨てたわけではない。ただ、それを、笑って語ろうと言っているのだ。森下氏は、世界中至る所で起きている紛争や虐殺に対して、ユーモリストによる反撃を開始し、世のため人のためにユーモアを広めようと主張する。ユーモアによる世直しである。狂信的で不自由な宗教・信条に束縛されることなく、自己を解放しようというのだ。鈴木氏も、同じ意味のことを次のように表現している。
「インターネットは私たちを幸せにする魔法の道具ではない。そこで流通するコミュニケーションには内容などなく、ただ前のコミュニケーションに対する刺激への対応として次のコミュニケーションが連鎖しているだけだ。だがそれは少なくとも私たちを幸せにする可能性をはらんだ「無駄」であり、そして事実として、私たちはそのような無駄の中に生きることを選び始めているのではないだろうか。この無駄と戯れつつそれを維持するコストをかけるか、「まじめな」社会を形成するためにまじめなコミュニケーションを行い、それに従わないものを暴力で排除するか。私の立場がどちらであるかは、もはやいうまでもないだろう」
森下氏の本はおもしろかった。原田達さんのお奨め書評を読んで、ぜひ読んでみようと思って買い求めた本だ。既に森下氏の『社会学がわかる事典』を読了していたから、この人の書くものはきっとおもしろいだろうという期待もあった。案の定、わたしは笑いながら読んだのだが、この本のおもしろさ・楽しさの拠って来たるところは、畢竟、著者が自分の好きなことをやっているということに尽きる。森下さんはお笑いが好きなんだ。そうに違いない。好きなことを研究対象にして本を書いて、それでゼニになるなんて、なんといううらやましい身分だろう。大学の先生って、自分の好きなことを研究してそれで飯の種になるんだから、こんないい商売はないよなぁ。
……などと思ってはいけない。最近、どこの大学も教員達は雑用に追われて青息吐息なのだ。わたしの友人品川哲彦先生などは、こんなにも全国行脚の旅を続けて超多忙な日々。大学教員が酒席に集まれば、愚痴のオンパレードだ。もちろん、サラリーマン社会はもっと厳しい、なにをぐだぐだ抜かすかと言われればそれまでだが、昔ほど大学の先生は楽な商売ではなさそうだ。
話が逸れてしまったが、森下先生はご自分の好きな<お笑い>を学問にしてしまってとても楽しそうだし、鈴木謙介氏も、インターネットなしには生きていけない若者世代ではなかろうか。やはり、自分の好きなネットの世界を研究対象にしていると思われる。実は、1976年生まれの鈴木氏が分析するインターネットコミュニティについて、わたしは少々異論や違和感がある。彼のような若い世代のネットへのかかわりかたと、わたしたちのような中年世代以上のネットへの関わり方/もたれかたは、異なるのではないか。インターネットは発展途上のコミュニケーションメディアであり、そこでのリテラシーは未成熟だ。だから、まだまだ流動的な世界であり、ネットコミュニケーションの特徴をを鈴木氏はいくつかに分類してみせるが、そのどれにもあてはまらないコミュニケートのあり方が確かに存在すると感じる。それに、Web上のコンテンツはあまりにも膨大な量があるため、鈴木氏の目が行き届かない部分が多々あると思われる。インターネットの世界の全貌を描くのはまだ無理なのだ。
とはいえ、鈴木氏が言いたかったのは、Web世界の全貌を描くことではなく、あくまでもコミュニケーションの方向性であり、この社会をどうとらえるのか、みんなが幸せに生きて行くにはどうすればいいのかというごく「単純」な問いかけなのだ。ネットの世界を独自の<現実社会>と位置づけ(彼はこれを「パブリック・コミュニティと名付ける)、社会システム論を使って分析していく。ルーマンの社会システム論を実にわかりやすく解説してくれるので、助かる。
『暴走するインターネット』は、装丁を見ると、その軽さ・おしゃれさのせいで学術書とは思えないのだが、内容は濃く、著者がまだ26歳であることを考えると、その博識には驚くし、分析視点の鋭さにも感心する。
気になるのは、しばしばいわれるように、社会学は社会を見て人を見ない、という点だ。鈴木氏は、インターネット社会を分析するときに、個々人の状況を分析したりしない。だからこそ、個別具体的なAさんやKさんには当てはまらない話が登場するのだ。わたし個人についても、彼の分析は当てはまらない。ところが、鈴木氏がある社会層を分析したこの本は、有効性があるのだ。彼がしばしば引用する巨大掲示板「2ちゃんねる」という「場」での出来事については、たぶん、うまく分析できているのだろう。わたしは2ちゃんねるをほとんどまったく読まないので、そういうわたしのようなおばさんは彼の分析の手から漏れてしまう。ネットに接続している時間は異様に長いのに2ちゃんねるのようなゴミネタパブリックスペースに接続しない人間をどのように分析するのか、鈴木氏のお手並みを拝見してみたい。そして、個人サイト(とりわけ日記サイト)に注目して、Webでは私的なものが私的なまま公の世界に流出する、と分析するその視点にも漏れがあると感じる。鈴木氏にはその理論の精緻化を期待したい。
ちなみに、夫はこの本を読んで、「おもしろいけれど、知らないことはなにも書いていない。知っていることばかり書いてあるから、新鮮味がない」と批評していた。ネットの世界は深くて広い。学者の先の先をゆくユーザーは数多い。彼らをあっといわせるような分析をしてみせないとだめなんだろうな。『暴走するインターネット』、わたしはおもしろく読んだのだけれど。
「社会」を考える勉強は一生続く。どこまでいっても終わらないだろう。「自己」を見つめる作業もまた終わりなき業だ。重き荷を背負ってこれからも歩いていくのだろう。でもそれを楽しみたい、という気持ちを忘れたくないけど。