ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

社会学のお勉強

2003年04月27日 | 読書
 この社会はどこへ向かっているのだろう? 「みんなが機嫌よく生きていける社会」という、一見誰もが納得するような理想社会へ向かうためには何が必要なのか? そもそも「理想社会をめざす」なんていうユートピア的発想が間違いなのか?

 最近読んだ2冊の本が、偶然にも同じ事を示唆してくれた。これからは<真面目>ではなく、<笑い/ 無駄>が大切なのだと。その2冊とは、ポストモダニズムの影響を色濃く感じる、森下伸也著『もっと笑うためのユーモア学入門』と鈴木謙介著『暴走するインターネット』だ。「全世界を獲得するために」などという大きな物語がもはや通用しない現在では、サルトルが一生懸命気張って主張した「アンガージュマン」も「主体」も、脱構築されてしまった。

 ポストモダニズムの影響を色濃く感じると書いたが、実はこの2著作とも、ポストモダニズムの洗礼を受けながらも、もう一転回を見せているのだ。著者たちは「大きな物語」を捨てたわけではない。ただ、それを、笑って語ろうと言っているのだ。森下氏は、世界中至る所で起きている紛争や虐殺に対して、ユーモリストによる反撃を開始し、世のため人のためにユーモアを広めようと主張する。ユーモアによる世直しである。狂信的で不自由な宗教・信条に束縛されることなく、自己を解放しようというのだ。鈴木氏も、同じ意味のことを次のように表現している。

 「インターネットは私たちを幸せにする魔法の道具ではない。そこで流通するコミュニケーションには内容などなく、ただ前のコミュニケーションに対する刺激への対応として次のコミュニケーションが連鎖しているだけだ。だがそれは少なくとも私たちを幸せにする可能性をはらんだ「無駄」であり、そして事実として、私たちはそのような無駄の中に生きることを選び始めているのではないだろうか。この無駄と戯れつつそれを維持するコストをかけるか、「まじめな」社会を形成するためにまじめなコミュニケーションを行い、それに従わないものを暴力で排除するか。私の立場がどちらであるかは、もはやいうまでもないだろう」

 森下氏の本はおもしろかった。原田達さんのお奨め書評を読んで、ぜひ読んでみようと思って買い求めた本だ。既に森下氏の『社会学がわかる事典』を読了していたから、この人の書くものはきっとおもしろいだろうという期待もあった。案の定、わたしは笑いながら読んだのだが、この本のおもしろさ・楽しさの拠って来たるところは、畢竟、著者が自分の好きなことをやっているということに尽きる。森下さんはお笑いが好きなんだ。そうに違いない。好きなことを研究対象にして本を書いて、それでゼニになるなんて、なんといううらやましい身分だろう。大学の先生って、自分の好きなことを研究してそれで飯の種になるんだから、こんないい商売はないよなぁ。

 ……などと思ってはいけない。最近、どこの大学も教員達は雑用に追われて青息吐息なのだ。わたしの友人品川哲彦先生などは、こんなにも全国行脚の旅を続けて超多忙な日々。大学教員が酒席に集まれば、愚痴のオンパレードだ。もちろん、サラリーマン社会はもっと厳しい、なにをぐだぐだ抜かすかと言われればそれまでだが、昔ほど大学の先生は楽な商売ではなさそうだ。

 話が逸れてしまったが、森下先生はご自分の好きな<お笑い>を学問にしてしまってとても楽しそうだし、鈴木謙介氏も、インターネットなしには生きていけない若者世代ではなかろうか。やはり、自分の好きなネットの世界を研究対象にしていると思われる。実は、1976年生まれの鈴木氏が分析するインターネットコミュニティについて、わたしは少々異論や違和感がある。彼のような若い世代のネットへのかかわりかたと、わたしたちのような中年世代以上のネットへの関わり方/もたれかたは、異なるのではないか。インターネットは発展途上のコミュニケーションメディアであり、そこでのリテラシーは未成熟だ。だから、まだまだ流動的な世界であり、ネットコミュニケーションの特徴をを鈴木氏はいくつかに分類してみせるが、そのどれにもあてはまらないコミュニケートのあり方が確かに存在すると感じる。それに、Web上のコンテンツはあまりにも膨大な量があるため、鈴木氏の目が行き届かない部分が多々あると思われる。インターネットの世界の全貌を描くのはまだ無理なのだ。

 とはいえ、鈴木氏が言いたかったのは、Web世界の全貌を描くことではなく、あくまでもコミュニケーションの方向性であり、この社会をどうとらえるのか、みんなが幸せに生きて行くにはどうすればいいのかというごく「単純」な問いかけなのだ。ネットの世界を独自の<現実社会>と位置づけ(彼はこれを「パブリック・コミュニティと名付ける)、社会システム論を使って分析していく。ルーマンの社会システム論を実にわかりやすく解説してくれるので、助かる。

 『暴走するインターネット』は、装丁を見ると、その軽さ・おしゃれさのせいで学術書とは思えないのだが、内容は濃く、著者がまだ26歳であることを考えると、その博識には驚くし、分析視点の鋭さにも感心する。

 気になるのは、しばしばいわれるように、社会学は社会を見て人を見ない、という点だ。鈴木氏は、インターネット社会を分析するときに、個々人の状況を分析したりしない。だからこそ、個別具体的なAさんやKさんには当てはまらない話が登場するのだ。わたし個人についても、彼の分析は当てはまらない。ところが、鈴木氏がある社会層を分析したこの本は、有効性があるのだ。彼がしばしば引用する巨大掲示板「2ちゃんねる」という「場」での出来事については、たぶん、うまく分析できているのだろう。わたしは2ちゃんねるをほとんどまったく読まないので、そういうわたしのようなおばさんは彼の分析の手から漏れてしまう。ネットに接続している時間は異様に長いのに2ちゃんねるのようなゴミネタパブリックスペースに接続しない人間をどのように分析するのか、鈴木氏のお手並みを拝見してみたい。そして、個人サイト(とりわけ日記サイト)に注目して、Webでは私的なものが私的なまま公の世界に流出する、と分析するその視点にも漏れがあると感じる。鈴木氏にはその理論の精緻化を期待したい。

 ちなみに、夫はこの本を読んで、「おもしろいけれど、知らないことはなにも書いていない。知っていることばかり書いてあるから、新鮮味がない」と批評していた。ネットの世界は深くて広い。学者の先の先をゆくユーザーは数多い。彼らをあっといわせるような分析をしてみせないとだめなんだろうな。『暴走するインターネット』、わたしはおもしろく読んだのだけれど。

 「社会」を考える勉強は一生続く。どこまでいっても終わらないだろう。「自己」を見つめる作業もまた終わりなき業だ。重き荷を背負ってこれからも歩いていくのだろう。でもそれを楽しみたい、という気持ちを忘れたくないけど。

「戦争報道」「カルチュラル・スタディーズの招待」

2003年04月19日 | 読書
 わたしのサイトはあくまでも映画や読書、酒、愚にもつかない身辺雑記などの趣味的ページにしようと思って二年前に立ち上げた。政治の話は好きではないのだ。正直言ってよくわからないし。

 ただし、「政治」に無関心なわけではない。選挙や政局だけが政治ではあるまい。もしそれが政治なら、わたしはまったくといっていいほど、「そういう政治」には無関心だ。選挙には必ず投票に行くし、たとえ投票したい人がいなくても、無効票か白票を投じてくる。棄権はしたくない。それでもあえて言う。「あなたは政治に関心がありますか」という社会調査の調査票が回ってきて、その「政治」が投票行動のことを指すなら、答えは「No」だ。選挙で世の中が変わるという期待はほとんどもっていない。
 それでも、もし今、総選挙があるなら、それはイラク戦争への賛否両論が大きな争点になるのではなかろうかと思うし、そうであるなら、わたしは戦争を支持する人間をぜひとも落選させたいと思う。先週、、地方選挙が行われた。何が争点になっていたのか実はよく知らない。でもちゃんと投票には行った。夕方まで選挙のことを忘れていたので、あわてて投票場まで行ったのだが。

 戦争はイラクだけで行われているわけではない。チェチェン共和国へのロシアの残虐な弾圧、東ティモール、ソマリア、パレスチナ……
 だが、わたしたちの政府がこんなにもはっきりと「戦争を支持する」と宣言して始まった戦争は、目下のところ、イラクでの戦闘だ。しかも国連の決議なしに。国連なんて張り子の虎だとは思っていたが、自分たちで作り上げた世界秩序すら無視するブッシュのやり方には心底怒りを感じる。

 怒りを感じてもイラクへ行って直接自分の目で見るわけではないから、戦況はマスメディアの報道に頼るしかない。また、直接見たからといってそれが「真実」だとは限らないし、事態の全体像がわかるわけでもない。戦火の報道は、インターネットなどでは反戦側も多くの情報を流している。わたしは、そのどれもを疑いながら見るという姿勢を保っていたいと思っている。

 というのも、さきごろ、『戦争報道』を読んで、どれだけ戦争報道が作られたものであったかを知らされたからだ。いや、報道の中身が作られているだけではない、戦争そのものをマスコミが作ってしまうのだ。本書は、戦争報道の歴史を概説した読みやすい本で、日本の報道近代化を担った同盟通信社の歴史や、ベトナム戦争下のアメリカの報道実態、さらには映画「地獄の黙示録」の裏話など、興味深い内容になっている。湾岸戦争での「重油にまみれた水鳥」の画像がイラクの環境テロとは関係なかったこと、この10年の間に米英軍は6000回もイラクに爆撃を行ってきたのに、それらはいずれも「戦争」だとは報道されなかったから、誰も戦争が行われていると気づかなかったことなど、報道の実態を暴いている。そう、マスコミが「戦争が始まる」というから戦争が始まるのだ。マスコミが報道しなければ、どこで何万人が殺されても、戦争など起きていないのだ。
 
 そして、つい昨日、『カルチュラル・スタディーズへの招待』を読み終わって、ますます「報道」への接し方には注意せねばならないと感じた。カルチュラル・スタディーズは文化研究と訳されるが、それは、「他者を語ること」を思索する学問だという。本書はカルチュラル・スタディーズの問題意識をまず紹介した後、メディア・漫画・スポーツ・SF小説・性・民族・歴史など各分野ごとに一冊ずつ本をとりあげて手際よく紹介してある。カルチュラル・スタディーズの教科書として書かれたものであり、そういう点では好適なのだが、カルチュラル・スタディーズそのものではない。著者の文化分析が、他の研究者の書物を通じてしか書かれていないので、オリジナリティに欠け、まどろっこしい。

 例えば、「不思議の国のアリス」を分析するくだりでは、『トラブルとその友人たち』という小説を引用するのだが、その引用はもともとは小谷真理が書いた『ハイパーヴォイス』で引用されているのを本橋氏が引用しているのだ。つまり、三重の引用。ややこしい構造だ。
 また、アウシュヴィッツを生きのびたプレーモ・レーヴィの著作を分析するのに徐京植『プリーモ・レーヴィへの旅』を使う、というように、重引だらけなので、読んでいて居心地が悪い。しかも著者の立場や主張は鮮明であり、むしろそのアジテーション口調というか、説教口調がなんとなくうるさい。とはいえ、カルチュラル・スタディーズとは何か、を学ぶには大変役に立った。

 戦時下のイラクで、戦況を報道し、被害に遭った人々を取材する日本人たちは、イラクの人々にとって他者であり、攻撃する米英軍側からも他者である。だが、今回の戦争で日本政府はアメリカ側に付いたから、日本人はおしなべてアメリカにとっての他者とはみなされないことになってしまった。エンベッド(embed:埋め込み)方式と呼ばれる従軍報道で、わたしたちは、アメリカ軍の戦艦に同乗した日本人記者から戦況を知らされる。現地の記者達にどれだけの批判精神があろうと、その取材の場においては、彼らは米軍に同化せざるをえない。敵はイラク軍だ。記者本人が戦争に反対であろうが賛成であろうが、エンベッド方式の中で、彼らは「真実」のみを選び取って報道せねばならない。それがジャーナリストの使命だからだ。
 爆撃の被害にあった人々にカメラを向ける時、外国人ジャーナリストは被害者にとってまったき他者であると同時に、彼らの声をより多くの他者へと届ける使者でもある。わたしたち日本に住む者はイラクの人々にとって他者であることを自覚し、他者からの眼差しを目をそらすことなく受け止め、そして他者への眼差しを共感を込めて送りたいと思う。けれどこれは、簡単なことではないし、では具体的に何をすればいいのと問われるとわたしは言葉を継ぐことができない。今できることはせいぜい、これ以上殺すなと声を上げることと、被災地の人々に届くように援助の金や物資を送る以外にはない。けれど、それは他者と自己との溝を埋める作業になっているのか? ますますわたしの思考は混迷の中をさまよい歩く。今はまだ光が見えない。

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戦争報道 武田徹著 筑摩書房 2003年(ちくま新書)
カルチュラル・スタディーズへの招待 本橋哲也著 大修館書店 2002年

「もっと笑うためのユーモア学入門 」

2003年04月17日 | 読書
森下 伸也著 : 新曜社: 2003.4

 奥付の著者紹介には「専攻:社会学、ユーモア学」と書いてある。ユーモア学? そんな学問があるんかい?
 あるんです、それが。
 この本の内容を一言でいえば、

「笑う門には福来たる」。

 たったこれだけのことを言うために、ギリシア哲学から大脳生理学、宗教学、心理学、美学、歴史学、文化人類学などなどをフル動員するんだから、大したもんです。要するに「ユーモア学」というのは、10数年ほど前に興った新しい学問で、しかも人文・社会・自然科学すべてをクロスオーバーする学際的なものらしい。

 本書は、後半へ進むほどにおもしろみが増し、著者のボルテージがあがり、最後は、あらゆる宗教を超える「超宗教」としての<笑い教>の開闢が高らかに告げられる(一部嘘)。
 
 いや、実際、笑いをその質と量で分類していく、おきまりの「笑いとは何か」という定義から始まり、その歴史を語り、社会の中で果たす役割を解説する第3章までは普通の概説書・啓蒙書だったのだが、4章あたりから俄然、著者の面目躍如。ユーモアの達人をめざして具体的なジョークの例示が始まると、これがもうおかしくって! 「これはおもしろいな」「これは使える」「このジョークはどこがおもしろいんや?」と一人ぶつぶつ言いながら読み進めていた。

 最終章に至ると、もうほとんどアジテーションだ。偉大なる哲学者ニーチェをたびたび引用し、著者はユーモアの敵となる宗教をこき下ろし、「いかなる運命の不条理、いかなる神義論も笑いとばせ」と活を入れる。「[権力亡者、金銭亡者、自己中心主義者、狂信的宗教信者たちへの]反撃、いわばユーモリストの聖戦を開始しなければならないのだ」とな。

 おもしろいんだけれど、ユーモアで社会変革をめざすっていうのは斜に構えていいかもしれないけど、それはちょっとかなりだいぶ無理があると思う。まあ、著者もそんなこと、笑いながら書いているに違いないけど。

 やっぱり最後はこの言葉で決めてほしかったなぁ。

 「万国の労働者よ、笑え!」  ……ここで笑ってほしいんですけど……


「ナショナリズム論の名著50 」

2003年04月16日 | 読書
大沢 真幸編 石沢 武〔ほか〕執筆
平凡社 : 2002.1

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 各地で民族紛争が起きたり、アメリカ軍がアフガンやイラクまで出かけて爆弾を落とすような世の中、いったい、他国や他民族の命を平気で奪うような心性はどこから生まれるのだろうか? 戦争の原因はナショナリズムにあるのか?

 ナショナリズムは古くて新しい「謎」だ。「国家」がいつからあるのかは定かでないが、国家についての議論は実はせいぜいこの100年ほどの間に行われているに過ぎない。ナショナリズムについて、その言説の歴史を学ぶなら、この一冊でじゅうぶんだろう。

 とりあげられているのは、名著50冊だけではない。各論ごとに豊富な参考文献が挙げられているので、本書に掲載された本をすべて読破しようとすれば、一生かかるかもしれない。
 もちろん、素人はそんなことをする必要はない。名著50冊だけでも全部読むのは時間的に困難だ。なら、精髄だけいただこうという向きは、この本をとにかく片っ端から読む。最初から順に読まなくてもいいけど、とにかく全部読む。すると、随分いろんなことが見えてくる。50冊の解説を書いた著者たちが、本書になみなみならぬ力を入れていることがわかるだろう。単なる図書紹介を超えて、論説と批判に踏み込んでいる。

 事典がわりに座右において、いつでも手にとって少しずつ読むというのもいい。いたく興味をひかれた本は、実際に原典を手にとって読んでみたくなる。これは、本の泉へ読者をいざなう、格好の水先案内書だ。


「たんぽぽ」

2003年04月15日 | 読書
たんぽぽ:過労自殺を労災認定させた家族と支えた人々
飯島 千恵子著 故飯島盛さんの労災認定を支援する会編
 かもがわ出版  : 2003.3

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 過酷な勤務によって鬱病を発症したわたしの友人が、二か月近く前に自殺した。その彼に、本書の冒頭に掲載されている小学1年生の日記を読んでほしかった。そして思いとどまってほしかった。悔しさに歯ぎしりする思いだ。

 おとうさんは、わたしと、おかあさんとおにいちゃんをおいて、しんでしまった。じゅん子が一歳のときに、てんごくにいってしまった。……(中略)……
じゅん子は、おかいものにいくとき、おとうさんとちいさい女の子がいっしょにてをつないでいるのをみたの。そうするとこころの中でこうおもうの。
「なんでおとうさんしんでしまったの」っておもうの。
 かみさま、どうかおとうさんをかえして下さい。おねがいします。もしおとうさんがかえってきたら、だっこやおんぶや、かた車などをしてもらいたいです。

 まだ「過労自殺」という言葉もなかった1985年に、飯島盛さんは働きすぎの心労から、命を絶った。遺された妻は、夫の死後5年近くが経とうとするとき、偶然「過労死110番」の存在を知った。それは、長野県の労働組合が設置した相談窓口だった。本書は、過労死110番にすがるように訴えた妻が、その後、弁護士や労組の支援を得て10年に及ぶ苦しい闘いをやりぬき、ついに夫の死を労災として裁判で認めさせた、その記録である。

労働基準監督署に労災申請を出したときから、家族の闘いは始まる。マスコミの取材が殺到して、会社は手のひらを返したような冷たい態度を見せ、遺児達は記者の取材攻勢におびえる。遺族であり原告である飯島千恵子さんが、その苦しさに負けずに、またときに支援者たちとの楽しい思い出を織り上げながら過ごした10年の日々が綴られている。感動するのは、子どもたちの成長ぶりだ。父を亡くし、マスコミに怯えた彼らが、いつのまにか成長し、裁判を自分達なりに受け止め、一生懸命生きていく。

 本作は、裁判資料があまり掲載されていない、また亡くなった飯島盛さんの生没年がきちんと書かれていないので享年がわからない、などの不満点はあるが、子ども達の日記や作文をふんだんに盛り込み、感動的な手記となっている。

死んでしまってからいくら労災が認められても、会社に謝ってもらっても、亡くなった人は帰ってこない。遺族の無念を思うとき、著者たちの闘いが、過労死・過労自殺をなくす大きな歯止めになれば、と心から願う。


女たちのジハード

2003年04月12日 | 読書
 スキー旅行の往復のバスと飛行機の中で読了した小説。1997年度直木賞受賞作。

 この作品は、中堅損害保険会社に勤める5人のOLたちの群像劇。実に痛快爽快で、522ページあるけれども長さを感じさせない。「ジハード」とは、会社の中で行き場のない女性社員たちの、新たな旅立ちへ向かうそれぞれの「戦い」である(本のタイトルに「ジハード」とつけるなんて、イスラム教徒への冒涜ではないかと夫は難癖をつけていた)。
 
 登場する5人がそれぞれに個性的ではあるのだが、彼女らはある類型化された女性像に過ぎない。一人一人の行動パターンは読者の予想を裏切ることはないし、彼女らの成長物語のその飛翔の仕方も、格別目新しいものはない。むしろ、現実世界で日々生起している現状を追認した叙述でしかない。にもかかわらず、おもしろいのだ。それは例えば3高の結婚相手を探すためにあらゆる奸計をめぐらすリサという女性がとてもユーモラスに描かれていたり、30歳を過ぎて職場で浮いた存在になりつつある康子の優しさや悔しさが胸に迫る筆致であったり、キャリアアップをめざす沙織のあせりや野心や夢が手にとるように伝わってきたり、……と、主要な登場人物たちを作者がきっちりキャラ立てて作り上げているからだ。
 
 さらに、競売物件を落札しようとするヤクザな男達の実態や、有機農業をめざして脱サラ奮闘する男のくらし、企業の社会的貢献を目指してボランティア活動を広報の一環に位置づける会社の実態、などなど、豊富な取材に基づく描写がリアルで興味をそそるのだ。やはりプロの作家は、読者を飽きさせないだけの状況提示が巧いし、どんなにステレオタイプだのありきたりだのと思われても、結局最後まで読者を物語に惹き付けてしまう。実に巧みだ。

 登場人物が5人いるために、読者は必ずその誰かに自己を投影して感情移入することが可能だ。男に頼らず自分ひとりの力で生きていこうとする上昇志向の強い沙織が、最もわたしに近いキャラかなと思ったが、計算高く男をあさるリサにも意外に近いものを感じる。わたしは3高男を探したりしなかったが、結婚に「恋愛」以外のファクターを求めた姿勢は、リサと同じではないかとどきりとする。「売れ残っている」という自覚と達観とあせりをもつハイミス(死語)康子にだって共感を覚える。彼女たちの生き方のどれもがわたしとは違うのに感情移入が容易い理由は、篠田節子の文体が簡潔でリズミカル、そしてユーモアをふんだんに醸し出しているから、そしてなによりも彼女たちへの愛を感じるからだろう。

 ところで、この作品に登場する女性達はすべて会社を見限ってしまう。彼女たちの未来は会社の中にはない。それぞれの脱出の仕方は結婚であったり留学であったり起業であったり様々だが、とにかく、今彼女たちがそこを足場にしているはずの職場がなんの価値もないものとしか見られていない。OLを腰掛けだの職場の花だのとあざ笑ってきた男達の論理を、彼女らもまた内面化しているといえる。自分たちの職場を自らの手で改革しようという変革の志はまったくと言っていいほどこの小説の中には見られない。確かに女達の成長物語ではあるが、それは女達の自己変革を意味し、内面の価値観の転換を意味する。決して社会変革(職場変革)へとは向かわない。
 そんなのは当たり前なのかもしれない。今時、社会変革をめざすような女達の姿を描いても現実味がないのかもしれない。多くの読者の共感を惹きつけることもできないのかもしれない。今はこういう小説がうけるのか、と思いながら読み進め、確かにおもしろいとは思うけれど、どうしてもその点に不満が残ってしまう。また、娯楽作の域を出ない表層的な描写にも不満が残る。やはりわたしは暗くて重い純文学が好きなんだなあ。

 5人のOLたちはまったく普通の女性だ。とりたてて才能があるわけでもなく、新しい生き方を模索しているわけでもなく、猟奇的な事件に巻き込まれるわけでもない。それにもかかわらず、作者は
「世の中に「普通のOL」などという人種はいないし、「普通の人生」もない。いくつもの結節点で一つ一つ判断を迫られながら、結局、たった一つの自分の人生を選び取る」と言う。

 本作は、「普通のOL」という一言で片づけられてしまう、有象無象の一人に過ぎない女たちへの、熱い応援歌だ。爽やかな読後感がとてもいい。

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女たちのジハード
篠田節子著 集英社 200年(集英社文庫)

「〈戦後〉が若かった頃 」

2003年04月04日 | 読書
海老坂 武著 : 岩波書店  2002.12

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海老坂さんは名うてのドン・ファンで、わたしの友人・知人の間では、「会うたびに違う女性を連れている」「今度の恋人は日本人だ」などと、とかくおもしろがられていた人だ。さすがに70歳近くなって、浮名を流す回数も減ったかもしれないが、写真を見ると相変わらず渋くてかっこいい。

 海老坂ファンであれば当然、この本を読むべし。野球に熱中していた学生時代の話はユーモラスで楽しいし、フランス留学時代の女性たちとの交流も興味深い。
 途中にインタビューが挿まれているのも閑話休題という感じで、なかなか凝った作りの本だ。このインタビュー、質問もご本人が全部自分で書いたんじゃないの?と疑わせるぐらい卓抜な突っ込みが楽しめる。

 この本は、海老坂武一人の伝記ではなく、大勢の文化人・知識人が登場する。さすがは東大仏文科出身だけあって、友人・知人たちにはその後、名を成した人が多い。最も興味深かったのは、大江健三郎についてのコメントだ。自らも小説書きになろうというささやかな野心を持っていた海老坂さんが、同級生大江健三郎の才能に打ちのめされたくだりに、他人事とは思えない切なさを感じてしまった。

 大江だけではなく、著者と交流のあった人々があまた実名で登場し、彼らがとても生き生きと描かれているのも本書の大きな魅力だ。ただ、登場させられた人々の了承は得てあるのだろうかという余計な心配をしてしまったが。

 海老坂さんは既に中学3年生までの子ども時代の自伝(『記憶よ、語れ』筑摩書房)を出版されているから、今回はその続きだ。そして、フランス留学から帰国する31歳で叙述が終わっているということは、当然続きがあるはず。これは三部作なのだろう、とわたしは予想しているので、早く続きが読みたい。

 本書では、海老坂武という一人の左翼知識人の目を通して、彼がたどった戦後社会思想の数々を概観することもでき、海老坂ファンに限らず、戦後日本思想史に興味のある人々にはお薦めの一品といえる。

 個人的には、映画評やヨーロッパ紀行文に興味をそそられた。とにかく海老坂さんはマメにノートをつけるメモ魔であったようで、それがこういう形で一冊の本になるのだから、なんでも書きつけておく習癖は役に立つようだ。ま、凡人が何を書いてもあかんけどね。