ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『現代思想のパフォーマンス 』

2005年03月26日 | 読書
 フーコーつながりで(いや、その前にアガンベンつながりで)結局もう一度現代思想をソシュールからおさらいしないと理解できないということに気づいて、こういう本を読んでみた。

 かなり前に内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』を笑いながら読んだけど、あれはあまりにも簡略すぎてお役立ちではないので、寝ながら~を再読するのはやめてこちらを読んだ。



 いやあ、やっぱり内田さんはおもしろいわ。この人、難しいことをよくこれだけ咀嚼して書けるものだ。

 取り上げられている思想はソシュール、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー、サイード。その中で内田さんは映画「エイリアン」を使ってバルトを説明する。これ、確か『映画の構造分析』では「エイリアン」を使ってラカンを説明していたはずだけど。同じネタでいろいろ使えて二度三度四度五度とおいしい。同じ映画を使ってよくこれだけいろいろ書けるものだと感心してしまう。

 これを読んで息子が「エイリアン」のDVDをリクエストしていたことを思い出して、借りてきた。早速1と2をむさぼり見ていたけど、わたしは時間がなくて見られなかった。

 あ、映画の話はともかく、なんでフッサールとかの現象学系が抜けているんだろうとちと不満かな。でも、構造主義者に偏った解説のなかにサイードがはいっているというのは珍しいと思う。

 高校生や大学生向けにはぴったりです。とても読みやすくておもしろい。フーコーに関しては、これはこれでおもしろかったんだけど、今わたしが読んでいる『性の歴史』の読解の助けにはならなかったなー。惜しい。

<書誌情報>

 現代思想のパフォーマンス / 難波江和英, 内田樹著.
    光文社, 2004 (光文社新書)

『倒壊』

2005年03月21日 | 読書
 これは、6年前に著者が書いたルポ『倒壊』の続編である。『倒壊』を先に読んでいればたいへんつながりもよく、わかりやすい。

 『倒壊』では阪神淡路大震災で倒壊したマンションの立て替えやローンをめぐる問題が浮き彫りにされた。震災で家はなくなったのにローンだけが残った。新しく建て直すためには二重の負債を抱えることになる。そして、全半壊の分譲マンションを建て替えるときにも、経済弱者や老人世帯は建て替えに反対するが、多数決の論理によってマンションを追い出される事態に追い込まれる。



 本書よりも『倒壊』の方が生き生きとした具体例が多く挙げられているので、身につまされるだろう。著者が不足するデータを補うべく足を使って懸命に資料に当たった様子がよくわかり、戦後日本の持ち家政策の矛盾が一挙に表出した「震災による住宅喪失」に対して著者が並々ならない執念を燃やして被災者の立場に立とうとしたことが伝わってくるルポだ。

 ただ、統計の扱いの詰めの甘さが感じられるのが欠点で、そもそも統計が存在しないということも原因の一端とはいえ、推論の域を出ない部分が多いのが惜しまれる。また、震災で住宅を失ってローンだけが残った戸数を計算するような大事な部分はもう少し正確を期して記述してほしいところだ。
 その数字の算出はデータがないため、様々な統計調査を付き合わせて推計するしかない。そしてその結論の数字は、約15000世帯だ。だから、ローンが残って家がない人の数は15000人、と読む。だが、これは正しいのか? 15000は世帯数なのか戸数なのかローン負債者の数なのか。たとえば我が家は住宅ローンを夫婦二人がそれぞれ組んでいるから、戸数は1,債務者は2人である。本書でではこのあたりの詰めの甘さが惜しまれる。

 とはいえ、戦後日本の住宅政策が「長期安定雇用」という労働政策の上に成り立ち、家は修理するのではなくそっくり立て替えてしまうという使い捨て思想に基づいていることの問題点を鋭く指摘する良書だ。
 
 とりわけこれからマンションを買おうと思っている人にはこの2冊を必読書としてお勧めしたい。30年のローンを払い終わったら手元に残るはずの家が自分のものにならず、マンション建て替えのために老人世帯が追い出されるという悲劇。立て替えの費用負担を負いきれない経済的弱者世帯はけっきょくマンションを追い出されてしまい、しかも民間の賃貸住宅もなかなか入居することができず、そのままホームレスということもありうる。この心胆寒からしめる実態を知った上でマンション購入を検討されたい。

 今求められているのは、住宅政策の根本的見直しであり、日本の住宅思想の転換だろう。持ち家思想はほんとうに正しいのか? 正しいとしたら、どのような住宅が求められるのだろう? 非正規雇用者に冷たい住宅ローンの現状をどのように変えていくべきか?


 『倒壊』には、日本的多数決風土ともいうべき実態が描かれていて興味深い。それは、マンションの建て替えに対する賛否の多数決をとるときに、賛成が8割、反対が2割だったケースの例だ。ここでは、もともと「どちらでもいい派」だったのに後に賛成派になった人が、著者の質問に答えてこう言っている。

「 八割の人が建て替えと言っているのだから、なんとかその方向へ進めなければという思いでやってきたんです。私たちのマンションには、補修と建て替えという二つの可能性があった。…[補修派と建て替え派が競争して]補修派は競争に負けたわけでしょ。負けたんやったら決議に従うのが、良識ある人のすることではないでしょうか。80%の人がこうしようと思ったことに対して、それが自分の思いとは違うからといって、訴訟を起こす人の気持ちなんか僕にはわからない。エゴに過ぎないと思います」

 この人の意見にこの国の「民主主義」の実態がよく現れている。負けた2割の人が住む家がなくなってもホームレスになるかもしれなくても、多数に従うのが「良識」だという「良心的な意見」。決して全壊したわけではないマンションなのに、経済的弱者への配慮は顧みられない。


 ことは住宅ローン一つの問題ではなく、わたしたちの生き方すべてに通じるような問題だと思う。わたしは「アメリカのようによその国に危害を加えて金持ちになるくらいなら、人と人が大切にしあう豊かな貧乏国、日本独自のオリジナル貧乏がいい」(文庫本『倒壊』のあとがきより大意抜粋)という島本さんの社会を見る視線にいつも共感する。

『住宅喪失』の発行と同じくして『倒壊』が文庫化されたので、ぜひ併せてご一読を。

<書誌情報>

 倒壊:大震災で住宅ローンはどうなったか
   島本慈子著 筑摩書房(ちくま文庫) 2005.1

 住宅喪失 島本慈子著 筑摩書房(ちくま新書) 2005.1

日本人が見たアメリカ政治と社会の本、2冊

2005年03月17日 | 読書
 この本はマイケル・ムーアの『アホでマヌケなアメリカ白人』にノリが似ている。ムーアの本よりずっと笑えるけど。

 アメリカ社会の下品さとか懐の深さとか、笑っているうちにいろいろと考えさせられた。ただまあ、文体もけっこう下品だったりするので、こんなんでええんかいとか思うけど、おもしろいからえっか。

 映画評論家だけあって、やはりハリウッドの裏事情などを書いてある部分がおもしろいのだ。映画ファンなら、そういうあたりにアンテナが反応するだろう。日本の芸能人は主義主張や政治思想・宗教をあまり明らかにしないが、ハリウッドのスターたちは積極的に政党のパーティに参加したり献金したりするのだ。誰が共和党支持者か、なんていうのがわかってけっこうおもしろい。

 まあ、社会分析の本というよりは、おもしろおかしく読みつつも、アメリカ社会への批判の目を養う、といったところか。でも『あの日から世界が変わった』のたけちよさんもそうだけど、アメリカが好きだから批判する。アメリカへの愛が感じられるのだ、やっぱりこの本も。

<書誌情報>


底抜け合衆国 : アメリカが最もバカだった4年間 / 町山智浩著 洋泉社, 2004




 次に、『現代アメリカ政治思想の大研究』。わたしが読んだのは1998年刊の新装版だが、現在では左の写真のような文庫になっている。もともとが1995年出版の本だから、もう10年経ってしまっているが、内容がそれほど古いとは思えないから、アメリカ政治の基本構造は変わってないのだろう。

 こちらの本は参考文献やニュースソースがいっさい明記されておらず、引用文献についてさえほとんど明らかにされていないという杜撰な本で、知識人論をはじめたいへん雑駁な論があちこちで展開されているので、どこまで信用していいのか怪しいのだが、そうはいえどもアメリカの政治思想について整理するには実にわかりやすくて役に立った。ニュースで名前を聞いたり読んだりするだけの人物たちの人脈や思想性がよくわかる。そのわかりやすさはチャート式の受験参考書を読んでいるようなかんじ。ま、内容もその程度のもんかな、と思う。

 しばしば著者の政治思想や信条を吐露する余計な部分が出すぎるのも難点だし、山本宣治と鈴木文治を同列に扱うなどかなり雑だし、ウォーラステインの世界システム論を「よくわからない」の一言で終わらせてほとんど説明しないとか、なんだか「あれれ?! をいをい!」という部分が多い。

 だが、二大政党といっても民主党も共和党もさして変わらないというわたしの印象を裏付ける論述や、いっぽうで同じ党内でもさまざまな主張が対立している様子や、党派入り乱れての論戦・離合集散があることなど、いろいろおもしろい記述もあった。

 総じて、アメリカ政治を見るときの参考にはなるけど信じ込まないほうがよさそうな本。でもそれなりにおもしろかったから、いちおうお奨めね。わたしは読みながら腹が立ってしょうがないところが何箇所もあったけど。

 では本書から少しおさらいを。現代アメリカの政治思想は大きくわけてリベラル派と保守派がいるのだが、さらにその中でいくつかに分かれている。
 保守派の中は5つにわかれていて、

1.保守本流
2.リバータリアン(徹底した個人主義)
3.ジョン・バーチ協会派(直情極右)
4.旧保守派
5.ハイエク主義者、レオ・シュトラウス派(「小さな政府」派)

 このうち、最近台頭してきているリバータリアンの思想というのが興味を惹いた。リバータリアンは徹底した個人主義を貫く保守思想で、その特長を20項目挙げてあるが、簡単にいえば、リバータリアンは国家を否定し一切の権力の介入をきらい、税金を払わないかわりに総て自助努力でしようという連中のことだ。外交的には、外国へでかけていって軍事力で他国を救う必要はない、アメリカ国内のことだけやっていればいいという「反戦派」。
 これは税金を払いたくない中小自営業者の思想なのだという。

<書誌情報>

現代アメリカ政治思想の大研究 : 「世界覇権国」を動かす政治家と知識人たち / 副島隆彦著 ; 新装版. -- 筑摩書房, 1998

再び『フーコー』より引用 「外」について

2005年03月15日 | 読書
ドゥルーズ『フーコー』の訳者解説より引用。


 抵抗とは「外」に直接触れることにほかならない、とドゥルーズはいう。権力の次元は、知の次元に対して外にあり、この外はダイグラム、戦略によって定義されるが、ドゥルーズは、この外のさらに外に純粋な力の関係を考えているように思われる。ダイアグラムはそこから抽出されてくるのである。この外はたえまない生成、たえまなく突然変異を準備する変化であるといわれる。思考はそれを把握することはできないが、そこにむかって思考することならできる。思考にとって、確かに形式化された知以外の何も存在しないかもしれないが、思考が存在し知が存在するのは、このような外が存在するからである。 

……(略)

 思考は、考えられないものを通過しながら、無形式の権力の次元へと流出していく。そして、このような思考が、「汚名(破廉恥)」と「主体化」を再発見するのである。

 ……(略)

 ドゥルーズは、知、権力という二つの還元不可能な次元に対して、第三の次元として、主体化を位置づけている。第三の次元とは、まさに<外>と呼ばれるべきではないのだろうか。けれども、私たちが外に触れて、外に開かれて生きることは多くの危険、修行をともなう。あるいはしたたかな知恵をともなう。もしかすると、アジア的知とはしばしばそのような修行として、空虚にたえる道として、外に対面する方法なのかもしれない。ヨーロッパは外を折り畳み、その襞を自己との関係として生きることによって外と体面する方法を発見した。ドゥルーズはこんなふうに、フーコーの思想の最後の問いとして「主体化」を位置づけるのである。

 

 なんとなく、フーコー→アガンベン→大澤真幸と繋がる線が見えてきませんか?


フーコー入門書読み比べ(2)

2005年03月13日 | 読書
 わたしが読んでいるのはこの写真の新装版じゃなくて1987年に出版された初版のほうだ。ま、中身はおんなじなんだろうけど。

 これは入門書なんていう生易しいものではなく、読んだらよけいに訳が分からなくなるシロモノだ。フーコーの著作を読んでからでないとさっぱり理解できない。読んでいてもかなり難しい。
 フーコーが亡くなってからドゥルーズはフーコーへの賛辞を込めてこの本を書いた。

 まず第一章はほとんどすっ飛ばし。例の難解で知られる華麗なる修辞の『言葉と物』についての論など、いったい何を言っているのか、宇宙語みたい(涙)。ここを読みこなすにはソシュール言語学の知識がなければ無理だ(と思う、たぶん)。

 わからないと言いつつ、ちょっと引用してわかったつもりになろう。

 『言葉と物』においてフーコーは、問題なのは物でも言葉でもない、と説明している。また、対象も主体もやはり問題ではないのである。さらに、文も命題も、文法的、論理的、あるいは意味論的な分析も問題ではない。言表は、言葉と物との総合でなく、文や命題の組み合せでもなく、むしろ反対に、言表を暗黙のうちに前提とする文や命題に先行するものであり、言葉と対象を形成するものなのである。……『狂気の歴史』において彼はまだ、素朴な物の状態と命題との間の二元性におさまってしまうような狂気の「経験」にあまりにも依存しすぎた。『臨床医学の誕生』では、彼はまだ、対象的領野に対して、あまりにも固定的とみなされる主体の統一的な形態を前提とする「医学的視線」について語った。
 ……
 そして『考古学』の結論は、革命的な実践と一体であるべき、様々な生産の一般理論への呼びかけでなくて何だろうか。この理論において、行動する「言説」は、私の生と私の死に無関心な、ある「外」の要素において形成されるのだ。なぜなら言説的形成は真の実践であり、その言語は、普遍的なロゴスではなく、突然変異を推進し、またときにはそれを表現することもある致命的な言語なのだから。(p26)


 して、第2章「新しい地図作成者」。

 これはちょっとはおもしろかった。1975年の『監獄の誕生』においてフーコーは新しい権力論を生み出した。それまでのマルクス主義権力論が権力=国家権力=悪、という単純な図式しか描かなかったのに対して、フーコーは「権力は所有するものではなく、むしろ実践されるものであり、支配階級が獲得したり、保存したりする特権ではなく、その様々な戦略的位置の総体の効果なのだ」と看破した。このことをドゥルーズは

 この新しい機能主義、機能的分析は、決して、階級や闘争の存在を否定するものではなく、伝統的な歴史、あるいはマルクス主義的な歴史によってさえ私たちがなじみなっているのとは全く別の風景、別の人物、別の過程によって、階級や闘争の、別の光景を成立させるものである。 (p44)

 と評価する。「権力は等質性をもたず、様々な特異性によって、それが経由する特異点によって定義される」

 権力は本質をもたず、操作的なもの。属性ではなく関係なのだ。

 近代社会が規律社会であることを示したフーコーは、その規律が下部構造のみによって規定されるものではないと言っている。マルクス主義的な解釈によれば、上部構造は下部構造に規定されることになっているが、そのような下部構造一元回帰論では権力をとらえられない。

フーコーは、権力があらゆる領野の碁盤割りを実現する近代規律社会について説明するときに「ダイヤグラム」概念を持ち出す。そのモデルは「ペスト」である。いっぽう、古代王権社会のダイヤグラムはハンセン病がモデルだ。碁盤割りにするよりも追放することを目指す。

 ※メモ※
 ドゥルーズがフーコーから引き出したものは多面的で数多く、とても短くまとめられない。読み直してみるととてもおもしろい論考なので、これはまたいずれ再読しよう。
 ドゥルーズがフーコーを分析するときのキーワードは
 言表と可視性だ。この二つの概念はそれほど単純なものではない。どちらも相反するものであり、かつわたしたち人間は知を形成するときにこの二つに依存し、この二つを融合させる。簡単に言えばこの二つは「言語と非言語」なのだが、言語は言表に対して外部であり、光は可視性に対して外部である。 


<目次>

前書き

古文書(アルシーヴ)からダイアグラムへ
 新しい古文書学者(『知の考古学』)
 新しい地図作成者(『監獄の誕生』)

トポロジー、「別の仕方で考えること」
 地層あるいは歴史的形成、可視的なものと言表可能なもの(知)
 戦略あるいは地層化されないもの、外の思考(権力)
 褶曲あるいは思考の内(主体化)

付記――人間の死と超人について

訳注
解説


<書誌情報>

フーコー / ジル・ドゥルーズ著 ; 宇野邦一訳 : 新装版.河出書房新社, 1999