ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「生きて帰りたい」

2003年12月25日 | 読書
 中国残留日本人孤児の存在が広く知られるようになって久しい。引揚者の悲惨も現地に残された孤児たちの悲惨も、引き上げてきた親の苦しみも、たとえば『大地の子』(山崎豊子)などで知られて、とりわけTVドラマは視聴者の感涙を呼んだそうだ(わたしはTVも原作も読んでいない)。

 「満州」からの引揚者の手記といえば真っ先に思い出すのは、藤原てい『流れる星は生きている』だ。敗戦後すぐにベストセラーとなった鬼気迫るドキュメントは、戦禍を生き延びた同時代人の胸を打ち紅涙を絞った。
 このような「名作」の誉れ高い作品が現在もなお読み継がれているときに、なぜ改めて引揚者の手記なのか、とも思うかもしれないが、子連れで引揚げてきた苦労を体験した人々の数も少なくなった今、ふつうの人々がどのように戦争を体験し、何を見、何を教訓としたか、生き証人が死に絶える前に現代を生きる者たちが知ることの大切さを改めて痛感する。

 女ばかり7人が、合計7人の子どもを引き連れての逃避行。1945年8月9日、ソ連の参戦を国境の町で知った著者は、戦火を逃れて荷物も持たずに日本を目指して逃げる。だが、彼女には生後1ヶ月の乳児がいた。同じように乳飲み子を抱えた女たちが集団で引揚げていくさまは、文字通り筆舌に尽くしがたい労苦の連続である。

 日本へ帰国できるまでの1年間、筆者たちがどのように知恵を働かせ、懸命に生きてきたかの迫真の記録は、とても57年も経ってから書かれたとは思えない息を飲む細密な描写だ。

 本書には『流れる星は生きている』と同じように、乳飲み子を連れた女の地を這う闘いが描かれているし、道中にころがる死体、もはや動かぬ母親のしなびた乳房に吸い付き泣き喚く幼児、仲間の死、「満州人」からの侮蔑の視線、といった残酷な実態が描かれているが、一方でユーモアも随所に溢れている。
 どんなに悲惨な状況でも忘れないこのユーモアと著者のバイタリティによって読者は救われた思いがする。

 とりわけ可笑しかったのは、ある金持ち「満人」のエピソードだ。日本の支配下では満州国旗と日章旗が豪邸の門にはためいていたのだが、国府軍がやって来ると「祝、戦勝、蒋介石総統閣下」という横断幕が掲げられ、ソ連軍がやってくれば「歓迎、蘇聯軍、斯太林(スターリン)大元帥閣下」に変わり、中国共産党軍が支配者になれば「歓迎、中共軍毛沢東主席閣下」と変わる。その変わり身の早さと臆面もない追従には笑ってしまう。して、その金持ちはどうなったかというと……本書を読んでのお楽しみ。

 『流れる星は生きている』は体験がまだ生々しかったときの手記であり、そういう意味では当時の日本社会の差別意識を如実に反映した描写も多々あり、また、一緒に引揚げてきた仲間への悪感情なども整理されないままに描かれているため、読者をたじろがせるものがあった。
 それに比べて本書はやはり57年の歳月があとから意味付けたであろうと思われる著者の卓見が随所に描かれていて、共感を覚える。著者は自分達の身の上をいたずらに嘆いたり恨んだりするのではなく、日本の植民地支配がこのような悲惨をもたらしたことをちゃんと見抜いていた。

 イラクへの派兵という、軍隊を外国へ堂々と派遣しようとする今、戦争が生む悲劇とは、戦場の凄絶さだけではなく、銃後の苦しみもあるということを知るべきではなかろうか。戦争とは多面的・重層的な局面を見せるものであり、たとえ今は銃を撃ちに行くのではなくても、その結果がもたらすかもしれない災厄に想像力を馳せてみる必要があると思う。劣化ウラン弾という名の核兵器を使用したために米兵が苦しむ後遺症もまたその一つだ。

 ところで、こういった手記の場合、とかく「母性愛の強さ」が言及されるが、それは必ずしも的を射ていない。なぜなら、子を持たない女性も同じように共同生活を頑張り抜いたし、「母性」に人の生きる力を還元させてしまうことは短絡的だと言える。執念ともいえるような「生」への力はどこから生まれるのだろう。現代を生きるわたしたちにこの力があれば、少々の苦しみにも耐えていけるだろうにと思ってしまう。だからといって戦争はもう絶対にごめんなのだ。
 戦争で子どもを死なせた親達の無念と慙愧は一生消えない。その過ちと悲劇を二度と繰り返さないために、ぜひ本書を読んでほしいと思う。本書はとても読みやすく、一気に読み通せるおもしろさと魅力を持っている。もうすぐ自衛隊がイラクに派兵される今こそ、お奨めしたい。

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生きて帰りたい  妻たち子たちの「満州」
 平原社 2003 森田尚著


本格小説

2003年12月23日 | 読書
 水村美苗は『続・明暗』(1990年)を書いて有名になった文学者である。夏目漱石の未完の大作の続編を、漱石そっくりな筆致で書き上げたとして一部でえらく話題になった。

 そして、次に公刊した作品が『私小説』(1995年)だ。まさに私小説であり、水村の自伝ともいえる。だが、自伝と私小説は似て非なるものであるから、当然、事実がそのまま描かれているわけではないだろう。この手の小説を書くのは随分勇気が要る。作家というのは友人を減らす因果な商売だ。自分のことを書かれたのではないかと邪推する人々が後を絶たないだろうし、確かに身近な人間をモデルにすることはあるだろう。が、あくまでも創作なのだ、そのままを書くわけがない。でもモデルにされたほうはいい気持ちがしない。水村美苗の『私小説』にも彼女の家族が中心人物として登場する。実はほとんど彼女の姉の話だといっても差し支えないくらいだ。母にせよ姉にせよ、彼女が描いた家族像は、肉親にしかわからない愛憎相半ばする複雑な感情に支えられている。

発表されたのは『私小説』『本格小説』の順なのだが、わたしが読んだ順は逆だ。

 『本格小説』、これは新たな私小説のジャンルを切り拓いた作品といえるのではなかろうか。この小説は、物語本編が始まる前に長い長い序文がついている。気の短い読者なら、もうここでいやになって読むのを止めるだろう。まずここで読者は第一段階のふるいにかけられる。
 次に、長々と語られる東京成城の上流階級の人々の生活と、それを見る下々の視線。この語り口に嫌気が差す人ももう、上巻が終る前に脱落する。

 長い長い恋愛小説。だが、主人公二人の恋愛が始まるまでで上巻が終ってしまう。この本を恋愛小説だというコピーで売るのは間違いだ。これは戦後を生き抜いた血族の華麗なる栄光と没落の歴史であり、自己の血を憎み社会を憎みただ一人の女を愛した男の上昇と喪失の物語である。

 戦後史に興味のない読者ならば、途中で放り投げてしまうだろう。だが、上巻も読み進むにつれ、どんどん物語りに引き込まれ、下巻になるともう目が離せなくなるおもしろさに満ちたこの物語を、最後まで読んだ読者は二度驚かされてしまう。ここには、物語を一人称で語った語り部の女性の問わず語りが基底にあり、次にそれを聞かされた加藤祐介という若者がその話を作者の水村美苗に語ったということになっている。
 二重にフィルターのかかった物語を私小説として書く作家水村。その水村は、最初の語り部であった女性の語りを最後になってまったく異なる読みへと変えてしまうある罠をしかけている。
 最後になって、読者はもう一度小説の最初に戻って読みを訂正しなければならない羽目に陥る。このように、物語の意味を根底から変えてしまう転換を仕掛けた作家の周到な筆には感服する。

 説明口調のように長々と続く地の文なのに、それが退屈を生まず、かえってスルスルと読み進めてしまえる巧さ、構成の巧みさ。また、台詞には当時を生きた人々の生活がそのままににじみ出る懐かしさがふんだんに盛り込まれている。これはよほど膨大な資料に当たっていなければできない仕事である。
 戦後も半世紀以上を過ぎた今の社会では、人々のしゃべりかたも語彙も随分変わってしまった。その変わる前の昔の語り口をそのまま再現させている部分には作者の博識と多読ぶりが窺える。

 上記2作品はどちらも私小説という形式をとってはいるが、作風がかなり異なる。純文学の香り高く、より感動的なのは『本格小説』のほうだが、『私小説』を先に読んだほうが理解しやすい。


「ルポ解雇 この国でいま起きていること 」

2003年12月21日 | 読書
今の日本社会では、「能力による選別は差別」とは認識されていない。「能力に応じて働く」のはよいことだとされている。公正に能力に応じているのだから、能力のない者が負け組になるのは当たり前。そうなりたくなければ努力しましょう。この論理に歯向かうのはそんなに容易くない。

 そもそも能力とは何か。能力の有無は誰が決めるのか。ほんとうに「公正な競争」が保証されているのか?
 問題は何段階にも存在する。心身に障害のある人は? 病気になったら? 家族の介護が必要になったら? 企業は常にベストコンディションでフル稼働する人材だけを求める。働く者の不安などお構いなしだ。

 わたしの常日頃感じているこのような疑問や憤りを、本書はさらに強固なものにした。

 本書で明らかになる解雇の実態は驚くべきものばかり。経営側は「会社のものを盗んだ」「密輸の罪で逮捕歴がある」等々の嘘をしゃあしゃあと捏造する。問題は、嘘を嘘と立証する責任は嘘をでっちあげられた側にあるということだ。逮捕歴だの前科だのは、それがあるならば調べればわからないでもないが(それすら困難)、「逮捕歴がない」「前科がない」といった、「ないことの証明」はほとんど不可能に近い。

 驚くべきことに、労働事件を裁く裁判官の世界にも「不当解雇」や「職場のいやがらせ」はあるのだ。元裁判官のインタビューを通じて明らかになるその実態は、民間企業で行われる上司からのいやがらせ・配転をちらつかせての締め付け・理由を明示しない解雇などとまったく同じで、しかも枚挙に暇がない。

 だから、裁判官は不当な虐めや配転の憂き目に遭わないためには、労働事件を労働者側にたって裁いてはならないのだ。そもそも最初から、労働裁判は労働者側に不利なことだらけだ。労働者の労働実態を証明する資料はすべて会社が握っているのだから。上司ににらまれてまで会社に不利な証言をしてくれる同僚を探すのも難しい。

 今、若者が正社員になれずフリーター化することが問題になっているが、本書によれば、それだけではなく、地下水脈にうごめくような「闇の労働者」が増えているという。製造業種には派遣社員を雇用することが禁止されているため、法の目をかいくぐって、「請負」という形で別会社に作業を委託するのである。別会社(事実上の派遣会社)は、委託を受けた業務につかせるため、自社の社員を派遣する。建前は請負でも、実態は派遣であり、派遣された労働者は安い時給/日給で働かされる。請負先の正規のパート・アルバイト社員よりさらに下位に位置づけられ、陰惨ないじめにあい、簡単に使い捨てられるという。その詳細な実態を読むにつけ、底なし沼のように歯止めの無いこの国の首切り地獄に暗澹たる思いと怒りが湧く。

 仕事というのは派手で目立つことばかりではない。実際には地道な仕事を黙々とこなす多くの人々が支えているのだ。だが、熟練者から順にクビを切り、経費削減だけを追い求める経営陣。そんな実態の一つ、関西航業争議団のエピソードは胸を打つ。飛行機の安全にかかわる清掃・点検作業を黙々とこなす単調な労働。寡黙な労働者たちが、労組をもっているという理由だけで解雇される。だが、一見単純な清掃作業中に彼らは航空機の安全を左右するような不具合を見つけ出してしまう。何度も航空会社から表彰されたこともあるような熟練労働者なのに、自分たちの意のままに動かないとみるや、経営陣は彼らの首を簡単に切るのだ。

 著者は、経営者側のインタビューも行っている。オリックス会長宮内義彦氏の解雇への考え方、競争社会を肯定する論理は、なるほど経営者として首尾一貫した思想に貫かれていて、それなりにわかりやすい。だが、弱者への視点がまったくない宮内氏の楽観的な見解には背筋が寒くなるものを感じる。<一部のエリートによって豊かな経済社会を成り立たせ、世界の先進国の座を守る。落ちこぼれた者は仕方がないが、最低生活ライン以下になれば生活保護などの福祉で拾いあげる>。このような社会が果たしてほんとうに豊かで心安らげる社会なのだろうか。

 2003年6月に解雇ルールを盛り込んだ改正労働基準法が成立した。施行は目前の2004年1月1日。解雇におびえ、過労死の道へ続く労働砂漠をさまようこの国の働く人々にに未来はあるのか?

 解雇された人々は、時間と金をかけても名誉のために裁判を起こす。島本氏は「あらゆる解雇裁判は「名誉のための闘争」だ」(133p)という。現状は、働くことは生きる喜びだといえる社会とはほど遠い。

ルポ解雇 この国でいま起きていること
島本慈子著. 岩波書店, 2003. (岩波新書)


<死>をめぐる商売

2003年12月20日 | 雑記雑感
 先週、臓器移植問題の学習会に参加した。といっても、実際には「オール・アバウト・マイ・マザー」(スペイン、アルモドバル監督、1998年)のビデオを見ただけなのだが。ビデオを鑑賞後に喫茶店で食事しながらスペインの臓器移植コーディネーターについてレジュメを読んだりして少し勉強した。もっとも、いちばんよくおしゃべりしたのは映画の話題だった。この学習会は女ばかり4人が集まって小ぢんまりと開かれたのだが、結局みんな映画好きだということがわかって、映画の話に花咲いてしまった。

 「オール・アバウト・マイ・マザー」を見たのは二度目だが、一回目と随分印象が違うので驚いてしまった。わたしのシネマ日記には明るい作品であるかのように感想が書いてあったが、とんでもない、えらく暗い映画だったのだ。学習会では「ピピのシネマな日々」から本作のシネマ日記を印刷配布され、改めて自分の文章を読んですっかり忘れていた映画のことを少しずつ思い出した。作品を再見すると、ものすごく話がゴチャゴチャしていることが判明したし、いかに作り話とはいえ偶然が多すぎたりご都合主義的展開が随所に見られて、完成度の低さが目についた。でもラストがいいので、爽やかな印象が最後に残る。見終わってやっぱり、いい映画だったなと思わせてしまうところが憎い。

 その「オール・…」の冒頭に、臓器移植問題が描かれている。そもそも主人公のマヌエラという女性は臓器移植コーディネーターなのだ。そしてどういう偶然か、彼女の一人息子が脳死状態になり、医師にせっつかれて臓器移植を承諾するサインをさせられる。まさに、「させられる」のだ。しかも、非常に機械的に事務的にてきぱきと臓器のチェックや脳死判定が行われ、家族はあれこれ思い悩む時間も別れを惜しむ時間も与えられていない。臓器が運ばれるシーンも、精肉業者が肉を冷蔵パックで運ぶような感覚に思えてならない。
 死生観や宗教の違いなのか、あのように死者を扱うことはわたしには耐え難く感じた。
 
 初めてこの映画を見たとき、臓器移植コーディネーターの話はまったく印象に残らなかったので、「臓器移植問題について考えるヒントに『オールアバウト・マイ・マザー』を見ます」というメールを主催者からもらったときには解せなかったのだ。実際、映画の冒頭で臓器移植問題は触れられるが、あとの展開にはまったく関係がない。だから印象に残らなくてもやむをえない。
 アルモドバル監督はどうやら、<死と病>というテーマに執心しているようで、「トーク・トゥ・ハー」もそういう話がメインになっている。

 臓器移植問題でわたしは義妹の葬儀を思い出した。喪主である弟がどのような契約を葬儀会社と交わしたのかは知らないが、いろんなパックがあるのだろう。その中に、「湯灌」があったのだ。
 8畳ほどの広さの部屋だったろうか、通夜に先立つ湯灌の儀式に通されたのは近親者のみ。具体的には、弟、両親、わたし、義妹の両親と姉夫婦だ。遺族は椅子に座って湯灌作業を見守る。葬儀会社の人が二人一組で作業を行うのだが、作業を行う場所は畳敷き(2畳?)になっている。畳の上にビニルシートを敷きさらにその上に白い布を敷き、その上に乗った横長のバスタブ(ステンレス製か)に遺体が裸で寝かされ、上にはバスタオルがかけてある。湯灌作業の間じゅう、遺体の裸の姿は決して遺族には見せないように工夫されている。

 「ただいまより、ご遺族様になり代わりまして、わたくしどもがご遺体の湯灌をさせていただきます云々」という前口上を男性が畳の上に膝をついて厳かに申し述べた。わたしたちは黙っている。粛々と行事は執り行われる。まず、「逆さ水」。男性係員が、「このように、桶を右手に持ち、柄杓を左手に持ってご遺体の足下から胸に向かって動かし、水をかけてください」と説明する通りに、喪主から順々に儀式を執り行う。これは遺体を清める儀式であり、柄杓は必ず足下から胸元に向かって動かし、その逆をやってはならない。

 続いて、中年の男性と二十代くらいの若い女性が一組で作業を行った。彼らは白いシャツ、黒いスカート/ズボンに黒いエプロンをつけ、ゴム手袋をはめて遺体をシャワーで洗っていく。丁寧に石鹸をつけて足下から順に遺体を洗い、髪もきちんとシャンプーし、ドライヤーで乾かし、櫛で髪をとかして爪を切り顔を剃ってきれいに化粧を施す。頭を洗ってもらっているとき、気のせいか義妹はとても気持ちよさそうに見えた。一つ一つの手さばきがたいそう丁寧で、遺族としては、遺体を丁重に扱ってもらったことに満足感を得ることができる。

 資本主義はあらゆる私的領域を侵食しつつある。近年、家事の市場化の進展は目覚しいが、葬儀も市場化が進んでいる。本来ならば遺族の手で行う湯灌を、業者が代わって行うわけだ。遺族はただその儀式の手際のよさの前に鎮座ましまして茫然と亡骸を見つめるだけ。あれよあれよという間に遺体は清められ、美しく仕上げられる。葬儀を葬儀会社が行うなど、前近代にはありえなかったことだ。葬儀は近親者と村落共同体の中で執り行うものだった。それが、都市化の進展と資本主義の発達により、葬儀の市場化が定着した。そして、市場化はとどまるところを知らない。

 このように懇切丁寧になにもかもやってもらって、喪主は葬儀会社にサービスの対価を支払う。資本主義は需要のないところに需要を生み出し、あらゆる生活領域を市場にした。上記のように、本来ならば遺族の手で行うはずの行事もすべて葬儀会社まかせとなり、付加価値をたくさんつけた葬儀パックを喪主は買うことになる。

 ただ、この湯灌の儀式の間中、遺体は生きているとき以上に丁寧に扱われ、それはそれで遺族の感動と涙をそそるのだ。だが、同じ「死」をめぐる処置としても、臓器移植は遺体を「さっきまで生きていた人の身体」として扱わないという、丁重さに欠ける面が見られる。脳死を宣告された瞬間に遺体は物体と化し、てきぱきと腑分けされ、生命のあった者のかけがえのない肉体としてではなく、個別化され部分化された材料として扱われる。

 スペインの移植コーディネーターについて学習したところでは、臓器移植を遺族に数多く納得させたコーディネーターにはボーナスが出るとか、なんだか空恐ろしいような状況があるようだ。

 遺体も資本主義の手にかかれば金儲けの材料だ。葬儀も臓器移植もそういう意味では本質は同じ。わたしたちは今、そういう時代に生きている。  

「私小説」 (新潮文庫)

2003年12月18日 | 読書
私小説 From left to right
水村 美苗著 : 新潮社(新潮文庫): 1998.10

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 主人公水村美苗には二歳年上の奈苗という姉がいて、二人はそれぞれ13歳と15歳で家族とともにニューヨークに移住した。そのまま20年が過ぎ、彼女達は結局のところ、どうしてもアメリカ人になれなかった。そして30歳をすぎて結婚せず、かといってそれぞれの道で成功したわけでもない、延々と続くモラトリアム人生を無為に過ごすような毎日を送っている。そして毎日毎日数時間もの長電話が姉妹を繋いでいる。

 この小説のもっとも斬新なところは、横書きであるということ。そして、英語がふんだんに会話に登場し、日英語小説となっている点だ。英語がまったく理解できない読者には読めない小説だから、最初から読者層は限られている。とはいえ、高校生程度の英語力があれば楽に読めるような英語でもあるので、それほど恐れることはない。

 この小説を通して繰り返し何度も描かれているのは、異邦人の生きにくさだ。アメリカという国で、東洋人が生きていく辛さや屈辱感が作品のそこかしこに溢れている。日本人は自分が東洋人であることを意識しないが、アメリカへいけば日本人は韓国人とも中国人とも区別がつかない。わたしたちが黒人を識別同定できないように、アメリカ白人は東洋人を識別できない。日本人である美苗と奈苗姉妹は、自分達が韓国人と同列に扱われたことに激しい屈辱を感じるのだ。そのどうしようもない差別意識を内と外から眺めるような日々を送る彼女達は、永遠にアメリカ人にはなれず、かといってもはや日本人にも戻れない。

 揺らぎ揺らいで足を下ろす場所も身を落ち着ける場所も定めえない、彷徨の女たち。そんな美苗にも転機が訪れる。日本に帰る決意を固める日がやってきたのだ。『私小説』は、決して短い小説ではない。だが、小説の中で流れる時間はたった一日のことだ。延々と続くのは美苗の回想。20年にわたる水村家の人々のアメリカでの生活が描かれている。

 この小説に描かれたアイデンティティの揺らぎは、美苗やわたしたちの世代に特有の現象かもしれない。今の若者なら、アメリカへいっても美苗たちのように苦しむことはないだろう。作者とわたしが同世代だからか、共感を覚えたり同世代特有のノスタルジーを感じる部分が多い。
 典型的都市プチブルのお嬢様生活に慣れきった姉妹たちには異国で貪欲に生きていくガッツもなければ自分の才能へのこだわりもない。しかし上昇志向だけは身に染み付いて離れない。そのプライドと甘ったれ根性にひきかえた孤独。それを悲しい性(さが)と他人事のように嘲笑(わら)えるだけの冷静さをわたしはもてない。

「文明の内なる衝突」

2003年12月11日 | 読書
文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える
大沢 真幸著: 日本放送出版協会(NHKブックス): 2002.6

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 「9.11」から2年が過ぎ、日本国の首相は自衛隊をイラクに派兵することを決めた。9.11以降、さまざまな言説がテロをめぐって繰り広げられ、反戦も好戦も論議が入り乱れた。
「テロ」に対する有効な手立てがないままに左派は反戦を言いつづけたが、そこに漂う無力感は否定できなかった。それはなぜか。われわれは「テロ」をどのように捉えるべきなのか。この問いに答えるのが本書である。

 著者は冒頭、現在の社会哲学を三つの相互に対立する潮流に分けて整理し、それらを「社会哲学の三幅対(さんぷくつい)」と呼ぶ。簡単に言えば、前近代・近代・ポストモダンというこの三つの思想潮流は、実はいずれもが弁証法的に循環せざるをえない構造をもっているという。そして、その三つとも今回の「テロ」に有効な判断を提供できない。

 序章でこのように問題提起と整理をしたあと、大澤氏はイスラム教とキリスト教-資本主義の類似点と相違点を具体的に挙げていく。氏にいわせれば、資本主義も広義の宗教である。そして、イスラム教は実は資本主義に反するような教義を持つ宗教ではなく、むしろキリスト教の方が資本主義に反するような教義を持つ。ではなぜキリスト教が資本主義により親和的に働き、有利となったのか?

 この謎を解いていくくだりは大変興味深く、おもしろい。必然的に話は大きく抽象的になり、また一方より深く個人の内面へと降りていき、「恥」をキーワードに「他者」論を展開していく。少々茫漠とした話が繰り広げられ、それはそれでおもしろいのだが、一体どこへ着地するのだろうという不安もまた読みながら抱いてしまう。

 本書冒頭のわかりやすさが最後まで持続すればいうことなしだったが、明晰さが多少濁る部分があり(それだけ立てられた問いへの答えも答え方も難しいということだろう)、その分だけ★ひとつ減らしておくが、お奨めの書であることは間違いない。終章に大澤氏は、社会哲学の三幅対を乗り越え、イスラムと資本主義の対立を止揚する方途とその希望の道筋を語っている。亡国の首相に読ませたい。 (bk1投稿)