ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

人口ピラミッドがひっくり返るとき

2001年10月24日 | 読書
 一言で言えば、投資も国家の政策もすべては人口統計をにらんで行わなければならないという警告の書。
 日米のバブル沸騰もその破綻も、もとをただせば人口の多寡がその行方を左右したという。団塊世代(アメリカではベビー・ブーマー)が投資適齢期にあるとき、株価は上がりつづけ、バブル景気に沸いた。しかし、彼らが年老いていき、次の世代の人口が次々に減少していくとき、土地や住宅の需要は伸び悩み、もはや土地は投資対象でなくなる。年金は団塊世代の人間のためにすべて吸い取られ、次の世代(つまり、わたし!)は彼らの二倍の負担を背負わなければ、同じ年金額を受け取れないという。就職するときも投資するときも、人口統計をよく読み、次のマーケットの需要を先読みしろと著者はいう。経済政策・社会政策も、老齢者・貧困者に楽をさせてはいけないという。
 著者の発想の中には、「落伍者」は見捨てるというドグマがあるようだ。会社は株主のためにある。働く者のためではない。競争原理を否定しない。一人一人の労働者は統計数字としてしかみなされず、顔と人格をもった人間として把握されていない。明日の豊かな老後のために投資に走り、無限の競争にかりたてられ、働きすぎて人間性を失うことは危惧されていないようだ。
 現状変革の志はまったく見受けられない書ではあるが、たしかに一面の真理はついている。これからの暗い時代、問題は人口過剰ではなく、人口減少にあるという警告は耳を傾けるに値する。実際、うちの子どもたちには従姉妹が一人しかいない。わたしの両親の孫はたった二人。わたしが産んだ息子たちだけだ。わたしには従兄妹が11人いるというのに! こんな子どもたちにとって,従兄妹をはじめとする親戚というものの捉え方がわたしたちの世代とはずいぶん異なるだろう。
 本書の著者はこれからは階級闘争ではなく世代間闘争の時代だという。矛盾は階級間にあるのではなく、世代間にあると。その原因は少子化にある。少子化というのは実はものすごい大問題なのだが、いま政権の座にいる政治家たちはとりあえず目の前の懸案事項だけを片付ければいいと思っているので、50年後を見据えた政策が出せないでいる。わたしの子どもたちが大人になる頃、世の中どうなっているのだろう。彼らには明るい未来はないような気がする。まったくわれわれ大人の責任なのだが、この先、経済は先細りする一方だろう。いまこそ、「豊かな生活」の中身を問うて、経済成長だけを追いつづける夢を棄てるときがきている。
 株で儲ける株式資本主義ではなく、働く者が報われるあたりまえの社会を、と考えるのは古い人間なのか? むむむ・・・。

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人口ピラミッドがひっくり返るとき 高齢化社会の経済新ルール
ポール・ ウォーレス著 ; 高橋健次訳 草思社 2001年


伊田広行さんのシングル論

2001年10月12日 | 読書
 伊田さんが、かわいい象の絵をこの本の見返し紙に描いて、サインしてくださった(^^) 。


 彼のシングル単位論はとても魅力的だ。前から共感していたし、シングル単位こそが息苦しくなく生きていける途だと感じていた。だから、「シングル単位の社会論」を読んだ時には、ほとんど100%同感! 賛成! と思って、嬉しくなってしまった。ところが、続いて「シングル単位の恋愛・家族論」を読むと、ちょっとついていけないものを感じてしまった。そこのところを少し考えてみたい。


 そもそもこの2冊は、「性差別と資本制」(啓文社、1995年)をわかりやすく敷衍したもの。伊田さんの声が聞えてきそうな、アジテーションの書物だ。彼は本書の中で自分自身を露わにし、「僕」という一人称を多用して、読者に語りかける。読者に勇気を与える本だ。
 家族を分離不可能な単位とする社会は差別に満ちているという伊田氏の論は素直に肯定できる。家族愛イデオロギーがいかに女と子どもを抑圧してきたか、そのからくりを解き明かしてくれる。ただし、男女二分法が間違いだからといって、「男でも女でもなくシングル」という概念を対置するのは疑問符を付けたい。彼自身は、フェミニストもシングル単位論を理解していないと嘆く。確かに、理解は難しい。
 また、家族への愛を家族外へも広げようという意見も、空論に響く。わたしは我が子と他人の子を同じようには愛せない。これはどうしようもない事実だ。ただし、我が子への愛に限りなく近づくことは可能だ。これはわたしも実感している。なぜ我が子とよその子は同じでないのか。これは、我が子が自分に似ているゆえに、近しさを無条件に感じてしまうからだ。あるいは逆に、自分に似ているからこそ憎しみもわくということもあるだろう。子どもの父親に似ているということが生む愛憎の感情もあるだろう。つまり、血の繋がった子どもに対しては距離を置いて客観的な見方をするのが難しいということだ。もちろん、難しいとは言っても、できないということではないが。
 (ただし、この問題には、「血の繋がり」とは何か、親の子への愛情は「血の繋がり」によって一般的に説明できるのか、という問題が残る。が、ここでは触れない。)
 伊田氏は、「近代の徹底の先に近代を乗り越えるという二段階戦略」を提唱する。ポスト・モダンは時期尚早であると。ポスト・モダンが単なる価値相対主義に陥っている限り、政治的には無力で、結果として現行秩序の維持に役立っていると喝破する。「各人が、自分の利害関心にこだわって、闘うシングルに。あらゆる人はアーティストになりうる。幻想を幻想として意識する」。これが伊田氏の主張だ。
 「…社会論」には、シングル単位社会を成り立たせるための様々な制度改革が提唱されている。これはわかりやすい論だ。しかし、「…恋愛・家族論」になると、飛躍が激しく、観念の世界の話になってくるので、もう、感性がついていけるかどうかというギリギリの空想論に陥る危うさを随所に見せている。
 彼のラディカルな恋愛論は魅力的だし、それが実現可能なものならば、どれほど素晴らしいだろうと思う。「相手を束縛するな、嫉妬するな、恋愛は幻想だ、その幻想という物語が同調した場合に恋愛が成立することを自覚せよ、二者排他性を絶対視するな…云々」。これは、恋人同士が同じように二者排他性の無意味さを自覚していれば問題がないが、実際はそううまくいかない。
 嫉妬するなと言ってもそれは無理。伊田さん、わたしはそんなことはできないわ。相手を尊重し、できるだけ干渉しないようにする、これは大事だと思う。しかし、実際には恋しい相手のことはなんでも知りたいと思うだろうし、その人の大事な時間を削ってわたしのために使ってほしいと思うだろう。それを禁欲しなければならないことは理屈でわかっていても、それゆえ、苦しみは増すだろう。わたしの愛する人に、別の愛する人BさんCさんがいてもそれを嫉妬するな、干渉するな、むしろ、BさんやCさんとの豊かな関係を築けることを嬉しく思えって、そんなことできるもんですか!
 確かに恋愛は幻想だと思うし、幻想はいつまでも続かない。しかしこの幻想の持つエネルギーは異常に大きい。これに生涯を懸けてしまう人間だっているし、命すら捨てる場合もある。何もかも捨ててしまえるだけの力を持つこともあるだろう。それを「幻想」と言って片づけてしまえるものではないと思う。それができればどれほど楽に生きられるだろう。しかし、一方、苦しさや葛藤の代償に得るなにものかをもまた捨てることにならないか。

 それにしても、伊田氏のエロス論は、原田達氏のエロス論と随分違う。原田氏はエロスを「生の衝動」、「他者と共に生きることを促す原動力」だと定義する。他方、伊田氏は「結婚にエロスはない。「裏切ったら駄目」と誓い合い監視し合ってそれをおかしいと思わないカップルにエロスはない」、「エロスは力である。エロティックでありたい。だが、エロスが最高の価値という訳ではない。一つの価値にすぎない」と述べる。
 おなじエロスを語っているとはとうてい思えない。これはきっと、エロスを「関係」と見るか、「性愛の興奮システム」と見るかの違いだろう。原田氏はエロスに過剰な幻想と意味づけをしているような気がするし、伊田氏はエロスに快楽を見る。わたしはどう考えていいのかよくわからない。
 
 わがつれあいに、伊田さんの本を読むよう勧めよう。彼がシングル単位論にはまって明日から浮気に走ったらどうするかって? そりゃもう、即離婚だわ。あっ、伊田さん、「全然わかってない!」って怒らないで(^^ゞ

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「シングル単位の社会論」「シングル単位の恋愛・家族論」
伊田広行著 世界思想社 1998年