ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

サルトル研究は今でも続く

2004年11月14日 | 読書
 『サルトル(図解雑学シリーズ)』の著者永野潤氏の「サルトラ日記」がかなりおもしろいので、最近よく読んでいる(ちょっと前まで「HIMANIZM」というタイトルだったはずなのだが…)。特に「オンラインブックショップbaka1 売り上げランキング」は抱腹絶倒もので、わたしのお気に入りだ。 

 永野氏の『サルトル』の書評をbk1に投稿したのを機会に永野さんのBBSに書き込みして、同書に掲載されている写真を撮影された方ともお話した。ネット時代には著者と読者がダイレクトにつながるというおいしい思いをすることができるのだ。

 それにしてもサルトルの女たらしぶりには改めてあきれてしまった。ボーボワールとの自由結婚だって、要するにサルトルの浮気を合理化するものだという側面が強いみたい。わたしは好色な哲学者って好きなんだけど(笑)。


----------以下、bk1投稿書評------------

サルトル 図解雑学
永野 潤著 ナツメ社



 ポストモダン思想がもてはやされ、サルトル流の「主体」が解体されてしまった現在、サルトルの時代は終わったと言われて久しい。

 ところが、本書の著者永野潤氏はそうは思っていない。

【サルトルの思想が、重くまじめな「主体」の哲学である、というのは大きな誤解です。サルトルは、その思想の出発点から、「私」という殻に閉じこもる従来のまじめで重々しい哲学を批判し、「外に出よう」と訴えていました。……サルトルとサルトル以後の断絶はそんなに自明なことではないのです。】(はじめに)

 だから、まだまだサルトルから学ぶことはあるのだ。
 というわけで、サルトル入門書。これが実によくできていておもしろいから、ぐいぐい読んでしまう。
 
 見開き2頁で1項目。左が本文、右が漫画による図解頁。わかりやすい。サルトルの生い立ちに沿って彼の思想の変遷がコンパクトに語られる。初心者にはわかりやすく(といっても、それほど簡単なわけではない。やはりそれなりに難解な用語も出てくるのだが、それは右側の漫画が理解に役立つ)、サルトル経験者には格好のおさらい書となる。

 サルトルは生涯に亘って何度も自らの思想を否定し、新しい思想を紡いでいった哲学者だが、後知恵でいえば、いくつも誤りを犯している。決定的なのがソ連に対する評価だろう。
 例えば西永良成氏は、サルトルのことを「深く絶望しつつもあえて「希望を作り出さねばならない」と言い、かつての「思想の君主」の義務を律儀に果たそうとした——そして、そのような寛大さこそが否定しえぬサルトルの偉大さだった」(ミラン・クンデラ『無知』の訳者後書)と評価しつつも、サルトルは68年のプラハの春までソ連を擁護し続けたわけであり、そのことが「ソルジェニーツイン、あるいはクンデラなど東側の多くの人びとからは「自己欺瞞」、「責任の拒否」と感じられて当然だった」という。
 永野さんのこの本でも盟友メルロ・ポンティとの確執が取り上げられているが、『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡』を読む限り、非はサルトルにあると私は思う。永野氏もさまざまな表現でサルトルの過ちについて語っている。

 サルトルの間違いがさんざん指摘されているにもかかわらず、なぜ今、サルトルなのだろう。サルトルからとりわけ学ぶべきことは、その知識人論にあると著者はいう。

【知識人は自分のうちに矛盾をはらんだ、孤独な存在だ…。…サルトルは「既存の知識人を擁護したのではなく、むしろそれを批判しようとした。彼は、閉じた場所の外へ、世界へと関係するとき私たちは誰であれ真の知識人になると言おうとしたのである。その意味でサルトルが提起した知識人の問題は現代の私たちと無関係な問題ではない。サルトルにならっていえば、それは「われわれの問題」なのである。】(242p)

 「「テロとの戦い」という名目で最も豊かな国が最も貧しい国を報復爆撃する」ような現在、「サルトルを乗り越えたと自称する人々は、タコツボ的「専門家」か「偽の知識人」以上の役割を果たしているだろうか?」と著者は問う。これこそが、サルトルを読むことの意義だと著者が強調したい点だろう。

 改めてサルトルの思想をたどっていくと、確かに現代思想といわれるものとの類似性を驚くほど感じてしまう。やはり忘れ去られていい哲学者とは思えない。ただし、階級論の単純な理解/適応はもはや通用しないだろうし、啓蒙主義的な知識人のありかたについても再考の余地はあると思う。サルトルをどのように咀嚼するのか、何を教訓として引き出すのか、何を学ぶべきなのか、本書を閉じたあとにこそ課題は待ち受けている。



「ソラリスの陽のもとで」の新訳が出た

2004年11月12日 | 読書
 これは旧訳よりかなりいい。実をいうと旧訳本の印象はあんまり残っていないのだが、前に読んだときよりもかなり感動しながら読んだ。訳がいいのだろうか? 旧訳はロシア語版からの翻訳で、新訳は原典ポーランド語版からの訳出だから、原典に近いのだろう。ロシア語版で削除されていた部分も復活してあるし。

この作品に関してはタルコフスキー監督「惑星ソラリス」→ソダーヴァーグ監督「ソラリス」→旧訳『ソラリスの陽のもとで』→新訳『ソラリス』という順に鑑賞したが、いずれも標準以上に素晴らしく、とりわけタルコフスキーの映画は震える思いで見た覚えがある。DVDも買ってしまったし。
新訳本を読んだのを機会に、買ったまま未見だったDVDをもう一度見たい。

繰り返しのきかない決定的な過ちに再び遭遇したときの人間心理と倫理はいかにあるのか? そして、愛はそもそも何に向かうものなのか? 幻影を愛することはできるのか? 無意識の奥底に仕舞っておきたいものと遭遇させられるとき、人はいかようにその試練に耐えるのか?

本書のテーマは実に興味深い。多用な解釈を生む心理劇であり、かつ「科学」への懐疑と畏敬を含む作品だ。

この作品は、映画版ほどにはそれぞれのテーマが深められていないのだ、実は。タルコフスキーの理解もソダーバーグの理解もクリアで、原作からそれぞれの解釈を抽出し、原作以上に感動的に呈示している。

本書は巻末の訳者解説も充実していて、ほんとにお奨めだ。
これによると、原作者レムは、映画化された二作品ともに不満だったらしい。
でもねえ、そんなのは読者の勝手でしょ、とわたしはいいたい。
タルコフスキーの解釈もソダーバーグの解釈も、どちらもいいじゃないの。
それに不満を表明するなんて、原作者の特権とは言い難いと思うのですが、いかがでしょーか。

 ※映画「惑星ソラリス」評と映画「ソラリス」評はシネマインデックスから探してお読みください。

<書誌情報>

ソラリス / スタニスワフ・レム著 沼野充義訳 国書刊行会 2004

怪漢金俊平の生き様そのもののような骨太な文体「血と骨」

2004年11月08日 | 読書
 よくぞこんなすさまじい男もいたもんだと驚いてしまう波乱万丈の物語だ。

 骨太い文体は主人公金俊平のイメージそのものだ。暴力と酷薄と吝嗇だけに生きた男の生涯を、作家梁石日は叙情を排した文体で石に文字を刻み付けるように描いていく。作家自身の父のことだからだろうか、感情描写を極端に排した、<出来事の積み重ね>のみによって彼は父の生涯を物語にした。
 淡々とした文体には技巧も美しさもないのだが、性交の場面だけがどういうわけか入念に書き込まれていて、しかもその表現がけっこう陳腐なので苦笑を禁じえない。

 このような書きかたは、主人公金俊平に読者の誰もが感情移入も同化もできず、ましてや共感や同情など抱くことができないように仕組まれている。

 なぜこのような凶暴な男が存在するのか、その理由は誰にもわからない。金俊平の胸の内はほとんど描かれない。彼は最期まで謎の人物なのだ。

 こういう人間を見ると、わたしなどは「なぜこのような常軌を逸した心理を持つ人間が育つのか」とすぐに「原因」を求めたくなるのだが、そのような「生育歴に原因を求める」などという分析を一切あざ笑うかのような化け物として超然と金俊平は屹立する。

 なぜ梁石日は俊平の内面を描かなかったのだろう。なぜ彼をこのように粗暴なだけの男に描ききったのだろう。もちろん最後は孤老の憐れさを誘うのだが、作家は最後まで俊平に同情を寄せない。同情の気持ちをもてないのだ。
 しかし、この小説を最後まで読んだ読者は、金俊平の憐れな老醜に、自業自得という思いと同時に憐憫の情も抱いてしまうだろう。それは、最後まで誰にも心を開くことのなかった男の孤独があまりにも濁った光を放つからだ。

 家が貧しかったからとか被差別体験が金俊平をこのような怪物にしたなどという<解釈>の余地を許さないような、言語を絶する男の生涯にしばし呆然とするような小説だ。この怪物がけなげに寝たきりの愛人の世話をする場面だけが意外な心温まるエピソードとして挿入されているにもかかわらず、やはりその場面も淡々と描かれている。怪物の怪物たるゆえんか、このような場面ですら金俊平の毒は中和されたりしない。

 ところで、解放前の在阪朝鮮人の運動について描かれた場面は、わたし自身がかつて論文を書くために調べた事実が次々に頭に浮かび、懐かしさを覚えた。このあたりの描写は平板でおもしろみに欠ける。やはり直接作家が体験した戦後の朝鮮人長屋の描写ほどには生き生きとした魅力がない。

 映画「血と骨」のレビューはピピのシネマな日々をどうぞ。

「朝鮮半島をどう見るか」

2004年11月05日 | 読書
 なんで今までこういう本がなかったのだろう。
 目から鱗が落ちるとはこのことだ。本書の問題意識は極めて明確、明快、そして鮮やか。<朝鮮半島についての先入観を一切捨ててみたら、どう見えるだろう>。テーマはこれだけ。

 どうして日本人は、朝鮮半島について語るときに、ほかの国のように「普通」に語ることができないのだろうか。スリランカやモロッコの歴史を学ぶのと同じような態度でなぜ朝鮮半島のことを考えられないのか? と、著者は問う。
 本書は、朝鮮半島に興味をもった学生相手に語るという文体で一つずつ順に著者の「講義」が開陳されていく。

 いま、巷間、朝鮮半島に関する肯定・否定両方のステレオ・タイプ言説がまかり通っている。それらは思い込みによって導かれた論であり、不毛な論争が展開にされているにすぎないということを、著者は具体的な数字を挙げて論証する。

 まずは、朝鮮半島の大きさ、人口から。朝鮮半島は小さいのか? 地理的にも、経済的にも韓国と北朝鮮はほんとうに小さな国か? GDPは、軍事費は? そして、朝鮮半島は小国だから植民地にされたという思い込みも本当だろうか? それを明らかにするために、著者は植民地時代の人口統計を引用する。

 日本と朝鮮半島は運命共同体か。グローバル時代になぜ朝鮮半島が運命共同体といえるのか。単に地理的に近いという以外に韓国や北朝鮮が日本と特別な関係を結ぶという意味は本当にあるのか? 朝鮮半島についてだけ、なぜ特別視するのか?

「サッカーの試合を観に行ったはずなのに日韓友好についてしか語らない人や、自分の最愛の人を語るときに「私の妻は朝鮮人だ」としか表現できない人は、どこか不自然だ。それは、彼らがサッカーの試合そのものや愛するその人を見ていないからだ。彼らが見ている尾は、試合や最愛の人の背後にイメージされている朝鮮半島、しかもステレオタイプと化した朝鮮半島の姿だ」55p

 このように、著者は繰り返し「ステレオ・タイプ」や「思い込み」を批判し、具体的に反論していくのだ。

 たとえば、朝鮮人は強い民族意識を持っていると思われているが、それは本当だろうか。
 歴史的に見て、激しい民族闘争が行われてきたのだろうか? それについても、植民地下で起こった反帝闘争を他の植民地での闘争と犠牲者の数を比較して述べていく。朝鮮での反日運動は、一時的に激しくなっても、すぐに消滅してしまうというのが著者の結論だ。それについては、血なまぐさい弾圧だけが闘争敗北の理由とは思えないという。彼らは、強い民族意識を持っていても、しょせんは大国にかなわないという諦めをもってしまうのだ。「朝鮮半島の人々の中には、民族意識と「小国」意識が同居している」(99p)

 植民地支配についての賛否両論の評価についてはどうだろう。確かに日本の植民地下において経済発展したけど、政治的権力がなく外国人に支配されているという状況が果たしてよいことだろうか。自分が当時の朝鮮半島に暮らしていたらどう感じるかを考えてみることだ。それが判断の基準になるはず、と著者はいう。
そして、植民地支配が終わって半世紀がすぎてもいまだに朝鮮半島との関係がこじれているのは、「和解の儀式」ができなかったことに原因がある。朝鮮は自力で解放されなかったし、日本は朝鮮人に負けたとは思っていない。そこに不幸なボタンの掛け違いがあるという。

【私たちは、「過去」にかかわる問題がなんらかの方法により解決可能だと安易に考えるのではなく、「過去」にまつわる議論とともに生きなければならないという「現実」を覚悟する必要がある】(146p)

最後に、北朝鮮についての考察が述べられる。飢餓が国を崩壊させるか? それはありえないというのが著者の結論だ。人はお腹が空きすぎたら、首都へ出かけてデモするよりも食糧を求めて亡命するほうを選ぶ。飢餓によって政治体制が崩壊するなどというのは誤りだというのが著者の見方だ。そして、最近の「北朝鮮が目指しているのは体制の保障を得ることであり、経済援助は二の次だ」から、北朝鮮がこわいのはアメリカによって体制を潰されることである。ただし、今後、北朝鮮の体制が崩壊するのかどうか、なんてわからない。わからないことの理由は情報が少ないから。少ない情報で安易に結論を出すな、と。
 なるほど、専門家でもやっぱり判らないことは判らないのだ。

ここまで、著者は様々な統計を駆使して「韓国人は」とか「日本人は」などというものの言い方をしてきたのだが、最後に、「どこにもいない「平均的で典型的な韓国人や朝鮮人」など探すな。一人ひとりの現実を受け止め、多様な現実をそのまま受け止めること」が大切だと述べている。わたしがもっとも共感したのはこの部分だった。

 本書は、朝鮮半島に反ついて考える格好の入門書・啓蒙書だ。ただ、これを読んだからといってそれほど革命的に見方や考え方が変わるわけではないというところが残された問題だろう。なるほど、数字を挙げて具体的に論証された部分についての偏見や謬論については正せるかもしれない。しかし、数字や事実で揺らがない人々の感情や意識、主義主張というものもまた確かに存在する。

「「交流による解決」という魔術を信じて半ば人任せにして放置すること」(146p)は、決して日本と朝鮮半島の人々にとってよいことではない。本書はあくまで入門書なので、「残された問題」についてはまた別のところで考察していく必要があるだろう。


(以上を1600字に以内に短くしてbk1に書評投稿)


笑いながら読了。

2004年11月02日 | 読書
 10月31日のブログにも書いたけど、笑いながら読み進めて最後まで笑っていた、大ケッサクな社会学講座だった。こんなおもしろい統計漫談も類書がないのでは。

とにかくおもしろすぎるわ。

毎回、講義の最後にまとめがあるのだが、これがまたケッサク!
「夏季限定首都機能移転論」のまとめには、

「相田みつをに癒されている間にも、地球環境や社会情勢は悪化しています」
「社会学者と心理学者が組めば、世界征服も夢ではありません」

などと書かれている。

全編これブラックユーモアに充ち満ちて、しかもそれらがきちんと統計に基づいた科学的な卓見なのである(ほんまか)。

間違いなくおもしろい。絶対お奨め。今年のベスト3に入れてしまおう。