ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

ウォンテッド

2008年09月30日 | 映画レビュー
 やっぱりアンジェリーナ・ジョリーは怖くて強ぉ~いお姉さん役が似合ってます。「グッド・シェパード」で耐える妻を演じていたけど、柄じゃない。

 編集が斬新で映像がスタイリッシュ。たいへん小気味よい天衣無縫のアクション映画で、わたくし、満足いたしました。しかも、物語がそう単純なものではなく、いったい何が真相だったのか最後まで判然としない。曖昧さを残したラストはシリーズ化への布石か?

 配役ではアンジェリーナ・ジョリーがトップにクレジットされているけれど、主役は「つぐない」でいい演技を見せてくれたジェームズ・マカヴォイ。彼が演じる冴えないオフィス労働者ウェスリー・ギブソンが、嫌なデブの女性上司にいたぶられてブチ切れる様子がとってもリアルでかつデフォルメぶりが面白可笑しい。

ウェスリーはgoogleで自分の名前を検索してみるが、一件もヒットしない。無名な自分にがっくりくるウェスリー。ちなみにさっきgoogleで”Wesley Gibson”を検索したら山のようにヒットした。大丈夫だよ、ウェスリーくん、君も映画に主演したおかげで超有名人です。

ウェスリーはパニック症候群に罹っているため、精神薬が手放せない。今日もまた薬局へ薬を買いに行ったのである。ところが今日はいつもと違った。いきなり妖艶な美女に腕をつかまれ、ドラッグストアで銃撃戦が始まった。謎の男(きゃーっ、わたしの大好きなトーマス・クレッチマンよ! なんで悪役が多いの? 早くかっこいい主役をとってね)に命を狙われたウェスリーは、アンジェリーナ・ジョリーに助けられ、暗殺集団「フラタニティ」のアジトに連れ込まれた。そこは織物工場。ウェスリーの父は「フラタニティ」で最高の腕を持つ暗殺者であり、ウェスリーもまたその血を引く特殊な才能を持つ者であると知らされる。父を殺した男クロスこそがさっきウェスリーを狙った男だった。ウェスリーは冴えないサラリーマン生活をやめて過酷な訓練の末、暗殺者へと成長する……

 まー、とにかくアンジーのアクションスタントにはびっくりですよ。こんなに銃が似合う女優もあんまりいません。あの恐ろしげなたらこ唇を尖らせて隈取りくっきりの厚化粧目をひんむいてガンガン撃つんだからそれだけで怖い。疾走する車から半身(以上)乗り出して撃ちまくる場面なんぞ、アクション映画のベスト10に入れたい。この映画のアクションは全編にわたってやりたい放題、生身アクションとCGを実に巧みに融合させているため、画面がスムーズに展開する。編集者デヴィッド・ブレナーに拍手。

 ここで大いなる謎は1000年の歴史を持つという暗殺者集団「フラタニティ」のシステム。暗殺のターゲットを決めるのは織機が織り出す布に隠された暗号で、その暗号をボスのモーガン・フリーマンが解読する。そもそもその指令はどこから来るのだろうか? 組織の全容は最後まで明らかにされなかった。それなのにウェスリーは自ら進んで暗殺者になろうとする。ターゲットをなぜ殺さなければならないのか、彼にはわからないのに、それでも殺してもいいのか? しかし、躊躇は許されない。いつしかウェスリーは思考停止の暗殺者へと「成長」していく。弾道を曲げるという信じられない才能を持つウェスリーは、驚異の体力と精神力で次々と難関を突破するが、とうとう父を殺した敵と相まみえることになる。相手もやはり弾道を曲げる能力を持っていて、二人の格闘はものすごいスケールの大きなアクション。弾丸と弾丸がぶつかってへし曲がるシーンは見物。その上、列車が高架から落ちる場面なんぞ、いくらCGを使えばなんでもできるとはいえ、圧巻。

 絶対的な命令に従ってただ黙々と冷酷な殺しを完遂するという任務にはやはり裏があった。その裏を知ったとき、ウェスリーはどうするのか?



 冴えない若者がスーパーマンに変身するというパターンはスパイダーマンと大筋は同じ。しかし、かなりテイストが違う。スパイダーマンはお子様向きだが、本作は大人が楽しめる作品だ。会社システムの中で自己の才能を生かし切れない多くの若者には共感を持って受け入れられる素地を持つ。と同時に、そういう不平・不満の隙を突かれたとき、人は簡単に「違う自分」への変身願望へと駆り立てられていく怖さにどれだけの観客が気づいてくれるだろう? ふと、秋葉原で大勢の人々を殺傷した若者のことが思い浮かんだ。ウェスリーも秋葉原の殺人者も同じ心理機制によって「違う自分」へと飛び立ったのではないか?

 そう考えると、単なるアクション映画とはひと味もふた味も違う後味を残す。今年の娯楽アクション大作は「ダークナイト」といい「ハンコック」といい本作といい、なかなかの出来です。特に「ダークナイト」と「ウォンテッド」はお奨めね。(R-15)

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ウォンテッド
WANTED
アメリカ、2008年、上映時間 110分
監督: ティムール・ベクマンベトフ、製作: マーク・プラットほか、製作総指揮: ゲイリー・バーバーほか、原作: マーク・ミラー、J・G・ジョーンズ、脚本: マイケル・ブラントほか、音楽: ダニー・エルフマン
出演: アンジェリーナ・ジョリー、ジェームズ・マカヴォイ、モーガン・フリーマン、テレンス・スタンプ、トーマス・クレッチマン

ビー・ムービー

2008年09月28日 | 映画レビュー
 我が家の裏庭にはしょっちゅ蜂が飛んでいる。S次郎が小学生のとき、刺されて病院へ行ったこともある。あまりによく飛んでくるからどこかに巣があるのかと思って探したら、ウッドデッキの上に置いてある木製テーブルの裏側にあった、なんていうことも。ウッドデッキの床板の裏側に巣を作られたこともあるし、驚くべきことにエアコンの室外機の中が巣になっていたこともあった。

 蜂というのは生命力が強いものらしい。追っ払っても巣をいくら潰してもまたいつの間にかやってくる。しかし、まだ足長蜂とか密蜂ならいいけれど(いえ、彼らに刺されても十分痛い。経験者は語る)、なんといっても怖いのはスズメバチ。これが出てくると固まります(大汗)。わたしなんて、ガーデンニングしていてスズメバチがやってきたら、絶対に動かないことにしている。しかし、スズメバチは山に出没するものであって、なんで町中に出てくるのかわからない。今年初めて一匹だけスズメバチを庭で見つけたときにはびっくりしたが、これは地球温暖化と関係あるのだろうか? いや、あれはスズメバチではなかったと自身の誤認を信じたい(というのは妙な日本語である)。



 それはともかく。

 この映画、えらく説教くさいからてっきりディズニー作品だと思ったら、ドリーム・ワークスだった。「シュレック」のような毒に欠けるが、その一方でディスニーをコケにすることを相変わらず忘れない。何より、役者や歌手が本人役で登場してかなりエキセントリックな役を演じる(声優で)というのが驚きだ。

 主人公は大学を出たばかりのバリーという働き蜂。ここは、高度にシステマティックな蜂の世界で、大学を出た蜂たちは必ずどこかの部署に就職せねばならず、しかも一度決めた仕事は一生同じ事をし続けなければならない。そんなことはイヤだ、外の世界を見てみたいよぉ~という甘えたことを考えたモラトリアム人間、いや、モラトリアム蜂のバリーは単身、外の世界つまり人間界へとやってきた。人間の言葉をしゃべれる蜂であるバリーは自分の命を救ってくれたやさしい女性ヴァネッサにタブーを破ってついつい話しかけてしまう。ここからは蜂と人間との心暖まる交流が始まり、その一方でミツバチの密を搾取する食品会社を訴える法廷ものへと様変わりして… という、けっこうめまぐるしいお話。途中、かなりディズニーのアトラクションっぽい場面が登場したり、スピードあふれるジェットコースタームービーは子ども向けに楽しい。

 だが、最後まで見ると、これは子ども向けというよりは若者向けの説教話であったことに気づく。ニートだフリーターだのと辛い日々を送る若者を叱咤激励する…いや、待てよ、そうではなくて、どんなにつまらなく思える仕事でも、それは社会にとってはなくてはならないものであり、必ず誰かがその仕事をしなければ社会は機能しないのだというイデオロギーを注入することによって、近代分業社会の厳しい労働への適応を諭す資本家的発想映画か。いや、そうではなくてこれはいつの時代でも必要な…などとあれこれ悩んでしまったわたしってバカじゃなかろか(^_^;)。

 本作は、意図と結果が解離する皮肉を描いて、「正義がいつでも正しい」とは限らないことを指摘した点はなかなか深いものをもっている。最後は環境問題に落ち着かせた点でも現代的。子ども向けアニメと侮るまじ。(レンタルDVD)

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ビー・ムービー
BEE MOVIE
アメリカ、2007年、上映時間 90分
監督: スティーヴ・ヒックナー、サイモン・J・スミス、製作: ジェリー・サインフェルド、クリスティーナ・スタインバーグ、脚本: ジェリー・サインフェルドほか、音楽: ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
声の出演: ジェリー・サインフェルド、レネー・ゼルウィガー、マシュー・ブロデリック、ジョン・グッドマン、クリス・ロック、パトリック・ウォーバートン、キャシー・ベイツ、レイ・リオッタ、スティング

パコと魔法の絵本

2008年09月27日 | 映画レビュー
 交通事故の後遺症で一日しか記憶がもたない7歳の女の子の話だから、いちおう研究会「記憶の会」のメンバーとしては押さえておかなくてはいけない作品だと思って見たのだけれど、記憶障害の話はほとんど関係なかった。というか、「その人にとってかけがえのない存在とは何か」をこっそりと問いかける切ない映画であった。とはいえ、表層的にはとにかくど派手な画面展開に船酔いしそうな楽しい映画でした。

 中島監督の「嫌われ松子の一生」を未見だから、比べることはできないし、前作のファンとは違うスタンスでこの映画に臨んだわたしとしては、あの、「嫌われ松子の一生」みたいな頭が痛くなるような極彩色画面は期待していなかったのだが…。そもそも、「嫌われ松子の一生」を見ていない理由はそのどたばたぶりに疲れるだろうという予断があり、病気は予防が一番。てなわけで、疲れる画面は遠慮していわけで。ところが、本作は登場人物たちが最後にはCGアニメと化して暴れまくる、目が痛い目が回るワンダーランドであった。こんなにPL花火大会2連発みたいな映画とは思っていなかったよ。でも見終わったら感動していたから不思議。

 物語の舞台は一風変わった病院。ここは医者も看護婦も入院患者もみんなちょっと変。いや、だいぶ変。そこには一代で莫大な財を築いた偏屈老人大貫がいて、心臓発作で入院していたのだが、ふだんは至って元気で「おまえが私の名前を知っているというだけで腹が立つっ」を口癖としている。人に名前を覚えられるのを毛嫌いしているくせに、記憶が一日しか持たないパコの記憶になんとか残りたいと必死になるところが大貫老人のかわいいところ。パコは毎日毎日「今日はわたしの7歳の誕生日なの」と言って、ママからもらった絵本を読んでいる。恐ろしげな大貫老人はそんなパコにいつしか毎日絵本を読み聞かせるようになる。パコは老人のことを何も覚えていないのに、「あれぇ? おじさん、昨日もパコのほっぺに触ったでしょう?!」と、大貫の手の感触をなぜか覚えていて、嬉しそうに言う。大貫の手は、実はパコのほっぺを殴ったのだ。しかし、パコに愛情を寄せるようになった大貫老人は毎日毎日パコの頬に手を当てるようになる。いかつい老人が愛らしい少女の屈託のない笑顔に心を解き放ち安らいでいくというありがちなお話だけれど、これが大人を泣かせるから不思議。

 身体じゅうピアスだらけの厚化粧看護婦を土屋アンナがドスを利かせて怪演。元人気子役いま落ちぶれた役者を演じた妻夫木くんも相変わらず情けなくていい。しょっちゅう自殺未遂を繰り返しては入退院。この二人のからみも最後は泣いてしまいましたよ。みんな辛い思いをして生きているんだよ、だからこそ頑張ろうよという実直でまっとうなメッセージに思わず涙。

 そして国村準の「オカマ」にも度肝を抜かれたし、最後の劇中劇は勢いで突っ走って「もうどこへでも連れて行って!」と叫びたくなるような総天然色(ていうか、作り過ぎの色)大爆発の世界。これまた堪能しました。

 劇場内あちこちから子どもたちの笑い声が上がっていた、子どもが笑い親が泣く映画。

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パコと魔法の絵本
日本、2008年、上映時間 105分
監督: 中島哲也、製作: 橋荘一郎ほか、原作: 後藤ひろひと(舞台『ミッドサマーキャロル』)、脚本: 中島哲也、門間宣裕、音楽: ガブリエル・ロベルト
出演: 役所広司、アヤカ・ウィルソン、妻夫木聡、土屋アンナ、阿部サダヲ、加瀬亮、小池栄子、劇団ひとり、山内圭哉、國村隼、上川隆也

おくりびと

2008年09月23日 | 映画レビュー
 初めて納棺の儀式を見たのは5年前に義妹が亡くなったときだ。そのとき、湯灌の儀式というものを初めて間近で見た。この映画を見ながら思い出したのは業者の手によって義妹を納棺してもらった、そのときの様子である。確か、「よしなしごと」に冠婚葬祭の市場化について書いたと思ったのだが、思い出せなかった。やっさもっさして古い記事を見つけ出し、ブログに復活アップした。
「死をめぐる商売」
http://blog.goo.ne.jp/ginyucinema/e/911148a1e67b7d50967e6798435e25e7 
もう5年前の記事なんだ(しみじみ)。5年前、湯灌・納棺という儀式をプロの手に委ねることに違和感を感じて「資本主義もここまでゆきついたのか」と批判的に書いたものだが、この映画を見てイメージが変わった。

 納棺師という職業は歴史が浅い。ついこの前まで(戦後20年ぐらいか)、湯灌は遺族の手で行われていた。それがいつの間にかプロのサービスへと変化した。劇場用パンフレットによれば1969年頃に函館で漁船が沈没する事件があり、30以上の遺体を納棺する際、地元の花屋が手伝ったのが始まりという説もあるという。

 5年前、プロの手によって淡々と行われる湯灌に対してわたしはどこか職業的な手際のよさ(よすぎる)ものを感じたものだが、この映画ではその手際が芸術的にまで昇華して描かれるため、むしろ厳粛な気持ちになり、背筋が伸びる思いがする。

 「おくりびと」とは納棺師を指す。人は誰もが必ず死に、いつか必ず「おくられる」立場になる。おくるひと、おくられるひと。送る遺族と送られる死者の間に立ってその儀式を執り行うのが納棺師だ。主人公小林大悟は東京でオーケストラのチェロ奏者であったが失業して、妻と共に郷里山形に帰ってくる。そこで大悟が就いた新しい職業は、旅行会社と間違って面接を受けた「納棺屋」の社員。ベテランの社長の下で大悟はとまどいながらもいつしかプロとしての職業意識に目覚めていく。だが、死者を扱う仕事に対する偏見は根深い。最愛の妻にも自分の職業を告げることができず悶々とする大悟だった…

 これは死を巡る仕事を真正面から取り上げた数少ない作品だ。葬儀といえば伊丹十三の「お葬式」があるが、あの「お葬式」の主役を演じた山崎努が今回は納棺師の社長役。この社長がフグの白子を網で焼いて湯気の立つ熱々を実に美味しそうに食べる。このあたり、伊丹作品へのオマージュともとれる。伊丹監督も食べることが大好きな監督だった。「たんぽぽ」など、食をめぐる作品が印象深い。

 食べることも死ぬことも、わたしたちは避けることができない。生き物の死がなければわたしたちは生きていくこともできない。「おくりびと」を見てその当たり前のことに改めて気づかされる。死んだ生き物を食べてわたしたちは生きる、しかもその死んだ生き物が実に美味いのだ、困ったことに。この台詞が巧い。この映画は脚本がいい。含蓄に富み、死について様々な思いを想起させる箴言とも言えるような台詞がぽんぽんと登場する。しかも、その台詞を語る役者たちがまた上手い。

 湯灌・納棺という儀式には日本的死生観が反映している。死者を生きているときと同じように扱う、いや、生きているとき以上に美しく見せることの意味は、死者が「あの世で生まれ変わる」ために必要なのだ。湯灌にしても、身を清めてあの世へ行く。あの世へ行く門番が焼き場の職員でもある。納棺師にせよ火葬場の職員にせよ、死にまつわる仕事は忌み嫌われることが多いのではなかろうか。地方によっては、死者を焼く仕事に就く者を蔑称で呼んで差別したということを25年以上前に聞いたことがある。

 そういう意味で、この映画は、誰もが必ずいつかはお世話になる「納棺、葬儀、火葬」という人生の最後を司る人々の縁の下の力持ちにスポットライトを当てた画期的な作品なのだ。このレビューの冒頭、葬儀の市場化について違和感を感じたと書いたが、一方でこの映画の主人公小林大悟のように、納棺師という職業に意義を感じてプロとしての矜恃を持つに至る姿を見ていると、どんな職業でもやはりプロとして凛とした仕事をしている人は美しいと素直に感動できる。大悟が遺体に心を込めて接し、装束を着せつける場面の深閑として美しいこと! たたずまい、指先にまで行き届く細やかな神経、衣擦れの音、すべてが端正に整えられ、「死」というものの厳粛さを実感させる。と同時に、腐乱死体を納棺するという、「やりたくない仕事」も引き受けねばならない納棺師のつらさもまた迫ってくる。

 死は厳粛でもあり醜いものでもあり、それは遺された人々の心構え一つで変わってしまうものなのだ。だから、「死」を考えることは「生」を考えることであり、納棺や葬儀という儀式は死者のためにあるのではなく遺された者達のためにあることを思えば、まさに人生の最後に見えてくるものは人と人との関係性の濃淡である。死者を美しく飾りたいという願いは遺族のものであり、そう願うのは愛ゆえ。遺族の愛を受け止めて納棺師はその愛を儀式の形で昇華させる。死者の生前の人間関係がすべて凝縮して現れる葬儀の場こそ、わたしたちはそこで悲喜劇を見ることになる。

 ところで、義妹の葬儀のときの湯灌のような、全身シャワーや洗髪のような儀式はこの映画では行われなかった。土地柄のせいなのだろうか? 土地柄と言えば、この映画は冬から春へと移り変わる山形の風景も美しい。大悟と幼い頃に彼を棄てた父との情愛、葛藤というドラマはありきたりで結末まですべて予想通りなのだが、それでもやっぱり泣かされた。死について考えさせられる、静かな感動に満ちた映画。身近な死者を送った人なら必ず琴線に触れるものがあるだろう。


 ネット上では広末涼子が大根だという評がいくつもあったが、わたしはそうは思わなかった。固い演技がかえって世間知らずのお嬢様の雰囲気を地のままにかもしだしていて、この映画には合っているように思う。いい味を出しているのは余貴美子であり、相変わらず美味しい役をもらっている笹野高史だ。脇がいいので、映画全体が締まっている。

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おくりびと
日本、2008年、上映時間 130分
監督: 滝田洋二郎、製作: 信国一朗、脚本: 小山薫堂、音楽: 久石譲
出演: 本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子、吉行和子、笹野高史、杉本哲太、
峰岸徹

『新聞と戦争』

2008年09月21日 | 読書
 最近読書日記を書かないのは、面倒くさいというのが一番の理由だが、それ以外にも、学生たちがコピペして安直にレポートを提出することが横行しており、わたしのブログからもコピペしていく者が後を絶たない様子にうんざりしたからでもある。勉強の第一歩は「書き写すこと」だと思う。だから、小学校のとき、最初に教えられることは板書を書き写すことだったはず。手で書き写すなら勉強になると思うが、コピペではまったく本人のためにならない。

 まあ、でもコピペしてもらえるというのは名誉なことであると喜ぶべきかもしれない。

 それはともかく、久しぶりに本の感想を少し。とても読みやすく面白いので、お奨めします。



 この本、思ったより大部なので大学の後輩A記者が書いた第7章だけを読もうと思ったのだけれど、ついでだからまあ1章だけは読んでおこうかと思って読み始めたらおもしろくて止められなくなった。新聞の戦争責任を自己批判するというこの企画は、朝日だけのものなのだろうか? ライバル毎日新聞はこういう企画をしていないのだろうか。

 元の新聞連載を読んでいなかったのだけれど、よく調べて書いてあるのには感心した。さすがは大朝日の記者ですな。連載ものを集めたために、各回の文字数が一定で、レイアウトがすべて同じ。見開きの2ページ左側には写真が掲載されているという体裁がなかなかによい。この写真も貴重なものばかりだ。有名な写真もあるが、初めて見る写真がほとんどなので新鮮だった。各回読み切りなので、どこから読み始めても困ることはない。とはいえ、やはり第1章から順に読むのが理解が深まっていいと思う。

 ほとんどの章が興味深かったが、特に肉弾三勇士の下りが面白かった。というのも、葉っぱさんから寄贈を受けた亡き御尊父のアルバムにこの肉弾三勇士の写真があったから、目に焼き付いていたので。大阪朝日が「肉弾三勇士」と呼び、大阪毎日は「爆弾三勇士」と呼んだという。両社が競い合って肉弾三勇士の歌を読者から募集し、同じ日に当選者を発表したというあたりのむき出しのライバル意識には笑えた。しかも、堂島川を挟んで両社が連日「肉弾三勇士の歌」と「爆弾三勇士の歌」を流して、話し声も聞こえないほどうるさかったというのには二度笑った。

 巻末に特集章があり、これは連載が終わってから識者のインタビューなどを掲載したもの。このインタビューがまた興味深かった。
 この続きの連載がまた朝日新聞で企画されているという。楽しみである。
 
<書誌情報>
新聞と戦争 / 朝日新聞「新聞と戦争」取材班著. 朝日新聞出版, 2008

幸せの1ページ

2008年09月20日 | 映画レビュー
 ひきこもりの女性作家が、海の果ての孤島に住む少女を救うために勇気を振り絞って大冒険に出るというお気楽な女版インディ・ジョーンズ。気軽に楽しめる作品だけれど、この手の物語は暗黙のうちにあるイデオロギーが込められているから要注意。引きこもりを嗤う陰湿さや、引きこもりを「悪」と決めつける価値観が隠されていることを頭に入れた上で見る必要があるのでは。そもそもなんで作家が引きこもりになったのか、その理由も明らかにされていない。


 アレックス・ローバーという冒険家を主人公にした小説を書いている女性作家アレクサンドラ・ローバーは、自分の書く主人公とは大違いの外出恐怖症。しかし、インターネットでネタ探しをしているうちに、無人島に父親と二人だけで住む少女ニムが危機に陥っていることを知り、彼女を助けるために旅に出る。というお話。ジョディ・フォスターがコメディに出るとなかなか面白い味を出すことを知ったのが本作の収穫。自分が生み出したヒーロー、アレックスと対話する場面は楽しい。わたしの大好きなジェラルド・バトラーがこのヒーローアレックス役と、ニムの父親である海洋生物学者の二役を演じているのだが、精悍さが失われて中年のオヤジくさくなっているのにはちょっとがっかり。父親役だからなのか、わざと太ったのかしらん。男性には太って魅力の出るタイプとそうでないタイプがあって、ジェラルド・バトラーは後者。近々また新しい作品が封切られるみたいだから、それに期待しよう。

 さて、結局のところ、主人公はニムちゃんなのですよ、これ。芸達者なアビゲイル・ブレスリンが生き生きと楽しそうに演じているのがいいです。無人島に一人で取り残されてもへっちゃらなんていう女の子はなかなかのものだけれど、彼女がイグアナだかトカゲだかなんだか知らない動物たちと仲良くやっている様子は、「トム・ソーヤーの冒険」的自然と戯れましょうほのぼの路線。この物語は、作家の引きこもりは嗤うくせに、無人島に引きこもっているアウトドア親子は肯定的に描くという依怙贔屓があります。

 で、臆病者の作家アレクサンドラが蛮勇を奮って大冒険。もう、ありえない大活躍! 

 というわけで、幸せへの1ページというのは引きこもっていては書けないのだよ、というお話でした。ジョディ・フォスターが美しくて魅力的。家族みんなで楽しめる映画。

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幸せの1ページ
NIM'S ISLAND
アメリカ、2008年、上映時間 96分
監督・脚本: マーク・レヴィン、ジェニファー・フラケット、製作・脚本: ポーラ・メイザー 、製作総指揮: スティーヴン・ジョーンズ、原作: ウェンディー・オルー『秘密の島のニム』、音楽: パトリック・ドイル
出演: アビゲイル・ブレスリン、ジョディ・フォスター、ジェラルド・バトラー

ボーフォート -レバノンからの撤退-

2008年09月19日 | 映画レビュー
 「ブラディ・サンデー」のような緊迫感あふれる作品を見た後では、スカみたいな映画。ちょっと見る順番が悪すぎたようだ。この作品とてベルリン国際映画祭で最優秀監督賞を受賞したのだから、それほど悪いものではなかろうに。イスラエル側から見た中東戦争というものへのわたし自身の不満というか偏見というか、アラブびいきの気持ちがある分だけ減点になったかも。途中で何度も寝てしまい、やっと3回目で全部見ました。


 1982年から18年間レバノンを占拠していたイスラエル軍の占領の象徴たる前線基地、「ボーフォート」最後の日々、その撤退を描く。主人公は若きイスラエル軍兵士たち。彼らは一方的に敵の攻撃にさらされ、反撃もせず、ただひたすら要塞ボーフォートを守るのみ。敵の姿は一切見えず、時々爆弾が飛んでくるだけ。ヒューっという打ち上げ花火のような音が聞こえると、スピーカーからは「ばくげぇ~き」、爆発すれば「ちゃくだ~ん(着弾)」という牧歌的な声が自動的に流れる。実に淡々とどこかシュールでさえある。
 若い兵士たちは、親元を離れて出征してきたことについて語り合い、「親は俺がどこにいるかも知らないよ」などとうそぶく者もいる。恋人のことや故郷のこと、若者たちはおしゃべりに余念がないが、その合間にも仲間は一人また一人と戦死していく。そんな日々を過ごすうち、とうとうボーフォート撤退の命令が出た。喜ぶ兵士達。

 戦争映画のくせに戦闘場面がまったくなく、敵は現れず、爆弾がときどき着弾するだけという地味な作品。それなのにやはり味方は死んでいく。それは静かな戦争の悲劇だ。敵は「ヒズボラ」。

 この映画では、そもそもなんでイスラエル軍がヒズボラと戦っているのか、なぜレバノンを占拠しているのか、そういった説明は一切ないので、予備知識がなければ何がどうなっているのかさっぱりわからないだろう。逆に、予備知識があるとそれなりに興味深い一方で、ヒズボラが目に見えない不気味な敵としてだけ描かれていることに大きな不満を感じてしまう。だが、イスラエル軍兵士にとってヒズボラとはそのようなものなのだろうということがよくわかって、「なるほど」とは思う。

 兵士たちが話題にするのはアラブとイスラエルの対立といった中東戦争の政治的側面などではなく、恋人や家族の話だ。彼らにとってはこの戦争がなんのためのものなのか、それすらもはや無関心なのだろう。長引いた戦争は兵士たちに戦う大義を見失わせ、厭戦気分を蔓延させる。山の頂にある古い要塞に籠もっている兵士たちが通る通路は狭く、画面全体に閉塞感と倦怠感が漂う。撤退戦とは敗退なのだから、兵士の士気が上がらないのは当然で、現場の指揮を任された若い隊長は上からの命令と下からの突き上げに挟まれて苦悩する。彼らにとって戦争とはなんだったのだろう? やっとの思いで撤退したその後、兵士の胸には安堵とともに空しさがこみ上げる。その胸中に去来するものは帰還の喜びなのか、亡くなった仲間への自責の念なのか……。

 
 戦争の空しさは確かに伝わるけれど、緊張感に乏しく冗長な編集なのでけっこう退屈。(レンタルDVD)

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ボーフォート -レバノンからの撤退-
BEAUFORT
イスラエル、2007年、上映時間 127分
監督・脚本: ヨセフ・シダー、製作: デヴィッド・・マンディル、音楽: イシャイ・ハダー
出演: オシュリ・コーエン、イタイ・ティラン、オハド・クノラー、アミ・ワインバーグ、アロン・アブトゥブール

アクロス・ザ・ユニバース

2008年09月18日 | 映画レビュー
 全編ビートルズの曲だけで作ったミュージカル。このアイデアが優れものだったね。ビートルズの曲だけで60年代を表現することは可能だが、たとえばこれをエルヴィス・プレスリーの曲だけでやろうとしたら不可能だろう。それだけビートルズの楽曲には「世界」が歌い込まれているということなのだ。改めて、ビートルズの曲に歌われた哲学や世界観の深さに感心する。

 ストーリーありきなのか、ビートルズありきなのか、これはどう考えてもビートルズありきなのだろう、だからこそ、登場人物たちの台詞がそのまま自然とビートルズの曲につながっていく。主人公の名前がジュードとルーシーというからには当然"Hey Jude"と"Lucy in the sky with diamonds" が出てくるに違いない、どこでどのような形で?!とわくわくしながら見ていたものだ。

 物語はイギリス、リヴァプールから始まる。造船労働者のジュードがまだ見ぬ父を求めてアメリカへと渡るところから物語は動き始め、ジュードがプリンストン大学へと行き着くところから物語は心地よいテンポで展開する。絵の作りは、この映画の時代と同じく「サイケ」がキーワード。ミュージカルとはいえ、ダンスにはそれほど重きを置いていない本作では、もっぱら歌と映像のポップアートぶりが見せ場となる。アンディ・ウォーホールを思わせるようなカラフルな画面が続いたかと思うとLSDでラリっているような天然色(古い)のイメージ画像が爆発し、それはもう鮮やか艶やか、目が痛い。このあまりにもめまぐるしく弾けた映像が続く場面でちょっとわたしは息切れしてしまった。

 とはいえ、こういう場面は映画ならではの面白さであり、舞台ミュージカルでは堪能できない魅力だ。歌もまた、役者が全部吹き替えなしで歌い、ライブ録音で歌っているという(劇場用パンフレットより)。なんと言っても迫力満点はジャニス・ジョプリンをモデルにしたと思われるセディ役のデイナ・ヒュークス。

 使用された全33曲にはそれぞれ演出が付いているのだが、わたしがもっとも気に入ったのは徴兵検査の場面で"I want you"が流れるというアイデアとその奇抜なダンスだ。高校の世界史の教科書や参考書にも載っていた、「アンクル・サム」が志願兵を募集する有名なポスター。まさに"I want you"ではないか! (あのポスターはもともと第1次世界大戦のときのものだったと思うけど)

 60年代、NYグリニッジ・ヴィレッジ、前衛芸術、ベトナム反戦、学生運動、ヒッピー、カウンターカルチャー、若者達の文化の爆発がこの映画ではそっくりその雰囲気が再現されている。と同時に、それが単なるノスタルジーではなく、21世紀の今にも通じるビートルズの歌詞の数々が、今またイラク戦争を止めないアメリカの現状への痛烈な批判となって跳ね返る。

 この映画の素晴らしいアイデアは一発勝負ものかもしれない。柳の下の二匹目のドジョウは真似しにくいのではなかろうか。本作は、ビートルズファンなら必見。ビートルズのさまざまなエピソードが映画全体にちりばめられていて楽しい。そうそう、ジョー・コッカーも3役で出ています。


 映画の解説について、粉川哲夫さんのサイトがとても参考になった。
http://cinema.translocal.jp/2008-04.html#2008-04-30_2

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アクロス・ザ・ユニバース
ACROSS THE UNIVERSE
アメリカ、2007年、上映時間 131分
監督: ジュリー・テイモア、製作: スザンヌ・トッドほか、製作総指揮: デレク・ドーチーほか、脚本: ディック・クレメント、イアン・ラ・フレネ、音楽:エリオット・ゴールデンサール
出演: エヴァン・レイチェル・ウッド、ジム・スタージェス、ジョー・アンダーソン、デイナ・ヒュークス、マーティン・ルーサー・マッコイ、T・V・カーピオ、
ジョー・コッカー、ボノ

闇の子供たち

2008年09月15日 | 映画レビュー
 臓器売買、児童売春、エイズ。タイのスラムに住む子どもたちの目を覆うような悲惨な実態がテーマとなる社会派作品で、一切の娯楽性が排除されているにもかかわらず、なぜか大ヒット。ミニシアターで上映されていたのが拡大上映されてロングランしており、わたしが見た日曜朝の上映もほぼ満席なのには驚いた。社会派作といっても「ホテル・ルワンダ」のような感動的な話でもなく救いがどこにもないようなこの映画に、なぜかくも人が集まるのか。そのことが不思議だった。

 主人公は新聞記者とNGO国際ボランティアの若き乙女。二人が臓器売買問題を巡ってタイで知り合い、ともに人身売買を阻止しようとそれぞれのやり方で奮闘していく。新聞記者はアル中気味の南部という男。東京に別れた妻子がいるらしい。NGOで活動する若い女性は音羽恵子という、大学を出たばかりのいかにも青い雰囲気を醸し出している「思いこんだら試練の道を…」タイプの熱血派。恵子が正義の御旗を振りかざして臓器売買を阻止しようとするものの言い方といい幼さが残る表情といい、なんだか昔の自分を見るようで、気恥ずかしく痛い。

「事実を伝えるのがジャーナリストの役目だ」と主張する南部記者と衝突する恵子の苛立ちはよくわかる。「マスコミは評論するだけで行動しない」という不満が恵子にあることもとても理解できる。かつてのわたしもそう思っていた。大切なのは世界を解釈することではなく世界を変えることだ。マルクスの言葉をそのまま信じていた若者にとっては、大新聞というのはヌルい存在に思えてならなかった。今なら違うことを言うだろう。人にはそれぞれの役目があるのだ。現地へ行って献身的な活動をする者もいれば、日本にいて彼らを経済的に支える人もいるし、現地で取材して事実を伝える報道の役目もある。それぞれがいてこそ、社会問題は一つずつ解決していけるのではなかろうか。

 南部記者の助手になるフリーカメラマンの与田という若者がまたいい感じだ。妻夫木くんがいかにも情けない男を情けなく演じていて、彼はこういう役をやらせたらはまるなぁと改めて感心。主要な登場人物3人のキャラクターがそれぞれ大変わかりやすく、また役者たちも達者な演技で応えているため、テンションがずっと下がらない。心臓病の子どもを持ち、臓器移植のためにタイの子どもの臓器を買おうとする裕福な父親を佐藤浩市が演じていて、短い出番ながら印象に残る。この役者はやっぱりうまい。最近ちょっと映画に出すぎかもしれない。あんまりあちこちで見ると、前に見た作品のキャラクターの印象が残ったままになるので鑑賞上のマイナスになる。

 売春にせよ臓器売買にせよ需要があるから供給する者が後を絶たない。問題は需要を絶つことにあるはず。だが、それこそが困難であり、この問題の闇の深さを実感させる。この作品の優れているところは、子どもたちを農村から買い付けてくる人自身が実は児童売春の犠牲者でありその生き残りであるというエピソードを挿入したこと、そして児童買春という行為が性的嗜好の一つであり、その嗜好に囚われた男たちにその行為がいくら「社会的に構築された欲望である」と非難説得してもおそらく効果がないであろうことを考えると、深い絶望に包まれる。阪本監督がその絶望を映画の最後に用意したゆえにこの作品に深い余韻を残した。

 原作とは異なる結末は、観客を含めた日本人が人身売買を一方的に告発するだけの正義の人たりえないことを示して衝撃的だった。わたしたちは買春する日本人の一人ではないのか? アジアの子どもたちの貧困と悲惨に責任を持っているのではないのか? 醜い先進国の大人たちは我が姿ではないのか? 鏡に映った顔をつくづくと見よ。そこには醜い己の姿があるだろう。

 ただ一つ救いといえるのは、若き音羽恵子がタイでこれからも働き続けること。固い表情で思い詰めた一本気少女だった恵子が成長していく様が頼もしい。

 とにかく生真面目に作られた正統派社会派作品なので、見て面白いとかよかったとかいう感想が出てくるような映画ではない。この世界の闇は深いということをまざまざと見せつけられて暗澹たる気持ちに襲われる。こういう映画を見ると、のうのうと日本で暮らして映画を見ていてもいいのか、という良心の呵責に落ち着かない気持ちになってしまう。(PG-12)


 なお、映画の裏話ともいうべき、宮崎あおいとNGOとのエピソードについて「BIRDY」というブログに知人が書いています。
http://shapla-birdy.blog.so-net.ne.jp/2008-08-11

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闇の子供たち
日本、2008年、上映時間 138分
監督: 阪本順治、製作: 気賀純夫、大里洋吉、エグゼクティブプロデューサー: 遠谷信幸、原作: 梁石日、音楽: 岩代太郎
出演: 江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、プラパドン・スワンバーン、プライマー・ラッチャタ、豊原功補、佐藤浩市

ブラディ・サンデー

2008年09月13日 | 映画レビュー
 これほどの秀作が劇場未公開とは信じがたい。思わず二回見てしまった。ベルリン映画祭金熊賞受賞も納得の出来。

 1972年1月30日、北アイルランド、デリーで起きた血の弾圧事件の前夜から物語は始まる。翌日の平和なデモ行進が流血の惨事になるとはそのとき誰も予想していなかった。カトリック教徒の公民権を求める平和なデモは、いつものように始まりいつものように終わるはずだったのだ。だが、いつもと違う構えをしていたのはデモ隊を鎮圧する英軍。彼らはデモ隊の中の「フーリガン」やIRAの活動家を逮捕するべく、逮捕者リストを持って臨んだ。「今日こそ捕まえてやる」という並々ならぬ決意がイギリス軍にあったことをデモに参加した若者たちは知らなかった。

 プロテスタントでありながら、北アイルランドで迫害されているカトリックのために立ち上がった下院議員アイバン・クーパーは、デモの参加者に向かって「いつか、ガンジーのようなキング牧師のような非暴力抵抗運動が社会を変える」と演説していた。しかし、そのデモ隊を挑発するかのようにパラシュート部隊が銃を構えて威嚇する。一触即発の事態にデモ隊の中の血気盛んな若者が暴走し始めた。本部で待機する英軍司令部は刻一刻と無線や電話で入ってくる現場の状況にすばやい判断を迫られる。やがて英軍は放水やゴム弾でデモ隊を追い払い始めた。しかし、そのとき、銃声が聞こえた! 実弾だ! 阿鼻叫喚の群衆に向かって英軍は実弾を発射し続けた。

 血の日曜日はこのようにして始まった…


 ポール・グリーングラス監督はすべての撮影を手持ちカメラで行った。ブラックアウトを多用した素早い画面の切り替えと手回しによる臨場感あふれる画面構成は、観客をあるときは英軍に追いかけられるデモ隊の恐怖と同化させ、あるときは悩める英軍指揮官の憂鬱と心を同じくさせる。全編が緊迫感にあふれ、とりわけ英軍の弾圧が始まってからは場面に釘付けになる。本作がまるでその場に居合わせたかのようなリアリティで観客を虜にするその理由は、グリーングラス監督が、圧政に抗議する者とそれを鎮圧しようとする者、実力行使で戦おうとする者とそれを押しとどめようとする者、それぞれの立場を公平に描いたからだ。もちろんグリーングラスの立場は、アイルランドの悲劇を告発し、英軍の非情な弾圧への抗議と亡くなった者たちへの哀悼を表明する側にある。とはいえ、彼が一方的に英軍を断罪する撮り方をしなかったために、この悲劇の悲劇性がいっそう浮き彫りになるのだ。

 追い立てる英軍兵士と泣き叫びながら逃げまどう群衆たちの間には恐怖と不信しかない。互いに互いへの憎しみしか存在しないとき、いつでも簡単に彼らは引き金を引いてしまう。

「敵はどこだ?」
「敵じゃない、市民だ!」
「アイルランド人はみんなテロリストだ!」
 と銃を構えて言い争う兵士達。

「やめろ、そっちじゃない、行くんじゃない。デモは右に曲がれ!」というクーパー議員の制止をきかない若者達。銃を持ち出してきたIRAの若者もいる。

 一人、またひとりと実弾を受けて血まみれで倒れていく様はまるで戦場の悲惨そのものだ。撃たれた者たちは誰一人として武器を持っていなかった。それどころか、倒れた者を救おうと白いハンカチを振って道路に出てきた者まで撃たれた。

 そもそも、なぜデモの規制のために実弾をこめた銃を持った兵士が大勢待機する必要があるのか? 現場の判断は正しかったのか? 実弾発射命令はほんとうに出たのか? 事件後、英軍の責任はすべてうやむやにされた(映画本編には登場しないが、裁判では全員無罪)。あろうことか、このときの士官たちはその後、英女王によって叙勲されている。  

 映画のラストにロック・バンドU2の歌が流れる。「ブラディ・サンデー…No more, no more」

 殺された14人の犠牲者の名前が読み上げられる。14人のうち10人が10代20代の若者だ。彼らは二度と帰らない。

 DVD特典映像に、現在のクーパー議員が登場する。監督インタビューも含め、この特典映像も必見。(レンタルDVD)

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ブラディ・サンデー
BLOODY SUNDAY
イギリス/アイルランド、2002年、上映時間 110分
監督・脚本: ポール・グリーングラス、製作: マーク・レッドヘッド、アーサー・ラッピン、製作総指揮: ピッパ・クロスほか、原作: ドン・マラン、撮影: アイヴァン・ストラスバーグ、音楽: ドミニク・マルドウニー
出演: ジェームズ・ネスビット、ティム・ピゴット=スミス、ニコラス・ファレル、ジェラルド・マクソーリー、キャシー・キエラ・クラーク、クリストファー・ヴィリアーズ

パリ・ルーヴル美術館の秘密

2008年09月10日 | 映画レビュー
 フランスのドキュメンタリーというのは不親切なものが多い。この映画もまったく解説がない。美術館のバックヤードものという題材はわたしの心をいたくくすぐるのだが、いくらなんでももう少し解説してくれてもよさそうなもんでしょ。「ぼくの好きな先生」が気に入ったニコラ・フィリベール監督の作品なので見たけれど、次々と映されていくその内容の面白さにもかかわらず、途中で寝てしまいました。惜しいことをした。機会があれば再見したい。

 ルーヴル美術館のスタッフが1200人もいるとは知らなかった。そのスタッフは、学芸員はもちろん、警備員・食堂の調理員・美術品修復専門家・運搬担当などなど…、消防士も医者もいる。映画は彼らの仕事ぶりを実に淡々と映す。あまりにも淡々としているので、一部にはいったい何をやっているのかわからない仕事もあった。広いホールでピストルの空砲を撃ち、なにやら数字を書き留めているのは残響の実験だと思われるが、なんのためにそんなことをしているのかもわからない。


 とはいえ、こういうバックヤードものはとにかくルーヴル美術館という美の殿堂を支える人々の膨大な努力があるということを知らしめて大いに勉強になる。どこかの知事も盗撮するならバックヤードをちゃんと映して欲しいものです。博物館や図書館ではスタッフ達がどれほどの熟練の技を駆使してバックヤードを支えているのか、研究に取り組んでいるのか、敬意を持って撮影すること。フィルベール監督はその「働く人への敬意」を忘れないからこそ、このような淡々とした映像からも見る者を驚きと感動に導く映像を生み出すことができる。知事も私設秘書に撮らせるより、フィリベール監督に頼んだほうがいいんじゃないの? (レンタルDVD)

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パリ・ルーヴル美術館の秘密
LA VILLE LOUVRE
フランス、「1990年、上映時間 85分
監督: ニコラ・フィリベール、脚本: ニコラ・フィリベール、撮影: ダニエル・バローほか、音楽: フィリップ・エルサン

ぼくの好きな先生

2008年09月07日 | 映画レビュー
 ドキュメンタリーふうのドラマかと思ったらほんとにドキュメンタリーだった。フランスは片田舎、4歳児から12歳ぐらいまでの生徒たち13人が一つのクラス、一人の教師に教えられている学校の風景を綴ったほのぼのとする作品。何よりも子どもたちがかわいくて、子どもの表情を見ているだけで心が安らぐ。

 ここに描かれているのは教育の理想、教育の原点ともいえる姿だ。ともに学び、ともに遊び、年長者は年少者の世話をし、勉強を見てやる。先生は問題児たちを叱るけれど、彼らに対してきわめて理性的に接する。だから叱られている子ども達が先生の瞳を真正面からとらえて放さない。そこには限りない信頼があり、師弟がともに成長していこうとする契機が見える。

 先生はもはや若くない。それどころか、あと1年半で定年退職するのだ。子ども達にとってはおじいちゃんのような存在であり、しかし先生はおじいちゃんとしてではなく子ども達に慕われ愛されている。先生が子ども達の先生への愛以上に子ども達を愛しているから。

 この寒村では、朝、先生のマイクロバンが子ども達の家を回り、子ども達を拾って学校へと向かう。農村の子どもたちはまだ小学生なのにトラクターを運転して家業を手伝う。このような労働する子どもはもはや日本の都会では決して見かけることができない。日本では子どもは労働から切り離され学校という場で「子ども時代」を送ることになる。それが幸せなのか不幸なのか、このドキュメンタリーを見ていると判断がつかなくなる。

 勉強ができようができまいが子ども達の表情は生き生きとし、先生への信頼は限りなく高い。この映画の子どもの家では勉強できないと肝っ玉かあさんが体罰を加えるが、それとて「うわ、こんな母親、昔はいたっけな」と思わせるようなどこか牧歌的な姿。勉強ができないからといってわたしは子どもを殴ったことはないし、もちろん殴られたこともない。今時こういう母さんがいるのかわからないけど(今や「体罰」という程度を超えて虐待に至っていますので)、叱られる子ども達も別に落ち込む様子もない。大らかな農村風景には微笑みさえ浮かんでくる。

 先生があと1年半で退職すると知った子ども達。「先生、辞めないで」と幼い瞳を潤ませて真剣な表情で言う子どもたちには思わずほろり。

 子どもたちの表情があまりにも愛らしく素直なため、それだけでも見ていてほのぼのしてしまう。映像は実に淡々と子ども達と先生の姿を映し出すだけで、そこにどんな解説も付け加えない。暖かく滲んだような画面からあふれ出てくる愛と知性は日本の学校現場が既に失ってしまった「懐かしく、よきもの」の一つだ。

 子ども達が無意味な競争や諍いをすることに先生は批判的で、だからといって頭ごなしに生徒を叱ったりしない。教育という権力の現場は、このように「説得と納得」によって秩序を保つ。また、習熟度の異なる子ども達に互いに教師役と生徒役をやらせることによって学び合うことを教える。年長者が年少者をいたわることを知る。

 余りにも淡々としているため、観客によっては退屈してしまう部分もあるけれど、とにかくしみじみします。子ども好きには特にお奨め。(レンタルDVD)

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ぼくの好きな先生
ETRE ET AVOIR
フランス、2002年、上映時間 104分
監督: ニコラ・フィリベール、製作: ジル・サンドーズ、撮影: カテル・ジアン、ロラン・ディディエ、音楽: フィリップ・エルサン

ハンコック

2008年09月06日 | 映画レビュー
 いくら悪者をやっつけてもちっとも尊敬されないどころか世間の迷惑と非難されるスーパーヒーロー・ハンコックの物語。アメコミの原作があるのかと思いきや、これは映画オリジナルのキャラクター。今までにないヒーローを演じてウィル・スミスが笑わせてくれる。アクションシーンも派手で、なかなか楽しい。


 ハンコックは正体不明の「スーパーマン」。80年前から歳をとらず、超人的な能力を発揮し、陸に打ち上げられた鯨の尻尾をつかんで海に投げ返したり爆走する列車を身体で止めたり、自動車を空中で振り回してビルの塔に串刺しにしたり…。確かに人助けのため、犯罪撲滅のために正義漢ぶりを発揮しているのだが、やることがど派手で手加減がないため、ハンコックのせいでビルは壊れる道路は剥がれる車は潰れる列車は脱線する…で、被害甚大。しかも酒臭い息をまき散らして口汚くののしるため、市民や警察、行政当局から非難囂々。警察からは召喚命令が連発されているがまったく応じない。

 そんな彼に命を救われた広告業の男レイは、恩返しのためになんとかハンコックのイメージアップを図ろうと、ハンコックの教育宣伝に乗り出す。まずはハンコックを刑務所に服役させるところから作戦は始まり、コスチュームを用意したりあれこれと世話を焼く。ハンコックを家に呼んで美人妻メアリーの手料理で家族団欒の食事をしたりと、孤独なヒーローの心を解きほぐしていくかのようであったが…

 手持ちカメラでアップ多用。なんだか妙な撮り方だな、まるで心理ドラマみたいと思っていたら、なるほど途中でがらりとお話のトーンが変わっていくのだ。コメディからシリアスな「孤独のヒーロー物語」へ。さらにはいきなりのぶっ飛び展開。これはもうネタバレ必至なのでこれ以上書けない、というシロモノ。

 こういう映画を見ると、アメリカ人の「ヒーロー症候群」とも呼ぶべき強迫的なヒーロー願望をひしひしと感じてしまう(わたしは映画を見ながら思わずタイタニック号のジョークを思い出しましたよ)。そして、イメージアップのためにPR会社の人間がバックにつくというあたりがいかにもアメリカ。可笑しいのは、その広告マンが売れない企画ばかり持ち出してくる負け組であること。このキャラクター設定にブラックユーモアを漂わせているところが脚本のよさだ。

 途中からの映画のトーンの変化には驚くけれど、さらにその後は怒濤のアクションシーンが続き、最後はやっぱりコメディで落とすところがハリウッド映画らしい。明らかにシリーズ化を狙っている。

 新しいヒーロー像が、まるっきりだらしのない下品なアル中男という設定だったところがまずはこの映画の斬新さだ。しかし、この斬新さもこれがシリーズものになってしまえばその目新しさは一回限りとなるので、いかにキャラクターのよさを生かすかが第2作以降に問われるだろう。第1作ではハンコックの正体は部分的にしか明かされていないし、彼が記憶喪失であったというその事情も少しは語られていくが、依然として過去は謎のままだ。これを第2作以降で徐々に明らかにしていくつもりなのだろう。いずれにしてもウィル・スミスという俳優のキャラクターが存分に生かされているところが本作の魅力である。

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ハンコック
HANCOCK
アメリカ、2008年、上映時間 92分
監督: ピーター・バーグ、製作: アキヴァ・ゴールズマンほか、製作総指揮: イアン・ブライス、脚本: ヴィー・ヴィンセント・ノー、ヴィンス・ギリガン、音楽: ジョン・パウエル
出演: ウィル・スミス、シャーリーズ・セロン、ジェイソン・ベイトマン、エディ・マーサン、ジェイ・ヘッド

ダーウィン・アワード

2008年09月05日 | 映画レビュー
 ダーウィン賞ってほんとにあるというから不謹慎! 馬鹿馬鹿しい死に方をすることによってバカの遺伝子を後生に遺さなかった功績を称える賞だそうで。

 で、本作はそのダーウィン賞受賞の「おバカな死に方」をした人々を調査して、どんな人間がバカな死に方をして死亡率を無意味に上げるのかを確定するという保険調査員のお話。優秀なプロファイラーだったのに血を見ると失神するという警官が警察をクビになり、保険会社に就職せんと売り見込みに。試しに美人保険調査員と組んで仕事をすることになったのはいいけれど…


 予告編では、とにかくバカな死に方をした人の場面が次々登場したのでこれはてっきりどたばたコメディかと思ったのだけれど、案外と真面目というか、けっこうしんみりしたラブストーリーだったりしたのでちょっと驚き。とはいえ、やっぱり随所でばかばかしさに笑えるコメディです。

 ジョセフ・ファインズの見事なプロファイリングぶりに驚かされる巻頭、これはまるで名探偵ホームズですな。で、その見事な腕前にもかかわらず連続殺人鬼を取り逃がすという失態を演じて保険会社に転職を希望。どんな人間が保険会社のリスクを増やすかを調査するというかなりユニークなお話で、アイデアは大変よかった。ほんとにこんな死に方をした人間がどれほどいるのか知らないけれど、自動販売機に押しつぶされたサラリーマンだの自家用車にロケットエンジンを積み込んで爆走した男とか、いろいろおります。

 ジョセフ・ファインズのお相手をするのはウィノナ・ライダー。もちろん美女に恋してしまう男は彼女といい仲になりたいけれど、シャイなためにろくに口説くこともできないし…。うじうじしていたのでありますが…。


 爆笑したいと思っている人には中途半端な笑いしかなく、ラブコメを見たいという人にもいまいちな作品。とはいえアイデアがいいのでそれなりに引き込まれることも確かであり、というわけで見ている間はけっこう楽しんだけれど、見終わって一週間以内に詳細はすべて忘れているというような映画です。気分転換の暇つぶしにはいいいかも。(レンタルDVD)(PG-12)

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ダーウィン・アワード
THE DARWIN AWARDS
アメリカ、2006年、上映時間 95分
監督・脚本: フィン・テイラー、製作: ジェーン・シンデルほか、音楽: デヴィッド・キティ
出演: ジョセフ・ファインズ、ウィノナ・ライダー、デヴィッド・アークエット、
ジュリエット・ルイス、ジュリアナ・マーグリーズ、メタリカ

テラビシアにかける橋

2008年09月02日 | 映画レビュー
 子どもの想像力というのは実にたくましい。「パンズ・ラビリンス」でも少女が現実逃避して想像の世界に遊んでいる様子が独特の暗い映像美で描かれたが、この映画でも「テラビシア」という空想の王国に遊ぶ少年少女達が、その想像力を豊かに膨らませて悲しみを乗り越えていく。

 内気でいじめられっ子のジェスの隣家に超かわいい女の子レスリーが引っ越してきた。二人が通う小学校では8年生の女子が番を張っていて、下級生苛めに余念がない。レスリーの両親は作家で、レスリーも文才豊か。大人びた知的な魅力を発散するレスリーにジェスはすっかり魅せられて、二人は大の仲良しになった。二人が住む町は豊かに森が残る郊外の田舎町。小川にかかる縄にぶらさがって対岸へと毎日遊びにいく二人は、廃屋となったツリー・ハウスを自分たちの根拠地として、森の様々な妖精やモンスターと仲良くなったり戦ったりする日々を過ごしていた。そんなある日、突然の出来事で…


 ジェスとレスリーが生き生きと空想の世界でなりきってロール・プレイを演じている様がとても微笑ましい。昔、わたしもピーターマンごっこに精を出してすっかりなりきっていたものだわ、と懐かしい。そして、二人が生き生きしている分、突然の不幸があまりにも悲しい。子ども達は、小さな胸に抱えきれない悲しみをどのようにして乗り越えて行くのだろうか。現実から逃避し、なおかつ逃避した現実と向き合う力を与えたのは豊かな想像力だった。同じように、悲しみを乗り越える力もまた想像力が与えてくれる。この想像力は創造力がもたらすものでもある。

 振り返れば、わたしが思春期の頃、疾風怒濤の日々に胸に燃えさかるような憎悪や殺意をそのまま表に出さずに処理できたのも、創造の力のおかげだった。家族や社会に対する怒りや憎悪、なによりも自分自身に対する嫌悪を胸に納めきれないとき、わたしは密かに日記帳に向かって自分の気持ちを書きつづった。書くことがわたしの気持ちを抑え客観化を可能にした。もしあのとき、そのような理知の力が働かなければ、わたしは「理由無き殺人」を行う「理解不能な少女」の一人になっていたかもしれない。大人になった今、若者による「理解不能な殺人」を他人ごとのように客観視して批判することを自らにいましめる習慣ができているのも、それが決して人ごととは思えない理由があるからだ。殺人者はわたしであったかもしれない。あるいは自傷する少女たちはわたしであったろう。そのような「わけのわからないものにとらえられた不安や鬱屈」を、絵や文章や音楽に表現するこができればどれだけ多くの子どもたちが救われることだろう。この映画を見ながら、そのようなことを考えた。だから、ディズニー映画はバカにしてはならないのだ。この映画に描かれたような、子どもの想像力/創造力は、生きる力を確かに子ども達に与える。わたしたち大人は、その力を決して奪ってはならない。


 ついこないだ「ハプニング」で見たズーイー・デシャネルが教師役で登場していた。ずいぶんイメージが違う。役者ってやっぱり「化け物」ですね。

 涙のあとはほのぼのとした感動に満たされる佳作。(レンタルDVD)

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テラビシアにかける橋
BRIDGE TO TERABITHIA
アメリカ、2007年、上映時間 95分
監督: ガボア・クスポ、製作: ハル・リーバーマンほか、製作総指揮: アレックス・シュワルツ、原作: キャサリン・パターソン、脚本: ジェフ・ストックウェル、デヴィッド・パターソン、音楽: アーロン・ジグマン
出演: ジョシュ・ハッチャーソン、アンナソフィア・ロブ、、ズーイー・デシャネル、ロバート・パトリック、ベイリー・マディソン、ケイト・バトラー