ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

80年代論と90年代論(1)

2005年07月31日 | 読書
 この本は、2ちゃんねらーたちが偏狭なナショナリズムをまき散らしアイロニカルに政治問題にコミットしながら、一方で「電車男」のようなベタな話に涙するのはなぜか、という「現代若者気質」を分析したものだ。ものすごくおもしろかった。おもしろかったにも関わらず、なんだかなーという読後感が残る本でもある。

 では本書の課題を著者に語ってもらおう。

現代(の若者)文化における二つのアンチノミー、つまり、「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」(『電車男』)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)というアンチノミーがいかにして生成したのか、その両者はどのような関係を持ち、いかなる政治的状況を作り出しているのか、という問題系である。「序章」より


 現代若者気質を分析するために、著者はまず60年代論から始める。

 60年代の思想とは連合赤軍事件に端的に結果した「反省」の思想だった。60年代的な「自己批判」総括は、反省そのものが準拠枠を持たないシステムの中で循環し、それは最初から終わることがない「反省」だった。「なにをどう反省したら反省したことになるのか」という準拠枠を持たない悲劇。連赤事件は森恒夫や永田洋子の個人的資質を超えて、彼ら自身の外部にある「反省システム」によって駆動された事件だった。

 ※この「反省」という行為様式の分析についてはギデンズの「再帰的近代」の理論を参照すべし。


 連赤事件の総括を「反省」「再帰的近代」をキータームに行うのはものすごくわかりやすい。わたしは連赤事件関係者の手記はかなり読んだが、どれを読んでもなにかすっきりしなかったのだが(特に永田洋子の『16の墓標』は臨場感はあっても事件の分析には役立たない)、本書を読んで納得してしまった。再帰的近代が彼らの過ちの原因なら、ことはマルクス主義に固有の事件ではないということだ。近代が孕む宿痾なら、これからも繰り返される可能性はある。そういう意味では戦慄を覚える。
 
 ただ、その69年的「反省」を「反省」することによって80年代の糸井重里的「消費社会的アイロニズム」戦略が生まれたとするなら、それは結局のところ、60年代への一つの闘いに過ぎないし、それもまた近代の枠の中で近代を延命させるものとして働いている。

 さらにまた80年代も半ば以降は消費社会的シニシズムへと時代精神は移行し、いっそう「無反省」が進むというのが北田さんの分析で、そこへの反動として90年代以降のロマン主義的シニシズムが生まれたという。内容詳細はもうメモしている時間がないので、割愛。 

 終章に手っ取り早く結論が書いてあるので、ここだけ読んでもよさそう。

 本書に対しては梶ピエールさんがたいへん興味深い批判を二度にわたって書いておられる。わたしもその批判には首肯した。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050331
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050410
これはぜひお読みいただきたい。
 梶谷さんも指摘されているように、2ちゃんらーたちの振る舞いについて、北田さんの分析は必ずしても正鵠を射ていないと思う。北田さんは2ちゃんねるをちゃんと読んでいないのではないか。もしくは、かなりの距離感をもって2ちゃんねるを観察しているため、その「深部」に分け入ることができていないのではないか。

 東浩紀のオタク分析がおもしろいのは、彼自身がオタクだからだ。彼は自分の好きなことを研究対象にしている。北田氏はそうではない。 

 思うに、北田さんの論というのは一読して感じられる<頭のよさ>が長所でもあり短所でもあるのだ。ものすごくスパスパと分析対象を切っていくさまは爽快だが、なんだか後にモヤモヤしたものが残ってしまう。「ほんとうか? ほんとうにそうなのか? なにかそこに残余のものがあるのではないのか?」と感じさせてしまう。

 1971年生まれの北田さんは、<政治的悩める青年時代>、「僕って何?」と悩む69年世代のような青春の蹉跌を経験していないのだろうな、と思う。だからこそ、クールに切っていけるものをもっているし、徹頭徹尾、自己の立ち位置を不問に付したまま論が進むのもそれゆえだろう。

 東浩紀の『動物化するポストモダン』がとてもおもしろいにもかかわらず何か物足りないものを感じるのと同じように、本書にもどこかボタンがきちっとはまっていないような妙なもぞもぞ感がある。
 世代論というのはいつもわたし不満を抱かせる。オタクと新人類を分析すれば80年代は言い尽くせるのか? 連合赤軍事件を分析すれば60年代はわかったことになるのか? 2ちゃんねらーが現代の若者を代表しているのか? 

 不満はあってもこの本はおもしろいには違いない。北田氏の次の仕事に注目したい。

 この本はかなり宮台真司のこれまでの仕事と、大塚英志『「おたく」の精神史』を下敷きにしている。そこで、刊行年を遡って大塚の『「おたく」の精神史』を読んでみた。長くなるので別エントリーで。

<書誌情報>

嗤う日本の「ナショナリズム」 北田暁大著. 日本放送出版協会, 2005.(NHKブックス ; 1024)

読みながら観る「姑獲鳥(うぶめ)の夏」

2005年07月28日 | 読書
 映画と原作、観てから読むか読んでから観るかといつも悩むのだが、今回は「そうだ、読みながら観よう」とはたと膝を打った。
 なにしろ長いので有名な京極堂シリーズだから、読み始めてもなかなか終わらない。映画はもう封切られてしまった。ということで読み始めた本書、映画鑑賞予定日(明日!)までに読了できるか? ここ数日は通勤電車内でコーラスの練習録音を聞いているので読書時間が減っているし。

 途中まで読んだところで映画を観ることになりそうだなと思っているのだが、案外早く読了するかもしれない。だっておもしろいんだも~ん。

 相変らずの京極堂の薀蓄たれが退屈しないのだ。相変らずというか、本書が京極夏彦のデビュー作なんだから、このスタイルはここから始まったんだね。『絡新婦の理(じょろうぐものことわり)』のときはフロイトだのユングだの社会理論だの説明が長くて退屈してしまったのだが(でもプロットはすごかった)、今回の量子力学だの精神病理学だのはストーリーの邪魔にならない程度の長さに抑えてあるので気にならない。

 それにしてももうクライマックス場面が過ぎてしまったのに、まだ100ページもある。いったいこのあとどう展開させるんだろう?
 映画の公式サイトを見て配役を確認。なるほど、イメージどおりかな。原田知世というのはちょっと違うかも。

え? アガンベン月間はどうなったって? はいはい、わかってますってば。ぼちぼち読むんですよ、別に夏休みの宿題じゃないんだから、ゆっくり読みます(^^;)。やっぱり電車の中で読むかなぁ……

※追記
 映画見ました。うーん、だめだ、こりゃ。

「生命学をひらく」

2005年07月26日 | 読書
 これは森岡さんのはじめての講演集だ。内容は『無痛文明論』や『宗教なき時代を生きるために』、『生命学になにができるか』などとかぶるのだが、読んだ印象がかなり異なる。特に『無痛文明論』のような読みにくさがないから、お奨めと言える。無痛文明論は「自分をぬきにした議論はしない」というスタンスなので、読者に対しても倫理的にギリギリと迫ってくるため、読んでいてだんだん息が苦しくなってくるのだ。

 その点、本書はじっくり胸にしみてくるので、心穏やかに読むことができる(笑)。←あ、笑っていいのだろうか?

 目次を抜粋しておく。

第1章 いのちのとらえかた
第2章 「条件付きの愛」をどう考えるか
第3章 共感的管理からの脱出
第4章 無痛化する社会のゆくえ
第5章 無痛文明と「ひきこもり」
第6章 生命学はなぜ必要か
第7章 「死者」のいのちとの対話
第8章 「無力化」と戦うために

第3章の「共感的管理」とは、この場合「母性による管理」を指している。森岡さん自身が母親によって真綿で首を絞めるように管理訓育された生育歴があるようで、そこからの脱出が容易ではなかったと述べている。
 
 母親というのは「あなたを愛している」という言葉や「こんなにあなたを思っているのに」と涙を流すことによって息子を束縛する。母の涙というのは息子から反抗心を削ぎ脱力させる威力を持つのだ。と同時に息子を発奮させてしまう。この母のために、と。

 息子を持つ母としては自戒するところ多なり。でもうちの息子に泣き落としの手を使ったことはまだない。

  第4章と第5章は「無痛文明とはなにか」がわかりやすく述べられているので、手っ取り早く無痛文明論を知りたければここだけ読んでもいいかもしれない。

 「無痛化」とは、痛みのない方向へ苦しみを避ける方向へと文明が向かうことを意味するのだが、単に「快適な文明生活をエンジョイしよう」という物質的なことだけを指すのではない。
 悩み・苦しみに向き合わずそこから目をそらす装置がこの社会にはいくらでもある。娯楽や恋愛もそうなのだ、と森岡さんは言う。恋愛まで無痛化装置の一つだと言われるとちょっとどうかという気はするのだが、ものすごく卑近な例でいうと、子どもたちがすぐにキレたり忍耐力がないのも、やっぱりふだんから「痛み」に耐えられない体質を作ってしまう無痛文明のせいなんだろうなと感じる。


 『無痛文明論』のエッセンスを手短に知りたければ本書がお薦め。でもやっぱりあの大部な本を読んで苦痛にもだえたほうがいいかもしれない(^^)。


<書誌情報>

 生命学をひらく : 自分と向きあう「いのち」の思想
   森岡正博著. トランスビュー, 2005

超多忙な一週間の終わりに『スペクタクルの社会』

2005年07月23日 | 読書
 今週はとにかく忙しかった。火曜はまだ余裕があったのだ。それが、水曜には顔が引きつりだし、木曜には頭が爆発しそうになり、金曜にはあきらめの境地に達したのであった。気分は「夏休みの宿題ができていない8月31日の小学生」。

 わたしは2年前からD大学の嘱託研究員を仰せつかっている。研究員とは名ばかりで何も研究していない。でもま、報酬をもらっているわけでないからえっか。それどころか研究会出席のために京都までの交通費も自腹を切ってるんだからね。でもさすがに何も発表しないわけにいかないから、昨日は「紹介報告」という番が回ってきたのであった。

 うちの図書館にある伝記資料の一覧リストをキーワードつきで作成し、なかの何点かをとりあげて詳しく紹介するとうだけのこと。ほんとならすごく簡単なはずなんだが、これがどうしてどうして。図書管理用パッケージソフトからエクセルへデータを落とすことが簡単にはできないのだ。テキストデータに落としてエクセルに載せ替えればよいのだが、それが入力文字数が固定長だったりして、結局は手作業になってしまう。

 えっちらおっちらと一項目ずつ貼り付けていたのだが、これが大変。そもそもふだんエクセルを使わないから使い方もわからない。マニュアル片手に眉間に皺を寄せ、それでもなんとか最低限のデータの貼り付けが終わったのが木曜の午後。その間に、手作業のおかげで過去の書誌情報の間違いをいっぱい見つけてしまったのでその訂正にも追われた。あー、目が痛い。頭が痛い。

 ところが! なんと、どういうわけか必要なデータのうち少なくとも200件ほどが抜け落ちていることが判明したのだ。遺漏分を探し出して一件ずつ貼り付けている暇はもうない。仕方がないから、金曜は不完全なデータを提出することになってしまい、「後日、修正版をみなさまのお手元にお届けします」と恥ずかしい弁明から始めねばならなかった。ふー


 とにかくよりによって昨日は暑かった。35度の大阪の町を出たのが午後2時半過ぎ。同じく猛烈に暑い京都の町をふらふらと西日に向かって20分間歩いていたのが午後4時頃。もう死んだね。

 疲労困憊しながらわたしの報告も終わり、もう一人の報告者M氏(大学の先輩でもある)の研究報告を聞いて、やれやれと帰途に着いた。京都からは遠いわぁ。でもま、おかげで帰りの電車の中で『スペクタクルの社会』を読了。

 本書は1967年に書かれたものだが、日本語訳はようやく1993年に出た。文庫本化にあたってかなり訳を訂正したという。30年近く前に現代社会を「スペクタクルの社会」だと看破したのは先見の明があったと言えるのだろう。でもこれはドゥボールのオリジナルで斬新な分析なのだろうか? 似たようなことは既に誰かが言ってたのではなかろうか。

 本書を読みながらまず感じることは、「新左翼」らしいその文体、語彙に懐かしさを感じるとともに、「疎外」(本書では「分離」)だの「階級闘争」だの「マルクス」だの「レーニン」だのと頻出するとうんざりしてくる、ということ。

 本書の書き方は独特だ。全部で221の断章の積み重ねからなる形式は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を想起させる。

 近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。

 という文章で始まる本論は、高度に発達した現代資本主義社会が既にありあまる商品を生活のために消費するのではなく、記号として消費しているということを述べている。
 それって、今や常識やんか。だって、内田樹先生がしょっちゅうブログにそう書いているし。

 というように、この本に書いてあることは既読感が強い。「あ、これは内田センセイがいつも言ってることやな」「ここは森岡正博さんがどこかで書いてたことと似ている」「これ、原田達さんが『知と権力の社会学』で書いてたことと同じちゃうのん」とか思いながら読んでいるから、ちっとも新鮮味がない。逆にいえばそれだけ「スペクタクルの社会」論が後世の人々に多く引用され咀嚼されてきたということだろうか。でも今やだいぶ鮮度が落ちてしまっている。
 
 特に真ん中あたりの階級論が出てくるところは退屈なので思いっきりすっ飛ばして読んでしまった。で、つらつら読んでいるうちにいつのまにか本文が終わったんだが、その後に訳者解説が50頁もついている。これがまあ、おもしろいんだな。こっちだけ読んでおけばよかったかも。

 などと思っていたのだが、このメモを書くためにまた本書を読み直してみたら、なんと一回目よりもおもしろいのだ。どうなってんねん?(^^;)

 で、気になったところだけピックアップして引用しておく。

 第4章「時間のスペクタクル」より引用

 歴史と記憶の麻痺、歴史的時間の基盤の上に築かれた歴史の放棄、それらを現代において社会的に組織するスペクタクルは、時間の虚偽意識である。(テーゼ158)

 労働者を商品としての時間の「自由な」生産者にして消費者の地位に就けるため前提条件は、彼らの時間を暴力的に没収することであった。時間のスペクタクル的回帰は、生産者のこの最初の剥奪によってはじめて可能になったのである。(テーゼ159)

 集中した資本主義は、その最も進んだ部門において、「完成品の」時間ユニットの販売へと向かう。それらの時間ユニットは、一つ一つが、いくつかの数の商品を統合した単一の統一的商品である。その結果、「サーヴィス」経済や余暇経済の拡張のなかで、スペクタクル的住居や、ヴァカンスの集団的な疑似移動、文化消費への加入料金、「楽しい会話」や「いろんな人との出会い」というかたちでの社会性そのものの販売のための、「すべて込み」で計算した支払い形式が現れる。この種のスペクタクル的商品は、それに対応した現実の欠如感が劇化することによってはじめて広かったことは確かだが、分割払いが可能になることで、販売近代化のためのモデル商品のなかでそれが姿を現したということもまた同じように明白である。(テーゼ152)

 現代という時代は、本質的にはその時間を多種多様な祝宴の迅速な回帰として自己に示す時代であるが、実際は祝祭なき時代である。円環的な時間のなかで共同体が生の贅沢な浪費に参加していた瞬間は、共同体も贅沢もない社会にとっては不可能である。対話と贈与のパロディである現代の世俗化された擬似的な祝祭が余分な経済的浪費を促す時、それらの祝祭は、結局は、常に新たな失望の約束で埋め合わされる失望に終わるしかない。現代の余分な生の時間は、スペクタクルのなかで、その使用価値が縮小された分、いっそう高く己れの価値を吹聴しなければならない。時間の現実は時間の広告に取って代わられたのである。(テーゼ154)

 太字の引用が続くと読みにくいので、ちょっとコメントを。

 本書の最終章は「文化における否定と消費」と題されていて、やはりこれも断章からなるので、章全体を要約したりはできないのだが、概してドゥボールの本は文化論がおもしろい。きっとわたしの興味関心と一致するからだろう。最終章には社会学批判と構造主義批判が書いてある。

 「主体」とか「階級闘争」「プロレタリアート」を連呼するドゥボールの口調はサルトルやかつての左翼のそれを思い出してちょっと恥ずかしかったりする。その恥ずかしさは若い頃の自分の書いたものを読み直して感じる恥ずかしさに似ている。でも、わたしは若い頃の自分を全否定する気にはなれない。だから、ドゥボールの口調はともかくとして、最終章に書かれた構造主義批判については共感を覚える。

 さて、ドゥボールがどのように構造主義を批判するのだろう。それについては訳者解説から要約引用してみよう。

 ドゥボールは1957年に「シチュアシオニスト・インターナショナル」を設立し、1972年に解散するまでその中心人物であった。

 スペクタクルの理論は徹底した「代理=表象」批判の武器である。それがポストモダニストの思想と決定的に異なるのは、実践のレベルにおいてだ。ポストモダン思想が主体や歴史の概念を捨象し、「実践」の意義を認めないのに対し、シチュアシオニストは「状況の構築」をあくまで追求する。

 シチュアシオニストは思想を思想として考察する分離された思想家でも、政治を政治として追求する党派でも、独立した領域としての芸術を実践する芸術家でもない。彼らは、芸術と日常生活の革命、文化革命と政治革命を一体のものとして追求し、それを「構築された状況」のなかで統一的に実現しようとした。

 訳者解説のなかにシチュアシオニストの活動の歴史が語られているが、その徹底したラディカリズムには舌を巻く。既存の文化をすべて批判・破壊・ずらし・脱権威化しようとしたその実践にはあきれるやら笑うやら。彼らの作品を見てみたいと思わせる。ドゥボールにかかってはチャップリンも偽善的な人道主義者に過ぎないと糾弾される。ゴダールだって批判の対象だ。

 五月革命でのシチュアニストたちの活動についても訳者解説がかなり詳しく述べており、なんだか久しぶりにわたしは血湧き肉躍る高揚した気分になって
しまった。

 最初に訳者解説を読んでから本文を読んだ方がよいかも知れない。とにかくこの訳者解説はよかった。いや、別に訳者が旧知の友人だから言うわけじゃないです、はい。オリバーこと木下誠氏、いい仕事してますよ。

 

<書誌情報>


 スペクタクルの社会
  ギー・ドゥボール著 ; 木下誠訳. 筑摩書房, 2003.(ちくま学芸文庫)


日常と非日常の間

2005年07月17日 | 読書
わたしの最近の生活は、仕事・家事・育児・映画・フィットネスクラブ・読書の組み合わせで回転している。たまにコーラスに参加する。その合間に飲み会だの食事会だのが勃発的に出現する。さらにその合間を縫ってネットサーフィンしHPを更新する。そのうえ気が向いたら密かに小説を書く。

 これが働く主婦の日常というものだが、考えてみればつまらない日常だ。何ももの珍しいことはないし、ドラマなんて起きないし、趣味は?と訊かれても答は「映画と読書」という口にするのもはばかられるほどありきたりのことしか言えない。つまり「無趣味」ってことだろうか?

 そんな日常は耐えるにしのびないものだろうか。わたしは案外楽しんでいるけど。そんな日常に耐え切れなくて若者たちはキレてしまうのだろうか。
 
 最近なぜか「日常」という言葉に敏感になっている。ここのところ立て続けに読んだ本に「日常」への言及が目立つ。『日常・共同体・アイロニー』なんていうそのものずばりの本も読んだし。もっとそのものズバリなら宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』(1995年)なんていう本もあったし。 

 宮台真司と仲正昌樹の対談『日常・共同体・アイロニー』は前書きと後書きがいちばんおもしろい。わたしは大笑いしながら読んだ。
仲正さんは自分たちのことをこう評価する。

 「非日常生に惹かれる若者たち」のオピニオン・リーダー的な役割を演じている宮台さんと、わかる人だけわかればいいという調子でちまちま皮肉ばかりいっている私とでは、体質が根本的に違うという認識(まえがき)

 仲正昌樹さんは元統一教会信者だ。東大の1年生だったときに入信して11年も信者だったというから、なかなかのもの。そのくせ自分は超越系が苦手だという。この人はほんとに変人で人付き合いが下手な人みたいだ。宮台さんの後書きによれば、4回の対談のうち、1回目は一度も二人の視線が合わなかったそうだ。それが回を重ねるごとに数秒ずつ視線が合うようになったらしい。

 まあ、とにかく、自分の対談相手を誉めているのかけなしているのかよくわからない前書きをわたしは笑いながら読んだ。仲正に対して「認知的不協和」を感じていたという宮台は、じっさいに対談してみてそれが徐々に解消していったという。仲正の著作は、「思想史について語るときはじつにブリリアンドなのだが、時事的現象について語るときには実存的バイアスによって偏った議論になりがち」だという評価をくだしている。これは貶しているのではないそうだ。
 この後書きに宮台は仲正の人物論を事細かく書いていて、それがおもしろい。仲正昌樹という人物像を描きつつ、左翼(正確には「サヨク」)批判へとつなげる論には「なるほど」と首肯するものがある。

 本文に直接関係ない引用が続いてしまったが、以下にこの対談から気になったところだけをメモしてみよう。

 アイロニーとは皮肉のことだ。アイロニストは皮肉屋のことだ。と、わたしは単純に考えていたのだが、彼らのいう「アイロニー」とは言説のメタ化のことのようだ。つまり、「わたしはこれこれについてワンパターンでよくないと思う。と言う、このわたしの言説じたいもワンパターンだということを知っている」というようなこと(らしい)。アイロニストには議論の着地点がない。自己言及を繰り返すだけだ。それはルーマンの社会理論にも通じる。

 近代のアイロニーはどうやって乗り越えるのか? ローティのように「近代を超えるには徹底して近代であるほかない」というべきか? 「外部なんてない」というのが宮台の主張だ。

 心情においてポストモダニストである人間がいるのはよい。私も近代の限界を超えたいと思う。でも、だったら「近代には外がある」などと幼稚園児の思考を吹聴するのでなく、近代のオルタナティブな使用を考えてもらいたいのです。(p122-123)

 アイロニズムはシニシズムに滑り落ちやすい。不徹底なアイロニズムは「だったら何でもありじゃん」という発想に陥る。なんでもありなら、イスラム教徒とキリスト教徒の間に線を引いてイスラム教徒を敵視したっていいやんか、と。シニシズムに対してはアイロニズムのワクチンを注射してやらないといけない。というのが宮台の主張。

 仲正は「日常性」という言葉が大嫌いだそうだ。

 左翼が衰退すると、まるでマルクス主義を薄めたようなかたちで、やや左翼的な傾向のある社会学が「現実」にスポットを当て出しました。あなたや私をふくめ、いろいろな人たちがいる。そして私たちは、普段は気づかない「日常性」のようなもののなかで生きている。「日常性」を見直すことは、私たちの「現実」を見直すことであり、社会の問題点を浮き彫りにすることである、といった言い方をします。粗っぽく要約すると、問題関心が、マルクス主義によって哲学的に裏打ちされた左翼運動の「現実」から、日々反復される「日常性」へとシフトしたのだということができるでしょう。(p225)

 仲正が『終わりなき日常を生きろ』をネタに、「日常性」について宮台に質問し、迫る。切り返す宮台は「これはもっとも話しにくいテーマだ」と苦笑しつつ、社会学における日常・非日常の定義から話を始める。

 社会学のなかで「日常と非日常」という概念を明示的に用いたのは、ヴェーバーのカリスマ概念とデュルケームの集合的沸騰概念。カリスマとは人のことではなく、性質のこと。具体的には、金力や暴力といった社会的属性に還元できない、非日常的な資質。

 聖なる内面世界と俗なる行動世界という二元論が近代の政教分離の起源だ。
 「社会が宗教よりも大きい」というのが近代社会の本義となったが、すると問題が起きる。「宗教が社会よりも大きい」からこそ宗教なのだ。なぜ社会が存在するのか、なぜ世界が存在するのかに答えてこそ宗教なのに、宗教が社会の枠内に収まってしまうと、社会で失敗した人間には宗教的救済がなくなってしまう。

 ……というような話から始めて、自分の中学高校時代の話へと振り、あとは『サイファ覚醒せよ!』に書いてあるような内容へと続く。仲正の質問への答になっているのかいないのかよくわからない。

 仲正は、日常と非日常は立場によって逆転することがよくあるという。機動隊に石を投げている左翼とブルセラ女子高生が例示される。やっている本人には「日常はこんなもの」という感覚があるかもしれないが、第三者にはそれが「非日常」に映るだろうし。

 仲正は統一教会の信者だったとき、自分が非日常の側にいるとは思っていなかったという。信者たちは外の人より少しだけ先に行っているという自覚があった。世間より少しだけ先に行っているという感覚が大事で、現状と乖離しすぎると布教の原動力にならない。この、「少しだけ超越している」というのが危ない。

 宗教の布教にとって大切なもう一つの戦略は「覆い隠されていた身体性の発見」@宮台(p254)だ。ドラッグを使ったり洗脳プログラムを使ってトランス・酩酊状態を生み出して身体性を拡張し、信者獲得へとつなげる。

 近代成熟期には、抑圧されてきた身体性の拡張可能性に人々の意識が向く。それは決して「近代の外」に出るものではない。同時に、社会システムはかつてほど身体性の拡張を抑圧する必要もなくなる。資本主義メカニズムが一定程度以上のプレゼンスを獲得すると、そこから逸脱すると生きていけないという不安を人々が感じるため、身体を巻き込めるようになるのだ。
 身体性の抑圧がさして必要でなくなったのは、ウェーバーがいうように、社会のさらなる脱呪術化がある。脱呪術化とは、呪術や宗教が消えることではなく、社会システムが呪術や宗教から相対的に無関連に回るようになること。
 後期近代の社会システムは、身体性の再拡張をある程度は許容していることになる。身体性の拡張が「近代の外部」を指し示すものだと軽々に考えてはいけない。(以上、p254-257の要約)


 宮台によれば、イエス・キリストとデリダとローティはいずれもアイロニスト、ということになる。
「構築は否定されず、実践は否定されないけれど、永久に疑われる」(p274)

 近代社会では「終わりなき再帰性」によって、どのような外部も内部化される。言い換えれば、どこかに屈折したアイロニストがいるという話ではなく、〈世界〉自体をアイロニー――全体の部部への対応――として見いだす。「終わりなき再帰性」によって、超越も外部も全体も非日常も宗教も、排撃はされないものの、効力を奪われて無害化される。ウェーヴァーの「脱呪術化」や「世俗化」の概念は、終局、このことを述べている。すると奇妙なことに、「終わりなき再帰性」のゲームに勤しむ私たちの営みが存在するということ自体、端的な未規定性としてあらわれてくる。
 いまや、かつてのような意味での超越や伝統や本来性(近代の外)はありえない。近代社会では、超越も伝統も本来性も、再帰的な生成物だ。すべの外部は内部であり、全体は部分だ。だから私たちはアイロニズムというポジションを手放すわけにはいかない。
 自己決定は、存在しないといえば存在しない。共同体も、存在しないといえば存在しない。自己決定の概念も共同体概念もマユツバであるにもかかわらず、自己決定は存在する、共同体は存在する、という想像的な前提抜きには、前に進めないのが私たちの日常なのだ。(以上、p272-277の要約)

 
 この本を出した「双風舎」からは宮台の対談本『挑発する知』が出ているが、『日常・共同体・アイロニー』のほうが内容が濃い。社会学の基礎講座ふうの作りにもなっているが、かなり議論が集中しているし噛み合っているので、基礎講座の部分を超えて現実政治へのコミットメントも興味深い。もっとも、宮台の主張にはいつもながら「ちょっとぉ」と思う部分は多々あるが。

 映画「パッション」の解説はおもしろかった。なぜイエスがかくも壮絶な苦難を耐えたのか? あの映画は何を描きたかったのか? 興味のある方は本書をお読みのこと。

 それにしてもミヤダイは口が悪い。「馬鹿左翼」だの「カルスタ・ポスコロ野郎」だのというのは下品だねぇ。やめてほしいわ。

 本書については葉っぱ64さんが何度かブログでとりあげておられる。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050403/p1
 葉っぱ64さんのご推薦でこの本を読み始めたわけだけど、やっぱり目利きがいいです、さすが。いつもおもしろい本を教えてくださってありがとうございま~す。




 ということで、ようやく二冊目の本の紹介を。

 『いきなりはじめる浄土真宗』の続編、『はじめたばかりの浄土真宗』を再読する。一回目読んだときにぴきぴきーんときた部分がどこだったのか、わからなくてあせっている。コメントをブログに書こうと思っていたのに、いったにどの部分を引用しようとしていたのかわからない。あちゃー、しまった、付箋つけとけばよかったよ。

 宮台もやたら宗教に詳しいけど、こっちは本物の宗教家釈徹宗さんと宗教的マインドに溢れた内田樹先生の往復書簡だから、内容は当然宗教宗教しているわけだが、釈さんの立ち位置が宗教を脱構築するようなところにあるから、ものすごくおもしろい。むしろ内田センセイのほうが宗教者じゃないかと思えるぐらい。

 制度宗教には日常からの逸脱よりも日常への還元に力を入れているところがある、というくだりにヒットしたのかな。と思って読み直してみたけど、どうも違うみたい。制度宗教が日常へ戻ってくる引力が強いということは、それだけ保守的っていうことやんか。社会を破壊する力には欠けるわけだ。うーん、ちょっとよくわからないけど、とにかくこの本もおもしろかった、ということで。ものすごく読みやすいから、『いきなりはじめる浄土真宗』とセットでお読み下さい。

 というかんじでお茶を濁す。ポリポリ

<書誌情報>

 日常・共同体・アイロニー : 自己決定の本質と限界
   宮台真司, 仲正昌樹著  双風舎, 2004


 はじめたばかりの浄土真宗 / 内田樹, 釈徹宗著.
   本願寺出版社, 2005. (インターネット持仏堂 ; 2)

映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の原作

2005年07月06日 | 読書
 ロード・ムービー「モーターサイクル・ダイアリーズ」はアンデスの山々の風景が美しい、明るく楽しい青春物語だった。その原作であるゲバラの若き日の日記が、本書。これはもう、映画と原作、どっちがいいかなんて比べられないね。

 ゲバラは文才のある人で、ゲリラ戦の日々を綴った『ゲバラ日記』も読ませるものだったが、本書もたいへんおもしろい。革命家チェ・ゲバラの片鱗はここにはほとんど見られないが、親友アルベルト・グラナードとの南米縦断無銭旅行の抱腹絶倒ぶりはどうだろう! 医者の卵と生化学者という肩書きをいいことに行く先々でタカリまくる、厚顔無恥な若者二人の旅は、いかにもラテン系の明るさと伸びやかさに満ちている。
 若者というのはこうでなくちゃ。これが若さの特権だよね、ほんとにうらやましい。でもわたしは若いときでもこんな無謀な旅はできなかったから、年齢のせいじゃなくて個性の違いだろう。

 ゲバラの文体はユーモラスで知的。誇張を得意とする修辞、軽快な文体は魅力的だ。この旅行記を読みながら、何度も映画の場面が目に浮かんだ。あの美しく雄大な風景はやはり映像で見なければわからない。いっぽう、ゲバラの繊細な感性や大人びた知性、といったものは原作を読まなければピンとこない。これはぜひ原作と映画の両方を見て読んで堪能すべき作品だ。

 映画の中で印象的だった場面なのに旅行記では書かれていない部分もある。たとえば、高名な医者の邸宅を訪ねて歓待され、その老医師の小説を無理やり読まされたゲバラが馬鹿正直に「こんなくだらない小説はない」と真面目くさった顔で論評する場面。融通の利かない実直な青年の一面が現れるところなのだが、ゲバラの日記に記載がないとすると、この部分はグラナードの日記に拠ったのだろう。
また逆に、日記のなかで爆笑もののエピソードとして描かれていることが映画に取り上げられていなかったりする。映画的にはすごくおもしろい場面になるだろうに、不思議だ。

 ピピのシネマ日記で「映画的には特にすぐれた演出がない」云々と書いたけど、この原作であの映画なら、じゅうぶんいい出来だと評価を改めることにした。ゲバラの旅行記はおもしろいのだけれど、会話文が少ないため、脚本にしにくかろうと思うのだが、映画は実に生き生きとした台詞や描写にあふれていた。

 ゲバラたちの好奇心はどこまでもアンデスの奥深くに入り込む。なんでも見てやろう行ってやろうという知性と感性がやはり後の革命戦争にはせ参じるゲバラを生んだのだろう。ハンセン病の療養所でのエピソードも映画ではクライマックスシーンとして描かれているが、本書ではわりと描写は淡々としているし、映画とかなり異なる。

 ところで、ゲバラたちが立ち寄った先には図書館や博物館もあるのだが、彼は歴史にもいたく興味があったようで、インカ帝国の歴史を書いたくだりがある。インカの王様にマ●コ2世という人がいて、征服者スペインに果敢に抵抗した英雄なのだが、なんとまあ、この人の名前が声に出して言えない日本語(笑)。「お」をつけて敬称で呼んだりした日にはもう~~(爆)。


 映画の感想はこちら、「シネマ日記」をどうぞ。↓
http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/050609.htm


アガンベン月間ようやく始まる

2005年07月03日 | 読書
 今日は柳楽優弥くんの新作「星になった少年」の親子試写会の招待券が当たったのでそれを見に行くはずだったのだ。なのになのに、非情なわが次男S次郎は「ぼくはアクションものとコメディしか見ぃひんねん」と頑として言い張り、どうしても一緒に行ってくれない。なだめてもすかしても食べ物で釣ってもだめ。泣く泣く試写会をあきらめた。ちぇ~~! だって「必ず親子でご来場ください」って書いてあるんだも~ん(悔)。

 さて、アガンベンの著書だが、日本語版の出版は

スタンツェ -- ありな書房, 1998.10
人権の彼方に -- 以文社, 2000.5
 アウシュヴィッツの残りのもの -- 月曜社, 2001.9
中身のない人間 -- 人文書院, 2002.12
ホモ・サケル -- 以文社, 2003.10
開かれ -- 平凡社, 2004.7


という順番だが、今回の「アガンベン月間」では、上記の内、4冊を原著刊行順に読む。つまり、『ホモ・サケル』『人権の彼方に』『アウシュヴィッツの残りもの』『開かれ』の4冊をこの順に。

 
 『人権の彼方に』→『アウシュヴィッツの残りもの』→『開かれ』→『ホモ・サケル』を、それぞれ解説から読むようにという指導もあったのだけれど、やはり原著刊行順に読みたいという欲望にかられたので、この順で。
 ただし、師の指示に従ってまずは『開かれ』の訳者解説から読み始めることにした。

 でもその前に図書館から借りた本を読まなくては(汗)。いま、4冊の本(フォークナー『八月の光』、内田樹・釈徹宗『はじめたばかりの浄土真宗』、大塚英志『「おたく」の精神史』『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記 増補新版』)を同時に読んでいるので、それを先に片づけてからアガンベンにとりかかる。って、いったいいつ「アガンベン月間」が始まるんやろ~(大汗)。

 というわけで、本日は試写会の代わりに風呂掃除。カビ取りしようとすのこをどけてみたら……ああっ、宇宙人の襲来か?! いやさ、大量の黒カビやんか。あまりのことに絶句して、本日は念入りに大掃除。浴室の天井も壁も掃除してあとはキトサンの防かびスプレーを塗布した。
 久しぶりに浴室乾燥機のフィルターをはずしてみたら、カビが生えている。せっかくの乾燥機なのにほとんど使わないものだから、カビが生えてしまったではないか。今日こそお役に立ちます、じとじとジメジメの洗濯物を乾燥させた。

 ま、こういうことをしているから読書タイムもなかなか作れない。最近なぜか頭が痛くて夜はすぐに寝てしまうし、これはメガネを替えたせいかな? 

 いろんなことを考えながら風呂掃除をしつつ、「こうやって休日は掃除やら買い物やら料理の仕込みやらに追われて終わるのが働く主婦の日常かぁ」とうんざり。日常といえば、最近読了した『日常・共同体・アイロニー』というミヤダイと仲正昌樹の対談本がおもしろかったので、「日常」についてちょっとブログで書いてみようと思う。たまたま、今日読んでいた『はじめたばかりの浄土真宗』でも「日常と非日常」というくだりに行き当たったし。

 さて今日もあと1時間半。残りの時間で何ができるかな。