ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

バタイユ論『歴史と瞬間』(2)

2006年09月10日 | 読書
 わたしがバタイユ論をさぼっているうちに、ソネアキラさんが湯浅博雄『バタイユ』についてアップされた。うっ、これは無言の催促かはたまたエールか、プレッシャーか(笑)。

 ま、おかげで湯浅さんのバタイユ論について書く手間が省けたというもので、曽根さん、ありがとうございました。

 曽根朗さんのバタイユ論は卒業論文ということで、まさに若さ溢れるきびきびした文章が微笑ましい。論文というよりはエッセイ風の文体が馴染みやすさを醸し出している。

 確かに曽根さんの論文を読んでもバタイユの全体像はわからない。バタイユの伝記的研究でもない。作品の逐条的な解説でもない。けれど、バタイユを読んだ若き日の曽根さんがバタイユに心酔していく様子が手に取るようにわかる。そして、よく難解な本をたくさん読まれたものだと感心するのが、引用されたバタイユ論の数々だ。サルトル、デリダ、フーコー、ブランショ、etc.
 
 特に印象に残ったフレーズは

 《難解なものに価値を認めるなんてヘーゲルだけで沢山ではないか。》
 《バタイユの著作の根底にあるのは、憤怒である。怖れでもなければ、慄き、嘆きでもない。》
 《バタイユは悪をとらえようとした》
 《机に向かって書くのではなく、カフェテラスで書くっていう、そういうのがモラリストだと思う。》
 《バタイユの顔は、結局一つなのだ。聖人か、ペテン師か二者択一することができない。》

これは若き曽根朗のバタイユである。30年近く前、曽根朗という学生はバタイユをこう読んだ。バタイユを「憤怒の人」ととらえたところが面白い。それはひょっとして、当時の曽根さんがやはり「憤怒の人」であったからかもしれない。あるいは、どんなに明るくのんびりしたように見えても、底には「憤怒」を抱えていたのかもしれない。カフェテラスで書くことに評価を置く態度は今と変わらないように思う。

 バタイユ論を読んでわたしは思わず曽根朗論を論じてしまいました(笑)。曽根さん、失礼をお許しください。なんだか曽根さんがとても近くに感じられました。


 さて、『歴史と瞬間』はバタイユへのアプローチに「時間」という主題を用いた研究書だ。これまで、湯浅博雄氏が「消尽」というテーマで魅力的なバタイユを論じてこられたが、バタイユを「時間」というタームで分析した研究者はほぼいなかったと言える。バタイユ自身は時間論とよべるようなものは書いていないにもかかわらず、バタイユを理解するときに「時間」は避けられない重要なテーマだそうだ。

《 私たちの誰もが、たとえば風景の美や心地よさにわれを忘れ、陶酔し、意識を不分明にくもらせるとき、知らず知らずのうちに、こうした「瞬間」を生きている。その意味で、これはごくありふれた経験である。だが、にもかかわらず、それは私たちの意識にとって把握不可能なままにとどまっている。この経験を誰もが知っていながら、誰ひとりとしてそれを明確に意識していない。こうした瞬間は、必然的に私たちの意識や言語からこぼれ落ちるのであり、私たちはそれを避けがたく忘却してしまうのである。……平静な意識活動にあらがうものであるこの瞬間は、「忘却」の経験と深い関係をもっている。したがってそれは、歴史上にその痕跡をけっして十全には残さない。なぜなら、歴史とはつねに記憶され、言葉で記録され、想起され、読まれうるもの、まさしく忘却にあらがうものの総体にほかならないからである。この意味で、瞬間の経験とは、すぐれて〈非-歴史的な〉経験であると言わなければならない 》 p16

 そのときそのときの「瞬間」の蕩尽に生きたバタイユ。彼にとっては未来への投企など意味のないことだったのかもしれない。著者和田康氏は歴史をつかもうとして「瞬間」に着目した。常に忘却へと開かれるその「瞬間」をバタイユはどうとらえたであろうか。(以下、続く)

ユダヤの知性

2006年09月01日 | 読書
 内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』を読んでいちばん疑問に思ったことは、ユダヤ民族がそこまで高度で世にも珍しい知性の発展のさせかたを民族的伝統として培ってきたというのなら、なぜイスラエルは殺戮をやめないのか、ということだ。

《 だから、「神=隣人を追い払う」という起源的事実は、善性を基礎づけるためには、決してあってはならないことなのであるにもかかわらず、私の善性を基礎づけるために、「かつて私は主を追い払った」という起源的事実にかかわる偽りの記憶を私は進んで引き受けなければならないのである。 実際に罪を犯したがゆえに、有責性を覚知するのではなく、有責性を基礎づけるために、「犯していない罪」について罪状を告白すること。それが「私は自分が犯していない罪について有責である」という言葉にレヴィナスが託した意味である。(略)

 人間は間違うことによってはじめて正しくなることができる。人間はいまここに存在することを、端的に「存在する」としてではなく、「遅れて到来した」とう仕方で受け止めることではじめて人間的たりうる。そのような迂路によってレヴィナスは人間性を基礎づけたのである。》
  p.223-225 原文の傍点省略

 これについてはぜひ内田さんに書いてもらいたいものだと思う。確か内田さんはブログで、「『ここはわれわれの父祖伝来の土地だ』と言い張る人間のタイムスパンが2000年というようなときには、もうハナから話が合うはずがない」という意味のことを書いていたな。