ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「意識通信」

2003年09月30日 | 読書
この本をごく普通のコミュニケーション論だと思って読むと、第2部で仰天してしまう。まるでSF小説を読むかのようだ。そこに描かれる近未来の電子コミュニケーションは、イメージの洪水の中で集団意識に染まりながら、交流者どうしが互いの意識を通わせ社会の夢を見る、というものだ。

 読者はこの第二部を読むうちにラリってくる。とても心地よい。おいしいお酒を飲んで酔っ払っているような気分になれる。
 だが、酒も飲みすぎると二日酔いになる。この「意識通信」もとてつもない危険を孕む。
 森岡さんが描いた近未来のコミュニケーションモデルは映画「マトリックス」を彷彿させる。人間は眠り続けて夢の中を生きる、そのような「現実を忘れた意識交流」の世界が、果たして何をわれわれにもたらすのか? 
 いや、森岡氏は「現実を忘れた」仮想現実の世界ではなく、その意識通信の世界こそが現実社会へとフィードバックされる現実そのものだ、と反論するだろう。

 本書はインターネット以前にネット社会の実態を予言した書として評価されているようだが、実際には今のネット社会は本書で描かれたよりももう少しバラエティに富んだものになっているとわたしは考える。森岡氏はとりわけ匿名社会のコミュニケーションに焦点を絞って分析を進めるが、今のネットは膨大な匿名社会と分散的な実名の社会が錯綜している。実名サイトの中にも匿名と実名が入り乱れ、かなり複雑な様相を呈しているのだ。
 本書によると、パソコン通信時代にもそのような複雑な錯綜はあったようだが、今のネット社会の爆発的な膨張を目の当たりにすると、自体はますます進化発展していると感じる。

 確かに、10年前にネットコミュニティの到来を予言し、単なる情報交換以上の意識の交流/受容と個々人の意識の変容が実現することを看破した森岡さんの先見の明には脱帽する。

 だが、今読んでも価値ある点は、そういった「予言」が当たったかどうかという当てもの的好奇心を満足させることにあるのではなく、第2部に著されたような、コミュニケーション論の表現そのものにある。何が書いてあるかということよりも、このような書き方で新たなコミュニケーション・モデルを示してしまったそのすごさにこそ驚嘆だ。豊かなイメージの爆発そのものも魅力的だが、わたしはむしろこんなとんでもないものを書いてしまう森岡正博という哲学者ご自身にいたく興味を引かれた。

 第2部で展開されている近未来の電子コミュニケーションもおそらくほどなく実現するだろう。それが森岡氏のイメージどおりに社会の夢を心地よく見る装置だと仮定して、それが果たして「よき物」なのかどうか。現実逃避の仮想空間なのか、現状変革へと向かう意識の交流現場なのか。その評価について著者は明言を避けている。

 「ドリーム・ナヴィゲーター」と著者が命名した「ホスト」が電子コミュニケーションの参加者たちの意識をデザインしていくさまは、個人意識や集合意識を統御する万能の神のようにも感じられる。「ホスト」の意思次第で参加者は洗脳されてしまう危険をもつ。

 このようなコミュニケーションが森岡氏の予言どおりに実現するとすれば、わたしたちは今、テクノロジーによって個人意識も集合意識も左右される時代を目前にしているということになる。わたしはこのような社会の到来に慄然とする。と同時になにかしら期待感を込めた興奮を感じる。

 『宗教なき時代を生きるために』を読んだときにも思ったが、本書を読んでさらに思いを強くした。森岡さんの小説を読んでみたい、と。早く大学教員なんか辞めて作家になってほしいものだ。哲学者の書く小説はおもしろくないとか言われるけれど、森岡さんならきっとおもしろいものを書かれるだろう。近刊『無痛文明論』も楽しみだ。

意識通信 (ちくま学芸文庫)

2003年09月30日 | 読書
意識通信 (ちくま学芸文庫)
森岡 正博著 : 筑摩書房 : 2002.7


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この本をごく普通のコミュニケーション論だと思って読むと、第2部で仰天してしまう。まるでSF小説を読むかのようだ。そこに描かれる近未来の電子コミュニケーションは、イメージの洪水の中で集団意識に染まりながら、交流者どうしが互いの意識を通わせ社会の夢を見る、というものだ。

 読者はこの第二部を読むうちにラリってくる。とても心地よい。おいしいお酒を飲んで酔っ払っているような気分になれる。
 だが、酒も飲みすぎると二日酔いになる。この「意識通信」もとてつもない危険を孕む。
 森岡さんが描いた近未来のコミュニケーションモデルは映画「マトリックス」を彷彿させる。人間は眠り続けて夢の中を生きる、そのような「現実を忘れた意識交流」の世界が、果たして何をわれわれにもたらすのか? 
 いや、森岡氏は「現実を忘れた」仮想現実の世界ではなく、その意識通信の世界こそが現実社会へとフィードバックされる現実そのものだ、と反論するだろう。

 本書はインターネット以前にネット社会の実態を予言した書として評価されているようだが、実際には今のネット社会は本書で描かれたよりももう少しバラエティに富んだものになっているとわたしは考える。森岡氏はとりわけ匿名社会のコミュニケーションに焦点を絞って分析を進めるが、今のネットは膨大な匿名社会と分散的な実名の社会が錯綜している。実名サイトの中にも匿名と実名が入り乱れ、かなり複雑な様相を呈しているのだ。
 本書によると、パソコン通信時代にもそのような複雑な錯綜はあったようだが、今のネット社会の爆発的な膨張を目の当たりにすると、自体はますます進化発展していると感じる。

 確かに、10年前にネットコミュニティの到来を予言し、単なる情報交換以上の意識の交流/受容と個々人の意識の変容が実現することを看破した森岡さんの先見の明には脱帽する。

 だが、今読んでも価値ある点は、そういった「予言」が当たったかどうかという当てもの的好奇心を満足させることにあるのではなく、第2部に著されたような、コミュニケーション論の表現そのものにある。何が書いてあるかということよりも、このような書き方で新たなコミュニケーション・モデルを示してしまったそのすごさにこそ驚嘆だ。豊かなイメージの爆発そのものも魅力的だが、わたしはむしろこんなとんでもないものを書いてしまう森岡正博という哲学者ご自身にいたく興味を引かれた。

 第2部で展開されている近未来の電子コミュニケーションもおそらくほどなく実現するだろう。それが森岡氏のイメージどおりに社会の夢を心地よく見る装置だと仮定して、それが果たして「よき物」なのかどうか。現実逃避の仮想空間なのか、現状変革へと向かう意識の交流現場なのか。その評価について著者は明言を避けている。

 「ドリーム・ナヴィゲーター」と著者が命名した「ホスト」が電子コミュニケーションの参加者たちの意識をデザインしていくさまは、個人意識や集合意識を統御する万能の神のようにも感じられる。「ホスト」の意思次第で参加者は洗脳されてしまう危険をもつ。

 このようなコミュニケーションが森岡氏の予言どおりに実現するとすれば、わたしたちは今、テクノロジーによって個人意識も集合意識も左右される時代を目前にしているということになる。わたしはこのような社会の到来に慄然とする。と同時になにかしら期待感を込めた興奮を感じる。

 『宗教なき時代を生きるために』を読んだときにも思ったが、本書を読んでさらに思いを強くした。森岡さんの小説を読んでみたい、と。早く大学教員なんか辞めて作家になってほしいものだ。哲学者の書く小説はおもしろくないとか言われるけれど、森岡さんならきっとおもしろいものを書かれるだろう。近刊『無痛文明論』も楽しみだ。(bk1)



「言葉果つるところ」

2003年09月28日 | 読書
 心がそよそよと風に誘われて泡立ち、清浄な水に洗われて静かに浜辺に打ち寄せるような本。おさかなさんと対話しているような気持ちになれます。

 鶴見和子のきっぷのいいしゃべりかた、理知的で潔い。鶴見の歌集は以前、書店で立ち読みした覚えがある。いくつか印象に残った歌があったことを思いだす。でもどういう歌だったのか、出てこない…

 この対談は読み終わって清々しい気持ちになれる、とてもいい本だった。だが、引っかかりを感じた部分もある。それは、鶴見和子が柳田国男の言葉を引用して、「四角い言葉、丸い言葉」というくだりだ。
 学者は四角い言葉を使う。下町の/地方の/ふつうの人々は丸い言葉を使う。普通の人々も、日常会話では丸い言葉を使うのに、公共空間や改まった場では四角い言葉を使う。
 鶴見は自身の言葉がついつい四角い言葉になってしまうことを反省し、「ああ、とっても嫌だわ、こういう言葉」「魂というのは感性、またこれも硬い言葉だけれど、感じとる力なの」と、対談の途中で何度も言葉の言い換えを行う。

 丸い言葉がよくて四角い言葉が悪いのか? むやみに理解不能な難しい言葉をふりまわすことにはわたしも確かに嫌悪感を感じるが、四角い言葉を使わなくては語れないこともあるだろう。鶴見の頭の中は常に「知識人対教養のない人びと」という二項対立が埋めがたくあるようだ。彼女が東京山の手のお嬢様だからこそ、水俣の田舎言葉を話す「教養のない人々」の語る言葉に「感動」し、彼らから学ぼうと一生懸命そこへ降りていこうとするのだろう。

 その「努力」はわたしのような人間には奇異に映る。大阪という地方の大都市に育った中産階級のわたしは、上流階級出身の知識人鶴見和子と田舎の村の人々との間で自分の身の置き所に苦慮する。わたし自身の立ち位置を決めかねて、居心地の悪さを感じるのだ。
 わたしは鶴見和子のひたむきで誠実な姿勢に共感を寄せながらも、どこか痛々しさを感じてしまう。なんでそんな無理をするのだろう、と。彼女は脳梗塞で半身不随になったことにより、水俣病の人々の痛苦が少しは理解できるようになった、と語っている。彼女にとってはありのままの自分では水俣の人々を理解することができなかったのだろうか。どこかに「欠損」がなければ病に苦しむ人の心情は理解できないものなのだろうか。もしそうなら、水俣には健康で豊かな生活を送っている者には想像力の及ばない苦しみがあって、永遠に両者の溝は埋められないものなのだろうか。

 丸い言葉に拝跪し始めれば、知性はとどまるところをしらない後退をみる。日常会話の語彙と抽象的思考の貧困さに寄り添うことが果たしてよいことなのだろうか。
 ところが、ここで鶴見和子は「丸い言葉を磨いて玉にする」という表現を使ってこの「難局」を乗り切る。学者も作家も丸い言葉と四角い言葉の狭間で引き裂かれて苦悩するのだが、その二つの言葉を橋渡しする営みを鶴見は「丸い言葉を磨いて玉にする」と命名した。
 石牟礼道子も同じように語る。「橋を架けたいという願望はあるんです、両方に。非人格的な知性と、いつも魂がどこかに遊びに行っているような情念の世界、その両方に…架け橋を紡いでる、蚕の糸みたいなものを吐いて紡いでいる気がしておりますが、成功しているかは。」(176p)

 このくだりを読んで、わたしのひっかかりはするすると解けていくような気持ちになった。彼女たちは一つの答を見いだしている。けれど、その答にも、まだ苦悩は払拭されたわけではない。作家も学者もこの苦悩の中で創作と思索を続けていくのだろう。

 ところで、本書で大きなテーマとなっているアニミズムについては、わたしもここ数年、関心が深まりつつある。わたし自身は信仰心を持たないけれど、人知を超えた「神」とも呼ぶべきものの存在を強く感じるようになってきた。宇宙や、空や、風や雲が神なのだと感じる。そこに横たわる究極の美ともいえるような物理の法則や、偉大な力を感じるとき、わたしたち人間は生かされてあるのだと強く感じる。
 人の運命や宿命といった、個々人の力では抗いがたいものもあるのではないかと思うし、その一方で、運命は人が自らの力で呼び寄せるものだとも思う。それは人と人が呼び合って紡ぎ出す力だ。そんな思いを少しずつ強く感じるようになってきたときに本書を読んだので、多くの示唆をうけた。特に「魂入れ」や「風土」というキーワードは、鈴を鳴らすように響いてきた。そう、この本にはたくさんの鈴がついていて、どこが鳴るか、どの鈴が読み手の耳に届くか、さまざまに楽しむことができる。

 わたしは大学生のとき、ユージン・スミス写真展「水俣」を見たことがある。一枚の写真の前で身動きできなくなり、一人静かに涙を流したことを思い出す。それは胎児性水俣病患者上村智子さんとその母親が入浴している有名な写真だった。
 水俣とわたしとのつながりは細いけれど、毎年のように食べていた無農薬みかんを送ってくださった農家とも、引越しのどさくさにまぎれていつのまにか連絡が途絶えてしまった。もういちど細い糸をたどってみようと思う。
 石牟礼道子の著作は断片的にしか読んだことがなかった。名著『苦海浄土』も未読である。これをきっかけに改めてきちんと読んでみようと思ったし、最新刊『アニマの鳥』『煤の中のマリア』も読みたい。

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言葉果つるところ
石牟礼道子, 鶴見和子著. 藤原書店, 2002.
(鶴見和子・対話まんだら ; 石牟礼道子の巻)

彗星の住人

2003年09月12日 | 読書
彗星の住人
島田 雅彦著 : 新潮社 : 2000.11

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最近こんなに夢中になって読んだ小説があっただろうか?
 4代100年にわたる恋の物語、登場するのは蝶々さんとピンカートン、マッカサー元帥に原節子、描かれるのは日米関係史。

 波乱万丈の恋物語が一人の盲目の女性によって語られ、その聞き手は彼女の姪である。さらにその語り部と聞き手二人を描く超然者たる作家の語りがある。
 物語は複雑で、過去を自在に遡りまた現在へと揺れ戻し、再び大過去から小過去へ向かって流れる。

 「純文学書き下ろし」と銘打たれた小説であるが、エンタメ作品としてのおもしろさを存分に味わえる作品だ。作家が歴史について語りたいこと、戦争について、外交問題について、ナショナリズムについて、それらの硬質な部分のエッセンスが中性子星なみに凝縮されている。そして超新星へと大爆発を遂げるそのいまわの際でこの作品は終っている。
 
 早く次が読みたくてたまらなくなること請け合い。もー、わたしはこの続き『美しい魂』が読みたくて読みたくて身もだえしております。
 
 歴史に題材をとり、20世紀を総括する意欲に満ちたファンタジーとしては、『海辺のカフカ』よりはるかに血沸き肉踊る作品。

 ぜひNHKの大河ドラマにとりあげてほしい。無理だろうなぁ。(bk1)


サバルタン研究

2003年09月11日 | 読書
 太田さんの知のあり方にはとても共感する。ゲバラやキューバ革命を相対化し批判する。かといって「今だから言える」ような批判をのうのうとたれるようなことはしない。歴史の痛みを我がこととして捉える感性には共鳴しきり。
 ただし、本書は評論集なので同じ記述の重複があったりしてやや冗漫。ま、しかたないか。
 本書はゲバラの伝記ではないから、先に何冊か読んでおいたほうが理解に役立つ。

ゲバラを脱神話化する / 太田昌国著. -- 現代企画室, 2000


こういうのを読むと『サバルタンと歴史』(崎山政毅著 青土社 2001)と通底するものを強く感じる。彼らはともに南米の農民たちに心を寄せ、その革命のロマンに心弾ませることから研究生活に入った。太田さんは学界人ではないから、語法が多少違う(とても読みやすい)が、崎山さんももう少し読みやすく書いてくれたら助かるのだが、彼の論もやはり「社会変革」の多様性について苦渋の言葉が連なる。「サバルタン」とよばれる植民地従属国の虐げられた人々の存在を十把一絡げに語るような先進国研究者の語法に異議を申し立てる内容なのだが、それがまたけっこう複雑な思考経路を辿っていく。下手をすると無限循環論法に陥るのではないかと錯覚するぐらいだ。
 ニカラグア革命をとりあげた部分の論考では具体的な状況が描かれているため、ここは生き生きした叙述が見られ、著者崎山氏の「ロマンティスト」たる本領発揮といった感があり、わたしは大変好感を持って読んだ。革命は貧しい農民達を解放しなかったこと。白人である社会主義者たちが先住民固有の文化を無視して上から革命を推し進めようとして結局は失敗したこと、が描かれている。
 これはゲバラが社会主義革命を夢見てコンゴへ赴き、そこでのゲリラ戦に失敗して失意のうちに帰国したことと同じ文脈で読むことができる。「サバルタン」への眼差しがいかに厳しくサバルタン自身によって見据え返されるものなのか、歴史の痛苦な反省を崎山氏はわたしたちに呈示する。

 一読して感じることは、松田素二著『抵抗する都市』と共通する認識が本書を貫いているということだ。研究者はどの位置に立つのか? 他者の語りに耳を寄せるとはどういうことなのか? それを先進国学界の言葉で表現することは何を意味するのか?
 現状へのコミットメントを真摯に願う研究者ほど、今は混迷の中にあるが、その苦しみと模索の中から何かが生まれる、と希望をもちたい。


ためらいの倫理学 (角川文庫)

2003年09月09日 | 読書
ためらいの倫理学 (角川文庫): 戦争・性・物語
内田 樹著 : 角川書店 : 2003.8


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単行本は既に買って読んだというのに、新しいテキストが4本入って高橋源一郎の解説文も掲載されているとか聞くと、ついつい買ってしまったではないか。わたしってほんとうにウチダ先生の忠犬ハチ公みたいやねぇ。

 といいながらまた悪口を書いてしまいそうな悪い予感が…

 本書は二度目に読んでもやっぱり面白い。今回新たに加わったテキストのうち、「有事法制について」などはその論理展開の見事さに舌を巻いた。
 曰く、「単純計算すると、わが国が「有事」を経験したのは「有史」以来4回。平均のインターバルは182年。……次に日本が外国武装勢力に本格的に侵略されるのは2309年頃である」から、今の日本は「有事」に直面する前提などない、今は「無事」なのだ、とな。

 ウチダ氏は、「有事法制」を「無事法制」だと言い切り、賛成する者も反対する者も全員が「ほんとうに日本の国家主権が危機的な状況」など絶対に来ないということを気楽に信じている、と述べる。だから、有事法制に対しては「情けない」と自嘲する以外に批判の方途がないという。本気で有事法制に立ち向かうには、徹底した軍事大国化の道しかないそうだ。
 なんかもう天晴れな論理なので、わたしはその牽強付会の解釈にも「恐れ入りました」とほんとうに恐れ入った。

 本書の内容詳細については既に単行書と文庫に優れた書評がついているのでそちらに譲るとして、今回改めて感じたことを手短かに述べよう。

 ウチダ氏のおもしろさとわかりやすさの最大の理由はそのユーモラスな文体にあるのだが、これが高橋源一郎にそっくりであることを知ってしまった(今ごろ知ったのかと突っ込まないよーに)。寡読にして高橋源一郎の作品を知らないものだから今ごろ気づいたが、飄々として控えめでその実きつーいことをきっぱり言う。この物言いが読者を惹き付けるのだろう。

 だが、「私は審問の語法で語らない」とか「『私は正しい』ことを論証できる知性」はよくないと言いつつ、ご自分でちゃっかりその位置取りを守っているのだから、ちょっとズルイ。「私は自分が間違っているかもしれないという留保をいつも担保しているよ」と言うことによってしっかりご自分の後背地を守っている。頭のいい人だ(まあ、こういう論はつきつめれば循環論法に陥るのでやめておく)。

 また、「私はよく知らない」とか「わからない」と何度もウチダ先生は言うが、実は「知らない」ということを知っているというのはすごいことだ。すっとぼけているようでいてそうではない。このあたりの奥義も読者の腋の下にこちょこちょと指が届くような心憎さである。

 ウチダ氏の魅力はユーモラスな文体にあるだけではなく、「とほほ主義」とご自分でおっしゃる「ためらい方」にある。つい耳を傾けたくなるような深遠な反省の思弁を謙虚さのオブラートに包みつつ辛辣に語る、その批評精神の鋭さではないだろうか。

 こうしてまたわたしは、なんじゃかんじゃと文句を言いつつ、悪魔に魅入られたようにウチダ先生の虜になったのであった。(bk1)