ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

チェ/39歳 別れの手紙

2009年02月28日 | 映画レビュー
 第1部でキューバ革命が成功したと思ったら、第2部ではキューバのその後をまったく描かず、いきなりゲバラはキューバを脱出する。実は上映直前にお腹の調子が悪くなってトイレに籠もっていたので、巻頭を見損ねてしまった。ゲバラがカストロに宛てた別れの手紙を当のカストロが読み上げるシーンがあるはずなのだが、それを見ていない! 残念無念。

 で、あっという間にボリビアでの山岳ゲリラ戦が始まるのだが、これがもうひたすら退屈。いくらゲバラを追体験する映画だからって、いくら臨場感を出したいからといって、あんまりにも記録映画みたいに撮ってしまうもんだから画面が揺れすぎて、目が疲れて眠くなる。というわけで、おそれていたとおり、やっぱり寝てしまいました…(涙)。うつらうつらとあっちの世界へ入っていた、これはいかん!とはっと気づくと延々と銃撃戦をやっている。鉄砲を撃っていたと思うとボリビアのゲリラ兵士(貧農)たちが脱走する。ありゃー、と思っているうちにまたしてもうつらうつら…で、目が覚めたらやっぱりさっきと同じように山の中を銃を担いで行軍しているかと思えばゲバラは喘息に苦しんでゼーゼー言っている。気の毒に…と思ってまたうつらうつら…目が覚めたらやっぱり山の中で、またしても兵士が脱落してゲバラが怒っている…あぁ、また眠いグゥ…と思ったらまだ山の中で、食糧がないとか言っている…ううう


 てな具合で繰り返しているうちに、とうとうゲバラがボリビア政府軍に捕まってしまったではないか。ちっともいいところを見せられなかったゲバラである。これは辛い。まあ、史実だからしょうがないけど。さすがにゲバラが捕まってからはバッチリ目が覚めていたので、最後まで緊張して見ておりました。

 かつて読んだ血湧き肉躍る「ゲバラ日記」には、ゲバラが軍紀を乱した兵士を処刑する場面が出てくる。日記ではゲバラの苦しい胸の内が描かれているのだが、映画ではゲバラは情け容赦ない司令官のように見える。ゲバラは、キューバ革命が成功した後は、閣僚の中で孤立したらしい。いわく、彼があまりにも自他に対して厳しく、自分のように倫理的に振る舞うことを他者にも求めたからだという。確かに、誰もがゲバラになれるわけではない。彼のような理想主義者、彼のような高い知性、彼のような高い倫理性、彼のような勤勉。誰もが彼のようにはなれない。しかし、この「チェ」という映画を見るだけでもわかることは、ゲバラが革命兵士に対して自分のような高い倫理を求め、それを守れない人間には粛清という「返礼」をなしたことだ。ラテン国家ではこれはつらいことだろうと思う。ゲバラがその余りにも厳しい人格ゆえに閣僚に疎んじられたことは想像に余るある。いかにゲバラが愛に満ちた革命家であっても、それを誰もが倣(なら)うことは不可能なのだ。

 ゲバラは39歳で夭折した。しかしもし彼が権力の中枢に居座り続けたら、キューバでは恐るべき粛清の嵐が吹き荒れていたかもしれない、とも思う。常人では真似のできない理想主義者であったからこそ、そしてそんな畏敬すべき革命家が夭折したからこそゲバラは伝説になった。もし彼が長生きしていたら… 

 歴史に”if ”はタブーである。わたしはもちろん今でもゲバラファンであるが、しかし彼の欠点もまた見据えねばならないと思う。世界革命を夢見てすべての権力を投げ打った希有な革命家が存在したこと、それは20世紀の一つの奇跡であろう。
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チェ 39歳 別れの手紙
CHE: PART TWO
フランス/スペイン、2008年、上映時間 133分
監督: スティーヴン・ソダーバーグ、製作: ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ、製作総指揮: アルバロ・アウグスティンほか、脚本: ピーター・バックマン、音楽: アルベルト・イグレシアス
出演: ベニチオ・デル・トロ、カルロス・バルデム、デミアン・ビチル、ヨアキム・デ・アルメイダ、エルビラ・ミンゲス、フランカ・ポテンテ、カタリーナ・サンディノ・モレノ

ブレス

2009年02月25日 | 映画レビュー
 ちょっと独りよがりが過ぎたんじゃないのでしょうか、キム・ギドク監督。わたしとの相性でいえば、実に当たり外れの大きい監督です。で、今回は外れ。 

 刑務所で自殺未遂を繰り返す死刑囚に興味をそそられた孤独な人妻が死刑囚に面会に行く。本来ならば面会できる資格もないのだが、「昔の恋人です」と言い張ってなんとか彼と面会をはたし、面会の度に面会室を四季折々の壁紙ではりめぐらせたり服装も四季折々に合わせて替えてみたりといろんなことを試みるけれど、不思議なことについにはその人妻と死刑囚とは情交を交わすこととなり……

 絶対にありえない設定だけれど、そのありえない設定でも、物語の核心部分にリアリティがあれば観客は納得する。そもそも死刑囚が収容されているということになっている刑務所が、日帝時代の刑務所であり、現在では博物館となっているところだ。だから、ヒロインが死刑囚への面会を求める窓口が実はその博物館のチケット売り場であり、その窓口をそのままロケに使っているものだから、どう見ても刑務所の受付には見えず、博物館のチケット売り場にしか見えないところが苦しくもお笑いである。韓国の事情は知らないが日本では死刑囚は刑務所ではなく拘置所に拘置されている。面会も家族しか許されていない。それに死刑囚は雑居房ではなく独房に居るのだ。そのあたりもリアルな世界とは無縁なこの物語に納得できるかどうかが問題となる。

 いや、そもそもがファンタジーなんだからそんなリアリズムはどうでもいいことだとしよう。そこは譲ったとしても、物言わぬ死刑囚と夫に浮気された人妻というおよそ出会うはずのない二人のコミュニケーションになにか切羽詰まったものを描かないと観客には伝わってこないのに、この映画ではそのあたりの描写がまったくない。これではあまりにも独りよがりと言えよう。中国人俳優チャン・チェンを主役に使ったというので、どうやって言葉の壁を越えさせたのかと思ったら彼には一言の台詞もないのだった。台詞がないのならないなりに彼にもっと一人の死刑囚の絶望や悔悟を超えた普遍的ななにものかを呈示されないと、わたしは共感も追体験も得ることができない。 

 それに、面会室での彼らの濡れ場を監視カメラを通して覗き見ている所長(?)の存在というものがまたあざとく狙いすぎ、と思う。演じているのがキム・ギドク監督その人だというではないか。所長と観客と監督が一体となって神の視線となるこの映画には、わたしたち自身の下世話な覗き趣味を冷笑するかのような底意地の悪さが感じられて、品の良さを感じない。テーマには惹かれますが、わたしの趣味には合いませんでした。(R-15)(レンタルDVD)

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ブレス
韓国、2007年、上映時間 84分
製作・監督・脚本: キム・ギドク、音楽: キム・ミョンジョン
出演: チャン・チェン、チア、ハ・ジョンウ、カン・イニョン、キム・ギドク

戦火の奇跡 ~ユダヤを救った男~

2009年02月24日 | 映画レビュー
前後編、一気に見てしまいました!

 少し前に、芸能人のブログが炎上し、殺人犯と間違われた彼が不特定多数の人々から「死ね」「殺す」とコメント欄に書き込まれて逮捕者が20人近く出る事件があった。あのとき、逮捕された女性の一人は「●●さんが殺人犯だと思いこんでいた。正義感からやった」と証言していたとラジオニュースで聞いた。正義感! もはや日本語の正義感は死語となったらしい。自分を棚上げして他者を誹謗中傷することが正義感とはこれいかに。匿名で相手をののしることが正義感というのだろうか。自分は何も曝さず何も傷つかず高見に立って「殺す」と書くことが正義感とは。

 正義感とは、やむにやまれぬ事情から発揮するものなのではなかろうか。自分が窮地にあるときにこそ発揮してこそ本当の正義感であり、自分の命を危険に曝すことによって行使されるのが正義というものではないのか? 翻って、わたし自身がその逮捕された女性たちを非難する資格があるのか、という自問を常に忘れたくないと思う。

 さて、この映画の主人公、実在のイタリア人、ペルラスカこそがまさに正義感の人であったと言えるだろう。たまたま仕事のためにハンガリーにやってきたイタリア人が、ユダヤ人へ弾圧を目の当たりにして彼らを救おうとふと温情をかける。しかしその温情は実は命がけなのだ。ハンガリーは当時ドイツ、イタリアとともに枢軸国側にあり、事実上ドイツの支配下にあった。ドイツ軍がうようよしている中、またハンガリーのファシスト政党「矢十字党」の目が光る中でペルラスカは大胆にもスペイン領事を装う。彼の機転といい、勇気といい、これは天性のものなのだろう。それに女性を口説くのが好きだし。ユーモラスな場面では思わずにやりとしてしまう。

 彼が大使館の中に匿い救い出した人々は実に5000人にも及ぶ。一方、救うことができずに虐殺された人々も数多い。テレビドラマだけにわかりやすい展開は長さを感じさせず、手に汗握る数々の起伏あるドラマに仕立てられている。しかもそのドラマが抑制された演出によって描かれているため、緊張感が持続する。大勢の登場人物のそれぞれの物語の描写も丁寧であり、彼らの運命の分かれ目が見る者の心を引き裂く。 

 この正義の人、そして女好きのイタリア人ペルラスカは自らの英雄的行為を誰にも語っていなかった。彼に救われたユダヤ人女性達がようやくペルラスカを発見したのは1988年である。なぜ黙っていたのか、と問われたペルラスカは「なぜ語る必要があるのか?」と問い返したという。ユダヤ人を助けた「シンドラーのリスト」のシンドラーはドイツ人であったし、彼は工場経営者としてユダヤ人を救うことができるだけの財力(権力)があった。日本の外交官杉原千畝が6000人のユダヤ人を救えたのも、彼がそのような職権を持っていたからだ。ともに勇気ある行動だと言えるが、ペルラスカの場合は、権力も金力もない一人のイタリア人がなんの縁もゆかりもないユダヤ人をただ突き上げる同情心から救ったという、もっとも勇敢な行動だったと言えるだろう。 

 人は英雄になろうとしてなるのではない。ペルラスカの知略が結果的に5000人以上を救うことができただけのことであり、彼の勇気も下手をすれば早い時期にその嘘を見破られてしまう可能性だってあったのだ。人は淡々と生き、信念に基づいてただひたすら懸命に自らの責任を全うすることによって、崇高な生き方だったと最後にわかるものなのだろうと思う。必見の感動作。(レンタルDVD)

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戦火の奇跡 ~ユダヤを救った男
PERLASCA. UN EROE ITALIANO
イタリア、2002年、上映時間 200分
監督: アルベルト・ネグリン、原作: エンリコ・デアグリオ、脚本: サンドロ・ペトラリア、ステファノ・ルッリ、音楽: エンニオ・モリコーネ
出演: ルカ・ジンガレッティ、ジェローム・アンガー、アマンダ・サンドレッリ、
マチルダ・メイ

ベンジャミン・バトン/数奇な人生

2009年02月22日 | 映画レビュー
 なんという上品で悲しい映画だろう。愛し合う二人は時を止めたいと願う。しかしその時が逆流していけば? 二人の時間は離れる一方。女は老いていき、男は若返っていく。この悲劇は、単なる猟奇的な物語の発想を超えて、愛のかけがえのなさとその本質を鋭く問う秀作。


 「わたしが老けて皺だらけになっても愛せる?」
 「ぼくが子どもになっておしっこを漏らしても愛せる?」

 

 1918年ニューオーリンズ、第一次世界大戦が終わり先勝ムードにわく夜にベンジャミン・バトンは生まれた。裕福な家庭の一人息子だったはずのベンジャミンだが、母は難産のため死亡、父は異形の赤ん坊におそれをなして子どもに名前もつけずに養老院の玄関先に棄ててしまう。拾われた赤ん坊はベンジャミンと名付けられ、黒人のカップルに慈しみ育てられた。生まれながらに80歳の老人だと医者に診立てられ、まもなく死ぬだろうと宣告を受けたが、彼はすくすくと成長する、一年また一年と若返りながら。やがて少年ベンジャミンはデイジーという少女と出会う。老人のように見えるベンジャミンが実は子どもであることをデイジーは一目で見抜くが、このとき二人が運命の恋人であることをまだ誰も知らない。ベンジャミンは外の世界へと旅立つ。そう、その時が来たのだ。見かけは60代の初老でも心は青春のベンジャミン、彼は船乗りとなって世界を旅し、ロシアで外交官夫人と恋に落ちる。第二次世界大戦に遭遇して船は沈没、九死に一生を得る。波瀾万丈のベンジャミンの冒険はどこへ向かうのだろう……

 物語は、ハリケーンが近づくニューオーリンズの病室で瀕死の床にある老女が語る回想として語られる。しかし、語り手は一人ではない。老女は娘にとある人物の日記を手渡し、「今まで読むのが怖かったの。今、読んで聞かせて頂戴」という。それはベンジャミンの日記と手紙の束だった。ベンジャミンが語る、数奇な人生の日々。初めて知る事実も多い、と感慨深げに苦しい息をしているのは彼の運命の恋人デイジーの老いた姿なのだ。ベンジャミンの独白とデイジーの回想によって紡がれる数奇な愛の物語は、激動の20世紀の歴史そのままに人の運命のはかなさと時のかけがえのなさを教える。

 ひとは若返ることができれば、と思うことは何度でもあるだろう。戦争で一人息子を亡くした時計職人は時間を逆戻りさせたいと切望し、逆回転する時計を作った。その悲しい思いをわたしたちは理解できる。けれど、愛する人の死も受け入れて生きていくのが人生なのだ。一つまた一つと若返ることの不思議は、一つまた一つ歳をとることの不思議となんら変わるところはない。一度きりの人生をただその時その時を息をつめ目をこらして生きていくしかないのだ。老いた赤ん坊として養老院で育ったことがベンジャミンの人生に大きな影響を与えている。養老院はいつでも人が入れ替わるところだ。老人たちはすぐに死に、また新しい老人がやってくる。その繰り返しをベンジャミンは毎日目にしながら育ったのだ。自身はどんどん若返りながら。 

 ベンジャミンとデイジーの外見年齢がほぼ同じぐらいになったとき、やっと二人は結ばれる。その時の二人の弾けた美しさはこの映画のハイライトシーンだ。ときはまさにビートルズがデビューして、若者の叛乱の季節がやってくる60年代。二人は人生の半ばにさしかかった中年カップルのはずなのに今が青春の盛りとばかりに美しく輝いている。これまで、どちらかが若すぎても老けすぎても二人の間には距離ができてしまった。若すぎるデイジーは意地を張り老いた落ち着きを見せるベンジャミンは慎重になりすぎる。しかし、ふたりが様々な人生経験を経たとき、自然に求め合い出会った二人は再び激しい恋に落ちるのだ。恋にはその時期がある。今でなければならないというその出会いの時期が。若い頃に出会っても恋に落ちなかったであろう二人が、分別盛りに若者のような恋に落ちることだってあるのだ。

 だが、幸せは長くは続かない。やがて時がまた二人を引き離してしまうことをベンジャミンは知っていた…… 

 80歳で生まれて0歳で死んでいった数奇な運命のベンジャミンの人生を見ていると、人は最後には誰もが赤ん坊に還っていくのだとしみじみ思う。ベンジャミンとデイジーとの生涯に亘る愛も、年齢を超えてはぐくまれる。何度別れても何度離れてもまた呼び合う魂。ベンジャミンの最期に安らぎを与える美しい場面には涙せずにはいられない。最後は溢れる涙を止めることも出来なかった。人はいつでも完璧な存在ではない。いつも何かが欠けている。いつも何か間違いを犯している。それでも愛し愛される資格は誰にでもあるのだ。この静かで美しい映画はそのことを教えてくれる。

 80歳から0歳まですべて一人で演じたという驚異のブラッド・ピッドには脱帽するしかない。演技力もさることながら、その特殊メイクには驚嘆の上にも驚嘆。フィンチャー監督の演出も品のある抑えたものだが、その演出に応えるケイト・ブランシェットの上品な美しさはこの上なく輝いている。登場人物の誰もが愛に満ち、ベンジャミンを棄てた父親でさえ愛に苦しむ。誰もが誰かを深く愛しながら、離れていくこと、別れていくことは避けられない。その当たり前の悲しい事実を改めてしみじみとこのような作品でわたしたちに示してくれたこの映画の関係者すべてに感謝したい。アカデミー賞受賞を期待しています。

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ベンジャミン・バトン 数奇な人生
THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON
アメリカ、2008年、上映時間 167分
監督: デヴィッド・フィンチャー、製作: キャスリーン・ケネディほか、原作: F・スコット・フィッツジェラルド、脚本: エリック・ロス、音楽: アレクサンドル・デスプラ
出演: ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ティルダ・スウィントン、ジェイソン・フレミング、イライアス・コティーズ 、ジュリア・オーモンド、エル・ファニング、タラジ・P・ヘンソン、フォーン・A・チェンバーズ

第3回ARGカフェ

2009年02月22日 | 図書館
 わたし自身が登壇者の一人となった第3回ARGカフェが京都で開かれたので、土曜日、出かけてきた。
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090119/1232321266
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090223/1235322980

 ARG(ACADEMIC RESOURCE GUIDE) を主宰する岡本真さんからは「京都で開くからぜひ」とお誘いをいただいたが、京都と大阪とはいえ、わが田舎町から会場までは3時間の余裕を見て出かけてちょうどであったので…(^_^;)

 ARGはインターネットの学術利用をテーマとするサイトであり、岡本真さんが一人で膨大な情報を日々発信されている。そのボランタリーな活動にはどれだけ賞賛を送っても送り足りない。わたしたち図書館関係者だけではなく、このARGに刺激され、恩恵を被っている者は数知れないのではなかろうか。
 
 冒頭、岡本さんは「ARGカフェは出会い系です。この場を介して多くの人々と知り合い、人の輪を広げてほしい」という意味のことをおっしゃった。「ARGカフェをきっかけに結婚していただくのもいい、仲人をという依頼にはいくらでも応える」との言に会場は大いに沸いた。

 さて、一人5分の持ち時間、しかもストップウォッチを持たされて、時間がくればぴぴぴ~と鳴って強制終了という恐ろしげな「講演」に呼んでいただいたのは初めての経験。しまった、こんなに短いとは! 練習してくればよかったよ! などと後悔したのは後の祭りで、ついつい早口で焦ってしどろもどろになりつつしゃべったものだからちゃんと皆さんに話が通じたのか心配で…

 で、結果からいえば、この「ライトニングトーク」というのはいいアイデアであると痛感した。皆さん5分の持ち時間を存分に使って実に巧みに論点を呈示してくださっている。12人も登壇できるとは満腹感いっぱいであり、かつ「もっと聞きたい!」と思わせる飢餓感にも満ちており、これほど盛りだくさんの「講演会」というのも珍しい。しかもテーマはインターネットを使った学術情報、とまあ、いちおうの縛りがあるので、その線であれこれとお話しを伺うことができた。「ARGフェスタ」と称する二次会でも存分に皆さんとお話しができて本当に充実した一日だった。

 などと締めくくる前にまずはそのARGカフェについて短評を。

 何よりも当エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)にとって大いなる関心を刺激してくださったのは、後藤真(花園大学)さんの「人文「知」の蓄積と共有-歴史学・史料学の場合」、そして岡島昭浩(大阪大学) さんの「うわづら文庫がめざすもの-資料の顕在化と連関」 である。どちらも画像データベース構築というテーマが共通している。

 後藤先生は古写真の電子化に取り組んでおられて、しかも科研費をこれでとってこようという意欲に溢れておられる点では、大いに興味をそそられた。貧乏所帯のエル・ライブラリーは多くの写真を抱えてその整理に四苦八苦していると同時になんとか電子化を、そして科研費を(^_^)と考えているので、後藤先生や岡島先生のお仕事には大いに惹かれるし、勉強させていただきたいと思った。

 「青空文庫」にオマージュを表した「うわづら文庫」を主宰されている岡島先生には、そのネーミングの卓抜さに脱帽したが、あまりにも多い画像データにも圧倒された。二次会では裏話も多少聞かせていただき、今後あれこれ教えていただきたいものと思った。うわづら文庫↓
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura.html

 また、国会図書館の小篠景子さんに(「「中の人」の語るレファレンス協同データベース」 )再会でき、三次会で親しくお話できたことが収穫であった。小篠さんの発表はなんと紙芝居! いまどき、パワーポイントは誰でも使うが、手作り紙芝居で報告されたのには大いに感じ入った。素晴らしい絵心にも溢れておられるので、ぜひこの路線で続けていただきたい。

 他の方々の発表もそれぞれに刺激に満ちていたので、以下、手短に。

・當山日出夫(立命館大学GCOE(DH-JAC))
「学生にWikipediaを教える-知の流動性と安定性」

 「陵墓」(現在では「天皇陵」)を課題に学生にウィキペディアについて考えさえたという点、大いに感嘆。二次会でもお話しを聞かせていただき、「Wikipediaは日々書き換わる。しかもそれが正しい方向に書き換わるとは限らない」という指摘には大いに首肯。わたしたちが安易に使うWikipediaの利用法について心せねばならないと痛感した。

・小橋昭彦(今日の雑学/NPO法人情報社会生活研究所)
「情報社会の“知恵”について」

 小橋さんは粋な和服で登場された。「知恵」が仏教用語とは知らなかった。しかも、これは善悪の判断を含む言葉であったとは! 二次会に参加されなかったのでお話しが聞けなかったのは残念。

・三浦麻子(神戸学院大学)
「社会心理学者として、ブロガーとして」

 社会心理学会は論文の電子化が遅れていると聞いてびっくり。わたし自身も関心のある分野だけにとても残念。三浦さんの報告はユーモアに満ちて楽しいものだったが、テレビの生放送があるとかで二次会は参加されなかったのがさらに残念。

・村上浩介(国立国会図書館)
「テレビからネットへ」
 
 これは驚くべき報告であった。ある日ある時、国会図書館のサイト内にある「カレントアウェアネス・ポータル」というページにアクセスが殺到してサーバーがダウンしたことがあった。なぜこのようなことが起きたかというと、その原因はとあるテレビ番組にあった…! という話を興味津々、面白可笑しく教えてくださった。おそるべし、テレビ。テレビをまったくといっていいほど見ないわたしにとっては信じがたいような話であった。

・福島幸宏(京都府立総合資料館)
「ある公文書館職員の憂鬱」

 福島さんが「京都府立総合資料館は博物館でもなく図書館でもなく、文書館(もんじょかん)です」とおっしゃったことが強烈に印象に残る。エル・ライブラリーは「大阪産業労働資料館」という正式名称が示すように、「博物館」を意識している。さらに、愛称が「エル・ライブラリー」つまり図書館であり、英語名が"Osaka Labor Archive"でもあるように、文書館なのである。実は福島さんがおっしゃったことにはひねりがあって、京都府立総合資料館は博物館でも図書館でもあるのだ。しかし、文書館という自己定義をした途端に市場は狭くなってしまう。スタッフの資質も文書館向きの人間ばかりになってしまってPCに強い人材が集めにくくなる…。なるほど、これは頭が痛い話です。福島さんとは二次会でも親しくお話しさせていただき、またの再会を誓い合って別れた(いや、ご本人はかなり引いておられたような気もする…)。

・中村聡史(京都大学)
「検索ランキングをユーザの手に取り戻す」

 中村先生の報告で何より興味津々になったのは酒のお話。いやぁ、実に素晴らしい。延々と一人三次会、一人四次会と繰り出される様を画像つきで実況中継。これはよいわ。などと個人的趣味で話をまとめてはいけません。酒の話はネタ振りであって、人脈とネットを使った情報網のお話でした。ご自身で作られたランキングサイト。これははじめてみましたので、使い方はこれからぼちぼちと。http://rerank.jp/
もう一つ素晴らしいのは「京都食べある記」http://tabe.aruki.org/index.php


・嵯峨園子(中京大学情報科学研究科/ソシオメディア)
「ライブラリアンの応用力!」
 
 嵯峨さんは会場入り口で『DESIGN IT!』という中身の濃い値段も高い雑誌を配布してくださっていて、ありがたく頂戴してきた。嵯峨さんは元企業図書館員で、現在、中京大学でライブラリアンを研究テーマに勉強されている。「図書館員」が研究テーマになるとは驚きであった。図書館員の質の高さ、専門性について言及されると、ほんとうにそうだな、と首肯すると同時に自身のことも反省させられる。まだまだ修行が足りないわ…!

・東島仁(京都大学大学院)
「ウェブを介した研究者自身の情報発信に対する-「社会的な」しかし「明確でない」要請?」

 血液型判定を信じている人が周りにいますか? とまずは問いかけられる。ネット上に有象無象存在する怪しげなサイトについて、これらが専門家のサイトよりよほど面白くて見やすい、という指摘にはなるほどと納得。研究者は自分たちの情報発信についてわかりやすさについてもっと自覚的に見直すべき、という指摘にはさらに納得。これ、誰か部外者に指摘されないと自分では絶対に気づかないだろうなぁと思った。反省。

 最後に、わたし自身の発表について。
・谷合佳代子(大阪産業労働資料館 エル・ライブラリー)
「エル・ライブラリー開館4ヶ月-新しい図書管理システムとブログによる資料紹介」

 大阪府からの委託金も補助金もなくなり、貧乏のどん底に突き落とされた当協会(大阪社会運動協会)は、昨年10月にそれでもへこたれずに新しい図書館「エル・ライブラリー」を立ち上げた。インターネットを使ってこれからやろうとしていることは、二つ。一つは理想のOPAC構築に向けて「図書羅針盤」(株式会社図羅製作)をカスタマイズしていくこと。もう一つは、灰色文献(グレーペーパー)さらにはブラック・ペーパーとも言われるような、市場に流通しないレアな資料についてブログに写真付きで解説し、記事そのものをデーターベースとして使っていこうというもの。まだ記事は3つしかアップしていないが、これからの展望如何では本にして出版することも可能だという指摘を二次会で頂戴した(深謝)。エル・ライブラリーのレアもの資料紹介ブログはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/shaunkyo/



 インターネット時代にわたしたちはいかに情報を発信しいかに受け止めるべきか、様々な方向からの提起があり、実に刺激に満ちた会でした。この「出会い系」の場を大事にして、明日からの仕事に生かしていきたいと思います。このような場を設定してくださった岡本真さんにまずはお礼を申し上げます。そして、ボランティアで会合を成功裡に導いてくださったスタッフの皆様にもお礼申し上げます。次はぜひエル・ライブラリーにお越しくださいませ。

アウェイ・フロム・ハー君を想う

2009年02月22日 | 映画レビュー
 これは痛い。リアルすぎて「感動を呼ぶ物語」とは言い難い。しかしこれは究極の自己チュー男の愛を描いた、そういう意味ではもっともリアルに愛の残酷を描ききった感動作と言える。

 ジュリー・クリスティー、なんという美しいおばあさんでしょう。こんなにいつまでも美しく上品な妻なら、男は自慢でたまらないだろう。夫グラントが妻のフィオーナに執着する気持ちがよくわかる。いくつになっても品よく美しい妻、彼にとって妻は永遠にそのようであらねばならなかったのに、その妻が壊れていく。かつて美しい教え子たちと次々に恋に落ちた女たらしの大学教授は、その罰のように今、妻の病に向き合わねばならないのか? 記憶を失っていく妻の口から、夫のかつての浮気相手の名前が出る。なんで今頃そんなことを…。戸惑いながら、「自分への罰として妻がアルツハイマーの振りをしているだけかもしれない」という疑念すらわく。だが、妻の病は本物だったのだ。完全にぼけてしまう前に、自ら養護施設に入ることを選択したフィオーナに、夫グラントは30日間面会させてもらえなかった。そしてなんと、30日ぶりに会った妻はすっかり夫のことを忘れてしまっていたのだ。しかも、同じ入所者の世話をかいがいしく焼き、まるで二人は恋人どうしのようでさえある。愕然とするグラント。

 自分の妻(夫)がアルツハイマーになるという事態をどのように人は受け入れるのだろう? 病は徐々に、だが確実に進行する。その様子をただ見ているしかないのか。自宅で介護することを早々に諦めて施設に入所することを選んだこの夫婦の場合、妻は入所後に夫をすっかり忘れ、夫は妻の「新しい恋」を呆然と見つめ、しかしその恋が病気の進行を止められるかもしれないという根拠のない希望にすがる。妻のためなら他人を巻き込み、利用することも辞さない。しかもそのことに何の良心のとがめも感じていないのだ。これはとても残酷な利己主義だ。愛ゆえの利己主義は、崇高な夫婦愛とさえ一瞬見間違う。妻への執着も結局は自己愛に過ぎない。老いて先に自分自身をすら忘れていく妻に、夫は置いてきぼりを食ったような寂しさを覚えるだろう。その茫然自失ぶりが淡々と描かれる。

 記憶をなくしていけばもう、その人ではなくなるのだろうか。相手が惚けてしまえばもう愛せないのか? 愛する人が壊れていく、その事実を受け止める悲しさと、なんとかその病気や症状を認めたくないと焦り絶望的にじたばたする愚かさをわたしたちは他人事のように受け止めることはできない。いつかそのような事態に直面する可能性はあるのだ。

 アルツハイマー病を描いた作品では、いつも病人の心理は観客には伝わらない。本人の絶望や悲しさはほとんど理解できないが、介護する側の人間の悲哀はいやというほど伝わってくる。介護する側の人間とはすなわち取り残された人のことだ。一人、忘却の世界へと旅立つ妻をただ呆然と見送るしかない夫は、疎外された存在である。相手が抜け殻になろうとも愛することを止められない、その執着の正体はいったい何なのだろう? それは「愛着」ではなく「執着」だ。「かつて愛し合った美しい二人」という自己像への執着であり、老いて残されることへの恐怖だろう。その恐怖と疲労から逃れるため、人はさまざまに逸脱を経験する。

 面白いことに、妻を介護する夫は妻に執着するけれど、夫を介護する妻は夫に執着しない。このへんの割り切り方は女のほうがよっぽどさばさばしているように見える。つまりは、夫には妻を介護する立場に立つ覚悟がなく、妻には夫の介護をせねばならないという諦念が張り付いているということだろう。夫は妻にいつまでも美しく自分に尽くし自分を待っていてほしいと(密かに)望んでいるからこそ、健康な妻の姿に執着せざるをえない。男というものの我執のなれの果てだ。しかし、わたし自身がこのようにグラントを冷酷に批判できるとも思わない。グラントは我が姿であり、オリンピア・デュカキスが演じた「夫の介護に疲れて逸脱を望む妻」もまた我が姿であろう。

 ラストシーンはまた残酷な場面だ。美しい愛の抱擁はつかの間のうたかたに過ぎない。誰もが哀れを引きずるこの物語の結末は、サラ・ポーリー監督が27歳という若さで人生の酷薄さを見通してしまったことを表して感慨深い。(レンタルDVD)

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アウェイ・フロム・ハー 君を想う
AWAY FROM HER
カナダ、2006年、上映時間 110分
監督・脚本: サラ・ポーリー、製作: ジェニファー・ワイスほか、製作総指揮: アトム・エゴヤン、原作: アリス・マンロー『クマが山を越えてきた』、音楽: ジョナサン・ゴールドスミス
出演: ジュリー・クリスティ、ゴードン・ピンセント、オリンピア・デュカキス、
マイケル・マーフィ、クリステン・トムソン、ウェンディ・クルーソン、アルバータ・ワトソン

めまい

2009年02月19日 | 映画レビュー
 この作品は『トラウマ映画の心理学』(森茂起、森年恵著)で完璧ネタバレストーリーを読んだはずなのに、なぁ~んにも覚えていない。なんという記憶力だろう?! 幸か不幸か、おかげでまっさらな気持ちで映画を見ることができるので実に新鮮である。

 最後の最後までほんとにストーリーをまったく覚えていなかったことが幸いして、完璧にわくわくしながら見ることができた。ひょっとしてわたしの記憶力はゼロなんだろうか、それともネタバレ防止装置が無意識に働いて、『トラウマ映画の心理学』を読み終わった瞬間に私の頭の中の消しゴムでストーリーを消去したのだろうか。そんなふうにもし自由自在に自分の記憶がコントロールできるならとても楽ちんである。いや実際、わたしは嫌なことはすぐ忘れるタイプだから、きっとそういう自己防衛機制が働くのだろう。そうに違いない。そういうことにしておこう。

 ヒチコックの映画では目のアップが印象に強く残る。「サイコ」の目のアップといい、本作のオープニングデザインといい、大きく見開かれた女性の怯える瞳が観客にも恐怖をもたらす。ヒチコックの「鳥」では鳥の大群が狙ったのは人間の目だったし、げに目は口ほどに物を言う大切な器官なのである。

 で、本作はその観客の目を画面に釘付けにする様々な工夫が凝らされている。まずはなんと言ってもキム・ノヴァク。この美貌の女性が登場するシーンの華麗なこと! 化粧が古いけど確かに間違いなくスター女優のオーラをむんむん発散してキムが登場する場面なぞはまさしく映画の王道を行く演出。この、スター登場の場面に始まって最初から最後までほとんどキム・ノヴァクの美貌と立ち姿に釘付けになるようにカメラはとことん彼女を追う。キム・ノヴァクを尾行するジェームズ・スチュアートとて、彼女を見つめ続けるうちについつい恋に落ちてしまうのだ。

 映画は巻頭、いきなり警官と犯人の追走劇。で、いきなり警官が屋根から落ちて死ぬ。「めまい」というのはつまり、主人公ジェームズ・スチュアートが高所恐怖症だという意味。この映画は、高所恐怖症ゆえに同僚を死なせてしまった警官が、そのことを心の傷として抱えていき、ついには高所恐怖症を克服するまでを描くスポ根もの。じゃなくて、彼が高所恐怖症を克服するには大いなる犠牲があったというサスペンス。

 映画の前半は美貌の人妻が謎の行動を繰り返すのを見張る元警官の話で、見張る者と見張られる者、すなわち見る者と見られる者との間の視線追走劇である。ここで観客はジェームズ・スチュアートの視線になってキム・ノヴァクを追う。謎めいた人妻は祖先の霊に取り憑かれたかのような不思議な行動を繰り返す。そんな怪しげな雰囲気を身にまとうノヴァクの美しさに翻弄される元警官は、つい彼女を愛してしまう。だが…以下、ネタばれを避けて省略。

 そして後半、今度はジェームズ・スチュアートが執拗に美女をつけ回すストーカーと化す。今度は観客はつけ回される美女の立場に立って追い詰められていく。この前半と後半の視線の転回が見事だ。心理サスペンス、恋愛、ちょっとオカルトっぽいところまで、ムード満点。減点は唯一、ジェームズ・スチュアートが悪夢にうなされるシーン。ちょっとこれは今見ると噴飯ものの漫画的演出なので思わず引いてしまった。

 ヒチコックがキム・ノヴァクの服装にも気を遣い色彩にこだわって作り上げた美しい映像は、サンフランシスコの町並や郊外の風景とともに記憶に残るだろう。サスペンスを盛り上げたバーナード・ハーマンの音楽もお見事。
 先日、本物のゴールデンゲイト・ブリッジも見たが、サンフランシスコの町は本物より映画のほうがよほど美しい。 

 DVD特典映像も必見。傷んだフィルムの修復作業や映画の裏話やらとても興味深い。キム・ノヴァクもインタビューに答えている。歳を取っても美しいままなのには驚いた。(レンタルDVD)

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めまい
VERTIGO
アメリカ、1958年、上映時間 128分
製作・監督: アルフレッド・ヒッチコック、原作: ピエール・ボワロー、トーマス・ナルスジャック、脚本: アレック・コッペル、サミュエル・テイラー、音楽: バーナード・ハーマン
出演: ジェームズ・スチュワート、キム・ノヴァク、バーバラ・ベル・ゲデス、
トム・ヘルモア、ヘンリー・ジョーンズ、エレン・コービイ

007/慰めの報酬

2009年02月15日 | 映画レビュー
 前作が感動的だったというのに、007は2作続けてシリアス路線ではもたないということがつくづくよくわかった。本作も、巻頭のカーチェイスと人間チェイス(このあたりは前作と同じ構成)こそわくわくと目を見張ったけれど、後半のアクションシーンではすっかり飽きてしまって寝てしまったではないか。

 脚本にポール・ハギスを参加させ、監督がマーク・フォースターだからいったいどんな社会派007になるのかと期待したが、話がやたらややこしくご都合主義が目についてあまり面白くない。「今や善人と悪人の区別がつかなくなった」とか「取引できる相手は悪人しかいない」といった台詞に「9.11後」を感じさせるし、エコ・ビジネスの胡散臭さを描くあたりも現代的だが、さりとて真面目路線で007の荒唐無稽なアクションを押し通そうとすると辛いものがある。リアリティを重視したという演出によって、これまでのシリーズでお約束だったボンドの新兵器が一切登場しない。しかし、それにもかかわらず、ボンドは不死身で、どれだけ銃弾が雨あられと降ってきても彼には当たらないし、車が潰れても骨折一つしない。悪の組織の動き方も話が飛びすぎて説明が全然辻褄合ってないし、今回のボンドガールの動きも変。リアリティを重視といいながら一方でありえない設定で無理をするから、奇妙な印象を受けてしまう。いっそ荒唐無稽なまま突っ走れば少々の飛躍もご都合主義も「ま、映画なんだから、そういうこともアリでしょ」と許せてしまうのに。

 ところで、巻頭のカーチェイスの場面はイタリアロケ。アストン・マーティンをアルファ・ロメオが追いかけるという重量感と高級感溢れるカーチェイスの場面では、思わず「アメ車を使ってやればいいのに、GMやフォードが喜ぶよ」と思ってしまった(デトロイトのゴーストタウンぶりを見て、ついつい同情心がわいてアメ車びいきになっています)。この目まぐるしいカーチェイス場面は編集がさぞや大変だったろうなぁと思う。

 前作の続きなので、必ず前作の復習をしておかないと話がさっぱりわかりません。恋人を亡くして傷心のボンドは可哀想で、思わず抱きしめてあげたくなる憂愁を漂わせています。そのあたりは女心をくすぐってい実にいいのだけれど…

 もうこの真面目で暗い路線は止めたほうがいい。次はすかっと爽快なボンドを見たい。ま、わたしとしてはダニエル・クレイグが好きだからとにかく彼が出てくれればそれでよしとしますが。

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007/慰めの報酬
QUANTUM OF SOLACE
イギリス/アメリカ、2008年、上映時間 106分
監督: マーク・フォースター、製作: マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ、原作: イアン・フレミング、脚本: ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス、音楽: デヴィッド・アーノルド
出演: ダニエル・クレイグ、オルガ・キュリレンコ、マチュー・アマルリック、ジュディ・デンチ、ジェフリー・ライト、ジェマ・アータートン、イェスパー・クリステンセン、ジャンカルロ・ジャンニーニ、グレン・フォスター

レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで

2009年02月14日 | 映画レビュー
 かの「タイタニック」のヒーローとヒロインが再び共演すれば、そこに説明は要らない。二人は会った瞬間に恋に落ちるし、それは運命の恋なのだ、と観客は素直に納得する。従って、巻頭、二人が出会ってあっという間に恋に落ちる場面で、サム・メンデス監督(ケイト・ウィンスレットの夫でもある)は本来ならば説明しなければならない描写を一切省くことが可能となる。この映画は、大ヒット作の長く待たれた続編と考えれば、本作だけで完結する映画ではない。そこがテキストを超える読み込みが可能となるところであり、映画というものの面白いところだ。かつての画家志望だった若きジャックは今やニューヨーク郊外の瀟洒な一戸建て住宅からオフィスに通う凡庸なサラリーマン・フランクへと「転落」し、奔放な上流階級の娘だったローズは子ども達を愛する若く美しい妻エイプリルへと「落ち着いて」いる。

 かつての、身を焦がす恋に燃えた二人が、郊外の美しい町「レボリューショナリー・ロード」で人生を摩耗していくという物語が、既にして観客に無意識に納得させられる設定としてインプットされる。そして、愛し合った二人の何年後かの諍いの場面がいきなり始まる。映画が始まって数分にしてわたしたちは夫婦喧嘩の場面に遭遇させられるのだ。

 本作に登場するのは3組の夫婦。わが主人公ウィーラー夫妻は、知的なフランクと女優志望だった美しいエイプリル。ウィーラー夫妻の隣に住むキャンベル夫妻はどこにでもいる普通の夫婦であり、50年代アメリカの中産階級の価値観を代表するような二人だ。シェップ・キャンベルは密かに隣家の美しい人妻エイプリルに恋焦がれている。そしてもう一組は彼らに比べて1世代上のギヴィングス夫妻。ギヴィングス夫人(これまた「タイタニック」に出演していたキャシー・ベイツ)は不動産屋で、レボリューショナリー・ロードの瀟洒な家をウィーラー夫妻に売ったその人である。

 この3組の夫婦は互いに小さな秘密を持っている。ウィーラー夫妻は自分たちが特別な存在だと信じ込む自意識過剰な近代人の宿痾に冒されていて、「ここではないどこか」に飛翔する欲望をその胸にしまいこんでいる。良妻賢母の典型のような愚昧で人のいいキャンベル夫人は夫が隣家の妻に横恋慕していることに気づかない。Mr.ギヴィングスは難聴のため補聴器をつけているが、妻のおしゃべりが聞くに堪えないときはそっとそのスイッチを切ってしまう。夫婦というものの他者性を体現する3組のカップルにわたしたち観客はシニカルな人物観察を見る。

 中産階級の憂鬱は、1950年代だけではなく、後期資本主義の現在にそのまま通じる物語だ。だから、衣食足りて「自己実現」の欲望にとりつかれた一組の夫婦の破滅を描く物語として本作はまったく古びていない現代的意義を持つ作品と言える。……と、つい数年前までなら言っただろう。いえ、半年前もそう書いたと思う。しかし今や、その憂鬱を共有するはずの中産階級が急速にやせ細っている。未曾有の経済危機が中産階級を消滅させつつある。いや、正確には、消滅することはないはずのその階級の人々から「余裕感」や「富裕感」が奪われつつある。小金はあるはずなのに、彼ら彼女らの財布のひもは固い。お金はあるのに先行き不透明な経済情勢に不安を感じて、彼らは消費へと走らない。そして、中流から一気に下流へと転落しつつある大勢の労働者たち(といっても数はよくわからない)は、とてもじゃないが、「中産階級の憂鬱」を嘆くような余裕がない。今や、明日の職をどうするのか、が問題となる時代になってしまったのだ。「自己実現」のために今日を嘆き明日を夢見る余裕なんてない。

 ウィーラー夫妻は、エイプリルがパリ行きを言い出したことといい、最後の決着をつけたことといい、おそらくいつも妻が先導する関係にあったのではないか。だから、本作では常に善人は夫のフランクであり、欲求不満を募らせて苛立っているのは妻のエイプリルである。フランクは知的能力の高い人間であったにもかかわらず、優柔不断だ。フランクは愛する者のために自分の夢や野望を諦めてサラリーマン生活に安住し、郊外の芝生のある一戸建てに住むという50年代アメリカの夢に生きることにした。ひとえに妻や子のためなのだ。彼は身を粉にして働いてきた。それなのに、妻は密かにそんな彼に失望し、違う世界を夢見るようになっていたのだ。これはありきたりでかつわたしたちが避けることのできない病かもしれない。違う自分でいたい、特別な自分でいたい、評価されたい尊重されたい。そんな中産階級の憂鬱と欲望を今では不安定就労の若者が「希望は戦争」と声に出して訴えるようになった。衣食足りた人の憂鬱と衣食すらままならない階級の憂鬱が一致するとき、その憂鬱はどこへ暴走するのだろう?
 

 エイプリルがあと20年後の人間だったら! 50年代の彼女には選択肢がなかった。70年代の彼女にならカウンターカルチャーもウーマン・リブもあっただろう。「クレイマー・クレイマー」のように子どもを置いて家を出ることだって可能だったのだ。そう考えれば、50年代の中産階級の憂鬱はやはり時代的制約を受けている。と同時に、今でもその憂鬱が現代人を揺さぶるとしたら、それは時代の流れを知った後の世代が知的に構築する憂鬱である。

 わたしはいつも思っていた。なぜ女だけが妊娠によって人生を切断させられるのか? なぜ女だけが人生を諦めるのか?と。それはあまりにも不公平なことに違いない。けれど、その不公平感を伴侶が埋めてくれればおそらくその欠落感や不満は癒されるに違いない。本作のエイプリルもまた、パリへの飛翔という非現実的な夢に浮かれた気分を、妊娠によって一挙に地上へと墜落させられる。なぜ妊娠という事実がこのように女の人生を、ひいては男の人生を奈落に沈めてしまうのか? 生まれてくる子どもの存在が桎梏であると知ったときに彼らの絶望は頂点に達した。


<以下、完全にネタバレ>




 エイプリルの死は本当に自殺なんだろうか? あれはかなりの確率、事故だと思う。もちろん、彼女は最悪の場合、自分が死ぬこともありえると覚悟していた。しかし、確実に死ぬ気ならもっと簡単な方法があるはず。それなのにあの方法を選んだということは、一つは夫へのあてつけ? そして、ひょっとしたら死なずにすむかもしれないというかすかな計算。そのとき、二人はやり直せるかもしれない。それは一種の賭だったのではないか? 本当に死ぬ気なら自分で救急車を呼ぶだろうか。

 あるいはまた、事故に見せかけた自殺ということも考えられる。自殺なら遺されたフランクが自分を責めるだろうから、その負担を減らすために、事故にみせかけた、とも考えられる。その場合は、エイプリルはやはりフランクを愛していたということだ。(原作では、フランク宛の遺書を遺していて、自殺ということになっているらしい)

 いや、やはりエイプリルはフランクを愛していた。あまりにも愛していたからこそ、自分たちの人生が毀損されたその原因が互いにあると思い詰め、相手をなじり、なじる言葉で自分自身を傷つけていた。だからエイプリルにとって最後の賭は自分たちが自由になるための勇気ある跳躍だったのだろう。原作ではっきり「自殺」とされている場面を映画ではあえて曖昧にした。そこには、サム・メンデス監督の、愛への悲痛な期待があるのではないか。

 いずれにしてもこの夫婦の愛憎は一筋縄ではいかない。一筋縄ではいかないものが夫婦というものだろう。激しく罵り合い傷つけ合ってもやっぱり愛している、と思い直してみたり、また喧嘩したり仲直りしたりの繰り返し。そうこうするうちに愛しているのか憎んでいるのかわからなくなる。

 エイプリルがフランクの浮気を知っても嫉妬も何も感じず、「あなたを愛していないの。なんとも思わないわ」と冷たく言い放つ場面は観客の心を凍り付かせる。彼女は既に夫への愛よりも自己愛に執着しているのだ。夫というもっとも身近な他者との関係よりも<自己実現>の欲望が彼女に取り憑いてしまったために、もはや夫を愛せない。彼女の夢や自由を束縛する夫という存在はそれがたとえ愛するフランクであってももう彼女にとっては鉄鎖でしかない。しかし、そのことが二人の前に明らかとなり、もはや夫婦の破綻が露呈してしまった翌日、何事もなかったかのように整序された食卓で、背筋も凍るような緊張感に満ちた朝食を摂る美しい夫妻は、やはり愛し合う瞳を互いに向けてしまう。フランクは前日の諍いが過ぎ去ったことに満足し、エイプリルは夫を罵ったことを贖罪するかのように完璧な朝食を用意して美しい笑顔を夫に向ける。この場面のあまりの緊張感に肩が凝ったほどだ。

 エピローグ、わたしたち観客は、可愛い子どもたちの遊ぶ姿を見つめる憂鬱なフランクを発見する。小さな秘密を抱えていた3組の夫婦は、その秘密の小ささに応じてほころびを見せた。最も満ち足りていたはずのウィーラー夫妻こそが誰にも知られてはならない過剰な自我に苦しむ二人だったゆえに、彼らこそが最大の破綻を経験した。50年代の価値観に素直に生きたキャンベル夫妻は小さな秘密を抱えたまま、愛し合って生涯を終えるだろう、妻のおしゃべりに補聴器を切ってしまうギヴィングス夫妻のように。

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レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで
REVOLUTIONARY ROAD
アメリカ/イギリス、2008年、上映時間 119分
監督: サム・メンデス、製作: ボビー・コーエン、原作: リチャード・イェーツ、脚本: ジャスティン・ヘイス、音楽: トーマス・ニューマン
出演: レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット、キャシー・ベイツ、マイケル・シャノン、キャスリン・ハーン、デヴィッド・ハーバー、ゾーイ・カザン、ディラン・ベイカー、ジェイ・O・サンダース、リチャード・イーストン

ゴーン・ベイビー・ゴーン

2009年02月13日 | 映画レビュー
 「BOY A」のような暗い社会派作品が公開されるのになぜこれほど見る人に問いかけを残す作品を公開しないのか、まったく日本の配給会社の考えがわからない。しかもビッグネームが何人も出演し、非常に渋い演技を見せているというのに。

 ボストン郊外の小さな町で、4歳の少女アマンダが誘拐される。警察だけではなく、私立探偵を雇ってアマンダを捜索しようとした伯母だったが、雇われたパトリックとアンジーはアマンダの母親ヘリーンがドラッグ漬けで娘の養育をネグレクトする酷い状況を目の当たりにする。マスコミには子どもを誘拐された悲劇の母として登場するヘリーンだったが、家の中は荒れ放題、シングルマザーのヘリーンはアマンダを放擲して恋人と遊びまわる女だった。やがて誘拐事件は悲劇を生み、物語は二転三転していく…

 単なるサスペンスではなく、非常に重い問いかけが込められた社会派作品である。本作が初監督というベン・アフレックの見事な演出には驚いた。作品の内容に相応しいかっちりとした演出で、隙がない。誘拐事件の真相を探る私立探偵の二人組を演じたケイシー・アフレックの台詞がもごもごと聞き取りにくいが、恋人で相棒のパトリック役ミシェル・モナハンがたいへん良い。もともと美人女優というよりはキュートな印象があるミシェルが、今回は悩める大人の演技をみせて美しい。前半のサスペンスの面白さでぐいぐい引っ張り、一気に事件の意外な結末へと導き、クライマックスシーンを迎える。この緊迫感溢れるクライマックスシーンでは、観客の価値観が鋭く問われることになる。

 最近、アメリカ映画では善悪を簡単に割り切れない作品が増えてきた。冷戦が終わり、白黒をつけることが難しくなってきた上に9.11以後、悩める合衆国国民が増えた(あるいは映画制作者たちがそのように捉えている)ということだろう。わたしたちの社会で常に突きつけられ続けるであろう問題について考えさせられる作品だ。テーマが重くて暗いので日本では公開されなかったのだろうか。

 ボストン郊外にあるという人工湖の奇観もまた作品に独特の陰鬱な雰囲気を与えている。原作のよさもさることながら、町の鳥瞰から始まって町並みの風景を写した巻頭といい、空撮で湖を撮った選択といい、ベン・アフレックの演出はなかなかのものだ。いい監督になるのではなかろうか。

 「シークレット・サンシャイン」より好きかも。(レンタルDVD)

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ゴーン・ベイビー・ゴーン
GONE BABY GONE
アメリカ、2007年、上映時間 114分
監督: ベン・アフレック、製作: アラン・ラッド・Jrほか、原作: デニス・レヘイン、脚本: ベン・アフレック、アーロン・ストッカード、音楽: ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
出演: ケイシー・アフレック、ミシェル・モナハン、モーガン・フリーマン、エド・ハリス、ジョン・アシュトン、エイミー・ライアン、エイミー・マディガン

ラスベガスをぶっつぶせ

2009年02月09日 | 映画レビュー
 「ほお、そう来るか」と思わずにやりとするラスト。なかなか爽快感があってよろしい。ばくちはいけませんよ、バクチは。実話が元になっているというが、相当脚色されているのではなかろうか。ケヴィン・スペイシーが相変わらずうまくて、とっても憎たらしい強欲大学教授を好演。

 さて物語は。
 MIT(マサチューセッツ工科大学)の優秀な学生ベン・キャンベルは、数学の天才だ。その才能を見込まれて、教授をボスとするいかさまカード・ゲーム団が結成される。学生たちは変装してラスベガスに乗り込み、チームプレイと数学の計算によって次々とゲームをものにする。やがてはラスベガスのカジノに大損害を与えるほどの存在になったが、そうは問屋が卸さないのがこの世界。さて彼らの行方は…?

 カード・ゲームのブラックジャックは、記憶力と計算能力が優れていれば確実に勝てるもののようだ。しかもそのうえチームを組んでインチキをやれば百戦百勝。カードゲームの場面を緊張感たっぷりのエンタメに演出するのはかなり難しい。「007 カジノロワイヤル」もカードゲームの場面のテンポが悪くなっていたようだが、やはりこの映画でもそのあたりは観客を退屈させない演出に苦労している様子がうかがえる。

 バクチで大もうけしてもそんなことでは世渡りはうまくいきません。最初は学費稼ぎのつもりだったものがゲームの魔力に負けて取り憑かれていくベンは破滅への道を行く…。しかししかし! このラストのまとめ方がエンタメ作としての面白さだ。実話ではこうはゆくまい。というわけで、途中は予想通りの展開でいまいちダレかけたけれど、ラストで思わずうなってしまったので、合格点。(レンタルDVD)

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ラスベガスをぶっつぶ
アメリカ、2008年、上映時間 122分
監督: ロバート・ルケティック、製作: デイナ・ブルネッティ、ケヴィン・スペイシー、マイケル・デ・ルカ、原作: ベン・メズリック、脚本: ピーター・スタインフェルド、アラン・ローブ、音楽: デヴィッド・サーディ
出演: ジム・スタージェス、ケイト・ボスワース、ローレンス・フィッシュバーン、ケヴィン・スペイシー、アーロン・ヨー、ライザ・ラピラ、ジェイコブ・ピッツ

シークレット・サンシャイン

2009年02月08日 | 映画レビュー
 思想の深さに思わず感嘆する。<赦し>という思想が持つアポリアをこれほど見事に描くとは。しかし、映画全体の緊張感はベルイマン作品にはかなわない。

 夫を亡くしたばかりの32歳のシネは、小学生の息子を連れて夫の郷里・密陽(ミリャン=シークレット・サンシャイン)に引っ越してきた。まずは巻頭のシーンで、密陽に向かうシネが道に迷う場面からして彼女の他力本願で見栄っ張り、わがままな正確が描かれる。ピアノ教室を開いたシネは息子と二人それなりに楽しそうに暮らしているが、その生活がある日突然崩れ去る。息子が誘拐され殺されてしまったのだ。シネの虚栄心がもたらした結果とはいえ、不幸のどん底に突き落とされた彼女は立ち直るために宗教にすがることになる……

 誘拐殺人事件という、日常を突き破る事件が起きるまでが40分、実に長い。シネの日常生活を淡々とかつ丁寧に描き、彼女を巡る人間関係をイ・チャンドン監督はさりげなくかつ観察眼鋭く描いていく。シネという女性の長所や欠点も観客にはおのずと見えてくる。

 シネに好意を寄せる自動車修理工場の社長キムがこの映画の道化役。ソン・ガンホがいつものひょうひょうとした味わいをみせて好演してはいるが、実はこの彼の存在が映画全体をコミカルにして、重い物語の雰囲気と緊迫感に穴を開けてしまう。この演出がいいという人もいるだろうが、わたしにはどうにもわずらわしかった。せっかくのテーマに相応しい重厚な演出をしてほしいところ。

 シネを演じたチョン・ドヨンはほとんど化粧気のない素顔をさらして、どこにでもいる普通の若い母親を見事に演じた。とても女優とは思えないごく普通の女性の表情が実に豊かに変化(へんげ)する。さすがにスタイルがいいので、そこが女優らしさの見えるところだろうが、イ・チャンドンは主演女優を美しく撮らないという「暴挙」に訴えることにより、この映画にリアリティを与えた。

 ソン・ガンホ演じるキム社長のあの愚直なまでの一方的な愛はいったい何を意味するのだろうか。神が人を救えなくても人は人を救えるということを言いたいためにイ・チャンドンが配した地上の天使なのだろうか。

 罰するという行為が権力行使であることは明らかだが、「赦し」もまた権力であったことをこの映画で気づかされた。犯人を赦すことができるのは被害者だけだ。被害者/遺族だけが犯人を赦せる特権的な位置にいる。あるいはまた犯人を憎む位置を独占できる。その「権利」を奪うのが国家による死刑執行だ。遺族のためにあったはずの「仇討ち」権を近代国家は取り上げた。では<赦し>は? 被害者/遺族よりも先に神が赦しを与えてしまえば、赦しに向かう被害者の崇高な感情は行き場をなくしてしまうではないか!

 国家も宗教も人から「憎しみ」「昇華」といった感情を奪ってシステムの中に組み込んでしまうのではないのか?

 イ・チャンドンがキリスト教に対してどこまで懐疑的なのかははっきりとはわからないが、この映画に登場する祈祷会などの描き方はどこか胡散臭い。シネが信仰への懐疑に陥り絶望的な気分になって精神を病んでいく様子はまさに鬼気迫るものがあり、チョン・ドヨンの見事な演技に目が離せない。しかし、最後に描いた一条の暖かな光は、宗教の救いへの期待をどこかに残したままだ。イ・チャンドンは信仰への全否定を描いたわけではない。しかし彼は信仰のもっとも深いアポリアを描いたことにより、わたしたちに、この世界を支える理性や論理の危うさを呈示した。

 ラストシーンに漂うものは希望へのかすかな光だろうか、それともこれからも神を憎み人を憎んで生きていくシネの宿業への悲哀だろうか。汚い地面を這うようにシネの髪が風に吹き寄せられる。そこに明るい日の光がそっと差す。これはやはり一条の希望の光と見るべきだろう。その救いの神はキム社長の愚直な愛かもしれない。しかし、シネが本当に光を見いだすのはそれほどたやすいことではない。わたしたちは<赦し>を簡単に口にすることを許されていないのだ。(レンタルDVD)

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シークレット・サンシャイン
SECRET SUNSHINE 密陽
韓国、2007年、上映時間 142分
製作・監督・脚本: イ・チャンドン、原作: イ・チョンジュン、音楽: クリスチャン・バッソ
出演: チョン・ドヨン、ソン・ガンホ、チョ・ヨンジン、キム・ヨンジェ、ソン・ジョンヨプ、ソン・ミリム

西の魔女が死んだ

2009年02月07日 | 映画レビュー
 主役のサチ・パーカーは本名サチコ・パーカー。シャーリー・マクレーンの娘だそうで、そう思って見るとなるほど似ている。映画の中では老け役メイクしているけれど、ほんとはわたしと歳のかわらない女性で、まだ52歳なのだった。とても上品なおばあさん役で登場して、端正な日本語を披露している。いかにもイギリスからやってきた英語教師という雰囲気にぴったりの日本語で、今時あんな美しい丁寧な日本語を話す人も珍しかろう。そして、そんなおばあちゃんがまるでビクトリア朝時代の上流階級の女性みたいに上品な居住まいで(でもなんでも手作りするところは上流階級とは違うかも)、古き良き価値観を体現している。

 映画のタイトルが「魔女が死んだ」というのだから、魔女=おばあちゃんが死んだという話であり、おばあちゃん危篤の報を受けて孫娘が母親とともに、おばあちゃんが一人で暮らす山村へと車を走らせる場面から始まる。二年前、登校拒否になった中学生のまいは、親元を離れておばあちゃんの家で暫く暮らすことになった。元英語教師のおばあちゃんは今は一人で森の中の山荘に暮らす。おとぎ話の絵本に出てくるような小ぎれいな家に住むおばあちゃんは、野山でいちごを摘んではジャムを作り、ハーブを育ててはお茶にするという、スローライフを営んでいる。

 というような話が淡々と進む。おばあちゃんは実は魔女の血筋を引いているので、未来がわかるのである。で、まいもその血筋だから、魔女修行をすれば魔女になれる、と吹き込まれて修行に励むことになり…。おばあちゃんは田舎暮らしで、近所の人たちとのつきあいはとっても濃い。近所といってもかなり遠くに離れているのだが、ちょっと変わった粗忽者のゲンジさんや郵便配達のおじさんたちとの交流を通して、まいは心を広げていったりかえって警戒心を持ったりと、様々な心理的葛藤を経験する。いつでも優しいおばあちゃんはまいの姿を見つめ、抱きしめ、思い切りまいと共に生活を楽しむ。しかし、そんな二人の仲にひびが入る出来事が起きて…

 原作がベストセラー児童小説ということもあって、大変上品な作品である。おばあちゃんの住む田舎の風景もたまらなく美しいし、おばあちゃんの美しい日本語がまいに生きることや死ぬことの意味を語るシーンなどは哲学書を読むような清涼感がある。原作未読のわたしにとっては原作と比べての楽しみはなかったけれど、祖母と孫娘との交流は心が洗われるような思いだった。だが、残念ながらその清涼感はこの映画をとても端正なものにしたと同時にさして大きな感動を残すような逸品にもしなかった。もう少しスパイスを利かせてもよかったのではなかろうか。

 おばあちゃんと孫との交流というのは時間が限られたものだ。おばあちゃんにとっては孫にはこの次いつ会えるかわからない。もうこれが生きて会える最後かもしれないという切迫感がある。しかしその「時間のなさ」というものは孫には理解できない。わたしが自分自身を振り返ってそう思う。父方母方両方の祖父母と疎遠に暮らしたわたしにとって、おじいちゃんもおばあちゃんも遠い存在だった。年に1度かせいぜい2度会うだけの人たちだったのだが、それすらわたしが大きくなると一層疎遠になってしまった。最後はおばあちゃんにも何年も会わないままだった、そのことを今とても申し訳なく思う。

 まいが、おばあちゃんとの最後を心残りなままに過ごしてしまったのだとしたら、そのことを彼女が後悔と共に受け止めたなら、それはまい自身が一つ成長したことになる。でも、おばあちゃんは上手を行ったね。おばあちゃんは魔女でした。まいの後悔も切なさもちゃんと見通していたおばあちゃんは素敵な贈り物を遺して逝った。

 後一歩の物足りなさは残るけれど、ほのぼのとして美しい映画です。(レンタルDVD)

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西の魔女が死んだ
日本、2008年、上映時間 115分
監督: 長崎俊一
プロデューサー: 柘植靖司ほか、エグゼクティブプロデューサー: 豊島雅郎、原作: 梨木香歩、脚本: 矢沢由美、長崎俊一、音楽: トベタ・バジュン
出演: サチ・パーカー、高橋真悠、りょう、大森南朋、高橋克実、木村祐一

転々

2009年02月06日 | 映画レビュー
 冴えない中年男とさらに冴えない青年が二人、東京を数日かけて転々と散歩するというだけのお話。とはいえ、中年男は妻を殺して警視庁に自首しようっていう状況にあるわけだから事態はかなり緊迫しているはずなのだが…。

 借金取りの福原(三浦友和)に「100万円やるから俺と一緒に気の済むまで散歩につきあえ」と言われた大学8年生の文哉(オダギリジョー)は事情を飲み込めないながらも、84万円の借金返済期限が迫っているため、そのオファーを当然にも断れない。親子ほど歳の離れた男二人が東京の下町を歩き回る。その間にいろんなところに寄り道し、福原の愛人の世話になったりあれこれとサイドウェイへと脱線していく。一方、殺された妻の勤務先の社員たちは、無断欠勤している福原の妻の様子を見に行こうと3人が福原宅を目指して出かけるのだが…。

 福原はいつ自首するのか、その前に妻の勤務先の3人が死体を見つけてしまえば自首は成立しない。のんべんだらりとしたお話なのに実は事態は緊迫しているという分裂が映画全体の雰囲気をなんともいえない面白可笑しいものにしている。三木聡監督の「図鑑に載っていない虫」には参ったが、この作品はなかなかによろしい。福原と文哉の漫才にも似た会話の面白さといい、いつのまにやら擬似親子の感覚に陥っていく二人の心理がとてもゆったりとした間合いで描かれていくほのぼのさといい、心地よい映画だ。

 正確時計屋、あぶどら肉店、スナック時効等々、店の名前が面白すぎる。オダギリジョーの髪型はなんとかしてほしい。あの鬱陶しい髪の毛、ひっつかんで切ってやりたくてイライラしたわ~~! 三浦友和の髪型といい、二人そろってよくもそんな鬱陶しい格好をしているもんだ、確かに似たもの同士だわ。

 それにしてもいくらコメディでもそんなに都合良くいろんなことが起きないでしょ~っと突っ込みたくなる。なんでそんなところにチョークが落ちてんのよ! スナックのママのくせに、仕事はどうしたのよ~っとか。あと、そこまで小ネタにこだわらなくてもいいんじゃない、というような余計なカットが多いのも気になるけど、それはまあよしとしよう。エンドクレジットが終わったあとにもボーナスカットがついていて、これがまた笑える。

 映画に登場する東京の街をほとんど知らないため、行ってみたいと思わせる珍しさと同時にいつか見た風景という懐かしさの両方に満ちた作品。

ラストシーンはなかなか切ない。(レンタルDVD)

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転々
日本、2007年、上映時間 101分
監督・脚本: 三木聡、製作: 辻畑秀生ほか、エグゼクティブプロデューサー: 甲斐真樹、國實瑞惠、原作: 藤田宜永、音楽: 坂口修
出演: オダギリジョー、三浦友和、小泉今日子、吉高由里子、岩松了、ふせえり、
松重豊、広田レオナ、笹野高史、鷲尾真知子、石原良純、岸部一徳

ハバナ

2009年02月05日 | 映画レビュー
 これぞ恋と革命!

 「チェ 28歳の革命」の予習として見た映画。これを見ておいて正解です。あくまでアメリカ人ギャンブラーから見たキューバ革命だから、カストロもゲバラも登場しないけれど、革命前のハバナの退廃的な雰囲気がよくわかる。しかし見終わって何週間かでどんどん印象が薄れてくる(^_^;)。

 「カサブランカ」をそっくりそのままキューバに移したようなお話だが、「カサブランカ」に比べると洒脱な台詞に欠けているのが痛い。しかもキューバ革命が舞台でありながら革命はまったく描かれないし、おざなりな描写に終始している。映画はあくまでさすらいのギャンブラーと美しい人妻との恋愛に焦点を絞るため、メロメロのラブストーリーになってしまった。まあ、その分ロマンティックで雰囲気はいいんだけど。特に、凝った美術・セットに拠って革命直前のハバナの様子がよくわかり、「チェ」2部作の予習としてはなかなか興味深かった。

 ロバート・レッドフォードは歳をとってもかっこいいです。お相手役の女優レナ・オリンも美しく、美男美女の恋愛ものという定番が雰囲気たっぷりに描かれていて飽きない。要はこの映画に何を求めるかであって、キューバ革命を描いた社会派作品を見たい人には不評だろうし、お洒落な恋愛映画というにはちょっと政治の話が中途半端にからんでくるし、すわり心地の悪さは否めない。(レンタルDVD)

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ハバナ
HAVANA
アメリカ、1990年、上映時間 145分
製作・監督: シドニー・ポラック、脚本: ジュディス・ラスコー、デヴィッド・レイフィール、音楽: デイヴ・グルーシン
出演: ロバート・レッドフォード、レナ・オリン、アラン・アーキン、トーマス・ミリアン、ダニエル・デイヴィス