ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

芸術作品と盗用

2003年03月28日 | 読書
 そもそもの発端は、田口ランディ盗作事件だった。いや、その前に、先ごろ亡くなった評論家安原顕が田口ランディを絶賛していたから、興味が湧いたのだ。何か買ってみようと思って、書店の田口ランディのコーナーへ行くと、『田口ランディその「盗作=万引き」の研究』(鹿砦社)という本が何冊も積んであった。
「なんだ、これ?」
 ついついその煽情的なタイトルに惹かれて、買ってしまった。で、この本を読んだのはいいけれど、あまりにも品のない本づくりに嫌気が差して、コメントする気になれなかった。同書は大月隆寛がプロデュースしたもので、数人のライターが執筆している。Webの掲示板やメールマガジンからの引用も多く、マルチメディア時代のインターメディア本とでも呼ぶべきものになっている。
 おおまかな内容は、田口ランディという「インターネットの女王」が、いかに盗作につぐ盗作を重ねて自身の小説を書き散らしてきたか、どれほどコピペを繰り返して「劣化コピー」の作品ばかりをものしてきたか、という実態を暴いたものだ。田口ランディは、自身が発行するメルマガの読者が5万人という人気ネットコラムニスト。『コンセント』(2000年)で小説家としてもデビューした女性だ。その経歴には謎の部分も多いらしいが、その後三部作として出版した『アンテナ』『モザイク』がいずれも大ヒットし、「コンセント」「モザイク」は直木賞候補にもなった。
 ところが、その「モザイク」「アンテナ」に盗作(無断引用)が明らかとなり、ネタ元となった「SMの女王」に詫びをいれて、同書は絶版、新たに書き直しているという。事実が世間に明らかになり、本人も出版社のHP上でお詫びを書いた盗作事件はいちおう一件落着している。著作権法違反に関しては、著作権を侵害された当人が訴えない限り罪に問われることはないから、別に訴訟沙汰にもなっていないようだ。

 で、くだんの「田口ランディ研究書」には、このランディの盗作というのは一度や二度のことではなく、彼女は常習者であること、ネット上でストーカー的いやがらせ行為を繰り返していること、作家としてもコラムニストとしても才能のない人物であること、などが延々と書かれている。
 確かに彼女のコラムを読む限り、知性の感じられない文章だし、映画評に至っては、なにを書いているのか意味さえ不明だ。うちの息子と同レベルの感想文しか書いていないのには心底驚いたが、これがなぜか小説になるとおもしろいものを書くので、ちょっと、いや、大いに見直した。

 わたしは田口ランディの批判本のおかげで、かえって彼女に興味を抱き、彼女の本を4冊も買ってしまった。ひょっとしてこれも新たな販売戦略だったりして。などと思うのはうがちすぎか…。

 この「研究書」には何本かの論文が掲載されているが、読むべきものは2本だけ。あとはあまりにも品のない悪口雑言と本質からかけ離れた批判(というより中傷)の羅列に過ぎない。で、そのうちの1本が「「盗作」はいかに報じられてきたか」(栗原裕一郎)という論文だ。過去の主な盗作事件を紹介してあるのだが、なかなか興味深かった。

 小説の盗作にはある法則性があるようだ。ひとつは、元ネタがあまり有名でない人物の自伝や日記や手記という場合、もう一つは、あまり有名でない小説からのそっくりそのままの引用。どちらも、盗作者側に、相手を見下す心理が働いている。「相手は無名の作家だ、これぐらいならばれない」とか、「手記を小説に引用してどこが悪い、こちらは文学作品である」という驕り。

 田口ランディの場合はあまりにもあっけらかんと盗作しているので、本人にその意図がまったくなかったと思われる。つまり、Web上の手記や日記のたぐいをコピペするのはあまりにも容易なため、罪の意識も感じないし、「ノンフィクション」(かどうかは実は不明だが)をフィクションに引用するのは問題ではないという軽い感覚があったのではないか。

 日本には、そして多くの諸外国には著作権法というものがあって、著作物は無断で複写されたり改変できないことになっている。だがその保護期間は著作者の死後50年である。だから、古い文学作品や楽曲はいくらパクッても誰にも咎められない。訴えられる心配もない。ただし、著作隣接権というものはあるので、原曲を編曲したらその編曲者の著作権は発生しているし、曲の演奏者にもその演奏に対する著作権がある。

 いや、著作権の解説などはどうでもいい。盗作かどうかなどという論争やもめ事もどうでもいい。わたしは、芸術作品というものはすべからく「盗作」から自由になれないと思っているので、そのことを書こうとしたのだ。わたしたちは先人達の感覚から自由なところでものを見たり聞いたり考えたりしていない。絵を描く方法を学ぶ時、お手本になる教科書があったはずだ。作文を書く時も、お手本があった。エイゼンシュテインが「戦艦ポチョムキン」で開発したモンタージュ手法をもし特許で押さえていたら、後世の映画監督はこの手法を使えないことになるのか? 彼が、有名な乳母車の階段落ちシーンに著作権を主張していたら、ブライアン・デ・パルマは「アンタッチャブル」であのシーンを再現できなくなる。わたしたちはすぐれた作品へのオマージュとして、模倣をこよなく愛するのではないか?

 そして、自分の感性に合致した作品は、血肉化して、深く深く、もっとも基底となる感性の海の底に蓄えられる。好きな作家の小説を何冊も読むうちに、すっかりその文体が自分のものになってしまうことだってある。テレビタレントのしゃべり方がいつのまにか自分の口調になってしまうことは、テレビ好きな若者には日常茶飯事だろう。学生時代、某政党の党員学生みなが、委員長と同じ口調でしゃべるのには背筋が寒くなったものだ。流行語は、同時代の人々がおもしろがって使い、いつのまにか日常語になって定着する。これだって、「盗作」の一種かも。いや、日々テレビで垂れ流されるギャグにも著作権があるとしたら、それを真似してしゃべることは盗作ではないのか?

 そんなこんなを思うと、人間とは模倣する動物なのだと痛感する。芸術作品に模倣はつきもので、模倣であることをウリにするものまである。大塚国際美術館の作品はすべて模造品なのに、観客に感動をもたらす。また、夏目漱石の未完の『明暗』の続きを書いた女性作家がいる。彼女は徹底的に漱石の文体を研究し、漱石ならこのように書いたはずだと予想して作品を仕上げた。わたしはその作品『続明暗』を読んでいないので、評価は下せないが、これも模倣、あるいはパロディの一種だといえる。また、永井荷風『腕くらべ』の続編を書いた好事家もいる。こちらは作者不詳であるが、荷風の文体をしっかり真似て、なかなかおもしろい作品に仕上がっている。
 ところが、この両書とも有名作品の続編であるのに、元本に比べれば遙かに評価が低い。やはり模倣は模倣に過ぎず、オリジナルに近づくことができない。

 「いや、模倣と盗作は違う」という反論もあるだろう。わたしはその両者をどこで線引きするのかよくわからない。それに、「盗作」とはよばず、「無断引用」と微妙に言い方を変えたりすることも、問題をややこしくしている。

 こういうことをあれこれ書こうと思ったのは、掲示板でサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでゆく」などが盗作であるという話題が出たからだ。その発端となった書き込みをしたご本人に、「よしなしごと」で少し書いてみる、と約束していた。彼は、楽しみにしていると応えてくれた。途中までこの文章を書きかけていたのだが、その最中に掲示板でベンヤミンを援用した論などが展開されて、わたしの言いたかったことはほとんど書かれてしまった。だから、「せっかく書きかけていたのに、気力が失せてきたわ」と、最後に会った時に彼に言ったものだ。でも、約束だから、とにかく書いた。愚にもつかない文章になってしまったが、これで亡き人との約束は守れたと思う。

 それで、結局言いたいことは、たとえ一部が「盗作」だとしても、その作品の価値は失われないとわたしは思う、ということだ。「盗作」かどうかをめぐってよく論争になったり訴訟沙汰になるが、その真偽や勝敗はどうでもいい。出来上がった作品が素晴らしいかどうかしか、読者/視聴者には興味のないことだ。ただ、盗まれた本人はまったくおもしろくないと思う。しかし、しかしだ。自分の書いたものが作家/作曲家にぱくられて、それがヒットしたなら、名誉と思っていいのではないだろうか。と思うのは、パクってもらえるようなものを書いたことがない人間だからか……。


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