ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「カンバセイション・ピース」

2004年02月26日 | 読書
カンバセイション・ピース
保坂 和志著 : 新潮社  2003.7

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 小津安二郎の「秋刀魚の味」のDVDを見た翌日から読み始めたせいか、「これって、小津映画みたいな小説やなあ」と感じ、横浜ベイスターズを応援しに球場へ通うシーンが延々描写されると、ますます「やっぱり小津やんか」と思ったのは、わたしだけではあるまい(「秋刀魚の味」の場合は大洋ホエールズだったが)。

 『書きあぐねている人のための小説入門』を読んでから本書を読むと、作者がこの小説で何がしたかったのかがとてもよくわかる。この物語は、だらだらだらと始まってだらだらだらと終わる。主人公である作家は一日中だらだらとああでもないこうでもないといろんなことを考えているのだが、そのだらだら感が好きな人にはたまらなく響いてくる作品だろう。わたしは小津より黒澤明が好きなので、あんまり性に合わないのだが、なんでこんな日常生活の漬物みたいな小説を書くのかを本人の弁を借りて言えば、「フィクションとはいえ、小説は現実と連絡をとりながら静かに離陸していくのがいい」からということらしい。

 異様に長ったらしい文を連ねたかと思うとブツブツ切ってみたり、保坂和志の文体はひょっとしてまだ定まっていないのではないかと思わせるような独特の奇妙なリズムをもっている。あるいは、この「不安定感」が保坂の「おきまりの」文体なのかもわからないが、ほかの小説を読んでいないのでなんとも言いがたい。わたしはこの作品のテーマとか主人公の思考が語っているさして目新しくもない哲学よりも、この文体や、一日中だらだらと思考しているその様子を書き連ねているということに興味を惹かれた。つまり、保坂の哲学そのものではなく、「哲学している小説家」を書くという行為にそそられたのだ。メイキング哲学小説とでも言えばいいのか、サルトルの哲学小説に比べるとはるかに読みやすい本作のほうが日常生活の中にある突起に様々に気づかせてくれるものがある。

 保坂は、『書きあぐねて…』の中で、この小説の会話文を読みにくくするため、わざと3割ほど削ったりしたというのだが、わたしはさらにそれを3行飛ばして読むという荒業で読了してしまった。隅々まで舐めるように読んだ読者には申し訳ないが、わたしは3行飛ばしや10行飛ばしをあちこちで展開しつつ、それでも楽しんで読んでしまった。

 ところで、この書評を書く前に、bk1書評子さんたちの投稿を読んでみた。なんというおもしろさ! いたく感心したので、全員の書評に「はい」ボタンをクリックした。
 オリオンさんのおかげでタイトルの意味がわかったし、驚異の多読家みーちゃんさんのいつもながらのおもしろい評を楽しませてもらったし(カバー評はそれだけで一冊の本を出せる!)、yama-yaさんの自己にひきつけた読みの深さにも共感したし、深爪さんが作品と格闘された思考の跡にも興味惹かれ、山さんの駄作宣言にはなるほどと納得してしまったし、すなねずみさんの、読者の心情がよく伝わる書評は大好きだし、佐々木昇さんの簡潔で的を射たコメントはもうちょっと長文を書いてもらえればもっといいけど、栗山光司さんの、講演会の内容と横断させるというテクストを離れた読みもおもしろい。

 わたしは8本も書評がついている本にはそれ以上投稿しないことにしているのだが、今回は書評が素晴らしかったので、ついついそれが言いたくて書いてしまった。小説そのものより、書評のほうがずっとおもしろいと思ってしまうわたしは保坂ファンとは言えないのだろうなぁ。 (bk1投稿)


「書きあぐねている人のための小説入門 」

2004年02月26日 | 読書
書きあぐねている人のための小説入門
保坂 和志著 : 草思社 : 2003.10

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 本書は実作者が教える小説の書き方という売り込みの本なのだが、なるほど大変参考になる実践的示唆に富んでいる。なによりまず、「テクニックで書くな」ということ。さらに一歩進んで、テクニックを使わずに書けという指示は大変興味深い。

 確かに、技術で小説は書けない。文章テクニックを教えるような小手先の技は、小説を書く以前の問題だ。本当に書きあぐねている人々はテクニックで躓いているわけではないだろう。というのも、出版社主催の新人賞受賞作を読んでいると、文章テクニックは驚くほど高いことに気づくからだ。文体だけで最後まで読ませてしまうような作品もある。だが、それだけのことだ。作文技術は学校で習えばよろしい。この本はそれ以上のことを、まさに原稿用紙に向かってさあ今から書くぞという意気込みだけ空回りしてうんうん唸っているような人に向けて書かれている。
 その示唆・指示は具体的だ。例えば、小説以外のことを考えよ。例えば、自己実現や自己救済のための小説を書くな。例えば、哲学書を読め。例えば、テーマを予め措定するな、風景を書き込め、ネガティブな人間を書くな、ストーリーに頼るな、云々。

 また、本書を読み進めるうちに、小説の書き方を知るという当初の目的を超えて、この本が文芸評論としても読めることに気づく。古今東西の様々な小説を引き合いに出してその解説を開陳してあるくだりは、既読の小説について新たな読みを提示してくれたし、未読の作品については大いに興味をそそられる、優れた読書指南書となっている。

 さらに、保坂自身の作品がどういう意図で書かれたのか、その執筆過程もよくわかり、楽屋裏を覗いたような楽しさがある。わたしは本書を読んだ後、初めて保坂の小説『カンバセイション・ピース』を読み、それから本書を再読してみた。なるほど、わかりやすい。これは両書、セットで読むのがベストとみた。

 本書の中でもっとも大きなヒントになったのは、「風景を書く」その書き込みの細かさについて触れた部分と、パソコンではなく手書き原稿で書けという指摘だ。パソコンで書く場合も、手書きのような試行錯誤のあとを残す書き方をすればいいのかもしれない。風景が大切だと長々と書いている割には、保坂の『カンバセイション・ピース』の風景描写はおもしろくない。その原因は、例えば樹木の固有名を連発したところにある。樹木の名前を知らない読者にはさっぱりイメージが湧かないのだ。やはり風景描写は難しい。風景描写なら埴谷雄高ですな。

 ところでこれを読んで小説が書ける気になったかというと、それがどうも心許ない。やっぱり書けないものは書けない。どうやら、小説に求めているものが保坂とわたしでは異なるようだ。などと思って『カンバセイション・ピース』を読むと、今度は書けるような気になる。
「これやったら、わたしにでも書けるやんか」と一転、楽観的な気分になった。でもきっと、誰にでも書けそうと思わせておいてやっぱり書けないっていうのが小説なんだろうな。読み手を不安にさせたり安心させたりやっぱり落胆させたり、けっこう罪な本ではある。