【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ウィンターズ・ボーン」

2011-11-30 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


父親が脱獄したおかげで家を追い出されそうになる少女一家の話。
舞台は、アメリカ中西部ミズーリ州の片田舎。
これまた、繁栄に取り残されたような町が舞台の薄ら寒い物語。
21世紀というより、まるで西部劇にでも出てくるような殺風景な町、疲れきった人々。
少女は弟に銃の使い方を教え、女たちは少女に暴力をふるう。
それって、西部劇なら少年の役回りなのに、その役回りを一手に少女が引き受ける。
男たちも一様にだらしなくて、女たちが男たちの役回りを背負う。
一見、西部劇のようでありながら、そこが“いま”だっていうことか。
とにかく、この一家を背負った17歳の意地っ張りな少女が健気。
家を明け渡さないために、父親の行方を必死に捜す中で浮き上がってくるのは、荒み切ったアメリカの風景、心病んだ人々。
日本でいえば「サウダーヂ」みたいな話か。
もっと悲惨でもっと救いのない話だけどね。
父親を捜すうちに最悪の事態に遭遇するんだけど、それでも少女は生きていく。
あ、繁栄から取り残された女たちの物語という意味では「フローズン・リバー」に近い映画かもしれない。
あれも寒々とした映画だったもんな。
洋の東西を問わず、田舎ってもう崩壊寸前なのね。
“田舎”を“世界”と読み代えてもいい。
デブラ・グラニック監督は、女性だそうよ。
なんだか、納得。

「サウダーヂ」

2011-11-26 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


この登場人物たちの、知性をまったく感じさせない会話のリズムってどこかで聞いたような気がするなあ。
紙兎ロぺでしょ。
ああ、あのTOHOシネマズで見せ付けられる脱力系アニメ。
そう。あのウサギとリスの、内容も語彙も空虚な、どんづまりの日本を代表するような未来のない会話。そのけだるいリズム。
たしかに、この映画に出てくる登場人物たちも、空虚でどんづまりの日本を体現しているような冴えない人物ばかりだ。
そういう人たちの会話って、必然的に紙兎ロぺになっちゃうのよ。
いまの日本の地方都市の置かれている過酷な状況をきれいにトレースしたような映画。
“きれいに”っていうのは形容詞の使い方が間違っているわね。ぐちゃぐちゃにトレースしたような映画、っていうのが感想としては正しい。
なるほど。ブラジルやタイから来た出稼ぎ労働者たちと地元の土方やラッパーたちとのぐちゃぐちゃな話だもんな。
いまどきの日本映画で、ここまで地方の惨状を描いた映画ってないんじゃない?
地方の惨状というか、地方に暮らす人々の心の惨状まできちんと捕らえたような映画。
だから、“きちんと”っていうのも形容詞の使い方が間違っている。グダグダな心情を捕らえた映画っていうのが正しい。
なるほど、グダグダね。荒んだ町、行き場のない気持ち。シャッター通りの空しい光景が、そのままそこに暮らす人々の空しさとして映画に刻まれている。
俺たちどうすりゃいいんだよ、という鬱屈感、疲労感。
もう、内容のある会話を元気よく交わすなんて気にはとてもなれない。
紙兎ロぺ状態。
こういう空疎な映画を、敬意をこめて「紙兎症候群映画」と呼ぼう。
しかも、国も民族も違う貧しい人々が、山梨のど田舎でインターナショナルに悩んでいるっていう図が凄い。
猿の惑星:創世記」や「コンテイジョン」が地球の片隅で発生したウィルスが世界に広がっていく恐ろしさをまっとうに描いた映画だとすれば、富田克也監督のこの映画は、世界中の貧困が日本の片田舎に集約するという、まったく逆の位相で同じグローバル化の恐ろしさをちゃんらんぽらんに描くという偉業をやっている。
資本家どもとは反対の極にある労働者の視点でね。
主役が土方だもんな、土方。
立て、万国の労働者!って昔なら叫ぶところだけどね。
いまや、万国、総どんつまり。
いやあ、隅に置けないなあ、紙兎症候群映画も。
まじっすか。


「ゴモラ」

2011-11-25 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


この朽ち果てた軍艦みたいな建物は何?
イタリアで未来の住宅として建てられたアパートのなれの果てらしいわよ。
日本でいえば、長崎の軍艦島みたいなもんかな。
でも、まだ人が住んでいるらしいからね。
まるで人類の繁栄の残骸みたいな絶望的に暗い存在感。混沌とした空虚さが圧倒的な迫力で迫ってくる。
ほとんど、この異様な建物が主人公みたいな映画よね。
日本映画でいえば、「へヴンズストーリー」に出てきた、北海道の荒廃したアパート群みたいな匂いがする。
ここを舞台に繰り広げられるのは、ドラッグの売買、産業廃棄物の不法処理、海外不動産への投資などに手を染めるイタリアの犯罪組織「ガモッラ」の実態を描いた強烈極まりないドラマ。
ドラマって言ったって、実在する組織の冷酷非情な行いの一部始終を冷徹な視線で描くから、誰にも感情移入できない。
マッテオ・ガローネ監督の演出があくまで対象を突き放しているから、観客は背中におぞましさを覚えるしかない。
情けないほどあっけなく殺される少年たち。
ある意味、ブラジルの少年ギャングたちの生態を描いた「シティ・オブ・ゴッド」のイタリア版のような非情さ。
この映画に比べれば、同じイタリア出身マフィアのアメリカでの暗躍を描いた、かつての「ゴッドファーザー」でさえ、なんと牧歌的で、詩情豊かなこと。
もう、そういう時代じゃないってことね。
いつか日本もあちこちで、こういう死臭漂う廃墟のような建物が増えるのかな。
もうとっくに増えているわ。

「コンテイジョン」

2011-11-22 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


ゴホン、ゴホン。
観終わったらつい、セキをしたくなっちゃう映画よね。「コンテイジョン」って。
逆に観ている間は、他の人の視線が気になって絶対セキなんかできない映画。
接触感染により数日で命を落とすという強力な新種ウィルスが香港で発生。瞬く間に世界中に拡大していくというサスペンス映画。
その一部始終をあらゆる視点から描く。
グローバルに拡大していく感染。あっけなく命を落とす人、その家族の苦悩。医師たちの奮闘。政府のきなくさい対応。裏社会で暗躍するジャーナリスト。ワクチンの開発から収束にいたるまでのあらゆる様相をたった1時間46分で描き切る。さすがは「トラフィック」のスティーブン・ソダーバーグ監督、重層的な話を無駄なく仕切る手腕は相変わらず達者。
感染があっという間に世界中に拡大していくなんて、まるで「猿の惑星:創世記」のラストみたいな話だけど、ここでもサルが実験台になっていたのがご愛嬌。
出演は、マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ジュード・ロウ、ケイト・ウィンスレットという錚々たるメンバー。
なんでこんな豪華な俳優を取りそろえなくちゃいけないんだと思ったけど、幾層にも渡る話を一気に見せようと思ったら、これくらいキャラのはっきりした俳優たちを使わなくちゃ観客が混乱しちゃうのかもしれないな。
おかげで、一度も頭が混乱することなく観終わった。
いま、ギリシャのような小さな国の財政破たんが世界中の経済を混乱に陥れていることを考えながら観ると、ほんとに世界はひとつにつながっているんだなあ、と悪い意味でぞっとする。
しかも、この映画、アメリカ人が中国で感染してそれが世界に広がっていくっていうのが、なにやら意味深。
世界を動かす二大国だもんな。
握手の意味を再確認するという観点では、実は二大国が握手することの大切さを描こうとした映画だったりして。
大統領と国家主席がキスするみたいに?
それはまた別の話。


「ステキな金縛り」

2011-11-20 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

三谷幸喜って、日本映画界にとって貴重な存在だよな。
これほど肩の力を抜いて楽しく観れる映画をつくる監督って、あまりいないもんね。
こういう映画を撮ってくれる監督がもっといたら映画界も賑やかなんだけど。
観ていると、映画というよりはやっぱり演劇に近いんだけど、三谷幸喜だからそういう感覚になってしまうのは仕方ない。
声の張り方とか立ち居振る舞いとか、どうしても大げさになってしまう。
主役の深津絵里とか、ぴったりこの役にははまってるけど、これに味をしめて、今後全部この路線で行くんじゃないよね、とちょっと心配。
悪人」の路線も忘れないでね。
西田敏行も、相変わらず達者だけど、本領発揮とまではいかない。
憑神」なんていう笑えない喜劇の中で唯一爆笑を取った超絶演技に比べるとまだまだ爆発力が足りない。
一番肝腎な場面でいなくなっちゃうっていうのもねえ。
お父さんのエピソードも無理やり感動に持っていこうとして破たんしてない?
ああいうほろり狙いのエンディングにしないと、三谷監督自身が居心地悪いんでしょうね。
彼にはああいうエンディングしかできないと?
というか、おそらく、彼は、外国映画でいえば、昔のビリー・ワイルダー監督みたいなしゃれたコメディの線を狙いたいんだろうけど、それにはもう少し映画的なリアリティが必要な気がするなあ。
つくりすぎなところはちょっと抑えて、登場人物にもう少し陰翳を持たせてほしいってところかな。
・・・とか何とか言いたい放題だけど、日本映画界にとっては貴重な存在だから期待しちゃうのよ。