【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「パレード」:新橋バス停付近の会話

2010-02-27 | ★業10系統(新橋~業平橋)

あれ、ここ、また新橋じゃない。
いいんだ。俺たちの時間は直線に進んでいるんじゃない。ループを描いてまたもとのところに戻っているんだ。
それってなんだか、「パレード」の中のセリフみたいね。
藤原竜也、香里奈、貫地谷しほり、小出恵介の四人がルームシェアして暮らしている。
みんながみんな、恋人同士でも友人同士でも何でもない赤の他人なんだけどね。
そういう四人がどうして同じ部屋に暮らすようになったのか、その経緯はいっさい描かれていない。
でも、俳優のアンサンブルがいいから、この組み合わせならあり得るかな、って思わせてしまう。
テレビドラマみたいな設定なんだけど、さすが、行定勲監督、妙なリアリティを持たせることに成功している。
若者たちの醸し出す空気に、“いま”という感覚が息づている。
みんな、いまの若者らしく、必要以上、相手の領域に踏み込まない。
当然、居心地はいいけど、人間関係に発展もなければ、後退もない。
ただただ、ループのように時間が過ぎていく。
その中に飛び込んでくる謎の少年が林遣都。
頭を金髪にしちゃって、とらえどころのないキャラを好演している。
女性のためには、サービスカットもあるしね。
小出恵介と林遣都といえば、「風が強く吹いている」のコンビなんだけど、俺は二人ともこっちの役柄のほうが好きだな。
あなたは、まっとうな人物より屈折した人物のほうが好きだもんね。
そ、自分が屈折してるから。
屈折というより、挫折してるんでしょ、あなたは。
骨折してるよりましだろ。
意味わかんない。
映画のほうは、やがて、そんな疑似平和みたいな状態を覆すできごとが起きる。
さあ、それでも平和は維持されるのか、それとも砕け散るのか。
乞う、ご期待。
古い言い方ね。
白状すると、俺はもう彼らみたいに若くないからね。
行定監督だって、もう41歳よ。
それでよく、臆面もなくこんな映画が撮れるな。
それって、誉めてるの、けなしてるの?
もちろん、誉めているんだ。
わかりづらっ。






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ふたりが乗ったのは、都バス<業10系統>
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市01系統と6本の映画たち

2010-02-24 | ■通ったバス停、観た映画(一覧)

ずいぶん短い路線だったわね。
映画にも、長い映画もあれば短い映画もあるようなもんだな。
その割に、バラエティ豊かだった。
そうそう。庭園もあれば、市場も病院もある路線だからな。
いえ、映画の話よ。
ああ。観てよかった映画が3本はあった。観なくてもよかった映画が2本はあった。
あと1本は?
おとうとに聞いてみるか。


市01系統
●新橋駅前:「ゴールデンスランバー
⇒浜離宮前:「インビクタス 負けざる者たち
⇒築地五丁目:「おとうと
⇒築地市場正門前:「ラブリーボーン
⇒国立がんセンター前:「フローズン・リバー
⇒新橋駅前:「シャネル&ストラヴィンスキー





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「シャネル&ストラヴィンスキー」:新橋駅前バス停付近の会話

2010-02-20 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

この豪華な建物は、何だ?
昔の新橋駅を再現した建物よ。
へえ。あの当時としてはモダンな建物だったんだろうなあ。
シャネルやストラヴィンスキーがモダンだったようにね。
ストラヴィンスキーなんて、モダンすぎて、公演は人々から不評を買っちゃった。
そこに手を差し伸べたのが、当時すでに飛ぶ鳥を落とす勢いのココ・シャネル。
忙しくてどこにいるかもわからない。ココ・シャネル、どこシャネル?
あー…あなたはシャネルに落とされる鳥にもなれないわね。
そ、俺はどうせ、焼き鳥になるのがせきの山の男さ。
それに比べるのも不遜なほど、ストラヴィンスキーには才能がある。
シャネルは、その才能に惚れちゃうわけだ。ストラヴィンスキー、大スキーって。
才能のない人のたわごとは差し置いて、この二人の顛末を描いた映画が「シャネル&ストラヴィンスキー」。
とにかく、シャネルが凛として強い。援助してやるとか言って、家庭を持っているストラヴィンスキーを夫婦、子どももろとも自分と一緒に別荘に住まわせて、平然とストラヴィンスキーをものにする。
ストラヴィンスキーの奥さんは苦悩するしかない。
シャネルの侠気にストラヴィンスキーもたじたじだ。
ふつうは、男女逆よね。名声の差がなせる技かしらね。
そして、シャネルはこの音楽家を踏み台にしてのしがっていく。
そういうわけでもないでしょ。シャネルのおかげで、私生活はともかく、ストラヴィンスキーの公演は成功するんだから。
でも、エンド・タイトルのあとのシーンを見ると、明らかにシャネルは男を踏み台にしてのしあがっていくイヤミな女に思えるぜ。
延々とタイトルが続いたあとのシーンでしょ。エンド・タイトルが終ったあとにああいうシーンを付け加えるって映画として卑怯じゃない?
タイトルの途中で席を立つやつはアホだよ、って上から目線で言われているみたいで不愉快だよな。
そうそう。こんな小細工しないでもっと堂々とやってよ、て思っちゃう。
そうかと思うと、最後のほうは「おまえは『2001年宇宙の旅』か」ってチャチャを入れたくなるような展開になっちゃう。
なるほど、シャネルは、女版スター・チャイルドだったってわけね。意味わかんないけど。
いいんだ、これは芸術なんだから、と監督は思っているんだろうな。ファーストシーンでストラヴィンスキーの公演がブーイングを受けるように、この映画自体がブーイングを受けようと、おのれの信じる道を曲げちゃいかん、と。信念の女を描く信念の映画。
そう、一切の妥協をしないところにシャネルの5番も生まれたんだからね。
俺たちみたいに才能のない庶民はただ、モダンな建物を眺めるように、芸術家たちの苦悩をボンヤリと眺めていればいいってことだ。
あら、“俺たちって”って一緒にしないでよ。
はい。…って偉そうに、お前はシャネルの親戚か。
ネルのシャツなら持ってるけどね。




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ふたりが乗ったのは、都バス<市01系統>
新橋駅前⇒浜離宮前⇒築地五丁目⇒築地市場正門前⇒国立がんセンター前⇒新橋駅前






「フローズン・リバー」:国立がんセンター前バス停付近の会話

2010-02-17 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

この下を走る高速道路、昔は運河だったらしいわよ。
きょうみたいに寒い日は、凍ることもあったんだろうな。
文字通り「フローズン・リバー」ね。
アメリカ映画の「フローズン・リバー」は、セントローレンス川だったけどな。
凍りついた冬の川を、不法移民を乗せた車が渡っていく。
ここの高速を走る車みたいにな。
それはないでしょ、日本の場合。
そうかなあ。
お金のために、不法入国者の運び屋をやるのが50歳近くなる白人女性。メリッサ・レオが渋く演じてる。
この映画の演技でアカデミー賞にノミネートされた。
いまは、古いトレーラーハウスに住んでいるんだけど、幼い子供たちのために、新しいトレーラーハウスを買いたくて、つい悪事に手を染める。
日本では、トレーラーハウスを家族で暮らす家にするなんて、あまり想像できないけどな。
こういう、地に足がついた家さえ持たない暮らしをしている人たちって、実際、アメリカにはたくさんいるんでしょうね。
マイケル・ムーア監督の「キャピタリズム マネーは踊る」で暴かれた格差社会の底辺にいる人々を劇映画で再現したような真実味がある。
そして、もうひとりの主役が先住民、モホーク族の女性。ミスティ・アップハムという、生活感ある女優が演じている。
こちらもまた、つつましやかなトレーラーハウスを住処にしている。
先住民ってことで、居留地が与えられているんだけど、アメリカの恥部を見せまいと隔離されているようにも見える。
少なくとも、幸せにはほど遠い。
この異人種同士がひょんなきっかけから手を組んで運び屋をやるうちに、気持ちを通わせていくという物語。
お互い、幼い子供を抱えている母親同士って部分では、肌の色に関係なく通じ合うものがあったってことだ。
そのあたりの心の変化は、パキスタン人の赤ちゃんを運ぶエピソードを通して、くっきりと浮かび上がってくる。舌を巻く脚本もまた、アカデミー賞にノミネートされた。
さまざまな人種の人たちが出てくるんだけど、誰ひとり幸せとはいえない。人種のるつぼ、アメリカの実態を凝縮して見せられているようで、寒々としてくる。
凍てついたセントローレンス川の荒涼とした光景がまた、こういう物語にふさわしい味わいをもたらすのよね。
でも、最後にはほのかな希望も垣間見せて、この監督、ちょっと隅に置けない。
コートニー・ハントっていう新人女性監督、その腕は決して凍てついていなかった。
寒い日に観るのは、お勧めしないけどな。




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ふたりが乗ったのは、都バス<市01系統>
新橋駅前⇒浜離宮前⇒築地五丁目⇒築地市場正門前⇒国立がんセンター前⇒新橋駅前


「ラブリーボーン」:築地市場正門前バス停付近の会話

2010-02-13 | ★市01系統(新橋駅~新橋駅)

ここは、築地の魚市場。
魚って、骨があって面倒なんだよな。
そんなこと、ないでしょ。骨にだって栄養はあるし、愛すべき骨たちよ。
愛すべき骨たち?ラブリーボーンか。
ラブリーボーン?それって、ピーター・ジャクソン監督の新作のタイトルじゃない。
冬のトウモロコシ畑で殺された14歳の少女が、この世とあの世の狭間から残された家族や犯人の行く末を見守る物語。
天国でもなければ、この世でもない。その間にいるっていうのがミソよね。
成仏できん、ってやつだな。
オカルト映画じゃないから、犯人に怨念を抱いているとか、復讐を果たそうとか、そういうことじゃないけどね。
恋人と別れて悲しいとか、家族の心配をするとか、いたって乙女らしい死者の悩みだ。
“乙女の祈り”ね。
彼女の体験する異世界を「ロード・オブ・ザ・リング」の監督がイマジネーションの限りを尽くして描く、壮大な光景が最大の見どころだ。
そうかなあ。どんなに脅威的な光景でも、全部CGだと思うといまさらたいした驚きもないわ。
そんなこと言って、「アバター」には興奮していたくせに。
あれは別格。残念ながら、あそこまでクリエーティブなイマジネーションがピーター・ジャクソン監督にはなかったっていうことね。
じゃあ、やっぱり少女が現実世界で経験する猟奇殺人のほうが映画的には魅力的か。
魅力的ってことはないけど、あの殺人犯、薄気味悪くて相当きてるキャラクターだったなあ。
ああいうバカっぽい死に方をさせるには惜しい人物だよな。
本来、「羊たちの沈黙」や「セブン」といったダークスリラーになるべき話なのに、妙に明るい幽霊ものになっちゃったっていうところかしら。
そこが、この映画の独創的なところなんだけど。
でも、どっちつかすの映画になっちゃったような気がするなあ。
難しいところに挑戦した心意気は買ってあげようぜ。
まあ、骨のない映画じゃなかったからね。
そう、そう。ラブリーボーンな映画だった。





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