【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「スプリング・フィーバー」

2011-01-31 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

現代・南京の冷え冷えとした光景の中で繰り広げられる男女五人のラブストーリー。
ラブストーリーといっても、男と女の間もあれば男と男の間もあるっていう、ややこしい関係の物語。
男と女だろうが、男と男だろうが、求めあっても抱きあっても一向に満たされない思いっていうのが色濃く映画を覆っていて、寒色系の画面が痛々しい気分にさせられる。
くんずほぐれず修羅場の果てに、残った男二人と女一人の関係が一瞬、「冒険者たち」や「明日に向って撃て!」のような聖三角形に昇華されるのかと思いきや、あっさりそんな期待を裏切った終わり方になる。
監督は、「天安門、恋人たち」のロウ・イエ監督。
あれは、後半ちょっと冗長な感じがしたけど、「スプリング・フィーバー」は密度の濃い映像で隙のない映画に仕上がっている。
家庭用デジタルカメラでの撮ったっていうから、画面もざらつき、編集も雑な感じがするんだけど、それがかえって男女の心の渇望を感じさせてみごと。映画ってやっぱり機材うんぬんより演出の腕だなって、再認識させられる。
立ちこめた煙の中に現れる男の胸なんて、むせるような匂いがあって、ツァイ・ミンリャン監督の台湾映画「河」の一場面を思い出させる。
そして、ポイント、ポイントで現れる漢字の詩。あの漢字の醸し出す知的な雰囲気が、気分に流れがちな映画を引き締める役割を果たして、案外あなどれない。
日本も漢字の国なんだから、漢字の持つ視覚的な色気を生かした映画があってもいいのにね。
いや、こういう地味な話なのにこってりした描写の映画を観ると、日本映画と中華圏の映画は明らかに違うなあって思ってしまう。
どこが?
うーん、和食と中華の違いかな。
意味わかんない。
俺も。



「白いリボン」

2011-01-29 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

「黄色いリボン」っていうジョン・ウェインの西部劇があったな。
知らない。
「黄色いリボン」っていう桜田淳子の歌もあった。
知らない。
知らないとは言わせないぞ。お前だっていい年なんだから。
このリボン見えるでしょう ラブサインなの 待っててね
知ってるじゃないか!…と、ミヒャエル・ハネケ監督の新作とは関係ない話ばかりするのは、この映画、独特の肌触りで、どう表現していいかわからないから。
基本的には犯罪と謎解きの話なんだけど、その謎がきれいに解かれるわけじゃない。
むしろ、その謎の周りでうごめく人々の内面のドラマ。
謎が解かれないフラストレーションが溜まるかと思うと、それ以上に登場人物たちの心の闇がずっしりと残って、これはこれで映画として完結しているんじゃないかと思えてくる。
謎が解かれたらそれでおしまいだけど、謎が残る分、ざらりとした言いようのない感触が心に残る。
子どもたちのたたずまいがまた怖い。ある意味、ホラーよね。
キック・アス」を観たときのようにひとこと言いたいか。
全然種類が違う映画じゃない。これはもうリアルな描写そのもの。だから怖い。
そして、空間を立ち昇ってくるようなこの心の闇を描くには、冷たいモノクロ映像しかないっているのも納得させられるような美しくも不気味な映像。
たしかに、これがカラー映画だったら、独特な魅力が台無しになっていた。
時代は、1913年夏、北ドイツの閉じられたような寒村。ナチズム台頭の前っていうのも、なにやら不穏な空気をあおって、この映画を益々不気味なものにしている。
その閉塞感こそがテーマのような映画。
面白くないけど、そこが面白い映画の典型。
あなたみたい?
俺は、あんなに暗くない。



「キック・アス」

2011-01-25 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

おっと、意外なところから問題作が出てきたわね。
問題作?ヒーローになりたかった軟弱少年と、ヒットガールになった強烈少女が暴れまわる痛快娯楽活劇だぜ。シンプルな構造とスピーディーな展開は賞賛こそされ、問題作なんて言われる筋合いのものじゃない。
その彼女の暴れまくる姿が凄すぎるのよ。
血沸き、肉躍る冒険活劇、愉快じゃないか。
そう、そう。そこよ、問題は。文字通り血沸き、肉躍っちゃうのが問題なのよ。
なんでやねん。
ヒットガールになる女の子は、まだ11歳よ。年端もいかない女の子が血しぶきを上げて男たちを次々ぶった斬っていくってどうなの?
あ、そういうところに目くじら立てるわけ?教育的見地からどうだっていうわけね。でも、これはあくまでフィクションだぜ。そんなこと言ってたら、「ゾンビランド」とか「マチェーテ」とか、あの手の映画はみんなダメってことになっちゃうじゃないか。
あれは頭の先からつま先までフィクションです、って感覚にあふれていたから、こちらもそういうつもりであっけらかんと楽しめたけど、「キック・アス」は何か微妙に違うのよねえ。
ゾンビランド」とか「マチェーテ」同様、リアルっていうにはほど遠い描写だけどねえ。
そうかしら。「ゾンビランド」とか「マチェーテ」はぶっ飛び方が尋常じゃないから笑ってすませられたけど、「キック・アス」はあそこまで抜け切ってないから、女の子が残酷なアクションをこなすと、痛快なのと同時に、ざらりと苦い感覚が後味に残っちゃうのよねえ。
「ブラッドダイアモンド」に出てきた、実在する幼年兵を見てしまったような感覚かな。
そこまで深刻じゃないのはわかるけど、右も左もわからないうちに殺人兵器に仕立て上げられちゃうんだもん。なにか痛々しいところがあるのよねえ。フィクショナルな存在だってことをわからせる娯楽映画としての工夫がもうひとつほしかったなあ。
もうちょっと荒唐無稽寄りにするとか、単なる復讐以上に敵をあやめなければならない理由があったっていうことにするとか?
観客に違和感を感じさせない工夫よね。それがあれば文句なしに楽しめたのにね。
脳天気な俺は、十分楽しめたけどな。
脳天気だからね。


「ソーシャル・ネットワーク」

2011-01-15 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの「facebook」創設者をこんな風に軽佻浮薄なヤツに描いてよく本人のオーケーが出たな。
まだ生きているだけじゃなくて、いまがいちばん絶頂の人物をこんな風にだらしなく描いちゃっていいわけ?って思っちゃうわよね。
日本でいえば、孫正義を軽佻浮薄に描くようなもんだからな。
人間として壊れてる。
「facebook」みたいな仕組みを考えるヤツって、友達になんかなりたくないタイプなんだろうなあ、と思っていたら、やっぱりその通りだった。
それをその通りに描いても文句が出ないなんて、アメリカ映画というか、アメリカ社会も懐が深いわねえ。
「ナップスター」の創設者も出てくるんだけど、こいつがまた輪をかけて軽佻浮薄に描かれている。
これはこれで、こういう人がああいうシステムを考えるんだろうなあ、って納得できるような壊れたキャラクター。
つまり、アメリカのような社会では、これくらいじゃあ名誉棄損にも何にもならない、かえって箔がつくくらいのことだっていうことなのかな。
一方で、「The facebook」の「The」を取れ、なんて的確なアドバイスはちゃんとするしね。
クラシックでいえば、モーツァルトのような人間が名曲をつくるようなものか。
「アマデウス」ね。サリエリのように普通の感覚を持った友人も出てくる。
でも、彼は常識が邪魔をして、ある一線以上は上に行けない。
それが天才と凡人の違いかな。
それだけに、映画は上辺だけのきれいごとに終わらずに、みごとにある時代の一面を切り取ることに成功している。
どうして「facebook」にそんなに魅力があるのか、やってない人間には結局よくわからなかったけど、そういうものが流行する裏側の人間ドラマは、誰もがわかる普遍的な描き方をしているんで、見入っちゃったわ。
「セブン」をはじめとする映像派デビッド・フィンチャー監督にしては、びっくりするくらい正攻法の人間ドラマだった。映像的な冒険はあまりないんだけど、そのぶん、人間の欲望とか才能の在り方をきっちり描いていて感心する。
「ソーシャル・ネットワーク」というシステムを知る、というより、人間社会を知るという意味での、ソーシャル・ネットワーク映画だったのね。






「人生万歳!」

2011-01-11 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

ウディ・アレン、久々のニューヨークもの。
「アニー・ホール」や「マンハッタン」の頃に戻ったようで懐かしい。
自称、ノーベル物理学賞にノミネートされたこともあるというIQの高い男のところへ偶然、南部出身の小娘が転がり込んでくるところから始まるドタバタ劇。
この男、理論的で懐疑的で分析的で厭世的でお喋り。かつてならウディ・アレン自身が演じたであろう役柄。さすがに自分で演じるには年をとったと悟ったのか、別の俳優が演じている。ウディ・アレンほど自虐的に見えない微妙な味わいの違いが、昔ながらの語り口にちょっと新鮮な風を送っている。
こんな厄介な男を好きになる女性なんているのかと思ったら、どこか頭の弱そうな娘が、妙に気に入って惚れちゃう。
おじいちゃんと孫くらい年の差があるのにね。
まあ、物珍しかったっていうことだろう。
男のほうも邪険に扱ったりするんだけど、内心では結構気に入ってたりする。
いるんだよなあ、「俺は孤独を愛している」とか言いながら、実は誰かにかまってもらうのを待っているようなひねくれた男。
あなたみたいに?
俺は孤独を愛しているわけじゃない。孤独に愛されているだけだ。
そんな男の住まいに、彼女の両親も訪ねてきたりして、みんなのニューヨークかぶれ物語が始まる。
ウディ・アレンにしてみれば自家薬籠中の町、ニューヨーク。肩の力を脱いで軽妙洒脱に撮っている。そのぶん、彼の毒もいい具合に薄まっている。
かつてのニューヨークものには、どこか侘しい風情が漂っていたけど、それが抜けて口当たりの軽いコメディに変化している。
年を取って悟りを開いたか。
最後なんて、ちょっと強引だけど、思いっきりハッピーエンドだもんね。
結論が「なんでもあり」なんてな。
これが、もうすぐ休館になる恵比寿ガーデンシネマのラストを飾る作品になるとは、ふさわしいような、ふさわしくないような…。これから、ウディ・アレン作品はどこの映画館で観られるのかしらね。
どこかで観られるさ。世の中、なんでもありだ。