【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「信さん 炭坑町のセレナーデ」

2010-11-29 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

昭和30年代の福岡県の炭坑町を舞台に、貧しいながらも必死に生きる人々の日常と、やがて訪れる過酷な運命を平山秀幸監督が丁寧に描き出す。
都会からやってきた聡明そうな男の子が、大きくなるとそうでもなくなるっていうところに共感したね。
あなたも昔は聡明だったって言いたいの?
そう面と向かって言われても照れるなあ。
あのまま、都会にいればすくすく育ったような上品な顔立ちだったのにねえ。
もともと島に暮らしている男の子が、子どもの頃はいかにも炭鉱の子みたいな顔してるのに、大きくなったら妙に精悍になるのと対照的だな。
「信さん」っていうのはその男の子の名前。都会から来た子の母親を慕ったりする。
そうかと思うと朝鮮人の子は、大きくなってもそのまんま。
大きくなってからは、柄本時生が演じるんだけど、その小学生時代を演じる男の子が、そっくりというわけじゃないんだけど、風情がまったく彼そのまんまなのよね。あんな子役どこから連れてきたのかしら。
とにかく、いまどき、じつにオーソドックスな炭鉱町物語。
そのオーソドックスさが、映画の中の昭和の時代にぴったりマッチしていた。
タイトルからしてなんともオールドファッション。
「三丁目の夕日」でさえ、いまふうに「Always」ってカタカナタイトルにしてたのにね。
あの映画は昭和を装ったおとぎ話だったけど、こちらは寂れ行く炭鉱が舞台なだけに、心地よいだけではすませられない事情がある。
どうしても、事故や閉山を描かざるを得ない。
トロッコみたいな車に乗って地下へ降りて行く時の心地悪さ。みんなああいう不安を常に抱えながら働いていたんだよなあ。
厳しいところもある映画ではあるけれど、観客の心の動きから離れないから、安心して観ていられる。
あ、、だいじなこと言うねえ。観客の気持ちを置き去りにしたような映画が最近は多いからなあ。
そう、そう。観客の心の動きを待つことをしないで先走っちゃうのを才気走った映画だと勘違いしてたりする。
せちがらい世の中だねえ。いつからこういうせちがらい世の中になったのかな。
この映画の時代みたいに、炭坑が消えたあたりからかもよ。
それって、俺たちが生まれる前じゃないか。





「ビルマVJ 消された革命」

2010-11-25 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

なんと言っても、お坊さんが托鉢の皿を裏返して抗議のデモ行進をする場面が鮮烈だった。
軍政の続くビルマ国内の市民の抵抗と挫折を決死の覚悟で追った緊迫のドキュメンタリー。
国外からのジャーナリストをいっさいシャットアウトしている中で、ゲリラ的に撮影したビデオ映像を世界に配信するビルマ国内の組織と、彼らが撮った反政府デモの映像を記録した力作だ。
凡百のサスペンス映画では敵わないくらい、全編に渡ってただならぬ緊張感が漂っている。
その中には、日本人ジャーナリストが銃弾に倒れた有名な事件の瞬間を捕えた映像もある。
私たちが断片的に見てきたニュース映像が、実はこういう綱渡り的な撮影によって奇跡的に日の目を見ているんだと思うと、戦慄さえ覚える。
彼らがいなければ、ビルマの実情なんて誰にもわからないと思うと、なお一層ぞっとする。
映像の持つ力を改めて思い知ったわ。
ペンは剣よりも強し、って言うけど、ビデオカメラは軍より強し、だ。いつかきっと、この国を変える。
そして、その映像を何としても世界中の人々に知ってもらいたいと奮闘するジャーナリストたちの身を呈した活動には、ほんとうに頭が下がる。
のんきに「いい映画だった」なんて言ってる場合ではない。
無抵抗のお坊さんを身ぐるみはがす兵士たち。その残酷な映像だけでも全身に鳥肌が立つくらい衝撃的。
“百聞は一見に如かず”を地で行くような映画だった。
でも、なんで「ビルマVJ」で「ミャンマーVJ」じゃないの?
「VJ」は、彼ら勇気あるビデオジャーナリストの総称だろう。
そうじゃなくて、私が知りたいのは、「ビルマ」と「ミャンマー」の違いよ。
現地では、どっちでも気にしないらしぜ。「にほん」と「にっぽん」のようなもんじゃないか。
ほんとに?
疑問に思ったら自分で調べてみることだ。疑うところから真実は暴かれていく。
うーん、あなたの口からそんなジャーナリストみたいなことばが出るなんてねえ。映画の影響力ってやっぱり凄いのね。
へんなところで感心するなあ。


「マチェーテ」

2010-11-22 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

一流の二流映画。
あるいは、A級のB級映画。
形容矛盾を承知で言うけど、よくできたアホ映画だったなあ。
最近でいえば「ゾンビランド」のような志を持った娯楽映画よね。
思いっきり映画の世界を楽しんであとはきれいさっぱり忘れてくれ、っていう映画なんだけど、その思い切りが良すぎて、忘れられない傑作になってしまった。
B級映画の教科書のような映画だもんね。
タイトル前の格闘シーンから、快調に、飛ばす、飛ばす、飛ばすに乗って。
…って、このブログのタイトルかい!
ロバート・ロドリゲス監督って、「グラインドハウス」仲間のクエンティン・タランティーノと一緒で、お行儀の良い映画を撮らせたら、実はとんでもないA級映画が撮れる技術を持った映画監督なんじゃないのか。
でも、それは彼の趣味じゃないから、あくまでストイックにB級映画に徹する。
その一途な姿勢には感服するばかり。
人間の腸をぶらさがる綱代わりにするとか、監視カメラの受像機が十字架になっているとか、おもしろくするためなら、これでもか、これでもかとアイデアを詰め込む、そのどん欲さ。
そうかと思うと、メキシコからの不法移民問題を題材にしていたりして、いま風の味付けも欠かさない。
闇の列車、光の旅」でアメリカに入ってきたような少女が、こういう組織の一員になるのかもしれないと思うと、単純なアクション映画でも、胸が痛む部分がある。
そういう虐げられた人々を救うための戦いという大義名分があるから、観客ものめりこんで応援できる。
でも、組織の病院にいる看護師はなぜかミニスカ。
ロバート・デ・ニーロが悪徳政治家を嬉々として演じていたりして、もうひっちゃかめっちゃか。
出世作の「ゴッドファーザーPARTⅡ」では移民の側を厳かに演じていたのに、最近はとんとシリアスな役をやらなくなった。
というか、できなくなった?
どういうわけか、コメディアンに近くなっちゃったもんね。
映画の最後は、続編のお知らせまであったりして。
それじゃ足りなくて、続々編のお知らせまである。
そのやりすぎ感がたまんない快感。
相当、まゆつばモンだけどね。
この映画自体、まゆつばから出来たようなもんだからな。
グラインドハウス」の中で流れる予告編だけの幻の映画だったはずだったのに、いつの間にか本編ができあがってた。
そのノリからして、いいかげんで好き。


「彼女が消えた浜辺」

2010-11-16 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

ペルシャ猫を誰も知らない」に続けてこの映画「彼女が消えた浜辺」の話なんて、なんかイラン映画づいてる?
偶然よ、偶然。
まあ、この映画は、偶然イラン映画だったみたいなもんだもんな。
どういう意味?
『海辺のコテージにバカンスにやってきた男女の中から突如消えた女性をめぐるミステリー』といえばイランじゃなくても成り立つ企画だ。「ペルシャ猫を誰も知らない」みたに、イランという国を抜きには考えられないような題材じゃない。
イラン映画だからって、なんでもかんでも政治性を帯びなくちゃいけないってことはないでしょう。いろんな映画があって当然よ。
そう、そう。「ペルシャ猫を誰も知らない」に出てきた若者たちが我々と同じように音楽を楽しんでいたように、イランではこういうふつうに上質なミステリー映画だってつくられているんだ、っていう事実は、逆説的に、おかしいのはイランの体制だけであって、そこに暮らす人々はなんら他の国の人々と変わらないんだっていうことを主張している。
でも、イランならではの描写もあるわよ。
例えば?
例えば、カスピ海。海辺のコテージというけれど、正確にはあれは海じゃなくて、湖。開かれた大海原ではなく閉ざされた水辺。リゾートにしては寒々とした光景はやはり、どこかしら不穏な空気が流れている。
まあ、あれは題材上、ああいう撮り方をしたともいえる。松本清張のミステリーに出てくる日本海の風景のようでもあった。
彼らがここにやってきた理由は?
たしかに、彼らがここにやってきた本当の理由には、我々日本人にはちょっと理解しきれない部分もある。
男女に出会いの場を提供するっていうと、ごくありふれた理由だけど、その背後にはちょっとばかし複雑な理由がからんでくる。そこが、日本とは違うイランという国の事情のような気がしたんだけど。
でも、これは体制の違いというよりは、文化の違いかもしれないな。
古い文化が残っているということ?
古いか新しいかはわからないけどね。
消えた彼女をめぐって残された人たちが右往左往する姿は、たとえばニキータ・ミハルコフの「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」を思い出させるようなドタバタした趣がある。
同じカスピ海沿岸の国の映画とはいえ、また飛躍した例えだなあ。
でも、「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」からユーモアを取り去ってミステリーの要素を加えるとこんな群像劇になるのかもしれないわよ。
まあ、主眼は、なぜ彼女は消えたのか、ではなく、消えたあとに取り残された人々が繰り広げる人間模様だからな。
人間模様というのは、いずこの国も変わらないのよ。
案外いちばんイランらしいのは、主役の女優のなんともエキゾチックな顔立ちだったかもしれないな。
途中ではかなく消えちゃうけどね。



「ペルシャ猫を誰も知らない」

2010-11-13 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

こんな映画、誰も知らない。
・・・って、切って捨てるには惜しい問題作。
音楽活動を厳しく規制されたイランのミュージシャンたちの物語。
それを抑圧された者の暗い視点から描くのではなく、それでもどっこい、こんな楽しいものはやめられないっていうポジティブな視点から描いているのが好ましい。
でも、イランってすごい国よね。政治性のある音楽だけでなく、単なる楽しみでやっている音楽まで、ありとあらゆる音楽を規制しようとしているんだから。
そんな自然に体のうちからあふれでてくるものまで規制しようなんて無茶だろうというのがこの映画の姿勢。
だから、ここに出てくるミュージシャンたちは、体制に反発して怒りを音楽で表現しようというメッセージを持つ人々と言うより、音楽くらいやらせてよっていう純粋な欲望から当局の網をかいくぐる人々。
次から次に繰り出されてくるのは、そういう人たちが閉ざされた状況の中で音楽を奏でる姿なんだけど、演奏しているときの愉悦に満ちた表情は、我々抑圧を知らない国の人間とまったく変わりがない。
でも、やっぱりこの国じゃあ音楽は続けられないと脱出を試るひと組のミュージシャンが物語を引っ張る。
残念ながらこの物語のほうは、それほど新鮮に映らない。柱になる物語がいまひとつ弾けないのが惜しい。半分、音楽を聴かせるだけのミュージック・クリップになりかけてる。
イランっていう国情を抜きにすれば、たしかに映画というよりはプロモーション・ビデオに近い感触もあるわね。
それだけになお、イランと言う特別な国のことを抜きには語れない。
ここにもふつうの国々と同じようにふつうに音楽を愛する人たちがいるんだぞ、っていう出張。
聞こえてくる音楽のほうは、伝統音楽からラップまで、まあバラエティに富んでいること。
「酔っぱらった馬の時間」や「亀も空を飛ぶ」のような厳しい映画をつくってきたバフマン・ゴバディ監督にしては軽快に撮られた印象も受けるけど、当局の目をかいくぐりながらこれだけ軽快な映画をつくるっていうのも、またたいへんなことよね。
そのこと自体が、体制に対する強い訴えになっている。
お前たちの思い通りにはいかないぞ、っていうエネルギーが満ちている。
そういう意味では、主人公たちには軽々と国境を越えてほしかった気もするけどな。
そのぶん、映画が国境を越えて、いまこうして私たちが観てる。
ペルシャ猫を俺たちは知ってるぞ。
よーし!