【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「サンザシの樹の下で」

2011-07-30 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

チャン・イーモゥ監督の初恋映画といえば?
「初恋のきた道」。
そう。誰だって、あの映画と比較したくなっちゃうよな、「サンザシの樹の下で」を観ちゃうと。
同じような題材の映画を撮った時点で、彼はもう負けている。
まあ、まあ。そう決め付けるな。今回は、文化大革命を背景に持ってきたところがミソだ。
でも、文化大革命の是非を問うような映画じゃない。「ノルウェイの森」における学生運動程度の扱いと見たけど。
ピュアな思いを描くんだから、あまり政治的な主張を盛り込むのは野暮だってことだろう。
ピュアもピュア。ピュアすぎ。ほとんどカマトト。
かわいい女の子を見ると、お前はすぐ、そういう風に対抗心を燃やすけど、相手はティーンエイジャーだぜ。くるくる変わる表情を見ているだけで、心が癒されるっていうもんだ。
なに、あなた、ロリコン?
そういうことじゃないだろう。素直に見れば、いまどき珍しいくらい純粋ないい話じゃないか。
いちばんわからなかったのは、この男女の暮らす村と町の位置関係。すごく遠いような感じもするし、すぐに行き来できるような感じもある。だから、二人の距離がどのくらい離れているのかわからない。
地理上の距離は、恋する二人にとって心の距離でもあるわけだから丁寧に教えてほしかった気はするよな。
日本人にはよくわからなかったけど、中国人ならわかるのかな。そしてあのころのノスタルジーに酔うのかしら。
日本でいえば、「コクリコ坂から」のように?
そうとう無理な比較・・・。でも、ここのところ、ちょっと前の時代を描く映画が続いたけど、それって、なかなか微妙だなって気がするわね。
「初恋のきた道」は、年取った主人公が昔を語るっていう形式を取っていたけどな。
そう、そう。あの構造があんがいミソだったんだなって、いまにしてわかる。
それなら許せる?
許せるとか、許せないとかの問題じゃなくて、余計なものを捨象してピュアな思いだけを語るにはああいう枠組みが必要かもしれないって思ったの。ノスタルジーにスーッと入っていけて、無理がなかったっていうこと。
たしかに、あそこまで物語に観客を引き込む力は「サンザシの樹の下に」にはなかった。それは認める。でも・・・。
でも?
でも、あの女の子はかわいかった。
それは認める。

「大鹿村騒動記」

2011-07-19 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

長野の山の中で鹿料理店を開いている男のところへ、駆け落ちして逃げた女房と親友の男が帰ってくる。
ただ、それだけの話なのに、やたらおもしろい。
男は原田芳雄、女房と親友が大楠道代、岸部一徳。この食えないメンバーがからめば、話がおもしろくならないわけがない。
鹿料理店の名前が「ディア・イーター」なんて鹿だけに人を小馬鹿にしたネーミングだし、ここで繰り広げられる三人の愛憎交じった掛け合いが、最高におかしい。
いい年をしたおとなたちが無邪気にじゃれ合っているんだか、本気なのかわからないドタバタを繰り広げる。
文字通り、騒動記。人情喜劇の見本のような痛快な映画に仕上がったわね。
「突然炎のごとく」「冒険者たち」「明日に向って撃て!」の昔から、男二人に女一人というのは黄金のシチュエーションなんだけど、年食った三人組でもそのジンクスは変わらなかった。
そればかりじゃない。周りを取り囲むのが、三國連太郎、佐藤浩市、石橋蓮司、松たか子、瑛太といった、錚々たる面々。
話はみみっちいのに、なんとも贅沢な布陣。しかも、みんながみんな役どころを抑えたいい芝居をしている。
それも功を奏して、なんとも豊饒な映画になった。
ときおりはさまれる子鹿のショットが、どうという意味もないのに、とてもいいアクセントになったりして。
一瞬はさまれる原田芳雄の鬼気迫る表情がまた、効いている。
そういう、さりげない気配りが映画を豊かにするんだっていうことを、港を舞台にしたアニメーションを撮った映画人たちにも、わかってほしいな。
それは、また別の話。この映画でいうと、原田芳雄は村歌舞伎の主役を長年張っている。昔は逃げた女房の大楠道代と同じ舞台に立ったこともある。
こんな山奥で本格的な村歌舞伎が昔から受け継がれているっていうのが、また絶妙で、文化とか自然とか伝統とか、映画に想像以上の味わいを与えている。
夫婦がヨリを戻すのかどうか、村歌舞伎の演目と被ってくる、というのは予想されるところだけど、注目したいのは、この歌舞伎の幕の使い方。
村に帰ってきた昔の女房たちと男が出会うシーンで閉めたり開けたりされる幕。
そして、佐藤浩市が入院した病室でのカーテン。
小道具をきちんと生かしているなあって感心する。
脚本・荒井晴彦、監督・阪本順治が、ほんとに丁寧な仕事をしている。
このメンバーで続編を観たいくらいだ。
でも、主役の原田芳雄はきょう、亡くなっちゃったのよ。
馬鹿な!


「コクリコ坂から」

2011-07-17 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

1960年代の横浜の港町を舞台にした、高校生の淡い恋の物語。詩情豊かなアニメーションの佳作。
本気でそう思ってる?
なに、そのトゲのある言い方。惨憺たる「ゲド戦記」の宮崎吾朗監督の映画だからって、最初から虫めがねで観てたんじゃないでしょうね。
それを言うなら“色めがね”だろう。
そうとも言うわね。
でも、そういう言い方なら、「コクリコ坂から」には、その“色”が足りないんだよ。
そりゃ、ノスタルジックな時代の映画なんだから、いまどき映画のように派手な極彩色の色使いってわけにはいかないでしょう。
そういう意味の“色”じゃなくて、肉付けというか、細やかさというか、言ってしまえばつくりが雑なんだ。
そんなこと、ないでしょ。昭和の風景を実に緻密に再現していたわよ。
絵的にはな。でも、その中で繰り広げられるドラマは、そうとう雑だぜ。
男の子と女の子の間に出生の秘密があって、その秘密は結構安易に謎解きがされちゃって、学校では明治時代からある生徒のたまり場が取り壊されるピンチになっていたのに、これも結構あっけなく解決されちゃって、展開としては平板だなあ、っていう印象もあるけど、だからって目くじら立てなくたっていいんじゃない。
この映画には男女の高校生の生い立ちを巡る話と、学校の建物が取り壊されるっていう話の二つの話があるんだけど、この二つが有機的に結びついてこない。
いいじゃない、別々のまま進んでいったって。
別々の話としたって相当、雑だ。男女の出生を巡る話は、親たちにデリカシーがかけているとしかいいようがないところがあって、大事な秘密を本人の了解も得ずに喋っちゃうし、「あのころにはそういうことがよくあったのよ」なんて平気で言うなんて。学校の建物の話だって、校長や先生たちは全然出てこないでいきなり理事長が登場して万事解決。理事長には理事長の考えがあって取り壊しを決定しただろうに、その辺の大人の事情は全部ネグって、高校生の心情にほだされて、はい、はい、話を撤回しますみたいな、妙に子どもだましな展開になってる。
でも、風景描写は丁寧だし、いいじゃない。
風景描写は丁寧かもしれないけど、人物の描き方は実に雑だ。高校生が自分たちの秘密を知ったときの反応の仕方の稚拙さ。電停で女の子が自分の気持ちを告白するまでの情感の盛り上げ方の工夫のなさ。それを受けた男の子の反応の描写の芸のなさ。あまりにストレートで、切なさとか心の揺れとかをちょっとした仕草や他の描写に託すっていうところがないから、表現にまったく深みが出ない。
たしかに盛り上がる場面っていうのはあまりなかったかもしれないわね。
学校を飛び出して船へ急ぐときの描写の淡白さ。
あそこはもう少し、時間のないドキドキ感とか間に合わないんじゃないかっていうイライラ感が出てもよかったかもしれないわね。
父親の宮崎駿なら、もっとスリルとサスペンスあふれる描写にしていたはずだ。映画はMOTION PICTUREなんだから、こういう動きのある部分をもっと押さないでどうする・・・なんてことを、ジブリ映画で感じるなんて情けない。
そういえば、二人が船に飛び乗るところも、偶然男の子が女の子を胸に受け止める展開になるんだけど、そこでの戸惑いとか恥ずかしさとか、そういう感情の機微は吹っ飛ばされてたわね。
お、いいこと言うねえ。ひとことでいうと、映画としての“機微”が足りなんだな。港を描くならかもめの一羽でも話にからませてこいよ、「上を向いて歩こう」なら坂本九じゃなくて登場人物の誰かが口ずさむ場面もつくれよ、みたいなささやかだけれど、映画を豊かにするには大切な部分。
まあ、テレビの震災応援CMで感動的だったのは、坂本九の歌だったからじゃなく、それを俳優たちが口ずさんだところだったからね。
一事が万事。あまりに映画的コクに欠けるんで思わず、観ているうちにコックリしちゃったよ。
あなたにとっては、コックリ坂だったわけだ。




「127時間」

2011-07-13 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

断崖に腕をはさまれ、動けなくなった男の話。
彼は、いかにしてこの苦境を脱し、生還することができるのか。
どんな手段でこの状況を切り抜けるのかと思ったら、誰もがすぐに考えるような、でも、絶対やりたくない方法で脱出する。
目の前の障害をいかに乗り越えるか、知恵と工夫を見せていくというサバイバルものじゃなかった。
そういう解決法を決断するまでの心の中の葛藤の物語だった。
例によって、家族のことを思い出したり、恋人との別れの記憶があったり、不思議な幻想を見たり、そういうことの果てに、ああまでして生き延びようとする決断をするに至ったってことね。
“例によって”っていうことは、どっかで観たような話だってことか。
孤独な人間がひとりで何かに立ち向かう映画って、それだけじゃ動きもドラマもなくて間がもたいないから、どうしても回想とか幻想とかを入れてくる。その構造はこれまで何度もあったし、別に新しくないっていう意味だけどね。
新鮮なのは、あまり悲壮感がないってところかな。
最初からなんだか軽々しい男で、危なっかしいんだけど、その陽気さが事故に遭ってからはいい方向へ進んだとも言えるわね。
これが、実際にあった話だっていうんだから驚く。
127時間孤独に耐えたなんて、テレビのドキュメンタリー番組ででも取り上げられそうな話題だわね。
それを映画としてどう昇華したかっていうことになると、核となる部分がまだ何か足りないような気がするな。
実話の焼き直しの範疇にとどまっていて、まだ映画になっていないってこと?
映画としての深みをもうちょっと見たかった。
何でも一人でできると思っていた男が最後には助けを求めるまでに成長した話、ってとらえるのはどう?
良く解釈すればね。でも、ああいう極限状況なんだから、もっと得体の知れない何かに触れてしまったみたいな感触が表現にあってもよかったような気がする。
荒野へ行って自分を見つめ直さざるを得ないという意味では、「イントゥ・ザ・ワイルド」みたいなところもある映画だったけど。
あそこまで自律的でないし、哲学的でもないけどな。
監督が「スラムドッグ$ミリオネア」のダニー・ボイルだから、得体の知れない何かを描くというよりは、やっぱり洗練された映画に仕上げちゃうんじゃないかしら。
127時間といえば、途方もない時間なんだから、その時間の長さというか窮屈さをもっと感じさせてもよかったんじゃないかな。実際に127時間の映画にするとか。
そんな苦行のような映画、観たいと思う?
観たくない。



「田中さんはラジオ体操をしない」

2011-07-04 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

そりゃ、みんなが体操してるのにひとりだけしないんじゃ、怒られるわなあ。
というのが、島国・日本人的考え方。でも、したくないものはしたくないんだし、そんなの仕事と関係ないじゃん、というのが田中さんの考え方。
長いものに巻かれるのはイヤっていうやつだな。
で、会社をクビになっちゃう。
そんなことくらいでクビにするほうもクビにするほうだ。
もちろん、それだけでなく、転勤の社命に従わなかったっていうこともあるんだけど、会社にとっては田中さんは目の上のたんこぶだった。
というわけで、それを不服とする田中さんの30年に及ぶ権力者との闘争の歴史が始まる。このドキュメンタリー映画は、彼と彼の支援者たちの血の滲むような抵抗の日々を搾取される側からとらえ、日本社会の矛盾をえぐり出した貴重な記録映像である。
と、かっこよく言いたいところなんだけど、それにしてはこの田中さん、妙にのんびりしている。
会社の前で30年間、毎日、毎日座り込みしているんだけど、テンガロンハットにギターのいでたちって、抵抗の志士としてはどうなのよ。
ポロポロ歌を奏でれば、まるで往年の高石ともやのよう。
ありましたね、フォークブーム。社会に対する抵抗の歌を自分たちで歌った世代。 友よ~夜明けま~えのや~みの中で~ とか。
いよっ、「友よ」。
AKB48の歌じゃないぞ。
わかってるわよ。岡林信康でしょ。田中さんも、いま63歳だから、あの頃の影響を色濃く受けているのかもね。
本気ではあるんだけど、半分楽しんじゃってるところもある。
だからこそ、長い年月続けられるのかもしれないわね。
感心するのは、時代は変わり、世界は変わり、ほとんど昭和の遺物と化しても、田中さんは変わることなく同じことを続けているってことだな。
声高に世界革命を叫んでいた連中は雲散霧消してしまったけれど、地を這うような抵抗をしていた人は、まだ生き残っている。世の中とはそういうものかもしれないわね。
労働運動そのものというより、田中さんの生きざまに寄り添う映画として興味深い。
監督のマリー・デロフスキーはなんとオーストラリア人。田中さんは、日本人から見ても奇妙な人物なんだけど、外国人から見ればいっそう興味をそそられる存在なのかもしれないわね。
オーストラリアにラジオ体操なんてあるのかどうか知らないけどな。