【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ALWAYS 三丁目の夕日’64」

2012-01-23 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


そもそも、東大進学と小説家になることは、二律背反することなのか。
東大出の小説家なんて、うじゃうじゃいるけどね。
ここはひとつ、出世を選ぶか自分の好きな道を選ぶか、という葛藤を表現するいちばんわかりやすい例えと見ておくべきなんだな。
そんなことより、淳之介もそういう年頃になったということで、一作目から観ている者には感慨もひとしお。
わかりやすすぎて、ひっくり返っちゃうけどね。
それが身上の映画なんだから。
ロクちゃんが結婚するのに、青森の両親に承諾を取る場面もなければ結婚式にさえ顔を出さないのも礼儀を忘れている。
いいのよ。鈴木オートの主人夫婦が親代わりなんだから。ロクちゃんだって、ちゃんと念を押してるでしょ。それで納得できない人にこの映画を観る資格ないわよ。
相変わらず、都合のいい人物ばかりで、都合の悪い人物はひとりも出てこない。
つまり、あなたは、この映画、細部に瑕疵があるって言いたいわけね。
ま、そのスタンスは第一作からわかっていたことで、いまさら騒ぎ立てるのも大人げないけどな。
昭和を再現する映画じゃなくて、みんなの意識の中にあるほんわかと懐かしい部分を刺激するための映画だからね。そのスタンスはまったくブレていない。だからこそ、観客も安心して観ていられる。
ああ、懐かしい、あの頃はよかった、という感慨に浸っていればそれでいいんだよな。
失われてしまった日常を甘く思い起こす。そういうことのためだけに存在する映画もあるってことよ。
毎日、毎日つらい労働にいそしむ俺たち庶民がひととき疲れを忘れていい気持になるという映画。
悪くないでしょ。
まあ、「男はつらいよ」だって、マンネリだなんだと言われながら作り続けて最高傑作はなんと15作目だもんな。
「寅次郎相合傘」ね。浅丘ルリ子と渥美清の奇跡のような掛け合い。
「ALWAYS」も誰に何と言われようと作り続けているうちに、いつか最高傑作が誕生するかもしれない。
そのためには、私たちも観続けるしかない。
この時代から現在までは四半世紀以上ある。まだまだ、物語の作りようはあるってことだ。
3Dはどうかと思うけどね。この町内会の物語にはそぐわない。
今回も三浦友和はいい役だった。
第一作の彼のエピソードには胸を突かれたわね。その残像が残っているから出て来るだけでしみじみしちゃう。
そういう意味では、みんなの残像が残っているから、また観たくなる。
ステレオタイプだなんだと言いながら、結構ツボにはまる映画なのよ。


「ヒミズ」

2012-01-21 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


冷たい熱帯魚」から「恋の罪」のようなドロドロ映画にまで行ってしまった園子温監督が「紀子の食卓」のような家庭映画側に帰ってきた。
両親に逃げられ、ひとり震災後のボート屋を営む少年と彼を慕う少女の物語。
行きつくところまで行って、ちょっと落ち着いた?
といっても、園子温監督だから純情なラブストーリーではなく、そうとうひねくれた少年少女の物語になっている。
結局、泥だらけになりながら大声で怒鳴り合うのっていい年した大人じゃ恥ずかしいけど、ティーンエイジャーならまだ許されるっていうところかな。
そのぶん、毒を忘れちゃいけないとばかり、瓦礫が広がる被災地の風景を堂々と持ってきた。
深刻な災害をこんな劇映画に利用しやがって、と眉をひそめる人もいれば、フットワークの軽さに拍手を送る人もいるんだろうな。
ベトナム戦争がアメリカ映画に定着するまでにだって相当時間がかかって、その間、玉石混交のベトナム戦争映画が出てきた。日本でもそうなるんでしょうね。
ほんとうは神戸の震災を題材にした映画ももっと出てこなくちゃいけないはずなのに、数えるほどしかなかった。
日本映画には社会的な感性が欠けているのかしら。
園子温監督に社会的な感性があるかどうかわからないけれど、これは映画になる、と途中まで進んでいた映画製作に瓦礫の風景を取りこんじゃったという強引さは、評価できる。
強烈なイメージを与えるからね。
それに対抗するには、ドラマのほうも強烈にならなきゃいけないんだけど、「恋の罪」みたいに強烈さが空回りする寸前で納まっている。
やっぱり、若い二人の存在感に追うところが多いのかな。
二階堂ふみなんて、明らかに宮崎あおいの線を狙ってるもんな。
宮崎あおいだって、「害虫」とかで最初に出てきたときは、いまみたいな優等生じゃなかった。
ボート小屋に飾られた電球とか対岸の灯りとか見てると、テオ・アンゲロプロスの「シテール島への船出」あたりの作品さえ思い出す。
誉め過ぎよ。
最後も川に浮かぶ小屋で締めたほうが寓意が伝わってよかったような気もする。
ああいう風景をとらえると、フィクションなのにちょっと現実寄りの感慨が出てきちゃうところが痛しかゆしよね。
世の中が落ち着いたらもっと評価が上がるのか、下がるのか。
いずれにしても、園子温監督、日本映画の台風の目になって来たわね。


「聯合艦隊司令長官 山本五十六」

2012-01-07 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


戦後の焼け野原の風景が、震災後の被災地の風景とダブってしょうがなかったわ。
戦争と自然災害の違いがあるとはいえ、ああいう風景を目のあたりにするとね。
そういう目で観ると、非常事態の中で的確な判断も出来ず右往左往するばかりのエラい人たちの情けない姿は、70年前も今もまったく変わらないんだなと思ってしまう。
今は、山本五十六のような気骨のある人物さえいないけどね。
でも、いま、彼のような人物が現れても何もできないんじゃない?
70年前はそうだった、っていうのがこの映画。
戦争に反対しても結局戦争は始まっちゃうし、作戦はことごとく失敗するし、早期講和とか言っても誰も耳を貸さないし、最後は部下の単純なミスから身を落とす。
踏んだり蹴ったりだ。
スタンリー・キューブリックならブラック・コメディにしてしまいそうな話を成島出監督はあくまで丹念に描く。
山本五十六のいうことはいちいち正しいし、人間的にも信頼できる人物として描いているし、甘いものには目がないというお茶目な描写にまで気を配っている。
でも、人が良すぎたんじゃない?という印象が残る。
真珠湾奇襲で早期講和に持ち込もうなんて、考え方がナイーブすぎる。
その作戦も部下がひとりで考えたように見えちゃうし。
権力にも地位にも関心がなかったなんて、さも高潔な人物のように描いているけど、その野心のなさが彼の限界でもあった。
持論を述べるばかりで、早期講和のために日本の指導者たちをどう動かしたのか、あるいは動かせなかったのかまで描かれていない。
彼の立場上、それ以上動きようがなかったというなら、それが彼の悲劇だったということでもある。
その空しさ。隔靴掻痒感。
山本五十六には能力がなかったって言いたいんじゃなくて、彼のように秀でた能力を持つ人物でさえ、時代の流れを変えることはできなかったっていう無力感なんだ。
結局、世の中、なるようにしかならない。そう思うとゾッとする。
それを象徴するようなシーンがあってもよかった。
そういった絶望感、寂寥感、孤独感を「孤高のメス」「八日目の蟬」の成島出監督なら、もっと深掘りして描くことができたんじゃないかしら。
何があっても泰然自若としている姿に感服はするけど、それだけじゃ“偉人伝”の人物になってしまう。
あの、荒廃した風景には勝てない。
そこを見つめるところからしか未来はないからな。
70年前も今も、ね。