【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「海炭市叙景」

2010-12-31 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

地味な映画。
その地味さがいい。
造船所をリストラされた男とその妹、妻が夜の仕事に出ている男とその息子、仕事がうまくいかないガス屋の跡継ぎ、立ち退きを拒否する老女。そこいらへんにいるような人間たちのすすけたような生活の点描。
地べたにへばりついているような人々、そのすすけ具合がひたひたと心に沁みてくる。
あなたのような、すすけた人にはね。
海炭市とはよく名付けたもんだ。
モデルになっているのは、函館市なんだけどね。
観光客には煌びやかなイメージがあるかもしれないけど、そこで生活していかなくちゃいけない者にとっては、寂れた地方都市という厳しい現実に過ぎない。なんとも身につまされる。
あなたのような人にはね。
そんなこと言って、お前だって将来は、あの猫を抱いてるおばあさんみたいになりそうだぜ。
上等じゃない。
それぞれの挿話がからみあってくるというよりは、それぞれに独立して存在していて、袖すりあう程度のからみしかないんだけど、その挿話同士の距離の取り方がまたちょうどいい。
話を造り過ぎない。嘘くさくしない。
でも、それぞれの挿話の底を流れる、沈んだ感情は一緒だ。
だから、観終わった後にはそこで暮らす人々の悲しい息遣いが、街の息遣いとして立ち昇ってくる。
誤解を恐れずいえば、日本映画の真骨頂は、こういう地味な映画にあるとも言える。
それじゃあ、お客は呼べないけどね。
そう、それじゃあ客が呼べないところが問題なんだ、日本映画も地方都市も。
でも、こういう地味な映画の火を消しちゃいけないわよね。
ああ、消しちゃいけない、日本映画の火も地方都市の火も。
そういう思いでこの映画に協力したロケ地の人々の名前が、エンドクレジットに延々と出てくる。
そこが一番のポイントかもしれないな。



「ノルウェイの森」

2010-12-28 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

村上春樹の原作ということで、そればかりが話題になるけど、明らかに監督のトラン・アン・ユンの映画だった。
映像はあくまで美しく、ドラマはあくまで背景としてあり、移りゆく時間だけが残されるような映画。
アジア的とも無国籍とも取れる彼独特の映像に乗れるか乗れないかで評価は分かれるんじゃないか。
うん、物語を追いかけていくと、物足りない部分があちこちに出てくるけど、そうではなく画面から立ち昇る空気を感じるってことね。
じゃあ、村上春樹の原作とは全く別物かというと、そうとばかりも言いきれない。
ストーリーはもちろん原作から取っているんだけど、それ以上に、日本を撮っていながら、日本じゃない風景みたいな不思議な感覚って、村上春樹の世界に通じないこともない。それがあったから、彼もこの映画監督にゴーサインを出したんじゃないかしら。
でも、外国人に頼まなくたって、森田芳光あたりががんばれば撮れたような気がしないでもない。
ジットリとしていない、どこかしら乾いた感覚がね。
松山ケンイチと菊地凛子が二人で延々と歩き回る場面なんて、それこそ森田芳光あたりが嬉々として挑戦しそうな映像だ。
なんか、肝腎の内容にはあまり踏み込まないけど、何か理由でもあるの?
いや、そんなことはないけど、心の奥に踏み込みそうになりながら、踏み込まないように巧妙に避けているところもある映画なんで、まあ、判断停止っていうところだな。
つまり、不満が残ったっていうわけね。
ノー、ノー。これ以上丁寧に心理を描いたら別の映画になってしまう。トラン・アン・ユンの映像世界を楽しめただけで、俺は満足だ。
珍しく志が低いなあ。
そういうことじゃないだろ。


「雷桜」

2010-12-26 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

蒼井優と岡田将生、身分違いの恋。
身分違いの恋を描くのに、時代設定を江戸時代にした。
山の民と徳川将軍・家斉の十七男に生まれた男の悲恋。
イギリスなら、「ロミオとジュリエット」になるところ。
でもねえ、蒼井優はともかく、岡田将生に将軍の血筋が感じられない。
いくら母を亡くし親の愛情を知らずに育った役柄とはいえ、もうちょっと知性が感じなれないと、蒼井優が健気なだけに、なにもこんな男に惚れなくてもと思ってしまう。
一歩間違えると、バカ殿。
こんな男のために、柄本明が顔を真っ赤にして割腹しなくちゃいけないかと思うと、悲しくて、悲しくて、涙が出る。
そういうところで泣く映画じゃないでしょ。若い二人の悲恋なんだから。
でも、柄本明は渾身の演技だったぜ。
脇役ばかり良くてもね。
主役の岡田将生って「悪人」の頭が空っぽな役はぴったり似合っていたんだけど、それだけにそっちのほうに行っちゃって、純粋な二枚目を演じるにはだんだん難しいキャラクターになってきちゃったような気がする。
殺陣も全然決まっていないしねえ。
あんなに刀をふらふらさせちゃってなあ。「十三人の刺客」を観てないのかなあ。
祭りのシーンでは、みんなお面を被るんだとか言いながら、始まったらなぜか蒼井優だけがお面を被っているっていうのもへんだしねえ。
「ロミオとジュリエット」の舞踏会シーンのように、恋の炎が立ち昇るところなんだろうけど、そのわりに平板な演出に終始する。
同じ祭りのシーンでいえば、「信さん 炭坑町のセレナーデ」の中で少年が憧れの女性のうなじを見つめていたシーンのほうがまだ、感情の高ぶりが伝わってくる。
思うように行かない恋に身もだえる、っていう感情の細やかな表現が足りなかったかなあ。
雷桜のように、すべての描写がきれい過ぎてね。
最後に二人が別れるシーンでも、かごの中の岡田将生の泣き顔は写さないほうが、二度と会えない運命の切なさが出てよかったと思うんだけどなあ。
ま、若い二人には、まだまだいい恋愛映画に出るチャンスはあると思うから、捲土重来ということで。
俺たちにはもうあまり恋のチャンスはないけどな。
って、少しはあるつもりなの?





「最後の忠臣蔵」

2010-12-20 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

いいよねえ、演出も演技も美術も撮影もすべて堂に入ってて。
そうか?
あら、またあなたのあまのじゃくが始まった。近頃こんなかっちりとできた時代劇ないんじゃないの。
まあねえ、技術的には言うことないけどねえ。
じゃあ、何が気にいらないの?
忠臣蔵の討ち入り前夜に逃亡した赤穂藩士の話・・・。
そうよ。その赤穂藩士を演じるのは、油の乗り切った役所広司。彼が逃亡した真意は何かっていう話。
・・・なあんて言うと思わせぶりだけど、真意なんて早々と明かされる。最大の謎が解けてしまえば、あとはもう思ったとおりの展開になるだけで、何の起伏もない。
そんなこと、ないでしょ。親友だった男との再会や彼が守った娘との交流や忠義に殉ずる姿やなんやかやドラマはあったじゃない。
娘を守ったって言ったって、一体誰から守ったんだ?彼女の正体が明らかになったからって、誰も咎める者が出てこないじゃないか。それどころか、話はとんとん拍子に進んで、めでたし、めでたし、ってみんなが集まってくる。
そりゃ、16年間守り通したんだから、それでいいのよ。
時間がすべてを解決したってことか。なら、その時間を描かなくちゃ。
二人であっちこっち放浪するとか?
そう、そう。嵐の海岸とか薄暗い山の中とか。
それじゃあ、「砂の器」になっちゃうじゃない。
いいねえ、役所広司は年老いた病人になり、娘は玉の輿に乗る。「砂の器・元禄編」。大石内蔵助は、今は亡き丹波哲郎が演じたりして。
いいえ、大石内蔵助は断然、片岡仁左衛門。あの風格はさすが、血は争えないって感じだったわ。
そうかと思うと、娘の祝言に続々現れてくる連中、あれ、討ち入りに参加しなかった連中だぜ。あんなに能天気でいいのかよ。もっと陰からそっと祝福するとかしないのかよ。
主人公が陰から祝福してるんだから、それでいいのよ。
彼も、主君のために娘を守るなんていいながら、どうも彼女に気があるらしい。
そんなことはないでしょ。
じゃあ、何で人形浄瑠璃の「曽根崎心中」なんかを執拗に重ねて見せるんだよ。意図がわからないじゃないか。
主君と心中したってことなんじゃないの?
おいおい、どう控えめに見たって「曽根崎心中」は男と女の話だぜ。
まあ、ちょっとはそういう気持ちもあったかもしれないけど、あからさまには描いてないわよ。
あたりまえだ。あからさまに描いたら条例違反だ。
あのねえ、江戸時代の話よ。
その上、年長の女の誘いは拒否するなんて、こいつはロリコンか。
何でそう短絡的に考えるかなあ。あなた、役所広司になにか恨みでもあるの?
恨みもつらみもないけど、あんなにかっこよく最後を決められちゃあ、残された赤穂藩士は立つ瀬がないじゃないかと思ってさあ。
あなた、忠義とか忠信とか興味ないんでしょ。
当たり。



「シチリア!シチリア!」

2010-12-13 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

あのハエは、「ラストエンペラー」のバッタだな。
時代を超えて生き残るもの。それは一匹の昆虫であったりするっていうわけね。
1930年代から1980年代に至るシチリアの歴史をある家族に焦点をあてて描いた一大叙事詩。
「ラストエンペラー」が出てきたからじゃないけど、あのベルナルド・ ベルトルッチが監督してたらなあ。
彼にはもう「1900年」っていうイタリア史を題材にした超大作があるからね。
じゃあ、ルキノ・ヴィスコンティは?
彼には「若者のすべて」っていう傑作があるし、そもそももうこの世にいない。
「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッぺ・トルナトーレ監督も悪くはないんだけど、そういう巨匠たちの過去のフィールドで勝負しなくちゃいけないとなるとねえ。
ひとつひとつのエピソードには力が入っているのに、それが映画全体の魅惑へと昇華していかない。
いまや古典となった「ニュー・シネマ・パラダイス」っぽい郷愁を感じさせようとしているところもところどころあるんだけど、その残影を観ているような既視感にも襲われる。
「ニュー・シネマ・パラダイス」も初めて見たときにはやられたっていう感じだったけど、時間が経つにつれて、あざとさばかりが鼻につくようになってきた。
この映画は、残念ながら、そのあざとさが散り散りに終わっている。
大量の群衆シーンとか用意しておきながらそれであっさり終わってたりする。
はい、次ッ。はい、次ッて言う感じで、エピソードが重層的に盛り上がっていかないんだなあ。
イタリア人なら歴史の教科書に載っているような知識で間を補っていくからいいのかもしれないけれど、シチリアの歴史なんて知らない俺たち日本人から見れば、いつの時代の話かさえよくわからない。
ベタに年号でも入れておいてくれればよかったのにね。
映画の語り口は熱っぽいのに、イタリア映画の時代は終わったのかなあという寂寥感さえ感じてしまう。
トルナトーレ監督に、撮ってほしかったような、ほしくなかったような映画。
名前が、“撮るな・撮れ”だけにね。