【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「1978年、冬。」:高橋バス停付近の会話

2008-07-26 | ★門33系統(豊海水産埠頭~亀戸駅)

こんなところに船着き場があるとは知らなかった。
通勤客が使う船なのかしら。
まさか。東京のど真ん中を船で通勤なんてあんまり聞かないぜ。
でも、中国では、貨物列車で通勤しているみたいだし。
「1978年、冬。」に出てきた情景だろ。でも、あれは30年も前の物語だ。
中国の地方都市の暮らしを点描した、淡い感触の映画だったわね。
主人公は北京から来た少女に憧れる地元の少年とその弟。
多くの中国映画の佳作と同じように、ほとんど会話らしい会話もなく、目線と仕草でつつましい物語がつづられていく。
こういう映画を観ると、豊かさって何だろうって、いつもつくづく思うんだよなあ。
日本人が繁栄の中で置き忘れてきた素朴さがあるのよねえ。
それって何?って聞かれてもなかなか説明しづらいんだけどな。
家族の情愛とか、日々の暮らしとか、ささやかな夢とか、ことばにすると、そんなものかもしれないんだけどね。
わびしい食卓とか荒れた工場とか、ぜいたくな物が何ひとつない風景の中で繰り広げられる物語には、たいしてドラマらしいドラマもないんだけど、物に囲まれた自分の暮らしをついつい振り返ってしまうようなところがあるよな。
懐かしいというか、どこかにあったはずの暮らしの息遣い・・・。
というと、実に共感を誘う映画っていう感じがするんだけど、いままでのこの手の中国映画には、どこかしらハッとするような映画的なギミックがあったのに、今回は実直なばかりで、一本の映画としてはあまり新鮮な部分がなかったような気がするな。
鮮度がないってこと?
ああ、最近でいえば「孔雀」に出てきた落下傘とか「長江哀歌」に出てきたロケットとか、ハッとするような飛躍がない。
それだけ、素朴な映画だったってことじゃない。この映画の場合、そういう突出したシーンが出てきたら、かえって台無しになっちゃうんじゃないの?
しかし、「孔雀」や「長江哀歌」はそういうシーンがあっても全体の統一感はまったく崩れていなかったぜ。
そういう意味では、この映画にももう少しオリジナリティがあってもよかったかもしれないわね。
1978年といえば、毛沢東の独裁体制が終わったばかりで、中国人が観ればもっと感慨深いシーンがたくさんあったのかもしれないけど、俺は日本人だし、まだ生まれてなかったからそこまではわからなかったな。
ちょ、ちょっと、待って。いま、どさくさに紛れておかしなこと言わなかった?
え?
1978年には生まれていなかったとか何とか。
え、そんなこと言ったか。
年齢をごまかすなんてサイテーよ。
しかし、お前だってアンケートに自分の年齢を書くときは必ず4つ、5つ、ごまかして書いているじゃないか。
この映画に出てくるような素朴な人間にはなれないってことね、私たちは。


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ふたりが乗ったのは、都バス<門33系統>
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