「「ストーカー」は何を考えているか」 小早川明子 新潮新書 2014.4.20
500人ものストーキング「加害者と向き合い、カウンセリングなどを行ってきた著者が、
彼らの思考パターンと危険度、実践的対応を多くの事例とともに解き明かす。
いまや「ストーカー」をめぐるトラブルは年間二万件。なぜ彼らは常識を踏み外すのか、
警察は後手に回るのか、その時どう対処すれがいいのか--
「こんな自分は本当の自分ではない」
加害者は、「世間並みに成功していない自分など、本来の自分ではない」と考える。
「成功しそうにない」という焦り、「成功しているのに」という不満や疑念が抑えられなくなると
自暴自棄になる。
自分が「成長」することに対しては関心も意欲もない。「成功」への露骨なこたわりがあるだけで、
しかもその成功とは非常に個人的なもので、仕事やお金、恋愛や結婚はあくまで「自分が世間並みになる」
「ほめられる」ための手段としか考えられない。
それが得られないと、「自分も他人も信じられない、誰も自分を分かってくれない」という
被害者意識を持つ。ストーキングの心理的背景には、加鳴らす被害者意識がある。
加害者に対して本心を言う時は、常に自分を守護にすれば露骨にならない。
別れの意思を伝える際も、「あなたは私にはもったいない」といった婉曲な言い回しではなく、
正直に言うべき。「あなたが××だから」と相手に責任を負わせるようなことはいわず、
「私はあなたの××が辛くなったから」「理由はわからないけど、とにかく私は分かれたくなったから」
と言うのが不要な衝突を避けるポイント。どうしても相手のことを言いたいなら「私はあなたが
××だと想像します」「私は今の言葉が不快です」など。
「信じていい?」と聞かれたら、「それは自分で決めてね」と答えるのが正解。
「信じる」と口に出すのは、多くの場合、不信感があるとき。
プライドが高くて傷つきやすく、自分を抑圧してきた人は、他人のことも批判の目で見る。
批判するには正義を盾にするのが最も簡単で、「約束を守れ」「無視するな」と常に自分を
正当の位置に置きたがる。その意味ではストーカーは実に律儀で、まるで教師のような態度で、
「誠意」「信頼」「道徳」「人として」といった言葉を多用する。
感情のコントロールは、トレーニングできる。
「彼が悪い」を「私は彼が悪いと考える」と言い換える。言葉が変わると、心境も変わる。
「私は空腹だ」を「私は空腹を感じている」に、「私はあいつが憎い」を「私はあいつを憎いと
感じている」に。相手に「分かってくれないなら、死ぬ」「死んでほしい」と言ったりするのではなく
「私は悲しいです」「私は××してほしいのです」と自分の感情を感情的にならずに伝える。
それが第一歩。するとその感情の所有者はまさに自分自身であることに気づく。
従来のカウンセリングの原則は、①共感する、②中立性を保つ、③自発性を重んじる。
しかしストーキングの場合は犯罪防止が第一目的。だから短期的には加害者の危険度を見計りつつ
①教育、②介入、③援助・便宜。
カウンセラーは、被害者と加害者の双方が受け容れがたい痛みを抱えていることを認めなくてはならない。
加害者は痛みを処理する責任が自分にあることを理解しない。しかしそれを指摘する前に、
まずは痛みの存在を認めてあげる。
人は、自分が理解されて初めて責任能力が回復する。ここでいう責任とは、自分を取り巻く現実に
対する、自発的な応答力のこと。
痛みを理解されてようやく、痛みに立ち向かう力が自分の中にあることに気づく。受け入れ不可能に
見えていた現実が受け容れ可能になる。被害者ならば、加害者の要求を拒否し、人に助けを求めるという
形で現実に立ち向かえるようになる。
自分の気持ちに気づくというのは実は怖いことで、気づきたくないがために心理系の本ばかり
読む人は大勢います。なぜなら、解釈の世界にいる限りは安全だから。
しかし、気づきとは解釈ではなく、理解すること。つまり本当は「問い」を解くことではなく、
「問い」を理解することが解決。
プライドの高さ、心理系の本を読む、他人のせいにする…等々、
イマドキの鬱の症状と重なる部分が多い。
安心・安全・快適が当たり前の環境で育つが、世間は往々にしてそうではない。
思うようにならないのは当たり前なのに、周りが悪いと思い込み
事実を素直に受け入れたり、 他人の意見を聞くことができない。
上から目線のチッポケなプライドの鎧を脱ぐことができない。
まさに、自分の心と向き合うことができない。
ナイナイ尽くしだ(^^;
自分の中のストーカー的な要素についても、ちと考えた。
500人ものストーキング「加害者と向き合い、カウンセリングなどを行ってきた著者が、
彼らの思考パターンと危険度、実践的対応を多くの事例とともに解き明かす。
いまや「ストーカー」をめぐるトラブルは年間二万件。なぜ彼らは常識を踏み外すのか、
警察は後手に回るのか、その時どう対処すれがいいのか--
「こんな自分は本当の自分ではない」
加害者は、「世間並みに成功していない自分など、本来の自分ではない」と考える。
「成功しそうにない」という焦り、「成功しているのに」という不満や疑念が抑えられなくなると
自暴自棄になる。
自分が「成長」することに対しては関心も意欲もない。「成功」への露骨なこたわりがあるだけで、
しかもその成功とは非常に個人的なもので、仕事やお金、恋愛や結婚はあくまで「自分が世間並みになる」
「ほめられる」ための手段としか考えられない。
それが得られないと、「自分も他人も信じられない、誰も自分を分かってくれない」という
被害者意識を持つ。ストーキングの心理的背景には、加鳴らす被害者意識がある。
加害者に対して本心を言う時は、常に自分を守護にすれば露骨にならない。
別れの意思を伝える際も、「あなたは私にはもったいない」といった婉曲な言い回しではなく、
正直に言うべき。「あなたが××だから」と相手に責任を負わせるようなことはいわず、
「私はあなたの××が辛くなったから」「理由はわからないけど、とにかく私は分かれたくなったから」
と言うのが不要な衝突を避けるポイント。どうしても相手のことを言いたいなら「私はあなたが
××だと想像します」「私は今の言葉が不快です」など。
「信じていい?」と聞かれたら、「それは自分で決めてね」と答えるのが正解。
「信じる」と口に出すのは、多くの場合、不信感があるとき。
プライドが高くて傷つきやすく、自分を抑圧してきた人は、他人のことも批判の目で見る。
批判するには正義を盾にするのが最も簡単で、「約束を守れ」「無視するな」と常に自分を
正当の位置に置きたがる。その意味ではストーカーは実に律儀で、まるで教師のような態度で、
「誠意」「信頼」「道徳」「人として」といった言葉を多用する。
感情のコントロールは、トレーニングできる。
「彼が悪い」を「私は彼が悪いと考える」と言い換える。言葉が変わると、心境も変わる。
「私は空腹だ」を「私は空腹を感じている」に、「私はあいつが憎い」を「私はあいつを憎いと
感じている」に。相手に「分かってくれないなら、死ぬ」「死んでほしい」と言ったりするのではなく
「私は悲しいです」「私は××してほしいのです」と自分の感情を感情的にならずに伝える。
それが第一歩。するとその感情の所有者はまさに自分自身であることに気づく。
従来のカウンセリングの原則は、①共感する、②中立性を保つ、③自発性を重んじる。
しかしストーキングの場合は犯罪防止が第一目的。だから短期的には加害者の危険度を見計りつつ
①教育、②介入、③援助・便宜。
カウンセラーは、被害者と加害者の双方が受け容れがたい痛みを抱えていることを認めなくてはならない。
加害者は痛みを処理する責任が自分にあることを理解しない。しかしそれを指摘する前に、
まずは痛みの存在を認めてあげる。
人は、自分が理解されて初めて責任能力が回復する。ここでいう責任とは、自分を取り巻く現実に
対する、自発的な応答力のこと。
痛みを理解されてようやく、痛みに立ち向かう力が自分の中にあることに気づく。受け入れ不可能に
見えていた現実が受け容れ可能になる。被害者ならば、加害者の要求を拒否し、人に助けを求めるという
形で現実に立ち向かえるようになる。
自分の気持ちに気づくというのは実は怖いことで、気づきたくないがために心理系の本ばかり
読む人は大勢います。なぜなら、解釈の世界にいる限りは安全だから。
しかし、気づきとは解釈ではなく、理解すること。つまり本当は「問い」を解くことではなく、
「問い」を理解することが解決。
プライドの高さ、心理系の本を読む、他人のせいにする…等々、
イマドキの鬱の症状と重なる部分が多い。
安心・安全・快適が当たり前の環境で育つが、世間は往々にしてそうではない。
思うようにならないのは当たり前なのに、周りが悪いと思い込み
事実を素直に受け入れたり、 他人の意見を聞くことができない。
上から目線のチッポケなプライドの鎧を脱ぐことができない。
まさに、自分の心と向き合うことができない。
ナイナイ尽くしだ(^^;
自分の中のストーカー的な要素についても、ちと考えた。