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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

白土三平「カムイ外伝第一部」

2018-12-30 10:27:04 | コミックス
 1965年から1967年にかけて、週刊少年サンデーに不定期連載(全二十回)された忍者漫画です。
 私は小学生の時に、少年サンデーを毎週家でとってもらっていて(町の本屋さんが配達してくれました)、前半はリアルタイムに読んでいましたので、その部分は鮮明に記憶に残っています。
 後半が記憶にないのは、中学生になって少年サンデーをとってもらうのをやめたからでしょう(本屋で好きな漫画だけ立ち読みしていました)。
 今では考えられませんが、当時の少年漫画雑誌の主な読者は、小学生でした。
 私が読んでいたころの少年サンデーでは、横山光輝の「伊賀の影丸」が大人気で忍者漫画ブームでしたので、作者の「カムイ」にも白羽の矢が立ったのかもしれません。
 典型的な子ども漫画のタッチの「伊賀の影丸」に対して、劇画(そのころはまだこの言葉はありませんでしたが)タッチの「カムイ外伝」は、子ども読者の目にも圧倒的にリアルでした。
 また、「木の葉隠れ」などの影丸の技がいわゆる「忍術」だったのに対して、カムイの「変移抜刀霞切り(へんいばっとうかすみぎり)」や「飯綱落とし(いづなおとし)」は、修練を積んだアスリートの技っぽくて、男の子たちの憧れでした。
 竹製の三十センチものさしを、ズボンのベルトの後ろに差して、教室で「変移抜刀霞切り(へんいばっとうかすみぎり)」のまねをしたのを、今でも思い出すことができます(「飯綱落とし(いづなおとし)」は、まねをすると死ぬ恐れがあります)。
 この時期は、作者にとっては、代表作の一つである「カムイ伝」を大人向け(というよりはマニア向けといった方が正しいかもしれません)の漫画雑誌「月刊漫画ガロ」に連載していた時期(1964年から1971年にかけて)と重なります。
 「カムイ外伝第一部」では、そのカムイ伝(で抜け忍のカムイだけでなく、カムイの義兄(姉の夫)の下人(百姓の中でも下位の立場です)の正助、侍(ただし脱藩した浪人)の草加竜之進を中心とした群像を描いています)に登場するカムイを主人公にして、抜け忍とその追手の戦いを通じて、いろいろな忍者の技を紹介(発明)しています。
 安保闘争を中心にした当時の階級闘争を社会背景にして、江戸時代の身分制度や一揆などの階級闘争をマルクス・レーニン主義を思想背景にして壮大に描いた「カムイ伝」が純文学だとすると、「カムイ外伝第一部」は忍者の戦いにフォーカスした大衆文学(今の言葉で言えばエンターテインメント)に位置付けられます。
 その後、1982年から1987年にかけて「カムイ外伝第二部」が、ビッグコミックに不定期連載されますが、こちらもカムイが主人公ですが、発表誌からも分かるように、「カムイ伝」と「カムイ外伝第一部」を折衷したような内容になっていて、言うならば中間小説のような作品です。
 この期間(1970年代から1980年代にかけて)に、マルクス・レーニン主義への評価も大きく変わりましたし、純文学も大衆文学寄りにシフトしていますので、そのあたりの時代変化に作者なりに対応したものと思われます。


カムイ外伝 (1) (小学館文庫)
クリエーター情報なし
小学館

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春見朔子「そういう生き物」

2018-12-29 11:35:26 | 参考文献
 LGBTの男女(男性の方はすでに女性として生きていますが、女性の方は潜在的)の同棲生活を描いています。
 性的少数者をどのように描いているのかと思って読んでみたのですが、そのことを除くとすこぶる低調な作品でした。
 二人の視点で交互に描いているのですが技術的な問題があって読みにくく、文章や描写も児童文学の同人誌レベルでした。
 作者は薬剤師(登場人物の女性も薬剤師なので、作者自身が投影されているかもしれません)なので、まあアマチュアの作品なのでしょう。
 他の記事にも書きましたが、現代では純文学では児童文学と同様に食べていけないので、すっかりアマチュアの世界になっています。
 そうなると、どうしても身近な世界を描いた小さな物語になってしまうのですが、そうした場合、よほど優れた感性のきらめきがあるか、文章芸術として技巧的に優れていないと、読むに値しません。

そういう生き物
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集英社
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エーリヒ・ケストナー「非文学的な答え」子どもと子どもの本のために所収

2018-12-29 09:07:16 | 参考文献
 「小さい自由」(1949-52年)の結びですが、短いので全文引用します。

 「何を書いてますか」と皆さんはたずねます。
 「小説ですか。」 ― わたしを、書いています。

 リアリストで、子どもの時の記憶をもとに作品を書いているケストナーらしい結びです。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
クリエーター情報なし
岩波書店
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古田足日「児童文学のなかの人物像」子どもが生きる所収

2018-12-28 08:23:56 | 参考文献
 1979年に書かれた論文で、その二十年前に出発した「現代児童文学」が戦前の「赤い鳥」童話などと同様に、時代の典型となる子ども像(例えば、マーク・トウェインのトム・ソーヤーやエーリヒ・ケストナーのエーミール・ティッシュバインやアーサー・ランサムのナンシー・ブランケット)を生み出しえなかったとしています。
 その一方で、同時期に海外ではカニグズバーグのクローディア・キンケイドのような新しい時代の典型的な子ども像が生み出されているとし、その理由を日本の風土に求めています。
 また、主題とそれるのですが、日本の戦争児童文学では被害者意識が先行して、ドイツの「あのころはフリードリヒはいた」などのような加害者意識も含めた視点に欠けていると批判しています。
 これらの批判は、日本の「現代児童文学」の欠点を的確にとらえています。
 さて、この論文が書かれてからすでに四十年がたちました。
 はたして、その後も日本の児童文学で、その時代の典型的な子ども像を描き出した作品が生まれたかというと、はなはだ疑問です。
 その間に、ズッコケシリーズ、バッテリーシリーズ、守り人シリーズなどのベストセラーは次々と生まれました。
 でも、これがその時代の子どもの典型像だとういう登場人物は、いまだに現れまていません。
 むしろ、これらのエンターテインメント系の作品が児童文学の主流になることで、登場人物は漫画的な平面的なキャラクター(一部の特性をデフォルメしたキャラクター)になっていって、ますます現実の子どもを立体的に捉えた人物像は生まれにくくなっているようです。
 この論文の著者の古田足日先生は、2014年にお亡くなりになりました。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。

子どもが生きる (叢書児童文学)
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世界思想社
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新しい児童文学同人誌のあり方

2018-12-27 09:08:14 | 考察
 かつて1950年代から1960年代にかけての「現代児童文学」の出発期においては、児童文学同人誌の多くは一種の文学運動体で、新しい児童文学を確立するために大きな働きをしました。
 その後、児童文学がビジネスとして成立するようになり、多くの既成作家がその中に取り込まれたとき、商業主義による児童文学の沈滞化を憂えた有志により、いくつかの同人誌が1980年代前半に「新しい児童文学を拓く」ために旗揚げしたことは別の記事で紹介しました。
 しかし、それらの活動もさらに深く商業主義に取り込まれ、児童文学同人誌活動が変質したこともその記事でも述べました。
 児童文学同人誌は、もはや新しい児童文学を開拓しようという運動体ではありません。
 すでに商業出版をしている旧人とこれから商業出版を目指す新人とに二極化していて、旧人にとっては依頼原稿あるいはこれから本にしようと思っている作品のブラッシュアップの場であり、新人にとっては創作教室の役割をはたしています。
 そして、そこには奇妙なギブアンドテイクの関係が生まれていて、一種の調和が取れています。
 こういった現状を認めた上で、その範囲でより良いものにするためには、最低限の暗黙の約束事が必要な気がします。
 まず、合評会に提出する作品は、少なくともその時点ではその書き手のベストの物を出すべきでしょう。
 作品の巧拙を言っているのではありません。
 どんなに拙い作品でも、その書き手が最大限の努力をしたものならば、合評する側でも全力をあげて評するべきでしょう。
 ところが、月例会の作品締切日が来て、「作品を例会に出さないともったいない」という意識で出されている作品も散見されます。
 中には、誤字脱字やワープロの変換ミスがそのままになっている原稿すらあります。
 完成原稿を、本人が読み直して推敲していないのでしょう。
 こういった時は、潔くその月の原稿提出は見送り、次の月にもっと完成度をあげて提出するべきだと思います。
 また、旧人が依頼原稿のブラッシュアップのために作品を出す場合は、合評で指摘された点を反映できるように、依頼原稿の納期までに十分な時間を取るべきです。
 それから、自分の作品がない場合は、例会を欠席する会員も見受けられます。
 また、他人の作品の時は、自分から積極的に発言しない人もいます。
 自分の作品を合評してもらうのと他の人の作品を評するのは、ギブアンドテイクの関係なのですから、こういった態度は現在の同人誌においてもマナー違反だと思います。
 最後に、少数の方向性を同じくするメンバーで構成される文学運動体でなくなった以上は、新しいメンバーの参加にもっとオープンであるべきです。
 現在のメンバーが既得権にしがみついてメンバーが固定化すれば、作品や合評の内容もマンネリ化して、同人誌活動は質的に低下するでしょう。
 どんどん新しい血を入れて、ついていけないメンバーは淘汰されるようにしなければ、活動を活性化することはできないでしょう。
 以上のようなことを復帰直後に思ったのですが、しだいにもっと寛容でもいいかなとも思ってきました。
 完成度の低い作品が提出されても、合評で自分から発言しない人がいても、それはそれとして許容し、多様な関わり方をする多くの人を受け入れれいくのも、これからの同人誌のひとつのあり方なのかもしれません。
 そのためには、自ら合評会の司会を引き受けて、合評会全体を時間配分も含めてうまくコントロールして、会員のいろいろなレベルのニーズを満たすよう努力すればいいのだと思っています。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社
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ガース・ウィリアムズ「くろいうさぎとしろいうさぎ」

2018-12-27 08:55:41 | 作品論
 1958年に出版された絵本です。
 四十年前ごろは、結婚プレゼント(といっても安価な物ですから、結婚式や二次会に呼ばれない程度の軽い知り合いの場合です)の定番でした。
 日本語版は1965年が初版ですが、私の手元に今あるのは1990年1月20日の第74刷ですので、かなりのベストセラーです。
 結婚(特に若い世代の)というものを、このように象徴的に描いた作品は少ないかもしれません。
 出版から60年近くがたち、その間にジェンダー観や結婚観はずいぶん変わりましたが、好きな男の子や女の子と、「いつも いつも、いつまでも、きみといっしょに いられますように」という願いは、普遍性を持っていると思います。
 ただし、日本語訳では、くろいうさぎは男の子、しろいうさぎは女の子と決め打ちした言葉づかいなので、やや古さを感じさせるかもしれません。
 作者のガース・ウィリアムズは私の好きな画家の一人で、マージェリー・シャープのミスビアンカ・シリーズ(その記事を参照してください)の挿絵でも有名です。
 動物の生態と擬人化のバランスが絶妙で、ディズニーのアニメ絵本のような単純にかわいいだけの絵柄とは一線を画しています。

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
クリエーター情報なし
福音館書店
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児童文学における現代風俗の取り扱い

2018-12-26 08:35:30 | 考察
 児童文学で、その時代の風俗をどう取り扱うかは、悩ましい問題です。
 同時代性を表したい時にはその時代の最新の風俗を使いたいのですが、そうすると時間がたつと作品が古臭くなる恐れがあります。
 例えば、ある作品の大きなエピソードとして、みんなが持っている携帯ゲーム機を買ってもらえない主人公が、代わりに将棋を持ち出して友だちとする場面がありました。
 この作品は連作短編で、先行する作品では、他の家にあるクーラーが主人公の家にはない設定もありました。
 今回の携帯ゲーム機と重ねあわせて考えると、こういった問題に対する作品の背景ないし作者の考えを、はっきりとさせた方がいいと思いました。
 つまり、主人公の両親は、経済的に余裕がなくてクーラーや携帯ゲーム機が買えないのか、それともポリシーとしてそういったものは買わないのかです。
 こういった問題は、親が隠していても、子どもたちは敏感に察知するものです。
 どちらがいいとか悪いとか言っているのではないのです。
 ただ、どちらが原因(100パーセントではなく混合しているケースもあるでしょう)なのかによって、主人公のこの問題に対する受け止め方が変わってくると思います。
 この作品の場合、携帯ゲームの代わりとして主人公は将棋を持ち出していますが、それが実際の読者(主人公の同年代の子どもたち)に受け入れられるかどうかは、よく検討する必要があります。
 将棋は、私が子どものころは非常に一般的でしたが、今の子どもたちにとってポピュラリティがあるのでしょうか。
 また、作者がこの作品を書くときに将棋をどのくらい調べたかはわかりませんが、今回の書き方ではまるで将棋の魅力が伝わってきません。
 ボードゲーム(将棋もその一つです)の世界では、スキル(技術)とラック(運)のバランスがよく話題になります。
 例えば、おなじ将棋の駒を使ったゲームでも、「まわり将棋」などは、ラックが非常に高いので初心者や子どもでも勝てる可能性がります。
 しかし、本当の将棋は、ほぼ100パーセント、スキルだけの世界なので、初心者が勝てる余地はまったくありません。
 これでは初心者の人がぜんぜん勝てなくてつまらないので、実力が違う同士が対戦するときには駒落ち(例えば、強い方が飛車と角とか、飛車だけをはずすなど、実力差によって細かく調整できます)といううまい方法があって、スキルと戦力のバランスを取ることができます。
 この作品では、片方は駒の動かし方もよく知らないレベルですので、心の優しい主人公が駒落ちをしないのはあまりに不自然です。
 さらに言えば、主人公の父親が、子ども相手に駒落ちをしないのは、この世界の常識としてまったく考えられません。
 おそらく作者は、将棋というゲームをよく知らないのでしょう。
 それに、きちんと調べたとも思えません。
 これでは、読者に将棋の魅力を伝えることはできません。
 また、この作品では、主人公だけでなく友だちも都合のいいことにも携帯ゲーム機を持っていない設定になっていて、作者のご都合主義でリアリティが感じられませんでした。
 現在の子どもたち(この作品の場合は特に男の子たち)の風俗を描くのであれば、それについて頭の中だけで書くのではなく、実際に取材するなり関連の本を読むなりして、リアリティを高めることが必要です。

どんどん強くなる やさしいこども将棋入門
クリエーター情報なし
池田書店
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浅野弘毅「男のうつ病・女のうつ病」うつ病論 双極Ⅱ型障害とその周辺所収

2018-12-26 08:24:41 | 参考文献
 従来、定型(メランコリー親和型の単極うつ病)が多かった男性のうつ病の非定型化(軽症うつ病など)が進行して、逆に非定型が多かった女性では定型化が進行しているとしています。
 女性の定型化の進行については、従来家庭にいた女性の社会進出が進み、管理職になる女性も増えていることを理由に挙げ、うつ病の男女の性差が小さくなっていると指摘しています。
 その一方で、男性の非定型化の進行理由については言及がなく、バブル崩壊後の特に若い世代(男女ともにです)の雇用・労働環境が激変していることへの視点が決定的に欠如しています。
 その理由としては、筆者(1946年生まれ)が団塊の世代(逃げ切り世代)に属し、現在の世代間格差などの社会のひずみが他人事に映っているのではないかということが疑われます。

 
うつ病論―双極2型障害とその周辺 (メンタルヘルス・ライブラリー)
クリエーター情報なし
批評社
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日本児童文学学会

2018-12-22 09:02:48 | 参考情報
 2012年の4月に日本児童文学学会の会員になりました。
 日本児童文学学会は、ホームページからの情報によると、以下のような沿革を持ち、活動をしているようです。
◆学会の沿革と活動の概要
日本児童文学学会は1962年10月6日に設立されました。
設立当初は会員98名、維持会員15名、学生会員40名で出発しましたが、年を追うごとに会員が増加。
1981年11月12日には日本学術会議の「協力学術研究団体」に登録され、現在は400名を超える会員を擁し、その半数以上を女性会員が占めています。
研究発表の場としては、毎年研究大会(年1回)を開催しているほかに、全会員を対象にした研究例会を東京で年4回開催しています。
また支部活動として、北海道例会(2005年より)、中部例会(1987年より)を開催するほか、関西例会(1964年より)も開催しています。
出版事業は、学会紀要「児童文学研究」(年1回)の刊行のほか、『児童文学事典』(東京書籍)などの刊行も行いました。
また、学会設立40周年を記念して『児童文学研究の現代史―日本児童文学学会の40年』(小峰書店、2004年4月15日)も刊行しました。その他にも、「研究=日本の児童文学」叢書(全3巻 東京書籍)なども刊行されるなど、出版活動にも精力的に取り組んでいます。
ほかに、会員むけに「日本児童文学学会会報」(年2回)の発行や、日本児童文学学会賞(奨励賞、特別賞を含む)を設けて児童文学・児童文化に功績のあった個人・団体を顕彰するなど、多くの活動を行っています。

◆学会の事業
日本児童文学学会は次の事業を行っています。
1. 研究発表会、講演会、展覧会などの開催。
2. 機関誌、会報、パンフレット、研究書などの刊行。
3. 会員の研究発表の斡旋。
4. 研究資料の収集保存。
5. 海外における研究者との連絡・交流。
6. 日本児童文学学会賞(奨励賞、特別賞)の選考・贈呈。
7. その他、理事会において特に必要と認めた事項。

 2012年の1月にそれまで二十六年間参加していた児童文学の同人誌を休会して、学生時代以来三十五年ぶりに児童文学の研究活動を再スタートした時に、真っ先に検討したことが二つあります。
 ひとつは、現代日本児童文学を研究するための大学院の受験です。
 結論から言うと、これはあまりうまくいきませんでした。
 他の記事でも書きましたが、その当時、児童文学を専攻できる大学院は日本に二つしかなく、梅花女子大学と白百合女子大学です。
 そのうち男性が受験できるのは、白百合女子大学だけでした。
 白百合女子大学の教授が知り合いだったので、直接及びメールで相談させてもらったのですが、私が望むような「現代日本児童文学」を研究する環境ではないことが分かり、最終的には受験を断念しました。
 次に、現代文学を研究できる大学院ということで検索しましたが、意外にも検索結果はゼロでした。
 現代文芸という名前で検索すると、東京大学に現代文芸論、早稲田大学に現代文芸コースという大学院があることがわかりました。
 しかし、早稲田大学に電話やメールで問い合わせると、現代文芸コースには博士課程はなく修士だけで、そこでは研究者ではなく作家や編集者やジャーナリストなどの実務者を養成する機関のようでした。
 また、2011年に創設されたばかりで、研究環境もあまり整備されていないようでした。
 東京大学にも電話で問い合わせましたが、現代文芸論では日本人の学生は外国文学しか専攻できない(留学生は日本文学を専攻してもいいのですが)とのことでした。
 どうやら、比較文学論的な研究が中心のようでした。
 ですから、日本人は日本の現代文学は当然熟知しているとの前提で、さらに少なくとも一つの外国の現代文学を研究する必要があるようです。
 こうして、「現代日本児童文学」を研究するのに適切な大学院は見つかりませんでした。
 もうひとつしたことは、学会への入会です。
 他の記事でも書きましたように、宮沢賢治学会イーハトーブセンターには20年ぶりに再加入しました(その後、研究が前よりも活発でなく、活動も岩手県花巻市にあるイーハトーブセンターに集中していることがわかり退会しました)。
 そして、日本児童文学学会にも入会することを承認していただきました。
 日本児童文学学会は、2012年当時の会員数は約340人で、ピーク時よりはやや減少していますが、まだ全国各地で児童文学を研究する人たちがこれだけいることを知りました。
 ただ、過去の紀要の総目次を見ると、「現代日本児童文学」の論文はだんだん減ってきているような印象を受けます。
 日本児童文学学会の発行した出版物では、「児童文学辞典」、「児童文学研究必携」、「日本児童文学概論」、「世界児童文学概論」ぐらいしか持っていませんでしたが、その他の「現代日本児童文学」の研究に必要な出版物はアマゾンなどでそろえました。
 学会の研究大会や研究例会に出席して、研究者の皆さんの各研究分野への情熱におおいに刺激を受けました。
 その後、「現代児童文学」を研究している人がほとんどいなくて、議論できないことが分かりましたので退会しました。

現代児童文学の可能性 (研究 日本の児童文学)
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東京書籍
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ベルリン・天使の詩

2018-12-22 08:48:35 | 映画
 1987年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞した、ヴィム・ヴェンダース監督の代表作(最高傑作は「パリ、テキサス」(その記事を参照してください)でしょう)の一つです。
 人々の心の声を聞いてそっと励ましていく守護天使の一人(?)が、サーカスの空中ブランコ乗りの女性に恋をして、永遠の生命を捨てて人間になる話です。
 白黒とカラーを効果的に使い分けた映像、人々の心のつぶやきをあらわす詩的で深遠な言葉の数々、戦争の傷跡が残るベルリンの荒廃した風景、そんな所でも確かに存在する人々の暖かなつながり、この映画のヒントを与えたというバンドのロック・ミュージックなどが、互いにうまく響き合っています。
 普通の映画が「散文」ならば、この映画は題名にもあるとおりに「詩」でしょう。
 やや難解ですが、一度は味わう価値があります。
 天使と人間の対比が、生きていくことの意味を考えさせてくれます。

ベルリン・天使の詩 デジタルニューマスター版 [DVD]
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東北新社
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小沢正「ゆめの オルゴール」目をさませトラゴロウ所収

2018-12-20 17:34:45 | 作品論
 ゆめのオルゴールは、例によってきつねが発明した、その音を聞くと自分の好きな物を夢に見ることができる物です。
 それによって、トラゴロウの宿敵のりょうしや機関銃の弾丸が、トラゴロウの大好物の肉まんじゅうに変わってしまいます。
 子どもの好きな繰り返しの手法を使って、いろいろなパターンでオルゴールと肉まんじゅうが出てくるのですが、今回はややひねりすぎていて、幼年の読者にはすっきりと楽しめないかもしれません。

目をさませトラゴロウ (新・名作の愛蔵版)
クリエーター情報なし
理論社
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立花隆「序章 ヒトとサル 今西錦司」サル学の現在所収

2018-12-20 06:47:43 | 参考文献
 この本の冒頭に、日本のサル学を切り拓き、常に先導してきた今西先生との対談を持ってきています。
 しかし、この時は、先生の最晩年の時期(1992年に90歳でお亡くなりになっています)であり、すでにサル学から離れて進化論へ行かれ、そこも離れて、さらに自然科学自体からも離れて、全体論である自然学といった達観の境地にあった先生にとっては、生物は個体、スペシア(種社会)、ホロスペシア(生物全体社会)といった単純な分け方で認識されているようです。
 ただ、その時点においても、群れ生活者(サルや馬や鳥、人間では未開民族だけ)に対する愛着は持っておられるようで、スペシアの上部概念としたいようです(なかなかうまくいっていないようですが)。
 ただし、人間の文明社会はそれらとは全く別物と考えられています(不自然なものと思われているようです)。
 先生のように、過去の自分の業績や後輩たちの現在の活動を、こんなにきれいさっぱり否定できると、むしろ潔く感じられますが、我々のような凡人(著者も含めて)にはとても到達できるような境地ではなさそうです。

 
サル学の現在 (上) (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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手塚治虫「火の鳥 黎明編」

2018-12-19 17:46:02 | コミックス
 永遠に死なず、その血を飲めば人間も不老不死になると言われている、火の鳥をめぐる人間たちを描いた、数多くの傑作を持つ不世出の漫画家である作者のライフワークにして代表作の一つです。
 1963年に雑誌「COM」に連載されたこの作品は、古今東西を問わずに多くの権力者が求めた不老不死をテーマに、作者の広範な分野に広がる膨大な知識をもとに、日本の神話、邪馬台国伝説、騎馬民族の存在などの当時の最新の歴史情報、作者の本来の専門である医学知識などを自在に操って、壮大なスケールで描いています。
 しかも、けっして堅苦しい物語にせずに、アクション、ユーモア、男女の恋愛など、エンターテインメント性満載で、読者を引きつけています。
 そして、何より、いつの時代も未来を切り開いていく担い手である子どもたちへの限りない愛情と、彼らを産み育てていく女性たちへの心からの尊敬がこめられていて、50年も前に描かれたとは思えない先見性を持っています。
 児童文学で言えばケストナーの諸作品とも共通するこれらのメッセージは、現代においても少年(少女)漫画や児童文学にとっても最も大事なものであると信じています。

火の鳥 1・黎明編
クリエーター情報なし
朝日新聞出版
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ワイアット・アープ

2018-12-19 09:51:48 | 映画
 1994年のアメリカの西部劇です。
 西部劇における正義のヒーローの一人であるワイアット・アープの実像に迫ろうとする伝記映画の大作ですが、興業的にも大失敗(製作費6500万ドルに対して、北米での興行収入は2500万ドルでした)して、ゴールデンラズベリー賞の最低主演男優賞(ケビン・コスナー)と最低リメイク・続編賞を受賞するという不名誉を味わいました。
 実際の映画は、当時のアメリカ各地の風物を忠実に再現していて、映像も含めて丁寧に作られた作品だと思いました。
 失敗の原因は、ワイアットワープの正義のヒーローとしてのイメージを覆そうとするために、負のイメージ(最愛の妻が病死したショックで身を持ち崩し、酒におぼれて浮浪者になり、馬泥棒(当時は縛り首になる重大な犯罪)までして投獄され、父の財力のおかげで脱獄して逃げた(当時は州を越えてしまえば追手はきませんでした)。二度目の内縁の妻(娼婦)を捨てて新しい女に走った。兄弟の敵を討つためには、法律も無視。死んだ敵にさらに銃弾を撃ち込む残酷さなど)を強調するばかりに、観客が主人公に共感を持てなかったことが一番でしょう。
 さらに、その主人公を、当時いい人役ばかりを演じていたケビン・コスナーが演じたので、見ている方はミスマッチを感じてしまいます。
 この作品で強調しようとした家族の「血の結束」を描くために、主人公の少年時代から時代を追って描いたために、上映時間が3時間11分と非常に長くなって、エンターテインメント映画としては受け入れられなくなってしまったこともあるでしょう(俗に一本100分ぐらいが、娯楽映画には適した長さなのですが、その二倍近くの長さがあります)。
 かといって、この映画で強調されている家族の「血の結束」が、ブラックマンデー(1987年)からの回復期にあった1994年におけるアメリカ社会に芸術作品としてマッチしていたともいえません。
 また、決闘シーンなどのリアリティを重視したために、まるでかつての日本の実録やくざ映画のように死体や出血が生々しく、女性や子どもの観客にはそっぽを向かれたことでしょう。
 そういえば、アープ兄弟たちとクラントン兄弟たちの復讐合戦による血で血を洗うような抗争は、広島を中心とした当時のやくざ抗争と同じで、基本的には利権争いや縄張り争いにすぎなかったのかもしれません。
 さらに、当時の風俗を再現しようとするあまりに、いろいろな差別や偏見(人種(ユダヤ人や先住民など)、女性(男性の性処理や子どもを作るための道具としてしか考えていないなど)の、動物(バッファローの虐殺など)など)が生な形で描かれすぎていて、観客は嫌悪感を感じてしまいます。
 評価点としては、ドク・ホリデイ役のデニス・クエイドが独特のくどい演技で存在感を出していました(他の男優たちは、敵も味方もみんな髭を生やしているせいもあって、日本人にはなかなか区別がつきにくかったです)。

ワイアット・アープ (字幕版)
クリエーター情報なし
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浅野弘毅「希望の消滅」うつ病論 双極Ⅱ型障害とその周辺所収

2018-12-18 13:42:34 | 参考文献
 かつては手首自傷症候群として重大視されていたリストカットが、現代では「リスカ」として、気晴らし食いやセックスやダイエットやピアスとおなじくらい、普通の若者(特に女性)の普通の振る舞いになってしまっているとしています。
 「リスカ」には軽い「解離」が起こっている場合が多く、血を見て初めてハッとして、生の実感を持つようです。
 それだけ、現代の若い女性たちにとっては、生きる希望が見いだせない状況なのでしょう。
 彼女たちは、リストカットは死にたいからするのではなく、生きたいからするのです。
 現実が生きづらくて解離した状態から、リストカットで血を見てまた現実に復帰する事を繰り返しているのです。
 従来から、結婚して主婦になるということは、男性への<従属>に向けて彼女たちの<主体化>を要求されることでした。
 その場合に、女性たちには、子どもを産み育てる<再生産する身体>と、夫専属の娼婦のような<性的身体>の二重の役割が求められていました。
 そして、そこから離脱するためには、<生産する身体>としての労働者になるしかありませんでした。
 しかし、職場においても、女性としての役割しか求められていませんでした。
 現代においても、夫のドメスティック・バイオレンスや職場などでのセクシャル・ハラスメントの問題は解決していません。
 特に、1990年代のバブル崩壊以降は、格差社会化が進行し、特に若い女性たちは、非正規労働、貧困、風俗などによる性的搾取、非婚化などによって、ますます生きづらくなっています。
 そして、本来は社会のひずみのせいであるのに、あたかも自己責任であるかのように問われて、彼女たちは益々内部で引き裂かれています。
 そんな状況では、血を見ることによって自分の「生」を確認する「リスカ」は、ますます増加することでしょう。

 
 
うつ病論―双極2型障害とその周辺 (メンタルヘルス・ライブラリー)
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