現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

エーリヒ・ケストナー「万里の長城」子どもと子どもの本のために所収

2016-11-30 10:14:03 | 参考文献
 ケストナーは、この文章で、世代間の断絶(万里の長城はその例えです)と、それを克服する方法について述べています。
 その方法とは、若い世代に向けて自分の過ごしてきた過去について語ることです。
 一般的に、児童文学は、大人の書き手が子どもの読み手に向けて書かれるわけなので、何らかの方法で世代間の断絶を乗り越えなければなりません。
 過去においては、日本では戦争経験のあるなしが、大きな世代間の壁でした。
 しかし、戦後七十年以上を過ぎて、それも過去のこととなりつつあります。
 それ以降の大きな世代間の壁をいくつかあげてみます。
 戦後の混乱期、六十年代安保、高度成長時代、七十年安保、バブル、バブル崩壊、デフレ、ゆとり教育、格差社会、パソコンとインターネットとスマホ、東日本大震災など。
 こうした事象を経験するか、経験しないかで、物事のとらえ方は大きく異なってしまうでしょう。
 児童文学の書き手は、こうした重要な事柄を踏まえたうえで、世代間の壁を乗り越えなければなりません。

 
子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
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岩波書店
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ジグソーパズル

2016-11-30 09:27:03 | キンドル本
 二つ年上のにいちゃんは、主人公にとっていつもスーパーヒーローでした。
 小さいころは、いつも体を張っていじめっ子から主人公を守ってくれました。
 少年野球チームでも、努力家のにいちゃんは主人公のお手本でした。
 そんなにいちゃんが、中学生になってから不登校になります。
 引っ込み思案なところがあるにいちゃんは、いろいろな生徒が集まる中学校になじめなかったようです。
 にいちゃんがまた学校に通えるように、両親は手を尽くします。
 でも、なかなか効果があがらず、ついにはにいちゃんは家庭内暴力までふるうようになってしまいます。
 でも、ある日、にいちゃんの変化が見られます。
 主人公の誕生日に、彼の好きなアニメのヒーローのジグソーパズルを作って、プレゼントしてくれたのでした。
 その時、主人公にこみ上げてきた思いは?

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ジグソーパズル
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平野 厚


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高田由紀子「まんぷく寺でまってます」

2016-11-29 16:53:22 | 作品論
 新潟県の佐渡島にあるお寺を舞台にした作品です。
 主人公の小学四年生の男の子が、お寺をついでお坊さんになるか、好きな漫画家になるか、悩みながら成長していく姿を描いています。
 そう、この作品は、最近少なくなっているかつての「現代児童文学」(定義については他の記事を参照してください)のような成長物語なのです。
 しかも、主人公だけでなく、おとうさんを亡くしてから心を閉ざしていたクラスメイトの女の子が心を開いていく様子も描いていて、ダブル成長物語ともいうべき本格派です。
 最近の出版状況(高学年の子どもたちは前よりも本を読まなくなっているので売れない)を反映してか中学年向きの本として書かれているので、限られた紙数の中に、二人の成長、現代のお寺や檀家の事情、主人公のおじいさんの病気などのたくさんの問題を盛り込んだため、後半の解決部分はやや急ぎ足になっている感はしますが、全体としてはよくまとまっています。
 作者の特長である、明るい筆致と全体ののんびりとしたタッチが、読み味を良くしています。
 ケストナーが言っていたように、児童文学者の大事な要素であるユーモアが作品内で発揮されています。
 また、舞台が佐渡の田舎のせいか、出てくる登場人物がみんなあったかいのも利点でしょう。
 特に、主人公と徐々に心を開いていく女の子との関係性が、好ましく感じられました。

まんぷく寺でまってます (ポプラ物語館)
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ポプラ社
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事故

2016-11-29 15:08:03 | キンドル本
 主人公は、中学受験を目指して塾の夏期講習に通っています。
 毎日、同じ小学校の仲間と昼ご飯を食べてから、一緒に塾へ行っています。
 ある日、仲間と離れて、みんなには秘密にしている趣味の鉄道模型の店へ、一人で行きます。
 店は休みでしたが、鍵がかかっていなかった店頭のジオラマで、列車を走らせることができました。
 鉄道模型好きの主人公にとっては夢のような時間はあっという間にすぎて、塾へ行く時間が来てしまいました。
 帰り際に、ジオラマにあったチアリーダーの人形を、何げなく持ってきてしまいます。
 その帰りに、主人公はエレベーターの故障で中に閉じ込められてしまいました。
 思いがけず一人きりになった主人公は、エレベーターの中で自分を見つめ直します。
 救出された後にとった主人公の行動は?

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事故
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平野 厚

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エーリヒ・ケストナー「賢く、それにもかかわらず、勇敢に」子どもと子どもの本のために所収

2016-11-28 14:09:41 | 参考文献
 第二次世界大戦の敗戦後に、廃墟の中で若い人たちに向けて書かれた文章です。
 その中で、12年もの間、執筆を禁止され、書いた本を焚書までされて、弾圧されたにもかかわらず、外国に亡命しなかった理由を、以下のように述べています。
「作家は、彼の所属する国民が悪い時にどんなに運命に耐えるかを体験することを欲するし、体験しなければなりません。まさにそういう時に外国に行くのは、さし迫った生命の危険があるという場合にだけ、正当とされます。それはそうと、どんな危険をもおかすことは、作家の職業上の義務です。もしそれによって終始目撃者になることができ、他日、文筆でその証言をすることができるすれば。」
 戦時中の日本の児童文学者で、このようなことを胸を張って言える人は一人もいません。
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香山リカ「劣化する日本人」

2016-11-27 18:18:01 | 参考文献
 精神科医の香山が、2014年に話題になった様々な問題や事件は、日本人が劣化していることが原因であると主張している本です。
 「STAP細胞問題」、「音楽界でのゴーストライター問題」、「パソコン遠隔操作事件」、「ヘイトスピーチ問題」、「橋下大阪知事や安倍首相などの政治家の発言問題」、「反知性主義問題」、「製薬会社の臨床研究不正事件」など、旬な問題や事件を、精神医学の観点から論じています。
 それぞれの問題や事件は興味深いのですが、あくまでも個別なミクロな事象であり、「劣化する日本人」というマクロな現象との結びつけが決定的に弱いです。
 マクロな結論を導き出すのなら、具体的なデータの提出が不可欠なのですが、この本で提示されたデータは「大学生の四割が一日の読書時間0」、「テレビの朝の情報番組の他愛ないゲームに毎日三百万人も参加している」のたった二つだけです。
 また、個々の事象に関する情報も、すべてマスコミですでに明らかになっているもののみで、独自の取材や調査は皆無です。
 さらに、精神医学的観点の分析も、先行する論文などの調査はきちんと行われておらず、都合のいい部分だけが引用されています。
 ひどい時には、その引用も孫引きのことすらあります。
 自分の文章の中で引用するならば、原典にあたるのは書き手としての最低限のモラルでしょう。
 香山は、この興味深いテーマを、なんでこんなに荒っぽく書いてしまったのでしょうか。
 そこには、「これらの問題や事件が旬なうちに出版してたくさん売りたい」という編集サイドの意図が明瞭にうかがえます。
 香山自身が「あとがき」で述べているように、「この緊急企画を考え、あわただしい執筆の過程を支えてくださった」のは編集者です。
 おそらく香山は、編集者が用意した素材を使って、精神医学の知見でさばいて見せたのでしょう。
 これは、ワイドショーなどで見かける様々な肩書を持ったコメンテーターが、自分の専門領域外のことまで、その日の話題にもっともらしくコメントしている姿に酷似しています。
 そして、執筆の背景には、商業主義(つまりお金です)や、虚栄心や自尊心の満足と行ったことも絡むでしょう。
 そういう意味では、香山自身も、この本で取り上げられたいろいろな問題や事件に現れた人びとサイドの人間だと言えるかもしれません。

劣化する日本人 (ベスト新書)
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ベストセラーズ
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エーリヒ・ケストナー「アルキメデスの四つの点」子どもと子どもの本のために所収

2016-11-26 10:10:52 | 参考文献
 若い人々に対する短い新年のあいさつとして、ケストナーは以下の四つのアドバイスをおくっています。
 ここでアルキメデスと言っているのは、アルキメデスが「支点さえあれば、世界をその軸から持ち上げることができる」と言ったといわれる故事からきています。
 第一の点。人間はみな自分の良心の声を聞きなさい!
 第二の点。人間はみなお手本をさがしなさい!
 第三の点。人間はみないつも子どものころを思い出しなさい!
 第四の点。人間はみなユーモアを身につけなさい!
 ここでも、ケストナーは子どもたちに絶対の信頼を置いています。
 また、以上の四点は、児童文学を書く上では、特に大切です。

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キッカーズ

2016-11-26 08:48:19 | キンドル本
 主人公たちは、中学校の校庭でゴムボールのミニサッカーをやっていました。
 学校には、サッカー部がないからです。
 しかし、練習をしていた野球部ともめて、学校にサッカーをすることを禁止されてしまいます。
 主人公は、部活ではない自分たちのサッカーチームを結成することにします。
 一年生だけですが、なんとか試合ができるだけの人数が集まりました。
 荒川の河川敷にある区営グラウンドで、自分たちだけで練習を始めます。
 しかし、初めての試合で、小学生のクラブチームに完敗してしまいます。
 それをきっかけに、チームの仲間たちはバラバラになっていきます。
 チーム消滅の危機を迎えた主人公たちの取った行動は?

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キッカーズ
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エーリヒ・ケストナー「始業式のあいさつ」子どもと子どもの本のために所収

2016-11-25 17:18:43 | 参考文献
 学校(おそらく小学校)の始業式のあいさつです。
 ケストナーは、次のようなアドバイスを子どもたちにおくっています。
「皆さんの子どものころを忘れてしまわないようにしなさい!」
「教壇を玉座とも説教壇とも思わないように!」
「あまり勤勉でありすぎるな!」
「頭のわるい人をあざけるな!」
「時には皆さんの教科書を疑いなさい!」
 どのアドバイスも現代でも通用しますが、一番ケストナーらしいのは最初のものでしょう。
 ここで彼は、さらに次のように言っています。
「おとなになっても、あいかわらず子どもであるような人だけが、人間です!」
 いくらなんでもこれは言い過ぎのようですが、「人間」を「児童文学者」に置き換えたらどうでしょう。
「おとなになっても、あいかわらず子どもであるような人だけが、児童文学者です!」
 これなら、私の経験上も正しいと言い切れます。

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エーリヒ・ケストナー「子どもの本について、二、三のこと」子どもと子どもの本のために所収

2016-11-24 14:13:43 | 参考文献
 1966年8月20日に、「エーリヒ・ケストナー学校」の開校式でしたスピーチです。
 ここで、ケストナーは児童文学作家について極めて重要なことを述べています。
 ひとつは、何のために児童文学を書くかについてです。
 これについて、ケストナーは、1928年に彼が初めての子どもの本(「エーミールと探偵たち」です)を書くようになったきっかけを作ったエーディト・ヤーコブソンという女性出版者の言葉を紹介しています。
 「子どもについて書くだけでなく、子どものために書く」
 子どものために児童文学を書くなんて自明のことと思われるかもしれませんが、現実にどれだけの児童文学作家が、真に子どもの立場に立って「子どものために」作品を書いているでしょうか。
 次は、「すぐれた文筆家は、どんな特殊な才能が付け加わったら、すぐれた子どもの本の著者になれるか」という問いです。
 これについて、ケストナーは、1953年にアストリット・リンドグレーン(「長くつ下のピッピ」などの作者)とパメラ・トラヴァース(「風にのってきたメアリーポピンズ」などの作者)と議論して、一つの結論を出しています。
 それは、「自分自身の子どものころと、破壊されていない、破壊されることのない接触を持ち続ける!」能力です。
 この能力に関しては、ケストナーは「わたしが子どもだったころ」という作品で、彼自身の子どものころについての驚異的な記憶力を披露しています。
 「子どものころについての記憶力」を、児童文学作家の必須の資質とすることには、議論があるところだと思いますが、日本でも神沢利子は「いないいないばあや」(その記事を参照してください)などで同様の資質を証明していますし、先年亡くなられた鳥越信先生などは「ケストナーのような子どものころについての鮮明な記憶はないから、作家はあきらめて研究者になった」とおっしゃっていました。

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バードウォッチング

2016-11-24 09:59:33 | キンドル本
 主人公は、母の死から立ち直れないでいます。
 そんな彼を、父親はすごく心配しています。
 ある日、主人公を友だちがバードウォッチングに誘ってくれます。
 主人公も、その子の話を聞いて行く気になります。
 父親は、主人公が母の死後初めて何かをやる気になったことをすごく喜び、双眼鏡や図鑑などバードウォッチングの用品をいろいろと買ってくれます。
 いよいよバードウォッチングの日、二人はいろいろな鳥を見つけます。
 彼らの住んでいる町には、山、野原、川、湖、畑など、豊かな自然が残されているので、野鳥の種類がものすごく多いのです。
 最後に、主人公は死んだトラツグミを見て、母の綺麗だった死に顔を思い出します。
 二人は主人公の家に戻ってきます。
 父親は友だちを大歓迎して、ケーキをたくさん買ってきてくれます。
 バードウォッチングをきっかけに、立ち直る兆しを見せた主人公とその父親を描きます

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バードウォッチング
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池井戸潤「銀翼のイカロス」

2016-11-24 08:49:35 | 参考文献
 最近のテレビドラマとしては驚異的な視聴率をとった、「半沢直樹」シリーズの第四作です。
 日航再建に題材をとって、半沢が対決する相手が、銀行内部だけでなく、大臣の私設タスクチームや大物政治家までグレードアップし、「ああ、これでまたテレビ化されるな」との印象を強くしました。
 特に、ラストで半沢が胸のすくような啖呵をきるシーンは、堺雅人が演じているところが見えるようで、テレビでもきっと大受けすることでしょう。
 三作目まではあまり感じなかったのですが、この第四作はテレビの大ヒット後に書かれたので、作者自身がかなり映像化(端的に言えば、半沢直樹=堺雅人という感じ)を意識しているようです。
 児童文学の世界ではあまりないのですが、映像化がその後のシリーズの書き方に影響を与えることは、メディアミックスが進んだ現代ではよくあることのようです。
 このシリーズは、正義側(つまり主人公側)か悪人側かが非常にはっきりとわかる登場人物の描き方、偶然の多用、ご都合主義の展開、在り得ない設定など、典型的なエンターテインメントの書き方なのですが、作者は読者に受けるツボ(一介の銀行の次長が巨悪を倒す、主人公は理不尽な目に遭いつづけるが最後に逆転する(決め台詞で言えば「やられたらやり返す。倍返しだ」)など)をよく心得ていて、最後で読者に大きな爽快感を与える腕前はさすがなものがあります。
 児童文学でも、このくらい割り切ったエンターテインメントを書けば、まだヒットする余地はあると思います。
 ただ、この作品が書かれたのは、民主党政権が倒れた後なので、露骨な民主党や蓮舫大臣などのパロディは、現在の自民党政権に作者がおもねっているようにも読めてしまいます。
 これが、民主党政権下の時代に書かれたのならば、もっとフェアでしたし、作者の批判精神を評価できたでしょう。

銀翼のイカロス
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ダイヤモンド社
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立花 隆「子殺しで発情する・ハヌマンラングール」サル学の現在所収

2016-11-23 09:48:23 | 参考文献
 インドで神の使いとして大事に扱われているハヌマンラングールというサルは、一夫多妻制の群れを構成しています。
 クーデターなどで群れを乗っ取った新しいオスは、その時群れにいた赤ん坊猿を皆殺しにするそうです。
 目的は、赤ん坊がいなくなると、メスが発情して交尾ができるからです。
 クーデター時に妊娠していてその後に生まれた赤ん坊猿は殺されないので、自分の血を伝えるためではなくたんなる性的衝動が理由のようです(他の種類のサルでは、その後に生まれる赤ん坊猿も殺されるので、種類によって異なるそうです)。
 このような子殺しは、サルの間では一般的に行われているようなので、生殖と性行為が分離されていないのが理由のようです。
 その点、人間は生殖と性行為が分離されているのでそのようなことが起こらないように思えますが、最近の男親(時には女親も)による虐待行為の多さを見ると、先祖がえりしてしまっているのかもしれません。 この場合、義理の子どもだけでなく実子に対する虐待も多いので、自分の血を伝えるためではないでしょう。

サル学の現在 (上) (文春文庫)
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文藝春秋
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沢木耕太郎「キャパの十字架」文芸春秋2013年1月号所収

2016-11-23 08:26:45 | 参考文献
 沢木自身も出演したNHKのドキュメンタリー番組の原作です。
 ドキュメンタリー番組の出来にはあまり感心しなかったので、原作はもっときちんとしているかと思って読みましたが、ここで明らかにされた事実はテレビ番組とほとんど変わらす、その意味では期待はずれでした。
 おそらく世界で一番有名な戦場カメラマンと思われるロバート・キャパが、スペイン内戦で撮影した有名な「崩れ落ちる兵士」の謎を追跡していく作品です。
 沢木自身がキャパに関する本を翻訳するほど、キャパには関心も造詣も深く、先行研究もよく調べてあって内容的には興味深いものでした。
 結論から言うと、この写真を撮ったのはキャパではなく、彼の恋人だったゲルダ・タローだったのではないかというのが、沢木の推定した結論でした。
 そのこと自体はすでに噂されていたことだったようなのですが、沢木は現地に何回も足を運び綿密に推理を組み立てていきます。
 その推論の過程はマニアックで、児童文学研究者(特に宮沢賢治研究者)にも通ずるものがあって面白かったです。
 しかし、問題は取材の方法にありました。
 沢木のアプローチの仕方が、あまりにも権威的すぎて好感が持てなかったのです。
 高価な資料もポンと買い(しかもアマゾンで)、予備調査も人にやらせ、世界各地に思いつくまま簡単に出かけていきます。
 NHKや文芸春秋という強力なバックを持ち、沢木自身もすでに有名なために、いろいろなコネクションを持っているので、取材が楽すぎるのです。
 かつての無名時代の沢木ならば、コネも金もないために取材に様々な困難が伴っていました。
 しかし、その困難を知恵と体力で克服して真相に迫り、読者もそんな沢木をつい応援してしまうところに、彼のノンフィクションの魅力があったのです。
 それが、今はすべてお膳立てされた上で、「沢木耕太郎」ブランドのノンフィクションができあがっています。
 ある意味、すでに「富と名声」を得てしまった者の「無残」を感じさせられます。
 これは別の記事でも書きましたが、最近の椎名誠にも同様の印象を持っています。
 沢木は、このノンフィクションの最後の方に、太平洋戦争後のキャパ(まだ31歳でした)は「余生」をおくっていたと書いていますが、それと同じ言葉を沢木に返したい気がします。
 いや、キャパはそんな「余生」に飽き足らず、インドシナ戦争に赴き地雷を踏んで40歳で死ぬのですから、沢木よりはるかに短い「余生」だったと言えます。
 このノンフィクションの最初のページには、おそらく編集者がつけたと思われる「世界が震撼するスクープ」、「渾身のノンフィクション」といった惹句が踊っています。
 昔の沢木だったら、こんな恥ずかしい「お飾り」は絶対に許さなかったでしょう。

キャパの十字架
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文藝春秋

 
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高峰秀子「わたしの渡世日記」

2016-11-22 08:09:05 | 参考文献
 1975年に週刊朝日に連載された、日本映画史上最大の女優の自筆による半生記です。
 5歳だった1929年に、ひょんなことから「母」という映画のオーディションに参加して抜擢されて以来、天才子役、アイドル少女、清純派の娘役、そしてどんな役でもこなす名女優と、1979年に引退するまで、ちょうど五十年にわたって大活躍しました。
 彼女は、映画でデビューして、映画で引退し、舞台やテレビの仕事はほとんどしなかった、真の映画スターです。
 文章や構成はあまりうまくないのですが、驚異的な記憶力で、彼女の家族関係や当時の風俗だけでなく、往年の大スターや映画関係者、それに彼女のファンだった有名人たちが、実名で鮮明に描かれていて興味深い内容です。
 彼女は子役時代から大人気で、何本もの掛け持ちで映画出演していたために、小学校さえ満足に通えませんでした。
 しかし、七歳の時に出演した舞台で三時間もの大作の脚本を丸暗記してしまい、主役の大人たちのプロンプターをしたというほどの抜群の記憶力の持ち主なので、四十年以上前のことでもまるで昨日のことのように再現されています。
 この資質は、優れた児童文学作家(例えば、エーリヒ・ケストナーや神沢利子など)と共通する才能で、この自伝の子役時代も一種の児童文学として味わうことができました。
 児童文学といえば、彼女の代表作の一つに、「二十四の瞳」の先生役があります。
 壺井栄の原作は読んだことがなくても、彼女が主演した映画は見たという人も多いでしょう。
 物語の受容という点では、早くからメディアミックスは進んでいましたが、当時は文学から映画という順です。
 今では、最初にキャラクターの企画があって、そこからゲーム、トレーディングカード、おもちゃ、お菓子、アニメ、マンガ、宣伝、SNSなどのいろいろな種類のメディアへの展開があって、文学という形態はその一部にすぎないことが多いです。
 ただし、文字情報の製作コストは低いので、世の中に言葉がなくならない限り、文学が完全に姿を消すことはないでしょう。

わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)
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新潮社
 
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