現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

サチコ

2016-12-30 10:37:45 | キンドル本
 ある日、主人公の少年にメールが送られてきます。
 送り手のハンドルネームはサチコです。
 学校で落ちこぼれて悩んでいた主人公は、同じような境遇のサチコに慰められます。
 主人公は、サチコとのメールのやり取りを繰り返します。
 そのうちに、主人公は立ち直るきっかけをつかみます。
 ところが、ある日突然、サチコからのメッセージが来なくなりました。
 主人公は、なんとかサチコと連絡を取ろうとします。
 そんな彼に、意外な情報が寄せられます。
 サチコの正体は?

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サチコ
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中島敦「山月記」

2016-12-29 17:37:09 | 参考文献
 中国の故事をもとに書かれた作者の代表作です。
 詩人になることも、役人になることも、中途半端に終わってしまった主人公が、思い詰めたあまりに虎に変身してしまい、しだいにわずかに残っていた人間性を失っていきます。
 虎への変身潭に、芸術と生活の両立の苦悩(これは中島自身の悩みだったのでしょう)を加味したことで、時代を越えた普遍的な作品になっています。
 さらに、自尊心が肥大することの恐ろしさ、才能がないことを自覚することの恐怖、立身出世への欲望(今の若い人たちには少ないかもしれませんが)、芸術至上主義、成功のためには才能よりも努力が重要(努力を続けることもひとつの才能ですが)、仲間への妬みなど、この短い作品から読者の関心に応じて様々なのことを読み取ることができます。
 私に限らず、多くの人たちが、特に若いときには、この主人公のような気持ちになったことがあるでしょう。
 直木賞を取った浅井リョウの「何者」(その記事を参照してください)も、就活という極めて今日的な状況の中で、この作品の主人公と同じように「自分が何者でもないことを自覚させられる」話です。
 前述したように、この作品は中国の故事を下敷きにしていますが、児童文学の世界でも、民話(松谷みよ子の「龍の子太郎」(その記事を参照してください)など)や神話(トールキンの「指輪物語」など)に題材をとった作品がたくさんあります。
 こういった作品では、いかに現代的なかつ普遍的な思想(例えば「龍の子太郎」の場合は民主主義、「指輪物語」の場合は最終兵器(核兵器)の廃絶)をそれに加味するかが、作者の腕の見せ所です。

李陵・山月記 (新潮文庫)
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新潮社
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交渉王、芳樹

2016-12-29 12:31:17 | キンドル本
 主人公の少年は、他の子と交渉することが得意です。
 運動会や遠足では、わらしべ長者のように、友だちとの交渉をこまめに繰り返して、最終的にはたくさんのお菓子をゲットしています。
 クラスではやっているトレーディング・カードも、巧みな交渉でお金をあまり使わずにたくさん増やしました。
 しかし、そのために、思わぬ結果に?

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交渉王、芳樹
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ウルズラ・ヴェルフェル「灰色の畑と緑の畑」

2016-12-29 11:43:56 | 作品論
 この作品は、1970年に西ドイツで出版され、日本語には1974年に翻訳され、発表当時大きな論争を巻き起こしました。
 この作品には、世界中でいろいろな困難に直面している子どもたちが描かれています。
 読んでいて楽しい物語ではありませんし、作品の中で問題も解決されていません。
 この作品は、読者自身にこれらの問題の解決に対して行動を促すものなのです。
 まえがきを以下に引用します。
「ここに書かれているのはほんとうの話である、だからあまり愉快ではない。これらの話は人問がいっしょに生きることのむずかしさについて語っている。南アメリ力のフワニータ、アフリカのシンタエフ、ドイツのマニ、コリナ、カルステンなど、多くの国の子どもたちがそのむずかしさを体験することになる。
 ほんとうの話はめでたく終わるとは限らない。そういう話は人に多くの問いをかける。答えはめいめいが自分で出さなくてはならない。
 これらの話が示している世界は、必ずしもよいとはいえないが、しかし変えることができる。」
 この作品は、別の記事で紹介した「児童文学の魅力 いま読む100冊 海外編」にも選ばれています。
 おそらくこの本を読めば、今の日本で出版されている多くの児童書が、いかに商業主義に毒されているかが実感できると思います。
 また、ここで書かれていることは、海外のことで日本とは無縁であるとはけっして言えません。
 現代の日本こそ、このような本を必要としているのです。

灰色の畑と緑の畑 (岩波少年文庫 (565))
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岩波書店
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玄侑宗久「あなたの影をひきずりながら」光の山所収

2016-12-28 08:35:25 | 参考文献
 森進一の「港町ブルース」にのせて、東日本大震災と福島第一原発事故によって取り残されてしまった人々が断片的に描かれています。
 2013年に出版された、この未曽有の天災と人災に真っ向から取り組んだ連作短編集の冒頭の作品です。
 まだ日本人の共通の記憶(メモリー)として刻まれているこの災害に対しては、これからも繰り返し語り継いでいかなければならないでしょう。
 児童文学の世界でも、ようやくこの事件について語る作品が出ています。


光の山
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エーリヒ・ケストナー「小さな年代記」子どもと子どもの本のために所収

2016-12-27 17:08:11 | 参考文献
 1948年秋に出た、ケストナーが第二次大戦後に初めて(たぶん)出した本「日々の小間物」(1945年10月18日に第一号が出た「新新聞」、1946年1月1日に第一冊が出た児童雑誌「ペンギン」、キャバレー「見世物小屋」(歌や軽演劇を出し物にしていたと思われます)に、ケストナーが寄稿した多数のシャンソン、風刺的な歌、批評、攻撃、メルヒェン、情景、日記メモ、リート、評論、論説、答弁、アンケートなどから抜粋した詩文集)の序文の代わりに載せられた1945年5月のドイツ敗戦をはさんで3月から10月までの毎月の簡単な覚書です。
 ケストナーは、1933年から1945年の12年間、ナチスによって執筆を禁止されていました。
 彼の児童文学の代表作のすべては、1928年に書き始められてから執筆禁止までのわずか5年間の間に発表されました。
 ケストナーが執筆禁止の12年間にどう変容して、なぜ再び児童文学の傑作を書けなくなったのかについては、きちんと調べて考えをまとめてみたいと思っています。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
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岩波書店
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黒川博行「落英」

2016-12-27 11:26:26 | 参考文献
 薬物対策課の刑事のコンビが、シャブ(覚せい剤)取り引きの捜査中に思いがけない発見をしたために、悪徳警官へ転落していく様子を描いています。
 黒川の警察物は、普通の警官が出てくるものと悪徳警官が出てくるものの二通りがありますが、この作品では普通の警官が偶然をきっかけに悪徳警官に変わっていく様子が描かれていて興味深かったです。
 児童文学でも、不良少年少女が描かれることはありますが、どちらかというと彼らを正当化する(例えば、親のせい、教師のせい、社会のせいなど)作品の方が多かったと思います。
 普通の子どもたちが、何らかの理由で転落していく様子をリアルに描いた作品は、ほとんど皆無でしょう。
 現代のように、いろいろなトラップ(援助交際、JK風俗、危険ドラッグ、覚せい剤など)がある中で、それらの危険性を知らしめる作品があってもいいと思いますが、今の児童書の出版状況では本にするのは難しいかもしれません。

落英
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幻冬舎
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キャンプなんかに行きたくない!

2016-12-26 08:58:10 | キンドル本
 主人公の少年は、スポーツやキャンプなどのアウトドアの活動が苦手で、読書やパソコンなどのインドアでやることが大好きです。
 でも、主人公の母親は、男の子なんだからもっと活動的にならなきゃと、しきりにアウトドアのことをやらせようとしています。
 そして、無理やり夏休みのキャンプに参加させられます。
 主人公はいやいやながら参加することになりました。
 虫が嫌いでアウトドアが苦手の主人公にとっては、キャンプではいろいろとつらいことが起こります。
 でも、意外な発見もありました。
 最後に、主人公がキャンプで思ったことは?

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児童文学で一冊の本になる作品の長さ

2016-12-25 10:38:33 | 考察
 児童文学の作品の長さは、中学生向けやヤングアダルトの場合は一般文学とあまり変わりませんが、小学生向けの場合はかなり短くなります。
 この傾向は、子どもたちの読解力が低下するにつれて顕著になっています。
 現在では、一冊の本になる作品の長さは、高学年(小学校五、六年生)では四百字詰め原稿用紙で百枚程度からで、一般文学なら中編ぐらいの分量です。
 中学年(小学校三、四年生)ではそれが五十枚程度からになり、低学年(小学校一、二年)では三十枚程度からと、もはや一般文学ならば短編の領域です。
 その分、文字や挿絵が大きくなり、挿絵の枚数も増えるのが一般的です。
 こうして、だんだん絵物語や絵本の領域に近づいていきます。
 余談ですが、それにつれて印税の配分も変わってきます。
 一般文学の場合の印税は普通10パーセントですが、挿絵がつく児童文学(例えば高学年向け)の場合は8対2で絵描きさんと印税を分け合うことになります。
 そして、低学年向けで挿絵の割合が多くなるにつれて、印税の比率は、7対3、6対4、5対5とどんどん絵描きさんの取り分が増えていきます。
 出版社によっては、印税を合計10パーセントを出さなくて、4対4などに削られてしまう場合もあるようです。
 児童文学の作品の中には、ハリーポッター・シリーズのような例外もあって、そういう場合は大長編などと銘打たれることが多いです。
 また、最近は減りましたが、短編集、あるいは連作短編集として、いくつかの短編を組み合わせて一冊の本として出版される場合もあります。


昔、そこに森があった (復刻版理論社の大長編シリーズ)
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理論社
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深夜の電話

2016-12-25 10:00:25 | キンドル本
 主人公の男の子の家に、深夜に突然電話がかかってきます。
 どうやら、おとうさんんが、泥酔してころんでけがをしたようです。
 おかあさんが、車で病院へ迎えに行きました。
 実は、おとうさんは会社をリストラされてしまっていたのです。
 そのうさばらしに深酒をしたのでした。
 その後、転職することを決めたおとうさんは、ようやくさばさばしたようです。
 おとうさんは、次の仕事が決まるまで、主人公が入っている少年野球チームの手伝いをします。
 そんなおとうさんに、主人公は?

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深夜の電話
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平野 厚



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児童文学における文学性について

2016-12-25 09:46:50 | 考察
 現代の児童文学を考える上で重要な点のひとつに、「読者は誰なのか?」という問題があります。
 特に、現代では小学校高学年の男の子の読者は、かなり少数になっています。
 彼らは、携帯ゲームやトレーディングカードで物語消費の欲求を満たしているので、よほど面白い本でないと読みません。
 それもエンターテインメント系の本に限られているので、普通の男の子を主人公にした文学的な(小説的と言ってもいいかもしれません)作品は、1990年代の初めごろまでならば本になりましたが、今は無理でしょう。
 あきらかに、読書に対して子どもたちが求めている物が、1990年代なかばぐらい(私がいわゆる狭義の「現代児童文学」が終焉したと考えている時期)に大きく変化して、本には文学性ではなく娯楽性のみを求めるようになっているのです。
 これが、女性の場合だと、児童文学の読者は子どもから大人、さらには高齢者まで広範にわたっていますので、文学的な作品も受け入れられる余地は今でもあると思われます。

文学・文化研究の新展開―「間テクスト性」
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研究社
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少女小説の未来

2016-12-24 10:12:39 | 考察
 繰り返し述べてきたように、現在の児童文学の読者は女の子だけでなくより広範な年代の女性です。
 幼いころに少女小説に親しみ、そのまま児童文学を読み続けている女性たちもたくさんいます。
 また、少女小説から一般書(特に女性小説)に移行する女性たち(これが以前は一般的でした)も依然としてたくさんいることでしょう。
 こうして、文学の担い手(読者ばかりでなく書き手や編集者も)は、しだいに女性へ移っています。
 これは、紫式部の時代以来の伝統へのカムバックなのかもしれません。
 現在でも、女性と比較すると、経済的な理由で作家をあきらめている人は、男性の方が圧倒的に多いでしょう。
 一方、現在では、児童文学の男の子の読者はごく少数で、その結果成長しても男性は児童文学だけでなく一般文学もあまり読みません。
 唯一の例外はライトノベルで、これらの読者の中心は若い男性ですし、彼らは将来的なSFやミステリなどの一般文学の潜在的な読者でしょう。
 しかし、もともと男の子たちの物語消費欲求は、ゲームやマンガやアニメやカードなどで満たされていて、成長してからは、大半はパチンコ、競馬、競輪などのギャンブルへ移行していました。
 それが、オンラインゲームや携帯ゲームなどの登場とともに、ギャンブルなしで、ゲームやアニメの世界に留まる男性も多くなってきています。
 そのため、成人しても一般文学の読者にならない男性は増えています。
 私は、三十年以上、いろいろなボードゲームの例会に参加していますが、その参加者は圧倒的に男性が多いです(最近は女性のゲーマーも増加していますが、依然として少数です)。
 こうして、文学の世界では、書き手も読み手も女性が中心になっています。
 しかし、それも将来的には先細るでしょう。
 一番大きな理由は、スマホの登場です。
 現在でも、若い世代を中心に、スマホをさわっている(見ているだけではなくインタラクティブなところがポイントです)時間がどんどん増加しています。
 かつては電車の中でマンガ雑誌や本(特に文庫本)を読んでいる人たちがたくさんいましたが、今はほとんど見かけません(いたとしても、たいていは高齢者です)。
 今では、ほとんどの人たちが車内でスマホをさわっています。
 こうして、紙の本のマーケットは、マンガも含めてどんどん小さくなっています。
 そして、この波は小学生(特に女子の普及率が高い)にまで押し寄せています。
 すでに、高学年の女子向けの少女小説は売れなくなっていて、出版社の主なターゲットは中学年以下へ移っています。
 でも、その年代にスマホ(あるいはウェアラブルコンピュータ)が普及して、少女小説を読まなくなるのも時間の問題でしょう。
 こうした時、児童書でも「電子書籍の読み放題」サービスなどを展開して(マンガの世界ではすでにサポートしています)、読者をつなぎ留めないと、少女小説は少女マンガや少女アニメの原作になる以外は消滅するかもしれません。
 そして、彼らが大人になった時は、一般文学(特に女性小説)も衰退してしまうでしょう。

 


コバルト文庫で辿る少女小説変遷史
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彩流社




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後藤竜二「九月の口伝」

2016-12-24 08:58:04 | 作品論
 「口伝」とは、広辞苑によると字義通りに「口頭で伝えること」とありますが、「奥義などの秘密を口伝え教え授けること」という意味もあります。
 この物語は、後藤の父が毎年りんごの季節(北海道では九月のようです)に「口頭で伝えていたこと」という形式をとっていますが、実は後藤自身が読者に対して「奥義のように重要なことを伝え教え授けようとした」作品のように思えます。
 「九月」とは一九四五年九月のことで、一九四三年生まれの後藤は作中の耕二と同じ二歳でした。
「りんごの季節になると、父はきまって ぼくらにおなじ話を語り、聞かせた」
 物語が始まる前にこのような前振りをすることにより、作中の父と語り手である後藤自身との二重の視点を設定して、単なる体験でなくもっと広範な歴史的な事実も含めて作品化をしています。
 また、語り手も、父から話を聞いた少年時代(一九五〇年代)の後藤と、実際に作品を書いた一九九一年の後藤とが併存していて、「祖父や父から受け継いだもの(農民としての生活者の歴史)」と「戦中戦後の史実を語り伝えていく」という二つの側面を担っています。
 それほど長くない作品ですが、「戦争体験」、「敗戦によりもたらされた「民主主義」の薄っぺらさ」、「アメリカ人捕虜との貧しい農民同士の共感」、「中国人、朝鮮人の強制連行」など多くの問題が盛り込まれています。
 実際にこのようなことが、敗戦後の一か月間にすべて起きたとは思えませんが、後藤の筆は未消化な感じを与えずにうまくまとめています。
 ただ、一九九一年という出版時期の問題もあるのでしょうが、最後に登場する中国人、朝鮮人たちが美化されすぎている印象はあります。
 しかし、この本が出版されてから四半世紀以上がたち、現在の中国、韓国、北朝鮮との良好とはいえない関係を考えると、この本が伝えたかった戦後の思いは、さらに重要性が増しているといえます。

九月の口伝 (シリーズ 平和の風)
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汐文社
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エーリヒ・ケストナー「笑いについての考察」子どもと子どもの本のために所収

2016-12-21 17:28:00 | 参考文献
 ケストナーは、笑いについていろいろな角度から考察しようとしています。
 小見出しを紹介すると、以下の通りです。
「バスター・キートンとチャップリンとニノチカ」
「アリストテレスと笑う動物」
「人間はどんなに、何を笑うか」
「美学入門」
「単眼の文学と盲目の批判」
「長調と短調の陽気な笑い」
 そして、文学(特にドイツ文学、さらにはドイツという国自体)にいかに笑いが不足しているかと、その危険性を嘆いています。
 他の記事に書いたように、ケストナーはユーモアが児童文学に必須だと考えています。
 また、別の記事に書きましたが、ケストナーの作品自身もユーモアに欠けていて(はっきり言えば教訓臭い)、それをトリヤーの挿絵がかなりカバーしています。
 このように、文学に笑いを取り入れることは、ケストナーにとっては深刻なことだったのです。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
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岩波書店
 
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児童文学と学校生活

2016-12-21 09:57:07 | 考察
 現在の学校生活(児童文学の舞台となるのは、主に小学校)は、私の子どもたちが通っていたころ(もう十年以上前になりますが)とは、すっかり様変わりしているようです。
 子どもたちの風俗の変化が非常に早くなっていて、普段そうした姿を見る機会のない外部の人間には、その実態を描くことは難しくなっています。
 インターネット、スマホ(小学校高学年(特に女子)の普及率は非常に高くなっています)、携帯ゲーム機(特に男子)などの学校生活への影響は、たとえ持ち込みが禁止されたとしても大きいでしょう。
 私が児童文学を書きだした二十代の時は、自分の子どものころの体験(やはり十年以上も前のことでしたが)をもとにして学校生活を描いても、それほど違和感はなかったと思います(読者の子どもたちが実際にどう思っていたか分かりませんが)。
 しかし、現在の子どもたちの学校生活を、若い児童文学作家(他の記事にも書きましたが、経済的な理由で現在ではほとんどいません)でも、過去の体験をもとに書くのは困難なのではないでしょうか。
 その点、学校の先生は、日常的に学校で子どもたちと接しているので、学校生活を舞台にした作品を描くには有利でしょう。
 しかし、かつては皿海達哉や岡田淳のような優れた教師の作家がたくさんいましたが、いまは激減しています。
 おそらく、現在の学校(特に小学校)では、昔とは比べ物にならないほど学級運営が難しく、担任になったら多忙で消耗していて、児童文学作品を書くどころではないのかもしれません。
 また、学校を舞台にしたリアリズムの児童文学作品は、支援学級など描いた作品を除いては、現在は需要が少なく(本が売れない)ので出版されにくいのかもしれません。



飛ぶ教室 (岩波少年文庫)
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岩波書店
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