現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

マダガスカル2

2020-03-30 09:26:59 | テレビドラマ
 2008年に公開された人気アニメシリーズの第二作です(第一作についてはその記事を参照してください)。
 前作でマダガスカル島に流れ着いた四人組(シマウマ、ライオン、カバ、キリン)は、大昔に不時着していたオンボロ飛行機でニューヨークへ帰ろうとしますが、当然失敗して、運良く生まれ故郷(あるいは先祖の生まれ故郷)のアフリカの自然保護地区にたどり着きます。
 今回は、ライオンを中心にして、ニューヨーカーである四人組が、故郷の自然や群れにどう順応するかが描かれているのですが、今回もおなじみのドタバタ・コメディを、ノリノリの音楽とダンスに乗せて展開します。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運び屋

2020-03-29 14:48:10 | 映画

 

 

 2018年公開のアメリカ映画です。
 90歳の伝説の麻薬の運び屋をモデルにして、クリント・イースウッドが主演(この時88歳)と監督をしました。
 家族を顧みないで、仕事(園芸)と友達付き合い(朝鮮戦争の帰還兵の仲間に、運び屋で稼いだ金でいい格好をしていますが、前からそうだったのでしょう)ばかりをしていた主人公が、ひょんなことから麻薬の運び屋になります。
 安全運転と、あまりに年を取っているために誰にも疑われないことで、組織内のNo.1の運び屋になります。
 主人公の高齢者らしいマイペースぶりと、一方で年齢を感じさせない破天荒ぶり(女性関係など)は面白いのですが、改心して、孫の学資を出してやったり(これも組織から得た莫大な報酬からです)、最後に妻を看取ったりしたあたりから、陳腐化しました。
 長年主人公に振り回されていて十二年以上も口をきいていなかった娘があっさり最後に彼を受け入れたり、彼を捕まえようとしている麻薬捜査官に「家族が一番大事だ」と説教するシーンなどは、興ざめさせられてしまいました。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラストゲーム

2020-03-28 09:00:20 | 作品
 最後のバッターが打った小フライが、内野にフラフラと力なく落ちてきた。ボールはセカンドの章吾のグラブにしっかりとおさまった。
「やったーっ!」
 歓声を上げながら、みんながホームベースへかけよっていく。裕次も、遅れないようにライトからけんめいに走っていった。
 5対4。一点差で、ぎりぎり逃げ切った。これで準決勝進出だ。
 両チームがホームをはさんで整列した。
「ゲーム。5対4でヤングリーブスの勝ち」
 審判が、裕次たちのヤングリーブスの勝利を宣言した。
「ありがとうございました」
 裕次たちは、相手チームに元気よくあいさつをした。
「うわーっ!」
 相手チームの監督にあいさつにいくキャプテンの将太たちを残して、みんなは歓声を上げながらで味方のベンチに戻っていった。
「よくやったぞ」
 いつもは怒鳴ってばかりの監督も、今日は満足そうにうなずいている。
「整列!」
 ようやく戻ってきた将太が、みんなを観客席に向かって並ばせた。
「ありがとうございました!」
 帽子を脱いで、いっせいに頭を下げた。
ベンチ裏に陣取った応援の人たちから、いっせいに大きな拍手が起こった。大接戦の末の勝利に、応援の人たちの方も大騒ぎだ。
「浩介、ナイス、ピッチング!」
「竜平、いいぞーっ!」
 興奮して口々に叫んでいる。
 無理もない。たとえ16チームしか参加していない小さな大会だとしても、ベスト4進出なんて今年のチーム結成以来の快挙だった。いつもは、一回戦か、二回戦で負けてばかりなのだ。接戦ばかりとはいえ、今日は二試合続けての勝利だった。裕次も、みんなとベンチ前に整列しながら、誇らしい気持ちがわいてきていた。

 試合後のミーティングが終わったメンバーは、ようやく遅い昼食にありつけた。裕次はチームメイトとならんで土手の斜面に腰をおろして、コンビニのおにぎりをほおばっていた。
 ヤングリーブスでは、お弁当はおにぎりだけときまっている。おかずやおかしのたぐいは、チームでみんなの分を用意するときを除いては禁止されていた。
それは、子どもたちの間で、お弁当に差がつかないようにとの監督の配慮からだった。もちろん、お弁当を用意するおかあさんたちの負担を、軽くしようという考えもあっただろう。
それでも、実際には、子どもたちには差が生じてしまっていた。お弁当は手作りのおにぎりがほとんどだったが、中にはいつもコンビニのおにぎりを持ってくる子たちもいるのだ。
裕次もそんな一人だった。いつもチームの集合の前にコンビニによって、その日の昼食を自分で用意していた。 
 目の前の河川敷のグランドでは、準々決勝の残り二試合が行われている。少し風が冷たいけれど、河原は広々していて気持ちがよかった。
「ちぇっ、次は、どうせあっちはキャロルが上がってくるんだろ」
「三決(三位決定戦)はあるのか?」
「いや、ないみたいだよ」
「じゃあ、来週はお昼で終わりだな」
 大会のプログラムを見ながら、ほかのメンバーたちが話している。どうやら、来週の準決勝の相手は、この大会の主催者のキャロルというチームになりそうだ。今年も県大会で優勝し、全国大会にも出場している強豪だった。
「うわー」
 すぐそばで歓声があがった。
 裕次が顔を上げると、土手の上では、先にお昼を食べ終えていた五年生たちがふざけあっている。突き飛ばしっこをしたり、ダンボールのそりで草の斜面を滑り降りたりしていた。
 彼らが退屈しているのも無理はなかった。今日も十人いる六年生全員が来ていたので、まったく出番がなかったからだ。
 裕次たちヤングリーブスでは、試合には六年生たちを優先して出している。
どうしても負けられない試合には、上手な五年生を先発で使うこともあった。そんなときでも、代打や守備の交替などで、六年生全員が必ず試合に出られるように、監督はいつも気を配っていた。
 特に、このキャロル杯は、六年生にとって最後の大会だった。だから、五年生たちにはまったくといっていいほど出番がなかったのだ。
 実は、この監督の年功序列のやり方の恩恵を一番受けていたのは、裕次だった。打順が八番でポジションはライト、俗にライパチといわれる九番目のレギュラーだった。
 裕次は、五年生以下で組んでいるBチームのスコアラー(試合の記録をつける係)もやっている。それで、よくわかるのだけれど、五年生の中に4、5人、さらに四年生の中にさえ、自分よりうまい選手がいた。もしも完全な実力主義でAチームを組んでいたら、代打や守備要員としてさえ出場できなかったかもしれない。

「裕次と正人、来週はいよいよ監督だぞ。ほんとに良かったな。今日で終わりだったら、おまえたちまでまわらないところだった」
 うしろから、監督が声をかけてきた。試合や練習中はどなってばかりのこわい監督だけれど、こんな時はけっこうやさしい。
 ヤングリーブスでは、町の秋季大会が終わると、六年生が交替で試合の監督をやることになっている。打順や守備のポジションを好きなように決められ、試合中はサインも出せた。自分の打順を四番にしたり、ピッチャーなどのやってみたかったポジションができたりするので、みんな楽しみにしている。ちなみにさっきの試合の監督の亮輔も、自分の打順をいつもの九番ではなく、たくさん打席のまわる一番バッターにしていた。
「どうせ、裕次までで、俺までまわってこないすよ。準決はキャロルすよ。三決もないから、それで、一巻の終わりすよ」
 六年でただ一人の補欠の正人は、いつものようにおどけた口調でいった。正人は自分だけが補欠なのもぜんぜん苦にならないようで、いつもマイペースでチームのムードメーカーになっていた。
「そんな弱気でどうするんだ」
 監督はそういって、正人の頭を軽くこづいたけれど、目はわらっていた。おそらく監督も、キャロルには勝てるとは思っていないのだろう。もしかすると、「正人監督」のために、すでにどこかのチームと練習試合を組んであるのかもしれない。

 裕次は早めにおにぎりを食べ終えると、ひとりで隣のグラウンドへ向かった。そこでは、キャロルが準々決勝を戦っている。
 さすがに主催チームらしく、たくさんの人たちが応援に来ていた。
(祝 全国大会出場 キャロル)
 応援席の前にはられた横断幕が誇らしげだ。
 裕次は応援席のうしろを通って、バックネット裏に腰をおろした。ここからだと、ピッチャーの球筋が良く見えるからだ。
 もう十一月もなかばすぎなので、三時近くともなるとすっかり日が傾いている。空気がひんやりして、ウィンドブレーカーをはおっていても、まだ寒いくらいだった。
 裕次はいつものようにスコアブックをつけながら、試合を見ていった。たんにスコアをつけるだけでなく、ピッチャーの球速やコントロール、キャッッチャーの肩、守備の弱点、ファールの飛んだ方向など、気づいたことをどんどん余白に書き込んでいく。
 今までは、監督と一緒に、次の対戦相手を偵察していた。スコアブックのつけかたや、どんな点に注意するかを、教えてくれたのも監督だった。
 でも、この大会では勝ち負けにこだわっていないせいか、監督は偵察にはやってこなかった。いや、監督の関心は、すでに五年生たちのBチームに移っているのかもしれない。Bチームは先月の郡の新人戦で優勝して、来年の活躍がおおいに期待されていた。
 試合は、予想どおりに、キャロルが一方的にリードしていた。三回を終わって8対0。もうすぐコールド勝ちだ。
 キャロルのピッチャーは、中学生かと思えるほどの長身だった。それをいかして、球威充分の速球を投げ込んでくる。相手チームが高目のボール球に手を出していることもあって、面白いように三振を取っていた。
(高目は絶対に捨てること!)
 裕次はスコアブックに書き込むと、忘れないように丸で囲んだ。
 相手チームの選手が、苦しまぎれに三塁前にセーフティバントをした。キャロルの三塁手が、すばやく前にダッシュしてくる。ボールをすくいあげると、軽快なランニングスロー。
「アウト!」
 一塁の審判が叫んだ。楽々と、ランナーに間に合った。守備も良くきたえられているようだ。
「ツーアウトよお」
 三塁手が、右手の親指と小指を立てて、野手のみんなに合図を送っている。どうやら、この選手がキャプテンのようだ。
「おーっ、ツーアウト、ツーアウト」
 他の選手たちも、声をかけあっている。
 全国大会に出場するだけあって、キャロルは猛練習で有名だった。裕次が通っている塾の送迎バスは、彼らが練習場所にしている小学校の横を通っている。そんな時、往きはもちろん、時には八時をとっくにすぎた帰りにも、まだ練習をしていることがあった。

「裕ちゃん、いよいよだね」
 スコアブックから顔をあげると、声をかけてきたのは五年生の明だった。めがねをかけた小柄な子で、運動能力の高いメンバーがそろっている五年生以下のBチームでは補欠だった。
 でも、野球を良く知っているので、裕次のあとがまとしてスコアラーに抜擢されている。
「監督をやるなんて、わくわくしない?」
「うーん。でも、相手がキャロルじゃなあ」
「なーんだ、ずいぶん弱気だなあ。いつも言ってることと、ぜんぜん違うじゃない」
 明が少しがっかりしたように言った。
 ヤングリーブスでは、「みんなが出られるように」とか、「へたでもまじめにがんばっている子を使う(裕次のことだ!)」とかが、勝負よりも優先されている。そのために、勝てる試合を失ったことさえあった。
「俺が監督だったら、もっと勝てるんだけどなあ」
って、裕次は明だけには話していた。
「集合!」
 両チームの選手たちが、ホームベースに集まっていく。四番バッターがランニングホームランを放って、とうとうキャロルのコールド勝ちが決まったのだ。
 裕次たちは立ち上がると、ポンポンとおしりについた土をはたきおとした。
(弱気だなあ)
 明のことばが、頭の中によみがえってくる。
たしかに、みんなの弱気なムードに影響されて、いつのまにか自分も
(キャロルには勝てっこないんだ)
と、思い始めていたのかもしれない。
(でも、うちのチームがキャロルに勝てる可能性は、本当にあるのだろうか?) 

「パンフレットを、忘れずに持って帰れよ」
 塾の先生が、さっき配ったピンクのパンフレットを、ヒラヒラさせている。裕次は、送迎バスにむかいながら、もう一度それを開いてみた。
 中には、「私立中学は公立よりもこんなに勉強している」、「東大合格ランキングの上位は、中高一貫教育の私立高校ばかりだ」、「中高一貫教育は、受験勉強ばかりでなく個性重視だ」といった、裕次のおかあさんが読んだら、泣いて喜ぶような受験情報が満載だ。塾でもらうこうしたパンフレットや父母会などでもらった資料を、おかあさんはいつも大事にファイルしていた。
 中学受験で有名なこの塾に、裕次は四年生の時からはいっている。おかあさんが、裕次にも私立中学受験をさせたがっていたからだ。
でも、五年まではまだよかった。週に二回だけ、塾に行けばすんだのだ。それに、塾の授業も学校よりは面白かった。
もともと裕次は、勉強が嫌いなわけではない。成績も、つねに塾でもトップクラスをキープしている。だから、塾とヤングリーブスを両立させることができていた。
 ところが、六年になって塾が週三回に増えたあたりから、それらのバランスが崩れてしまった。さらに、難関私立受験コースへ移った二学期からは、月曜から金曜までの毎日、送迎バスで30分以上もかかる隣の市にある塾まで通わなくてはならなくなっていた。
 本当は、おかあさんは裕次が六年になった時に、野球をやめて受験勉強に専念させようと思っていたのだ。
 でも、裕次は、どうしても
「うん」
と、いわなかった。
私立中学にいきたいと思っていなかったし、大好きな野球をどうしてもやめたくなかった。
さすがのおかあさんも、とうとう最後にはチームをやめさせることをあきらめた。ただし、いつでも難関私立受験コースへ移れる成績をキープすることが、野球を続けることの条件になった。
 おかあさんは、二年前にも同じように裕次の兄を途中でやめさせて、監督たちともめていた。サードで三番バッターだったにいさんがやめたときには、監督はずいぶんくやしがっていた。
 今でも、冗談ぽい口調だったけれど、
「斎藤兄弟には、必要な方に逃げられた」
って、時々からかわれる。
 にいさんは、「チームの中心メンバー」という裕次がのどから手が出るほど欲しい地位をあっさりとすててしまった。そして、今度は受験勉強に熱中して、おかあさんの望みどおりに、ランクが一番高いといわれている私立中学に受かっていた。
「おにいちゃんを見習って」
 それがおかあさんの口癖だ。素直に言うことを聞いたにいさんと違って、おかあさんの目から見ると、裕次はずいぶん頑固に映っていたのだろう。

 帰りの送迎バスが、キャロルがホームグラウンドにしている小学校の横を通りかかった。思いがけずに、キャロルのメンバーは、まだ練習をしていた。県大会に優勝し、全国大会でも上位にまで進んだキャロルにとっては、キャロル杯はただの小さな大会にすぎないと思っていた。
 でも、主催している大会というのは、彼らにとっても特別なものなのかもしれない。きっと、優勝が義務づけられているのだろう。
 ナイター用のライトに照らされて、選手たちの白いユニフォームがキラキラと光っている。
 裕次は、送迎バスの小さな窓を少し開けた。冷たい外気が、サーッと車内に流れ込んでくる。
「バッチ(バッターのこと)、来ーい(こっちへ打ってこいの意味)」
「バッチ、来ーい」
 守備についている選手たちの、かけ声が聞こえてきた。
 カーーン。
見覚えのあるキャロルの監督がノックした打球に、三塁手がダッシュしていく。
 ビュッ、……、バシーン。
 横のブルペンでは、例のノッポのエースが投球練習をしていた。
 バスが校庭を通り過ぎても、裕次は首をいっぱいにひねって、ぎりぎりまでキャロルの練習を見続けていた。
学校が見えなくなって前に向き直ったとき、裕次は、胸の中のもやもやとしていたものが、だんだんはっきりと形作られてくるのを感じていた。
 ヤングリーブスでも、キャロルと同じように校庭で平日の練習をやっていた。一応は、子どもたちだけでやることになっているので、「自主トレ」と呼ばれている。
 でも、五時すぎからは、監督やコーチたちも交替で顔を出して、ノックやフリーバッティングもやってくれていた。
 裕次の学校の校庭には、キャロルのところのようなナイター設備はなかった。暗くなってからは、職員室からもれてくる光だけがたよりだ。明るい校舎よりに集まって、ベースランニングやすぶりを、監督たちにじっくりと見てもらっていた。週末は大会や練習試合が多いので、基本練習をみっちりとやる場はここしかない。裕次はあまり活躍のチャンスのない週末の試合よりも、少しでもうまくなったことが実感できる自主トレの方が好きだった。
 その自主トレに、塾へ毎日通うようになってからは、まったく参加できなくなっていた。当初はそれを補うために、塾へ行くまでのわずかな時間に、家の前ですぶりや壁投げをやっていた。
でも、やはり一人でやるのははりあいがなくて、長くは続かなかった。
 裕次は、本当に野球が好きだった。小さいころから、にいさんとキャッチボールをしたり、ひとりでも家の横の石垣に向かってボールを投げたりしていた。
 にいさんが三年生になってチームに入った時、本当は一年ではまだだめなのに、おまけとして一緒に入れてもらった。チームからもらった、お下がりのダブダブのユニフォームを初めて着た時の、うれしいような恥ずかしいような気持ちは、今でもはっきりと覚えている。
その野球を、受験勉強のために、もう思うようにはやれなくなってしまっていた。かろうじてチームはやめさせられなかったものの、週末に模擬試験がある時は、試合さえも早退したり、途中から参加したりしなくてはならなかった。

 次の日、裕次を乗せた塾の送迎バスが、またキャロルの小学校の横を通りかかった。
 信号が赤に変わって、バスは校門のまん前にとまった。キャロルの選手たちは、今日も元気に練習をしている。
カキーン。
……。
カキーン。
フリーバッティングをやっているところで、バッターは鋭いライナーを連発していた。キャロルの監督が、バッティングピッチャーをやっている。
 次の球。バッターが、大きくからぶりをしてしまった。
「……」
 キャロルの監督が投げる手を止めて、バッターに何か注意をしている。
 ググッ。
 裕次は、送迎バスの窓を開けてみた。今日も、冷たい外気が流れ込んでくる。
「……」
 キャロルの監督は話し続けているが、まだ声が聞こえない。
突然、裕次は、監督が何をいっているのかを、どうしても聞きたくてたまらなくなった。バスを降りて、すぐそばまでいってみたい。
 でも、信号が変わったのか、バスはまたゆっくりと走り出してしまった。
 やがて、バスは塾の駐車場にいつものように到着した。
 グ、グーン。
 いつものように大きな音を立てて、バスのドアが開いた。みんなが席を立ち上がり始めた。
「ちょっと、用事を思い出したんだ」
 裕次は、隣の席の子にいった。
「えっ、塾はどうするんだよ?」
 その子は、びっくりしたような声を出していた
 でも、裕次はそれには答えずに、さっさとバスを降りていった。
(よし!)
思い切ったように勢いをつけて、キャロルが練習していた小学校を目指してかけだした。背中のデイバッグの中で、塾のテキストがゴトゴトと音をたてている。
 塾から小学校までは、走れば五分ぐらいでつけるだろう。
 祐次が塾をさぼるのは、初めてのことだった。
それでも、裕次は走りながら、気持ちがだんだんすっきりとしてくるのを感じていた。
(キャロルの練習を、思いっきり見てやるぞ)
 そう思うと、だんだん気持ちがわくわくしてきていた。

「おらおら、声が出てないぞお」
 キャロルの監督の声が、すっかり暗くなったので照明が点灯された校庭に響いている。練習はさっきまでのフリーバッティングから、シートノック(各自が自分の守備位置について受けるノック)に変わっていた。
「バッチ、こーい」
「バッチ、こーい」
 守備についている選手たちが、いっせいに声を出し始めた。
 裕次は、校庭のフェンス沿いに外野のうしろまでまわっていった。そちら側は金網になっていて、ずっと練習が見やすかった。
 裕次は金網によりかかるようにして、練習をながめはじめた。
 初めは、偵察するつもりなんかはぜんぜんなかった。ただ一所懸命に練習しているキャロルの選手たちを、見ていたかっただけだったのだ。そうすると、なんだか自分も野球をやっているような気分になれる。
 キャロルの選手たちは、今日もいきいきとプレーをしていた。裕次には、それがうらやましくてたまらなかった。
(えっ!?)
驚いたことに、いつのまにかキャロルの要注意点や弱点を塾のノートに書き込み始めていた。
(癖になっているのかな)
裕次は、思わず苦笑いした。
カーーン。
大きなフライがフェンスの近くまで飛んできた。背走してきたセンターの選手が、グローブを差し出すようにして捕球した。
「ナイスキャッチ」
ノックをした監督が、バットを上げながら声をかけた。センターは、グローブの手を上げながら、誇らしげな顔をして守備位置に戻っていく。
裕次は、それをうらやましそうに見送った。
実は、この大会を最後に、裕次は正式にチームをやめることになっていた。遅ればせながら受験勉強に専念することを、おかあさんに約束させられていたのだ。
次の日曜日の試合は、裕次にとってまさにラストゲームになる。
 日がすっかり沈んで、空気が冷え冷えとしてきた。
目の前には、ナイター照明に照らされて、声を掛け合いながらきびきびと練習を続けるキャロルの選手たちがいる。
 裕次はジャンパーのえりをかきあわせながら、
(最後の試合にどうしても勝ちたい)
という気持ちが、ふつふつとわいてくるのを感じていた。

「行ってきまーす」
 裕次はそういいながら、玄関でスニーカーをはいた。
「もう、バスの時間? まだ早いんじゃないの?」
 おかあさんが、居間の時計を見ながらいった。たしかにいつもより三十分近くも早かった。
「バスが来るのが早くなったんだ」
 早口にそういうと、デイバックの中にグローブを忍ばせて家を出た。
裕次は、送迎バスの乗り場には向かわずに、学校へ向かった。
 校庭には、ヤングリーブスのメンバーがすでに十人以上来ていた。おもいおもいにランニングやストレッチなどの、ウォームアップを始めている。
 自主トレに来ているのは、最近は五年生以下ばかりになっていた。六年の姿はひとりも見当たらない。キャプテンの将太やエースの浩介などの中心メンバーは、すでに硬式のシニアリーグのチームとかけもちなので、そちらの練習へ行っている。他のメンバーたちは、もう前のようには練習に熱心ではなくなっていた。
それにひきかえ、五年生のメンバーは、来シーズンに備えて、ほとんど全員が毎日来ているようだった。
「あれ、裕ちゃん。塾じゃないんですか?」
 アップを終えた明が声をかけてきた。
「うん、いいんだ。それより、今度の試合のことで、みんなに話があるんだけど」
 裕次は、明にそう答えた。
「おーい、みんな集まれーっ。裕次・か・ん・と・くから、話があるってさ」
 明が両手をメガホンにして、みんなに声をかけた。
「ちぇっ、からかうなよ」
 裕次は、明のしりに軽くまわしげりを入れた。
「ちわーす」
 みんなが、裕次のまわりに集まってきた。
「こんちわー」
 後から来たメンバーも加わって、全部で十五人もいる。五年生は、全員顔をそろえていた。
(どうしたら、みんなにわかってもらえるだろうか?)
裕次は、みんなをぐるりと眺めながら考えていた。
「来週のキャロル戦のことなんだけど、…」
 裕次が話し出しても、みんなは興味なさそうな顔をしている。出場しない自分たちには関係ないと、思っているのだろう。
裕次は、昨日から考えてきたことを、みんなに話し出した。
 キャロルにも弱点があること。それにつけこむための作戦。そのための練習方法。そして、これが一番肝心な点であるが、ヤングリーブスにも勝つチャンスがあること。
 それでも、五年生たちは、はじめはあまり関心がなさそうだった。肝心な六年生たちがいないのでは、練習しても無駄だと思っているのかもしれない。
「キャロルとの試合だけど、六年だけでなく、五年も出すつもりだ」
 とうとう裕次は、切り札を出した。
「おおっ」
 思わず、みんなから声が上がった。
(自分たちも出られる)
そう思ったせいか、五年生たちは裕次の説明に急に興味をもってくれたようだった。
「こんちわーっ」
「ちわーっ」
 みんなが、急に帽子をぬいであいさつをした。振りむくと、監督がそばまでやってきていた。いつのまにか、五時をすぎていたらしい。
「おやっ、どういう風の吹きまわしだ」
 監督は、裕次を見つけると、わらいながらいった。
「はい、……」
 裕次は、今、五年生たちに話していたことを、もっと具体的な作戦や技術的なことを含めて、監督に説明した。
 監督も、はじめは少しめんくらったようだった。
 でも、裕次の熱心な説明を聞いて、最後にはこういってくれた。
「さすがあ。いかにも裕次らしいなあ。だてに、二年間も、チームのスコアラーをやってたんじゃないよなあ」
「じゃあ、やってもいいんですか?」
「いいも悪いも、今度の試合は、いや今日から、おまえがチームの監督だよ。裕次の思うようになんでもやってみな」
 こうして、この日から、裕次と五年生たち、それに監督たちも協力してくれて、打倒キャロルの練習が始まることになった。

 いつもより熱が入ったせいか、その日の練習が終わったのは七時半を過ぎていた。
 それでも、裕次はまだ家には帰れない。塾からの帰宅時間には、まだ一時間近くもあったからだ。
 あたりは真っ暗で、すっかり冷え込んできている。
(これから、どうやって時間をつぶそう)
 裕次は、校庭の隅にある、チームの用具入れの物置あたりでうろうろしていた。まわりでは、五年生たちが中心になって、野球用具の後片付けをしている。
(コンビニへでも行こうか?)
 そこなら、まんが雑誌を立ち読みしたりして、時間がつぶせる。何より、明るくてあたたかいのがよかった。もしおなかがすいたり、のどがかわいたりしても、すぐに何か買って食べたり飲んだりできる。ただ、誰か知っている人に会わないかどうかが、少し不安だった。
(もし、サボったことが、おかあさんにばれたら、……)
と、思うと、気がすすまなかった。
「これで最後だな」
 用具の片付けが終わった。
「さよならあ」
「また明日」
 他のメンバーは一人で、あるいは二、三人で連れ立って家に帰っていく。祐次も、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
「さよなら」
 裕次はみんなに声をかけると、校門の方へ歩き出した。やはり他に行くところがないので、コンビニへ行くつもりだった。
 と、その時、
「裕ちゃん、ちょっと家へ来ない? いい物があるんだ」
と、明が声をかけてくれた。
「なんだい、いい物って?」
 裕次がたずねても、
「それは、見てからのお楽しみ」
 明はわらって、すぐには答えなかった。
 でも、渡りに船なので、裕次は明の誘いにしたがうことにした。明の家は裕次とは、反対方向なのでおかあさんに会う心配はなかった。
 二人は、ユニフォーム姿のまま、肩をならべて歩いていった。あたりはもう真っ暗で、所々にある街灯がぼんやりと歩道を照らしていた。
「裕ちゃん、キャロル戦が楽しみだね。きっと作戦はうまくいくよ」
「うん。でも、これからだよ。練習でどこまで準備できるかが大事だから」
 裕次は、そう慎重に答えた。

 明の勉強部屋は、ゆったりとした大きな部屋だった。おまけに専用のテレビやゲーム機、ブルーレイレコーダーまでがそろっている。
「これ、裕ちゃんが監督をやるのに、役立たないかなと思って」
 明は、すぐに一枚のディスクをレコーダーに差しこんだ。
「あっ、これ、Kテレビ杯のじゃない?」
 映し出された画面を見て、裕次がいった。
「うん、キャロルが優勝したやつ。録画しておいたんだ」
 キャロルが出場した県大会のスポンサーは、Kというローカルテレビ局だ。大会後には、出場チームの紹介と全試合のダイジェストが放送される。自分の姿をテレビで見られるので、六つある県レベルの大会でも、もっとも人気があった。
 優勝したキャロルは、決勝戦までぜんぶで五、六試合は戦っているはずだ。もしかすると、全選手のバッティングやピッチング、守備などが見られるかもしれない。
「ちょっと待って」
 裕次は、デイバックから、いつも持ち歩いているスコアブックを取り出した。
「じゃあ、一回戦から頼むよ」
 裕次は、明が再生してくれたキャロルの試合を、熱心に見つめはじめた。

 録画されていた各試合を見ていると、キャロルは予想通りにすばらしいチームだった。
おそらくレギュラー全員が六年生なのだろう。相手チームに比べて、一回り大きいがっちりとした体つきをしていた。
打線は、一番から九番まで切れ目がない。どこからでも点が取れる感じだ。
特に、先日の試合でランニングホームランを打った四番打者を中心に、クリーンアップは長打力もあるようだ。放送でも、何回もホームランのシーンが出てきた。
投手は全部で三人。エースはあの長身の速球派のピッチャーだ。中学生並みの体格を生かした豪快なホームで、ビシビシ速球を投げ込んでくる。特に、高めの伸びのあるボールまるで手が出ないようで、三振の山を築いていた。二番手の投手は、普段は一塁を守っている選手だ。サウスポーで、エースよりは球速はないけれど、コントロールがいい。投手は、この二人で交代につとめていた。それ以外に、大量リードしたときなどに、二人を休ませるために出てくる三番手のピッチャーがいる。
守備も、よく鍛えられている。キャッチャーは強肩で、キャッチングもうまい。パスボールをするようなことは、まったくなさそうだった。内野は、例の三塁手を中心に良くまとまっていて、キャッチングもスローイングもあぶなげない。外野も、俊足ぞろいで守備範囲が広そうだった。
(どこかに欠点があるのだろうか?)
裕次は、不安な思いで画面に目を凝らした。

 その晩、裕次は、スコアブックをひろげて対キャロルの作戦を立てていた。
 ドンドン。
 急に、ドアが強くノックされた。
「はい」
 裕次が返事をすると、
「裕ちゃん」
と、いいながら、おかあさんが入ってきた。そのひきつったような笑顔を見たとき、サボリがばれたことがわかった。
「どうしたの? 二日も休んだりして。塾の石川先生からお電話があったわよ」
(やっぱり、塾から連絡が入ったか)
 たった二日休んだだけで電話を入れるなんて、さすがは「良く指導の行き届いた」塾だ。
「塾を休んで、どこへ行ってたの?」
 おかあさんは、なんとか感情的にならないように努めているようだった。もしかすると、これも塾が作った「受験生を持った母親用マニュアル」か何かに、従っているのかもしれない。
 怒っているのではないこと、もう何度も聞かされた受験の大切さなどを、くどくどと繰り返している。けっして、頭ごなしに叱ろうとはしなかった。
 どうやらおかあさんは、塾をさぼってどこへ行っていたかが、特に知りたいらしい。
「自主トレに行ってたんだよ」
 裕次は素直にそう答えた。別に恥じることなど何もない。それならば、自分のやりたいことをおかあさんにはっきりと告げたほうがいい。
それを聞いて、おかあさんは少しホッとしたようすだった。もしかすると、ゲーセンとか、駅ビルのショッピングセンターにでも行っていたのではと、思っていたのかもしれない。
「でも、どうして? もう他の六年生たちも来てないんでしょ」
 心配が少なくなったせいか、作り笑顔はやめている。
「今度の日曜、ラストゲームの監督をやるんだ」
 裕次は、落ち着いた声で答えた。不思議なくらい、気分はすっきりしている。塾をサボッたことなんかに、ぜんぜんうしろめたい気持ちはなかった。
「えっ?」
 おかあさんは、しばらくポカンとした顔をしていた。おそらく、裕次がいった「ラストゲーム」の意味など、まったく理解できなかったのだろう。おかあさんは、六年になってからは、一度も試合や練習を見にきたことがない。
 しばらくの間、おかあさんはまだ何かいいたそうにしていた。
 でも、やがてそのまま部屋から出ていってくれた。

 その後も、裕次は「自主トレ」への参加を続けた。帰りに明の家によるのも、習慣になっていた。録画された試合を何度も見て、明とキャロルの分析を根気よく続けている。
不思議なもので、繰り返し試合を見ていると、付け入る余地がないように思えたキャロルにも、いくつかの弱点が見えてきた。それらは、先週の試合のときと、塾をさぼって偵察に行ったときに気づいたことと、かなり一致していた。
個々のバッターの苦手にしているコース。投手陣の癖や欠点。鉄壁に思われた守備陣にも弱い部分があるようだ。
裕次は、こういった弱点をつくための作戦を、明と練り上げていった。そして、それを自主トレのときに、繰り返し練習していった。
 土曜日は正式練習なので、硬式に入っていない六年生たちも参加していた。
裕次の説明を聞くと、彼らもすすんで打倒キャロルに協力してくれることになった。祐次の説明する打倒キャロルの作戦が、それだけ実現性を帯びてきていたのかもしれない。
その日、裕次たちは、夜遅くまで、みっちりと最後の仕上げを行うことができた。
 本当は、同じ土曜日に塾で模擬試験があったのだ。いつもならば、祐次は練習の途中で帰らなければならないところだ。
 でも、裕次はとうとう最後まで残ることにした。そして、みんながきちんと作戦通りのプレーができるまで、繰り返し指示を続けていた。
模擬試験を休んだのは、塾に入ってから初めてのことだった。

 裕次は、その日はまっすぐ家に戻った。もうキャロルの試合を研究する必要はなかった。それよりも、早く家に戻って、明日のオーダーや作戦を考えたかった。
 その日の模擬試験をサボッたことは、当然塾からおかあさんには連絡が行ったはずだ。怒られることは、覚悟のうえだった。
「ただいま」
 祐次が、さすがに少し心配しながら、玄関のドアを開けると、
「おかえり」
 すぐに、おかあさんの声が聞こえた。
 裕次がそのまま自分の部屋へ行こうとすると、
「ごはんにする。お風呂もわいているわよ」
と、おかあさんが声をかけてきた。
妙にやさしい。今まで、練習帰りにこんなことばをかけてもらったことはない。「汚い靴下で部屋の中を歩かないで」とか、「洗濯物はすぐに出して」などと、言われるだけだった。
おかあさんは、とうとう模擬試験をサボッたことについては、何も文句をいわなかった。
もしかすると、「良く指導の行き届いた」塾の先生と相談して、しばらく様子を見ることになっていたのかもしれない。

 その晩、夕食を食べてから、裕次は、明日の先発メンバーを検討していた。勉強机には、スコアブックやメンバーの成績表を開いておいてある。
 ここまできたら、もうかまっていられない。ラストゲームへの準備を、おおっぴらにしていた。もっとも、おかあさんのほうでも、最近はほっといてくれるので問題はなかった。
 成績表を見ながら、メンバー票に一番バッターから順番に書き込んでいく。
(一番は、……)
 今まで考えていた対キャロルの作戦が、具体的なイメージとして浮かび上がってくる。それにあわせて、トップバッターを決めなければならない。
 裕次の頭の中には、明日の試合開始の場面が描かれていた。
 ついつい想像するのに夢中になって、メンバー表を書き込む手が進まなかった。
(うーん)
 裕次はとうとう書くのをいったんあきらめて、下へ降りていった。
「おかあさん、お風呂に入っていい?」
 台所にいるおかあさんに声をかけて、風呂場に向かった。
 裕次は服を脱いで風呂場に入ると、湯船に体を沈めた。
「ふーう」
 手足を伸ばすと気持ちがいい。
 でも、頭の中には、またメンバー表のことが浮かんできた。

 風呂から上がって、またメンバー表に向かった。
(一番は、……)
 ようやく一番バッターを書き込んだ。風呂の中でやっと決めたのだ。
(えーっと、二番は、……)
 ここで、また空想にふけってしまった。
 一番バッターが出塁した場合は、……。アウトになった場合は、……。
ケースバイケースで、試合の展開は変わってしまう。その状況ごとに、適したメンバーの顔が浮かんでくる。
 こんなふうに、打順の一人一人を、展開を想像しながら決めていった。だから、なかなかメンバー表がうまらなかった。打順が後ろにいけばいくほど、空想が広がってしまうのだ。
(うーん)
裕次は、またみんなの成績表を広げてながめはじめた。
 ようやく途中まで書き込んだ時、机の前に貼ってある打撃成績表のグラフにふと目がいった。
それは、新チーム結成以来の裕次の打率グラフだった。
 一年前には、裕次の打率は一割にも満たなかった。
 でも、その後は上がったり下がったりしながらも、徐々に右肩上がりになっている。
 八月にはとうとう二割を超えた。
そして、八月十四日、A市による招待大会の二回戦の日に、最高の二割一分七厘に到達している。
 その日のことを、裕次は一生忘れないだろう。裕次にとって、初めて(そしてたぶん最後)のホームランを、ライト線に放ったのだ。
台風によるスケジュール変更で、お盆休み中の試合だったため、相手チームはメンバーがギリギリだった。だから、ライトは二年生の子が守っていた。
 でも、ホームランはホームランだ。
 他の六年生たちからは、
「中継プレーがちゃんとしてたら、せいぜい三塁打だった」
って、今でもいわれるけれど、それはやっかみというものだ。六年生でホームランを打ったことのないメンバーは、まだ三人もいた。成績表の本塁打欄に記入された「1」の数字は、裕次にとって、小さな、でも、とても大切な勲章だった。
 裕次の打率は、自主トレに出られなくなった九月を境に、逆に徐々に下がりはじめていた。そして、先週は二試合ともノーヒットだったので、とうとう三ヶ月の間なんとか守り続けていた二割台を切ってしまっていた。
 現在の打率は、一割九分八厘。打率が二割に達していない六年生は、裕次以外にはいなかった。
(明日の試合でヒットを一本打てれば、また二割に復帰できる)
 裕次は、書きかけのメンバー表を、しばらくの間見つめていた。

 日曜日、キャロル戦の朝が来た。
 朝から晴れ上がって、絶好の野球日和だ。十一月になって毎朝めっきり寒くなっていたが、これなら試合開始の十時までには、十分に気温が上がるだろう。
今日のキャロル杯では、午前中に準決勝が、お昼を挟んで、午後に決勝戦が行われる。
祐次の打倒キャロルの作戦が当たって、もしキャロルに勝てればもう一試合、決勝戦を行えるわけだ。
でも、祐次の頭の中には、準決勝のキャロル戦に勝つことしかなかった。だいいち、その試合の監督は祐次ではない。順番でいけば、正人が監督をやることになる。もっとも、正人に、どこまでその自覚があるかは怪しかったが。
「行ってきます」
 そういって、玄関を出た祐次はもう一度中に戻った。
「あら、どうしたの?」
 おかあさんが不思議そうな顔をしている。
「今日の試合、見に来ないかなと思って」
 祐次は、思いきっておかあさんを試合に誘ってみた。
 でも、おかあさんは、黙って首を振るばかりだった。
 祐次は、それ以上誘うのをあきらめて、一人で家を出た。
 集合場所の学校に行く前に、いつものコンビニで、しゃけとタラコのおにぎりを買った。おかあさんは、今日もお弁当のおにぎりを作ってくれなかった。

「それでは、先発メンバーを発表します。名前を呼ばれた人は、その場にしゃがんでください」
 まわりを取り囲んだメンバーを見まわしながら、裕次は発表を始めた。今日も六年生全員、それに五年生も休まずに来ているので、裕次を入れて二十一人もいる。
「一番センター、啓太」
「はい」
 啓太が元気に返事をして腰を下ろした時、六年生の何人かはオヤッという顔をした。啓太はヤングリーブスきっての俊足の持ち主で、バッティングもよかったが、五年生だったからだ。
「二番サード、功」
「はい」
 功も五年生だった。
「三番ファースト、……」
 裕次は、昨日考えた先発メンバーをどんどん発表していった。
「九番ライト、拓郎」
 メンバー発表が終わった時、エースの浩介も、いつもは四番バッターの竜平も、そしてキャプテンの将太までもが、まだまわりに立ったままだった。
 裕次の発表した先発メンバーには、六年生は四人だけで、五年生が五人も含まれていた。
「じゃあ、キャッチボールを始めてて」
 裕次は、他のみんなに声をかけた。
 みんなはキャッチボールのためにすぐにグラウンドに散っていったのに、レギュラーに選ばれなかった六年生たちはまだそこに立ち止まっていた。
「裕次、キャロル杯は六年中心でやるはずだろ」
 とうとうキャプテンの将太が、口をはさんだ。浩介や竜平も、不満そうな顔をしている。この三人は硬式のチームとかけもちなので、打倒キャロルの練習には一度も来ていなかった。
「作戦があるんだ」
 裕次はおちついて答えた。
「作戦って?」
 三人はけげんそうな顔をしている。彼らも、キャロルには勝てっこないと思っているのだろう。
「後で三人にも説明するけど、今週はずっとその練習をしてたんだ」
「でも、俺たちだって、さぼってたんじゃないぜ。硬式があったから、行かれなかっただけなんだから」
 浩介が、少し得意そうにいった。
「うん、わかってる。三人にも、重要な役割があるから」
 裕次は、三人の顔を見ながらいった。
「なんだよ。役割って」
 三人は、まだ不服そうだった。
「おいっ、今日は誰がカントクなんだ」
 いつのまにか、監督がそばに来ていた。
今日は口を出さないように頼んであったのだが、三人に文句を言われているのを見かねて来てくれたのかもしれない。
「裕次です」
 将太がしぶしぶ答えた。
「じゃあ、指示に従えよ。嫌なら、ベンチに入らなくてもいいぞ」
 監督が、いつもの大声でどなりはじめた。
「それは困ります。三人がいなくては、打倒キャロルの作戦が全部はできません」
 裕次がキッパリと言うと、
「おっ、すまん、すまん。いつもの癖が出て」
 監督がそう言って裕次にあやまったので、将太たち三人はびっくりしていた。いつも監督は、選手にあやまったりしたことはなかったのだ
「そうだ、もうひとつだけ。お前たち、自分が出ないことばかり文句いってるけど、もういちど先発メンバーを見てみな。裕次だって、入っていないんだぜ」
 監督はそう言うと、むこうへ行ってしまった。
「えっ?」
 三人は、あわてて裕次の手にあるメンバー表を覗き込んだ。
 たしかに、監督が言ったように、裕次自身も先発メンバーには含まれていない。
監督役の六年生が、自分を先発メンバーに入れないなんて、前代未聞のことだった。
「なんでだよ?」
 将太が、不思議そうにたずねた。
「うん、打倒キャロルの作戦に、ぼくは向いていないんだ」
 裕次は、苦笑しながら答えた。
「えっ、打倒キャロルの作戦?」
 浩介が聞き返すと、
「うん。それに、今日はそれの指揮をとるのに専念したいんだ」
 裕次は、まだピンとこない顔をしている三人を、ベンチの横につれていった。
「それで、先発メンバーは、……」
祐次は、今日の作戦と三人の役割を説明した。
「ほんとにうまくいくかなあ?」
 最後には、まだしぶしぶながら、三人とも協力してくれることになった。

「キャプテン」
 審判が、ホームのうしろで呼んでいる。裕次は、急いで走りよっていった。
「おねがいしまーす」
 帽子をぬいで、キャロルのキャプテンとメンバー票を交換した。例の守備のうまい三塁手だ。まっ黒に日焼けしていて、裕次よりも頭ひとつ背が高い。
「最初はグー、ジャンケンポン」
 裕次がパーで、相手はグーだった。
(よっしゃー!)
 思わず、ガッツポーズがでる。まずは、幸先よく相手に気合勝ちだ。
「先攻をお願いします」
 これで、作戦はグッとやりやすくなる。
「それじゃ、ヤングリーブスの先攻ですぐに始めます」
 審判が、二人に言った。二人は握手をして別れた。
「先攻!」
 ベンチに戻りながら、裕次は大声でメンバーに伝えた。
「おおおーっ」
と、いっせいにどよめきがおこった。みんなも気合十分だ。
「ベンチ前!」
 裕次は、ウォーミングアップしていたメンバーに、声をかけた。みんなは、いっせいにファールグラウンドからかけてくる。
「整列!」
 裕次は一番ホームよりにならんで、みんなとそろえるようにして左足を前に突き出した。
「集合!」
 審判の声がかかった。
「いくぞーっ!」
「おーっ!」
 裕次の掛け声を合図に、みんながホーム前へかけていく。むこうからは、キャロルの選手たちもいきおいよくやってくる。両チームはホームベースを境にして、向かい合わせに整列した。
「じゃあ、キャプテン、握手して」
「お願いします」
 審判にうながされて、キャロルのキャプテンと握手をした。
「礼!」
「お願いしまーす!」
 帽子をぬいで、両チームの選手たちがあいさつした。
いよいよ、裕次のラストゲームが始まった。

 裕次はベンチの前列におりたたみのいすを二つ並べて、スコアラーの明とならんですわった。いつもなら、監督がすわる席だ。
 他の六年生が監督をやるときは、隣にスコアラー役の本当の監督にすわってもらってサインを出していた。
 でも、今日は、監督は裕次にまかせっきりだ。ベンチの端の方で、のんびりと誰かとおしゃべりしている。
 ベースコーチには、普通はバッター順の八番(裕次だ!)と九番がたつ。
 でも、今日はキャプテンの将太とエースの浩介という豪華版だった。
 長身のキャロルのエースが、投球練習を始めている。
 シュッ、……、バシン。
速球が、ミットにいい音を響かせていた。
いつものヤングリーブスなら、これだけでビビッてしまうところだ。
 ところが、ベース横に立った先頭打者の啓太と、ネクストバッターサークルの功は、平気な顔をしてすぶりを繰り返していた。むしろ、ヤングリーブスをなめて、二番手ピッチャーを先発させるんじゃないかと心配していたので、ホッとしたぐらいだ。
「ラスト!」
 最後に、キャッチャーが二塁に矢のような送球をしてみせた。あいかわらずすごい強肩だ。
 キャッチャーは、得意そうな視線をチラリとこちらに送ってきた。いつもなら、対戦相手はこのデモンストレーションにびっくりして、シーンとしてしまうところだ。
 ところが、
「走れる(盗塁ができるという意味)、走れる!」
と、裕次が大声で叫んだ。
「ワーッ!」
ヤングリーブスベンチから、歓声があがった。
 相手のキャッチャーは、キョトンとした顔をしてこちらを見ていた。

「お願いしまーす」
 トップバッターの啓太が、左のバッターボックスに入った。
「啓太、ピッチャーより」
 すかさず裕次が声をかけた。
「いけねえ」
 啓太はペロリと舌を出して、首をすくめた。そして、バッターボックスのピッチャーよりぎりぎりに立ちなおした。
 これは、キャロルのピッチャーのような速球派に対しては、意外なポジションだ。普通は、スピードボールに振り遅れないように、キャッチャーよりに立つ。それが、逆にピッチャーよりに立ったのだ。
(ピッチャーよりぎりぎりに立つ)
これが、打倒キャロルの作戦の一番目だ。相手のエースがとまどっているのが、裕次のところからもわかった。
「いくぞーっ!」
 啓太は、大声で気合をかけた。そして、小柄な体をいっそうかがめて、ベースにかぶさるようにかまえた。ピッチャーから見ると、ストライクゾーンが極端に狭く感じられるはずだ。
 ピッチャーが大きく振りかぶった。
 思いっきり投げ込んできた第一球は、高目に大きく外れた。

「リー、リー、リー」
 一塁で啓太がわざと大声を出して、ピッチャーを挑発している。
 プレートをはずすとすばやく啓太がベースに戻ったので、ピッチャーは投げるかっこうをしただけで牽制球はほうらなかった。
 けっきょく、啓太は一度もバットを振ることもなく、ワンスリーからボールを選んで四球で出塁していた。
「ランナー、ほんとは走る気ないよ。バッター勝負よ」
 キャッチャーは自信まんまんだ。げんに県大会では、ビデオで見る限り一度も盗塁を成功させていない。たいてい一回目の盗塁をピシャリと刺して、相手にそれ以上走る気を起こさせなくしているようだ。
 これは、少年野球の世界ではまったくすごいことだ。弱いチームでは、二塁まで送球が届かないキャッチャーがいるくらいなのだから。
 次の投球。
 バッターの功はバントの構えをした。でもボールが来ると、すばやくバットをひいた。あいかわらず小技のうまいやつだ。これだから、二番バッターに抜擢したのだ。
「ボール」
 ボールは、わずかに高めにはずれた。
「やらせろ、やらせろ」
 バントの構えを見てすばやくダッシュしてきた三塁手が、ピッチャーに声をかけている。こちらも、自信まんまんだ。
「啓太っ!」
 裕次が大声でどなった.
(すまん、すまん)
って感じで、一塁ランナーの啓太が顔の前で手を合わせている。本当は、盗塁のサインを送ってあったのだ。
 裕次は、もう一度、二人にブロックサイン(いくつかの動きを組み合わせて相手チームに見破られないようにしたサイン)を送りなおした。
(わかった)
という合図に、啓太と功がコツンとヘルメットをたたいた。
「リー、リー、リー」
 啓太が思いきったリードを取る。
 ピッチャーが牽制球を投げた。
 啓太はヘッドスライディングで戻って、セーフ。
 次にピッチャーが投球動作に移った瞬間、啓太がすばやくスタートを切った。
 功がバントの構えから、絶妙のタイミングでまたバットをひいて走者を援護した。
「ストライクッ」
 キャッチャーがすばやく二塁へ送球。
 啓太が滑り込む。
 ショートがタッチする。
「セーフ」
 塁審の両手が、大きく左右にひろげられた。
 でも、きわどいタイミングだった。
 ベースの上に立ちあがった啓太が、ガッツポーズをしてみせた。
「啓太、いいぞーっ」
「ナイスラン」
 ベンチや応援席から、声援が飛んでいる。
 啓太とそれを助けた功に拍手を送りながら、裕次は満足そうにうなずいていた。
 ふつうの場合、一塁ランナーは、ピッチャーが足を上げる角度で、牽制球なのか、投球なのかを区別する。キャロルのような右ピッチャーの場合は、判断するのは左足の上げ方だ。
 しかし、それを見てからスタートしたのでは、遅すぎるのだ。
 並のチーム相手ならば、それでもいい。
 でも、キャロルのような速球派のピッチャーと強肩のキャッチャーでは、それではアウトになってしまう。
 啓太は、投球動作に移る瞬間のわずかな癖を盗んで、スタートを切ったのだった。
 キャロルのピッチャーは、牽制球を投げるときだけ左肩がかすかに動く癖がある。あの初めて塾をサボってキャロルの練習を見た日に、裕次はすでにこの癖に気がついていた。その後、明の家で何度もビデオを見ているうちに、それは確信に変わっていた。
 裕次は、この一週間、徹底的に盗塁のスタートの練習をさせていた。特に、啓太や功を初めとした足の速い選手を、そのために選んであった。器用な明にキャロルのピッチャーの癖を真似させて、なんども繰り返して練習した。
 いつも立ちあがりにコントロールの悪いピッチャーを、四球と盗塁でかきまわす。地力にまさるキャロルの先手を取るには、これしか方法がなかったのだ。
 キャロルのエースは、県大会の五試合全部に先発してわずかに六失点。
 でも、六点のうちじつに五点までが、初回の制球の乱れによるものだった。

 カツンッ。
 次のボールを、いきなり功がセカンド前にプッシュバントした。少し深めに守っていたセカンドは、けんめいにダッシュしてきてボールを拾い上げる。
 でも、送球よりも一瞬早く、功の足がベースをふんでいた。
「セーフ!」
 一塁手が、両手を大きくひろげた審判の方を思わず振り返る。そのすきに、三塁をまわっていた啓太が、一気にホームへ。
 ようやく気がついたファーストが、あわててバックホーム。
 送球が少し高めにそれる。
 啓太がヘッドスライディング。けんめいにブロックするキャッチャーのタッチをかいくぐって、啓太が左手でホームをタッチしていた。
(ホームイン!) 
 ねらいどおりに先取点が入ったのだ。
「やったーっ!」
 裕次は、思わずメガホンで隣の明の頭をひっぱたいてしまった。
「いてーえ」
といいながら、明もわらっている。
 ヤングリーブスの、鮮やかな速攻による先制攻撃だった。
 ベンチでは、帰ってきた啓太を迎えて、ハイタッチしたりヘルメットをひっぱたいたりして大騒ぎだ。ねらいどおりの先制点におおいに盛り上がっている。
 この場面、定石どおりならば、三塁側にバントするだろう。二塁ランナーを着実に三塁に進めるためには、三塁ベースを空けさせなければならないからだ。
その裏をかいて、セカンドへのセーフティバント。キャロルの守備陣は、まったく予想していなかっただろう。それが、ファーストのミスまで誘ったようだ。
 キャロルのエースの投球は、少年野球としてはそうとう球が速かった。だから、振り遅れながらけっこう強い打球が、セカンド方向へ飛ぶことが多かった。そのために、セカンドの守備位置が、普通よりも深くなっているのだ。
 それに、サードには例のダッシュのよいキャプテンがいた。ねらい目はここしかなかった。
 あっという間の一得点。それに、一塁では功がさっきの啓太のように、大きくリードを取って次の塁を狙っている。裕次のねらいどおりの先制攻撃だった。
 さすがのキャロルのエースも、かなり動揺したようだ。マウンド上で、大きく深呼吸をしている。
「タイム」
 見かねたキャッチャーが、マウンドへ駆け寄っていった。

次のバッターの博もバントの構えだ。三塁手が、バントを警戒してじりじり前進してくる。
「リーリーリー」
 一塁ベースでは、功が大声でピッチャーをけん制している。
 ピッチャーは、セットポジションで功の方に視線を送っている。
 第一球。
ボールは高めにはずれた。博がすばやくバットをひいた。
「ボール」
 盗塁を警戒していたキャッチャーが送球の構えをした。
 でも、一塁ランナーの功はベースに戻っている。
その後も、裕次のサインのもと、ヤングリーブスは盗塁やバントの構えを見せ続けていった。
動揺したピッチャーは、ますます制球を乱してしまった。おかげで、ヤングリーブスは、着々と得点を重ねていった。
 でも、実際には、一度も本当には盗塁もバントもしていなかったのだ。
「やるぞ、やるぞ」
と、見せかけて、実際は徹底した待球作戦(打たずにフォアボールを狙う)をしていた。相手のピッチャーはそれにまんまと引っかかって、四球やデッドボールで点を失っていった。
 最初の啓太と功の攻撃は、あまりにも鮮やかに決まった。そのおかげで、後はピッチャーが勝手に一人相撲を取ってくれたのだ。
 三点を奪って、まだノーアウト満塁。まだまだ、ヤングリーブスのチャンスが続いていた。
「タイム、ピッチャーとファーストが交代します」
 とうとう見かねたキャロルの監督が、ピッチャーの交代を告げた。県大会優勝のあのエースピッチャーをノックアウトしたのだ。
一塁を守っていた選手が、小走りにマウンドに近づいていく。エースからボールを受け取ると、ピッチング練習を始めた。サウスポーのこのピッチャーは、スピードはあまりないけれどコントロールがいい。県大会でも、このようなピンチにリリーフしたことがあった。
 このピッチャーには、エースに対するような待球作戦は通用しない。それに左投げで牽制球もうまいので、盗塁も無理だろう。
「監督、代打をお願いします」
 裕次が、相変わらずベンチの隅にいた監督に頼んだ。ルールでは、正式な監督しか交代を告げられない。
「おっと、今日は、俺は裕次のパシリだったけな。誰を出す?」
「竜平をお願いします」
「ふーん、OK」
 監督はゆっくりと主審に近づくと、代打をつげた。
本来の四番バッターの竜平は、
(まかせておけ)
と、ばかりに、バットを振り回しながら、打席にむかっていく。
「よっちゃん、ごめん」
 裕次は、入れ替わりに戻ってきた佳之にあやまった。一回の表に代打を出されてしまったので、けっきょく一度も出番がなかったからだ。
「ドンマイ、ドンマイ、そういう作戦だったじゃない」
 佳之が、逆に励ましてくれた。
「次、二人もいくぞ」
 裕次が、コーチスボックスにいた将太と浩介に声をかけた。
「おお、忙しくなってきたぜ」
 二人があわててベンチに戻ってくる。
「ランナーコーチに行って」
 裕次が指示すると、代わりの二人がヘルメットをかぶりながら、ベンチから飛び出していった。
「素振りしておいて」
 裕次が声をかけると、将太と浩介はバットケースからバットを抜いて、ベンチ裏へいって素振りを始めた。
 裕次は、この回に一気に勝負をつけるつもりだった。

 リリーフピッチャーの練習が終わった。
 代打の竜平が、バッターボックスに入る。
 裕次は、竜平に「待て」のサインを送った。いきなり打たせて、竜平が力んでしまうのが怖かった。
 セットポジションから、ピッチャーが三塁に牽制球を送った。ランナーの亮輔がすばやくベースに戻る。
 さすがにキャロルのリリーフピッッチャー。ノーアウト満塁のピンチにも、落ち着いたプレートさばきをみせている。
 第一球目。外角高めのボールで、はずしてきた。スクイズを警戒しているみたいだ。相手は、竜平が、本来の四番バッターだとは知らないのだろう。
 もちろん、裕次は竜平にスクイズをさせるつもりはなかった。ここは、一発長打を期待していたのだ。
 裕次は、今度は「打て」のサインを送った。押し出しがこわいから、二球目ははずさないだろうとの読みだった。
 セットポジションから、ピッチャーが投げ込んできた。予想通りの、ストライクコースだ。
 カキーン。
 竜平のバットが、力強いスウィングでボールをとらえた。
 打球は、ぐんぐんと左中間に飛んでいく。
(やったあ!)
と、裕次が喜んだのもつかの間、キャロルのセンターが快足を飛ばして、打球に追いついてしまった。残念ながら、これでワンアウトだ。
 でも、三塁ランナーは、タッチアップからゆうゆうとホームインした。ヤングリーブスのリードは、四点になった。
「監督、次は将太を代打にお願いします」
 祐次は、ベンチの監督の方に振り返って頼んだ。祐次は、手を緩めずに一気に勝負をかけるつもりだった。そのために、持ち駒の中で、最も打撃の良い三人を残してあったのだ。

その後のヤングリーブスの攻撃は、けっきょく将太のタイムリーによる一点をあげただけだった。それでも、いきなり合計五点のリードを奪うことに成功した。
 その裏、裕次は予定通りに五年生の直樹を先発させた。直樹は、ピッチャーにしては小柄で、エースの浩介よりもスピードはなかった。
 でも、なかなかコントロールのよいピッチャーだ。
 マウンド上で、直樹はペロリとくちびるをなめた。緊張しているときの癖だ。
「直樹、リラックス、リラックス」
 すかさず、裕次が声をかけた。直樹は大きくうなずくと、後ろを振りかえって叫んだ。
「打たせるぞお」
「おーっ!」
 守備についたみんなから威勢のいい声が返ってくる。五点のリードは、みんなを元気づけたようだ。
「プレイ」
 主審が試合再開をつげた。
 一球目。
「ストライーック」
 直樹の直球が、外角低めに決まった。
「いいぞお」
 裕次が声援を送る。ベンチからも歓声があがった。
 直樹がすばやく二球目を投げた。軽快なテンポだ。
「ストライク、ツー」
 またも低めに決まった。
「よーし」
 裕次が満足そうにうなずいた。直樹に徹底的に低めにボールを集めさせて、長打を防ぐ作戦だったのだ。さいわい今日の審判は、低めの球をストライクに取ってくれるので助かった。
 直樹は、もう三球目のモーションにはいっている。
 ガッ。
 低めのボール気味の球に引っかかって、平凡な三塁ゴロだ。本来の三塁のポジションに入った竜平が、軽快なフットワークでさばく。
「アウト」
 幸先良く先頭打者を打ち取った。

その後も、試合はヤングリーブスのペースですすんだ。
直樹のようにピッチャーのコントロールがいいと、バックにもリズムが出て守りやすい。みんなは再三好守備をみせて、ピッチャーを盛り立てていた。
 それでも、直樹は強打のキャロルに打ち込まれて、何回もピンチを迎えた。
 しかし、バックが良く守って、最小失点に押さえていた。
 上位打線のときには外野を思いっきり深く守らせて、大量失点を防ぐ作戦もきいている。大きなあたりを打たれても、足の速い選手をそろえておいた外野がなんとかまわりこんで抜かれないようにしていた。
 おかげで、長打になるところを、シングルヒットにおさえられていた。
「くそーっ」
 キャロルのバッターたちは、ヘルメットをたたきつけたりしてくやしがっていた。

 試合は、すでに最終回を迎えていた。7対4で、ヤングリーブスはまだ三点をリードしている。
 初回のリードで自信がついたのか、ヤングリーブスの選手たちは、のびのびプレーできていた。強豪のキャロルを相手にしても、ぜんぜん臆することはなかった。
「いけるぞ!」
「この調子でいこう」
 ベンチにも、活気があふれていた。
 逆に、キャロルの方では、思いがけずに大量リードをゆるしたために、あせりが出ているようだった。一発長打をねらって、大ぶりになっている。
 それを、直樹のていねいなピッチングでかわされてしまっていた。
ヤングリーブスは、その後も三回と五回に一点ずつ、合計二点も追加点が取れていた。
 守っても、四球やエラー長打を許さなかったので、キャロルの反撃を最少失点でかわしていた。
 あと一回、なんとか守りきれば、念願の打倒キャロルを達成できるのだ。いや、それどころか、今シーズン初の決勝進出をはたせる。夢にまで見た優勝に手が届くところまでやってきていた。
 最後の守りにみんなが散っていったとき、キャプテンの将太がそばによってきた。
「裕次、なんとかこの回もうまくいったら、次の試合もやってくれないか?」
「えっ、何を?」
 裕次が聞き返すと、
「決まってんだろ。か・ん・と・くさん」
 将太はニヤッとわらいながら後ろの方を指さすと、守備位置へダッシュしていった。
 裕次が振りむくと、隣のグランドでは準決勝のもう一試合をやっている。レッドベアーズとジャガーズだ。
 たしかにこのまま逃げ切れれば、むこうで勝った方と決勝戦をやることになる。そして、それが裕次にとって本当の、いや今年のヤングリーブスにとっても、ラストゲームになるのだ。
(うーん、……)
 一瞬、裕次はレッドベアーズとジャガーズが、どんなチームだったかを思い出そうとした。
(たしか、ジャガーズとは、前に練習試合を、……)
 いやいや、それはこの試合が終わってからのことだ。
 裕次は首を大きくブルンとふると、守りについたメンバーに大声で叫んだ。 
「ヤンリー、しまっていこうーぜ!」





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

痛い!

2020-03-26 09:54:35 | 作品
「あーあ」
 彩加(さやか)はトイレから出るとため息をついた。今朝も生理が来ていなかったからだ。もう三か月もずっと生理がなかった。
 中学三年生の健康な女の子だというのに、彩加にもこれは異常なことのように思えた。
 でも、なんだか恥ずかしくて、おかあさんには相談できなかった。おかあさんの方でもうすうすは気づいているようだったが、今まではなんとかごまかしてきた。このままでは気がつかれるのは時間の問題だろう。
彩加は憂鬱な気分で、食堂のテーブルについた。
 そこには、彩加の朝食が用意されている。低脂肪のミルクとノンオイルドレッシングの野菜サラダだけだ。
「いただきまーす」
 彩加はミルクを一口飲むと、フォークでサラダをつつきだした。
「それだけで、本当に大丈夫?」
 おかあさんが、今日も心配そうに尋ねてくる。
「大丈夫、大丈夫。朝練があるんだから、おなかいっぱいだと走れなくなっちゃうのよ」
 彩加は、無理に笑顔を浮かべて答えた。
「それなら、走った後で食べられるように、サンドイッチかおにぎりでも持っていったら?」
 おかあさんが重ねてそう言ったけれど、
「ううん、走った後はぜんぜん食欲がなくて、まったく食べられないよ」
と、彩加は断った。
 本当のことを言うと、長期のダイエットによって収縮した彩加の胃袋には、朝食はそんな少ない量でもちょうどよかったのだ。

それよりも問題は、生理が来ないことだ。もともと彩加はおくての方で、初潮をむかえたのも他の子よりは遅く、中学生になってからだった。
 成長が早い子たちは、小学高学年になると次々とむかえはじめ、彩加は自分だけが取り残されたようで心配していた。
 中一になってようやくむかえた時、自分でも嬉しかったし、おかあさんもすごく喜んでくれて、昔からのしきたりどおりにお赤飯を炊いて祝ってくれた。
 しかし、去年の初めごろから生理が不順になって、暮れごろからはたまにしか来なくなってしまった。
 彩加は、身長百三十八センチで体重三十二キロ。クラスでも一番小柄だった。
 胸もぺったんこで、髪もベリーショートにしていたから、よく男の子と間違えられた。口の悪いクラスの男子からは「おとこおんな」とからかわれていた。

「ラストッ!」
 ストップウォッチを片手に、陸上部の顧問の宮川先生がどなった。
 彩加は、走るスピードを上げてラストスパートをかけた。
 あっという間に、前のランナーたちを追い抜いて先頭に立った。それまでは、駅伝チームのメンバーたちは、隊列を組んで一定のペースで走っていたが、ラスト一周だけは自由に走ってよかった。
 彩加は、そのまま後続を引き離して先頭でゴールインした。
「吉谷、いいぞ」
 ストップウォッチを片手に、宮川先生が笑顔で声をかけてくれた。
「はい」
 彩加は息が切れていなかったので、すぐに先生に応えられた。
次々にゴールインしてきた他の部員たちは、苦しそうに両ひざに手をついてあえいでいる。平気でクールダウンのジョギングをすぐに始めた彩加とは対照的だった。

「サーヤ、調子よさそうだね」
 練習が終わって、スポーツタオルで汗を拭きながら、部室のある校舎のそばに彩加が来た時、同じ陸上部の由姫(ゆみ)が声をかけてきた。
 由姫は、彩加とは対照的に大柄でがっしりした体格をしていた。専門種目は砲丸投げだ。陸上部でも有数の実力のある選手で、二年生のころから市大会で活躍していた。今年は県大会にも、彩加の学校からはただ一人で出場している。
 由姫は、今日は生理中で練習を休んでいたので、校舎のそばで彩加たち駅伝チームの練習を見ていた。
「まったく面倒くさくて。彩加がうらやましいな」
 前に、彩加が生理のこない悩みを打ち明けた時、由姫はあっけらかんとそう言っていた。
 陸上部で一番小柄な彩加と一番大柄な由姫、不思議に気が合って、一番の仲良しだった。

彩加は、来月にせまった市の駅伝大会の選手に選ばれていた。彩加にとっては、これが最初で最後のレギュラーだった。しかもエース区間を任されている。ここのところ二千メートル走のタイムが急激に伸びてチームで一番になったので、宮川先生に補欠から大抜擢されたのだ。
 彩加たち三年生は、この大会で引退することになっていた。二年間の苦しい練習と減量に耐えた彩加の努力が、ようやく報われる時がきたのだ。
一年のころの彩加はやはり小柄だったけれど、どちらかというとポッチャリタイプで、ピークの時には体重が四十五キロもあった。
「吉谷、もっと体重を落とさないと、タイムが伸びないぞ」
 宮川先生に口を酸っぱくして言われて、この二年間で十三キロも体重を落としていた。
 その影響か、身長も二センチしか伸びなかったのは、かなりショックだった。
 しかし、体重を落とした効果は、三年生になってからてきめんに表れてきた。
 今では、足が軽々と前に出てストライドが伸びたし、ピッチをあげて長く走っても疲れが少なかった。
 彩加は、二年生のころまでのタイムを、三年になってから大幅に更新していた。

「うめえー!」
「最高っす!」
 駅伝のメンバーに選ばれなかった子たちは、コンビニでアイスクリームを買って、おいしそうに食べている。
「ずっと我慢していたんだあ」
 屈託なくそう言いながらアイスをなめている子たちを見て、彩加は少しうらやましかった。
 彩加に限らず、駅伝チームのメンバーは、宮川先生から帰り道でのアイスを厳禁されていた。もっとも中にはこっそり食べている子たちもいたが、彩加はまじめにいいつけを守っていた。
(がまん、がまん)
 大会が終われば部活を引退するので、帰り道だけでなく普段の生活でも自分に課している「アイスクリームやチョコレートは厳禁」という戒めを解くことができる。彩加は、もう半年以上もスイーツ類を食べたことがなかった。クリスマスも誕生日も、家族にも付き合ってもらってケーキを我慢していた。
 普段の食事でも、おかあさんの協力で、今朝の朝食のように炭水化物や糖類をできるだけ少なくしたメニューにしてもらっている。
「サラダばかりで、大丈夫?」
 おかあさんは心配していたけれど、
「平気、平気。部活でも絶好調なんだから」
 彩加はそう答えて、最近生理がないことは、おかあさんにはひた隠しにしていた。

 翌日も、彩加はチームメイトと練習をしていた。
 千メートルを過ぎたところだった。
(痛い!)
 カーブで左足を踏み出した瞬間、足首にズキンと痛みがはしった。
 とっさにその足をかばったので、足の運びがばらついて、隣を走る子にぶつかりそうになった。
 彩加は、何とかバランスを立て直した。
 でも、左の足首の痛みは続いている。
 彩加は、なるべく左足に体重をかけないように注意しながら、走り続けた。
 千二百メートルから千六百メートルへ。
 走るにつれて、足首の痛みはますますひどくなってきていた。
(痛い!)
 彩加は、とうとう我慢できなくなって、一人コースを外れると、その場にうずくまってしまった。
「吉谷、どうした?」
 宮川先生が、心配そうな顔をして駆け寄ってきた。

「疲労骨折ね」
 レントゲンを見ながら、女性のお医者さんがあっさりと言った。白衣に「田丸」と書いたネームプレートを付けている。髪をボブカットにして、両耳にピアスをした若い先生だった。
 田丸先生は、それからもいろいろな検査をしてくれた。
 どうやら彩加は、骨密度にも異常があるようだった。
「中学三年生かあ」
 田丸先生は、画面に映し出された彩加の検査データを見ていたが、急に声を潜めて言った。
「ねえ、あなた生理はちゃんとあるの?」
 彩加が赤くなってうつむくと、
「やっぱりねえ。まだ血液検査の結果は出ていないけれど、きっと疲労骨折は女性ホルモンの異常のせいよ」
「えっ!」
 彩加がびっくりして顔を上げると、
「過度のダイエットと激しい運動のやりすぎが原因なの。生理がとまるだけでなく、骨密度も低くなっちゃうの。あなたの骨はスカスカで、まるでおばあさんのようよ。どうやら成長も遅れているようだし、このままだと赤ちゃんも産めなくなっちゃうよ」
 ズバズバ言われて、彩加が泣きそうになると、
「大丈夫、今からきちんと治療すればちゃんと治るから」
と、田丸先生は急に表情をゆるめて、彩加を励ますように言ってくれた。

 次の日、彩加が学校へ行くと、宮川先生から職員室へ呼び出された。
「吉谷、足は大丈夫か?」
「いえ、左足首の疲労骨折だそうです」
「そうだってなあ」
 宮川先生は、彩加から骨折と聞いても、少しも驚いた様子はなかった。どうやら、彩加の骨折の情報は、病院から学校へも直接いっていたようだ。
「それで、すまないんだが、今度の大会のメンバーからははずれてもらうことになったから」
「…!」
 彩加は、大会に出られないことはすでに覚悟していた。左足の患部をギブスで固定して、片方だけだが松葉づえまでついている状態では、とても大会までには回復できそうにない。
 でも、宮川先生から、最初で最後のレースに出場できないことを正式に告げられると、彩加は改めて強いショックを受けていた。
「ついてないなあ。吉谷が抜けると、今度の大会は厳しくなるぞ」
 宮川先生は、彩加が怪我やレギュラー落ちでショックを受けていることよりも、チームの大会での結果の方を心配しているようだった。

「ああ、おいしかったあ」
 夕ご飯の時に、彩加は思わず言ってしまった。いつもはごはんをほとんど食べないのに、今日はお茶碗によそわれたごはんを残さずに食べられた。久しぶりの白いごはんは、甘くて本当においしかった。
「よかった。おかわりは?」
 おかあさんが聞いてくれたが、
「ううん、もうおなかいっぱい」
と、彩加は答えた。これからはダイエットをする必要はないのだから、おかわりしてもっと食べてもいいのだが、胃が小さくなっているので、それ以上はうけつけそうになかった。
「ダイエットし過ぎてたからねえ。まあ、だんだん食べられるようになるんじゃない」
 おかあさんは、田丸先生からもらったアンチダイエットの食事の注意表に従って、タンパク質やカルシウムなどの身体を作る栄養を十分に含んだおいしい料理をたくさん作ってくれていた。今までと違って、炭水化物や糖類もたっぷり入っている。
 なんだか、おかあさんは怪我の心配よりも、彩加がもうこれ以上過剰な練習やダイエットをしなくていいことを喜んでいるようだった。

おかあさんが張り切って用意してくれる食事を、きちんと食べるようになって、彩加の体重はだんだんと増えていった。もう練習はまったくしていないので、その影響ももちろんあるだろう。学校でも、今までのように給食のパンを全部家に持ち帰るようなことはせずに、きちんと残さずに食べている。
 毎朝、体重計にのるのが彩加は楽しみだった。田丸先生からは体重を少なくとも四十キロまでは戻すように言われている。ランニングのタイムの代わりに。毎日つけるようになった彩加の体重グラフは、順調に右肩上がりになっていた。
 宮川先生にチームを抜けさせられてからしばらくは、彩加は強いショックを受けていたけれど、田丸先生にもアドバイスされたように、今はしっかりと身体を治すことが先決だった。
 幸い、左足首の痛みはすっかりなくなっていた。気のせいか、身長も少し伸びたような気がする。

数か月後、運動部の女の子たちを対象に、学校で「無月経と疲労骨折の関係」についての講演と指導があった。
 講師は田丸先生だった。
 陸上部を休部中の彩加も、講演には参加した。左足首の骨折はすっかり治っていたけれど、もう高校受験に備えて部活を引退する時期になっていたので、陸上部には籍だけを置いてそのまま練習は休んでいる。
といって、走るのが嫌いになったわけではないので、毎朝一人で家のまわりを走っていた。練習不足と太ったせいか、すぐに息切れして怪我の前のようには速く走れなかったけれど、ランニングしているだけで気持ちがよかった。
(私って、本当に長距離走が好きなんだなあ)
と、初めて実感できたような気がしていた。
部活で走っている時は、タイムが速くなるのはうれしかったけれど、どこか宮川先生に無理に走らせているようだったのだ。
 身体が風を切っていく音、規則正しい自分の息遣い、アスファルトをけるリズミカルな足音、…。
 朝早いので、彩加の家のまわりの住宅地には、散歩しているお年寄りや犬を連れた人たちをたまに見かけるだけだった。
 こうして自主的に走っていると、ランニングの楽しさを自分で実感できるようになっていた。

 田丸先生は、プロジェクターを使った三十分ほどの講演の後で、駅伝チームの女の子たちだけでなく、体操、新体操、バレーボール、バスケットボールなど、ダイエットをしていそうな女子部員たちに、一人一人の体重や練習時間や食生活、生理の有無などを質問しながら、時間をかけて時には厳しく個人指導していった。
 でも、まるまる太っていかにも健康優良児のような砲丸投げの由姫だけには、
「あなたはダイエットしてないんでしょ。ならぜんぜん大丈夫ね」
と、太鼓判を押していた。
 田丸先生の講演と指導の内容は、宮川先生を含めて、運動部の顧問の先生たちにも伝えられた。
 しかし、宮川先生は、過度のダイエットと練習を強要して疲労骨折させてしまったことを、とうとう彩加本人にはあやまらなかった。

 (あっ!)
 それから、しばらくした朝だった。
 彩加に、半年ぶりに生理が戻った。
 これで、将来ちゃんとおかあさんにもなれると思ったら、すごくうれしかった。
 もうすぐ入学する高校では、また陸上部に復帰して、全国高校駅伝を目指すつもりだった。
 そのチームの指導者は女性で、田丸先生の情報だと、選手たちの健康管理に、非常に理解があるとのことだった。


 

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライアーライアー

2020-03-24 09:51:55 | 映画
 1997年のアメリカのコメディー映画です。
 当時人気絶頂だったコメディアンのジム・キャリー主演で、嘘ばかりついている弁護士(そのおかげでいつも勝訴している)が、愛する息子(愛想をつかして離婚した妻と暮らしている)との約束もさんざん破って、息子の(バースデーケーキのろうそくを吹き消す前の)五歳の誕生日の願いで、一日中嘘を付けなくなったことで巻き起こるドタバタコメディです。
 現在ならばパワハラやセクハラになるようなかなりきわどいシーンも多いのですが、「黙っていれば典型的なアメリカの好青年」って感じのジム・キャリーの持ち味で、かなり強引に成立させています。

ライアー・ライアー (字幕版)
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フレデリック・フォーサイス「ネゴシエイター」

2020-03-23 08:48:33 | 参考文献
 アメリカ大統領の息子が誘拐され、犯人と交渉するために雇われたネゴシエイターの活躍が描かれています。
 前半の犯人との交渉過程は、それに介在するイギリスやアメリカの諜報機関や捜査機関の思惑も含めて非常に面白く、いつもながらこうした作品の題材に関する作者の取材のすごさに感心させられます。
 しかし、解放されたと思われた人質が、残虐な方法で殺された以降の、「なぜ?」の謎解きの部分は、一私人にすぎない主人公が、血眼になって捜索している英米両国の捜査陣を出しぬいて、いつも犯人たちに迫れるのは、いささかご都合主義が目立つようです。
 作者の作品は、デビュー作の「ジャッカルの日]に比べると、しだいに主人公のスーパーマン化が激しいようです。
 また、作中のいい側と悪い側がはっきりとしすぎていて、筋が読めてしまう欠点も、だんだん如実になってきました。


ネゴシエイター〈下〉 (角川文庫)
篠原 慎
角川書店
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日も遊ぼうよ!

2020-03-22 09:18:58 | 作品
 肉まんをカプッとほおばると、熱い肉汁がのどにググッと流れこんだ。
「ハグ、ハグ、……」
 急いでのみこんで、優治はホーッと白いいきをはいた。
 肉まん二個とカレーパン一個。これで、塾から帰る八時すぎまでの三時間を、もたさなければならない。
 月曜から金曜まで、雄治は電車で東京よりへ二駅行った所にある大手進学塾へ通っていた。
 月水金は普通コース。火木は受験コースだ。
 強い風がガタガタッと、古いガラス戸をゆすった。外はすごく寒そうだ。
 でも、パン屋の中は、ストーブがカッカッともえていてあたたかい。雄治は、店の中に五、六脚置かれているいすにすわっていた。
駅前にあるこの店は、五時半をすぎるとけっこうにぎわってくる。部活帰りの高校生のたまり場になっていたからだ。
 でも、今はまだ時間が早いので、お客は雄治だけだった。
 今日、塾へ行きたくなかった。先週のテストが返されるからだ。
結果は見なくてもわかっている。まったく悲惨なものなのだ。
 五年生になってから、雄治の成績は少しずつ下がり始めている。
 特に算数。中でも分数が苦手だった。
 肉まんとカレーパンは、すぐに食べ終わってしまった。
 でも、雄治は、壁にはられた古いコーラのポスターをながめたりして、ぐずぐずしていた。
 テレビの横の古ぼけたかけ時計が、五時二十分をさした。とうとうタイムリミットが来てしまった。雄治は、のろのろと立ち上がった。
 ガララッ。
 ようやくパン屋のガラス戸を開けた。
(ふーっ!)
 あんのじょう、外はすごく寒かった。

 改札口を抜けてホームへの階段に行こうとした時、掲示板の前に拓哉がいるのに気がついた。
 拓哉は、クラスで一番からだが小さい。いつもノートに犬の絵ばかりかいていて、勉強はビリの方だ。
 拓哉は、掲示板をじっくりとながめている。
 アニメのキャラクターが変なポーズをしている遊園地、作り笑いを浮かべた女の人のスキー場、そして、初もうでのお寺のポスターなどがはられている。雄治には興味のないものばかりだ。
 それなのに、拓哉は何がおもしろいのか、熱心に見つづけていた。夢中になった時のくせで、口をポカンとあけている。
「拓哉、どこへ行くんだ?」
 雄治が声をかけると、拓哉はしばらくぼんやりしていた。
 でも、相手が雄治だとわかると、ニコッとわらってそばにかけよってきた。
「やあユウちゃん。これから千葉まで行くんだ」
「ふーん。そっちに知り合いでもいるのか?」
「ううん」
 拓哉は首を振りながら、雄治を階段の方へ引っぱっていった。そして、改札口の駅員の様子をうかがいながら、声をひそめていった。
「終点まで行って、また戻ってくるだけ。でも、中でいろいろ遊ぶんだ」
 拓哉はそっとてのひらをあけて、雄治にキップを見せた。それは入場券だった。
「なんだよ、ひまなやつだな。そんなことしてて、おかあさんにおこられないのか?」
 雄治は、少しうらやましそうにいった。
「うん。おかあちゃんは、ここんとこ帰りが遅いんだ。家にいても、テレビかゲームしかないし」
 雄治は、拓哉の家族について自分がなにも知らないことに、初めて気がついた。もう二年以上も同じクラスだったのに。
「ユウちゃんも、いっしょに行かないか?」
 拓哉が、少し遠慮がちにさそいかけた。
「えっ! でも、電車の中で何をするんだよ?」
「いろいろさ。あとで教えてあげるよ」
 拓哉はそういって、先に階段をかけあがっていった。
 雄治はそのあとを追いかけながら、だんだん迷い始めていた。なんだか今日だけは、塾をサボってしまいたい気もするし、行かないとますます勉強についていけなくなるような気もする。

 ホームには、おおぜいの会社帰りの人たちが、寒そうに電車を待っていた。
 風がピューッとふいてきて、雄治は思わずダウンジャケットのポケットに両手を突っこんだ。
 拓哉の方は元気いっぱいで、ホームの黄色い線の上を行ったり来たりしていた。一歩一歩、わざわざ黄色いブロックをふみながら、チョコチョコ歩いている。
 雄治は電車を待ちながら、塾をサボるかどうかまだ決めかねていた。
 その時、上り下りほとんど同時に、電車が前の駅を出たことを示すランプがついた。
(よーし)
 とうとう雄治は、判断を天にまかせることにした。上り電車が先に来たら、このまま塾へ行く。下りが先だったら、拓哉と一緒にそちらへ乗って、サボッてしまおう。
 やがてホームの両側に、あいついで電車が滑り込んできた。
 スピードがだんだんゆるくなる。
 雄治は少しドキドキしながら、電車がとまるのを待っていた。
 シュッ。
 一瞬早く、下り電車のドアが開いた。たくさんの乗客が、はき出されてくる。
「行こう!」
 拓哉はそう声をかけると、先にたって電車に乗り込んでいった。
 ついに雄治は思いきって、その後に続くことにした。

 サラリーマンやOLたちの帰宅時間にちょうどあたっているらしく、電車の中はすごくこみ合っていた。
 雄治たちは、ぎゅうぎゅうづめの車内で、すぐにはなればなれになってしまった。
 雄治のまわりは、人の壁、壁、壁。あちこちから押されて、息がつまりそうだ。
「拓哉」
 雄治は小声で、拓哉を呼んでみた。
 でも、遠くに離れてしまったのか、ぜんぜん返事がない。しかたがないので、天井をにらみながらじっとしていた。
 電車が江戸川を渡り千葉県に入るころになって、ようやく降りる人たちが増えてきた。車内にも、少しは余裕ができてくる。
「ユウちゃーん」
 拓哉が、大人たちの間をもぐるようにして、そばにやってきた。
「すごいラッシュだね?」
 雄治はびっくりしていた。上り電車は、いつもこの時間にはガラガラだったのだ。塾の帰りには、下り電車も混雑のピークをすぎている。
「うん、七時まではいつもこんなもんだよ」
 慣れているのか、拓哉はケロリとしていた。

 次の駅が近づいた時、少し離れた所にすわっていた太ったおばさんが立ち上がった。
「ユウちゃん、早く、早く」
 拓哉はすばやく人をかきわけて席を確保すると、大声で雄治を呼んだ。
 雄治は少し顔を赤くして、拓哉の横に腰をおろした。前に立っているめがねをかけたおじさんが、手に持った新聞の上から雄治たちをこわい目でにらんでいる。
 雄治はからだをかたくしてうつむいてしまったが、拓哉の方はまるでへいちゃらのようだ。かばんからすぐにノートを取り出すと、雄治に手渡した。
 あけてみると、どのページにもぎっしりと犬の絵が並んでいる。ひとつひとつが、濃いえんぴつでたんねんに描かれていた。
 大きい犬、小さい犬。かわいいの、どうもうそうなの。拓哉の知っているミニチュアダックやトイプードル、ポメラニアンなどもいる。
「これはねえ、グレートデン。体高は五十八センチから六十二センチ。体重は五十三キロから六十八キロ。主に番犬と軍用犬に使われているんだ」
 体じゅうにはんてんのある大きな犬の絵を指差しながら、拓哉が説明してくれた。
「ふーん」
 雄治は、拓哉が詳しいのに感心してうなずいた。
「これはシェトランドシープドッグ」
「えっ、コリーじゃないの?」
「ううん、コリーを小型にした犬なんだ。やっぱり牧用犬だけどね」
「へーっ」
「そう見えないかな?」
 拓哉は少し不安そうに、急いで別のページをめくった。
「こっちがコリー。シェトランドシープドッグにくらべると、足が長いんだ」
「うん、そんなような気もするな」
 雄治がそういうと、拓哉は安心したようにニカッとわらった。拓哉がわらうと、たれぎみの細い目はぜんぜんなくなってしまう。
 拓哉は一頭ずつ順々に指差しながら、いろいろな犬について教えてくれた。
 でも、その説明は、グレートデンの時と同じように、ひとつの型にはまっている。なんだか、ボタンを押すとおしゃべりするロボットみたいだ。もしかすると、図鑑かなにかを丸暗記しただけなのかもしれない。
「どうして、みんなベロを出して、しっぽを振ってるんだ?」
「えっ! ああ、そうした方が、本当に生きてるように見えるんだよ」
「ふーん?」
 雄治が首をひねっていると、拓哉はポケットからチビた3Bのえんぴつを取り出した。そして、ノートの余白に、さっさと犬の絵を書き始めた。
 シェパードのようだ。どうやら拓哉は、シェパードの絵が一番得意らしい。ノートにもたくさん出てくる。
 そして、口を閉じしっぽを動かさない絵と、舌を出してうれしそうにしっぽを振っている絵とを、あっという間にかきあげた。
 だんぜんしっぽ振りの方がいい。
「ほんとだな」
 雄治が今度は心からそういったので、拓哉はうれしそうに顔をクシャクシャにした。

「ユウちゃん、これできる?」
 拓哉は、一本の鉛筆を両手の親指と人指し指の間にはさんで、雄治に向かって突き出した。えんぴつの上に両手の親指を出して、てのひらを合わせている。
「何だよ?」
「ハイッ!」
 拓哉は、いきなり大声で気合をかけた。
 次の瞬間、拓哉は両方のてのひらを、逆方向にグルリとまわした。
「あっ」
 いつの間にか、両手の親指が鉛筆の下に移動している。
「ハイッ!」
 拓哉はもう一度気合をかけて、てのひらをグルリとまわした。今度はもとどおりに、両手の親指がえんぴつの上にきている。
「やってみる?」
 拓哉はそういって、鉛筆をさしだした。
 雄治は受け取った鉛筆で、同じようにやろうとしてみた。
 でも、ぜんぜんうまくいかない。手がグチャグチャにこんがらがってしまう。
「えーっ? もう一度やってみてよ」
「うん。ハイッ!」
 拓哉は得意そうな顔をして、この手品を何度も繰り返した。雄治はジーッと、拓哉の手先を見つめている。
 でも、なかなかコツがわからなかった。
「ス・ロ・ー・モ・ー・シ・ヨ・ン」
 最後に拓哉は、雄治にもコツがわかるように、ゆっくりとやってくれた。
「なーんだ。簡単じゃないか」
 雄治があっさりとやってみせると、拓哉は少しだけ残念そうな顔をしていた。
 拓哉は鉛筆をしまうと、今度はポケットから消しゴムを二つ取り出した。それを両手にひとつずつ持って構える。
「ハイッ!」
 例の気合とともに、次の手品が始まった。

その後も、拓哉はえんえんと手品を続けていた。
 しかし、得意なネタがつきてきたのか、しだいにつまらなくなっている。
 雄治は、ときどき拓哉から目を離して、窓の外をながめた。
 外はすっかり暗くなっている。かすかに見える見知らぬ風景が、急に不安に感じられてきた。
 雄治が興味を失うのを恐れるかのように、拓哉は次々に新しい手品を繰り出していた。

 六時四十分ちょうどに、終点の千葉駅に到着した。塾では、ちょうど一時間目の算数がおわったころだ。
 電車がとまるのをまちかねていたように、乗客はわれ先にと降りていった。みんな足早に急いでいる。
 そのまま車両に残っているのは、もちろん雄治と拓哉だけだ。ガランとした車内は、急にさみしくなってしまった。
 窓越しに、別のホームにも電車がとまっているのが見えた。きっと、そっちが先発に違いない。
「行こう」
 雄治は拓哉を誘って電車を降りると、階段に向かって走り出した。

 帰りの電車は、驚くほどすいていた。六両編成全体で、雄治と拓哉の他には、五、六人しかお客が乗っていない。
 六時四十八分発。
 雄治たちの駅には、八時少し前に着くことになる。塾から帰る時刻とピッタリなので、雄治にはちょうどよかった。
 雄治たちは、誰もいない三両目に乗り込んだ。
「ヤッホー!」
 拓哉はすぐに靴を脱いで座席にあがると、そこからつりかわへ飛びついた。
 両手でぶら下がり、足をぶらぶらさせる。半ズボンからシャツがはみでて、おへそまでまる見えだ。
 雄治の方は座席に乗らなくても、ちょっとジャンプすればつりかわに手が届く。拓哉のよこで同じように足をぶらつかせてみた。
「よいしょっと」
 拓哉はつりかわの位置まで腰を引き上げると、あざやかに前転をしてみせた。最近、運動不足で太り気味の雄治には、とてもそんなまねはできない。
 ここからは、拓哉の一人舞台になった。
 両手で交互につりかわにつかまりながら、まるでうんていでもやるように車内を移動してみせた。
 はじまでたどり着くと、こんどは左右をつなぐパイプを器用に伝わって反対側へ移る。そして、またうんていで雄治のそばまで戻ってきた。どうも、いつもやり慣れているって感じだ。
 拓哉がポンと座席に飛びおりると、パッとホコリが舞いあがった。

「ユウちゃん、見てて、見てて」
 拓哉はある駅についたときに、ホームへとびだしていった。
 ドアから顔を出してみると、電車の先頭へむかって走っている。
 発車のベルが鳴り出した。
 すると拓哉は、二両ほど前のドアに、急いでとびこんだ。
「なんだよ?」
 車内通路をもどってきた拓哉に、雄治はたずねた。
「うん、停車中にどこまでいけるかためしてるんだ」
 まだ少し息をはずませながら、拓哉はそうこたえた。
「よーし。それなら競争しよう」
 これなら雄治にもできそうなので、はりきっていった。
 電車が、次の駅のホームに滑り込んでいく。
 しだいにゆっくりになって、やがて完全に止まった。
 シュッ。
 ドアが開くと同時に、二人は外へ飛び出していった。どこまで遠くのドアに行けるかの勝負だ。
 リリリリリ……。
 ホームには、発車のベルが鳴り響いている。すぐに雄治が少しリードした。鉄棒はだめだけれど、かけっこなら自信がある。
 ベルが鳴りやんだと同時に、雄治はすぐそばのドアに飛び込んだ。
 しかし、拓哉はそのドアには入らずに、通りすぎていく。
 ドアがしまる。その瞬間、拓哉は一つ先のドアを、スルッとすり抜けていた。
「勝った、勝った」
 拓哉は大喜びだ。
(クソーッ。まるでサルみたいに、すばしっこいやつだな)

 次のホームでは、雄治は作戦を変更した。
 拓哉を先に行かして、後ろにつける。そして、拓哉がドアに入ろうとしてから、全速力で追い抜いて、次のドアから乗ろうというのだ。
 拓哉は、後ろにピタリとくっついた雄治を少しも気にしないで、マイペースで走っている。拓哉より足の速い雄治は、余力充分だ。
(よし、これならラストスパートで勝負できる)
 ……リリリリ。
 ベルが鳴りやんだ。
 しかし、拓哉はドアに入ろうとしなかった。雄治は不安になって、スビードをゆるめた。
 シュッ。
 ドアの音と同時に、雄治は車内に飛び込んだ。
拓哉は、まだけんめいに次のドアに向かっている。
 いくらなんでも、これは無理だ。ドアは拓哉の目の前で、完全にしまってしまった。
 ぼうぜんとしている拓哉を残して、電車はゆっくりと走り出した。
「次の駅で待ってるぞーっ」
 雄治はけんめいに、口の形で拓哉に知らせようとした。拓哉は不安そうな顔で、こちらを見送っている。

 約束どおりに、雄治は次の駅で電車を降りると、拓哉がやって来るのを待っていた。
 ようやく次の電車が来た。
 でも、拓哉は乗っていなかった。
 その次の電車にも、やっぱりいない。
(拓哉のやつ、しょうがないな。あの駅でまだ待ってるのかなあ?)
 どうやら、雄治のいったことが、わからなかったらしい。
 とうとう雄治は、ひとつ前の駅へ戻ってみることにした。
 雄治を乗せた下り電車が動き出した時、上りにも次の電車が入ってきた。
「あっ!」
 拓哉がその電車に乗っているのに気づいて、雄治はびっくりしてしまった。
 でも、どうすることもできない。
 拓哉は上り電車を飛び降りると、雄治の乗っている下り電車をけんめいに追いかけ始めた。
「拓哉っ! そこで待ってろよ。すぐ戻ってくるから」
 雄治は、今度は窓を開けて大声で叫んだ。冷たい十二月の夜の空気が、ドッと車内に押し寄せてくる。
 拓哉はようやく走るのをやめると、こちらに向かって大きくうなずいた。
 雄治は窓を閉めながら、そばにすわっている人工毛皮のえりの付いた服を着たおばさんが、めいわくそうに顔をしかめているのに気づいた。

 拓哉との行き違い騒動のために、雄治たちがもとの駅にたどり着いたのは八時半を過ぎていた。ふだんなら、もう家へついている時間だ。
雄治は拓哉へのサヨナラもそこそこに、家に向かって走り出そうとした。
「ユウちゃん」
 拓哉が大声でよびとめた。
「なんだよ?」
 雄治が振り返ると、拓哉はニッコリ笑いながらさけんだ。
「明日も遊ぼうよ!」
 雄治はびっくりして、しばらく拓哉の顔をみつめていた。
「うん」
 やがて雄治は小さくうなずいた。
「ユウちゃん、バーイ」
 拓哉はそういうと、反対方向へ走っていった。
(明日も遊ぼうよ!)
 拓哉の言葉を頭の中で繰り返しながら、雄治は家へ急いだ。

 次の朝、雄治が教室へ入っていくと、まっさきに拓哉がわらいかけてきた。
(明日も遊ぼうよ!)
 昨日の拓哉のことばがよみがえってくる。
 でも、雄治はぎこちない笑顔をうかべて、目をそらしてしまった。拓哉との約束を、すっぽかすつもりだったからだ。
 昨日の晩、家に帰ってから、パパとママに、雄治はこっぴどくしかられていた。塾に行かなかったことが、塾からの連絡でばれていたのだ。
今日は、もうとてもサボれない。
 授業中も、時々、拓哉は雄治の方を親しげに見ていた。
(今日も遊ぼうよ!)
 拓哉の顔が、そういっているように思えてならなかった。雄治は、そのたびにすぐに目をそらしてしまった。
 でも、雄治にははっきりと約束をことわることはできなかった。拓哉のがっかりする顔を見る勇気がなかったからだ。
 休み時間には、雄治は拓哉と顔をあわせないように、他のクラスへ行ったり、ふだんはめったに行かない図書室をのぞいたりしていた。拓哉に、昨日した約束の念をおさせないためだった。
 ようやく、学校が終わった。雄治にとって、すごく長く感じられた一日だった。
「先生、さようなら」
「さよなら」
 みんなが、担任の先生にあいさつをしている。雄治だけは、帰りのあいさつもそこそこに、ランドセルをつかんで教室をとび出していった。拓哉につかまらないためだ。
 そんな雄治を、拓哉はふしぎそうな顔をして見送っていた。

 四時になると、雄治は塾へ行くために家を出た。いつもより一時間も早い。ふだんなら、ギリギリまでテレビを見ている。ママにせかされてから、いやいや出かけるのだ。これも、駅で拓哉と顔を合わせたくないからだった。
 塾の教室に入れるのは、五時半からだ。これでは、一時間近く、塾の前の道路で待たなければならない。
(それでもかまわない)
と、雄治は思っていた。
 いつものように、例のパン屋で肉まん二個とカレーパン一個を買った。
 でも、今日はすぐには食べないで、店を出てそのまま改札口に向かった。
 頭上で、ちょうど上り電車が到着する音が聞こえる。雄治は、急いで階段を三段飛びでかけ上がっていった。
「ヤッホー」
 いきなり声をかけられた。
 いた。なんと拓哉が、もう来ていたのだ。
 雄治はぼうぜんとして、ホームに立ちつくした。
 上り電車は雄治を残したまま、さっさと行ってしまった。
「ユウちゃん、今日の方が長く遊べるね」
 拓哉は、ニコニコと笑いながらいった。
「食べる?」
 雄治は、そんな拓哉に肉まんを一個手渡した。
「えっ、いいの?」
 拓哉は肉まんを受け取りながら、目を輝かせている。
 そんな拓哉を見ながら、雄治は、困ったような、でもちょっとだけうれしいような気持ちがしていた。


明日も遊ぼうよ!
平野 厚
平野 厚
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスクマン、最後の日

2020-03-21 09:28:21 | 作品
「ヒロちゃん、たいへんだ」
 朝、学校へいくと、ブンちゃんがすぐにとんできた。いつも陽気なブンちゃんが、こんなに真剣な顔をしているのはめずらしい。ただでさえ丸いほっぺたが、不服そうにプーッとふくらんでいる。
「なんだい、たいへんって?」
 ぼくがランドセルをおろしながら聞き返すと、
「それが、マスクマンが、来月、最終回になっちゃうんだって」
 ブンちゃんは、世界の破滅を知らせるかのような深刻な調子で話した。
「えーっ! ほんとかよお」
 ぼくも、びっくりして飛び上がった。
 マスクマンといえば、三年前、ぼくが一年生のときに、放送が開始されて以来、最高の人気をほこるテレビアニメだ。
 ふだんはドジでマヌケだけど、いざという時にはすごい力をはっきするマスクマンは、みんなに圧倒的に支持されている。
 毎週日曜日の朝九時三十分からマスクマンを見るのは、ぼくたち小学生の男の子にとっては、かくことのできない習慣になっていた。
「なんで、最終回になっちゃうんだろ?」
 横から、かんだかいボーイソプラノで、クリちゃんが口をはさんだ。
ブンちゃんが大声を出したんで、まわりには、クラスの男の子たちが集まってきている。みんなマスクマンの熱心なファンばかりだ。
「マンネリしたからじゃないの」
 細谷くんが、訳知り顔で答えた。おかあさんがブティックのオーナーなので、今日も「コムサ・デ・モンド」のジャケットで、ビシッときめている。
「どうしてさ。視聴率だって、まだ高いんだぜ」
 ぼくはムッとして、細谷くんをにらみつけてやった。
「ふふん、そんなんじゃないんだよ。マスクマンのキャラクター商品の、売れ行きが落ちてきたからなんだってさ。だから、おかしやおもちゃの会社じゃ、新しいヒーローが必要なんだよ」
 細谷くんは、得意そうに説明した。
「ふーん、なるほど」
 みんなも、感心したようにうなずいていた。
(キャラクター商品の売上げが落ちたからって、何だっていうんだ)
 ぼくはムカムカして、まるで小さな大人のような細谷くんの顔に、一発くらわしてやりたくてたまらなかった。

(マスクマンが終わっちゃうなんて!)
 その晩、ぼくはベッドにねころびながら、昼間のことを思いだしていた。
 もう最終回をいれても、あとたった三回しか見られない。
 真の格闘家をめざしていたマスクマン。愛犬チャッピーとともに、強敵を求めて世界中を武者修行していた。
 毎回、いろいろな敵を倒してきた。
 中国の怪人、チャイナマスク。アフリカの強豪、マサイファイター。フランスの伊達男、エッフェルマン、……。
そして、永遠のマスクマンのライバル、ロビンキッド。彼とは、数々の名勝負を繰り広げてきた。
 地球の破滅をねらうデビルマスクとの長い戦い。デビルマスクが送り込むさまざまな刺客を、死闘のすえ破ってきた。
 そして、プリンセスリリーへの恋。何回も、もう少しでうまくいきそうになった。
 でも、いいふんいきになると、いつもマスクマンがどじなことをやってだめにしてきてしまった。
 一年生のときからずっと使っているぼくの下じき。ショッピングモールの広場で、はじめてマスクマンショーを見たときにもらったものだ。
 ぼくは、ランドセルの中からそっと下じき取り出してみた。その時にしてもらったサインは、もうすっかりうすれてしまっている。
 去年の子ども会のクリスマス会。かくし芸大会のときに、三年連続でマスクマンのものまねをした。
「まったくヒロキは、ワンパターンなんだから」
って、みんなに笑われてしまった。
 そして、今年のぼくの誕生日。マンガのとくいなマユミさんが、色紙に描いてくれたマスクマンの似顔絵。
そのとき、マユミさんの横顔が、
(プリンセスリリーに、似てるな)
って、思ったっけ。マユミさんの描いてくれた似顔絵は、机の前に大事に飾ってある。
 この三年間、どんな時も、マスクマンはぼくと一緒にいた。
(ああ、あれは、マスクマンが、デビルマスクと戦った時だな)
(あの時は、マスクマンとロビンマスクが初めてであった時だ)
 ひとつひとつの思い出が、みんなマスクマンと結びついて思い出されてくる。
(マスクマンのいない生活なんて、とても考えられない)
 でも、もうすぐ終わってしまうんだ。
(なんとしてでも、マスクマンの最後だけは、見届けなくては)
 壁にはられた大きなポスターから、マスクマンはいつものように笑顔を送ってくれていた。

「それでは、この通知を家の方に渡してください」
『二学期の授業参観日について』
 プリントの一番上に、そう書いてあった。
「ふーん」
 興味がないので、ろくに読まずに机の中につっこんだ。
「えーっ!」
 最初に叫んだのは、ブンちゃんだった。
「そんなあ!」
「ひどいやあ!」
 たちまちクラスの男の子たちのあいだに、悲鳴のような叫び声がおこった。
 わけがわからずに、ぼくがキョロキョロしていると、
「ヒロちゃん、参観日の通知を読んでみろよ」
と、ブンちゃんが教えてくれた。
 あわてて机の中から、すこしクチャクチャになった通知を出してみた。
「あーっ!」
 思わず、ぼくも声をあげてしまった。
 そこには、『授業参観日 十月三日(日)』と書かれていたからだ。
 そう。その日こそ、マスクマンの最終回の放映日なんだ。
「どうしたんだ、静かにしろ」
 教壇から、佐藤先生がどなった。
「先生、授業参観の日はもう決まっちゃったんですか?」
 おもいきって席を立つと、先生にたずねてみた。
「そうだよ、書いてあるだろ。十月三日、日曜日って」
「だって、先生。その日は、マスクマンの最終回の日ですよ」
 ぼくがそういうと、他の男の子たちもみんなうなずいている。
「えっ?」
 先生はなんのことだかわからないようで、しばらくポカンとしていた。
「……、フ、……、フアッハハッハー」
 やがて先生は、たいこばらをつきだして、大声でわらいだした。
「何を言い出すのかと思ったら、ばかばかしい。そんなことで、みんなさわいでいたのか。だれかの家にDVDレコーダーかブルーレイレコーダーがあるだろ。そいつに録画してもらって、ダビングしてもらえ」
 先生は、またさもおかしそうにわらいだした。
(まったくわかってないなあ)
 ぼくは席にこしをおろしながら、そう思った。
 もちろんぼくだって、最終回はブルーレイにとって、永久保存版にするつもりだった。そのためのディスクだって、もう用意してある。
 でも、放映されたその時に見なきゃ、ぜんぜん意味がないのだ。
 十月三日、午前十時。
 それが、ぼくたちが、マスクマンとサヨナラするときなんだ。これを見のがしたら、ファンだなんていえやしない。
(くそーっ、よりによって、最終回の日が、授業参観日だなんて)
 ぼくは、くやしくってたまらなかった。
(先生たちが子どものときには、アニメってなかったのかなあ)
 ぼくは、授業をはじめた佐藤先生をながめながら、そんなことをかんがえていた。
(いや、待てよ。そんなことはない)
 いつか佐藤先生は、ゆでたまごの「キン肉マン」について話してくれたことがあったのだ。そのとき、子どものころにキン肉マンがどんなに人気があったか、先生は目をキラキラさせながら熱心にしゃべっていた。
ぼくは、
(キン肉マンって、ちょうどぼくたちにとってのマスクマンのようなものなんだな)
って、思ってその話を聞いていた。
(佐藤先生は、そのころの自分の気もちを、もう忘れてしまったのだろうか)

 最終回までの二回の放送で、マスクマンのストーリーは、バタバタとかたづいていった。
 ついに宿敵デビルマスクをたおし、世界の平和は守られた。
世界マスクチャンピオンの座は、親友のロビンキッドにゆずられることになった。
あこがれのプリンセスリリーには、ふられつづけたままでおわるようだ。
 そして、さいごにして最大のなぞが残った。
 それは、マスクマンのすがおだ。予告編によると、どうやら最終回であきらかになるようだった。
 マスクマンのすがお。これについては、いろいろな説がある。
 アイドルなみのイケメン説。これはやっぱり少ない。マスクマンのひょうきんな性格には、ハンサムな顔はあまりにあわない。
 ギャグまんが風のおもしろい顔。この説を支持する友だちは多いけれど、それではあたりまえすぎておもしろくない。
 そのほか、「子どものころに悪人にさらわれて、ふためと見られない顔にされた」とか、「マスクの下もマスク、その下も、そのまた下もマスクで、ラッキョウみたいになっている」とか、「実は、マスクマンは女で、体だけが男に作りかえられた」とか、さまざまなうわさ、おくそく、デマなどが流れている。
 そのマスクマンのすがおが、最終回のラストシーンであきらかになるというのだ。
(あーあ、せめてラストシーンだけでも、見られないかなあ)
 ぼくは、思わずためいきをついた。

 マスクマンの最終回、そして、授業参観日がいよいよ明日にせまった。
「ヒロちゃーん、電話よお」
 トイレに入っていたら、おかあさんがよぶ声がする。
「ここだよ」
 ドアをちょっとだけあけてこたえた。
「あら、まだ入っていたの。長いわねえ」
 おかあさんが、あきれたような声を出した。
我が家では、ぼくのトイレは長いので有名だ。ぼくは、この狭いところで漫画や本を読んだりして、ゆっくりするのが好きだった。
「井上くんからよ」
 おかあさんは、すきまから子機をわたしながらいった。井上くんというのは、ブンちゃんのことだ。
「もしもし」
「ヒロちゃん、もう絶望だ」
 いきなり、ブンちゃんの泣き声がきこえてきた。
「どうしたんだい?」
「もうマスクマンが見られない」
「………」
「ママにばれちゃったんだ」
 ブンちゃんの声は、悲鳴のようにかんだかくなっていた。

 とぎれとぎれにいう、ブンちゃんの話をまとめるとこうだ。
どうしても最終回を見たかったブンちゃんは、仮病をつかって授業参観日を休む決心をしていたようだ。そのために、二、三日前から、コンコンとセキのまねをしたり、「あーあ、なんだか熱があるみたい」と、つぶやいたりしていたらしい。
 でも、さっきブンちゃんのママに、ズバリいわれてしまったのだ。
「文彦(これがブンちゃんの本当のなまえだ)。仮病をつかって、マスクマンを見ようったって、だめだからね。明日は、絶対に学校へ行かせるよ」
(ブンちゃん、そこまで思いつめていたのか)
 でも、それも無理はない。ブンちゃんのニックネームは、「マスクマン博士」。ぼく以上に、マスクマンに夢中なのだ。
 なにしろ、マスクマンの今までの放送を、すべてブルーレイにとって保存していて、「マスクマンがバッファローマスクにけがをさせられたのは第47回」だとか、「ロビンキッドがマスクマンと仲間になったのは第63回」だとか、めったやたらと記憶している。
 ぼくたちは、ときどきブンちゃんの家で、「マスクマン一挙上映大会」をやって、盛り上がっていた。
 すっかり泣き声になっているブンちゃんをなぐさめながら、ぼくは頭のかたすみで別のことを考えていた。
(そうか、仮病という手があったか?)
 ぼくはよくおかあさんに、「ヒロキは元気だけがとりえね」と、いわれている。
なにしろぼくは、入学以来、一度も学校を休んだことがないほどなのだ。だから、仮病をつかって休むなんて、ぜんぜん思いつかなかった。
 でも、かえってそんなぼくだったら、この手は使えるかもしれない。
(いかん、いかん)
 ぼくはだれも見ていないのに、あわててひとりで首をふった。こんなに悲しんでいるブンちゃんを裏切って、ひとりだけでマスクマンの最終回を見るわけにはいかない。それに、他の友だちだって。
 そのとき、ぼくは体の中に、ムクムクとファイトがもりあがってくるのを感じた。
(よーし、絶対に、マスクマンの最終回を、みんなで見てやるぞ)

『マスクマン最終回対策本部』
 黒のマジックでそう大きく書かれた紙が、ドアにはってある。
 ドアをあけると、そこは、……。
 マスクマン一色の世界だった。
 壁という壁には、マスクマンのポスターやペナント、ステッカーなどがびっしりとはられていた。
 部屋のすみには、マスクマン人形、変身セット、ぬいぐるみなどがずらりとならんでいる。
 そして、机の上にも、マスクマンけしゴム、下じき、クリップ、ふでばこ、ものさし、…。
 マスクマンのキャラクターがついているものが、ごっそりとのっていた。
 そう、マスクマン博士こと、ブンちゃんの部屋は、マスクマンのキャラクター商品にうずまっていたのだ。
 ぼくは、あのあとトイレから、クラスの男の子たちに電話をかけまくって、みんなをブンちゃんの家に集めていた。
 なんにでも名前をつけたがるブンちゃんいわく、『マスクマン最終回対策本部』。
 たしかに、この部屋ほどそれにふさわしい場所を、ぼくは他に知らない。
 あつまったメンバーは、クラスでも熱心なマスクマンファンばかり。
 まずは、部屋の主のブンちゃん。学級委員で、クラスで一番でかいリョウくん。キャンキャンと、声のかんだかいクリちゃん。いつも物静かな加瀬くん。女の子みたいにかわいい顔をしているユウたん。それに、どういうわけか、細谷くんまでがきていた。「マキハウス」の、ピンクときいろと赤のはでなトレーナーをきて、すわっている。
 でも、細谷くんに電話したおぼえは、ぼくにはない。
(へんだなあ。だれが連絡したんだろう。でも、まあいいか)
「これでも、飲んでよ」
 ブンちゃんが、2リットル入りのペットボトルのコーラと人数分の紙コップをもってきてくれた。
「おい、つぐぞ」
「押すなよ、こぼれるぞ」
「ほーら、こぼれた」
「ブンちゃん、ティッシュ、ティッシュ」
 ぼくたちは、それを飲んだりこぼしたりしながら、さっそく作戦を考えはじめた。

「こんなの簡単、簡単」
 そういって、最初に提案したのはリョウくんだ。クラスでいちばん背が高く、まだ四年生だというのに、鼻の下にはうっすらひげまではやしている。いったい何を食べれば、こんなにでっかくなれるんだ。
 リョウくんの作戦というのはこうだ。
 一時間目が終わったら、だれかが仮病を使って、佐藤先生を保健室へ連れ出す。そのすきに、みんなで学校から逃げ出そうというのだ。
 どうせ後で大目玉をくうだろうけれど、
「みんなでおこられりゃ、こわくない」
ってのが、リョウくんの意見だった。
「うーん、『マスクマン大脱走作戦』だな」
 ブンちゃんが、すぐに作戦の名前を考えた。
「でも、うまく逃げ出せるかなあ」
 クリちゃんが、首をひねってる。
「うん。おとうさんやおかあさんたちが、もう学校に来てるころだよ」
 ぼくにも、この作戦がうまくいくようには思えなかった。授業参観は二時間目からだけど、もう校門のあたりや廊下は、おとうさんやおかあさんたちで、ごったがえしているだろう。とても、そのあいだをすりぬけて、学校から逃げ出せそうにはない。
「それに、最初に仮病を使うのは、だれがやるんだよ?」
 細谷くんがそう言うと、みんなが隣の子を見ながら、もじもじしだした。
 たしかに、『マスクマン大脱走作戦』がうまくいったとしても、その子だけは、マスクマンの最終回を見られない。ただおこられるだけの、損な役目だ。
「おれ、やだよ」
「おれだって」
 みんなが口々に言っている。
「いいだしたのは、リョウくんだろ。だったら、リョウくんがやるべきだよ」
 すかさず細谷くんが言った。
「なんだとお」
 細谷くんになぐりかりそうになったリョウくんを、なんとかみんなで押しとどめた。

「いい考えがある」
 次に提案したのは、放送委員のクリちゃんだった。ただでさえかんだかい声が、興奮のせいか、完全にキンキン声になっている。
「ヨーレリホー」
 すかさずリョウくんが、裏声をまねてからかった。
「放送室にテレビがあるだろ。あれと全校放送用のマイクを、つないじゃえばいいんだよ。そうすりゃ、画面はだめでも、音だけならOK。前にもやったことあるよ」
「グッドアイデア。『マスクマン放送室ジャック大作戦』と呼ぼう」
 ブンちゃんが、また名前をつけた。
「ふふん。そんなの、すぐに先生にとめられちゃうよ」
 細谷くんが、馬鹿にしたように口をはさんだ。
「だから、放送室にだれかがたてこもってさ」
「だれかって、だれだよ」
「………」
 また、みんなはおたがいの顔を見まわしているだけで、自分から名乗り出ようとするものはいなかった。どうやら、この中には、みんなのために自分を犠牲にするような、りっぱな人はいないようだ。

「あーあ、休み時間に学校から抜け出せればなあ。少しだけなら、走っていって見てこられるのに」
 今までだまっていた加瀬くんが、ポツリといった。
「なんで?」
 ぼくがたずねると、加瀬くんはあっさりと答えた。
「だって、ぼくんち、学校のとなりだよ」
(そうかあ)
 忘れていたけれど、加瀬くんのうちは、学校の東側にある二階だての新しい家だった。校庭に面して、大きなベランダがある。
 と、その時、ぼくの頭の中に、すごいアイデアがうかんだ。
「みんな、いい考えがある。加瀬くんの家のベランダにテレビを出して、マスクマンをうつしてもらうんだ。それを見ればいい」
「すげえ。『マスクマン中継大作戦』かあ」
 またまた、ブンちゃんが名前をつけた。
「でも、教室から見えるかなあ?」
 クリちゃんが、首をひねりながらいった。
「そりゃ無理だよ。でも、二時間目の休み時間があるだろ。その時、校庭に出て加瀬くんちのそばまで行けば、ぜったい見えるよ」
「うん、そりゃそうだな」
 リョウくんも、めずらしく感心したようにうなずいている。
 二時間目は九時四十五分におわる。それから十五分間が休み時間だ。それなら、「マスクマン」の後半からは見られることになる。
「九時四十六分ごろから、後半がはじまるんだよ」
 マスクマン博士のブンちゃんは、さすがにくわしい。
「やったあ。それならラストシーンは見られるじゃないか」
 リョウくんは、立ち上がってガッツポーズをしてみせた。
「そうそう。マスクマンのすがおが、ばっちり見れるよ」
 クリちゃんも、うれしそうなキンキン声を出している。
「よーし、たとえ雨がふっても、ぜったいに見にいくぞ」
 ぼくは、はりきって大声で叫んだ。
「待ってよ、待ってよ。だれがベランダでテレビをうつすの? おとうさんもおかあさんも、学校へ来ちゃってるんだよ」
 あわてて加瀬くんが、口をはさんだ。
「はははっ、やっぱりだめか」
 細谷くんが、なんだかうれしそうに言った。
「えーっ、だれもうちにいないの?」
 細谷くんを無視して、ぼくは加瀬くんにたずねた。
「中三のアニキがいるけど、いつも日曜は昼ごろまで寝ているし、………」
 なぜか、加瀬くんは口ごもっている。
「だいじょうぶだよ。おにいさんの方がかえっていいんだよ。頼めば、きっと手伝ってくれるよ」
 ぼくがはげますように言ったのに、
「ダメダメ。すげー、いじわるな奴なんだ」
 加瀬くんはそう言うと、顔をしかめた。いつも兄弟げんかで、よっぽど痛めつけられてるらしい。
「そこんとこ、なんとか頼めないかなあ」
 ぼくは、ねばって言った。
 加瀬くんはまだ首を振っていたけど、ぼくたちはおにいさんに頼みにいくことにした。

 トントン。
 ドアをノックしても、中からは返事がない。
 トントン。
 またノックしてみた。
「ダメダメ、そんなやさしいやり方じゃ。きっと昼寝でもしてるんだよ」
 加瀬くんはそう言うと、フーッとひとつ大きく息を吸い込んだ。
「起きろーーっ。ショウやろーーっ」
 いきなりすごい声でどなり始めた。
 ドンドン、ガンガン。
 家がこわれるんじゃないかと思うぐらいのいきおいで、ドアをたたいている。
「起きろーーっ!」
 たしかに、おかあさんたちが留守で、家には他に誰もいない。
 でも、これじゃあ、外からだって聞こえるかもしれないほどの大声だった。
 いつもはおとなしい加瀬くんからは、とても想像できないようなどなり方だ。
 ぼくたちは感心して、真っ赤になってどなっている加瀬くんの横顔を見つめていた。
 それでも、部屋の中からはまったく反応がなかった。

「いないんじゃないのか?」
 五分ぐらいして、リョウくんがそう言いかけた時だった。
 ガチャリ。
 ようやくドアの鍵を開ける音がした。
 中から顔を出したのは、冬眠中を起されたクマ。
 じゃなかった。加瀬くんのおにいさんだった。
  ボサボサの髪の毛に、薄汚いぶしょうひげ。 目はまだ半分閉じたままだ。
「うっせえなあ。チビスケ」
 すごくふきげんそうに、加瀬くんをにらみつけた。
「ショウちゃん、頼みがあるんだ」
 驚いたことに、加瀬くんはさっきとはうってかわってていねいな口調だ。もしかすると、おにいさんの復讐を恐れているのかもしれない。
「なんだよ、チビスケ、…」
 その時になって、おにいさんは、ぼくたちが一緒にいることにようやく気がついた。
「入れよ」
 おにいさんはそう言って、ドアを大きく開いた。

 おにいさんの部屋は、南と西に窓のある、四畳半ぐらいの明るい部屋だった。ベッド、勉強机、本棚などが、所狭しとならんでいる。
でも、うまいことには、南側の窓から例のベランダへ出られるようだ。
(うん、テレビはここから出せばいいな)
 ぼくは、窓からベランダの様子をうかがった。
 おにいさんは椅子に腰をおろすと、みんなの方にあごをしゃくった。
「まあ、かけろよ」
 ぼくたち七人のうち五人は、ベッドにぎゅうぎゅう詰めにならんでこしかけた。すわりきれなかったユウたんと加瀬くんは、床に直接こしをおろしている。ただでさえ狭い部屋に大勢入ったものだから、満員電車の中みたいになってしまった。
「それで、おれに頼みって、なんだい?」
 おにいさんは、ようやく完全に目がさましたようだ。
 でも、まだふきげんそうな顔をしている。
「おにいさん、マスクマンって、知ってるでしょ」
 ぼくが、みんなを代表して話し出した。
 十月三日が、マスクマンの最終回だということ。
 その日に、運悪く授業参観があること。
 でも、どうしてもみんなで見たいこと。
 そして、二階のベランダからの、『マスクマン中継大作戦』について。
 ぼくはベッドから立ちあがって、身ぶり手ぶりをしながら、つばきをとばすようないきおいで、一気にしゃべりまくった。他のみんなも、ぼくを助けるように、一緒にうなずいている。
「………、フフ、フワッハッハッ」
 はじめはまじめそうに聞いていたおにいさんが、突然笑い出した。
「なんだよ、大げさだなあ。録画して後で見ればいいじゃないか」
 おにいさんは、あきれたようにみんなを見まわした。
(だめだ、おにいさんも佐藤先生と一緒だ。いったい男の子はいくつぐらいになったら、こんなにわからずやになってしまうのだろう)
 ぼくはがっかりして、またベッドにこしをおろした。
 と、そのとき、机の横に、大事そうにかざられている古い人形が、目にとびこんできた。そして、それと同時に、さっき加瀬くんがおにいさんのことをショウって言っていたことを思い出した。
(ショウ、加瀬ショウ。そうかあ!)
 ぼくはパッとまた立ちあがると、おにいさんの前に顔をつき出した。
「な、なんだよ」
 おにいさんは、ビクッとして少しうしろに体をひいた。
 ぼくは両手でゆっくりと、前がみをうしろへかきあげていった。そこには、ひろいひろーいぼくのおでこが。
「えっ?」
 キョトンとしていたおにいさんの顔が、ゆっくりと笑顔に変わっていく。
「なんだあ、おまえ。『デコヒロオくん』だったのか」
(やっぱり、覚えてた)
 ぼくが幼稚園のころ、近所の公園で、いつも遊んでくれたおにいさんたちがいた。そのころはとってもとっても大きく感じられたけど、今のぼくたちとちょうど同じ四年生だった。中でも、おでこが広いのと名まえのヒロキをひっかけて、ぼくのことを『デコヒロオくん』ってよんで、かわいがってくれたのがショウくんだった。
 ぼくは、だまって机の横の人形を手にとった。まっかなコスチュームに、必殺のブレインソードを手にしている。
 レッドレンジャー。
 ぼくは小さかったからよく覚えていないけれど、あのころ、一番人気があったヒーローだ。ちょうど今のマスクマンのように。
 ショウくんが、『デコヒロオくん』こと、ぼくと遊んでくれた時も、いつもレッドレンジャーごっこだった。
「わかった、わかったよ。でも、準備はおまえらでやれよ」
 とうとうおにいさんは、少してれくさそうにそう言ってくれた。

「ふーっ」
 みんなはためいきをついた。
 居間にあった40インチの大型液晶テレビは、大きすぎてとてもベランダまで運べそうにない。
「それに、今から運び上げたんじゃ、おかあさんたちが帰ってきたらばれちゃうよ」
 加瀬くんがいった。
「それもそうだな。加瀬くんちに他にテレビはないの?」
 ぼくは、他の部屋をキョロキョロさがしながらいった。
「うん、勉強のじゃまになるって、一台だけしか使ってないんだ。でも、物置に、昔使ってたっていう古いブラウン管のならあるはずだけど」
 ぼくたちは、ドヤドヤと玄関に向かった。
 外に出ると、ものおきはカーポートの向こう側にある。
 ギギギッ。
 さびついた扉を、力持ちのリョウくんがなんとか開けた。
(うわーっ)
 物置の中は、いろいろなものがつまっていた。
 廃品回収に出される古新聞紙やダンボール、使わなくなった三輪車やバギー、…。
 ぼくたちは、入り口近くにあるものをどかして、物置の中をさがしていった。
(あった!)
 テレビは、古いゴルフバッグやバーベキューセットなんかと一緒に、一番奥に置かれていた。
 加瀬くんが生まれる前に使われていたという、29インチのブラウン管テレビは、さすがに古ぼけていた。
 でも、きちんとビニール袋にくるまれていたおかげで、すこしもほこりをかぶっていない。
 ブラウン管テレビは重かったけれど、なんとか七人がかりで、おにいさんの部屋まで運び上げた。こんなときには、力持ちのリョウくんがいたので助かった。
どこかへ出かけてしまったのか、おにいさんはいつのまにかいなくなっている。

「端子、端子と」
 さっそく、窓際にあったテレビの端子に、ケーブルをつないでスイッチを入れた。
 七人がのぞきこむ。
 ザザザー。
 雑音と、たくさんのななめの線がうつっただけだ。
「あれっ?」
 あわてて他のチャンネルに変えてみた。
 でも、やっぱり同じだ。
「ちぇっ、ぶっこわれてるのかな」
 リョウくんが言った。加瀬くんが、さっきのドアと同じように、テレビをガンガンたたきはじめた。
「まって」
 そう言って、みんなをとめたのは、ユウたんだった。すごくおとなしい子で、『マスクマン対策本部』でも、今までいるのかいないのか、わからないぐらいだった。
「このテレビ、きっとアナログしかうつらないんだよ」
「アナログ?」
「うん。テレビ放送は今はディジタルだけど、昔はアナログだったんだ」
「さすがあ。電器屋の息子ーっ!」
 リョウくんがからかうように言うと、ユウたんの顔がレッドレンジャーみたいに真っ赤になった。たしかにユウたんの家は、「技術と信頼の店」、鈴木電器店だ。
「それじゃ、このテレビじゃ、だめなのかあ」
 ぼくががっかりしてそういうと、
「大丈夫だよ。アナデジ変換用のチューナーがあればいいんだ」
 ユウたんは自信たっぷりにいった。
「そんなの、どこにあるんだよ」
「うちにいっぱいころがっているよ。昔、ディジタル放送がスタートするときにたくさん仕入れすぎて売れ残っちゃったんだって。すぐに、取ってくるよ」
 ユウたんはそう言うと、小走りに部屋を出て行った。 

「これでOK」
 ユウたんは壁のテレビ端子とブラウン管テレビの間にアナデジ変換用のチューナーをつないだ。
 そして、アナデジ変換用のチューナーとテレビの電源を入れた。
 みんなは期待してのぞきこんだ。
 でも、やっぱり映像はうつらなかった。
 その代わりに、『接続が悪い』とか『電波が弱い』という表示が出た。
「やっぱり、だめかあ」
 細谷くんが、なぜかうれしそうにいった。
「チェックしてみるよ。加瀬くん、プラスのドライバーかして」
 ユウたんは細谷くんを無視すると、壁のテレビ端子からケーブルをはずして、なれた手つきでコネクタをはずして、中をチェックしはじめた。
「ケーブルはだいじょうぶみたい」
 ユウたんはもとどおりにコネクタをとりつけると、照れたように、そして、少し誇らしげに言った。
 今度は、ケーブルをアナデジ変換用チューナーにだけつないで、反対側を窓の方向に向けた。
「あっ、うつった」
 テレビに一瞬、かすかに絵がうかんだ。
 でも、すぐに消えて電波が弱いことを示す表示に変わった。ユウたんがケーブルのむきをかえるたびに、かすかにうつったり、もとの表示に戻ったりしている。
「テレビもOKみたい」
「へーっ。なんで、つないでないのにうつるの?」
 ぼくは、すっかり感心してたずねた。
「電波は、どこにでも飛んでるんだよ。でも、それじゃ弱すぎるわけ。それを屋根の上のアンテナでキャッチして、増幅、えーっと、強くしてるってわけ」
 ユウたんが、みんなにもわかるように説明してくれた。
「うえーっ。おれたちのまわりにも、電波が飛んでるのかあ」
 リョウくんが、気味わるそうに大きな体をすくめた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。すっごく弱いから、体には影響ないんだよ」
 ユウたんが、少しじまんそうに言った。

「加瀬くん。きみんち、屋根裏部屋ってある?」
 ユウたんがたずねた。
「うん、あるよ」
 加瀬くんはみんなをつれて部屋の外へ出ると、ろうかの天井を指差した。そこには、アルミの枠で囲われた、長方形のふたのような物がついてる。加瀬くんは、先にT字型の金具がついた棒をもってくると、天井のふたの取っ手に引っかけて、グルッとまわしてからひっぱった。
「おっ!」
 おもわず、みんなから声がでた。そこから、スルスルと、おりたたみのはしごがおりてきたからだ。
「忍者屋敷みたい」
 ブンちゃんが、うしろでうれしそうに言っている。
 加瀬くんは屋根裏部屋のあかりをつけると、先頭にたってはしごをのぼりはじめた。ユウたん、リョウくんにつづいて、みんながのぼっていく。
「ぼくは、ここでまってる」
 細谷くんだけは、はしごの下のままだ。どうやら、自慢のトレーナーが、ほこりで汚れるのが嫌らしい。
 ユウたんは屋根裏部屋にあがると、しばらくキョロキョロしていた。そこには、ふとんの大きなつつみや、ホットカーペットの箱、それに加瀬くんたちが小さいころに使っていたベビーチェアやチャイルドシートなんかが、所狭しとおかれている。
「ここかな?」
 ユウたんは、はしごをのぼった正面のかべの前につまれた箱を、かたづけだした。
「やっぱり、あった」
 そこには、人ひとりがかがめばとおりぬけられるぐらいの大きさに、ベニヤ板のかべが切りとってあった。
 でも、切りとられた板は、そのままたくさんのネジで、しっかりととめてある。
「加瀬くん。プラスとマイナスのドライバー。それに懐中電灯持ってきて」
 ユウたんが、おちついた声で言った。

 十六個もついていたネジをぜんぶはずすと、ユウたんはゆっくりとふたをはずしていく。何かが飛び出してきそうで、みんなはジーッと穴を見つめていた。
「わっ!」
 とつぜんうしろから、大声を出した奴がいた。リョウくんだ。
「うわあーっ、ビビったーっ」
 ブンちゃんが、ふるえながら言っている。
 ユウたんは、身体を穴の中に半分つっこんで、懐中電灯をつけた。みんなもうしろからのぞきこむ。
 丸い光の輪にてらされた天井裏は、意外なほどきれいだった。直角に交差した太い柱やはりは、白くピカピカしているし、かべのうらにはられた断熱材も、新品そのものに見える。いちばん太い柱には、神主さんがもつ白いおはらいのようなものが、しばりつけてあった。二階の各部屋の天井には、あちこちにすきまがあって下から光がもれてくるので、意外にもまっくらではなかった。
「さすが、新築の家はちがうなあ」
 リョウくんが、感心したようにいった。
「あったあ!」
 いきなりユウたんが叫んだ。懐中電灯に照らし出されて、奥の方に銀色のボックスが光っている。
 ユウたんは穴から中へ入り込むと、はりを伝わってボックスの方へ行こうとした。
「あーっ!」
 外からのぞきこむみんなが、おもわず大声をあげた。
 ユウたんが足をすべらせて、おっこちそうになったのだ。両手両足ではりにぶらさがって、「ブタのマルヤキ」みたいになっている。手をはなしたら、天井をつきやぶって、下へ落ちてしまうかもしれない。
「しっかり、つかまってろよぉ」
 リョウくんがすばやく中に入って、ユウたんを助けにいった。
 ユウたんのトレーナーを片手だけでつかんで、はりの上にひっぱりあげた。やっぱりすごい力もちだ。
「ユウたん、気をつけろよ」
 うしろから声をかけたぼくにVサインを出して、ユウたんは、こんどはハイハイしながら、銀色のボックスへ近づいていった。
「やっぱり」
 ユウたんは、こちらへむかってケーブルのようなものをさしあげている。
「アンテナからの分配器に、同軸ケーブルがつながってないんじゃ、うつるはずないよ」 
 ここぞとばかりに、むずかしいことばをポンポンいいながら、ユウたんはなれた手つきで、ケーブルを銀色のボックスに取りつけている。
「おーい、うつるかどうか、見てくれーっ」
「うつってるよお」
 下の部屋で待機していたクリちゃんが、うれしそうなボーイソプラノで答えた。
「分配されて電波が弱くなってるかもしれないから、全部のチャンネルをチェックしてくれ」
 ふしぎなもので、いつもはクラスでもまったく目立たないユウたんが、いつのまにかりっぱな電気の専門家に見えていた。

 いよいよ日曜日、マスクマンとさよならする日がきた。
 ぼくは朝おきると、まっさきに部屋のカーテンをあけて、空を見た。いい天気だ。十月の空は、まっさおにはれあがっている。
 昨日、みんなで最後にひとつずつ作った、七人のマスクマンてるてるぼうずが、今ごろ加瀬くんちのベランダで、得意そうな顔をしてぶらさがっていることだろう。
 これなら、『マスクマン中継大作戦』はうまくいきそうだ。いや、明るすぎたときに備えて、画用紙を切り抜いてテレビの画面のまわりにはりつけておいた特製サンバイザーが、力をはっきしそうなくらいだった。
 ぼくは、いつものように朝ごはんを超特急でかっこむと、はりきって登校班の集合場所へいそいだ。
「おはよう」
「おい、ヒロキ。休み時間に、マスクマンのテレビが見られるんだって」
 先にきていた班長の斉藤さんが、ぼくの顔を見るといきなり言った。
「えっ!」
 ぼくは、すっかりびっくりしてしまった。
(だれがしゃべってしまったんだろう)
 先生たちにじゃまされると困るから、休み時間になるまでは、他の人たちには言わない約束だったのに。
 斎藤さんだけではない。登校班の人たちは、みんな知ってるようなのだ。
 学校へつくと、『マスクマン中継大作戦』のうわさは、学校中にひろまっていることがわかった。

「だれがしゃべったんだい?」
 『マスクマン最終回対策本部』のメンバーを集めて、ぼくはたずねた。
「となりのクラスの吉川くんには言ったけど、ぜったいに他にはしゃべらないって、約束させたんだぜ」
 まっさきにいばっていったのは、リョウくんだ。
「えーっと、近所のケンちゃんと清水くんには、言っちゃった」
 クリちゃんも、いつもと違う小さな低い声でいった。
 つづいて、加瀬くんも、ユウたんも、そしてブンちゃんまでが、
「……くんだけだよ」とか、「絶対いわないって、男の約束をしたんだよ」とか、口々にいいだした。
「ふふん。男の約束ってのが、あてにならないんだよなあ」
 細谷くんが、馬鹿にしたようにいった。
「なら、おまえはだれにもしゃべらなかったのかよ」
 リョウくんが、細谷くんにくってかかった。
「ぼく? もちろんだれにも言わないよ」
 細谷くんはそういばっていったけれど、つづけて小さな声でつけくわえた。
「うちのおにいちゃんは、のぞいてね」
「ばかやろー。おまえのアニキだって、うちの学校の六年じゃねえか。それなら、おれたちとおんなじだろ」
 そういってリョウくんは、プロレスのヘッドロックという技で、細谷くんをしめあげはじめた。
 なんのことはない。ぼく以外は、みんながだれかにしゃべっちゃったんだ。『マスクマン中継大作戦』には、すごくたくさんの男の子たちが集まるにちがいない。もうこうなったら、なんとか始まるまでにじゃまがはいらないことを祈るしかなかった。

 一時間目が終わった。ショウくんとの約束では、もうベランダで『マスクマン中継大作戦』の準備がはじまっているはずだ。
 ぼくは、教室の窓から校庭ごしに加瀬くんの家を見た。
(えっ?)
 ベランダにはテレビどころか、ショウくんの姿さえ見えない。七つのマスクマンてるてるぼうずたちが、さびしそうにぶらさがっているだけだ。そして、すぐにそれどころではないことがわかった。ショウくんの部屋は、まだ「雨戸」さえピタッと閉められていたのだ。
「やばい、ショウやろうめ、またねぼうしてやがるな」
 となりで、加瀬くんがうなり声をあげた。昨日の、冬眠中を起こされたクマみたいなねぼけ顔がうかんでくる。
 他のメンバーも、心配そうに集まってきた。
「これは、たいへんなことになりましたねえ」
 細谷くんが他人事みたいに言って、うしろからリョウくんにどやされていた。 
 二時間目が始まるまで、あと六分。とても、加瀬くんの家までいって、おこしてくるひまはない。
「だれか、テレカ持ってる?」
 学校にはスマホや携帯を持ってくることは禁止されている。そのため、今でも公衆電話があった。
「よしきた」
 タイミングよくブンちゃんが渡してくれたテレフォンカードを握りしめて、ぼくは教室を飛び出した。

 廊下は、いつもよりおめかししたおかあさんやおとうさんたちで、すでにごったがえしていた。
「ヒロキ」
 いきなりおかあさんに、声をかけられてしまった。エメラルドグリーンのワンピースに、金のネックレス。とっておきのよそゆきのかっこうだ。
「だめだめ、いそがしいんだから」
 ぼくは、むねの前で両手をバッテンにしてすりぬけた。
「どこにいくの?」
 うしろで、おかあさんがどなっている。
「文彦」
 こんどはブンちゃんのママだ。もう腕をつかまれてしまっている。
 でも、助け出しているひまはない。ぼくたちは、そのまま走り続けた。
「ユウジ、どこへいくんだ」
 ユウたんのおとうさん、「技術と信頼の店」、鈴木電器店のおじさんが立ちふさがっている。今度は、ユウたんがつかまってしまった。
 こうして、ぼくに続いた『マスクマン最終回対策本部』のメンバーは、次々に「敵」の手に落ちていく。
 大人たちをかきわけかきわけ、公衆電話にたどりついたとき、ぼく以外に残っていたのは加瀬くんとリョウくんの二人だけだった。
 
 ルルルル、ルルルル、……、……、……。
 なかなか出ない。やっぱりショウくんは、まだねむっているようだ。加瀬くんにしっかりおこしておくようにたのむのを、わすれたことがくやまれる。
 ガチャ。
 あきらめかかったとき、とつぜん電話がつながった。
「あっ、ショウくん。よかった、起きてくれて」
「バカヤロー、こっちはとっくに起きてるんだぜ。それより、うちのそばの校庭を、先生たちがウロウロしてるのは、どういうことなんだ」
「えーっ!」
「これじゃ、あぶなくって準備ができないぜ」
「うーん、そうだったのか」
 ぼくは、『マスクマン中継大作戦』のうわさが、学校中にひろまってしまったことをショウくんに話した。
「そうかあ。でも、このまま準備をやろうとすると、きっと先生たちにとめられてしまうぜ」
「うーん」
 くちびるをかみしめて考えてこんでいるぼくを、リョウくんと加瀬くんが期待をこめてみつめている。
「そうだ!」
 とうとうさいごの作戦を思いついたぼくは、それをショウくんに説明をはじめた。

「それでは、今日のところで、質問のある人はいませんか?」
 佐藤先生はそう言って、二時間目の授業をしめくくった。教室のうしろやろうかに、二、三十人のおとうさんやおかあさんたちがならんでいるので、先生のことばづかいはふだんとちがってていねいだった。
(しめた!)
 まどの外をよこ目で見ると、校舎にかかった時計は、まだ九時四十二分だ。このままいけば、終了のチャイムと同時に、教室を飛び出せる。ぼくは少し離れた席のブンちゃんと、笑顔をかわした。
 と、そのとき、
「はい、先生」
 なんと手をあげて、わざわざ質問をした奴がいた。
 細谷くんだ。いったい何を考えているんだろう。
(くそーっ、しめころしてやりたい)
 せっかく授業をおわりかけた先生が、また説明を始めてしまった。
(うーっ)
 ぼくはじりじりしながら、先生と細谷くんを交互ににらんでいた。
 ぼくだけじゃない。『マスクマン最終回対策本部』のみんなが、まるでマスクマンが、宿敵のデビルマスクをにらみつけるときのような、おそろしい顔をしている。
 キーンコーン、カーンコーン、…。
 とうとう二時間目終了のチャイムが、なってしまった。先生の説明は、まだ終わらない。
 ワーッ。
 他のクラスの子たちが、校庭に走り出てきた。
「うーっ!」
 とうとうみんなは、本当にうなりごえを出しはじめた。ブンちゃんなんかは、もうなみだぐんでいる。
「そ、それでは、これで二時間目の授業を終わります」
 佐藤先生はそう言って、急に説明をきりあげてしまった。もしかすると、身の危険を感じたのかもしれない。
「きりつ、れい、ちゃくせき」
 リョウくんの超特急のかけ声であいさつをすると、ぼくたちはいっせいに席を立った。
「わーっ!」
 すごいいきおいで飛び出していくぼくたちを、先生とおとうさんやおかあさんたちが、あっけにとられて見送っていた。

 ぼくたちは全速力で走っていた。両どなりにはブンちゃんとクリちゃん、すぐうしろには加瀬くんとユウたんもつづいている。
 廊下をつっぱしり、階段を一気に飛び降りた。
「このやろう。おまえのおかげで五分も損したんだぞ」
 細谷くんも、リョウくんにこづかれながらけんめいに走っていた。
 校庭をつっきって、一直線に加瀬くんの家へむかっていく。ほんとうはバラバラにさりげなく集まるつもりだったけど、もうそんなことはいってられない。
(止められるもんなら、止めてみろ)
 もうすっかりひらきなおった気分だった。
「ヒロキーっ、ガセネタだったじゃねえか」
 校庭の中ほどで声をかけてきたのは、斉藤さんだった。他の人たちと、長なわとびをやっている。
 でも、ぼくは何もいわずにそのそばをかけぬけていった。斉藤さんは、しばらくの間、ぼくたちをキョトンとして見送っていた。
「あっ、そうか!」
 ようやく斉藤さんも気づいたようで、なわをなげすてて走り出した。ほかの人たちも、すぐにそのあとにつづく。

 あっという間に、ぼくたちを先頭に、レミングのむれのような男の子たちの集団ができあがった。みんな、いっせいに加瀬くんの家をめざして進んでいく。
 校庭のはずれ、鉄棒とジャングルジムの間。ついにぼくたちは、目的の場所に到着した。
 ガラッ、ガラッ。
 すぐに、ベランダのガラス戸がいきおいよくひらいた。あの古ぼけた29インチテレビを一人で懸命にかかえて、ショウくんがとびだしてきた。すごい力持ちだ。
 すでに画面には、マスクマンの最終回がうつっている。
ショウくんは、ベランダの手すりの上にテレビをドーンとのせた。そして、うしろからしっかりとささえてくれている。
 まわりには、ぞくぞくと男の子たちが集まっている。あとからきた子たちは、鉄棒の上にこしかけたり、ジャングルジムによじのぼったりしている。
 でも、先生たちのすがたはまだあたりには見えなかった。これなら、終わるまではじゃまはできないだろう。
 ショウくんにはあらかじめ家の中で準備してもらい、ぼくたちが到着したらパッととびだしてうつす。このゲリラ戦法が、最後に思いついたぼくの作戦だったのだ。
「『マスクマン電撃奇襲大作戦』、大成功」
 となりで、ブンちゃんが小さな声でつぶやいていた。

 画面は、すぐにラストシーンになった。ぼくたちのマスクマンは、夕陽にむかって一人で去っていく。それを見送っているのは、かつてのライバルで今は親友のロビンキッド、マスクマンがずっとふられつづけていたあこがれのプリンセスリリー、そしていつも忠実な部下だったラブラドル犬のチャッピーだ。
「マスクマン、いかないで!」
 リリーが前へ進み出て叫んだ。
 マスクマンはふりむくと、ゆっくりと自分のマスクに手をかけた。
(いよいよだ)
 とうとうマスクマンのすがおが、明らかになるのだ。ぼくはいきをとめて、画面を見つめた。まわりのみんなも、シーンとしずまりかえっている。
 ゆっくりとマスクがはずされていく。
 しかし、夕陽を背にしているので、画面が逆光になっていてよく見えない。
 ぼくたちは、おもわず目を細めて画面を見つめた。
 ついに完全にマスクがはずされた。
 しかし、そのしゅんかん、画面はピカーッと強く光って、何も見えなくなった。つづいて、画面いっぱいに大きく『END』とでてしまった。
「あー、あっ!」
 みんなは大きなためいきをついた。
 マスクマンのすがお、それは永遠になぞのままになってしまったのだ。

「なーんだ」
 ふたたびシーンとしずまりかえった中で、細谷くんがつぶやくのがきこえた。そして、ききなれたマスクマンのエンディングテーマが流れ出しても、だれひとりとしてその場を立ち去ろうとしなかった。気がつくと、いつのまにか百人以上にもふくれあがっている
 パチパチパチ、…。
 そばで、小さく手をたたく音がきこえた。ブンちゃんだった。ふっくらしたほっぺたには、涙が流れている。
 パチッ、パチッ、パチッ、…。
 ぼくも、力いっぱい拍手をした。
 パチパチパチパチ、…………。
 すぐに拍手は、加瀬くん、ユウたん、リョウくん、クリちゃんに、そしてみんなへと、ひろがっていく。
(とうとうマスクマンのラストシーンを、見ることができた)
 たしかに、マスクマンのすがおがわからなかったのはすこし残念だったが、これでよかったのかもしれないという気もしていた。
 エンディングテーマが終わって、画面がコマーシャルにかわったとき、みんなはいっせいに立ち上がった。
 ぼくは、ハーフパンツのおしりについた砂をポンポンとはたいた。
「ラストシーンが見られてよかったね」
 ブンちゃんが、もうニコニコしながらぼくに言った。
「うん」
 ぼくも笑顔をうかべてうなずいた。あんなに苦労して準備したのに、ぼくたちが見られたのは、たったの三分間だけ。
 でも、これまで三年以上もぼくたちと共にいた、マスクマンの最後の姿を見送ることができた。それもひとりでではなく、ブンちゃん、リョウくん、加瀬くん、ユウたん、クリちゃん、おまけに細谷くんの、『マスクマン最終回対策本部』のメンバーたちと。いや百人近くの男の子たちと一緒に、マスクマンを見送ることができたのだ。
「それじゃあ、もういいね」
 ショウくんが、ベランダからテレビを動かしはじめた。
「どうも、ありがとうございました」
 ぼくたちは、声をそろえてお礼を言った。
「おーい、こらあ。早く教室へ入れえ。三時間目が始まったんだぞお」
 遠くの方から、先生たちがどなっている。
 いつの間にチャイムがなったのか、ぼくたちは少しも気がつかないでいた。




マスクマン、最後の日
平野 厚
平野 厚
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「佐藤さとるの作品においての考察」ビードロ創刊号所収

2020-03-20 08:31:44 | 考察
 1973年の大学一年の時に書いた私の評論です。
 そのころの読みと、四十年以上たった今の考えとの変化について考察してみたいと思っています。
 最初に表題ですが、佐藤さとると面識がないこととその背景になる環境について調べていないので、このような表題になっていると思われます。
 ただし、手に入る限りの作品とその解説および評論類にはあたってから書いているようです。
 論文の中で、「だれも知らない小さな国」を中心にして書いています。
 その理由として、この作品が「彼の延べたい「だれもが持っている自分自身の心の中の小さな世界=内在的価値」について、いちばん明確に、あるいは唯一かもしれないが、提示されているからである。」としています。
 「だれも知らない小さな国」を評価する場合に中心においているのは、「歴史的価値」だとしています。
 その根拠として、発表から15年近くたっても、「毎年生み出されている作品群に埋もれることなく、戦後の児童文学の指標として、輝きを保っているからである。」としています。
 この評価は、その後五十年近くたっても、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」と並んで現代日本児童文学の出発点として、私の中ではますます堅固になっています。

コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ―コロボックル物語)
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おかえり、ブルゴーニュへ

2020-03-19 09:48:23 | 映画
 フランス有数のワインの産地、ブルゴーニュ地方を舞台にした2017年のフランス映画です。
 父の危篤の知らせを受けて10年ぶりに故郷へ帰ってきた長男を中心に、家業のワイン農家(ドメーヌ)を継いだ妹、大きなワイン農家の娘と結婚してマスオさん状態の弟の三人兄弟の愛憎と、それぞれの人生の葛藤を描いています。
 長男の葛藤は、彼だけに厳しいと思っていた父親との関係、世界中(といっても、チリやアルゼンチンやオーストラリアなどのワインの産地だけのようですが)を放浪したあとで始めたオーストラリアの農場の運営、オーストラリアに残してきた妻や息子との関係、10年ぶりに戻ってきた故郷ブルターニュへの思いなどです。
 妹の葛藤は、残されたドメーヌの経営、男社会のワイン作りの世界での女性としての生き方、農薬をできるだけ使わないワイン作りに対する周囲の無理解などです。
 弟の葛藤は、二十四歳の彼ら夫婦をいつまでも子ども扱いする義両親との関係、いつも一方的に命令してくるやり手の事業家の義父に対する反発、ワインの作り手としての自分の才能に対する劣等感(三人の中では、妹が一番優れています)などです。
 作品の初めの方で父親が亡くなり、遺産問題(相続税が30万ユーロ(5000万円ぐらい)もして、三人の手持ち資金では払えません。一方で、ドメーヌ全体を売り払えば600万ユーロ(7億円ぐらい)にもなりますが、分割して相続はできないので売却には三人の合意が必要です)が発生して、三人の思惑が交錯します。
 長男は、ドメーヌ全体を売却して、自分の取り分でオーストラリアの農場のローンを返済したと思っています。
 妹は、基本的にはドメーヌも在庫のビンテージワインも売却をしたくないのですが、ドメーヌ存続のために一部分(あまり重要じゃないワイン用のぶどう畑)を売却するのはやむを得ないと思っています。
 弟は、基本的には家業を継いだ姉(彼から見て)の意向を尊重していますが、これをチャンスとしてドメーヌの一級品のぶどう畑だけを購入しようと横槍を入れてくる義父との板挟みになっています。
 結果としては、八方美人的なハッピーエンドになります。
 長男のオーストラリアの農場の在庫を売却して(その背景としては、オーストラリアでは、ビンテージよりもフレッシュなワインの方が人気があることがあります)相続税を払い、その代わりとして、長男は自分の持ち分を地代として二人から受け取ることにします。
 長男は、死後に残された手紙によって父と和解し、彼を追ってドメーヌへやってきた妻とも和解してオーストラリアへ戻ることになりますが、弟妹を通して故郷ブルゴーニュとの関係も再構築しました。
 妹は、いよいよ自分の思い通りのワイン作りを初めます。
 弟は、妻(この人はいつでも彼の味方になってくれる理性的ないい人です)の実家から円満引越し(といっても近所ですが)に成功し、姉(彼から見て)のドメーヌを手伝います。
 ストーリーや登場人物のキャラクターは、そんなに斬新な作品ではありません。
 しかし、一面に広がるぶどう畑の四季の風景の美しさ、そこでの四季折々の作業(選定、摘み取り、肥料やりなど)やワインづくりの様子のリアリティ、収穫祭の楽しさなどが、それを補って余りあるこの作品の魅力になっています。
 地平線までずっと続くワイン畑を見ていると、ついブルゴーニュ地方を旅行したくなります。


おかえり、ブルゴーニュへ(字幕版)
セドリック・クラピッシュ,サンティアゴ・アミゴレーナ
メーカー情報なし
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドリームガールズ

2020-03-19 08:33:31 | 映画
 2006年公開のミュージカル映画です。
 1960年代から70年代にかけて圧倒的な人気を誇った黒人女性コーラスグループ、シュープリームスをモデルとしたと思われるドリームガールズを中心に、モータウン・レコードをもとにしたと思われる新興のレーンボー・レコードの経営者(ジェイミー・フォックスが演じています)の栄光と挫折を描きます。
 1960年代の公民権運動や黒人暴動を背景に、黒人だけの音楽だったソウルミュージックを、白人にもうけるよりポップなディスコミュージックに変えて、それまで黒人にしかレコードが売れなかった黒人ミュージシャンたちを全米ナンバーワンを連発する大スターに育てていきます。
 その過程で、ビジネス至上主義になっていくレコード会社の経営者から、かつてはファミリーとして団結していたメンバーが次第に離れていきます。
 もちろんミュージカルなので、ストーリー自体は単純なハッピーエンドなのですが、一級のエンターテインメントに仕上がっています。
 もう一人の主役のドリームガールズのリードボーカル(ダイアナ・ロスがモデルでしょう)を演じたビヨンセや、先輩R&B歌手役のエディーマーフィーをはじめとした出演者たちの歌とダンスが素晴らしいです。
 特に、アカデミー賞助演女優賞を獲得したジェニファー・ハドソンの歌声は、圧倒的な迫力でした。
 また、それと思われる当時の黒人ミュージシャンたち(子ども時代のマイケル・ジャクソンがリード・ボーカルをしているジャクソン・ファイブなど)が、名前を変えて登場するのも楽しいです。
 それにしても、主要な出演者がすべて黒人のミュージカル映画が成功するなんて、舞台になった1960年代のアメリカでは想像もできなかったでしょう。

ドリームガールズ (字幕版)
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筒井康隆「地獄図日本海因果」わが良き狼(ウルフ)所収

2020-03-17 18:27:43 | 参考文献
 1970年ごろに書かれた作者得意のハチャメチャSFです。
 当時はまだベトナム戦争が行われていて、アメリカの太平洋艦隊がベトナムに向かって日本近海から出払ったすきをついて、北朝鮮の艦隊が日本に向かって攻めてきます。
 海上自衛隊の艦隊が対峙しますが、専守防衛のために先攻されて防戦一方に立たされます。
 北朝鮮軍が使った核兵器がオンボロ(当時は核開発能力がなかったので中共(当時はまだ中国と国交が結ばれていなかったので、中国は中華人民共和国を略してそのように呼ばれていました)から中古の欠陥品を買ったことになっています)だったために、核爆発は空間ではなく時間を破壊してしまいます。
 タイムスリップした海上自衛隊の艦隊は、有名な日本海海戦へ紛れ込んでしまい、東郷平八郎司令長官が率いる大日本帝国海軍連合艦隊に遭遇し、あっさりと殲滅されてしまいます(これが、海戦上有名な「敵前大回頭」という作戦ということにしています)。
 一方、北朝鮮の艦隊は、日本海海戦のもう一方の艦隊であるロシアのバルチック艦隊と遭遇し、またオンボロ核兵器を使用したために時間はさらにグチャグチャになってしまい、日本と朝鮮半島が地続きだったころのナウマンゾウの群れや大津波や大嵐(その一つが元寇を防いだいわゆる「神風」)を引き起こします。
 さらに空間的にもおかしくなったらしく、タイタニック号(北大西洋で氷山に衝突して沈没)や「杉野はいづこ、杉野はいづや」で有名な日露戦争の軍神広瀬中佐(場所は旅順港なので日本海ではありません)まで登場して、ハチャメチャになります。
 こうした作品は、現在の若い読者には、ほとんど読解不能でしょう。
 作者は、読者がある程度の社会情勢や歴史の知識(当時では常識程度ですが)を持っていることを前提に書いているからです。
 他の記事に書きましたが、当時はまだ教養主義のしっぽが残っていて、一般読者でもこれらの知識は共有していました。



わが良き狼(ウルフ) (角川文庫 緑 305-4)
クリエーター情報なし
KADOKAWA
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンタッチャブル

2020-03-17 18:24:57 | 映画
 ケビン・コスナーの出世作となった1987年のアメリカ映画です。
 禁酒法時代のシカゴのギャングの帝王だったアル・カポネを逮捕(意外にも脱税容疑です)したエリオット・ネスのチーム(当時警察内で横行していた脅迫や買収に応じないのでアンタッチャブルと呼ばれていた)を描いた作品です。
 この話は1960年ごろにテレビドラマ化されて日本でも放映されていたので、私が子どもだったころはアル・カポネもエリオット・ネスも超有名人でした。
 誠実なアメリカ人を演じるのにぴったりな主役のケビン・コスナーの魅力だけでなく、ベテラン警官役で重厚な演技を見せた(アカデミー初助演男優賞を受賞しています)ショーン・コネリー(かつてのジェームス・ボンド俳優ですね)、射撃の名手の警官を演じたアンディ・ガルシアの若々しい演技、チャールズ・マーティン・スミス(アメリカン・グラフィティでお馴染みです)が演じた小柄で風采の上がらない経理マン、憎々しい悪役を演じたら右に出る物ないロバート・デ・ニーロといった芸達者たちの競演が最大の見どころでしょう。

アンタッチャブル30周年記念ブルーレイTV吹替初収録特別版(初回生産限定) [Blu-ray]
クリエーター情報なし
パラマウント
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘビさん

2020-03-17 11:01:11 | 作品


 むかしむかし あるところに ヘビさんが いました。



 あるひ ヘビさんは グニョグニョと あるいていました。
 むこうから カエルが ピョコンピョコンと やってきます。
 ヘビさんは、カエルを パクッと のみこんでしまいました。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうに おおきなかわが ありました。
 かわには たくさんのサケが およいでいます。
 ヘビさんは パクパクパックンと サケを いっぱいのみこんでいきます。
 サケは どんどん ながれてくるので たべほうだいです。
 ヘビさんは サケを いちまん さんぜん ろっぴゃく にじゅう ななひき たべました。



 なんで そんなに たべられたかって?
 だって ヘビさんは、とってもおおきな ヘビだったからです。
 ながさは 10メートルいじょうも あります。
 からだの ちょっけいも 1メートルいじょうも あります。
 くちをあけると まるで トンネルのようです。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうから キリンがやってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとしましたが のどのところで キリンのくびが つっかえてしまいました。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうから アリが やってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとしましたが あんまりちいさいので やめました。
 アリを ふみつぶそうとしましたが できません。
 だって ヘビさんには あしが なかったからです。



 また ヘビさんが あるいていくと むこうから ライオンが やってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとすると ぎゃくに ガブッと ライオンに かみつかれてしまいました。



 けがをした ヘビさんが あるいていくと むこうから カンゴシさんが やってきました。
 カンゴシさんは ヘビさんに おおきなばんそうこうを はってくれました。



 ばんそうこうをはった ヘビさんが あるいていくと むこうから ペンギンが ヒョウザンにのって やってきました。
 ヘビさんは パクッと のみこもうとしましたが ヒョウザンが すごくつめたかったので ヘビさんは カチンカチンに こおってしまいました。

10

 カチンカチンの ヘビさんが あるいていくと むこうから ゾウがやってきました。
 ヘビさんが パクッと のみこもうとすると ドシンドシンと ゾウに ふみつぶされてしまいました。

11

 ペッタンコになった ヘビさんが ヒラヒラと あるいていくと むこうから ジテンシャヤさんが やってきました。
 ジテンシャヤさんは ヘビさんに じてんしゃのポンプで くうきをいれて もとどおりに ふくらませてくれました。

     12

 ヘビさんが あるいていくと むこうから ゴリラが やってきました。
 ヘビさんが パクッと のみこもうとすると ゴリラは ヘビさんの あたまと しっぽを つかんで こしのまわりにまいて ベルトに してしまいました。

13

 ベルトになった ヘビさんが あるいていくと むこうから カブトムシと カンガルーと キリギリスと ダンゴムシが やってきました。
 ヘビさんは パクッパクッと どんどん みこんでいきます。

14

 でも、まだ タヌキや ドクアリや ラクダや おサルや ミノムシが どんどん やってきます。

15

「わーっ もう おなかが いっぱいだ」

16

 ヘビさんは あわてて いえへかえると ニョロニョロと ヘビのかたちをした おおきなウンチをして ねました。

 

ヘビさん
平野 厚
メーカー情報なし


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月曜日には、自転車に乗って

2020-03-16 08:45:11 | 作品
 午前七時二十分。樋口正和は、まだベッドの中でまどろんでいた。
「それじゃあ、行ってくるわよ」
 ドアの外から、かあさんの声が聞こえてくる。
 でも、正和はかあさんに返事をしないで、そのままうとうとしながら、九時近くまでベッドを出ようとしなかった。
 今日は月曜日。学校は、もうとっくに始まっている。
 ようやく起き上がった正和は、のろのろとパジャマをぬいだ。そして、洗いざらしのジーンズとポロシャツ、それにブルーのサマーセーターに着替えた。
 自分の部屋を出て、ダイニングキッチンへいった。流しの横のオーブントースターに、食パンを二枚入れて一枚にはスライスチーズを載せてスイッチをひねる。
 パンが焼ける間に、カーテンを開け放して、ベランダに通じるガラス戸から部屋の中へ、明るい日の光を入れた。
 正和の通っている中学校は、そのベランダから見ることができる。なにしろこのマンションからは目と鼻の先、ほんの五十メートルほどしか離れていないのだ。
 ガラス戸を開ければ、授業の始まりと終わりを告げるチャイムはもちろん、校内放送や楽器の音、さらには休み時間のざわめきまでが飛び込んでくる。マンションから校門までは、歩いてたったの三分だった。
 でも、月曜日にはその距離がすごく遠くに感じられた。

 中二の正和が毎週月曜日に学校を休むようになってから、もう三カ月がたとうとしていた。
もっとも、時々休むようになったのは二学期の初めのころからだから、そこから数えれば半年以上ということになる。
 月曜日を休むことには、特にはっきりした理由はなかった。きっかけは、当番で早く行かなければならないのに寝坊してしまったり、国語の宿題を忘れていたことに朝になって気付いたりといった、ささいなことにすぎない。
 こうしたことがいく回か重なっているうちに、だんだん月曜日に行くのが嫌になってきたのだ。
 月曜日を休みたくなる気分は、その前日、日曜日に目を覚ました瞬間から始まる。起きた時にその日が日曜日だと気づくと、とたんにゆううつになってしまう。そして、その日一日、何をしていても、翌日が月曜日であることを、つい考えてしまう。すると、口の中が苦くなってくるような気さえするのだ。
 正和は、こうして毎週日曜日を、ブラブラとしょうもなく過ごすことになる。
 日曜日の夕ごはんを過ぎると、ゆううつな気分はピークに達する。正和は、もうぼんやりテレビを見る以外に、何の気力もなくなってしまう。そのくせ、ベッドに入っても、いつまでも目がさえて、なかなか眠れなかったりするのだ。
 しかし、いざ月曜日になってズル休みをしてしまうと、今度は次第に学校のことが気になり出す。そして、月曜日の夕方にはすっかり元気になっていて、翌日からは、他の生徒たちと変わらずに学校へ行けるのだ。
正和は、けっして学校が嫌いなわけではなかった。成績もまあまあだし、体も大きくスポーツも得意だった。だから、月曜日を除くと、他の生徒と変わりなく学校生活をおくれていた。

 しばらくの間、正和が月曜日にズル休みをしていることに、かあさんはぜんぜん気づかなかった。
 正和のかあさんは、薬品会社の研究所で検査技師をしていた。正和よりも早く家を出て、毎晩七時過ぎに疲れきって帰ってくる。とても、正和の様子に十分注意する余裕などない。
 かあさんが気づいたのは、二年の二学期の通知表をもらってからだった。欠席数が8にもなっていたのだ。ぜんぜん心当たりがなかったから、かあさんがびっくりしたのも無理はない。
「どうしたの、いったい?」
 かあさんは、努めて冷静に正和にたずねた。
「えっ、ああ。ちょっと行きたくなかったんだ」
 正和は、悪びれずに答えた。
「ズル休みして、どこへ行ってたのよ」
 かあさんは、少し感情的になってきた。
「ずっとうちにいたよ」
 正和は、平気で答えた。本当にうちにいたのだ。
「嘘、おっしゃい」
 かあさんは、ついにヒステリックな声を出した。
 でも、そういわれても、本当なんだからしかたない。正和は肩をすくめるだけで、それ以上弁解しようとしなかった。

 その後も、正和は月曜日に休み続けた。
 困りはてたかあさんは、担任の先生や校長先生に、さらには、病院の精神科のお医者さんにまで、相談にいったらしい。
 そして、なだめたりすかしたりして、なんとか正和を月曜日に学校へ行かせようとした。
 ところが、かえって正和は、それまでは時々休むだけだったのが、毎週月曜日にきっちり休むようになってしまった。
かあさんにヒステリックに行くようにいわれればいわれるほど、ますます月曜日には行きたくなくなってしまうのだ。
 とうとうかあさんは、正和が月曜日に休んでも、何もいわなくなった。もしかすると、お医者さんか誰かに、そっとしておくようにとアドバイスされたのかもしれない。
 サボり始めたころの正和は、月曜日には一日中、ただひたすら眠り続けていた。昼近くに起きて朝昼兼用のごはんを食べると、再びベッドにもぐりこむ。完全に起き出すのは、夕方の五時近くになってからだ。自分でも感心するくらいによく眠れた。
 起きている時も、ワイドショーやテレビドラマの再放送を、ただぼんやりとながめているだけだった。
 しかし、三学期に入ったころから、寝ている時間はしだいに短くなってきた。今では、九時近くには完全に起きてしまっている。

 正和は、スマホをつないであるアクティブスピーカーのスイッチを入れると、今お気に入りのアルバムをスマホでストリーミングした。そして、好きなアイドルグループのヒット曲をバックにして食べ始めた。
 朝食には、いつもトースト二枚(一枚はチーズ載せ)とハムエッグに野菜サラダを食べる。それに、大きなコップ一杯のミルクと紅茶を飲む。
  野菜サラダはかあさんが出かける前に冷蔵庫に入れておいてくれたものだが、ハムエッグは自分でフライパンを使って作った。正和の料理の腕は、ここのところ確実に上がっている。
正和は、朝食を食べながら、今日一日をどう過ごすかを考えていた。
 午前中は、音楽を聞きながら、読みかけのライトノベルを読む。
 昼ごはんには、チャーシューとほうれんそうとメンマと二つに切ったゆでたまごを入れて、インスタントラーメンを作ろう。初めのころは、カップ麺を食べていたが、袋麺の方が断然おしいしいことが分かってからは、かあさんに頼んでいろいろな物を揃えてもらっている。
午後は、数学と英語の問題集を一時間ずつやった後、かあさんのパソコンにつないであるゲーム機でロールプレイングゲームの続きをすることにしよう。
 おなかがすいていたので、朝食はあっという間に食べ終わってしまった。
 フンフン、フンフンフン、……。
 正和は鼻歌を唄いながら、フライパンとお皿、それにティーカップを、ながしで洗い始めた。まだ汚れがこびりつかないうちに洗ったので、すぐにきれいになった。

 その日の正和の計画が狂ったのは、昼ごはんを食べ終わってからだった。おなかがいっぱいになったら、急に腹のまわりについたぜい肉が気になりだしたのだ。学校をさぼるようになってから、さすがに運動不足気味だった。
 正和は、すぐに洗面所のヘルメーターにのりにいった。
(やっぱり)
 ヘルメーターの針は、六十キロを軽くオーバーしている。気づかないうちに、三キロ以上も太っていた。
 正和は居間に戻ると、ソファの下に足を入れて腹筋運動を始めた。
「いーち、にーい、…」
 ところが、二十回もいかずに、あっさりダウンしてしまった。前は、三十回は楽にできたのに。気がつかないうちに、体力もだいぶ落ちている。
 ハアハアハア、…。
 正和は、じゅうたんに寝転んだまま、荒くなった呼吸を整えていた。
 と、その時、居間の隅に置いてある室内自転車が、正和の目に入った。
 その自転車には、「コンピューターサイクル」などという、大げさな名前がついている。もともとは、中年太りを解消するために、かあさんが数年前に通販で購入したものだ。
 でも、すぐにあきてしまったらしく、今では部屋のすみでほこりをかぶっていた。

 正和は、「コンピューターサイクル」にまたがってみた。
 サドルやハンドルの高さが、小柄なかあさん用に調節してある。もう身長が百七十センチ近くある正和には、ぜんぜん合わなかった。
 コンピューターサイクルのハンドルには、二十センチ×三十センチぐらいの四角い操作パネルがついている。正和は取扱い説明書を見ながら、いろいろな機能を試してみることにした。
 コンピューターサイクルのコースには、「テスト」と「トレーニング」とがあった。
 まず、「テスト」コースを選んでみる。
 正和は、右の耳たぶにコードのついたクリップを取り付けて、スタートボタンを押した。
 ピッ、ピッ、ピッ、…。
 いきなり規則正しい電子音が鳴り出した。
正和は、あわててペダルをこぎ始めた。
 こぐペースが、合図より速すぎたり、遅すぎたりすると、操作パネルのアラームが点滅する。
 正和は、うまくこぐスピードを調節してアラームが出ないようにした。
パネルには、心泊数と経過時間も表示されている。
 ペダルをこぐ負荷は、はじめは軽かったが、だんだん重くなっていった。そのため、正和の心拍数は、時間の経過とともに上がっていった。

 ピピピピピ。
 スタートボタンを押してからきっかり十分後に、「テスト」は終了した。
最終的な正和の心泊数は百四十を越え、呼吸はすっかり荒くなっていた。
パネルの表示が変わった。
「最大酸素供給量、2・27。最大消費エネルギー、105ワット。総合評価、『ヤヤオトッテイル。モットガンバロウ』」
 正和は、ディスプレーに表示された「テスト」の結果を見て、がっくりしてしまった。
(自分の体力が平均よりも劣っているなんて!)
 その日の午後の予定を変更して、正和は本格的にコンピューターサイクルに取り組むことにした。
 「トレーニング」コースに設定すると、ペダルの重さやトレーニング時間を自由に変えることができる。
 正和は、重い負荷で短時間やったり、軽い負荷で長時間こいだりと、変化をつけながらトレーニングを続けた。
 けっきょくその午後は、ずっとコンピューターサイクルをこぎつづけた。ハンドルの横に書見台がついていてスマホや本を読みながらできるし、テレビも正面にあるので、あきずにこぎ続けられる。
 とうとう最後には、両足がパンパンにはってしまったけれど、久しぶりにたっぷりと運動をした充実感が得られた。

 正和のトレーニングは、月曜日以外にも続けられた。
毎日、かあさんが帰ってくるまでに、最低二時間はコンピューターサイクルをこいでいる。いったんはまった時の正和の集中力は、なかなかのものだった。正和は帰宅部だったから、コンピューターサイクルをやる時間はたっぷりあった。
 かあさんに冷やかされないように、トレーニングのことは秘密にしていた。
 でも、夕食の時にみせるすごい食欲だけは隠せなかった。体育系の部活に入ったわけでもないのに、今までより食べるのが、かあさんには不思議だったろう。
 正和は、トレーニングをやるときには、いつも耳たぶにコードのついたクリップを取り付けて心拍数をモニターしながらやっていた。
初めは、負荷を軽く設定して回転数をあげてこいでいく。心拍数は、初めの七十台から徐々に上がっていく。でも、負荷が軽いから、足はまだ軽い感じだ。
 心拍数が、百を越えたあたりで、今度は負荷を重くする。そのため、回転数はガクッと落ちる。それでもなるべく落ちないようにしてがんばってペダルをこいでいく。
 心拍数はますますあがっていく。今度は回転数を一定にしながら負荷を徐々に重くしていく。
 心拍数が百三十を越えたあたりで負荷をそれ以上あげないようにする。そして、心拍数が百四十を超えないように注意しながらペダルをこいでいく。
 スマホで調べたところによると、正和の年齢と安静時の心拍数からすると、乳酸値を上げないで長くこいでいくのには、そのくらいの心拍数がいいのだそうだ。
 トレーニングが終わっても、しばらくは軽い付加でこぎ続けて安静時の心拍数に戻す。
それから、毎日一回だけ「テスト」に設定して、今までのトレーニングの成果を確認することにしていた。そして、その結果をグラフに記録していった。

 トレーニングの成果は、着々と上がっていた。「テスト」のグラフは、上下に折れ曲がりながらも全体としては確実に右肩上がりになっていく。
 トレーニングは意外に楽しかった。ペダルをこぎながら、イヤフォンで好きな音楽を聴けるし、雑誌やマンガを読むことだってできる。それにもあきたら、テレビを見ればいい。
 心拍数を百四十以下に保って長くこぐのも楽しかったし、時には負荷を重くして、心拍数を百七十ぐらいまで上げて、全力でもがいてみた。
 百七十以上に心拍数を上げると無酸素領域に入ってしまって、脂肪を燃焼させる有酸素運動にならないので、それ以上はあげないように注意していた。
 トレーニングの成果はすぐに上がった。コンピューターの診断によると、正和の体力は、一週間後には「フツウ」の領域に入ったのだ。
 トレーニングの成果は、それだけではなかった。体もずいぶん引き締まってきた感じがしてきた。体重はあまり変わらなかったけれど、体脂肪率はかなり下がってきたに違いない。家の体重計では体脂肪率が測れないのが残念だった、
 成果が出ると、トレーニングをするのにも励みになる。正和はトレーニング量をだんだん増やしていった。
 初めは夕方の二時間だけだったが、土曜や日曜など家にいるときには、かあさんの目を盗んでコンピューターサイクルに午前中にもまたがることもあった。そして、正和だけがお休みの月曜日には、一日中自転車に乗っている。
 練習量の増加は、着実に成果として現れる。三週間後には、「テスト」の結果は、「ヤヤスグレテイル」に達したのだ。

 正和がトレーニングをしていることをかあさんに話したのは、春休みになってすぐのことだった。
 ある晩、夕食のときに、正和はかあさんにいった。
「おかあさん、新しい体重計が欲しいんだけど、…」
「体重計なら、うちにもあるじゃない」
 かあさんは、おかずのハンバーグをナイフで切りながら答えた
「あれじゃだめなんだ。体脂肪率が測りたいから」
「ふーん。体脂肪率なんて気にしてるんだ。マサちゃん、あなた太っていないじゃない」
 かあさんは、からかうような調子で正和にいった。
「そうじゃなくってさ。トレーニングの成果が知りたいんだ」
「トレーニングって?」
 かあさんは、けげんそうな表情を浮かべていた。
「じつは、おかあさんのコンピューターサイクルをやってるんだ」
「あら、そうなの。そういえば、置き場所が変わったと思ってたけど。それで、その体脂肪率を測れるのって、いくらぐらいするの?」
「スマホで調べたら、三千円ぐらいで買えるみたいだけど」
「なーんだ、そんな安いの」
 かあさんは、値段を聞いて拍子抜けしたみたいだった。

 次の休みの日に、かあさんは正和を家電量品店に連れていって、正和の気にいった体脂肪測定機能つきの体重計を買ってくれた。
 それからは、正和はグラフに体脂肪率も記録するようになった。
 完全主義者なところのある正和は、数字の上昇(体脂肪率は下降)を楽しみに、トレーニング量をだんだんエスカレートしていった。
ちょうど春休みになったこともあって、次第に朝から晩まで断続的にコンピューターサイクルによるトレーニングをこなすようになっていた。
 もうかあさんにも話してあるので、トレーニングは大っぴらにやることができる。連日のトレーニング量は、トータルすると六時間を超えていた。
 そして、正和にもともと自転車競技の素質があったのか、練習を始めて六週間後には、あっさりと「スグレテイル」体力の持ち主になってしまったのだった。
 体重こそ前とあまり変わらなかったが、体脂肪率は15%を切っていた。全身が引きしまり、足の筋肉が盛り上がってズボンがきつくなったのが自分でもわかった。この六週間に練習した距離は、二千キロメートルを越え、ゆうに本州を縦断してしまっている。
 正和はトレーニングの結果に満足していた。
 でも、これ以上トレーニングをエスカレートして、家の中でコンピューターサイクルをこぎ続けることには、さすがに物足りなさを感じるようになっていた。

 サイクリングの体力に自信がついてくると、正和は、自分のサイクリストとしての能力を、実地にためしてみたくなってきた。
 サイクリング用の自転車は持っていた。中学の入学祝いとして、母方の祖父に多段変速のスポーツタイプのものを買ってもらっていたのだ。もっとも、最近はめったに乗る機会もなく、マンションの自転車置場でカバーにおおわれているだけだった。
 さっそく正和は、自転車を久し振りに引っ張りだしてみた。
 自転車はロードレース用のものとは違って、がっちりと頑丈なフレームをしていて重そうだった。
でも、変速機は、一応前六段の後ろ三段で十八段変速の物がついている。
 正和は、さっそくサドルにまたがるとペダルをこぎ始めた。
 初めは、ギアを軽くして回転数をあげてこいでみた。徐々に、ギアを重くしても、できるだけ回転数を維持するようにがんばる。それにつれてスピードがビュンビュンあがっていく。最近長く伸ばしている髪の毛が、風になびいて気持ちが良かった。
 正和は適当なところで角を曲がりながら、マンションのまわりを大きく一周してみた。でも、正和の家の近くはほとんど平坦で、坂がないのが少し物足りなかった。
 正和は、今度は角をまがらずにできるだけ直進してみた。車を避けて裏道を通っていたので、すぐに行き止まりにぶつかってしまった。
 正和は、バス通りに出て見ることにした。そこは、ひっきりなしにトラックや乗用車が走っている。正和は緊張しながら、道の左隅ぎりぎりをキープして自転車を走らせていった。

 新学年が始まった。正和も欠席数は多かったものの、無事に三年に進級できていた。
 ある日、正和は、同じクラスの佐々木修一の席までいって話しかけた。彼とは、二年のときも同じクラスだった。
「よお、修一さあ。おまえ、サイクリングやってるって、前にいってたよなあ」
「うん」
 修一は、読んでいた自転車競技の雑誌から顔を上げた。
「サイクリングで、どのへんへ行ってるんだ?」
「どのへんって、まあ、普通は日帰りで行ける所だけだよ」
「ふーん」
「おまえもサイクリングやるのか?」
 修一は、意外そうな顔をして聞き返した。
「えっ。ああ、ちょっと始めたばかりなんだ。日帰りって、どこへ行くんだ?」
「ほら」
 修一は、答の代わりに、ボロボロになった一枚の地図を広げてみせた。
「通った所には、赤線で印がつけてあるよ」
 東京を中心に、びっしり書きこまれた赤線は、関東地方だけでなく、伊豆や山梨あたりにまで伸びていた。
「すげえなあ」
 正和は、感心しながら地図を手に取った。

 その後も、正和は、サイクリングの話を修一とするようになった。
「夏休みには、東北を一周してみたいんだ」
 ある時、修一はちょっと自慢そうにいった。
「東北一周?」
「そう、三週間ぐらいかかるけどね」
「そんなの、学校でOKが出るのか?」
「もちろん、黙って行くさ」
 修一は、ちょっと声をひそめていった。
「家の人はどうなのさ?」
「うちの親父は大丈夫。おれと同じで、学生時代にサイクリングやってたんだから」
「ちぇっ、いいなあ」
 正和は、うらやましそうにいった。
「それより、おまえ、自転車の修理、できるのか?」
「それが、ぜんぜんなんだ」
 正和は、正直に答えた。
「ひでえなあ。それでサイクリングに行くつもりだったのか」
 修一は、すっかりあきれていた。

 正和は、さっそくその日の帰りに修一の家に寄らせてもらった。サイクリングや自転車の整備に関する本を借りるためだ。
「そうだなあ。まあ、前輪と後輪のパンクの修理と、チェーンの長さの調整ができれば、まあ一応いいんじゃないかな」
「ふーん」
 そういわれても、正和にはピンとこなかった。
「他にも、ブレーキの修理とか、折れたスポークの交換とか、いろいろあるけど。まあ、だんだんに覚えていけばいいよ」
 修一は自分の自転車を使って、パンクの修理やパーツの交換の方法を実地に教えてくれた。
「じゃあ、やってみて」
 一通りの手順をやってみせてから、修一はいった。
「うーん、できるかなあ」
 正和は工具を片手に、前輪を取り外しにかかった。
「そうそう、もっと深くつっこんで」
 修一が、そばからいろいろと指示を出してくれた。正和は、油や埃で手を汚しながら、自転車に取り組んでいった。
 その日から毎日のように、今度は自分の自転車を持ち込んで、修一の家に寄るようになった。そして、一通りの自転車の修理方法をマスターしていった。

 毎晩、正和は、初めてのサイクリングについて、計画を立てるようになっていた。中間試験が終わったら、すぐにどこかへでかけるつもりだった。おかげで、試験勉強のほうは、すっかりおろそかになっている。
 放課後には、毎日のように、修一と近所のサイクルショップに寄っている。
「こんちわーっ、今日はお客さんを連れてきたよ」
 初めて店へ行った時、修一は店のおやじさんに正和を紹介してくれた。
 おやじさんは、タオルで手を拭きながら店の奥から出てきた。白髪混じりの親切そうな人なので、正和はホッとしていた。
「よろしくお願いします」
 正和がペコリと頭を下げると、
「やあ、いらっしゃい。シュウちゃんの友だちなら大歓迎だよ」
と、おやじさんはニコニコしながらいった。
 ここで、ヘルメット、水筒、空気入れ、雨具、バッグなど、サイクリングに必要な物をだんだんにそろえていった。修一は、正和のためにおやじさんと交渉して値段をねぎってくれた。さらに、中古品をただでもらったりもしてくれている。そのおかげで、サイクリングへ出かける準備は、すっかりできあがった。
 しかし、肝心の行先が、なかなかひとつに絞れずに迷っていた。
湘南のような海辺を走るのも、気持ち良さそうだった。その一方で、深大寺や井の頭みたいな公園にも行ってみたい気持ちもあった。また、江戸川や荒川のような川沿いの道を走るのも魅力的だった。
正和は、色々と迷ってしまって、なかなか行き先が決められなかった。

 ある日、正和は学校から帰ると、いつものようにエレベーターホールの郵便受けをチェックした。ダイレクトメールやガス料金の通知書などと一緒に、一通のはがきが入っていた。
「拝啓 新緑の候、皆様お変わりもなくお過しのこととお慶び申し上げます。
 さて、この度、拙宅の新築にともない、左記へ転居致しましたので、お知らせ申し上げます。
 お近くへお越しの節は、是非お立ち寄り下さいます様、お待ち致しております。
 先ずは簡単ながら御通知申し上げます。   敬具
 平成××年五月
  新住所  〒一九X-XXXX
東京都八王子市XX町五丁目四番地七号
           森下進一郎
               由美子
                真理
  電話  〇四二(XXX)XXXX  」
 正和は、「森下」という名字を目にしても、初めはピンとこなかった。
 でも、やがてこの手紙が、自分の父親からの移転通知であることに気がついた。
 森下進一郎。
 久し振りに父親の名前を見ても、正和には何の感慨もわいてこなかった。
 他の二つの名前は、全く初めて目にするものだった。そういえば、かなり前に、おしゃべりな世田谷のおばさんから、父親が再婚したこと、そして、女の子が生まれたことを聞いたような気もした。

 両親が離婚したのは、正和が二才のころだ。だから、正和には父親と暮らした日々の記憶がいっさいなかった。
 父親に関して覚えているのは、小学校にあがる前まで、父親の希望で二人だけで面会して、遊園地や公園に何回か連れていってもらったことだけだ。それもいつの間にかとだえ、正和はもう十年近く父親に会っていなかった。
 父親から転居通知が来たことをかあさんに話すべきかどうか、正和は迷っていた。現在のかあさんが、かつての自分の夫にどんな感情を持っているのか、まったくわからなかったからだ。
 結局、正和は、通知に気づかなかったことにしようと決めた。そして、他の郵便物と一緒にして、食堂のテーブルの上に置いておいた。
 かあさんは、いつものように七時過ぎになってから、あわただしく帰宅してきた。そして、着替えもそこそこに、夕飯のしたくに取りかかった。
 かあさんが転居通知に目を通したのは、二人の遅い夕食が終わった八時過ぎになってからだった。
 正和は食後のお茶を飲みながら、さり気なくかあさんの様子をうかがっていた。転居通知を読んだ時、さすがにかあさんの顔が少し曇ったような気がした。
 でも、かあさんはすぐに普段の表情に戻ると、通知を他の郵便物と一緒に状差しに突っ込み、夕飯の後片づけをするために立ち上がった。
「皿洗うの、手伝おうか?」
 正和がそういった時、
「あら、珍しいわね。明日、雨にならなきゃいいけど」
と、明るく答えたかあさんの表情からは、正和は何も読み取れなかった。

 正和は自分の部屋へ戻ってから、いつものようにサイクリングの計画を立て始めた。
(行先は?)
 その時、父親からの転居通知が頭に浮かんできた。
(そうだ、あそこにしよう)
 父親が現在の家族と暮らしている家を、見てきてやろうと思った。
 さっそくスマホのMAP機能でその住所を調べてみた。
「東京都、八王子市、…」
 状差しからこっそりハガキを持ってくると、住所を入力していった。
 しばらく検索していたスマホが、パッと地図に変わった。
地図の中心に示された父親の家は、中央線高尾駅から五キロほど南へ行った所にあった。拡大してみると、その付近だけが道路が碁盤の目のようになっている。どうやら新興住宅地らしい。
 MAP機能を切り替えて、正和の住んでいるところから、父親の家までのルート検索してみた。
 正和のマンションのある新宿区早稲田から、早稲田通りを通って高田馬場へ。
高田馬場で左折して、明治通りを新宿まで行く。新宿駅の南にある陸橋を渡れば、あとは甲州街道で高尾まで一直線だ。
 父親の家へは、高尾駅のちょっと手前で左折して、町田街道を行けばいい。

 翌日、正和は、昨晩作成したサイクリング計画を、修一に見せた。
「高尾か。初めてのサイクリングにしちゃ、ちょっと遠すぎないか?」
「そうかな。直線距離で三十キロぐらいしかないけどな」
「いや、道なりに行くと、もっとあるんだよ。四十キロ以上はあるんじゃないかな。往復で八十キロ。ちょっときついよ」
「だいじょうぶだよ」
 足に自信のある正和はいった。
「高尾山へは登るのか?」
「いや、高尾駅までだ」
 最終地点が父親の家であることは、もちろん修一にはふせていた。
「そうか。それなら、なんとかなるかもな?」
 修一はしばらく考えてから、また正和にたずねた。
「いつ、行くんだい?」
「来週の月曜日」
「えっ? ああ、おまえは週休三日制だもんな」
 修一は、ニヤッと笑いながらいった。
「でも、できたら日曜日にしないか? そしたら、おれも一緒に行くからさ」
「えっ?」
 今度は、驚くのは正和の番だった。たしかにベテランの修一と一緒なら、ペースもつかみやすいし、心強くもある。
 でも、それでは、父親の家をこっそりのぞいてくるという、正和の計画はおじゃんだ。それに日曜だと、父親と顔を合わせてしまうかもしれない。正和の方は顔を覚えていなくても、さすがに向こうは気づくだろう。きっと、おたがいに気まずい思いをするに違いない。
「いや、日曜日はちょっと都合が悪いんだ。次の時は、一緒に頼むよ」
「そうか」
 修一は、まだ少し心配そうだった。

 ドアが閉まる音に続いて、鍵をかけるカチャンという音が聞こえてきた。かあさんが会社に出かけていったのだ。
 寝たふりをしていた正和は、すぐにベッドから飛び起きた。すでに、Tシャツに短パンという、サイクリングスタイルに着替えてある。
 正和は、自転車用の水筒に水をつめると、すぐに家を飛び出した。なにしろ、夜七時までには戻らなければならないから、けっこう忙しい。
 かあさんには、今回のサイクリングのことは内緒にしてあった。行き先を聞かれて高尾と答えると、父親の家のことを連想されてまずいなあと思っていたからだ。
 自転車置場でカバーをはずすと、完璧に整備された愛車が姿を現わした。正和は、それを押しながらマンションの前の道路に出た。
 腕時計を見ると、まだ七時三十分だ。通勤の人たちが、マンションの玄関から次々に出てくる。まだ、登校時間にならないので子どもたちの姿は見えない。
(よし、行くか)
 正和はペダルを力強くこぎながら、早稲田通りへ飛び出していった。
 通勤の車なのだろうか、道路はけっこう込んでいる。
正和は、慎重に道路の左端を進んでいった。
 足の調子は絶好調だった。慎重に設定した変速ギアに合わせて、自転車はいかにも軽々と進んでいく。
正面から風をまともに受けて、自転車用ヘルメットからはみ出した髪の毛がうしろへなびいていた。

 予想に反して、十一時ごろには、正和はすっかりまいってしまっていた。
 自転車をこぐのに、疲れたわけではない。修一のアドバイスどおりに、こまめに切り替えている変速ギアもぴったりで、自慢の足はますます快調だった。
 正和を悩ませていたのは、車の廃棄ガスと砂ぼこりだ。特に、ダンプの吐き出す黒いガスには、完全にまいってしまった。 
 走り出したころは、都内を抜けさえすれば次第に良くなるだろうと思っていた。
ところが、道が多摩地区に入っても、良くなるどころか、かえってひどくなってきている。
 鼻はにおいでツンツンするし、のどはすっかりいがらっぽくなっている。
 正和は、甲州街道からそれて、裏通りで自転車を止めた。
 水筒の水でうがいをしてみる。
 でも、少しもさっぱりしない。
 とうとう正和は、ルートを変更することにした。
 スマホのナビ機能によると、すでに調布市を抜けて府中市に入っている。それなら、ここで甲州街道をはずれて、是政橋で多摩川を渡り、川崎街道で高幡不動まで行けばいい。そこからは裏道を通って、高尾の南側、父親の家の近くまで一直線に行ける。
(よーし)
 正和は、また力強くペダルをこぎ始めた。

 正和が、目標の八王子市×町に着いたのは、一時過ぎだった。目指す番地は、街角の真新しい住居表示の地図で、すぐにわかった。
 少し緊張しながら、正和は家を捜していった。
 五の四の三、五の四の四、…。
 あった。
 五の四の七は、予想通りに新築ほやほやの二階建ての家だった。
「森下」
 凝った飾り文字の表札の下に、家族の名前が並んでいる。
「森下進一郎
   由美子
   真理 」
 表札の下には、インターフォンもついていた。
 一瞬、正和は、そのボタンを押してみたい衝動にかられた。
 でも、押したところでいったいどうなるのだ。だいいち、父親は会社にでも行っていて、今は家にはいないだろう。玄関の横にある真新しいカーポートにも、車は停まっていなかった。
 正和は、引き返す前にもう一度たんねんに家をながめてみた。
 白い壁に、しゃれた出窓がついている。二階の窓はバルコニーになっていて、ふとんが干してあった。家の南側は、生け垣に囲まれた芝生の庭になっていて、まだ育ちきっていない庭木が何本か植えられている。
 正和が自転車の方向を変えようとした時、庭に面した一階のガラス戸が開いた。正和は、そのまま立ち止まった。
 すぐに、洗濯ものをたくさんかかえた女の人が、家から出てきた。
 その人は、正和が想像していたより、ずっと若かった。かあさんよりも、十才以上は年下に見える。
 女の人は、庭の物干しにシーツを干し始めた。
(でも、かあさんの方が少し美人だな) 
と、正和は思った。
 しばらくすると、三才ぐらいの女の子が庭へ出てきた。正和の妹にあたる「真理」という子に違いない。
 思わず生け垣に乗り出すように、中をのぞきこんでしまった。女の子は、洗濯ものを干しているおかあさんにまとわりつくようしたり、シーツをひっぱったりしている。
「こらーっ」
 おかあさんが叱る真似をすると、
「キャーッ」
と、大声を出してはしゃいでいる。
 父親の家庭は幸福そうだった。思わず、正和も微笑んでしまった。
「あっ、誰かいるよ」
 目ざとく正和を見つけた女の子が、こちらを指差しながら叫んだ。母親も振りかえる。正和はあわてて自転車をターンさせると、力いっぱいこぎ出した。

 正和は、予定通りに七時少し前に家へたどり着けた。
でも、すっかり疲れきって、到着時間はぎりぎりセーフだった。帰り道の途中で、バテバテになってしまったのだ。
 やっぱり、修一の忠告は正しかったようだ。特に、尻がサドルにこすれてはれあがっていた。
 でも、ラッキーなことに、下から見上げた正和の家の窓には、まだ明かりが灯っていなかった。かあさんは、まだ戻ってきていないようだ。
 正和は、自転車置き場に自転車をとめてきちんとカバーをかけた。そして、エレベーターを待たずに一気に階段をかけ上っていった。
 部屋に入ると、汗まみれのTシャツと短パンを脱いで洗濯機に放り込んだ。そして、すばやくシャワーをあびた。
 ピンポーン。
 ちょうどタオルで頭をゴシゴシこすっていた時、ようやくかあさんが帰ってきた。
「ただいまあ。さあ、ごはん、ごはん」
 かあさんはいつものように疲れきった表情をしていたけれど、無理して元気な声を出していた。
「おかえり」
 正和は何事もなかったような顔をして、かあさんに声をかけた。 
 夕食後、正和は湯船の中で疲れた筋肉をほぐしながら、久し振りに充実した月曜日になった今日のことを考えていた。
 もちろん、かあさんには今日のことは何もいえない。
 でも、父親の家へ行ったことも含めて、修一にだけは話してみたいような気がしていた。
 そして、
(夏休みの東北一周サイクリングに、一緒に連れていってくれるように頼んでみようかな)
とも、思っていた。



月曜日は自転車に乗って
平野 厚
平野 厚
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする