現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ノスタルジーを超えて

2018-04-30 08:35:31 | 考察
 児童文学を書き始めたばかりの時によくあるパターンとして、自分の子どもの頃の出来事や思いをそのまま作品にすることがあります。
 その時、よくはまる罠が、作者と現在の子どもの読者の作品理解度のギャップと、それぞれの問題意識のずれです。
 書き手が一定の年齢以上(一般的には三十代以上でしょう)の場合には、書き手と読者の子どもたちが育った(あるいは育っている)時代環境には、二十年以上のギャップがあります。
 特に、現代では子どもたちの風俗(特にディジタル機器と通信環境)の変化は非常に早く、作者が子どもの時の風俗をそのまま描いた場合には理解不能なことも多いでしょう。
 今の子どもたちにとっては、スマホやインターネットのない世界は想像しにくく、例えば、ポケベルや公衆電話による帰るコールや図書館での調べものなどは、注意して書かないと理解しにくいでしょう
 また、その当時の子どもたちにとって重要な問題(例えば、機械化による農村の変化、出稼ぎによる両親の不在、地元の商店街での大人との交流、子供会などの地域社会との関わり、子どもたちだけでの草野球や草サッカー、子どもたちの外遊びなど)も、現在の(特に都会の)子どもたちには共有できないことも多いでしょう。
 作者としては、そういったギャップがあることを自覚して、たんなる自分のノスタルジーを超えた作品世界を作り出す必要があります。


心をそだてる 子ども歳時記12か月
クリエーター情報なし
講談社
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イタロ・カルヴィーノ「おかずいれ」マルコヴァルドさんの四季所収

2018-04-28 11:16:15 | 作品論
 マルコヴァルドさんと裕福な家の男の子がお昼のおかずを交換する話です。
 マルコヴァルドさんは安いソーセージに、男の子は高級食材(香料と豚の脳みそが入ったソーセージです)のフライに飽き飽きしていました。
 この交換は二人に大きな満足を与えます。
 でも、理解のない家政婦の乱入でだいなしになってしまいます。
 家政婦に投げ捨てられて歪んでしまったマルコヴァルドさんのおかずいれが、二人の悲しみを象徴しています。

<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="amazon-aff">マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫)クリエーター情報なし岩波書店
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朽木祥「雛の顔」八月の光所収

2018-04-28 08:49:36 | 作品論
 2012年7月に出た戦争児童文学です。
 霊感の強い個性的な母親を娘の視点で見ていて、冒頭はなかなか面白かったです。
 また、文章も描写も非常にうまく、期待を持って読み進めました。
 しかし、原爆が投下されたあたりから、その設定が全く生かされなくなり、いわゆる「原爆体験物語」風になってしまいました。
 このあたりは、すでにいろいろな作品や記録で読んだことがあり、既視感を持たざるを得ませんでした。
 児童文学作家の那須正幹は1989年に、児童文学研究者で翻訳家の神宮輝夫との対談(現代児童文学作家対談5所収)で、戦争児童文学について以下のように述べています。
「いままでの戦争児童文学というのは、つねに自分たちの体験を伝えているわけです。それは大人の世界のことであって、いまの子どもたちからみれば、四十年まえにあった戦争なわけです。作品に描かれる世界は悲惨ですから、読者は読むときには泣きますよ。ところが、読んだあと、ああ私たちは戦争のなかった日本に生まれてよかったなで終わってしまう。ぼくは戦争を伝える文学として、それじゃ少しおかしいんじゃないかと思います。いまの子どもが、ひょっとしたらいまの日本だっていつ戦争になるかわからないんだという、一種の認識というか、核のボタンがいつ押されるかわからないんだということを認識するような作品を書かなくちゃならないんじゃないかという思いがあるわけです。」
 この対談が行われてから、さらに三十年の時間が流れ、被爆体験はさらに過去のものになり、朽木のこの作品のような二次創作で後世に伝えていくことにも意味はあると思います。
 しかし、問題は書き方で、朽木のこの作品も那須の指摘する問題を抱えている気がします。
 朽木は被爆二世とのことですから、その立場での経験をもっと生かした書き方をした方がいいのではと思いました。
 そして、新しく戦争児童文学を出すのならば、読書をしている間に読者に悲惨な事件を疑似経験させるのにとどまらずに、核兵器や放射能汚染の脅威が現代の問題でもあることを読者に考えさせる工夫が、特に福島の原発事故や北朝鮮の核実験の後では必要だと思います。
 そういう意味では、別の記事で紹介したアーサー・ビナードの「さがしています」のようなアプローチの方が有効だと思います。

八月の光
クリエーター情報なし
偕成社
コメント (2)
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辻原登「シンビン」Yの木所収

2018-04-27 09:29:16 | 参考文献
 未公開株がからむ詐欺事件で追われているキャリアウーマン(懐かしい言葉ですね)と、関東大学ラグビー対抗戦グループの試合を交差させる形で書いています。
 一見シャレた形なのですが、その試合が青山学院大学対慶応大学といった優勝争いには関係ない試合なので、両校(特に青山)のOBやOGでないかぎりまったく興味が持てません。
 私自身、六大学野球の東大対立教という最下位争いの試合を、両校のOBでもないのになぜか見たことがあります。
 その試合は純粋にゲームとして楽しめたのですが、それはかなりマニアックな嗜好でしょう。

 
Yの木
クリエーター情報なし
文藝春秋
 
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千早茜「イヌガン」眠りの庭所収

2018-04-26 08:24:31 | 参考文献
「アカイツタ」の十年後の後日談のようですが、はっきりしません。
 風俗や時間の経過にも無頓着で、かなりいい加減に書いてあります。
 文章も人物造形も低調で、正直にいって同人誌の初心者レベルとそんなに違わないので、商業出版されていることに驚かされます。
 しいていえば、登場人物たちが三十歳前後に設定されているのに、ひどく未成熟で独りよがりな点(まるで高校生のようです)が、現代の同様な女性たちにうけて、商品性があるのかもしれません。
 また、作品の中に民話風な話を入れているのですが、このままでは成功しているとは思えません。
 この点では、児童文学には民話を生かしたもっと優れた作品(例えば、松谷みよ子の諸作品など)がたくさんあります。

眠りの庭 (単行本)
クリエーター情報なし
角川書店
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大江健三郎「小説の悲しみ」静かな生活所収

2018-04-25 09:08:57 | 参考文献
 主人公の女子大生マーちゃんの卒論(セリーヌの「リゴドン」についてです)の準備を中心にして、弟の浪人生のオーちゃんの予備校での模試の結果、障碍者の兄のイーヨーも含めたクリスマスの食事会を通して、小説(特に子どもの取扱い)の持つ悲しみについて、セリーヌやエンデの作品などを題材にして語られているので、児童文学、特に現在はあまりいないと思いますがシリアスな内容の作品を書こうとしている人には参考になります。
 ただ、一応マーちゃんの語りで書かれているのですが、この短編集の他の作品より父親(作者)の考えが色濃く表れていて、主人公たちの個性がかなり制限されているように感じました。
 また、上智大のフランス文学専攻の三年生と思われるマーちゃんや浪人生ながら東大理科二類(生物学者を目指しています)に合格確実と模試で判定されているオーちゃんは、かなり自在にフランス語や英語の原書を読みこなせるようで、ともすれば、読者には会話の内容がややスノッブな感じ(例えば、東大と書かずにただ理科二類とだけ書いてあります)に受け取られるかもしれません。
 それを、文中でオーちゃん自身が語っているように、障碍者であるイーヨーの企まざるユーモアが救っています。

静かな生活 (講談社文芸文庫)
クリエーター情報なし
講談社
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児童文学における時代設定と用語の関係

2018-04-25 08:31:57 | 考察
 かつては何刷も重ねて再版される児童文学の本が多かったのですが、現在では消費財化が進んで人気のあるエンターテインメントを除くと再版はおろか二刷さえ行われない本が大勢を占めるようです。
 そういった状況においては、普遍的な価値よりも現在の子どもたちにいかに読まれるかが、ますます重要になっています。
 そうした時には、作品の時代設定と作中に使われる用語との関係には、以前より気をつける必要があります。
 例えば、「出稼ぎ」という言葉は、二、三十年まえまでは、東北などの雪国の農家の人たちが、冬の農閑期に都会などへ働きに来ることを意味していましたが、今ではその意味で作品中に使っても、大多数の(特に都会の)子どもたちには通用しません。
 現在では、それらの労働を指す言葉としては、「出稼ぎ」よりも「季節労働者」の方が一般的に使われていますし、「出稼ぎ」という用語は、現代ではブラジルなどの南米や、フィリピンなどの東南アジアの人々が日本で働くことを指すことの方が多いようです。
 児童文学の場合、一般的に作者と読者である子どもたちが育った時代が違うことが多い(特に作者が高齢になるにつれてそれは拡大します)ので、用語ひとつをとっても、その両者が意味を共有できることに注意をはらう必要があります。


出稼ぎ日系ペルー人の127日 日垣隆短編コレクション
クリエーター情報なし
銀河系出版
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椎名誠「黄金時代」

2018-04-24 14:05:29 | 参考文献
 作者の夥しい作品群の中では、純文学的な位置を占める作品です。
 中学三年から写真大学に入学したあたりまでの5、6年間を、作者の最大の武器である緻密な記憶力で描き出しています。
 作者のこの時代については、いろいろなエッセイやユーモア小説で度々描かれているので、エピソード自体にはあまり新鮮味はないのですが、それをストイックなまでに自意識をむき出しにして書いているのが他の作品にはない魅力になっています。
 主人公の年齢で言えば、この作品は児童文学ならばヤングアダルト物にあたります。
 そういった作品のにつきものの恋愛や性体験なども出てくるのですが、そうしたものよりも喧嘩や肉体労働が物語の中心になっているのは、作者の青春が軟派よりも硬派的な要素が強かったことによるのでしょう。
 酒や煙草を日常的にのんでいて、喧嘩に明け暮れているのに、主人公(作者)に崩れたものを感じないのは、それと並行して肉体労働や自分のやりたいこと(写真など)に真摯に向き合う姿がしっかりと描かれているからでしょう。
 こうした青春時代は、作者のその後の活躍の土台になっていて、いろいろな作品で多くの読者を引きつけているのだと思われます。

黄金時代 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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藤野可織「ちびっこ広場」爪と目所収

2018-04-24 08:50:33 | 参考文献
 若い母親と7歳の息子の結びつきについて描いた作品です。
 この本に入っている他の二編と違って、あまりにも普通の書き方の平凡な作品なので驚かされました。
 もっとも、この短編は他の作品より四年も前に書かれたものなので、その間に作者は変貌を遂げたのでしょう。

爪と目
クリエーター情報なし
新潮社
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藤野可織「爪と目」爪と目所収

2018-04-23 08:37:03 | 参考文献
 第149回芥川賞の受賞作です。
 若い作者らしい新しい魅力を持った短編です。
 三歳の女の子を主人公にして、母親の事故死の後に、父親の不倫相手の若い女と共棲するといった非常に今日的な状況が描かれています。
 精緻な文章、無機質な人間関係、あっさりしすぎるほど簡単に結びつく男女、ブログやネットショッピングなどの新しい風俗の取り扱い方、衝撃的な結末など、優れた点はたくさんあるのですが、児童文学を書く上で特に刺激になったのが視点の取り方です。
 この作品は、主人公の一人称(わたし)で書かれているのですが、もちろんそれだけでは成立しないので、二人称(あなた)も用いられ、さらに三人称(神の視点)も含めて立体的に描かれています。
 これから児童文学を書いていく上では、子どもの視点だけでなく大人の視点も取り入れて描かないと、現代的な問題は捉えきれないでしょう。
 そういった意味では、これからのリアリズムの(現代)児童文学を書く上で、この作品はおおいに参考になります。

爪と目
クリエーター情報なし
新潮社


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蜂飼耳「箱のなかみ」のろのろひつじとせかせかひつじ所収

2018-04-22 09:29:23 | 作品論
 せかせかひつじが、旅の行商人から毛が生える薬を買い、毛が早く伸びすぎてしまって困る話です。
 特にひねりもユーモアもなく、依然として二匹のヒツジの友情もうまく描けていない凡庸な話です。
 単なる思い付きをお話にしただけで、童話を書き始めたばかりの初心者の女性が書いた作品のレベルと五十歩百歩です。
 なんでこんなのが商品になるのかといえば、作者の名前の持つブランド力でしょう。
 それでも、この本を「かわいい」なんて言って購入するお客もいるでしょうから、商売として成り立つわけです。
 お笑いタレントのつまらない本が、ベストセラーになるのと同じ仕組みです。
 それ自体は出版社にとってはビジネスなので仕方がないのですが、とうぜん弊害はあります。
 「悪貨は良貨を駆逐する」
 これは世の常で、どんな世界でも通用することです。
 こういった本が出版される代わりに、現代の子どもたちの姿を真摯に描いた作品などは出版されなくなります。
 
 
のろのろひつじとせかせかひつじ (おはなしルネッサンス)
クリエーター情報なし
理論社

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辻原登「首飾り」Yの木所収

2018-04-21 09:04:11 | 参考文献
 この作品でも、辻原の博覧強記ぶりは、クラシック音楽、文学、料理、酒、海外旅行などについて、いかんなく発揮されています。
 しかし、登場人物が成功した作家(辻原の分身と思われます)とその妻、友人の大学教員であるディレッタントとその妻、クラブのママなどとなると、スノッブ臭くて読むに堪えません。

Yの木
クリエーター情報なし
文藝春秋
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舞城王太郎「アユの嫁」短編集五芒星所収 群像2012年3月号 

2018-04-20 08:28:18 | 参考文献
 非・連作短編集の第二編の短編です。
 おとなしく存在感がなかった姉が、いきなりアユ(の精?)に嫁いでしまいます。
 両親も主人公(妹)も、だんだん姉の存在を忘れていってしまいます。
 そんな時、姉から妊娠して困っているとの連絡がありました。
 やはり異なる種同士の配合は禁忌だったようです。
 結局、姉は赤ちゃんを産みますが、五年で死んでしまいます。
 非現実的な設定ですが、描き方は現実的で、そのアンバランスさが魅力になっています。
 人間世界のもろさ、家族の関係とは何か、どんな環境におかれても頑張って生きていくことの大切さなど、いろいろな問題にゆさぶりをかけていて興味深い短編になっています。
 非現実と現実の共存、物語の視点の取り方など、児童文学を書く上でもいろいろなヒントが含まれていました。

群像 2012年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
講談社
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少女小説における男の子の描き方

2018-04-18 09:41:54 | 考察
 現在の児童文学の読者の大半が、幅広い年代の女性であることは、他の記事でも繰り返し述べたとおりです。
 そういった意味では、少女小説はエンターテインメントであるかシリアスなものであるかは別として、一種の少女小説であることが多いと思われます。
 そういった作品の中での主要な登場人物は女の子なのですが、たいがいの場合は何らかの形で男の子たちも登場します。
 また、中には男の子たちを主人公にした女性作家の作品もあります(この場合も、主な読者は女性です)。
 その両方の場合において、男の子たちは自然主義的リアリズムで描かれることは少なく、何らかの形で女性作家の中で理想化されたりデフォルメされたりした形で描かれることが多いです。
 これは、単純に勉強やスポーツの得意な優等生タイプの男の子ばかりを意味するのではなく、その裏返しとしての不良っぽい男の子が描かれる場合もあります。
 しかし、総じてルックスは人並み以上に設定されることが多く、そこには書き手(さしえ画家も含めて)の嗜好が反映されたカッコいい男がの子たちが描かれることが多いです(「バッテリー」などの佐藤真紀子の挿絵を想像していただくとわかりやすいかもしれません)。
 当然、その裏返しのかなりずっこけた三枚目的な男の子たちも、そういった作品ではよく描かれます。
 そして、このような作品世界でほぼ絶滅しかけているのが、ルックスも性格も成績も運動能力もごく普通の男の子たちです。
 1980年代には、森忠明や皿海達哉たちが、そういった男の子たちを主人公にした優れた作品を出版していましたが、現在ではほとんど商業出版することは不可能でしょう。

岡田淳・斉藤洋・皿海達哉 現代児童文学作家対談 (8)
クリエーター情報なし
偕成社
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ナンセンスかユーモアか

2018-04-17 09:12:53 | 考察
 児童文学のジャンルとしてナンセンスがありますが、最近はどうもユーモアと区別されずにこの用語が使われていることが多いように思えます。
 日本児童文学学会編の児童文学辞典によると、「ナンセンス」とは、「ことば遊びをも伴うことがあるが、現世的な価値観、既成概念の崩壊、秩序からの脱却が潜んでいて、その本質は自由と解放にある。」と記述されています。
 そして、現代児童文学におけるナンセンスの代表作として、寺村輝夫「ぼくは王さま」、舟崎克彦「ぽっぺん先生の日曜日」(個人的には舟崎靖子との共著の「トンカチと花将軍」の方が好きです)などをあげています。
 一方、「ユーモア」は、「おかしさの一形態で、風刺のように憤怒に基づく攻撃的なものでなく、許容と共感に基づき、他者を傷つけることのない調和的な複合感情で、ゆとりある態度より生まれ、他者の心を開放する。」となっています。
 こうしてみると、現在の「おかしさ」を狙った作品の大半は「ユーモア文学」であり、「ナンセンス」作品は払底しているように思えます。

トンカチと花将軍 (福音館文庫 物語)
クリエーター情報なし
福音館書店
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