現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

「早大児文サークル史」

2016-10-12 08:55:49 | 参考文献
 児童文学研究会(1972年に、当時新左翼のセクトである革マル派に支配されて実質的に児童文学の活動ができなくなっていた少年文学会から、スピンアウトして発足した現在早稲田大学唯一の児童文学サークル。この冊子の発行当時の会員数は90人強)と早稲田文芸会(早大童話会及び少年文学会の後継サークル。現在は児童文学を対象とはしていない。この冊子の発行当時の会員数は60~70人)の学生たちが、2011年に発行して、2012年に増補改訂版を出した、早稲田大学の児童文学関連のサークルの通史です。
 早稲田大学の児童文学サークルは、1925年に早大児童芸術研究会(後に早大童話会と名称変更されています)として発足しています。
 発足当時の顧問は、なんと日本近代童話で「三種の神器」とまで言われていた、小川未明、浜田広介、坪田譲治という豪華版でした。
 この資料では、残念ながら戦前の活動の記録はほとんどなく、1953年のいわゆる「少年文学宣言」以降の歴史についてまとめられています。
 ですから、このブログの対象である「現代児童文学」の時代と完全に重なります。
 学生たちが、いい意味で怖いもの知らずに取材したので、今まであまり知られていなかった早大童話会における現代児童文学の出発時の状況について、貴重な証言がたくさんおさめられています。
 内容は以下の通りです。
「インタビュー 古田足日「早大童話会と、子どもと、児童文学を志す人たちについての話」」
「インタビュー 山中恒「50年代の早大童話会、「少年文学」をふりかえって」」
「座談会 神宮輝夫、三田村信行、千葉幹夫他「児童文学いま、むかし」(日本児童文学2011年7・8月号からの転載)」
「インタビュー 川北亮司「少年文学会から児童文学研究会へ」」
「記事 児童文学研究会設立期会員「児文研ができたころ」」
「座談会 いとうひろし、荻原規子、上村令、戸谷陽子「あの日、児文研で」」
「インタビュー 少年文学会平成期会員「平成の、少文」」
「インタビュー ’06年文芸会幹事長「『わせぶん』が生まれた日」
「記事 ’11年度文芸会、児文研幹事長「近頃のわせぶん/児文研の現状」」
「年表 早大児文サークル史をとりまいていたもの」
「各画像 現物でふりかえる-少年文学いま、むかし」
 通して読んでみると、学生たちの児童文学へのかかわり方について、1950年代の早大童話会及び1960年なかばまでの少年文学会までと、1972年にできた児童文学研究会とでは大きな違いがあることがわかります。
 ここで説明しておきますが、1972年以降も少年文学会は存在していました。
 しかし、前にも述べたように1968年ごろから革マル派に実効支配されて児童文学活動はできない状態が続き、1980年代に学生運動が完全に下火になって革マル派の支配が弱まってからも児童文学から一般文学の方に活動が移ったので、実質的な児童文学活動はほとんどなかったと思われます。
 大きな相違点は次のふたつです。
 ひとつは、運動体的な活動から同好会的な活動への変化です。
 1950年代から1960年代にかけては、「現代児童文学」を新しく創造するための重要な役割を、早稲田大学の学生たちやそのOBたちが担っていました。
 しかし、1970年代以降は、そういった運動体としての意識はほとんどなく、(大学時代の楽しい思い出として)、好きな児童文学について語り合う場に変貌したように思われます。
 そのゆるい雰囲気と結びつきゆえに、児童文学研究会は現在では90人を超えるような大きなサークルになっているのでしょう。
 もうひとつは、学生サークルの非政治化です。
 1950年代や1960年代の早大童話会(少年文学会)には、代々木系(民青や日本共産党のこと。代々木に日本共産党の本部があることからこう呼ばれていた)にしろ、反代々木系(新左翼の革マル派や中核派など)にしろ、なんらかの政治的な影響を受けた学生たちが多く参加していたと思われます。
 それに対して、児童文学研究会は当初からほぼノンポリのサークルでした。
 私は発足直後の1973年4月の初めての新歓で児童文学研究会に入会したのですが、当時はサークル内には学生運動崩れのメンバーもいましたし、自分が幹事長をしていた時には革マルや民青からのサークルへの干渉を排除したこともありました。
 それでも、非政治的なサークルとしての立場は、一貫していたと思います。
 これは、児童文学サークルだけでなく一般的な傾向としても、70年安保の挫折とその後の新左翼各派の内ゲバによって、学生の政治運動離れは急速に進んでいました。
 早稲田大学の場合は、1972年におきた革マル派による川口くんリンチ虐殺事件を契機に、反革マルの機運が盛り上がりました。
 その時、私は早稲田大学高等学院の三年生でしたが、高等学院でも川口くん追悼集会が行われましたし、革マル派への抗議文も生徒集会で採択されました。
 当時、革マル派は大学当局と裏で手を結んでいたとされ、早稲田大学の各学部の自治会や文連(早稲田大学の文化系サークルの連合体で大学から予算を受けている)を支配していました。
 1972年から1973年ごろにかけて、学生運動の他セクトや一般学生たちの反革マルの闘争は続きましたが、最終的には革マル側(バックには大学当局もついていたとされています)の勝利に終わります。
 その後も革マル派の早稲田大学の実効支配は続いて、自分の大学の学園祭(早稲田祭)に入場するのに、有料パンフレットを買わなければならない(革マル派の有力な資金源になっていました)というほどの異常な状態が長年続きました。
 その間に、一般学生の学生運動離れは急速に進んでいきました。
 この学生たちの非政治化は、先に述べた大学の児童文学サークルが児童文学の運動体でなくなったこととも密接に関係していると思います。
 児童文学研究会が運動体である必要はないと思いますが、今でも「研究会」と銘打つ以上は、学生たちに児童文学を研究する意識が希薄なのはOBとして少々気にかかります。
 その学生の状況を反映してか、早稲田大学のシラバスを「児童文学」で検索すると、45もの授業にヒットしますが、たいがいは他の文学(例えば、近代文学とか英米文学)や語学(ドイツ語やフランス語)の教員が、片手間に「児童文学」の講義を持っているケースが多く(その中には児童文学研究会で私と同期だった女性の教員が二名含まれています)、「児童文学」を専門とする専任教員は一人もいないのが実情です。
 もしかすると、1978年に早大童話会出身の鳥越信先生が教授の職を辞して、彼が寄贈したコレクションを中心として創設された大阪府立国際児童文学館(2010年にあの橋本知事に廃館にされて問題になったところです)に移ってから、専門教員はいないのかもしれません。
 「児童文学」の専門的な授業は、他の大学からの二人の教員(しかも一人は戦前の少女小説と現在のライトノベルが専門分野なので、現代児童文学は授業計画の中からすっぽり抜けています)に頼っています。
 なお、大学院のシラバス検索結果はもっと悲惨で、ドイツ語の教員の授業が一つだけかろうじて引っかかるだけです。
 今でも、他大学出身の児童文学の研究者には、「児童文学の勉強や研究をやるなら早稲田大学で」と言わることもありますが、実は以上のようにお寒い状態です。
 もっとも、日本児童文学学会の会長だった佐藤宗子の母校である東京大学のシラバスを「児童文学」で検索しても検索結果はゼロですから、それに比べれば早稲田大学はまだましなのかもしれません。

日本児童文学 2011年 08月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店




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2 コメント

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おやまあ… (川北亮司)
2014-01-20 15:37:43
偶然見つけました。

ありがとうございます。
「早大児文サークル史」、まとめておいて立ってよかったです。
Unknown (かった)
2016-07-10 15:41:28
はじめまして。
全国の「児童文化研究部」系サークルが行っていた学生児童文化運動の歴史と衰退経緯、現在の状況についてかつてまとめていたことがあります。
とても共感できるところが多く、楽しく読ませていただきました。

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