旧制女学校の総会で、議長をやらされました。
2日前、事務局から人が見えて、総会での議長をお願いします。とレジメを渡されました。
不慣れだし、近頃は自分でも老耄を自覚していることですからと、お断りしましたが、「もう、みんな年寄りです。」といわれてしまいました。
いつもお付き合いいただくグループでは、どこでも、たいてい最年長ということになっていますので、ついいつもの甘えが口に上ったものです。
考えてみると、私たち25回生の下には、2期しかありません。27回までで、あとは新制高等学校に統合されていますから、この会では若手グループです。引き受け手がなくて困っているといわれて、引き受ける羽目になりました。
この歳になると、名簿には故人の欄の記載が増え、総会への出席も、自分の事情だけでなく、家族の介護等でままならない人も多数です。
各期の代表幹事を中心に、本日の出席は97名、議事は、案じたような紛糾もなく無事に終了できて、ほっとしました。
出席者の最年長は、昭和10年卒業の14回生で、今年90歳の方でした。矍鑠として、杖の助けもなく、明るい「乾杯!」の声も堂々としておいででした。
昨年までは10回生が1名出席されていましたが、今年の出席はありませんでした。
今年卒寿と米寿のかたに小さな花束の贈呈が行われたのが、女学校の同窓会らしい盛り上がりでした。
久しぶりの縦の会合では、かつて戦時下の学徒動員で、風船爆弾製造に明け暮れた小倉造兵廠での日々、食糧生産で、校庭のそこここを耕したことなどが話題になります。
統合で学籍は移って、いまは母校と呼べなくなっている学校をお借りしての今回の総会ですが、巣立ちの場であった事実は紛れもなく、春休みの校庭を走り回る体育系の男子生徒の姿を新鮮な目で眺めました。
今日満開の桜だけは往時のまま、年老いて枯れ細った姿ながら、柊坂(戦時中は報国坂と呼んでいました)の長い両脇で出迎えてくれました。60年ぶりの対面でした。
この会が、あと何年続けられるか、会員数はひたすら減り続けるだけですから、私たちの期の前後だけで運営を維持できる期間が尽きると、その後は統合後の高等学校にお任せすることになります。
下の写真は、入学した頃の面影を伝える校舎の模型と、校門から今も続く桜並木です。
2日前、事務局から人が見えて、総会での議長をお願いします。とレジメを渡されました。
不慣れだし、近頃は自分でも老耄を自覚していることですからと、お断りしましたが、「もう、みんな年寄りです。」といわれてしまいました。
いつもお付き合いいただくグループでは、どこでも、たいてい最年長ということになっていますので、ついいつもの甘えが口に上ったものです。
考えてみると、私たち25回生の下には、2期しかありません。27回までで、あとは新制高等学校に統合されていますから、この会では若手グループです。引き受け手がなくて困っているといわれて、引き受ける羽目になりました。
この歳になると、名簿には故人の欄の記載が増え、総会への出席も、自分の事情だけでなく、家族の介護等でままならない人も多数です。
各期の代表幹事を中心に、本日の出席は97名、議事は、案じたような紛糾もなく無事に終了できて、ほっとしました。
出席者の最年長は、昭和10年卒業の14回生で、今年90歳の方でした。矍鑠として、杖の助けもなく、明るい「乾杯!」の声も堂々としておいででした。
昨年までは10回生が1名出席されていましたが、今年の出席はありませんでした。
今年卒寿と米寿のかたに小さな花束の贈呈が行われたのが、女学校の同窓会らしい盛り上がりでした。
久しぶりの縦の会合では、かつて戦時下の学徒動員で、風船爆弾製造に明け暮れた小倉造兵廠での日々、食糧生産で、校庭のそこここを耕したことなどが話題になります。
統合で学籍は移って、いまは母校と呼べなくなっている学校をお借りしての今回の総会ですが、巣立ちの場であった事実は紛れもなく、春休みの校庭を走り回る体育系の男子生徒の姿を新鮮な目で眺めました。
今日満開の桜だけは往時のまま、年老いて枯れ細った姿ながら、柊坂(戦時中は報国坂と呼んでいました)の長い両脇で出迎えてくれました。60年ぶりの対面でした。
この会が、あと何年続けられるか、会員数はひたすら減り続けるだけですから、私たちの期の前後だけで運営を維持できる期間が尽きると、その後は統合後の高等学校にお任せすることになります。