「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

同窓会総会

2007年03月31日 | 塵界茫々
 旧制女学校の総会で、議長をやらされました。
 2日前、事務局から人が見えて、総会での議長をお願いします。とレジメを渡されました。
 不慣れだし、近頃は自分でも老耄を自覚していることですからと、お断りしましたが、「もう、みんな年寄りです。」といわれてしまいました。

 いつもお付き合いいただくグループでは、どこでも、たいてい最年長ということになっていますので、ついいつもの甘えが口に上ったものです。

 考えてみると、私たち25回生の下には、2期しかありません。27回までで、あとは新制高等学校に統合されていますから、この会では若手グループです。引き受け手がなくて困っているといわれて、引き受ける羽目になりました。

 この歳になると、名簿には故人の欄の記載が増え、総会への出席も、自分の事情だけでなく、家族の介護等でままならない人も多数です。
 各期の代表幹事を中心に、本日の出席は97名、議事は、案じたような紛糾もなく無事に終了できて、ほっとしました。

 出席者の最年長は、昭和10年卒業の14回生で、今年90歳の方でした。矍鑠として、杖の助けもなく、明るい「乾杯!」の声も堂々としておいででした。
 昨年までは10回生が1名出席されていましたが、今年の出席はありませんでした。
 今年卒寿と米寿のかたに小さな花束の贈呈が行われたのが、女学校の同窓会らしい盛り上がりでした。
 久しぶりの縦の会合では、かつて戦時下の学徒動員で、風船爆弾製造に明け暮れた小倉造兵廠での日々、食糧生産で、校庭のそこここを耕したことなどが話題になります。
 統合で学籍は移って、いまは母校と呼べなくなっている学校をお借りしての今回の総会ですが、巣立ちの場であった事実は紛れもなく、春休みの校庭を走り回る体育系の男子生徒の姿を新鮮な目で眺めました。

 今日満開の桜だけは往時のまま、年老いて枯れ細った姿ながら、柊坂(戦時中は報国坂と呼んでいました)の長い両脇で出迎えてくれました。60年ぶりの対面でした。

 この会が、あと何年続けられるか、会員数はひたすら減り続けるだけですから、私たちの期の前後だけで運営を維持できる期間が尽きると、その後は統合後の高等学校にお任せすることになります。

下の写真は、入学した頃の面影を伝える校舎の模型と、校門から今も続く桜並木です。






全然大丈夫

2007年03月29日 | ああ!日本語
 若い人と会話していて、耳に逆らう言い方の一つに、全然の後に否定の語を伴わず、肯定を強める表現として使う言い方があります。
 昔、学校で、「全然できなかった。」「全然記憶にない。」のように下に打消しの意味を表す語を伴って用いると教わりました。この習慣が染み付いていて、肯定で使われるとなにか違和感があるのです。
 でも、考えてみると、全然とは、「全くしかり」と書くのですから、副詞の用法で、ことごとく、すっかり、すべてにわたって、全部といった意味で使用されるとなると、あながち否定詞を侍らさねばならないと、決まったものでもなさそうです。

 そこで、辞書に当たってみました。
 ありました。明治の文豪たちが、肯定で使っています。(日本国語大辞典・小学館より)
 ・僕は全然恋の奴隷であったから  国木田独歩“牛肉と馬鈴薯”
 ・腹の中の屈託は全然飯と肉に集注してゐるらしかった  夏目漱石“それから”
 ・「一体生徒が全然悪るいです」  夏目漱石"坊ちゃん”
 その他、葛西善蔵“椎の葉”、坪内逍遥“諷誡京わらんべ”と事例に事欠きません。
 さらに国定教科書でも、昭和初期(8年)までは必ずしも全然+否定形は、徹底していなかった事例がありました。いつから今のように、全然+否定形で指導されるようになったのでしょう。

 やがて、全然は、“とても”が辿ったように、肯定形、否定形の両方に使われるようになるのでしょう。時代と共に変貌するのが言葉ですから。

 若者たちの生活の中では、日常的にすでに肯定で違和感は全然ないようです。
 上記の辞書の最後には、(口頭語で肯定表現を強める)非常に。「ぜんぜんすてき」「ぜんぜんいかす」と用例が出ていました。
 ちなみに、パソコンでは、ご親切にも全然を肯定表現で使うと?波線で注意を喚起してくれます。




花便り

2007年03月27日 | みやびの世界
 よく言ったもので、”暑さ寒さも”のお彼岸が過ぎると、春も本番といったこのごろです。桜の開花宣言を初め、ブログでもあちらこちらから花便りが届きます。
 車を走らせていても、遠くの山に、白く、あるいは淡いくれないに彩られた繁みを見つけては、あんな所に桜があったのかと気付かされる発見も、楽しいものです。山桜はもう散り始めた気の早いのもあります。ソメイヨシノは週末辺りから見ごろでしょうか。



 この季節は、やはり桜の西行でしょうか。新古今集や、源氏物語の世界にさまよいたくなります。折りしも「和楽」4月号の表紙は源氏物語図屏風(プライス・コレクション 作者不詳)「花宴」6曲1双の春の屏風から採られていました。

 源氏物語の中でも印象的な優雅な場面です。南殿での花の宴の後、咲き誇る桜の下で、”朧月夜に似るものぞなき”と口ずさむ朧月夜君(六の君)と源氏が、弘徽殿の細殿で出会うシーンです。 
 桜の持つ、何か運命的なものを感じさせる妖艶な美に、いかにも似つかわしい雰囲気を漂わせています。

 吉野山こづゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき

 吉野山こぞのしをりの道かへてまだみぬかたの花を尋ねん

 どちらも西行です。胸さわがせる花であることは昔も今もです。
 
 
 こうした花の季節ですが、能登半島では、2年前の丁度今頃、福岡県沖地震の驚愕を想いおこさせる震度6を超える地震で、今も余震の最中にあるようです。予測もされなかった災害で、被災された方々のつつがなきことをこころよりお祈りします。


雨の日

2007年03月24日 | 絵とやきもの
 朝から雨の一日、久しぶりに熊谷守一のクロッキー集“鳥獣虫魚”を出してきて、眺めていました。

 
といっても、この本は、1975年、守一95歳の折に刊行された限定本に追加、再編集して、普及本として再販されたものです。

 この晩年に守一が到達した境地は(クロッキーは昭和25年から40年ごろにかけての作品)、憧れの画家といっても、真似ようとして真似られるものではなく、傍観するのみの世界です。

 名誉、名声と無縁の世界に生きて、独自の清らかな生涯を全うした守一の心のありどころが、活き活きと表現されています。良寛の書に通じる世界を思います。
 守一の言葉から
 “私は虫が好きです。蝿とか蚊とかが世の中からいなくなったら、世の中はずい分つまらなくなると思う。蝿なんか面白い。とにかく夏になって蝿がブンと飛んできたり、病気なんかしている時に良いです。昨日もフレームの中で蛇が出てきたが賑やかで良い。”

 “絵の仕事は、時代と住む所と時とが、妙な具合にからんでいまして、まるでさずかりものです。”    (談 雑誌「心」より

 気持ちを動かされて、また筆をとりました。ラグタイムさんが花大根に亡くなられた母上様を重ねて偲んでおられたので、私も好きな花ですから、以前描いていたのを1枚探し出して加えました。
雨の一日の作品集です。









忘れられた貝母(ばいも)

2007年03月21日 | 季節のうつろい
 そろそろ桔梗の芽が出ていてもいい頃と、目を凝らして探していました。
 桔梗の挨拶を受けることはなくて、クリスマスローズの陰に1本だけ貝母百合が立っていました。別名を編笠百合。垂れ下がった花と花弁の網状の模様からの呼び方でしょう。清楚な風情で、今の季節の好きな花です。

 この貝母は、夫と諍いを起こしたいわく付きです。
 雑草と思ったらしく、2年前、群生をきれいさっぱりと抜き取ってくれました。草取りを怠った方が悪いのですが、他にも草は生い茂っているものを、もう私の手許からは消えたものと諦めて、そのうち完全に記憶の中から消えていました。
 どこかで小さな球根がじっと成長を続けていたものとみえ、ひょろりと1本だけの寂しげな姿です。剪り取るのもいたわしくて、毎日見ていましたが、思い切って、お彼岸の入りの日に鋏を入れ、亡き母にも見てもらいました。
 来年もまた訪れてくれることを祈っています。

 もう1枚はゆすら梅の可憐な姿です。もうすぐ満開の時を迎えます。実も愛らしい赤い粒なのですが、どういうわけか、さくらんぼの傍で目立つはずなのに、小鳥たちの嗜好に合わないと見えて食べられることはありません。

 岩八つ手の花はもう満開です。庭の花も主役が交代してゆきます。







季節の名残

2007年03月19日 | 絵とやきもの
 半年あまり絵筆を執ることもなく過ごしていました。久しぶりの線は、迷いや躊躇いで思うようにゆかず何枚も書き損じました。

 菜の花のイメージをとどめておきたくて2点、全く違った捉え方です。
 土筆はとうとう絵になりませんでしたが、過ぎ行く季節の名残に1点だけ残しました。
 毎年の画題にする椿ですが、今年の椿は自分では気にいっています。

 立体枠を付ける練習を兼ねて、いろいろ試みてみました。練習はいいのですが、中の絵と不釣合いの立派過ぎや、重くなったりで、意図したものとは違ってしまいました。

 まだまだ絵同様、初心者の段階から脱け出せず、思うに任せないパソコン操作を嘆いています。




 


 


 



 





陶三望の作品

2007年03月16日 | 絵とやきもの

 陶三望は、弟の窯の呼称です。昭和50年ごろ、加藤唐九郎氏との出会いから、現代陶芸の蒐集を始め、唐九郎や、魯山人の作品などを集めては楽しんでいたのが、ついには自分で窯を持って焼き始めたものです。

 備前に単身赴任していた夫のところを訪問して、備前焼に接した若い日が出発点でした。夫は単身赴任のつれづれに、備前の作家に轆轤の手ほどきを受け、技術屋らしい律儀な形の徳利を得意としていました。酒器としてより、もっぱら花入れとして使用していました。
 対照的に、弟の作品は、豪快な紐つくりの、大壷や、蹲(うずくまる)、まな板皿を得意とします。
 本歌が手元にあり、すぐれた作家の直接のご指導を受け、目も利くようになってからの作陶ですから、めきめき腕を上げたようです。もう一人、甥が、日常使いの食器を中心に、茶碗もなかなかの作品を上げるようになっていました。

  
左は私のお気に入りの織部花生

上の織部花器「翔」(30,5x28x13cm)は、西武・渋谷店での作陶展の折の案内状です。
 
 いまは、健康上の理由から、大きなものを作れなくなって、窯は休んでいますが、今年いっぱいで、仕事から離れるので、また作陶を開始するようです。
 東京でも西武百貨店池袋店や、渋谷店での個展をはじめ、岡山丸善、宮崎山形屋ほか、何度か作陶展もやっていました。
 
  ブログで知り合いになった方々に、是非にといわれていましたので、手近なものでネット展です。


 本業ではなかったので、褒められれば、気前よく人にあげるため、どうしても、よい作品から出てゆくことになります。いいものが残っていないのが残念ですが、ご覧ください。
 久留米井筒屋で、初めての個展の折に、記念に私が買った大壷や、日ごろ彼の家で使われているものをUPします。

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<陶三望の作品・その1
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訃報 時実新子さん

2007年03月13日 | 歌びとたち
 現代川柳作家の時実新子さんには、「有夫恋」で、衝撃的な出会をしました。以来、その切り口の鮮やかな句に惹かれ、とりこにされて、墨彩画の賛にお借りしたりしてきました。
 1929年生れの同年です。

 10日、肺がんのため神戸で亡くなられたと新聞報道で知りました。
 いまや、川柳界の寵児として与謝野晶子になぞらえる人もいます。一世を風靡し、多くの新子ファンを持ち、充分に燃焼させた生であった別世界の人で、生きる次元が違っていても、同じ時代、同じ時間の流れを共有した人が、表舞台から去ってゆくのは、格別のものがあります。

 まして、敬愛していた人の訃報です。なす術もなく、遺された句を拾って、心からご冥福をお祈りするのみです。

     れんげ菜の花この世の旅もあとすこし

     箸重ね洗う縁をふと思う

     人の世に許されざるは美しき

     倖を言われ言い訳せずにおき

     男の嘘に敏感なふしあわせ

     明日逢える人のごとくに別れたし


「若冲と江戸絵画」展が終了

2007年03月12日 | 絵とやきもの
 
 1月1日から始まった「若冲と江戸絵画展が、3月11日で長い会期を終了しました。

 この間、ポスターが好評で、全国千ヶ所以上に配布したものが補給しても次々持ち去られてなくなってしまうという、ハプニングで、ニュースになりました。美術系の学生に好評だったようです。入場者も27万人を超えたそうですが、会場でも、従来この種の展覧会にはあまり見られなかった若い人を多く見かけました。

 手術後の足慣らしで、少しずつ距離と滞在時間を延長した外出をしている夫と同伴で、太宰府まで、平日、好天の日の朝一到着、を条件にして出かけました。

 展覧会に関しては、すでに多くの方が、ホームページやブログで観賞の報告をなさっていらっしゃると思いますので、詳細は避けますが、曲がりなりにも絵筆を執って、趣味のひとときを楽しむ身には、やはり1級の作品を至近の距離で、画家の息遣いまで感じられるような筆力を観ることができるのは何よりの幸せです。
 まして、今回の展示は海外に流出してしまった作品群です。気を引き締めて丁寧に2時間余りたっぷり観賞しました。

 会期も残り僅か2日となった金曜日とあって、朝の人出はまばらで、行列もなく、好みの絵の前では立ち止まってメモをとることも可能でした。
 桃山以来の、もう一つの山が、爛熟した江戸の文化を背景として花開いている姿をまざまざと見ました。そして今これらの絵画が日本に存在しないことを悲しいと思ったことです。

 それにしても、200年も前の絵画が、現代に持ってきても違和感なしに融合する斬新さ、モダンさを示し、衒いもありません。襟をただし、居住いを直して拝観するようなものではなく、肩の力を抜いて、楽しい気分で眺めることができました。

 プライス氏という青い目の愛好家によって、再評価のきっかけが作られ、いま注目されている若冲です。確かに、一連の動植綵絵にみられるデザイン化されたパターンの反復、抽象化などは、思い切りのいい見応えのあるものでした。

 最晩年(85歳)の岩頭猛鷲図の断定的に決まった三角形の組み合わせの力強さにうたれます。鶴図屏風は、濃い墨の線描きで、鶴の様々なポーズが何の景物も添えられずに、俳画風の省略で配置された6曲でした。伏見人形の布袋7体を描いた楽しいものをみると、この画家の絵に向かう姿がほえましいものとして浮かぶようです。

 予想以上だったのは、若冲以外の江戸時代の画家たちの作品が、系統だって展示されていた収穫でした。私にとって、江戸の琳派の画家たちの作品群に逢えたこと、酒井抱一の三十六歌仙図貼混屏風や、佐野渡図屏風、12幅からなる十二ヶ月花鳥図、鈴木其一の貝図の小品を間近に見る喜びは言い知れぬものでした。

 昨年夏の東京での展覧会を遥に羨望していましたが、やっと念願を果たせました。
絵葉書から数枚をUPします。後は公式サイトでご覧ください。


<若冲と江戸絵画>
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文楽 曽根崎心中をみる

2007年03月10日 | みやびの世界
 7日戸畑文化センターで、今年も文楽を見ることができました。
 文楽協会主催、文化庁後援の地方公演です。昼の部は「菅原伝授手習鑑」、夜の部の出し物は「曽根崎心中」でした。それぞれ、時代物と、世話物の”あたり”をとった代表作です。
 近松門左衛門の原作では、頭に”観音巡り”が置かれていますが、今は省かれることが普通のようです。生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段が上演されました。
 人形浄瑠璃としては、近松の世話物の第一作です。実際にあった心中事件に取材して書いたものです。初めての世話物とはいえ、心中の道行きに至るまでのいきさつを、近松は、「日本のシェークスピア」といわれるだけの見事な劇構成で徐々に盛り上げてゆきます。初演の当初から大変な人気があったようです。


 醤油屋の手代徳兵衛は、天満屋の遊女お初と堅く末を誓っています。生玉社前で、九平治に諮られだましとられた金なのに、衆人環視の中、逆に強請りと辱められ、殴られ痛めつけられます。
 次の天満屋の見せ場は、縁先に腰掛けたお初が、内掛けの中にかくした徳兵衛と、互いに「心中」の決意を確かめ合うのですが、内掛けの中の徳兵衛と、お初が足を使って気持ちを伝え合うところなど、艶のある情感深い場面が展開します。いよいよ天満屋を脱け出そうとして、暗闇の中でのややユーモラスな一騒動があります。
 こうした前置の後、最後の天神の森になると、語りも、三味線も一転して、しんみりとした”この世の名残、夜も名残”と、七五調の名文句で曽根崎の森へといざなってゆく有名な道行となります。

 舞台装置も、前二場とはうって変わり、中央に梅田橋の大動具があるのみ。あとは幕に描かれた天神ノ森が夜の闇に包まれているだけの単純化で、二人の姿だけを際立たせています。

 前に見たときは、お初を刺したところで柝が入って幕になったと記憶しますが、今回は、美しい人形独特の”うしろぶり”を吉田蓑助(重要無形文化財)が、十分に堪能させてくれました。

 段ごとに太夫が入れ替わり、淡々とした語り口、張りのあるいい声と、それぞれに聞き応えのある2時間を短く感じました。

 いつも文楽観賞の後で思うのですが、あの黒子の動きが何時の間にか、気がかりな邪魔なものでなくなり、人形だけに集中して引き込まれてゆく不思議です。

 生身の人間の女よりも、あるいは、女形の演ずる歌舞伎の女よりも人形の女方は女らしく感じられます。それは、人間の女ではないがゆえに、強調された特徴がより美しく抽象されているからだと、頭では理解していても、あの女方の人形の、無いはずの足が、膝をくの字にした立ち姿に、強く艶めかしく女を意識されられます。
 来年の公演にもまた楽しみに出かけることにします。

次の画像は、来年予定の地方公演の演目です。 会場での案内冊子「文楽」より

義経千本桜 道行初音の旅 静御前
佐藤忠信、じつは狐忠信と静御前の
持つ初音の鼓の因縁話

絢爛たる衣装で忠信との連れ舞に、今から期待。



生写朝顔話 明石舟別れの段 深雪
(しょううつしあさがおばなし)

”江戸時代版・君の名は”のすれ違い劇。
道成寺の清姫と並ぶ深情けの女が深雪。




伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段 お七
(だてむすめこいのひがのこ)

”降り積る、雪にはあらで恋といふ、その愛しさの
心こそ・・・”
ご存知八百屋お七。雪の降る中、髪振り乱して火見櫓へ。