「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

今年のカーニバル

2009年03月04日 | 私のブラジル
 リアルタイムで今年もリオのカーニバルの写真が送られてきていましたが、時機が悪く、掲載する気にはなれずに遅れました。

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 カーニバルはブラジル最大の祭りで、今年優勝したサンバチームの看板娘が日本人だったので大分話題になったようです。
 CARAVALE(カルナヴァルエ)は、カソリックの祭です。伝統的にカソリックでは陰暦を使用していますから、毎年日にちが確定しているわけではなく、今年は2月21日から2月24日までの4日間でした。この日から40日後の復活祭(イースター)には、昔はその金曜日には絶食したとか、肉を口にしなかったと聞きますが、現在の“謝肉祭”は様相も一変しているようです。
「熱狂」という言葉はこのときのためにあると思うお祭り騒ぎに、ブラジル滞在中は度肝を抜かれ、ラテン系の血は日本民族とは異質と実感したものです。
 TVなどで放映されるカーニバル風景は、サンボドロモのコンテストが行なわれるサンバ・パレード会場でのものです。それはトップグループの整然としたもので、見物も観光客が中心です。
 この期間中はブラジル全土のあらゆる町でサンバのリズムが夜を徹して響き渡ります。
 リオのセントロ。リオ・ブランコの大通りでもパレードが繰り広げられます。ここは無料で気ままに見ることができます。
 徹夜で踊り狂い、真夏の暑さの中で、ピンガを呷って酔っ払い、また踊る群衆には事故が多く、毎年、多数の死者がでます。
 写真はリオ・ブランコで撮影したものと思います。昼間はともかく、夜の撮影は危険も伴いますので明確でないのは致し方ありません。

<画像は上下各2枚です。



ブラジル暮らしの記念

2008年07月09日 | 私のブラジル
 どこにいても、何かしら興味を持つとすぐ手を出してしまう癖は改まることがありません。その上、初めての二人だけの暮らしになり、私は仕事からも解放され、充分すぎる時間がありました。
 異国文化の刺激もあって、次から次に試みるものが出てきました。
 織のタペストリー、それにポルセラーナの真似事の「ピンツーラ」が、その記念品です。
 その合間には、骨折のベットで始めた糸絵もあります。怪我の功名で、臆面もなくUPしましたが、これは、ブラジレイロにも珍しがられました。
ただ、織は大きくて持ち帰っても日本家屋には合わないので、請われるままに全部プレゼントの置き土産にして帰国しました。
 名残を留めていた色鮮やかな織の財布も年月の中でいつか消耗してしまいました。

 記念に持ち帰ったのは、旅のスケッチブック2冊と、自分で絵付けした果物用の盛鉢、絵が不揃いのデミタスカップ。大皿1枚と細身の花瓶ぐらいです。花瓶は取り落として割ってしまいました。食事のスタイルが異なるので、これらの品もあまり出番はありません。
 (料理は、すべて大皿に盛りつけ、各自、必要な分量を自分で取り分けていただきます。取皿も20センチぐらいのものを用います。)
 銀のナイフやフォークも持ち帰りましたが、後始末も大変で、磨きの手間を考えると使うのを躊躇います。
 お手伝いさん相手の馴れない生活は、手伝ってもらう以前にこちらが疲れてしまい、住み込みは落ち着けなくて、通いにしてもらいました。それでも彼女の来ない休日はホッとしたものです。

 使われないままに処分される運命を思って、せめての記憶のよすがに痕跡を留めておくことにしました。

 早朝5時半から草取りに精出す日々です。日盛りの午後はお昼寝が日課になりました。

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<豊富な果物を盛り付けます>

6 ブラジル見聞録

2007年08月24日 | 私のブラジル
VIVA ブラジル


 突然、耳をつんざく大音響、歓声、爆竹のはじける音、クラクション、ラッパ、カーテンの隙間から外を覗くと、いつも見慣れた商店はどこもシャッターを下ろしており、トラックに溢れんばかりの男たちが、ブラジル国旗を大きく振りながら、声を限りに叫んでいます。
 教会の広場に一日、うつろな目で座り込む失業者らしき人たちを目にしていただけに、私は暴動が起きたのだと判断しました。

 同じアパートに住む小松からの派遣社員の人の家のベルを押し、どうするのが一番安全かを相談しました。一瞬驚いた彼女はすぐ状況を理解し、テレビの前に案内しました。渡伯して間もない、ワールドカップ(コッパ・ド・ムンド)の年の出来事です。これがサッカーへのきっかけでした。

 この国の人のサッカーへの情熱は、理解のほかでした。最近では日本でも川に飛び込むなど、かなり熱くなる人々もいますが。

 どんな路地裏でも子供たちはボールを器用に操って遊んでいます。ファベーラと呼ばれる極めて貧しい人たちの住む地域でも、それは同じです。


      リオのマラカナ競技場

 15萬人収容といわれる大競技場では、グランドと観客席の間には、乱入防止の2メートルもある堀が設けられ警備の人が入っていますし、選手の入場は、闘牛士の入場さながらの熱狂と華々しさで、派手な色の煙幕とファンにとり囲まれて大歓声の中で入場してきます。試合前の一つのショーです。
 試合中の熱狂は言うまでもありません。

 リオのマラカナ競技場や、サンパウロの競技場は15万の観客が興奮の「るつぼ」と化します。「サッカー王国」と枕詞を附けられるのも頷けます。
 それぞれ贔屓のチームへの肩入れは一通りではなく、チームごとにクラブが構成されていて、試合以外にもさまざまな活動をしていて、決まった年中行事も行っていました。ちなみにブラジルではサッカーは、”フッチボール”といいます。

 今年リオに住む友人から届いたMailでは、ジーコの古巣でもあるリオのフラメンゴが、2部に落ちそうだと嘆いていました。
 多くのタイトルを取っている名門チームで、サポーターの数もブラジルでトップでした。彼女は幼い息子にいつも赤と黒の縞模様のシャツを着せていました。



フラメンゴの応援風景

怪我の功名

2007年08月22日 | 私のブラジル
 ある雨の朝、新聞を取りに出かけていて、(配達のシステムはありません)石畳の隙間にサンダルの踵を落として勢よく滑り、左足を骨折、足の付根までギブスを巻かれ、40日間ベットに拘束される生活となりまた。

 全身麻酔で手当てのあとは、2週間は絶対に動かないようにといわれ自宅に帰されました。
 痛みは、ギブスが取れた後のリハビリのほうが大変でした。寝ている間はほとんど苦痛もなくて、持参していた本も読みつくし、退屈のあまり旅のスケッチブックから選んで、麻の芯地に鉛筆で下絵を描き、黒の木綿糸一本だけで、ペン画風に刺してゆくことを思いつきました。

 これだと人手を煩わさずに、針一本と黒糸だけで済みます。その上、糸の品質が悪いため、太さが均一性を欠いているのが幸いして、思いがけない味が出るのです。
 勝手に「糸絵」と名付けて自分で喜んでいました。

 お蔭で、とかく苛々しがちな時間を生産的な時間つぶしに替えることができました。
 色がない分,かえって題材の持っているロマンが漂って、見る人の想像を掻き立てるとみえて、保存されている古い町並みや、教会、朽ちかけた水車小屋などは好評で、お世話になった方々に、記念にとせがまれて、プレゼントしました。
 手元には次の4枚だけが残りました。文字通りの「怪我の功名」となりました。
 
 今もう一度といわれても、刺しあげる根気も辛抱も続きそうにありません。あの拘束状態と、環境が産み出したものでしょう。

 恨みの石畳ですが、この石畳は、埋設物の工事の折など便利で、並レンガ2枚分ほどの大きさの石を,堀り上げて路肩に積んでおき、工事終了後元通りに敷いていました。省エネでリサイクルされる石畳は、つるつるに磨耗し、肩もなだらかな曲線を描いています。早朝、牛乳の缶を積んだ荷馬車が音を立てて行く風景は情緒がありました。
 幹線道路から少し入った所にはまだこの石畳は普通に見られます。



クリックで拡大します。



5 ブラジル見聞録

2007年08月20日 | 私のブラジル
カーニバル

 ブラジルを代表するものと言えば、サッカーとカーニバルを連想される人が多いと思います。
 キリスト教の宗教行事(謝肉祭)としてのカーナバルの由来はおいて、観光ポイントとして広く報じられるリオのそれはあまりにも有名で、すっかり観光の目玉に変質しているようです。

 どんな小さな町でも1年のうち最大のお祭りです。それぞれの地方で歌や踊りに特徴を持っているようでした。それは庶民が中心の祭として構成されていました。

 2年を暮らしたスザノのカーナバルも、市を南北に貫く中心の大通りに観覧席が設けられていました。自慢の美声を張り上げる男のサンバの歌声と、打楽器のリズムに乗って、明るく踊り狂う群れに、観客席も立ち上がって一緒に手拍子と歓声でサンバに同化します。

 この期間中は、役所も、銀行も、工場、学校も、すべてお休みです。この国では、カーナバルが終わってはじめて新しい年が始まるとさえいわれています。
 
 裕福な人たちは、各自の所属するクラブで、または、ホテルで、仮面を付け、仮装して、無礼講で踊ります。バイレ(舞踏会)とは名ばかりの乱痴気騒ぎのところも少なくないようです。

バイレの人々

 今年の祭りは2月28日から3月5日まででした。久しぶりにベイジャ・フロールのチームが優勝したと便りがありました。
 毎年、40度を超す暑さと、ピンガの強い酔いが引き起こす事故で、死傷者が多数出るようです。
 友人の中には、「カーニバル!、カーニバル!」(カウナバウと発音しないと通じません)と騒ぐ私に、顔をしかめる人もかなりいました。
 この喧騒を嫌って、国外への旅をする人も多いのですが、野次馬の私は、すっかり喜んで夜の街に見物、(踊り)に出かけたものです。

 リオで暮らしていた折、1度だけ、カーニバル会場・サンボドロモで見物したことがあります。あの打楽器だけで盛り上げる強烈な大音響の中では、誰もひとりでに体が動き出してしまいます。1チーム2500人から3000人で構成されるパレードは、500人の楽隊を含んでおり、1チームの通過に約1時間はかかります。見物客36万人を巻き込んでの興奮は夜を徹して続きます。見物にもかなりの体力が必要でした。
 喧騒は会場の外でも同じで、町中がサンバのリズムに包まれて酔い痴れています。
 祭りの日のある明け方、一年の収入をつぎ込んで作ったかのきらびやかな衣装のまま、コパカバーナの海岸でぼんやり海を見ていた踊り子に出会いました。あの悲しい目は忘れられません。


<思い出のカーニバル
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 画像は昔撮影したものや、毎年送られくる画像から。

 4 ブラジル見聞録

2007年08月14日 | 私のブラジル
日曜日


 日曜日には、サンパウロの中心部に出かけて、食事や買い物を楽しみました。
 特に気に入りは、パウリスタ大通りにあるサンパウロ美術館でした。(この大通りには、この国の代表的な銀行が聳え立ち、日本総領事館もあります。)


 美術館は、日曜日は入館料無料です。 無造作に展示されている名画の数々を間近で鑑賞できます。
 レンブラント、ゴヤ、ラファエロ、コロー、セザンヌ、ロートレック、モディリアーニが、そしてゴッホが、カバルカンティが惜しげもなく、何の障害物も隔てるものもなく、そこに展示されています。ルノワールの一連の作品と、モディリアーニの”ルネ”に出会えたときは興奮したものです。

 さらに嬉しいのは,絵画鑑賞に疲れ、あとはまた来週と切り上げると、高床式の広い美術館一階の吹き抜けでは、日曜日には骨董市が開かれています。珍しい古道具、装飾品、特に銀器や、ビードロによいものがありました。短筒、種子島なども並んでいました。
 怪しげなものもありますが、明治のころ日本から輸出されたと思われる陶磁器の武者絵の皿や人形も出ていました。



 帰国が近いある日曜日、記念に、いつも眺めるだけのガレの花瓶を一個だけ買おうということになり、片端から値段を聞いては、値切りながら物色し、やっと決めて、目当ての店に戻ると、品物がないのです。それではと、次の候補だったのをと目がけると、これも「今売れた」というのです。おかしいと見回すとなんと、一目で日本人と判るスーツにネクタイの男性二人、次々にガレとサインのはいった花瓶、スタンド、皿と、値切りもせず両手に下げての買い物でした。私のガレはかくて幻となりました。

 次の週、顔見知りの市の商人に、「ガレがあるよ」と声をかけられましたが、手の出る値段ではありませんでした。



 ささやかなコレクションの楽しみは、かつての国体選手の夫の影響で、乗馬関係の小物でした。中でも手ごろな大きさと値段で、鐙(あぶみ)を見つけると片っ端から買い込み、昔の乗馬仲間への土産にもしました。
 少しだけですが、古いシャンペングラスやワイングラスも骨董市の記念に手元に残っています。



所変れば

2007年08月12日 | 私のブラジル
所変れば


外人

 ブラジル人(ポルトガル系)経営の会社勤務だった夫の関係で、日系人社会とは、お付き合いがあまり深くはありませんでした。
 そうしたなかで、私が一番奇異に感じたのは、日系以外の人を「がいじん」と呼ぶことです。ただし、アジア系はこの中に入らない場合が多く、微妙な区別があるように思えました。
 この国で暮らす限り、自分たちのほうが「外人」なのではと感じたものでした。


左の写真は馬祭りの日のアミーゴたち                               
 概して、古い移民で苦労して現在の安定した地位を築きあげた人たちは、過去の古きよき時代の日本人のイメージをそのまま強固に保持した家庭を築いているように見うけました。
 家長は一家の中心として尊敬され、力を持った強い存在です。そして、一様に子弟の教育に並々ならぬ強い関心を持っておられました。
 こうした誠実な暮らしの日系移住者への、現地の人の評価と信頼は、かなり高いものがありました。

「人種のるつぼ」と言われるこの国には人種差別は存在しません。ヨーロッパ系.CABOCLO,MULATO,MOLENAと肌の色の濃さで、言葉の上での区別はありますが、それはアメリカで感じたような差別ではなく、何の拘りもないようでした。


ニックネーム
                           
 隣町への列車を待つホームで、私の耳に飛び込んできたのは、顔なじみの肉屋のお兄ちゃんの声でした。
「OH、ドウゼントス!」(duzentos)とは、200グラムを意味します。ブラジル見聞録1で記したように、キロ単位が普通の肉屋(部位によってはメイヨ・キロ=500グラムはあります)で、渡伯早々の私は、平然と200グラムの指示をしたものです。よほど印象深かったと見えて、駅のホームで大声の挨拶をしてくれたのでした。
 この、あまり有難くないニックネームは、スザノ滞在中の2年間、ずっと,買い物のつど彼に使われました。肉屋もグレードの高い品を売る店と、女中さんなどの労働者対象の御用達とは分かれていました。Duzentoshは、前者のほうです。
 仲間内では、ニックネームで呼び合うのは日本と同じですが、ユニークで、ユーモアを含むものが多く、なるほどと思うものが多かったようです。出身地の地名や、名前の略称も割合多かったようです。

  3  ブラジル見聞録  

2007年08月11日 | 私のブラジル
所変れば


挨拶

 男性の場合は、握手と同時に左手で互いの肩を叩き合うのですが、女性が深い親愛の情を表すには抱き合って互いの頬にチューをするのです。これは自分から行うのには、慣れるのに時間を要しました。


指で表すサイン
 最近は、わが国でも見かけるようになりましたが、「OK」, 「良い」、「最高」などを意味するしぐさです。じゃんけんのグーの形で親指を上に立てます。「NO」,「 悪い」、を意味するサインは親指を下に向けます。(どちらも手のひらを自分のほうに向けて)あらゆる場面で、しばしばしば目にします。
    
 日本のOK サインの、親指と人差し指で輪を作って手を相手に向けて立てるしぐさは、絶対にしてはいけません。特に女性の前では人格を疑われます。
 OK を横に倒した、お金を意味する水平の輪も同じです。

 お金を意味するには親指と人差し指をすり合わせる、つまり、お札を数えるしぐさで表します。

  注意深い人は気付いたかも知れませんが、サッカーのPK戦でキックを決めようとするとき、選手が見せるサイン。あの握った拳の人差し指と中指の間から、親指の頭を覗かせるサインは、FE!「神の加護を信じる」の意味ですから誤解のないように。土産物として、いろいろな素材のものが売られています。
 
 ちなみに「こちらにいらっしゃい。」の時の手は、手のひらを自分の方に向けて、指先を手前に動かします。日本とは手のひらの向きが逆です。



OK,良い、最高 NO,悪い、駄目

 2 ブラジル見聞録 

2007年08月10日 | 私のブラジル
2、 ブラジル見聞録    
交通事情


 日本の23倍という広大な面積の国土ですから、交通の手段は航空機と、車が中心です。車の燃料は、サトウキビから採ったアルコールが、ガソリンと併用して使用されていました。

 バスの路線は縦横に発達していて、サンパウロのバスセンターからは、500キロ以上走る長距離の夜行バスも多数出ているので、待合室は空港並みです。乗り場も数十番のナンバーがありました。バスの営業会社も多数で、サンパウロ→リオ間などは10社以上あり、客の呼び込みも賑やかです。
 そのほか各航空会社が共同運航しているポンチ・アエーリアと呼ばれる航空機は、30分毎に出ており、料金を別にすれば予約なしで気軽に利用できます。料金は、安くなったり、高くなったりで、なぜか一定ではありません。先月TAM航空機の全員死亡の事故が発生したコンゴーニャス空港は市街地にあり、過密な発着で知られています。

 有名な車優先社会です。夫が勉強していた自動車免許検定の問題集に、ウィスキーはカップ2杯までの解答があるのに驚きました。(85年当時)。田舎町で、飲酒運転のトラックが、赤い顔の運転手ともども横転しているのを見たこともあります。交差点では、人や、車がいない時には赤信号でも徐行して通過するのは日常のこと。運転好きの私ですが、言葉が不自由な上、左右の走行レインが逆で、ハンドルも左では、怖くて、運転は専らブラジルで免許を取得した夫に任せていました。

左映像はサンパウロの中心SEの広場 写真右下がメトロへの入り口  
中央部が大きく吹き抜けになっている3階構造の乗場。覗いて確認できるので迷わずに。 メトロ・SE駅

 サンパウロまでの交通手段は、自家用車、バス2種類、列車があります。スザノからは地下鉄はありません。
 列車だと均一料金だから50キロでも30円、(一駅でも30円です)駅には切符売り場に人がいるのみ。高さ80センチほどの回転バーを押して入ります。このバーをくぐれる人(子供)は無料。列車は主に貧しい人たちの交通手段として利用され、窓が開かないのや、中には乗車口の扉が半分しか閉じないままの箱もありです。
 車内では、乗客が突如、物売りになったり、楽器を鳴らして合唱が始まったりでそれは賑やかです。 
 物乞いの人が来ると、金を渡す当人の方がよほど困っていそうなのに、そこはキリスト教国のこと、なけなしの金を渡す光景がよくみられます。

 一人歩きの私は、周囲に止めるよう何度も言われましたがよく列車を利用しました。着飾って出歩かない限り、バスよりも治安上の危険はむしろ少ないように思いました。一度も身の危険を感じたことはありません。                                                   バスは、トローリーバスと普通の路線バスがあり、急行と普通の別もあります。座席指定の急行は普通の3倍ぐらいの料金だったと記憶します。長距離走行の夜行バスには、レイトと呼ぶ寝台バスもあり、もちろんトイレ付き。途中、レストランのある大規模サービスエリアで、休憩と、各自、食事をとったり、運転手の交代などが行われます。

 自家用車の人は、ほとんどが路線バスがどこを走るのかを知りません。



バスセンター乗車口風景 34番ホーム・クリチーバ行き

バスセンター待合室
 




 


                    

          

                             
                              

消えたホームページ

2007年08月08日 | 私のブラジル
 身の程知らずに作ったホームページでした。それもyahoo会員なら無料で使えるとあって、ジオシティーズに登録して、闇雲に始めたのが、パソコン入門から半年目ですから、その向こう見ずは、小学校の2階から飛び降りる漱石の"坊ちゃん"並みの無鉄砲といえます。
 大騒ぎして、ホームページビルダーガイド本片手に、あちらこちらの先生方の手を煩わしたのはいうまでもありません。今なら、呆れ顔を想像できます。皆さん、年寄りのことだからと、親切に相談に乗ってくださいました。

 ところで、今回、光回線に切り替え、yahooを解約した途端、このサイトから登録のホームページも消えることを気づかずにいました。ページが消滅した後の処置の案内MAILで、開いてみると見事に消えていました。
 ブログの発信の便利が、丁度いまの私の身の丈には相応です。もう久しく更新もしていないのですから、改めて登録することは止めにして、このブログに引越し、1本化しようと思い立ちました。 すでにお目を通してくださっている方には、目障りかと思いますが、この際、ブログ用にすこし形を変えてUPしておこうと思います。

「私のブラジル」のカテゴリーを設定しました。早速本日より引越し大作戦を順次開始します。



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プロローグ
1981年から8年間、その後は日本とブラジルに半年ずつの滞在で往来すること6年、通算14年間のブラジル生活の間に、主婦の目を通して見たり、聞いたりした事を記してみます。旅行者とは違った一面が垣間見えるかもしれません。
イグアスの滝   悪魔の喉笛
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1 ブラジル見聞録     食生活

  
 私の生活したサンパウロ州は、日本全土と大体同じ面積を持つブラジル一の大工業都市で、フォルクスワーゲンの大工場や、トヨタを始め、日系企業の多くが進出しています。
 ポルトゲスが不自由な私のために選ばれたのは、サンパウロ市の衛星都市のひとつスザノという日系人の多い街で、ここから、赤い大地、ブラジルの生活が始まりました。

 日系人が多いとはいえ異文化の只中で戸惑うことばかり、失敗の連続の日々でした。
 中でも食料品の買い物が、原則キロが単位。二人だけの暮らしで、たまねぎ、馬鈴薯はよいとしても、困るのは、きゅうりやトマト、それに、オレンジは1ダースが単位(50円)だし、鶏は生きたままか、羽をむしっただけの丸ごと一羽売りだし、豚の頭がそのまま置かれていたり、牛タンもそのままの姿でぶら下がっているし、何よりも、肉は塊りのまま、各部位ごとに吊るされて売られており、どれを買えばいいのか分からず途方にくれました。日本のすき焼き用の柔らかい薄切り肉を恋しいと思ったものです。

 勿論、どの地方都市にもあるスーパーマーケットまで車で出かけていけば、希望する分量での量り売りがありますが、殆どの人は、新鮮さと価格から、週一回決まった曜日の午前中に、街の一画を歩行者天国のように占有して開くフェイラーで買いものをするのが普通です.

フェイラー風景、丸ごとの鶏やタン、 野菜の山

 私の渡伯した80年代は、今と違ってすさまじいインフレで、缶入りのものや洗剤、紙など纏め買いが常識で、物置に積み上げていました。高価な品物はローンで支払うと得した気分になったものです。

 ブラジルの主食は米。日本米と違って粘りの少ない細長い品種です。それをオイルで炒めてお湯を注いで炊くので、ぱらぱらの炊き上がりになります。その上にfeijanフェジョンとよばれる小豆粒状の黒豆を塩味で調味したものをかけて食します。人によっては更に芋のあら引き粉とベーコン、たまねぎ等を炒め合わせたファリーニャと呼ばれるものをトッピングします。「郷に入っては」で慣れるとなかなかのものです。

 朝食はパンにコーヒー、サラダ、豊富な果物ぐらいです。昼食が主で時間をかけてたっぷり摂ります。ミニバイキング風に皿に盛った数種類のメニューから好みの品を好きなだけ取って食べます。
 夜は軽く摂る人が多いようです。ただパーティ好きのブラジレイロは一品持寄りの気軽なパーティをしばしば開いて夜食を楽しみます。大人の時間は8時を過ぎてからで、飲んでしゃべってボサノバ、サンバと音楽を楽しみ、夜中の2時ぐらいまで騒ぎます。あれで次の日よく仕事になるものと感心したものです。

 土、日の休日は、女中さんも休みなので、外食の人が多く、店もそれに対応した限定メニューで賑います。この日の定番が、ブラジル料理の代表feijoadaフェジアーダです。
 この料理は、元来、ご主人が不要とした部位に召使たちが手を加えたところから進歩発展したものと聞きました。腸詰、豚の耳、鼻、足といった得体の知れない部位が入っていますが、フェジョンと一緒に炊き込んだ塩味なので日本人にも好まれるようです。私も耳と、ゼラチン質の鼻のかけらが入っていると喜んだものです。かなり胃に重い食べ物です。
 提供される半分の量は確実に残ります。これはアルミの深皿に入れてくれるので「ビアージャ(旅)」と言って持ち帰りにします。

 その他に有名なのがchurrascoシハスコですが、焼肉の食べ放題の店です。日本のそれとは違って、塊りのままの肉をサーベル状の串に刺して岩塩水を掛けながら焼いたものが、各種,次から次、いらないというまで持って来ます。焼け具合の好みや、量を指示して切り取ってもらいます。鶏の心臓だけをずらりと串刺ししたものや、こぶ牛のこぶなどは珍しいと思いました。私はこのシラスカリ-アで肉の各部位の名前と、その味を覚えたと思います。店によりますが、10ドルから20ドルぐらいです。かなりの健啖家の私ですが、サラダバーとの往復の中で、肉一通りのメニューは到底収容できませんでした。


シラスカリア風景、シハスコと厨房

 今回は食生活を中心に記してみました。