「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

下手は上手のてほん

2004年11月30日 | 絵とやきもの
 憧れの画家に中川一政がいます。絵も好きですが、字がそれ以上にいいのです。そして遺されている言葉にも強く惹かれます。
 願わくは、その想いの片鱗にでも近づきたいと切にあこがれます。
 
 少し訓練すれば「おじょうず」な絵は、誰にでも描くことができます。でも、「独楽は地面にたたきつけられてまわる。そんな画をかきたい。」といった一政の絵は、伸びやかに、ものさしでは計れない感動にあふれています。捨てられる限りのものを捨て去った、純粋ならんとする迫力に満ちています。

 それは、こしらえものの稚拙をてらうのではなく、また、見たままの写実ではなく、素直な心が感じたままを描いています。

 「じょうずはへたのてほんなり へたはじょうずのてほん也」といったのは、世阿弥ですが、上手でも死んでいる絵でなく、下手でも生きている画を心がけたいのですが。・・・・・・・

吹き寄せ

2004年11月28日 | 季節のうつろい
 この季節、山懐にある我が家は、わたしの一番好きな季節となります。裏山の櫨がさまざまな色の変化をみせて、やがて真っ赤に染め上げられ、常緑の緑の木々の間に桜紅葉の散り急ぐすがた、むかごを落とした山の芋の黄色が木々にまつわりながら自己主張するのも許せます。

 毎朝の庭掃除も苦にならないのは、色とりどりの吹き寄せの落ち葉を掃き集めては、童女に戻って何枚かを拾い上げる楽しみがあるからです。
 石蕗の黄色い花、水仙の凛とした姿も、寒菊の賑わいの中でそれぞれの季節を示しています。藪椿もちらほら咲き始めました。

やがて山紅葉の落葉がはじまるとそんな悠長は許されなくなり、庭のいろは紅葉と一緒に、何杯もの色朽ちた落ち葉をぶつくさ呟きながら片付けることになります。「林間に酒を暖めて紅葉を焼く」余裕も風流も望むべくもなく、急ぎ足の冬の訪れとなります。

     山くれて紅葉の朱をうばいけり

     待人の足音遠き落葉かな

     菊は黄に雨疎かに落葉かな

     紅葉してそれも散り行く桜かな  


 いづれも、与謝蕪村の句です。

ノラともならず

2004年11月25日 | 歌びとたち
  足袋つぐやノラともならず教師妻

 敬愛する杉田久女の代表句とされる句ですが、今時、足袋も、ましてそれを繕う風景など消滅してしまい、自立した女性が忍従の「人形の家」にとどまるとは、とても思えませんから、この句に同感し、その諦めの境地を理解できるのは、昭和1桁の生まれまででしょう。
 迸る才気と情熱が、数多くの久女伝説の誤解を生み、吉屋信子や松本清張の小説のモデルになったりしていますが、私は、ひたむきに生きた57年の歳月をしみじみ愛しく思います。

ただ私の好みから言えば、久女の真骨頂はやはり、虚子が評したように「清艶高華」な華やかな句にあるように思います。

  風に落つ楊貴妃桜房のまま   (八幡公会クラブにて)

  愛蔵す東籬の詩あり菊枕

  春惜しむ納蘇利の面ンは青丹さび  (宇佐神宮にて)

  丹の欄にさへづる鳥も惜春譜

  うららかや斎き祀れる瓊の帯

  くちすすぐ天の眞名井は葛隠り

王朝趣味といってしまえばそれまでかもしれませんが、万葉語を活用,てなづけ自分のものとし句の品格を高いものとしています。

 東京日日と大阪毎日の両新聞社が共催募集した日本新名勝俳句の10万3000余句の特選句、それも金賞をとった英彦山での句

  谺して山ほととぎすほしいまま

 いま、英彦山神社の境内に句碑に記されていますが、銀賞の句

  橡の実のつぶて颪や豊前坊

また、「坊毎に春水はしる筧かな」といった一連の入賞句にも惹かれます。
 彼女が主催した俳誌「花衣」の誌名となった句を、私も久女同様一番愛着を持っています。

  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 ともあれ、近代俳句の歴史を語る上で、特に女流の発展に彼女が大きく寄与したことを否定する人はいないと思います。
 夫、杉田宇内(小倉中学美術教師)の影響か、花衣の表紙は久女の自筆手書きだそうですが、写真でみるそれは、なかなかのものだし、字は男性かとみまがう雄勁な達筆です。
 意図して県内産の句を選択しました。
  

地蔵の顔

2004年11月24日 | 絵とやきもの
 よくお地蔵さんを描きます。あくまで俗世にとどまり衆生を済度しようとしたその本願に惹かれてといった宗教的な色合いは一切なしです。

 要するにあの愛らしいお姿が好きなだけです。菩薩ですから宝冠もなく、人間に一番近いお姿なのがいいのです。

 ところでお地蔵さんの顔を描くと、描く人の顔に似るのをご存知ですか。誰のも一様に可愛らしいのですが、どこか描いた人に似るのです。これは、人形作りにもいえるのかもしれません。
 やはり毎日一番見慣れているからでしょうか。

 どうしてなのか、どなたか教えてください。

「有夫恋」との出会い

2004年11月23日 | 歌びとたち
 時実新子さんの名は、田辺聖子さんの書かれたものを通して、現代川柳の旗手とは知っていましたが、川柳ということであまり関心を持っていませんでした。

 偶然、店頭で手にしたのは、表題の「有夫恋」の魅惑的な題名に惹きつけられたからです。ぱらぱらめくってみて、目から鱗の「川柳」でした。

 私の頭の中に巣くっていた、どこか斜に構えて、軽く風刺するといった川柳の概念を根底からゆさぶる強烈な個性がそこには息づいていました。
 ともあれ、次に何句かを紹介します。

     人の世に許されざるは美しき

     明日逢える人のごとくに別れたし

     ぞんぶんに人を泣かしめ粥うまし

     子を寝かせやっと私の私なり

     夜明けかな美は乱調にありて乱

     さようなら心をこめて怨こめて

     八重桜まぶた重たき共暮らし

     雷神の女房志願まだ捨てず

     れんげ菜の花この世の旅もあとすこし

 独断と偏見にみちた選択ですが、おおよそは伝わるかと思います。書きたいことはまだありますが、「腹ふくるるわざ」にして、あとはあなたの感性におまかせします。

薄墨色のはがき

2004年11月22日 | 塵界茫々
 このごろ毎日のように、薄墨色の背景のなかに年賀を欠礼する旨が、遠慮がちに印刷された喪中はがきが舞い込みます。

 思いがけない方の死亡の報せに、驚いたり、寂寥の想いに沈んだりですが、告別式に立ち合うことがなかったぶん、その時間差からか、不思議に悲しみの気持ちは薄いようにおもいます。

 遺された方の想いのこめられた通知を手にして、自分の死亡の告知はどのような形になるかと考えてみるのも年齢のせいでしょうか。

 今日も94歳で他界されたという恩師の、奥様からのはがきに厳しい中にも人情味のあふれる視点からの講義だったのを懐かしく思い出しました。

バルセロスの雄鶏

2004年11月21日 | 塵界茫々
もう年賀状の季節ですね。酉年の来春、あなたの許にたくさんの鶏が訪れることでしょう。

 わたしは、目下、ポルトガル土産の3羽の雄鶏を相手に、なんとか年賀状に登場してもらうべく苦闘しています。
 どんな声で鳴いてくれることになりますか。

かの有名な奇蹟をもたらした「幸運を呼ぶ雄鶏」が私にも幸運を運んでくれることを期待しています。