「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

「どうも」という日本語

2008年01月31日 | ああ!日本語
 月曜日の朝日新聞で「『どうも』だけでいいの?」と題して、投書を引用して、この厄介な副詞を取り上げていました。

「その場の雰囲気で、どうもの後の言葉が相互に了解される時に単独で使います。おそらくNHKの高橋圭三アナウンサーが『どうも、どうも』と言い出したところから、一般に広まったのではないでしょうか」という国立国語研究所の研究員の方の所見を紹介していました。
 70年代にも、声の欄の投書をきっかけに、同じテーマで肯定派、否定派で論争が交わされたようですが、決着はつかないままです。
 
 十数年前、国際交流センターで、研修に来ている外国人に、日本語を教えるボランティアとしてお手伝いをしたことがあります。その折、彼らが最初に覚える言葉に、「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」といった挨拶や、「上下、左右、前後」の次に、この「どうも」がありました。
 表現に行き詰まると「どうも」を乱発します。使わないで表現するようにといっても、便利だからと盛んに使用していました。
 「どうも」といっておけば、相手は勝手に自分で解釈して了解してくれるから、これさえ使えば、日常生活の用は7割は足せるともいっていました。

 考えてみれば、「どうも」という副詞は、このうえなく多義的に用いられています。
 次にくる言葉次第で、「どうもありがとう」のように、「たいへん」と強調するかと思うと、「どうも具合が悪い」のように、「すこし」、「なんとなく」と逆にも使われます。また「どうも話の様子がおかしい」の場合は、「なんだか」と疑念の意味を持つ時にと、その他、微妙に意味合いを変えて、自在に変化を遂げていきます。
 何事も、あからさまに表現するのを好まない日本人にとっても、これは、言わないでも通じる便利な言葉であるのは確かです。私も弔問の時など、「このたびは、どうも・・・・」などと重宝して使っています。
 親しい者同士の挨拶に「やぁ、どうも!」「昨日はどうも!」は日常でしょうし、万事省エネの時代風潮で、これからも「どうも」の使用頻度はあがると思われますが、投書子の懸念されるように、私も、感謝とお詫びは後の言葉まではっきり述べて締めくくりたいものと心がけています。

 そして、なによりも、口にするときの表情と声、イントネーションに思いをこめて伝えるのが、コミュニケーションの潤滑を図るうえで肝要ではないでしょうか。
 言葉の根底にこめられる気持ちがあって、はじめて言葉と思いは伝わります。


しら梅に明くる夜

2008年01月28日 | 歌びとたち
 軒端のあたりに2,3輪の白加賀が花を開いているのを、自転車を漕いでいて、気づきました。
 「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」は、わが愛する蕪村の臨終吟です。

 几董の「夜半翁終焉記」に、「二十四日の夜は病体いと静かに、言語も常にかわらず、やをら月渓を近づけて病中の吟あり、・・・吟声を窺うに、「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐいすや何ごそつかす藪の霜」ときこえつつ猶工案のやうすなり。しばらくありて又、「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」こは初春と題を置くべしとぞ。この三句を生涯語の限りとし睡れるごとく臨終正念にして、めでたき生涯をとげたまひけり。」とあります。
 天明3年12月25日(今年でいえば、2月1日)暁近く68歳の生涯を閉じました。

 陰暦12月下旬ならば、梅がほころび、そろそろ春の気配も感じられるころ、病床で梅が開く気配を感じとったのでしょう。来る日も来る日も軒端の白梅のところから夜が明けてゆく、夜の明ける気配と梅の開く気配を重ねて、幻想渺茫の詩境のなかで、生涯を閉じていった幸せな詩人を思います。
 魂魄が自由の世界に解き放たれようとしたとき、白梅は現実の姿としての白梅よりも、象徴的存在として蕪村そのものだったように思います。
 白梅に明けてゆく黎明は永遠に続くようです。

白梅や誰がむかしより垣の外」の句も、そぞろに恋の面影の昔を偲ばせて、郷愁を誘う好きな句です。

 芭蕉の死に臨んでなお「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」執念の厳しさと対比する時、詩画二筋に、豊かな生を全うした蕪村の“めでたき生涯”にさらに憧憬の念をつよくします。

春の訪れを告げる軒端の梅 2葉
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母の三回忌法要

2008年01月26日 | 塵界茫々
 24日に母の三回忌の法要を営みました。準備の段階で腰を痛めて辛い時間があった分、滞りなく済ますことが出来て、達成感があります。
 昨日は朝寝坊をして、一日ぼんやりした時間を過ごして、片付けもまだ残っています。日常が戻った目は、庭の梅が初花を開いているのを捉えました。

 仏壇の清掃に始まって、仏具を磨き、お供えの菓子果物、零膳の準備、日常は用のない来客用の座布団を出して日に干し、接待のための諸道具、茶菓の用意も、万事がのろまになって、手抜かりをしては行きつ戻りつで、忘れ物が何だったかを忘れるという体たらくでした。
 一番気を使ったのは、年寄りばかりの集まりに、寒い折から、二部屋を通しにした座敷で風邪をひくことがあっては大変ということでした。朝から空調に加えて、灯油ストーブを焚いて暖めました。これは夫が気をつけてくれました。

 法要の間、僧侶の読経に合わせて、“仏説阿弥陀経”を小さく誦しながら、経文に説かれる極楽浄土の景を肯定できない自分がいました。終わりの法話もなにか上の空で、豪勢に活け込んだ菊や百合の姿を眺めていました。

 席をあらためた料亭での会食の席で、親族、兄弟の間の話題は、次の七回忌までは、まだ兄弟の誰かが健やかで法要が出来るだろうけれど、その次の十三回忌となると、一番若いものが83歳だから、このメンバーで何人が参会できるだろうといった侘しい話になりました。

 今回の身体の不調から考え合わせても、90代の私たち夫婦が取り仕切ることはもう無理でしょう。
 私の実父は54歳で亡くなっていますので、兄弟全員欠けることなく故人にとっての曾孫までを交えて賑やかに五十回忌の法要を、先年、弟が主催して営みましたが、103歳での他界は当然ながらこういう状況になります。

 兼好が、徒然草で『思い出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなくうせて、聞きつたふるばかりの末々は、哀れとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。』と述べる三十段が如実に身に迫ったことでした。


「面構」の人逝く

2008年01月23日 | 絵とやきもの
 院展がまた寂しくなります。存在感のある、独特の作品を発表し続けていた片岡珠子さんが21日になくなられました。
 昨日の報道によると享年103歳とあり、あらためてあのエネルギッシュな作品を回想してはその年齢に驚いています。2年位前から院展の巡回展で、審査員の作品の並ぶ第1室に、彼女の作品を見かけなくなって物足りない思いをしていました。

 総体に院展は、静かな色調の、典雅で柔らかな雰囲気の作品群ですが、その中にあって、60歳を過ぎてから始まった「面構・つらがまえ」シリーズは、ユニークな題材を、けばけばしいとさえ見える鮮やかな色彩を用いて、歴史上の人物を大胆に踊らせていました。
 数々の伝説的な話題を提供した、明治生まれの筋を通した生き方でした。

 横山大観賞、美術院賞、芸術選奨文部大臣賞と数々の受賞に輝く彼女ですが、その昔は「落選の神様」とあだ名され、作品搬入の折は、彼女と同じ道を通るのは縁起を担いで避けるとさえ言われた時期があります。

 安田靭彦はじめ、よき師に恵まれ、「ゲテモノといわれているが、それでもよい。ゲテモノと本物は紙一重です。そのまま続けなさい。必ず一枚一枚はがれてきて本物の世界が生まれるから」と励ましたのは小林古径です。
 思い切った造形の富士山も豪快そのもの。押しの一手で押し切ったというような迫力がありました。伝統を現代にどう繋げてゆくかを模索し続けた80年の画業だったと思います。今はご冥福を祈るのみです。



第78回院展より 「面構」浮世絵師鳥居清長と版元栄壽堂主人西村屋与八 (平成5年度)

冬鳥のあで姿

2008年01月21日 | 季節のうつろい
 野鳥をこよなく愛し、寒さを物ともせず探鳥なさるいつもの方から、今年最初の贈りものが届きました。

“赤い鳥“として人気の「ベニマシコ」です。
 雀よりもやや大きい15センチくらいの体長ですが、尾が長いようです。赤い体にくりくりしたつぶらな瞳と、おちょぼ口も可愛らしいですね。
 夏羽は上下面とも紅色で頭と顔に白い斑点があるのだそうで「ピッポ、ピッポ」の鳴き声も愛らしく、美しい鳥のようです。私はまだ実物を見たことがありません。

 雪の中のベニマシコを撮影しようと箕面の山中で、2時間待っても、降りしきる雪に、「鳥 飛ぶこと絶え」で、虚しく引き揚げられたとか。この写真は少し前のものだそうです。








袖に時雨のかかるとき

2008年01月19日 | 塵界茫々
 来週に迫った義母の3回忌法要に備えて、庭で馴れない片付け仕事をしていました。このところ、寒さのせいか膝に違和感があるので、自転車漕ぎも休んでいます。
 お昼の用意をする時間とは思ったのですが、あと10分もすれば終わるからと続けました。この10分に手酷く思い知らされることになろうとは思ってもみませんでした。
 夕刻から、腰から下の左半身、膝はもちろんのこと、太腿に至るまで、ぐるりと鉛の袋を吊り提げているような鈍い痛みと、だるいとも、強張るとも形容しがたい辛さで、いっそ疼痛なら堪えようもありそうな不快感でした。風呂で温めると幾分苛立たしい痛みは軽くなります。湯に浸かりながら、周辺に事欠かない事例のあれこれ、痛みを抱えた友人の誰彼を思い浮かべては、考えることは悪いほうにばかり、次々と暗い想像に取り付かれていました。

 いま考えてみると、母の終末のころの苦しみを、私はどこまで受け止めていたのか、甚だ怪しいものです。
 医薬の処置で痛みは感じていなかったものの、点滴も施せなくなった状況での、辛さはいかばかりだったかと、今にして想像します、苦痛を一切口になさらないのをいいことに、通り一遍の理解で慰めの言葉を口にしていたと今頃気がつきました。

 兼好法師の言う“友とするにわろきもの”の典型であった身の程を反省するのも、今の痛みを身にしみて辛いと思うからでしょう。
 ちなみに、百十七段には「友とするにわろきもの七つあり.. 一つには高くやんごとなき人、 二つには若き人、三つには病なく強き人、四つには酒を好む人、 五つには猛く勇めるつはもの、六つには虚言する人、七つには欲深き人。」とあります。
 1、2、だけは確実に除外できますが、ここで言うのは三つめの“病なく強き人”を指しています。年間ほとんど健康保険証の出番がない私の、病を持つ人への理解に関してです。

 頭で理解していたとしても、自分の身に降りかかってはじめてその辛さと、病をもつ人の気持ちの向かう方向が解るというものです。
 女学校の同窓会に出席しても、病状報告会じみた現状報告を、内心冷ややかに聞き流して、あまり自分の病いをあげつらうのは、如何なものか。健康自慢同様に聞きずらいもの、と感じていた思い上がりを反省しました。

 折しも、投与された薬害のために、肝炎に長く苦しめられてきた人たちに、やっと灯りがみえてきたことが報じられました。せめてもの救いと、こころから喜ぶことが出来ました。

いい話

2008年01月16日 | みやびの世界
 先日の新日曜美術館でも紹介されていましたが、今、大分県立芸術会館で「首藤コレクション展」が開催中されています。(2月3日まで)
 大分出身の大実業家、首藤定が旧ソ連に譲渡した絵画や陶磁器の里帰り展です。
 
 彼は満州、大連に美術館の建設を念願して、日本から多くの美術品を蒐集していました。
 ところが、敗戦で困窮する在留日本人の窮状を見かねて、その蒐集品と引き換えに難民を救済し、食糧を確保する資金に充てたという話です。
 目録記載の点数は中国画24、日本画226、の他、書、洋画、骨董など計561点がソ連に渡され、雑穀100トンの提供を受けています。

 今回の展示はロシア国立東洋美術館所蔵品の中からの120点です。横山大観、川合玉堂らの日本画を中心に、肉筆浮世絵、陶磁器、漆器などと報じられています。首藤が大連で集めた2千点に及ぶ美術品の全容は謎のままながら、同郷の福田平八郎のパトロンとして、平八郎の作品を買うと同時に、蒐集の助言も受けていたようで、蒐集品はかなりなレベルのものだったと思われます。
 藤田嗣次、梅原龍三郎などの名品の行方も依然不明のままです。(1月16日朝日新聞朝刊の記事に基づいた記載です)

 富を築いた人のその富の使い道に関しては、その人の風格が現れます。どう消費するかの道はさまざまなのは、紀国屋文左衛門の昔から、平成の若き富者たちに至るまで各人各様です。
 首藤のように、優れた芸術家をパトロンとして支え、美術館を設立するという高い志を持ってその蓄財を費やし、更には全力を注いだ苦心の蒐集品を、同邦人の困窮を救うためには投げ出すという行為は、感動的です。
 昔はこのような金持ちがいたのですね。久しぶりに快いいい話を聞きました。


今日の1枚

新年例会

2008年01月13日 | 絵とやきもの
 今年からは、気持ちを切り替えて、少し真面目に絵と向き合ってみるつもりで、意気込みを持って、初会合にでかけました。
 それなりに準備もしていたのですが、気持ちだけが空回りして、絵に結びつけることが出来ませんでした。

 ただ、友人が持参の干し柿に目が留まって、持参した当人よりも私のほうが先に、いただきの仕上がりになりました。
 逆に友人は私の持参した水仙と蝋梅を巧くまとめていました。こういうものかもしれません。

 昨年は病気で長くお休みをとってしまった人が二人出たので今年の描き初めには、縁起を担いで南天を皆で描きました。これで難が転じてくれrますように願いをこめて。







心の温もり

2008年01月11日 | 塵界茫々
“暖かい”と、“温かい”。この季節には望ましい言葉ですが、どちらの文字を使うかで戸惑うこともあります。
 一般的には、「暖」のほうは「暖かい日」「暖かい室内」のように、寒いの反対で、気象や気温をあらわし、「温」のほうは冷たいの反対、「温かいスープ」「温かな言葉」のように使われます。
 あまりご縁のない“懐があたたかい”は、素寒貧の寒さの反対ですから、暖のほうでしょう。ただし、あまり暖かすぎると心のほうは寒くなるようです。
 では、もう一つ、愛情に富む、思いやりがある、の”あたたか”は、どちらでしょう。「あたたかさ」は、「ぬくもり」とも言われます。
 冷たいの反対なら温かいですが、漱石は「野分」のなかで「暖かい家庭に育った」と使っています。啄木は葉書で「落ち着いた温かな声」と書いています。どちらを使っても間違いとはいえないようです。

 ただ、人柄に関して言う言葉で探って見ると、温は、温厚、温順、温和、温情、と熟していきますが、暖のほうは、暖流,暖地、暖房、と、思い浮かべても、人の情や、人となりに関する熟語は浮かんでこないようです。
 最近滅多にめぐり合うことのないのが、人の温もりを感じる場面です。逆に肉親が殺しあったり、親が子を殺したり、虐待するといった信じられない情報があふれています。
 人が人を思いあう、あたたかな温もりは絶滅しかかっているのでしょうか。
“鷹の温め鳥”にも劣る人間の行動は、私たちの住む星の温暖化に反比例して、心の温度が低くなっているように見受けます。物が豊かでなかった時代のほうが人の心の温度は高かったようです。
 社会の出来事への対応にも政治家の取り組みに温度差が歴然として出ています。

鷹の温め鳥―冬の夜、鷹が小鳥を捕らえてつかみ、その羽毛で足を温めると言うのですが、その小鳥は翌朝放してやり、その日は小鳥の飛び去った方角には餌を求めに行かないという言い伝え。 鷹のとるこぶしの内のぬくめ鳥氷る爪根のなさけをぞ知る 
ぬくめ鳥南に去れば鷹西す




七草爪

2008年01月07日 | 季節のうつろい

 今日は七草です。例年の仕来りどおりに、朝、小雨の降るなか庭に下りて若草を摘みました。たっぷりの芹、三つ葉、小さな蕗の薹、あとは畑のものを春菊、蕪と足して5種です。
 春の七草は秋の七草が目で楽しむのと異なり、味わって春を予感するものです。

七草やまこと飢ゑたる日の記憶   諏訪悠生子

 粥の思い出は戦の日に重なって、今の信じられないほどの食を思う日でもあります。

 ところで、みなさんは七草爪の風習をご存知でしょうか。暮れの片付けに取り掛かる前に切った爪は丁度今日あたりが切りごろです。
 七草爪というのは、幼い日、一緒に暮らしていた祖母によって伝えられたしきたりです。
 なんでも、「昔は新年になって初めて爪を切る日は7日に決まっていた」のだそうです。「こうするとその年は悪い風邪に罹らない」といわれていた記憶があります。
 ちなみに俳句歳時記に当たってみると、七種爪、七日爪、薺(ナズナ)爪、菜爪として出ていました。
「正月7日の七草をひたした水で爪をしめして切ると邪気を払うという俗信があり、この日に爪を切る風習がある。」と解説されていました。

 垢爪や薺の前もはづかしき  一茶

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芹を摘んだあとは、蕗の薹を2個見つけてください。見つからないときはクリックで


莟とは なれもしらずよ 蕗のとう   蕪村