月曜日の朝日新聞で「『どうも』だけでいいの?」と題して、投書を引用して、この厄介な副詞を取り上げていました。
「その場の雰囲気で、どうもの後の言葉が相互に了解される時に単独で使います。おそらくNHKの高橋圭三アナウンサーが『どうも、どうも』と言い出したところから、一般に広まったのではないでしょうか」という国立国語研究所の研究員の方の所見を紹介していました。
70年代にも、声の欄の投書をきっかけに、同じテーマで肯定派、否定派で論争が交わされたようですが、決着はつかないままです。
十数年前、国際交流センターで、研修に来ている外国人に、日本語を教えるボランティアとしてお手伝いをしたことがあります。その折、彼らが最初に覚える言葉に、「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」といった挨拶や、「上下、左右、前後」の次に、この「どうも」がありました。
表現に行き詰まると「どうも」を乱発します。使わないで表現するようにといっても、便利だからと盛んに使用していました。
「どうも」といっておけば、相手は勝手に自分で解釈して了解してくれるから、これさえ使えば、日常生活の用は7割は足せるともいっていました。
考えてみれば、「どうも」という副詞は、このうえなく多義的に用いられています。
次にくる言葉次第で、「どうもありがとう」のように、「たいへん」と強調するかと思うと、「どうも具合が悪い」のように、「すこし」、「なんとなく」と逆にも使われます。また「どうも話の様子がおかしい」の場合は、「なんだか」と疑念の意味を持つ時にと、その他、微妙に意味合いを変えて、自在に変化を遂げていきます。
何事も、あからさまに表現するのを好まない日本人にとっても、これは、言わないでも通じる便利な言葉であるのは確かです。私も弔問の時など、「このたびは、どうも・・・・」などと重宝して使っています。
親しい者同士の挨拶に「やぁ、どうも!」「昨日はどうも!」は日常でしょうし、万事省エネの時代風潮で、これからも「どうも」の使用頻度はあがると思われますが、投書子の懸念されるように、私も、感謝とお詫びは後の言葉まではっきり述べて締めくくりたいものと心がけています。
そして、なによりも、口にするときの表情と声、イントネーションに思いをこめて伝えるのが、コミュニケーションの潤滑を図るうえで肝要ではないでしょうか。
言葉の根底にこめられる気持ちがあって、はじめて言葉と思いは伝わります。
「その場の雰囲気で、どうもの後の言葉が相互に了解される時に単独で使います。おそらくNHKの高橋圭三アナウンサーが『どうも、どうも』と言い出したところから、一般に広まったのではないでしょうか」という国立国語研究所の研究員の方の所見を紹介していました。
70年代にも、声の欄の投書をきっかけに、同じテーマで肯定派、否定派で論争が交わされたようですが、決着はつかないままです。
十数年前、国際交流センターで、研修に来ている外国人に、日本語を教えるボランティアとしてお手伝いをしたことがあります。その折、彼らが最初に覚える言葉に、「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」といった挨拶や、「上下、左右、前後」の次に、この「どうも」がありました。
表現に行き詰まると「どうも」を乱発します。使わないで表現するようにといっても、便利だからと盛んに使用していました。
「どうも」といっておけば、相手は勝手に自分で解釈して了解してくれるから、これさえ使えば、日常生活の用は7割は足せるともいっていました。
考えてみれば、「どうも」という副詞は、このうえなく多義的に用いられています。
次にくる言葉次第で、「どうもありがとう」のように、「たいへん」と強調するかと思うと、「どうも具合が悪い」のように、「すこし」、「なんとなく」と逆にも使われます。また「どうも話の様子がおかしい」の場合は、「なんだか」と疑念の意味を持つ時にと、その他、微妙に意味合いを変えて、自在に変化を遂げていきます。
何事も、あからさまに表現するのを好まない日本人にとっても、これは、言わないでも通じる便利な言葉であるのは確かです。私も弔問の時など、「このたびは、どうも・・・・」などと重宝して使っています。
親しい者同士の挨拶に「やぁ、どうも!」「昨日はどうも!」は日常でしょうし、万事省エネの時代風潮で、これからも「どうも」の使用頻度はあがると思われますが、投書子の懸念されるように、私も、感謝とお詫びは後の言葉まではっきり述べて締めくくりたいものと心がけています。
そして、なによりも、口にするときの表情と声、イントネーションに思いをこめて伝えるのが、コミュニケーションの潤滑を図るうえで肝要ではないでしょうか。
言葉の根底にこめられる気持ちがあって、はじめて言葉と思いは伝わります。