「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

春の足取り

2009年03月07日 | 季節のうつろい
 心地よい日差しに誘われて、お彼岸も近づいているので草取りを思い立ち
支度をして庭に下りました。

 寒暖定まらぬ中で、花々は確実に春の季節を刻んでいました。
 啓蟄も過ぎたことですから、当たり前といえばそうなのですが、丈高く伸びた蕗の薹、芳香を放つ沈丁花、白とピンクの二株の馬酔木のうち,遅れて咲く白い方がいま花盛りです。トサミズキはいつの間にか盛りの時を過ぎていました。花の独特の形は、毎年見ていてもやはり珍しいものに思えます。
 恥ずかしがりのクリスマスローズも下向きに頭を傾げて咲いていました。匂い椿の名も春風が健気に花をつけています。
 
 その中から5枚を今朝の春としてお届けします。

<<>


二月を描く

2009年02月16日 | 季節のうつろい
 蕗の薹が一気に伸びてしまいました。もう食べるのには向かなくなっています。
 梅は琳派の先人たちの好んで取り上げた画題です。毎年何枚も描くのですが、今年は、徹底して琳派ならいです。自分の梅がなかなか生み出せないでいます。

 ところで、梅一輪一輪ほどのあたたかさ(嵐雪)の、手紙で時候の挨拶にさえ用いられる人口に膾炙した句があります。恥ずかしいことに私は、一輪ずつ次第に咲いて、春の季節が暖かさへと静かに移行してゆくのを詠んだものと安易に思っていました。
 この句は、梅一輪。やっと花開いたかすかな一輪ほどの暖かさをあらわしたもので、一輪ずつの暖かさではないのに気付いたのは、芳中の花卉図を手本に、梅を描いている時でした。手本の梅を減らして一輪だけにしました。

<






<


  蕗の薹と梅は2枚ずつ入っています。マウスオンでどうぞ。

梅の花盛り

2009年02月14日 | 季節のうつろい
 二月の花といえばなんといっても梅です。月次屏風和歌でも四季折々の木草や、鳥獣が各月に配置されていますが、鎌倉期の屏風歌では、二月の花には梅が描かれています。花札の二月が梅の拠りどころもこの辺りにあるのでしょう。

 万葉人の梅への愛着は並ではないようです。物の本に拠れば、万葉集中梅を詠んだ歌は百十二首。桜は三十五首だそうですから、三倍もの数です。
 梅の花夢に語らくみやびたる花と我思ふ酒に浮かべこそ  巻五
 我が宿の梅の下枝に遊びつつうぐいす鳴くも散らまく惜しみ 巻五
 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがな   巻五
 梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ  巻二十

 福岡県人としては、旅人邸での梅花宴もさることながら、飛梅伝説の道真公遺愛の梅を落すわけにはいきません。天満宮の梅は紅梅です。清少納言が「木の花は、濃きも薄きも紅梅。と断言し、源氏物語でも春の御殿のあるじ紫の上の紅梅への愛着を語っていますから、王朝の女房達に愛されたのは紅梅のようです。
 そして、梅に似合う鳥は、雉よりも鴬。「うぐいすの縫ふてふ笠は梅の花笠」―古今集―であり、紅梅襲をまとう女房達が、梅花の名のある薫物を合せ、催馬楽「梅が枝」を詠う公達。まさに梅の花盛りです。

 ところで、近世の舞台では、なぜか恋人達の別れの場面で梅がとりあわされることが多いように思います。「新版歌祭文」野崎村の段で、お染久松が舟と堤に引き分けられての別れに添えられる早咲きの梅をあしらった幕切れ。そして、湯島の白梅。お蔦と早瀬の切ない別れの舞台背景も。

 弟のところに出かけて、直ぐ裏の山すその梅を堪能して来ました。日当たりのよい斜面の梅は満開でした。すっかり市街化した周辺では耕作を継ぐ人のいない田畑は荒れて「人はいさ。花ぞ昔の香ににほひける。」でした。

 画像は5枚です。

<<>
<紅白梅図>

今朝の春

2009年02月08日 | 季節のうつろい
 午後は雨の予報に、蕗の薹を探しに出ました。香りに誘われて見上げる梢に、梅が咲きはじめています。顔を見せようとした矢先に雪に降られて、固く閉じていた蕾がこのところの陽気で恐る恐る笑みを拡げています。

 蕗の薹も、七草のころとは違って逞しくふとってきました。独特の萌黄色の足もとには赤紫のアクセントをそっと付けて。傍には匂い菫も、こちらは紫の鮮やかな衣装を誇らしげに翻していました。
“もう春“を目で確かめた朝でした。

   大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月 定家
  
   梅が香に昔をとへば春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる  家隆

梅のはな誰が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや 通具

 昨夜は満月に近い月が明るく照らしていました。



    蕗の薹苦きは古き恋に似て  鈴木眞砂女

    蕗の薹おもひおもひの夕汽笛  中村汀女

     窯跡は雨にけぶりて蕗の薹

     紫の襲を見せて蕗の薹



   人はいつも少しは悲し花菫  三輪虚白

   菫より濃きものはなし草の宿 山口青邨

   菫程な小さき人に生まれたし 夏目漱石


春立つ今日

2009年02月04日 | 季節のうつろい
 袖ひぢて結びし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん    紀 貫之
 一年を詠みこんだ歌として知られるいかにも古今集らしい機知に富んだ、狙いのある歌です。
 それでも一首の調子には、まだ冬の名残の寒さのなかで、やっと春を迎える日が到来したのを喜ぶ弾む気持ちだけは素直に伝わってきます。立春を迎えほっとした思い、春への期待がふくらんでいく独特の季節感が感じられます。

 この歌は漢詩の「東風解凍」ー東風凍を解くーを意識しているのでしょうが、霞や鶯に陽春の訪れを知るという常套を覆したものです。
 夏の日に涼を求めて掬った同じ水が、秋を経て凍っていた冬の日、その氷を「春たつけふの風やとくらん」と春に帰って結ぶ趣向です。

 この歌には余禄が沢山あって、その一つに織田信長が一族の者と仲たがいしているのを「一族の不和は敵国の侮りを受くるもの」という相手側家老のとりなしで和睦となったとき、その家老が慶びを述べた文の端にこの歌が記されていたと、確か駿台雑話(室 鳩巣)で読んだと思います。「たけきもののふの心をもなぐさむる」のが和歌だと、古今集仮名序の例を引いてあったと思います。

 昨夜の節分の豆まきも、二人だけではひっそりと気勢も上がらないことでしたが、今朝はあちらこちら思いがけないところに転がっている豆の掃除に手間がかかりました。

 春も訪れたことですので、寒々とした雪景色の顔から春の木、椿に化粧直ししました。気分も「少し春ある心地」がしてきました。

 ついでに古今集の立春の歌をメモしておきます。

  春たてば花とやみらむ白雪のかかれる枝にうぐいすのなく  素性法師

  花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる  紀友則

  鶯の谷よりいづる声なくは春来ることをたれかしらまし   大江千里



画像は五島美術館所蔵の古今倭歌集 高野切 巻一断簡

雪景色

2009年01月25日 | 季節のうつろい
 南北に長い日本列島の南のほうに住む私達は、1年のうち雪が積もる風景を目にするのは1回か、2回で、どうかすると、雪は積もるほどは降らない年もあります。
 年の内、四,五ヶ月も雪に支配される”雪国“の人たちとは、積雪の風景に対する感じ方が、異なっています。“雪国“という言葉には、一種の憧れめいた郷愁や、ロマンをさえ感じて しまいます。
 雪の多い北国では、田畑の作物も、家屋の構造はじめ、生活様式も異なり、雪への感傷など到底理解できないかもしれません。
 ですが、古来、雪は豊年のしるしとして喜ばれた信仰がありました。春の花、秋の月に次いで、夏のホトトギスとともに、冬は雪が季節の代表的な景物として尊重されてきました。

 土曜日の午後から降り続いた雪は5センチ近く積もっていました。粉雪の静かに降り積る様子に、きっと明日は見事な雪景色と期待していたのですが、夜明け前に降り出した霙交じりの雪でゆるみ、深夜にこっぽりと木々の上に積もっていた風情とは様変わりしてしいました。それでも牡丹雪となって終日降り続きました。高速道は閉鎖されていました。夕刻から、ところどころ解除になっていますが全線開通はまだのようです。

 下の写真2枚は、冬に篭る自分の部屋から庭の風景を写したものです。

<



煮豆

2008年12月27日 | 季節のうつろい
 大の甘党だった母はよく豆を煮ていました。それだけに薀蓄を傾けて注文が多かったようです。
 豆の品定めからはじまって、既製品の煮豆に重曹の存在を鋭く嗅ぎ分けていました。
 私が台所を仕切るようになって、惣菜の五目煮や、昆布煮、ポークビーンズなどでの、大豆の煮物を別にすると、煮豆は年に何度登場するでしょう。数えるくらいです。袋詰めで売っている煮豆はやたら甘く、歯ごたえもなくやわらかいので、もとめることはまずありません。おせちを作る段になると、黒豆と、白隠元は必ず煮るので、この時期は煮豆に母の手練を懐かしみます。

 地小豆以外は、豆は必ず一晩水に浸けてからと段取りを言い付かりました。友人はポットの保温を利用しながら浸していました。地小豆は渋味をとるために一度茹でこぼしをするので、大納言の小豆もと気を利かせようとして注意されたのを思い出します。大納言は水を替えると気が抜けてしまうのだそうで、甘党の人の小豆へのこだわりは一通りではありませんでした。
 嫌っていた重曹も、青えんどうと、うずら豆に限っては、相性がいいといって、ほんの少し使って水を捨てていたようです。豆を煮る鍋は家中で一番重いのを使います。ゆっくり熱を加えるためですが、何にもまして、肝要なのは火加減でした。「小さい火で気長に煮る。」に尽きました。古臭い灯油ストーブをこの時期ほどありがたいと思うことはありません。今はIHを使用する家庭も多く、ダイアルで簡単に弱火の選択が可能でしょうが、微妙に火力を調整しながら「びっくり水」とか「しわ伸ばし」とかユーモラスな言葉を挟みながら、熱い豆に急冷の水で急ブレーキをかけるのも楽しいものです。

 調味料を入れるのは豆がやわらかくなって、煮汁がひたひたになってからですが一度に入れては豆が締まり、皮にしわがよるので時間を置いて三回に分けて入れること。黒豆は調味料を入れてからは余り煮ないで、後はたっぷり時間を掛けて(一日)味を含ませること。が教えられたことです。黒豆を煮るのに大きな土鍋を使っていたこともありました。
 白隠元は2回水を替えますが(白く仕上げるため)、皮が破れないように少しぬる目のお湯を入れていました。
 昨日今日と穏やかに晴れてくれましたので、ガラス拭きも、外回りの片付けもはかどりました。明晩は豆を水に浸しいよいよ”おせち”にかかります。

 今日の一枚は春の木と書く花です。今年は蝋梅も、水仙も花が早いようで、お正月に間に合います。



冬至の日に

2008年12月21日 | 季節のうつろい
 朝から終日、冬の雨が降り続いています。今日は冬至。例年の年中行事も次第に消滅したり省いたりですが、仏事以外では数少ないわが家のしきたりとして、今も続いている行事です。庭で取れた不恰好な柚子に足して、夏みかんを輪切りにして風呂に浮かべます。
 小豆粥と南瓜が定番で献立に登場します。昼食の後片付けと同時進行でじっくり薄味で南瓜を煮含めました。

 続日本紀にも出ている古くからの宮廷行事が民間にも広がったもののようです。12月は太陽の力が衰えるので日差しも弱く、昼の時間が短く、この冬至を頂点にして、「畳の目ひとつずつ日脚が延びる」と言い伝えています。
 冬至を祝う習慣は、特に冬至の日が旧暦の11月1日に当たると、「朔日冬至」といって、縁起のよい吉祥とされたようです。百年に一度といわれる不況の今年がそれに当たろう筈もありません。

 万物枯れ、衰える荒涼の暗い彩りのなかで、日も短く慌しく暮れてゆくため、気ぜわしい思いに追いたてられます。寒さもつのり、雪や霜にも見舞われるようになり、「冬至冬なか、冬始め」となります。何とか元気で来る年を迎えようとした人々の祈りから出た行事でしょう。
 弱い日差しのなか、枯れ果てた自然の景を目にしては、おのずから自分の人生を重ねていとおしむことになります。
 今年も残り少なくなった日数を数えながら、今宵は柚子湯に浸かり、熱燗でしばしの憂さを払うとします。
 

京都の秋色

2008年11月27日 | 季節のうつろい
 居ながらにして古都の秋の色を楽しみました。
 何時も京都の風物詩を撮影しては送ってくださるOさんから、昨年の洛北、修学院離宮の秋景色に続いて、今年は東山の紅葉が届きました。現在の古都の秋の撮りたての色です。 東福寺、通天橋と記されています。
 過ぎ行こうとする季節の名残を惜しんでください。



 四条の南座に“まねき“が上がると師走の訪れを実感し、何かしら慌しくなるといわれています。
 京都の冬の風物詩であり、歳時記です。
 二枚目、三枚目の語源になったまねき看板ですが、一枚目は座主の名が書かれ、二枚目が主役がしるされたといわれています。今二枚目はイケメンと呼ぶようですが、美男子の方が情緒があります。
  下は、今年の吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎の役者名をしるしたまねき板です。


里の秋

2008年11月02日 | 季節のうつろい
 散歩コースの枯蓮も首を折り、水に姿を没してゆくものが急に増えてきました。
すっかり葉を落とした柿が赤く実を灯すのも目に哀しく映ります。

 山形から秋の便りに、黄菊が届きました。食用の菊です。熱湯に酢を少し加えてさっと茹で、軽く水に晒して絞るのですが、くるみ和え、おろし和え、からし酢と、いろいろ試してみて、すり胡麻に少し調味料を足して和えるのが一番好みに合うようです。市販の胡麻ドレッシングも簡単で美味しいです。九州では余り見かけない食材で、懐石料理などで出されると目に留まります。
 毎日、サラダで、和え物で、吸物に浮かべてと、東北の秋を目と舌で楽しんでいます。短い期間の季節限定の秋味です。残りは茹でてお正月用に冷凍しました。

 春と秋の季節は、それぞれ贔屓があって、万葉のいにしえから春、秋の優雅な論争がおこなわれてきました。かの源氏物語でも六条院の源氏は春が相応しい紫の上を春の御殿に、斎宮の女御(後の秋好む中宮)を秋の御殿にと配置しました。日本人なら誰でも四季の移ろいに寄せてそれぞれの好むところがあります。 “もののあはれは秋こそまされ“で、私は秋が好みです。額田王も秋に肩入れしました。当分は秋をもとめて楽しみな日が続きます。


 万葉集 巻1額田王
     冬ごもり春さり来れば、鳴かざりし鳥も来鳴きぬ。
     咲かざりし花も咲けれど、山を繁み入りても取らず。
     草深み取りても見ず。秋山の木の葉を見ては、
     黄葉をば取りてそ偲ふ。青きをば置きてそ歎く。
     そこし珍らし。秋山われは