「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

関門の汐の流れ その2

2005年05月29日 | 旅の足あと
 「門司関」として、大宰府と都を往来す人と船の関所が設けられたのは646年(大化2年)です。今、和布刈神社へ向かう道筋の甲宗八幡神社を過ぎてすぐの、和布刈神社一の鳥居左横に、「門司関址」の碑が建っています。地元に住む人でも見落としている方が多いのではないでしょうか。

 任地にはるばるの旅を続けてきた人、また逆に任終えてやっと都に帰る人、その胸に去来する思いは,早鞆の瀬戸を眼前にして格別のものがあったにちがいありません。
 都人にとっては所詮、筑紫は「天ざかる鄙」であり、「遠のみかど」でしかないのですから。

 平安後期の歌人、源 俊頼は、大宰府での任を終え京への途次、門司関で歌を残しています。
   行き過ぐる心は門司の関屋よりとどめぬさへぞ書きみだりける
今、NHKの大河ドラマは「宮本武蔵」から「義経」へと関門を舞台に展開しています。
 壇ノ浦での平氏一門の滅びの哀史は、「諸行無常」の想いを今も渦潮に乗せて奏で続けています。

関門の汐の流れ

2005年05月28日 | 歌びとたち
 
 今は「門司港レトロ」と銘打って大正初期の優れた建築が観光客をよんでいます。
 私の想い出の門司は、夏休みを故郷で過ごした従兄弟が旅順へ帰るのを見送りに行った日の港周辺の賑わいや、父に手を引かれて門司駅(今の門司港駅)で降り、連絡船に乗り換えて、山陽本線始発駅の下関から再び汽車に乗り厳島神社に連れて行ってもらったことです。
 海底トンネルや関門橋ができる以前の鉄道による九州からの交通手段でした。二階作りの連絡船の木枠の窓から海峡を行き来する船を飽きることなく眺めたことと、石炭をたく匂いを旅愁のように懐かしみます。

 この港から多くの人が旅立ってゆき、またヨーロッパなどから異国の香りを乗せた船が着くモダンな港町でした。このことが多くの文人たちに詩歌を残させたのだと思います。
 虚子は「春潮といへば必ず門司を思ふ」と詠んでいます。司馬遼太郎も『街道をゆく』で「私は日本の景色の中で馬関の急流をもっとも好む」と書いています。

 旧三井倶楽部にはアインシュタインが泊まったという部屋もあり、レンガ造りの壁に沿って桟橋通りを歩くと、現在と過去が交差し、タイムスリップを味わいます。
夏潮の今退く平家亡ぶ時も  高浜虚子

大阪商船
 
旧門司税関
 

恵蘇八幡宮 

2005年05月26日 | 旅の足あと
朝倉の歴史散歩
 宗像大社に始まった古代史への憧れは、甘木、朝倉へとリンクしてゆきました。朝倉の三連水車がかかる掘割にほど近く、国道386号沿いに恵蘇八幡宮があります。道路地図には木の丸殿跡と出ています。

 この裏山が斉明帝仮埋葬の場所と伝えられる所です。古木の茂る山は夏の日差の中で、昨年秋月からの帰途に立ち寄ったとき、ご陵の朽ちた注連縄や、樹木に垂れ下がる蜘蛛の糸が夕風にゆれていました。
山の端にあぢ群騒ぎ行くなれど我はさぶしゑ君にしあらねば
 帝が亡き人を悼んで歌われたものですが、68歳の高齢の女帝は卒然とこの朝倉の行宮で崩御。代わって百済救援の総指揮を執るのが皇太子中大兄ですが、皇子は丸木のままの「もがりの宮・木の丸殿」を建て亡き母の魂祀りをされました。
 
 斉明女帝は松本清張や黒岩重吾を筆頭に小説家たちの食指の動く謎の多い帝ですが、朝倉橘広庭宮に入られて僅かに75日、突如として死を迎えられます。

 日本書紀に、中大兄皇子が帝の遺体を磐瀬行宮に運ぶとき、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を着て「喪の儀を臨み視」ていて、「衆皆あやしぶ」と記されており、それは女帝の眼前で展開されたクーデターで暗殺された入鹿の怨霊であることを暗示しています。
秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ
の、百人一首冒頭の天智帝の御製はこの殯宮のときのものという説もあります。この古墳の麓には、自然石のままの墓が数基あり、殉死した従者たちの墓と伝えられています。黒くあらい石肌を苔がそっと憐れむかのように覆っていました。
 朝倉の地は古代史へのロマンの夢を駆り立ててくれます。

やがて壬申の乱へと展開する流れの中で、胸形君徳善の娘、尼子娘あまこのいらつめは大海人おおあま後の天武帝との間に第一皇子、高市皇子たけちのみこを生んでいますが、彼女たちもこの地にあったのは間違いがないところです。

「海の正倉院」

2005年05月25日 | 旅の足あと
 五月二十七日は宗像大社・沖津宮の現地祭です。
 県内の車に乗る人なら、ほとんど一度はお参りしたことがある宗像大社は、古来「道の神」として信仰されてきました。このお社は、車のお祓いで訪れる玄海町の辺津宮と、海上10キロ沖合いの中津宮、更に40キロ沖に浮かぶ孤島、沖津宮の三社で構成されています。
 遣唐使も、必ず航海の安全を祈って参拝したお社です。特に沖津宮は地理的条件からも祭祀の跡が保存され、近年の調査で、周囲4キロの島から12万点に及ぶ古代祭祀の宝物が出土しています。これらは国宝、または、重要文化財指定を受け、その一部が辺津宮の裏手にある神宝館に展示され誰でも拝観できます。(入場料500円)戦勝祈願に足利尊氏の奉納した鎧もあります。

 今でも、沖津宮は女人禁制が守られ、絶壁の島に上陸するのは大変のようです。私たちの土地では、沖合いに沖ノ島を眼にすることができると縁起がいいとか、沖ノ島のものを一つでも持ち出すと海が荒れて無事ではすまないなどの伝承が残されています。こうしたことから、「海の正倉院」と呼ばれる沖津宮の数多くの遺物が保存されたのだと思います。
 宗像大社・辺津宮にお参りしても、本殿(国宝)右手奥にある高宮祭場、斎庭ユニワや(神籬ヒモロギ、磐境イワサカの古式祭事が今も行われる)神宝館を訪ねる人はほとんどないようです。

画像は宗像大社ホームページよりお借りしました.                        


  宗像大社

描きたかったのはなに

2005年05月22日 | 遊びと楽しみ
 合評会でいつも話題になるのが、何を描きたかったのかということです。
 花に感動の視点があったのか、葉の重なりの面白さなのか、限られたスペースの画面の中に表現するのに、あれも、これもの欲張りが絵を殺してしまう愚をお互い性懲りもなく繰り返しています。
 このことは、詩歌の場合にも通じることだと思います。もう一つの難しい表現が余白です。この東洋の美学は墨で白い和紙に描くとき特に主張を持ちます。余白は微妙なバランスの世界です。
 しっかり見たら後は自分の感覚を大事に持ち続けて、対象から離れるように。といくら言われても、目の前の「もの」から離れるのは難しく、形に振り回されてしまいます。
 なまじ描けるようになると邪念が生じ、よくないようです。同じ「もの」を描いても人様々で、緩やかなカーブをそのまま柔らかく曲線で表現する人、直線に強いタッチで描く人とあって面白いグループです。

このごろの庭

2005年05月21日 | 季節のうつろい
このごろの庭の花

小判草
 およそ縁のない小判をたくさん庭に運んできました。別名、「たわらむぎ」こちらの方が私の花畑には相応しい名前かもしれません。
 本来はヨーロッパ原産の外来種のようですが、それにしては大きい顔をして、あちこちに勢力を拡げています。茶色に色づくと「小判草」のネイミングが納得できます。









かしわばあじさい
 アジサイのイメージと少しずれますが、葉の形が柏に似ているところから名づけられたものでしょう。花は三角錐の穂状に着くのも球形のアジサイとは異なります。





山あじさい
 山に自生するあじさいの原種だそうです。私は庭に咲くすべてのアジサイのうちでは、これが一番好きです。日本原産の萼あじさいで、花の直径5センチ、慎ましやかにほのかな色をさすのがいいし、葉の広がりようも小さくて好ましいのです。





ばいかうつぎ
 この季節の花のうち、最もいとおしんでいる花です。場所を移す時期が悪かったか、元気をなくして心配していましたが、二株ともやっと優雅な香りと共にふっくらとした花を見せてくれました。
梅花空木とは美しい名付けです。





竹の葉

2005年05月18日 | 歌びとたち
 夜来の雨は上がりましたが、風が少し強く吹いています。まだひ弱い夏野菜の苗を心配して畑に下りてみました。後ろの竹の林の騒がしいこと。
 次々に枯れた古葉を空に放って、体をゆすり続けています。この風景は多くの詩人たちがすでに言葉で捕らえています。「竹の秋」とはよくも名付けたものです。

 竹散って風通る道いくすぢも  石田あき子
 
 竹散るやひとさし天を舞ってより  辺見京子

 若竹や鞭の如くに五六本     川端茅舎

 古典の世界にも万葉の昔から、あの有名な大伴家持の「いささむらたけ」の歌がありました。万葉の歌人たちも四期ともなれば、竹に渡る風の気配のかそけさをとらえて歌に詠むと感じ入ったことでした。

 わがやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも   大伴家持

 窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたたねの夢     式子内親王

 五月原に竹の若葉もたわむまで玉ぬきかくる蜘蛛の糸すぢ   藤原為家
 
 蜘蛛の糸に絡まって、まるでビニールの細工物のようにくるくる回りつづけている葉、玉柘植の上に腰を据えて、鷹揚に揺らぐ葉、しばらく散り敷く竹の葉のさまざまに見とれていました。

器選び

2005年05月16日 | 遊びと楽しみ

 料理は慣れれば、ある程度までなら、だれでも平均値そこそこには到達できます。そこから先は盛り付けのセンスと、器が差になります。
 テレビの料理番組では、食材の分量と作り方といった、いわゆるレシピについては丁寧に解説してくれますが、器選びと盛り付けに関しては省略されることが多いように思います。
 日本料理は、よく言われるように「器半分」、眼で味わう部分が働きます。ときに芸術品と思える一皿もあります。
 食器の好みはそれこそ千差万別ですが、デパートなどで器をみて歩くうちには、いいものとそうでないものは、何となく判ってくるようです。これは値段だけの問題ではありません。季節感を色や模様に反映させて食器棚の器を選ぶのはささやかな楽しみです。
 作家物の贅沢な器は縁がありませんが、なんでもない皿や小鉢でも充分に雰囲気を演出できます。
 今の季節、しばしば登場するのが庭の楓の若葉や、花をつけた令法(りょうぶ)や一輪の小さな花々です。和菓子の皿にも敷いて、添えて楽しみます。
 昔から、私たちの先祖が伝えてきた演出に南天の葉や笹、檜の葉の利用がありました。山茶花の開きかけの花付の小枝を折って程よい箸置きに使う工夫など、中国の古典でいう四つのたしなみの「琴棋詩酒」のうち、酒のたしなみにあたるのでしょう。
 コンクリートで固められた現代の生活環境だからこそ心豊かに暮らすための嗜みなのではないでしょうか。
  
写真は今の季節の令法の花穂

葵祭のこと

2005年05月14日 | みやびの世界
 明日は葵祭。私は雨にたたられて、まだ葵祭に縁が無いのを残念に思っています。
 現在は5月15日が葵祭と固定されています。雨が降れば順延となります。
 京都の三大祭のうち、コンチキチンの祇園祭が、山鉾巡行が華やかなため一番賑いますが、平安朝以来、[花]とだけ言えば桜をさしたように、[祭り]とだけいえば賀茂の葵祭のことでした。応仁の乱で200年の中断があったとはいえ、1400年続く、かっては国家的な行事になっていた祭りです。
 テレビで見る限り、京都御所建礼門から下鴨神社まで、平安文学に登場するままが忠実に再現されているようです。

 御簾をはじめ、牛車、お供に付く人々の衣冠などすべてに葵の葉を飾るところから葵祭と呼ばれたようです。
 特に源氏物語の葵の巻に描かれる女の執念の戦いの車争いは、いまは寵の衰えた六条御息所と、ときめく葵上の従者との祭り見物の駐車をめぐっての争いです。破れ車をはずかしめられた御息所の怨念が生霊となって、出産の葵の上を苦しめ、取り殺す展開は、能でもしばしば演じられます。
 徒然草も137段、138段と祭見物を取り上げ、「片田舎の人」の代表の私の祭見物の様を、兼好はまるで見ていたかのように鋭く描いています。
 138段は、祭の後の御簾にかかる枯葉の話です。周防内侍の「かくれどもかひなき物はもろともに御簾の葵の枯葉なりけり」 をあげ、思う人が離れていって共に見ることができない失恋の嘆きや、「来しかた恋しきもの、枯れたる葵」(枕草子)を引用して、「後の葵」の枯れるまでの愛惜を述べていますが、現代に生きる枯葉の年代の私は、この趣味はすぐには肯定できかねます。が、ことほどさように、レジャーの少なかった昔人は、この祭に執着したということでしょう。今年も縁がありませんでした。





     祭りのヒロイン斎宮代

 祭りの行列

 映像は京都フォトギャラリーより

とざい、とうざい

2005年05月12日 | ああ!日本語
 只今夏場所中です。川柳子に「日本人の力士も混じる大相撲」と野次られるていたらくとなっていますが、郷土出身の魁皇が序盤5連勝と調子がいいので気分よく声援を送っています。

 ところで、「古事記」「日本書紀」の神話以来の伝統を持つ相撲の世界には、さまざまな遺風、しきたり、があるようですが、平安時代の「内裏式」(宮中の儀式を定めたもの)の記述にあるものとよく似た「しきたり」も見られます。しかし、私の興味の領域は別のところです。土俵での呼び出しさんのあの独特の節回しの「とざい、とうざい」がなぜ「南北」でなくて「東西」なのだろうと思った引っ掛かりから始まった迷走です。

 「とざい、とうざい」は相撲や、芝居の初めに、口上を述べるときの最初の言葉です。拍子木の音と共にこれから始まろうとすることに注意を喚起します。これがどうして南北でないのか。あれこれ迷走するうち、どうやら中国思想の「君子は南面す」からきたものという碩学の説にたどり着きました。

 相撲、能、芝居といった芸能は北に向かって行われるのが正式。つまり、舞台から客席に向かって上手(左)が西、下手(右)が東。相撲も北を正面、(反対側は裏正面、向こう正面)として、土俵から正面客席に向かって左が西方、右が東方になっています。つまり、「とうざい」の呼びかけは、「東から西へおいでのご見物の衆よ」ということになるのです。

 そういえば、いまはなき四本柱のなごりの四色の房も中国の四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の象徴ですから、いずれも中国思想に基づくというのが納得できます。

キッテコム(切手.COM)

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切手の画像はキッテコムのページよりお借りしました。