「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

「文楽」のこと

2007年03月06日 | 遊びと楽しみ
 先週のことですが、本棚で探しものの本は見つからずに、古い(昭和十七年発行 筑摩書房)「文楽」が躍り出ました。定價 金拾圓とあります。
 表紙の“文楽”の文字や、“光吉夏彌編 渡邊義雄撮影”と書かれた、横書きの部分は、今とは逆の右 から左に流れる様式ですし、勿論旧漢字、旧仮名遣いです。写真はすべてモノクロです。

 17年は女学校入学の年ですから、その後、学生時代に古本屋で見つけたものと思いますが、目次をみて驚きました。

  我が木偶劇の伝統    高野辰之
  生ける人形       寺田寅彦
  文楽について      ポオル・クロオデル 中村光夫訳
  文楽座の人形芝居    和辻哲郎
  ハーゲマンの見た文楽  小宮豊隆
  藝談・人形の魂     吉田榮三 吉田文五郎 
  文楽読本        光吉夏彌

 なんと、人間国宝級の、いまや歴史上の人物の揃い踏みです。このなかでは、寺田寅彦の、はじめて見た文楽の人形芝居の印象と解釈、実際に人形を使う立場からの二人の芸談がやはり面白く、読み応えがありました。

 初めて文楽を見たのが、昭和23、4年ごろのことだったと思います。「伊達娘戀緋鹿子」の八百屋お七が、髪振り乱して火見櫓に登ってゆく姿に息をのんだ記憶があります。
 多分、これらの記事の内容は読んでも理解できなかったはずで、ただ写真を見ていたものと思います。何度かの転居にも紛失もせずによくも残っていたものです。

 その上、7日に出かけるつもりの文楽公演のタイミングに合わせたように見つけ出したことに、何か因縁めいた奇縁を感じます。もう60年以上も昔のこと、この本に関わる方々も他界されています。

 予習の意味で、丹念に136ページの古い本を読み返しました。
 昭和の人形浄瑠璃の全盛期を支えた、吉田栄三、人間国宝吉田文五郎のお姿に在りし日の「文楽」全盛のころを偲んでください。

艶容女舞衣
(はですがたおんなまいぎぬ) 
酒屋の段のお園の人形
 
 歌舞伎や人形浄瑠璃の外題は5字か7字のものが縁起を担いで多いようです。随分読みにくいものがあります。
 
 ”今頃は半七さん、どこにどうしてござらうぞ・・・”


義経千本桜
(よしつねせんぼんざくら) 
 
 道行初音の旅

 静御前の人形を遣う吉田文五郎

 「したひゆく・・・・・


狐忠信の人形をみる吉田栄三 

 こうしてみると人形もかなりな背丈、重さも「三貫目はある」のだそうで、重いものは鎧、兜をつけ「五貫目」もあるのだそうです。(1貫=3・75キロ)


 芸談 人形の魂より抜粋(読み易くするため、旧漢字、旧仮名遣いをあらためました)

 人形の面白みは、その”とぼけた”ようなところにあるのです。人形は人形、人間は人間、所詮別物、人形が人間になりすぎたら、人形の面白みはなくなってしまう。・・・・歩き方一つだって、人形じゃ片方同士一緒に出す。右足を出す時に右手を、左足を出す時は左手をといった具合で、手と足をちぐはぐに出す人間の歩き方とは大変ちがっている。ちがっていればこそ面白いのです。八百屋お七に振袖着せて、人間のような手足の出し方で、高い火見櫓を登らせてごらんなさい。不細工で見られた恰好じゃありませんよ。

 ここには、舞台人の生きた”虚実皮膜の論”が息づいています。そのほか、修行の厳しさに触れた耳の痛い談話も多数ありました。

 今日の人形は三人遣いで、ツメ(端役のチャリ人形)以外は三人で一つの人形を遣う。足は足づかい、左手は左遣い、胴とカシラはその首位者とチャンと役割がきまっていて、この三人の呼吸がぴったり合わなければ、人形一つ遣うこともできないのです。のみならず人形遣いは、太夫、三味線にも呼吸を合わせてゆかねばなりませんから厄介です。
 足だって楽なように見えてて、なかなか楽じゃありません。遣うまでに八、九年、一人前になるのは容易のこっちゃない。昔は一生足ばかり、左ばかりを遣って、肝腎のカシラに手もつけられずに死んだ人さへたんとありました。それが今ではどうでしょう。やっと、いろはのいの字を覚えたか覚えぬかに、早もう一廉の人形遣いになった気でいる。・・・・


和歌の家

2007年03月04日 | みやびの世界
 3日は桃の節句、各所で雛祭りがおこなわれています。
宮廷行事としては“上巳の節会“(じょうしのせちえ)として執り行われていたものが3月3日に固定したものです。”上巳“とは、3月最初の巳(み)の日を意味します。古く中国では、この日、川の畔で「上巳の祓」をしたもので、文人たちは、川上から盃を流して、自分の前に来るまでに詩を詠む、「曲水の宴」を催したそうです。
 この巳の日の祓には、紙の「ひとがた」を作って、その人形に罪、穢れを移して、災厄を祓い、川に流したのが起源と聞いています。いまに残る流し雛の行事はその名残をとどめたものでしょう。

 3月第一日曜日は、例年、太宰府天満宮では王朝の装束に身を包んだ男女によって、古式の「曲水の宴」が曲水の庭で行われています。好天の日曜日、大勢の人が訪れたと思われます。今年はどんな和歌が披講されたのでしょう。

 冷泉家の雛祭りは旧暦で行われるようですが、桃の花が咲くのを待って、我が家でも3月の最後の日曜日を雛祭りの日と決めていました。雛人形を箱に収めるのは4月3日です。お彼岸のお参りにみえる方が怪訝な顔をなさることもあります。

 平安末期、御子左家は、藤原俊成(1140~1204)によって、和歌の家としての礎が築かれ、次の、定家(1162~1241)が、父の和歌の幽玄、余情の理念を、さらに深め、物語的な妖艶、夢幻の世界へと展開させたと教わりました。
 定家は古典の写本、百人一首の撰、新古今集を初めとする勅撰和歌集の撰者として名声を得ました。   
 定家の子、為家も家に伝わる和歌の技法を書き残し、また勅撰集の撰者にもなっています。このすぐれた3代によって御子左家は和歌の家として不動の地位を確立します。
 この爲家の子の爲氏が二条家、爲教が京極家と呼ばれ、十六夜日記の阿仏尼との間に生れた爲相(ためすけ)の家を、冷泉家と呼びました。為家は56歳という晩年の子、爲相を溺愛し、長子爲氏の荘園や、典籍の一部を爲相に譲りなおしたため、爲氏の恨みをかい、為家の死後争いとなり、ために母、阿仏尼が相続訴訟のため東下りをすることになる,その旅日記が、十六夜日記というわけです。
 長い争いの末、阿仏尼の死後、所領は爲相のものとなり、さらには、勅撰集の撰者を巡って二条家と京極家の間で争いが生まれ、共倒れし、多くの典籍は冷泉家のものとして伝えられることになります。

 かつて明月記で、“紅旗征戎は我がことに非ず”と和歌に専心したご先祖様とはかなり違った様相となりますが、800年の伝統を守り、維新の後も京都から動かなかった冷泉家住宅は貴重な公家住宅の遺構です。京都に在ったため、戦災からも免れた冷泉家の貴重な文化財は、いまは公のものとなっています。
 住宅は昭和57年に重要文化財の指定を受け、平成12年には解体修理も終わり、杮葺き(こけらぶき)の瀟洒な姿に戻ったようです。

 貝覆い(貝合わせ)の遊びの貝桶と、貝は雛の節句に相応しい道具で、雛壇には必ず置かれます。

 冊子は、妹が、京都に住む友人と、特別展で公開された冷泉家を見学した折に求めたものをもらたものです。(財)冷泉家時雨亭文庫の会員になると冷泉邸見学会と、七夕行事の乞巧奠(きっこうてん)に招待されるそうです。

いただいた雛人形

2007年03月02日 | 遊びと楽しみ
 雛壇を組まなくなってもう何年になるでしょう。前は、座敷いっぱいに、子供会の団体さんの訪問もありました。海外暮らしの空白と、それに連続した高齢の父母の介護の日が、習慣を変えました。
 お雛様は、今は三代の内裏雛だけが箱からお出ましです。
雛の掛け軸と、お土産などでいただいたお雛様を気軽にあちこちに飾って、老ふたりの家もこのごろは華やいでいます。

 ずっと前、三月三日に挙式した甥の結婚の引き出物の上に、そっと添えられていた小さな大内雛です。山口にゆかりのある人なら、馴染み深い懐かしい漆塗りの雛人形です。
 守護大名の大内氏によって16世紀前半に興った大内塗りは、生地師、下地師、磨師、塗師、絵師と面倒な工程を経ると聞いています。朱のお碗に、家紋の大内菱を金箔で入れた秋草の絵柄のものなどが有名です。この大内雛にも、男雛の脇には大内菱が入っています。


  華道に専念する夫の妹が、鹿児島での華展の折のお土産にとくれた薩摩糸雛は、初めて目にする珍しいものでした。箱に入っていた栞によると、「江戸初期からつくられたもので、頭と髪が麻糸でできているのが特徴です。麻は強く丈夫で、生れた子の健康を願って顔と髪にもちいたものです。1本の竹の棒が首と背骨を兼ね、襟から出た首はそのまま顔で、麻糸がそのまま髪の毛として垂れています。・・・大正の初期まで初の女の子の節句にお祝いの人形として親戚知人から贈られたもの」(小澤人形)とありました。
 華やかな布地を重ねてた上に、体の大半を覆うかのような幅の金色の紙の帯を締め、帯には泥絵の具で、男雛には梅、女雛には藤が、達者な手馴れた筆で手書きされています。



 最後は、古い着物をといて、細工物を拵えていたころ、お互いの古布を交換しあっていた仲間にいただいたものです。
、器用な人で、私の差し上げた布を喜んでくださって、女雛と男雛に活かされていました。
古い着物の形見として大切にしています。